2014年07月13日
ケーゲル&ドレスデン・フィルのビゼー:「アルルの女」組曲第1番、第2番、「カルメン」組曲、他
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これまでは、「アルルの女」第1組曲、第2組曲、そしてオペラ「カルメン」の4つの前奏曲は、クリュイタンスの指揮したものが名盤の誉れ高かったが、この盤を聴いてみて驚いた。
ダイナミックな部分(「アルルの女」第1組曲の〈前奏曲〉の前半、〈カリヨン〉の前半、第2組曲の〈ファランドール〉など)は、他の指揮者の演奏よりもダイナミックに、たゆたうようなしっとりとした情感溢れる部分(「アルルの女」第1組曲の〈アダージェット〉、第2組曲の〈メヌエット〉など)はよりゆったりとしているのである。
「アルルの女」第1組曲の〈前奏曲〉からして、あまりに淡々とした端正な音楽に畏敬の念すら覚える。
まったく何の不足も余分もない、凍りついたような清潔な美しさである。
最初の弦楽器に続いて登場する木管楽器たちの何か寂しげな様子もただごとではない。
そのあともひたすら端正であり、大げさな気配は微塵もないのだが、有無を言わさぬ迫力があるのだ。
そして、まるでシューベルトの「未完成」交響曲第2楽章終結部のような黄昏を経て、恐ろしい後半部がやってくる。
ブルックナー第9番のスケルツォのような〈メヌエット〉も、よく歌いながらまったく楽しさがないという戦慄の音楽だが、ついで流れ出す〈アダージェット〉は、初めて聴く人を間違いなく瞠目させるに違いない。
そう、まさにマーラー第5番のアダージェットのようなのだ。
きわめて遅い、何という美しさ、何という憧れ、何という悲しさ、何という切なさ。
〈カリヨン〉では再び明るく透明な響きが戻ってくるが、これが明るさとは裏腹に、まるで死者が浮かべる微笑のうつろなまなざしのようで怖い。
とりわけ中間部は虚無感そのもので、もはや心はここになしという様子だ。
第2組曲では、〈パストラル〉中間部がまるでブルックナー第4番第2楽章のようだ。
〈間奏曲〉のしみじみとした味といい、〈ファランドール〉の祭の興奮とは正反対の冷えた感触といい、「アルルの女」をこれほどユニークに演奏した例は古今無双であろう。
この演奏全体を通じて、恣意的な臭みのまったくない弱音の表現力の豊かさに圧倒される。
人間のむなしさ、存在の悲しみをここまで表した音楽を筆者は他に知らない。
そして、こういう切実な音楽に対し、語る言葉は無力だ。
しかも録音が素晴らしく、全ての音が驚異的に鮮明に捉えられているのである。
ただ、近年なかなか手に入らなくなったこのディスク、読者諸氏が無事に手に入れていただくことを切に祈るのみである。
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