2015年07月30日

ショルティ&ヨーロッパ室内管のモーツァルト:交響曲第40番、第41番「ジュピター」


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哀愁を帯びた旋律が古典美の極致を示す、悲愴なパトスを湛えた劇的緊張に満ち溢れる第40番。

晴朗さが横溢し、雄渾な曲想によって記念碑的な高みに立つ、雄大で力強い曲想の『ジュピター』。

モーツァルトの最後の傑作交響曲2曲を収録した1枚で、ショルティとヨーロッパ室内管弦楽団の初共演となった、両曲とも彼にとって初録音にあたる貴重な演奏を収録したアルバムである。

ところで我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。

現在では、歴史的な名盤と評されているワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

これには、我が国の音楽評論家、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、かかる酷評を鵜呑みにして、例えば本盤の演奏のような名演を一度も聴かないのはあまりにも勿体ないと言える。

ショルティの様々な楽曲の演奏に際しての基本的アプローチは、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなかった。

したがって、楽曲によっては、力づくの強引さが際立った無機的な演奏も散見され、それがいわゆるアンチ・ショルティの音楽評論家を多く生み出す要因となったことについて否定はできないと思われるが、それでも、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

本盤の両曲の演奏においても、そうした聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さには大なるものが存在していると言えるところである。

ショルティは、その芸風との相性があまり良くなかったということもあって、モーツァルトのオペラについては、主要4大オペラのすべてをスタジオ録音するなど、確固たる実績を遺しているが、交響曲については、わずかしか演奏・録音を行っていない。

しかしながら、1980年代に入ると、芸風に円熟味や奥行きの深さが加わってきたとも言えるところであり、その意味においては、本盤の演奏は、ショルティによるモーツァルトの交響曲演奏の1つの到達点とも言うべき名演と言えるのかもしれない。

本盤の演奏は、若者たちのオーケストラと巨匠指揮者の組み合わせの魅力が十分に発揮された演奏である。

こねくりかえした部分が全くない、自然で、率直な、若々しいモーツァルトが実にフレッシュ。

もちろん、本演奏においても、楽想を明晰に描き出していくというショルティならではのアプローチは健在であり、他の指揮者による両曲のいかなる演奏よりも、メリハリのある明瞭な演奏に仕上がっていると言えることは言うまでもないところだ。

第40番は第2版を用いているが、第1楽章冒頭から1つ1つのフレーズに意味があり、感情の陰影も極めて豊か。

第41番も、溌剌とした中にもデリカシーに欠けておらず、数多いこの2曲の録音の中でも注目すべきものとなっている。

もちろん、これら両曲には他に優れた演奏が数多く成し遂げられており、本演奏をベストの演奏と評価することはなかなかに困難であると言わざるを得ないが、一般的な意味における名演と評価するにはいささかも躊躇するものではない。

また、若者たちで構成されているヨーロッパ室内管弦楽団も、ショルティの確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮し、清新な名演奏を展開している点も高く評価したい。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であり、1984年のスタジオ録音とは思えないような鮮度を誇っているのも素晴らしい。

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classicalmusic at 22:34コメント(10)トラックバック(0)モーツァルト | ショルティ 

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コメント一覧

1. Posted by Kasshini   2015年02月02日 15:45
セルとショルティでは、どちらがアンサンブル・ビルダーとして優れていたか、率直な意見をお聞かせください。
ともに、ハンガリー出身のドイツ語を話すユダヤ系で、アメリカで首席のオケを世界最高峰のアンサンブルを築いたこと、どこのオケに対しても、アップタクトを臨み、誰よりもリズムを最重視した等共通項が浮かび上がります。
個人的には、アメリカの当時2流オケを鍛え上げ抜いて、今も受け継がれる、フルオケなのに、全員が室内楽のように揃うアンサンブルというのは、前例はなく、後代にもそうないことから、セルにあげたくなります。
2. Posted by 和田   2015年02月02日 20:10
難しいところですね。ショルティ&シカゴ響の実演は聴きましたが、セル&クリーヴランド管の実演には接してませんからね。
仰せの「今も受け継がれる、フルオケなのに、全員が室内楽のように揃うアンサンブル」というのは、セルがクリーヴランド管の常任に就任したとき、楽員の任免に関する絶対的独裁権と、入れ替えに必要な資力を契約書に書き入れ、1年足らずの間に団員の過半数をクビにし、「独奏者(ソリスト)のごとき」と称される鉄壁のアンサンブルを築いたという背景なしに語ることはできないと思います。
セルは生存中「最も嫌われていた指揮者」であったという噂もあって、同時代、音楽家に労働組合を作らせ、ナイフを突き刺した等身大の人形まで制作されて楽員から敬遠されていたライナーですら、セルに対する激しい憎悪からみれば物の数ではないということらしいです。
また、ライナーの後継者ショルティについては、「彼とは一瞬たりとも楽しく音楽したことがない」「どんな音楽を要求しているのか、ついに解らなかった」という評価すらありました。
しかしながらいかに楽員から嫌われようと、評論家は褒め、聴衆は喜び、レコードは売れました。音楽も所詮はビジネスと割り切り、歴史と伝統の欠如している国で、栄光の座を射止める早道はそれしかなかったのかもしれません。
オーケストラとの共同作業によって「味のある音楽」を造ろうと試みたバルビローリ、クーベリック、マルティノンなどは、アメリカでは苦渋に満ちた歳月を過ごした後、短期間で任地を追われました。
伝統なき多民族国家のアメリカには音楽的に肥沃な土壌は存在せず、指揮者は一から十まで自分の音楽を指示し、それを忠実に実行せしめる強烈な〈実務能力〉が要求されたのです。
話はそれましたが、セルやショルティの演奏を聴くとき、このことを頭の片隅に入れておくべきかもしれません。
3. Posted by Kasshini   2015年02月03日 12:56
率直な考え、ありがとうございました。
セルは、マーラー、トスカニーニ、ライナーらが試みた、ドラスティックな改革をしましたが、すべて全権委任という途中のプロセスは、ヒトラー総統誕生に似たところもありましたね。マルティノンなどの例も挙げましたが、サイモン・ラトルも、2度目のクリーヴランド演奏では失敗して、声がかからないことからシカゴ、クリーヴランドといえば、専制君主タイプがいいのだろうかと思ったりします。創刊会えると、シカゴ交響楽団がアッバード客演での成功、メストがクリーヴランドでは信頼されているのが驚きだったりします。セルのアンサンブルは、カラヤン、デュトワの理想だったり。アメリカのビッグ5が鉄壁のアンサンブルと、名人芸にならざるを得なかった背景は承知しています。
そう考えると、そうならざるを得ないのは一種悲劇かなとも思えますが、今でもセルのアンサンブルは模範であり、ショルティともども、アンサンブルビルダーの模範として生きていると思えてきます。さすがに、フレンドリーですが。
4. Posted by 和田   2015年02月03日 15:05
仰せの「すべて全権委任という途中のプロセスは、ヒトラー総統誕生に似たところもありましたね。」というのはその通りだと思います。
何故ハンガリー系指揮者にその道の成功者が多かったのか。
ここからは独断に満ちた仮説ですが、あの国が包蔵する文化的伝統と、民族の血の中に受け継がれている冷血非情な殺戮者兼征服者チンギス=ハン時代の蒙古民族の気質(今も欧州全土に残る黄禍論の源)の結合の成せる業ではないのかというのが私の解釈です。
職を求める雑多な亡命楽人達を、彼等は恐怖の鞭を以て統率し、音楽史の上に新種のアンサンブルと新種の音楽を創造しました。
20世紀とはそういう時代でした。
ですが、この人達の音楽を猊毀哭瓩噺世い燭ないのはKasshiniさんと同じで、アンサンブル極限の世界を実現させた彼等の精髄ここにありと心底唸らせずにはおかない遺産はわがCDラックの宝物です。
5. Posted by Kasshini   2015年02月03日 16:03
セルは、新即物主義の権化と言われますが、彼自身は、20世紀初頭の音楽バブル期のヴィーン音楽院で学んだ神童で、当時は、コルンゴルトと同じくモーツァルトの再来と呼ばれた一人だと記憶します。そのセルが、ヨーロピアンの薫りをクリーヴランドに与えたのは頷ける話ですし、シェーンベルクがヴィーン世紀末が生んだ異端児であるならば、セルもまたヴィーン世紀末が生んだ指揮界の異端児といえるかもしれませんね。出世のルートは典型的なカペル・マイスターでしたが。彼の録音で泣くのは、自宅のオーディオが、大型SP床直置きのため、容赦なく低音を削られたことでしょうか。耳はいいのに、オーディオに無知であったために。

ショルティはその空気をほとんど吸わずに、トスカニーニの影響を受けているので、ショルティの方が、即物主義の申し子に思えてきます。ドイツのオケのバランスを移植したのはセルと似ていますね。
6. Posted by 和田   2015年02月03日 16:25
ショルティがトスカニーニの生演奏に触れて勉強し、その即物主義の影響をモロに受けたのは事実ですが、セルは「自分はウィーンの音楽家である」と常に語っていたのは興味津々です。
それゆえセルは手兵にアメリカの技巧のみならず、ヨーロッパの伝統を注入することに余念がなかったのでしょう。
幸運なことに、セルやショルティの死はそのままクリーヴランド管、シカゴ響の黄金期の終わりとはなりませんでした。
とはいえ、セルやショルティの足跡を辿り、彼らの指揮で残された名盤などをみてくると、果たして彼らのように強い個性を発揮して、このアメリカの2大オーケストラに君臨して、この選団を自在に駆使するような偉大な指揮者が出てきたものなのかどうか、思わず考え込んでしまいます。
7. Posted by Kasshini   2015年03月09日 13:20
甲乙つけられないについて。
知恵袋からになってしまいますが、ショルティ時代のシカゴ交響楽団は、人類にあれ以上のアンサンブルはできないとの声があったことを先ほど知りました。そうした意見もセルの頃のクリーヴランドも踏まえての発言でしょうから。
セルもショルティも1-3にリズムという人ですが、アンサンブルで目指している方向性が違うのも、一概に順位づけできないところと思えてきました。
セルは、室内楽的精緻に終始。
一方、ショルティは音のダイナミクスに生かしてきたように思います。私自身ショルティの音源はマラ8のみですが、あれほど音量差の激しい音源もないように思えます。他でそう思えるのは、同規模のグレの歌といった路線しか思い浮かびません。アッチェレランド、リタルダンドといったテンポの緩急ではメトロノーム速度内でメリハリを誰よりもつけていたように思います。
8. Posted by 和田   2015年03月09日 19:50
「私を怖がらないで。かみつきはしないよ。私は肉食じゃないよ。肉は嫌いでね。音楽をやりたいだけだ」というのはショルティのシカゴ交響楽団のリハーサルでの発言です。
ショルティが厳しいトレーニングをオーケストラに課す指揮者だったことが窺い知れるセリフですが、そのとおり彼はイン・テンポを徹底させ、縦の線が揃わない(小節の頭にすべての楽器の音がきちんと揃わない)と気がすまない、彼を評する言葉に犒譴睥泙發覆き瓩箸い常套句がついてまわるような完全主義者でした。そう、牋貉緲陲譴民藾姚瓩海夙爐求めた音楽だったのです。
これはシカゴ交響楽団というアメリカのオーケストラだからこそ受け入れられたことです。
1969年、ショルティはこの名人オーケストラを得て初めて、真に自分のいいたいことをストレートに表現できるようになりました。
彼のアグレッシヴな音楽性は、アメリカ最高のオーケストラと最も相性が良く、叱咤激励をしなくとも団員が思いのままついて来ました。
これにはライナーの下地づくりがあったためとも言えるでしょうし、セルがクリーヴランド管弦楽団の全権(楽団の任免権からプログラム決定権まで)を掌握し、非力な楽団員を容赦なく切り捨て、徹底的にオーケストラを鍛え上げ、犲柴盂敕瓩班召気譴覺萎なバランスを誇るアンサンブルを造り上げたのと同様には語れないのだと思います。
9. Posted by Kasshini   2015年04月06日 14:03
最近、この流れで、ショルティにも興味がいき、ブル9を手に入れました。ミスターMr.Sほどではないにせよテンポの緩急が付いた演奏ですね。パワフルで力強く、良い環境で聴くと金管はキンつくよりも繊細なニュアンスに聴き入ります。この流れで、ブル8晩年ヴィーンフィル、モーツァルト後期3大交響曲ヴィーンフィルそれぞれライブ、魔笛には手を出そうと考えています。
ショルティも晩年こそ室内楽的緻密にも行きますが、誰よりもダイナミックレンジが広い、楽譜に書かれている範囲で、極限までつける姿勢は、表現主義に近接するともいえそうですし、生粋の劇場人だなと感じます。
セルは、ひたすら室内楽的緻密さにいくので、ともに比べようのないそれぞれ完璧なアンサンブルという結論に至りました。どちらも好きです。しかしそれでも、クリップスの厚みと歌、音色、対位法を立たせる緩いアンサンブルもこよなく愛する私はもう末期かもしれません。
10. Posted by 和田   2015年04月06日 15:31
それほどのめり込めるものがあれば、きっと幸福なことですよ。
ショルティ&シカゴ響のブルックナー全集を持ってますが、9番がことに名演です。
デジタル思考で、楽譜本位の忠実主義、徹底的にオケを鳴らしながらも、積極的な名演を成し遂げています。
造形性、遠近感ともに抜群。緻密で正確な読譜。曖昧なところなど一点もなく、すべてが自信に満ち溢れ、ピアノで奏される弦のピチカートにすら力感が充満しています。
ここまで完璧にオケを磨き上げれば、決して騒音になったりはしない、というお手本みたいな演奏です。
きっとブルックナーが聴いたら、随喜の涙を流すことでしょう。

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早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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