2015年06月09日
フルトヴェングラー&ウィーン・フィルのシューマン:交響曲第1番「春」、他(1951年ライヴ)
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フルトヴェングラーが録音したシューマンの交響曲は2曲だけであり、この「第1」はハイドンの「V字」やベートーヴェンの「コリオラン」序曲とともにミュンヘンのドイツ博物館ホールで行われた演奏会の実況である。
シューマンの「第1」にはクレンペラーの素晴らしいCDがあり、初めの2つの楽章はさすがのフルトヴェングラーといえども一籌を輸するが、スケルツォ以後は両雄相譲らぬ名演と言えるところであり、しかも演奏スタイルはまったく違うのである。
第1楽章の序奏部からして、フルトヴェングラーの表現は雰囲気満点だ。
ことに主部に向かって盛り上がってゆく時の猛烈な気迫は天下一品といえようし、展開部終わりのクライマックス設定も物凄いの一語に尽きるが、楽章全体として考えると、フルトヴェングラーの気持ちは、まだ充分に燃えきっていない。
したがって、コーダの収め具合など、彼の実演としては堪能しきれないものがあり、この結尾部の途中に現れる〈名残の感情〉もクレンペラーのほうがずっと美しいし、リズムの抉りや金管、木管のクリアーな表出においても、かなり緻密さを欠くようだ。
第2楽章のラルゲットは良いテンポで、弦のレガート奏法がきわめて情緒的であり、中間部の頂点における凄絶なリズムや推進力も見事であるが、前楽章同様、やや彫りの浅い部分があって、フルトヴェングラーとしては多少の物足りなさを感じさせる。
ところが、スケルツォに入るや、演奏旅行中のオーケストラと指揮者は、俄然ぴったりとした意気の投合を見せ始め、ミュンヘンの聴衆を興奮のるつぼに巻き込んでゆく。
この迫力は普通の音力ではなく、人間の発揮し得る、ぎりぎりの精神が生んだものだ。
スタッカートの音型が低弦から起こって、ヴィオラやファイオリン・パートへと進む第2トリオの、驚くべきクレッシェンドはどうだろう。
この部分の神技を聴くだけでも価値のあるCDといえないだろうか。
その後の委細構わぬ進行も痛烈で、フルトヴェングラーが先かウィーン・フィルが先か、ともかく両者の気概はこの瞬間、まったく1つになって、スコアの上を吹きすさぶのである。
第1トリオの豊かな雰囲気も最高で、途中に出現するフェルマータの後、チェロとコントラバスの弱音を思い切ったフォルテで響かせるなど、ことによったら舞台の上のインスピレーションによって行われた即興ではあるまいか。
そして最後の第4楽章ではますます脂がのってくる。
短い序奏を区切る休符をうんと長く取って、次の第1主題のアウフ・タクトをこの上なくゆっくりと始める。
考えようによっては、思わせぶりたっぷりな仕掛け芝居といえよう。
フルトヴェングラーはしばしば意識して芝居をし、聴衆もそれを喜び、かつ期待していたのだと思うが、実演だからこそ許されるというべきか。
したがって、CDを聴くわれわれも、フルトヴェングラーの呪縛の中に自らのめり込んでゆかなければならない。
提示部を反復する際の一番カッコにおける、音楽が停止してしまうようなリタルダンドは、いっそう鮮やかな大芝居であろう。
ピチカートを合の手として、2本ずつのオーボエとファゴットがスタッカートで上昇下降する第2主題は、たいていの指揮者がテンポを速めるが(クレンペラーのような、イン・テンポ主義者でさえも)、フルトヴェングラーは同じ速度で進める。
彼の流動の多い表現からして、ここで第2主題を速めることは造型の破壊につながるからだ。
それにしても、この楽章のフルトヴェングラーは自由自在であり、ネコがネズミをもてあそうぶように、シューマンが完全に彼の自家薬籠中のものと化して、音楽が大揺れに揺らされる。
しかし、地にしっかりと足がついているので、いくらやっても決して嫌味ではなく、むしろ面白い。
そして、ついにコーダの、最高のクライマックス・シーンが現出する。
デモーニッシュな金管の最強奏、アッチェレランドによる嵐の気迫はこの世のものとも思えず、手に汗握るうちに、やがてフルトヴェングラー独特の、大きく息をつく間を伴った和音によって、さしもの演奏も終わりを告げるのである。
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