2015年05月07日
マーツァル&チェコ・フィルのマーラー:交響曲第6番「悲劇的」[SACD]
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マーツァルは、チェコ・フィルとともにマーラーの交響曲全集の録音を行っている途上にあるが、「第8」と「大地の歌」「第10」を残したところで中断してしまっている。
その理由は定かではないが、既に録音された交響曲の中では、本盤に収められた「第6」と「第5」「第3」が特に素晴らしい超名演に仕上がっていると言えるところであり、他の交響曲の演奏の水準の高さからしても、是非とも全集を完成して欲しいと考えている。
さて、この「第6」であるが、これが実に素晴らしい名演なのだ。
「第6」の名演と言えば、いの一番に念頭に浮かぶのがバーンスタイン&ウィーン・フィルによる超名演(1988年)だ。
これは変幻自在のテンポ設定や、思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使したドラマティックの極みとも言うべき濃厚な豪演であり、おそらくは同曲に込められた作曲者の絶望感や寂寥感、そしてアルマ・マーラーへの狂おしいような熱愛などを完璧に音化し得た稀有の超名演である。
これに肉薄するのがテンシュテット&ロンドン・フィル(1991年)やプレートル&ウィーン響(1991年)の名演であると言えるだろう。
ところが、マーツァルの演奏には、そのようなドラマティックな要素や深刻さが微塵も感じられないのだ。
要は、マーラーが試行錯誤の上に作曲した光彩陸離たる華麗なオーケストレーションを、マーツァルは独特の味わい深い音色が持ち味のチェコ・フィルを統率してバランス良く音化し、曲想を明瞭に、そして情感を込めて描き出している。
まさに純音楽に徹した解釈であると言えるが、同じ純音楽的な演奏であっても、ショルティ&シカゴ響(1970年)のような無慈悲なまでの音の暴力にはいささかも陥っていないし、カラヤン&ベルリン・フィル(1975年)のように耽美に過ぎるということもない。
「第6」をいかに美しく、そして情感豊かに演奏するのかに腐心しているようであり、我々聴き手も聴いている最中から実に幸せな気分に満たされるとともに、聴き終えた後の充足感には尋常ならざるものがある。
チェコ・フィルは、その独特の味わい深い音色が持ち味の中欧の名門オーケストラであるが、マーツァルは同オーケストラをバランス良く鳴らして、マーラーの光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが施された曲想を美しく明瞭に描き出している。
この「第6」でも、最強奏から最弱音に至るまで表現の幅は実に広く、特に、最強奏における金管楽器の光彩陸離たる響きは、幻惑されるような美しさだ。
とはいえ、端正な音楽造りに定評あるマーツァルとしては異例なほど迫力に満ちた演奏で、特に終楽章では少々の乱れを度外視した荒々しい表現に驚かされる。
ビロードのような艶を誇るチェコ・フィルの弦楽セクションがここでは非常に鋭角的で、ヴァイオリンの切れ味、ゴリゴリとした低弦の威力が圧巻だ。
金管の迫力も凄まじいものであるし、金属打楽器やピッコロは鮮烈、ハープまでが雄弁な自己主張をおこなって、アンサンブルを優先したいつものチェコ・フィル・サウンドを大幅に踏み越えた圧倒的な勢力を聴かせてくれる。
それでいて、スコアに記された音符のうわべだけを音化しただけの薄味な演奏には陥っておらず、どこをとってもコクがあり情感の豊かさを失っていないのが素晴らしい。
本演奏を聴いていると、心が幸福感で満たされてくるような趣きがあり、聴き終えた後の爽快感、充実感は、他の演奏では決して味わうことができないものであると言えるだろう。
これは間違いなくマーツァルの類稀なる音楽性の豊かさの賜物であると言えるところであり、いずれにしても本演奏は、前述のバーンスタイン盤などのドラマティックな名演とはあらゆる意味で対極にあるものと言えるが、「第6」の魅力を安定した気持ちで心行くまで堪能させてくれるという意味においては、素晴らしい至高の超名演と高く評価したい。
このような純音楽的な名演において、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音は実に効果的であり、本名演の価値を更に高めるのに大きく貢献している点も忘れてはならない。
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