2015年03月13日
テンシュテット&シカゴ響のマーラー:交響曲第1番「巨人」(1990年ライヴ)
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マーラー演奏の遺産ともいうべき最初の交響曲全曲レコーディングの後、テンシュテットが1990年にシカゴ交響楽団への唯一の客演をしたときの、まさに一期一会のライヴ録音。
近年様々なライヴ録音が発掘されることによってその実力が再評価されつつあるテンシュテットであるが、テンシュテットの最大の遺産は、何と言っても1977年から1986年にかけてスタジオ録音されたマーラーの交響曲全集であることは論を待たないと言えるのではないだろうか。
テンシュテットは、当該全集の掉尾を飾る交響曲第8番の録音(1986年)の前年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。
したがって、1986年以降の演奏は、死と隣り合わせの壮絶な演奏を展開することになり、いささかも妥協を許さない全力投球の極めて燃焼度の高い渾身の演奏を繰り広げた。
そうしたテンシュテットの指揮芸術は、最も得意としたマーラーの交響曲の演奏において如実に反映されていると言えるであろう。
テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。
これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。
かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。
ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。
もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。
このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。
テンシュテットは、マーラーの交響曲第1番を1977年にロンドン・フィルとスタジオ録音しているが、このシカゴ交響楽団との演奏の方がオーケストラの優秀さも相俟って最高峰に君臨する名演であるというのは自明の理である。
まさに圧倒的な超名演であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。
オーケストラはテンシュテットの指揮ぶりに慣れていないシカゴ交響楽団であるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を最大限に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本演奏を超名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。
最晩年のテンシュテットの棒に全霊のパワーで応えるオーケストラが、聴き手の心を大きく揺さぶり、終演後の聴衆の熱狂も当然のことと思われる。
音質は、1990年のライヴ録音ではあるが、数年前にリマスタリングの上でHQCD化がなされたこともあり、比較的良好な音質であると言えるところだ。
もっとも、テンシュテット最晩年の渾身の超名演だけに、メーカー側の段階的な高音質化という悪質な金儲け主義を助長するわけではないが、今後はシングルレイヤーによるSACD盤で発売していただくことをこの場を借りて強く要望しておきたい。
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