2015年03月25日
ルイサダのショパン:ワルツ集
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ショパンのワルツ集は名演が少なくないが、SP時代のコルトーと彼の弟子リパッティが、長年にわたって王座を争ってきた。
リパッティ盤はSACD化されてかなり音質が改善されたと言えるが、それでも古いという人には、録音の新しいルイサダの名演が聴けるのは実に幸せなことである。
もう最初の「第1番」から音楽をこの上なく雄弁に語りかけてやまない。
おしゃべりなショパンだが、センスがあってしゃれ切っており、頻出するルバートも古臭くなく、即興性満点、左右10本の指の魔術がいつ果てるともなく続き、この「第1番」だけで、聴く者は完全にルイサダの虜になってしまうだろう。
「第2番」「第3番」「第7番」いずれも最高だが、ことに「第10番」は音楽が100パーセントルイサダ自身のものになり切っており、聴いていて身につまされてしまう。
それにしても、なんという変幻自在な表現だろう!
「第14番」の冒頭も他のピアニストとは全然違う。
いったい何が始まったのか、と唖然とするほど不気味であり、これは本当にすごい演奏である。
ルイサダは他のピアニストに比べルバートをかなり多用しているが、それが薄っぺらな、説得力に欠けるものには決してならず、1つ1つが深い意味を持ち、雄弁に聴こえてくるところがすごい。
サロン的な軽妙洒脱さ、ピアニズムのきらめき、匂やかな繊細典雅さなどのなかで、ルイサダの演奏はショパンの原点に還ったというか、ショパンを発見したシューマンの「花の陰に隠された大砲」という言葉を思い出させる。
1曲1曲が目も綾な色とりどりの花をなし、これはダリヤ、これはスウィートピー、これはヤグルマソウと、花の色が鮮やかに浮かんでくるほどだ。
しかしこれらの花に顔を近づけると、花の香の背後に隠された野性の匂いがツンと鼻を刺してくる。
その勁さこそ彩りゆたかな花を咲かせるエキスをなしている。
花のあでやかさと、その芯にひそむ野性とは切っても切れない関係にある。
その核心にふれた演奏だ。
これだけセンス抜群の演奏も、やはり往年のリパッティ盤にはかなわないが、録音状態等も加味すると、ルイサダ盤を選択するのが妥当ではなかろうか。
そういえば、ルイサダのワルツに対する洞察はきわめて深く、以下、彼の言葉を引用しておこう。
「ショパンのワルツ集の第1曲は嬉しそうに始まるが、第2曲にはすでにノスタルジアの感触がしのびこんでくる。
このノスタルジアあるいはメランコリーは曲が進むにつれて目立ってくるが、いつもワルツというジャンルの表面的な華麗さという仮面をつけている。
しかも第3曲はもはやワルツというよりも秘められた悲しみの純粋な詩であり、第4曲以降はすべての曲に絶望の影を宿している。
第9曲と第14曲では、ショパンは仮面をかなぐり捨てて悲哀の中に突入してゆく。
前者では最初の主題が抑えた絶望の叫びとともに再現されるし、後者ではすべての希望が抹殺されて、奈落の底へまっさかさまに突進してゆくのである」
そんなルイサダの来日公演が間もなく始まるが、期待に胸をふくらませているところだ。
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