2015年03月20日
カラヤン&ベルリン・フィルのドビュッシー:交響詩「海」、牧神の午後への前奏曲、ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲[DVD]
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このフランスの名曲に、カラヤン&ベルリン・フィルの演奏、しかも映像作品を選ぶというのは、奇を衒っていると思われるかもしれないが、本当に気に入っているのだ。
カラヤンはこの曲の組み合わせで、本盤以外に1964年3月と1985年12月〜1986年2月にそれぞれDGで録音を行っているので、本盤(1985年11月〜12月)はちょうど後者の録音と同時期の収録ということになるが、この演奏のいちばんの特徴は、ライヴ録音ということである。
注意して聴いていると、オーディエンス・ノイズが頻繁に入ることからすぐに分かる。
カラヤンの映像作品の多くは、聴衆が映っていてもニセの聴衆だったり、あるいは音と映像が完全に別取りで、ライヴを装っていてもスタジオ録音だったりして、視聴していて白けることおびただしいものもある。
筆者は映画が好きなせいか、映像を見るとすぐに「カメラの位置は?」と考えてしまうのだが、たとえば1972年収録の「海」の映像作品では、客席に聴衆はいるものの、曲の冒頭はカラヤンの斜め後ろからオケを撮っており、絶対に望遠で撮った絵ではないことから、これだとカメラは指揮者の数メートル後ろの舞台上にいなくてはならない。
実際の演奏会ではそんなことは有り得ないわけだから、「ああ、これもニセものかぁ……」と、その後は見る気がしなくなるのだ。
やたら逆光を多用したり、顔の見えにくい奏者を幾何学的に並べたり、あるいは管楽器を構える角度がやたらぴったり合っていたりするのもわずらわしい。
ふだんあれだけ体を振ってアンサンブルを作る努力をしているライスターが、微動だにしないでクラリネットを咥えているわけないのだ。
部分撮りの奏者の顔が音楽をやっているように見えないことが多いのは、ことによるとその奏者だけで映像のみ収録し、音は捨てているからだろうか。
同じアングルの映像で、最初はフルート1人が吹いていて、次に2人に増え、終いには4人になるのを見せられると、腹が立つのを通り越して呆れてしまう。
映像の遊びは音楽にとって邪魔なだけだ。
もちろん本盤でもそういった「はめ込み画像」はあるのだが、フルオケが映っている場面、そしてなぜか凝った別撮り映像においても、奏者の表情が真剣でしかも活き活きとしているので、見ていて嬉しくなってしまう。
「海」におけるコンサートマスターのブランディスの体を張ったリード! あれは決して映像収録用の「演技」だとは思えないのだ。
「牧神」と「ダフニス」では、それまでトップサイドだったシュピーラーがコンマスに交替し、ブランディスがトップサイドに下がる贅沢さ! それにツェラーのフルートの妙技! さらに、まだ颯爽としなやかだったカラヤンの棒も、ドイツもののときより真剣に見える。
映像のことをあれこれ言ってしまったが、音そのものでも、「聴衆を前にした燃えるベルリン・フィル」が楽しめる。
カラヤンは基本的にはライヴ録音はやらない主義だったから、本盤のような正規のライヴ・ステレオ録音は貴重である。
「海」の第1楽章最後の部分の巨大な音の柱! 第2楽章後半、どこまでもぐんぐんと伸びていくような盛り上がりと、そのあと深海に沈潜したような静寂、「海」というよりは戦争の記録映画の伴奏にも使えるような、スペクタクルな第3楽章、それでいて毛ほどの粗さもないのだ。
「牧神」はツェラーを筆頭とする管がひたすら巧く、それを支える温かくて精妙な弦も見事だ。
「ダフニス」は、かつてベルリンのフィルハーモニーザールが「カラヤンサーカス」と言われていたことを思い出させるような、音の饗宴の世界である。
「夜明け」の甘美さ、「無言劇」の驚異的なアンサンブルの完璧さ、「全員の踊り」の凄まじい盛り上げ方、カラヤン&ベルリン・フィルのライヴが、いかに凄かったのかの証となるだろう。
そこでは、まさに生きている人間が演奏しているのだ。
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