2016年10月12日
ベーム&ウィーン・フィルのモーツァルト:交響曲第40番、第41番『ジュピター』、他
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ベームは、ワルターと同じく終生に渡ってモーツァルトの音楽に傾倒し、深く敬愛していた指揮者であった。
ベルリン・フィルと成し遂げた交響曲全集(1959〜1968年)や、バックハウスやポリーニと組んで演奏したピアノ協奏曲の数々、ウィーン・フィルやベルリン・フィルのトップ奏者との各種協奏曲、そして様々なオペラなど、その膨大な録音は、ベームのディスコグラフィの枢要を占めるものであると言っても過言ではあるまい。
そのようなベームも晩年になって、ウィーン・フィルとの2度目の交響曲全集の録音を開始することになった。
しかしながら、有名な6曲(第29、35、38〜41番)を録音したところで、この世を去ることになってしまい、結局は2度目の全集完成を果たすことができなかったところである。
ところで、このウィーン・フィルとの演奏の評価が不当に低いというか、今や殆ど顧みられない存在となりつつあるのはいかがなものであろうか。
ベルリン・フィルとの全集、特に主要な6曲(第35、36、38〜41番)については、リマスタリングが何度も繰り返されるとともに、とりわけ第40番及び第41番についてはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化もされているにもかかわらず、ウィーン・フィルとの録音は、リマスタリングされるどころか、国内盤は一時廃盤の憂き目に陥ったという極めて嘆かわしい現状にある。
確かに、本盤に収められた第40番及び第41番の演奏については、ベルリン・フィルとの演奏(1961年)と比較すると、ベームならではの躍動感溢れるリズムが硬直化し、ひどく重々しい演奏になっている。
ベームの指揮の一大特徴であるリズムの生気は、典雅な柔らか味をこえて、しばしば鋭い鋭さを示していて、モーツァルトの交響曲に存在している高貴にして優美な愉悦性が著しく損なわれているのは事実である。
しかしながら、一聴すると武骨とも言えるような各フレーズから滲み出してくる奥行きのある情感は、人生の辛酸を舐め尽くした老巨匠だけが描出し得る諦観や枯淡の味わいに満たされていると言えるところであり、その神々しいまでの崇高さにおいては、ベルリン・フィルとの演奏をはるかに凌駕している。
感傷的な流れに陥らず、楽曲のもつ構成的な美しさを引き出しているところが見事であり、響きの色彩の具合も単純明快で、情感的世界に結びつき易い色合いを強く制している。
また、かつてのようないかめしさが影をひそめ、しなやかな表情を強く表出しているのが特徴で、長年慣れ親しんだウィーン・フィルを、なごやかに指揮しているといった感じがよく出ていて、両曲ともこのオケ固有のオーボエとホルンの音が有効に使われている。
また、この2曲で特に目立つのはテンポの設定と楽想のリズム的および歌謡的性格とをはっきりと打ち出そうとしていることで、徹底的に美のありかを追究して何かをいつも発見してゆくベームの指揮は、やはり厳しさと鋭さの点で強く打つものがあり、多少流れの自然さを失うところがあってもなおモーツァルトの強靭な楽想発明力に関して納得させるところが大きい。
いずれにしても、総体としてはベルリン・フィル盤の方がより優れた名演と言えるが、本演奏の前述のような奥行きのある味わい深さ、峻厳さ、崇高さにも抗し難い魅力があり、本演奏をベームの最晩年を代表する名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。
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