2014年12月01日
チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルのムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)、シューマン:交響曲第4番[SACD]
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来日公演のブルックナーの交響曲第5番及び第8番のSACD化に引き続いて、今般は、チェリビダッケの1986年の来日公演の際に演奏された、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」とシューマンの交響曲第4番(アンコールのドヴォルザークのスラヴ舞曲第8番を含む)のSACD化がなされることになったのは、チェリビダッケの十八番とも言える楽曲だけに、誠に慶賀に堪えないところだ。
それにしても、何という圧倒的な音のドラマであろうか。
チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということの証左である。
楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。
それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。
そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのが、本盤の演奏を行っているミュンヘン・フィルであった。
また、チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。
むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。
これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらない。
ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。
もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。
したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、本盤に収められたシューマンの交響曲第4番やムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」については、前述のようなチェリビダッケのアプローチがプラスに働いた素晴らしい名演と言えるだろう。
確かに、テンポは遅い。
例えば、組曲「展覧会の絵」について言うと、約42分もかけた演奏は他にも皆無であろうし、シューマンの交響曲第4番についてもきわめてゆったりとしたテンポをとっている。
しかしながら、本盤の両曲の演奏には、こうしたテンポの遅さをものともしない、圧倒的な音のドラマが構築されている。
とりわけ、組曲「展覧会の絵」は、ラヴェルの光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが魅力の楽曲であるが、これをチェリビダッケ以上に完璧に音化した例は他にはないのではなかろうか。
いずれにしても、これら両曲の演奏を演奏時間が遅いとして切り捨てることは容易であるが、聴き終えた後の充足感においては、過去の両曲のいかなる名演にも決して引けを取っていないと考える。
チェリビダッケの徹底した拘りと厳格な統率の下、まさに完全無欠の演奏を行ったミュンヘン・フィルによる圧倒的な名演奏に対しても大きな拍手を送りたい。
音質は、今般のシングルレイヤーSACD化によって、圧倒的な超高音質に生まれ変わった。
チェリビダッケが構築した圧倒的な音のドラマが、鮮明かつ高音質なSACD盤で再現される意義は極めて大きいものと言えるところだ。
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