2015年09月05日
ワルター&ウィーン・フィルのモーツァルト:交響曲第40番、第25番
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ワルターはモーツァルトの「第40番」を最も得意なレパートリーの1つにしており、レコードにも数々の名演を遺したが、その中のベストは1952年5月18日にウィーンのムジークフェラインザールで行われた演奏会の実況録音である。
従ってこれはワルターの全レコード中でも特筆すべきものと言えよう。
当日のプログラムはこの「第40番」のあとにマーラーの歌曲と「大地の歌」が組まれたわけで、よだれが出るとはこのことである。
ワルターの「40番」では、ニューヨーク盤は仕上げが完璧であるが、寂寥感に欠け、その点でかなり満足させられるベルリン国立盤とコロンビア盤には表現上の欠点がある。
ウィーン盤はこれらの短所を補うとともに、ウィーン・フィルの魅力と、実演の長所を併せ持ち、録音も当時の実況盤としては十二分に満足し得るものであり、ワルターを愛する人はもちろん、この曲に心惹かれる人にとっては絶対に聴き逃せぬ名盤である。
第1楽章はテーマにつけられた上行ポルタメントの懐かしさがすべてだ。
この美しい主題をこれ以上チャーミングに指揮した人はおらず、ワルターもウィーン・フィルだからこそ、これだけ思い切ってできたのであろう。
テンポはむしろ速めで、第2テーマ以外はテンポの動きもあまり目立たず、表情、音色とも、極めて透明に運ばれる。
しかし細部のニュアンスはほとんど即興的と思われるほど自然に生きており、例の再現部のルフトパウゼも最高だ。
この楽章全体を通じて〈美への激しい祈り〉〈より美しいものへの魂の羽ばたき〉を実感させ、漲るような憧れの情が極まって哀しさを呼んでいる。
聴いていて、どこまでがワルターで、どこまでがウィーン・フィルで、どこまでがモーツァルトなのか判然としない。
造型的にも完璧の一語に尽きよう。
第2楽章も速めで、音楽は常に弱めに、静かに、虚無感を湛えて運ばれ、それが聴いていてたまらない。
まさに〈秋の野をひとり行くモーツァルト〉である。
リズムの良さ、敏感さ、瑞々しくも寂しい漸強弱、そして第2テーマの何というピアニッシモ! その直前の何という感情の高まり!
しかもそれらはいかにも融通無碍、あたかもワルター自身がピアノを弾くような即興性をもって行われてゆく。
ワルターの到達したこの境地に深く頭を下げずにはいられない。
メヌエットは速めに、きりりと造型されており、ニューヨーク盤の豊かさ、コロンビア盤の大きさといった特徴がないので、全曲中ではやや物足りなさを感じさせるかも知れないが、その不満もトリオが解消してくれよう。
弦の三度のハーモニーは人間の心そのままを伝えている。
フィナーレは出のテンポとリズムの良さにハッとする想いで、第2テーマで遅くする呼吸もこたえられない。
まさにワルターの類稀な才能の表われと言えよう。
この部分のウィンナ・クラリネットの溶けるような柔らかさも絶品で、第1稿のオーボエ版ではこの美しさは出ない。
全体の響きに濁りのないウィーンならではで、音色だけで心をとらえられてしまうのである。
モーツァルトの世界にこんな演奏を持てたことに、われわれは心から感謝しなくてはならないだろう。
カップリングの「第25番」はザルツブルク音楽祭における実況盤であるが、会場のせいか残響に乏しく、そのためもあってワルターの表現も非常に厳しく、真剣勝負的に聴こえる。
ワルターのモーツァルトで、これほど深く内容を抉った、凄まじい迫力に満ちた演奏はごくごく少なく、第1楽章の疾風怒濤、第2楽章の弦の歌、第3楽章の慟哭の響き、第4楽章の終結の一刀入魂とも言うべき決め方、いずれも見事である。
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