2015年04月01日
映画『男はつらいよ』について
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映画『男はつらいよ』については、初めは、低俗な喜劇ぐらいにしか感じていなかった。
寅次郎の筋は意識的なワンパターンである。
まず夢の場面と、寸劇があった後、ヤクザ者の寅が柴又のとやらにひょっこり帰ってくる。
おいちゃん、おばちゃん、妹のさくら、その夫の博と子供の満男、隣の印刷工場のタコ社長など、おなじみのメンバーに大歓迎されるが、それもつかの間、ささいなことからけんかが始まって再び家を飛び出す。
旅の空で美しい女性と知り合い恋心を燃やすが、やがて失恋、という段取りだ。
寅次郎は無学で根気がなく、頭も少し弱いが、驚くほど純情、純粋で人情に厚く、ひょうきんで、彼のまわりには笑いが絶えない。
相手が芸術家だろうと、金持ちであろうと、乞食であろうと、いっさい分けへだてせず、人間対人間として付き合う。
寅次郎にとって相手の肩書とか職業などは一文の値打ちもなく、人間性だけが大切なのである。
だから女性も完全に心を開いて寅次郎の胸の中に飛び込み、自分のすべての悩みを打ち明け、「私は寅さんが大好き」と言う。
その言葉に嘘偽りはないのだが、寅次郎の方は女も自分に恋しているのだ、と誤解してしまい、悲喜劇が起こるのである。
このシリーズが始まった頃、寅次郎は愚かなだけの男で、おいちゃんが「ばかだなぁ」と慨嘆するのが常であった。
寅次郎がばかなことをしでかし、それを監督もばかにし、観客もばかにし、笑い合って日頃のストレスを解消する、というパターンの連続であった。
ところが……、いつの頃からか、おいちゃんの「ばかだなぁ」というセリフが聞かれなくなり、寅次郎に変化が見えてきたのである。
といって、教養がついたわけではないし、頭が良くなったわけでもなく、寅はあくまで寅なのだが、微妙な深みが出てきたのだ。
つまり作品の中で車寅次郎が一人歩きを始め、その寅次郎に監督であり、原作者でもある山田洋次が教えられるようになったのである。
筆者は今では『男はつらいよ』は最高の娯楽作品で、同時に最高の芸術作品だと考えているが、その理由はまさにこの一点にあるのだ。
寅次郎は無教養で常識がなく、礼儀作法もまったく知らないがゆえに、人間の生まれながらの純粋さがほんのわずかも傷つけられることなく残されていて、大自然から与えられた純粋直観が曇らされていない。
人はとかく肩書で他人を判断しがちであり、教養の有無や礼儀作法の有無で価値を決めがちであるが、寅次郎に言わせれば、これほどナンセンスなことはないだろう。
まったくの裸になったときどういう人間なのか、それだけが問題なのであって、むしろ、教養や常識や礼儀作法は人間を堕落させる。
余計なものがべたべたとはりついて、本来の純粋性が失われ、俗っぽくなり、本質が見えなくなり、何よりも裸になれなくなってしまう。
そこへゆくとフーテンの寅は生まれたままの姿でそこに立っていて、自分の正直な気持ちだけで生きている。
笑いたいときに笑い、悲しいときに悲しみ、怒りたいときに怒る、そこにかけひきや偽りはいっさいない。
子供のような人、いや、神様のような人、それが寅次郎である。
映画の中でいろいろな出来事が起こったとき、他の人は常識でしか考えられないが、寅次郎はズバリ真実を見抜き、真実のままに行動する。
そのことに東大出の山田洋次監督は教えられるのであろう。
といっても、『男はつらいよ』はあくまで大衆のための娯楽作品である。
しかし、寅次郎は単なる笑わせ役ではないのであって、人を笑わせ、楽しませながら、人間の真実を教えてくれる存在である。
山田洋次監督の才能は抜群であるが、彼の偉大さは、渥美清という天才俳優を得て、笑わせながら人生の深い味わいを、しかもそれを求めている人にのみ与えてゆく点であろう。
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