2023年03月26日
🎺楽器を大きく打ち鳴らすだけの“迫力”とは次元を異にする🎻洗練された“凄み”のようなものが伝わる🎙️ショルティ&ウィーン・フィルのワーグナー:管弦楽曲集🎛️
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ショルティは20世紀後半を代表する指揮者の1人であるが、我が国の音楽評論家の間での評価は実力の割に極めて低いと言わざるを得ない。
お亡くなりになった吉田秀和氏などは、数々の著作の中で、公平な観点からむしろ積極的な評価をしておられたと記憶する。
ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評しているとある影響力の大きい音楽評論家をはじめ、ショルティを貶すことが一流音楽評論家の証しと言わんばかりに、偏向的な罵詈雑言を書き立てる様相ははっきり言っておぞましいと言うほかはないところだ。
ニキシュは別格として、ライナーやオーマンディ、セル、ケルテスなど、綺羅星の如く登場したハンガリー人指揮者の系譜にあって、ショルティの芸風は、強靭で正確無比なリズム感とメリハリの明晰さを旨とするもの。
そうした芸風でシカゴ交響楽団を鍛え抜いた力量は、先輩格のライナー、オーマンディ、セルをも凌駕するほどであったと言えよう。
もちろん、そうした芸風が、前述のような多くの音楽評論家から、無機的で冷たい演奏との酷評を賜ることになっているのはいささか残念と言わざるを得ない。
確かに、ショルティの芸風に合った楽曲とそうでない楽曲があったことについて否定するつもりは毛頭ないが、少なくともショルティの演奏の全てを凡庸で無内容の冷たい演奏として切って捨てる考え方には全く賛同できない。
ただ、ショルティのそうした芸風からずれば、ウィーン・フィルとの相性が必ずしも良くなかったことはよく理解できるところだ。
フレージングの1つをとっても対立したことは必定であり、歴史的な名演とされる楽劇「ニーベルングの指環」の録音の合間をぬって録音がなされたとされる、本盤に収められたワーグナーの管弦楽曲集にしても、ウィーン・フィルの面々は、ショルティの芸風に反発を感じながらも、プロフェッショナルに徹して演奏していたことは十分に想定できるところだ。
膨大なレコーディングとレパートリーを誇ったショルティであるが、ショルティはワーグナーを数多く手掛けており、ウィーン・フィルとともに本演奏を含め主要な楽劇等をスタジオ録音しているなど、ワーグナーを自らの最も重要なレパートリーの1つとして位置づけていた。
それだけにショルティは、ワーグナー演奏には相当な自信を持っているのであろうが、本盤では、特に最強奏の箇所において力づくのなりふり構わぬ響きが際立っている。
特に、1960年代に録音された「リエンツィ」や「さまよえるオランダ人」、「タンホイザー」、そして「トリスタン」にその傾向が著しい。
それ故、ワーグナーの楽曲がショルティの芸風に必ずしも符号していたかどうかは疑問のあるところである。
それでもウィーン・フィルとの一連の録音は、ショルティの鋭角的な指揮ぶりを、ウィーン・フィルの美音が演奏全体に潤いを与えるのに大きく貢献しており、いい意味での剛柔のバランスのとれた名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。
多少、無機的な音はするものの、やみくもに楽器を大きく打ち鳴らすだけの“迫力”とは次元を異にする、洗練された“凄み”のようなものが伝わってくる。
華麗で重厚な響きの中にダイナミックなオーケストレーションが展開され、少なからぬ人が「ワーグナー管弦楽曲のCDはこうあってほしい」と思うであろう形の1つ、と言って良いかもしれない。
もちろん、ウィーン・フィルとしてはいささか不本意な演奏であろうが、それでも生み出された音楽は立派な仕上がりであり、聴き手としては文句を言える筋合いではないと言える。
いずれにしても、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さにウィーン・フィルならではの美音による潤いが付加された本演奏は、若き日のショルティを代表する名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。
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