2015年06月14日
カヤヌスのシベリウス:交響曲第3番、第5番
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本盤には、フィンランドの歴史的な名指揮者ロベルト・カヤヌスのシベリウス録音が収められているが、カヤヌスこそは、シベリウス作品を全世界に広めたパイオニア的存在である。
いま改めて聴いてみると、いまさらのようにカヤヌスの偉大な芸術に感嘆させられてしまう。
カヤヌスはシベリウスより9歳年長であったが、シベリウスの親友であり、生涯を通じてシベリウスの作品の紹介につとめ、作曲もよくし、シベリウスがもっとも信頼する指揮者として活躍した。
しかもカヤヌスは、室内楽への創作に勤しむ若きシベリウスに管弦楽曲への作曲を奨励した人物でもある。
当時はヨーロッパの片田舎であったフィンランドから、シベリウスの作品が発信され、やがて国際的に知られることになったのは、ひとえにカヤヌスの功績である。
シベリウスは、1930年代、「誰を指揮者に推薦するか」という英コロムビアからの問い合わせに、即座に「カヤヌスを」と推薦している。
コロムビア社に異存のあるわけもなく、カヤヌスはシベリウスの7つある交響曲のうちの「第1」「第2」「第3」「第5」の4作品を、ロンドン交響楽団とともに録音している。
「第3」「第5」を録音した翌年の1933年にカヤヌスは亡くなっているので、もう少し長生きしていれば、ほかの曲も入れてくれていただろう、と思うと残念だ。
ここに集められた録音は、作曲者直伝とも考えられる、もっとも正統的な解釈の演奏であり、骨の太い演奏で、ただの歴史的な記録に終わらない、本物の演奏芸術である。
シベリウス在世中の空気を生々しく肌で感じた音楽であるとともに、同時代の精神を映した鏡である。
カヤヌスは、シベリウスの書いた何気ないフレーズや複層的な和音の積み重ねに命を吹き込む特別の才能を持っていたのだ。
現在のシベリウスの演奏は、すべてがカヤヌスの芸術の後裔といってよく、改めてシベリウスの音楽から多くを発見することになろう。
これらの演奏は、いずれも凄いほどの意欲と共感に貫かれている。
交響曲第3番は意気盛んというか冒頭から強靭な力感を秘めた表現であり、ここでもテンポとアーティキュレーションには一分の隙もなく、そのため曲が端麗に構築されている。
溌剌と躍動しながらも各主題と楽想の性格が、的確な劇性をもって示されており、そこから民族の情感が滲み出ているが、終楽章の最後のコラール風主題のテヌートのきいた表情、ひた押しに加速するテンポの様相も素晴らしく、確信にみちた高潮の軌跡が描かれている。
もちろんカヤヌスは交響曲第5番でも独自の音楽世界を開拓しており、その活力と生命力は鋭い動感にあらわされているが、第2楽章では朗々とした歌が湧き上がり、音楽の変転が内面のロマンの様相と完全に一致した感をあたえる。
すべてが計算されつくした緻密さをもちながら、そうと感じさせない流動感も見事なものである。
そして終楽章では、この作品独自の構成を鮮明にあらわし、音楽は終末の完成を目指して突進し、短い動機も旋律のように歌うが、そのアゴーギクがまた創意豊かである。
かくて最後に集約されるクライマックスは、意外にも淡泊だが、壮麗をきわめ、素晴らしい感動を呼び起こすのである。
これらの演奏を聴くと、シベリウスは何と理想的な指揮者を得たのだろうか、と思う。
いや、それよりも驚嘆するのは、カヤヌスという巨大な存在が、1930年代に、いま聴いても新鮮な音楽をつくっていたという、それこそ驚くべき事実である。
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