2014年07月18日
ケーゲル&ライプツィヒ放送響のマーラー:交響曲第4番
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このケーゲル盤は、マーラーのモザイク風の作品を断片から1つ1つを吟味し、組み合わせていったような精妙さをもつ演奏だ。
アゴーギクやデュナーミク、管弦のバランスのそれぞれに意味があり、音楽的に彫りが深い。
そのため、いささか分析的ではあるが、晴朗・透明で、マーラーの抒情性を的確に表出している。
しかし、よく聴いてみると極めて異常な世界とでもいうのか、他に例を見ない演奏である。
血の通わない音楽というのか、血は通っているが冷たい血とでもいうのか、こんなパッと聴いたところ楽しくないんなぁという感じのする演奏は稀であろう。
美しいながらも、冷たいナイフを頬に当てられているように感じてしまう。
他の指揮者よりもっと高い見地に立って全体を俯瞰するとこういう演奏になるのであろうか。
マーラーの音楽の美しさを表現できていると思うのであるが、どこかひっかかるものがある。
第3楽章の美しさは素晴らしく雄弁に聴こえるのだが、曲にのめりこまないとでも言うのか、どこか心ここにあらずという感じがするのだ。
ロマンティックで耽美的な音楽を優美に、そしてじっくりと聴かせてくれる演奏なのだけれど、このほっぺたが千切れそうに冷たい体感温度の低さは何なのだろうか。
遠くに突き放してみたらこんな感じで見えるとでもいうのか、能でいう離見をすればこうなるのかもしれない。
とは言え、筆者としては、このような演奏もマーラーの解釈としては十分成立すると考えている。
この曲を初めて聴く人にお薦めできる演奏ではないが、このような素晴らしい演奏もあるという感じで聴く分には良いだろう。
もし弱点があるとすれば、終楽章でのカサピエトラの歌唱かとも思うが、彼女は癖のない歌唱で、幾分ぶっきらぼうな表情が、この第4楽章の楽しげで無邪気で残酷なおとぎ話の一面の真理をついている。
ちなみに第2楽章のソロ・ヴァイオリンはジェルジ・ガライが担当している(ケーゲルはガライとは、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を録音していた)。
ピストル自殺さえしなければ、ケーゲルを語る時『狂気のケーゲル』などという形容詞はおそらく不似合いだっただろう。
このマーラーには絶頂の幸福感と、興奮すらも俯瞰でみつめる安定感がある。
筆者としては、ワルター、バーンスタイン、テンシュテットに次いで愛聴している。
ケーゲルの『大地の歌』の録音があったならば、さぞかしと思わせる。
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