2015年01月10日

ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルのショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」


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以前メロディアから出ていた1959年のセッション録音(モノラル録音)である。

この名録音が久しぶりに容易に入手できるようになったことを歓迎したい。

この曲を戦争映画のサントラか無内容な音の大スペクタクルのように感じる人がいたならば、ケーゲルやコンヴィチュニー、同じくムラヴィンスキーのレニングラード初演などとともに、この録音をお薦めしたい。

録音の古さを超えて、この曲が単にレーニン賞受賞の体制御用達の曲でなく、絞り出すようなプロテスト、万感のメッセージが込められているのではと考えさせてくれる。

ショスタコーヴィチの交響曲の約半数、7曲を初演したムラヴィンスキーは、作曲家晩年の回想では理解していないと非難されたが、作品の普及に大きく貢献したことは事実である。

演奏について「曲の本質ではない演奏」という評がちらほら見られるが、ショスタコーヴィチとレニングラード・フィルは紛れもなく初演者であり、「そうじゃない!」と言わせたなどの数々のエピソードからショスタコーヴィチ本人の楽曲に込めた意思はムラヴィンスキー本人に伝わっていると断言できる。

全体的な構成感やその歌い回しでは今録音されている全ての「1905年」を通して変わらない一つの頑固なる意志が見て取れる。

それを以て「曲の本質を掴めていない」というのは何事か!? 作曲者の意思が現れる演奏こそ最も本質的な演奏なのである。

別な解釈からのアプローチを行った演奏は否定しないし、もし筆者が自身の作品の奇異な解釈に出会ったとして、それが面白いものならば面白いと思うだろう(事実、奇異な演奏というのは様々な淘汰の中で生き残ってきた演奏のみを今耳にすることが出来るのである)。

しかしそれによって刷り込まれたイメージのみを以て作曲者のアドバイスをも受けたこの初演者の演奏を「曲の本質ではない」と評するのは作曲家ショスタコーヴィチにも失礼である。

もし本当にそれでも本質的でない演奏と思うのであれば、それはショスタコーヴィチのアドバイスを受けていない第三者が誇張した演奏を最も本質的だ!と評しているということで、本当はそれこそ本質的ではないということを自覚するべきである。

この演奏も、絶壁に立たされたような恐ろしいまでの緊張感を感じさせる演奏だ。

でも、本当のところは、歴史を共有することができない私たちにはわからないのかもしれない。

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早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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