2015年07月02日
ショルティ&シカゴ響のマーラー:交響曲第1番「巨人」
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ショルティは偉大なマーラー指揮者の1人であると考えているが、ショルティが録音したマーラーの交響曲の中で、3種類もの録音が遺されているのは、現時点では第1番と第5番しか存在していない。
第5番は、ラスト・レコーディングも同曲であったこともあり、ショルティにとって特別な曲であったことが理解できるが、第1番に対しても、ショルティは第5番に比肩するような愛着を有していたのでないかと考えられるところだ。
3種類の録音のうち、ロンドン交響楽団とのスタジオ録音(1964年)が最初のもの、そして同年のウィーン・フィルとのライヴ録音(オルフェオレーベル)、そして本盤に収められたシカゴ交響楽団とのスタジオ録音(1983年)がこれに続くことになる。
いずれ劣らぬ名演と思うが、シカゴ交響楽団との演奏は、1964年の2種の演奏とはかなり性格が異なっている。
ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通していると言えるが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあったと言える。
かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。
したがって、1983年の演奏は、1964年の2つの演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏になっており、仕上がりの美しさと内容の豊かさにおいて、旧盤とは格段の違いを示している。
マーラー独特の憂愁の表現や、この名作特有のテーマである「さすらい」の不安定さ、若者の不安などの文学的要素を多分に蔵したこの曲の、あちこちにちりばめられた突発的に介入するエピソード的素材のすべてを、ショルティはものの見事にとらえ、変幻自在の対応で表現して、素晴らしく面白い。
シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばワルター&コロンビア交響楽団盤(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。
ショルティは、バーンスタインやクーベリックなど、一部の限られた指揮者によってしか演奏されていなかったマーラーの交響曲にいち早く注目し、その後のマーラー・ブーム到来の礎を作り上げたという意味では、多大なる功績を遺したと言えるのではないだろうか。
我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる数少ない音楽評論家は別として、とある著名な某音楽評論家を筆頭に、ショルティに厳しい視線を送る音楽評論家があまりにも多いが、そうした批評を鵜呑みにして、ショルティの指揮する演奏を全く聴かないクラシック音楽ファンがあまりにも多いというのは極めて嘆かわしいことである。
ショルティとシカゴ交響楽団の美しく、力強く、そして精密な演奏は、マーラーの音楽の持つ耽美的な色彩感と美しさと力強さ、迫力と爽やかさが見事に調和している演奏である。
ワルターやバーンスタインのような厭世観から来る、病的な暗さや思いつめたような絶望感や情熱とは無縁の世界のものであるが、作品の持つ耽美的なまでの美しさと爽やかさ、軍隊的な統制力と力強さが万全に発揮された名演と言えるだろう。
シカゴ交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っている。
特に弦楽器の合奏は素晴らしく、まるで春のそよ風が気持ちよく、爽やかに吹き抜けてゆくようだし、トランペットなどの金管楽器の閃光のような輝きは驚く程だ。
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