2015年01月17日

ケーゲル&ライプツィヒ放送響のショスタコーヴィチ:交響曲第5番、第9番


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「私の交響曲は墓標である」と言ったというショスタコーヴィチの交響曲であるが、この演奏はその中でも注目すべき1枚と言えよう。

ケーゲルは共産主義の正しさを確信し、それでも共産主義体制が崩壊してゆくことに危機感を募らせ、自ら命を絶ったといわれているが、このショスタコーヴィチの交響曲第5番は、そういう指揮者にしかできない演奏であることは間違いない。

ケーゲルはここで本領を発揮、全楽章を通して悲愴感に満ちているが、そういう意味では、この曲の悲劇性を皮肉にも非常に強く表現している。

まるで深い闇の底を覗き込むような音楽であるが、なかでも聴きどころは澄んだ悲しさの第3楽章に続く最終楽章。

冒頭から聴こえてくるのは、「革命の生の高揚」などではない。「恐怖の絶叫」「感情の爆発」だ。

続いてもその先には「勝利の喜び」などはない。その喜びは一種の絶望と諦観とでもいうべきものである。

したがって、文学的メッセージを鑑賞するには、ケーゲルの解釈は一定の評価をされるべきものであると評価したい。

しかしながら、オケの、ステージ上で何か事故が起こっているのではないかと思わせるほどのミス(拍子のカウントのずれやテンポのずれ)が散見される。

それは、ライヴ録音であるという点を考慮しても許容される範囲をはるかに逸脱していると言わざるを得ない。

これでもし、オケが一流だったら、ムラヴィンスキーに追随するかのような凄演になっていたのだろうと悔やまれる。

なお、終楽章のコーダでティンパニの連打に鐘を重ねているのは聴く者の度肝を抜くケーゲル独自の解釈と言えるが、この解釈は成功していると思う。

やはり曲そのものにそういうものを予感させる何かがあるからであろう。

最後は決して勝利の行進ではなく、強制された断頭台への行進なのである。ケーゲルはそれを明らかにしただけなのだ。

「第9」は、スタイリッシュでセンス抜群な古典風の端正な交響曲ではあるが、一聴してそれと判断してはいけない。

その底には恐怖の予兆とでもいった、闇の底から湧きあがる黒いマグマの様なものが流れているのだ。

聴く者を恐怖のどん底に落とすであろうこの1枚は、「癒し」などという言葉とはほど遠いものがあるが、そもそも「感動」とは人の心や価値観を脅かし、一種の恐怖を伴うものなのだ。

ケーゲルという指揮者を決して侮ってはならない。恐怖は静かな顔でこちらを窺っているのである。

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早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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