2015年04月08日
ショルティ&シカゴ響のマーラー:交響曲第4番
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ショルティは、バーンスタインやクーベリックなど、一部の限られた指揮者によってしか演奏されていなかったマーラーの交響曲にいち早く注目し、その後のマーラー・ブーム到来の礎を作り上げたという意味では、多大なる功績を遺したと評価できるのではないだろうか。
それにしても、我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。
現在では、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。
我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる数少ない音楽評論家は別として、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、そうした批評を鵜呑みにして、ショルティの指揮する演奏を全く聴かないクラシック音楽ファンがあまりにも多いというのは極めて嘆かわしいことである。
ショルティは、若き日にコンセルトヘボウ・アムステルダムと「第4」の名演を残しており(1961年)、ショルティ自身も、本演奏の出来には相当に満足していたようで、その出来映えに愛着に近い強い自信をもち、再録音の必要はないと公言していた。
後年、1970年の交響曲第5番の録音をはじめとして、シカゴ交響楽団とのマーラーの交響曲全集の録音を開始したが、その際、第4番を再録音するかどうかについて相当に逡巡したとのことであった。
そうした中でのこの新盤(1983年)は22年を経て録音されたものであり、ショルティの円熟をことさら印象づける。
今回のシカゴ交響楽団との演奏ではオケの合奏能力をフルに生かし、緻密で繊細な響きを作り出しており、ショルティはこの曲に合わせて徹底的に室内楽的な表現を施しているが、旧盤よりもさらに角がとれ、表情が自然でありながらも自由で大胆である。
しかし、それはあくまでも自然な流れを損なわず、みごとな造形の均衡をもたらしている。
いずれにしても、ショルティとしても突然変異的な名演と言えるほどで、ショルティの指揮芸術の特徴でもある切れ味鋭いリズム感や明瞭なメリハリが、本演奏においてはあまり全面には出ていないとも言えるところだ。
マーラーの交響曲の中でも、最も楽器編成が小さく、メルヘン的な要素を有する「第4」は、かかるショルティの芸風とは水と油のような関係であったとも言えるが、本演奏では、そうしたショルティらしさが影をひそめ、楽曲の美しさ、魅力だけが我々聴き手に伝わってくるという、いい意味での音楽そのものを語らせる演奏に仕上がっていると言えるだろう。
ショルティも、多分に楽曲の性格を十二分に踏まえた演奏を心がけているのではないかとも考えられるところであり、逆に言えば、円熟期のショルティにはこのような演奏を行うことが可能であったということだ。
これはショルティの指揮芸術の懐の深さを表わすものであり、とある影響力の大きい音楽評論家などを筆頭にいまだ根強い「ショルティ=無機的で浅薄な演奏をする指揮者」という偏向的な見解に一石を投ずる演奏と言えるのではないだろうか。
終楽章のソプラノのキリ・テ・カナワによる独唱の表情豊かな歌もこの作品にふさわしく、そのロマン溢れる歌唱は美しさの極みであり、彼女独特の節まわしで色気のある歌声を聴かせ、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。
シカゴ交響楽団の緻密で繊細な響きは英デッカによる極上の優秀録音によって完全に捉えられており、別の意味で唖然とさせられる。
筆者としては、いまだ未聴のクラシック音楽ファンには是非とも一聴をお薦めしたい名盤と高く評価したい。
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