2015年05月03日
ゼルキン&アバドのモーツァルト:ピアノ協奏曲選集(全14曲)
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ゼルキン&アバド/ロンドン交響楽団によるモーツァルトのピアノ協奏曲シリーズは、全集録音を予定していたが、ゼルキンの死によって中断されてしまった。
とりわけ優れているのは第9番「ジュノーム」、第15番、第25番の3曲で、いずれもゼルキンは作曲者の深い哀しみや人生の夕暮れを描きつくしてあますところがない。
続くのが第8番、第17番、第18番、第22番の4曲で、楽章によってムラがあるが、上出来の部分は前記3曲に匹敵しよう。
どの曲ともやや遅めのテンポで演奏され、ゼルキンのソロも落ち着いた情感を基調にしている。
タッチは明確で表情に富み、特にピアニッシモからは香しさが漂ってくるようにさえ感じられる。
何よりもアーティキュレーションが美しく、感情の細かな動きが音色と表情に反映されて、豊かなニュアンスをもたらしている。
何の気負いもなく、ごく自然に音楽の流れに身を任せているような演奏は、巨匠の晩年だからこそ許される、神々しい遊びとでも言えよう。
モーツァルトはこういう演奏で聴きたいもの、と思わせる名演だ。
第9番「ジュノーム」でまず印象的なのが、アバドの解釈である。
冒頭からきわめて遅いテンポで導入し、続く経過句ではテンポを速め、第2主題を優美・艶麗に歌わせる。
その間の呼吸は実に見事で、このような解釈はそうできるものではない。
ゼルキンの左手にみせる決然たる表情は彼の意志が確固たるものであることを示し、フレージングは真摯な感情を反映する。
第17番ではゼルキン、アバドとも洗練されたニュアンスを示している。
第15番が殊に素晴らしく、ゼルキンのタッチは弱音のときに美しい余韻を残す。
それは澄み切った精神性を強く感じさせるもので、演奏に天国的な美しさを与えている。
第22番でもゼルキンのタッチは明確で、響きは軽やか、彼はモーツァルトの音楽のもつ微妙な陰影を実に美しく生かしている。
アバドの指揮も魅力的で、表情豊かにオーケストラを歌わせ、弦の響かせ方も本当に見事だ。
第18番では、アバドが冒頭から明るい弦の音色を生かし、すっきりとしたフレージングで第1主題を導入する。
ゼルキンの表情と音色は細かく変化するが、解釈は強い意志で貫かれている。
第24番は遅めのテンポで演奏が始まられ、冒頭の第1主題に強い緊張感を与え、その後のトゥッティとの対照を強調する。
しかし第23番と第27番はゼルキン一流の内容主義のモーツァルトだが、あるいはやり過ぎ、あるいは徹底不足で、もうひとつ感銘を与えないままに終わっている。
前者の例は第23番で、こんなにスロー・テンポの演奏も珍しい。
リズムも重く、絶えず思索しながら進めてゆくが、多用されるルバートに必要性がない。
後者の例は第27番でインスピレーションに乏しいオールド・スタイルとでも言うべきか。
このように出来不出来のある選集と言えるが、特筆すべきは全14曲を通じてのアバドの素晴らしいサポートで、ゼルキンの個性にぴったり合わせ、まるで自分自身の表現のように聴かせるとともに、音楽的な香りの点でも申し分ない。
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