2014年09月11日
チェリビダッケ・コンダクツ・ブルックナー/交響曲第4番・第6番・第7番・第8番
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周知の通りセルジウ・チェリビダッケは「録音嫌い」で知られたマエストロである。
その理由を訊かれたとき、彼がよく引き合いに出していたのはフルトヴェングラーの言葉だった。
録音した演奏のプレイバックを聴いて、フルトヴェングラーはこう叫んだという。
「何もかもが変わってしまった!」と。
もちろん1950年代以前と現代とではすでに録音技術にも大きな差があるし、再現度は格段に高まっているはずなのだが、それでもオーケストラが響く空間のアコースティックや聴衆の醸し出す雰囲気といった、何気に重要なパラメータを含むアンビエント――参加意識も含めた「共時体験」としての――は、排除されないまでも、少なくとも圧縮され薄まらざるを得ない。
各々の演奏会場の音の響き方によって採るべきテンポも当然変わってくると考えるタイプのマエストロは、生演奏に接することしか音楽の真実に迫るすべはないと主張する。
それは確かにその通りだろう。
一期一会の演奏会は、突き詰めれば一瞬たりとて同じ音がなく「時間とともに消えてゆく」現象の集積なのだから。
しかし、フルトヴェングラーにせよチェリビダッケにせよ、我々は過去に偉大な演奏があり得たことを「知って」しまっている。
その記録がいかに(彼らにとって)不完全なものだとしても、現に音楽として「追体験」できる音源が存在する以上、聴いてみたくなるのが人情というものだ。
ライヴ体験と切り離され録音された演奏だけで評価を下す危険性は常に意識しておかなくてはならないが、次々に発掘される名演の「記録」は、一種の文化的世界遺産ともいうべき価値を有している。
生きて飛んでいる蝶を間近に見るのが最上の観察だとしても、絶滅した蝶の姿は標本から類推するしかないのだから。
チェリビダッケの偉大さは、彼のそうした哲学的な音楽の捉え方が単なる観念論でなく、きわめて高度な職人技の上に成り立っていたということである。
たとえば交響曲第7番の第1楽章、冒頭に姿を現す弦のさざめきを表現する際、一人一人のトレモロに関し微妙に弓幅を変えることでムラのないヴェールのような広がりを醸し出すテクニック。
また交響曲第4番のフィナーレにおけるコーダでは、ユニゾンで奏される弦の刻みの拍の頭に楔を打ち込むがごとく短いアクセントを施し、最後に回帰してくる凱歌を気宇壮大に迎え入れる素地がつくられる。
こうした処理はスコアの“改変”ではなく、現場主義的な発想のもとに楽譜の意図する効果を最大限発揮させるための熟練された方法論に他ならない。
緻密に練られた解釈と、それを実現するのに必要な「楽器」とが揃った1980年代後半から90年代初めこそが、チェリビダッケとミュンヘン・フィルの最盛期だったと言っていいだろう。
さらにチェリビダッケの最晩年、亡くなる数年間はまた一層深化した異形の境地が訪れるのだが、より均整のとれたフォルムという意味でもその前の時期のほうが一般的な評価は高いはずである。
このDVDセットに所収されているのは何れもその実り多い時期のライヴで、交響曲第6番は彼らの本拠ミュンヘンのガスタイク、交響曲第7番と第8番は来日公演時のサントリーホールにおける収録。
すでに稀代の名演として定評のある演奏だが、今回は幻ともいうべき1989年のムジークフェラインザールでのライヴが入っているのが貴重だ。
前述の通り演奏会場の音響やアンビエントも演奏の大きな構成要素と捉えるチェリビダッケにとって、ムジークフェラインはいささか荒ぶる音楽への志向を誘われるホールだったのかも知れない。
特に両端楽章での激しいアゴーギクを伴った凄みのある音楽運びは、他に残された演奏にはあまりみられないほどの変動幅を含んでいる。
完全かどうかという見方をすれば粗もあり、これがチェリビダッケの〈ロマンティック〉の代表盤だとは言えないが、彼らの垣間見せた意外な「貌」という意味では非常に貴重な音源と言って間違いない。
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