2015年03月14日
ケーゲル&ライプツィヒ放送響のシベリウス:交響曲第4番、第1番
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第4番は、1969年3月4日、第1番は、1982年4月6日のそれぞれ、ステレオ・ライヴ録音。
第1番は恐らく唯一の演奏機会と思われるが、1980年代のケーゲルらしいスケール雄大でロマン主義色濃厚な名演で、極めて遅いテンポが採用されている。
第4番は、エテルナにもスタジオ録音を遺したレパートリーで、ケーゲルはシベリウスの交響曲の中でもこの曲だけは愛奏していた模様であり、陰陰滅滅で不気味な暗さで透徹した名演として知られていたが、こちらはライヴゆえに緊張感が尋常でない。
ケーゲルの「第4」はきわめて異色なシベリウスと言えるが、最高傑作と評される同曲をこれほど深く読み、全身で受け止めた演奏は珍しい。
シベリウスは指揮者を選ぶとはよく言われることだが、「シベリウスのムード」という共同幻想によって評価されている気がする。
もっとも音楽を楽しむのに幻想は大いに結構であり、何ら非難されるべきではない。
以上を踏まえたうえで、ケーゲルよりもオーソドックスとされる演奏はいくつかある。
世評が高いのはベルグルンド、ネーメ・ヤルヴィ、サラステ、セーゲルスタム、アシュケナージあたりだろうが、ベルグルンドが最もスタンダードかもしれない。
これはその通りだと思うし、いずれのシベリウスも美しく、大いに楽しめる。
ケーゲルの演奏は、確かに聴き方によっては「際物」、あるいは異端的なシベリウスだ。
今まで抱いていた簡潔で軽やかなリズムのシベリウスはここでは全く感じられず、ここにあるのは、きわめて重厚骨大なシべリウスであり、耳が慣れてくるとそれなりに説得力がある。
鑑賞を重ねるうちに次第に、固定観念化されたシべリウス観を抱いていたことを気付かせられる、そういう演奏である。
このシべリウスも、あるいはこのシべリウスが、紛れもなく本物のシベリウスであると考えられてくる。
正直言って、筆者はこの演奏によって初めて聴き応えのあるシべリウスに出会えた。
従来のよどみなく流れる川の流れような美しいシべリウスが遠のいて、岸に大小の荒波が次々と打ち寄せるかのようなゴツゴツとした立体感のあるシべリウスがここにはある。
この「第4」は、シべリウスの悲愴交響曲の趣であり、この曲の作曲時、シべリウスは健康に問題を抱え苦悩の情況にあったと聞く。
全てに暗い演奏のイメージが先行しがちであるが、「第1」の方は「第4」に較べればそれは感じられず、力強い躍動感がある。
「第4」は、曲想の難解さに加えて、演奏自体も一回だけの鑑賞だけでは理解しにくい難解な演奏であるが、両曲の演奏とも何度聴いても手応えを感じさせるものがある。
これはひょっとすると残念なことなのかもしれないが、スタンダードなベルグルンドやサラステでは少し物足りなく感じているのに気付く。
特に「第4」については、この曲が交響曲史上、最高傑作の1つであることの重みをいかんなく示す素晴らしい演奏であり、陰影が深く、異様な妖しさが漂う。
大自然の音楽というよりはおどろおどろしい「因業」な音楽のようにも聴こえる。
そして何故かスタンダードな演奏を沢山聴いた後では、ケーゲル盤が忘れがたいのだ。
これを聴いたため、他の指揮者による演奏が耳に軽く響いて物足りない。
この「第4」は、ファーストチョイスかどうかはともかく、シベリウスを愛する者にとっては聴くべき価値のあるものだと信じている。
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