2015年07月07日
ショルティ&シカゴ響のベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」、「エグモント」序曲、序曲「コリオラン」(旧盤)
この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。
本盤にはショルティがシカゴ交響楽団の音楽監督に就任して初めて録音した、ベートーヴェンの交響曲全集の中でも傑作に数えられる《英雄》他が収められている。
ショルティのこの《英雄》を聴くと、既にシカゴ交響楽団がショルティの意志のままに音を出す楽器になった、という感じを強く受けた。
この録音時において、ショルティはシカゴ交響楽団の音楽監督に就任して、10年もたってない筈である。
しかし、ショルティは、このオーケストラの音質を、おそらく自分の思う通りのものに仕上げたと感じていたに違いない。
ヨーロッパで活躍を続けてきたショルティにとっては、オーケストラの響きというものは、やはりヨーロッパ的なものであってほしいということになろう。
ここでのシカゴ交響楽団の響きは、いわばアメリカ的な響きとされるニューヨーク・フィルハーモニックや、フィラデルフィア管弦楽団のものとは違ってきていて、もっとヨーロッパ的なものに傾斜した、深みのあるものになっている。
こうした音質の点について、ショルティは、音楽監督就任以来意図していたことを、見事に果たしたというべきだろう。
シカゴ交響楽団が、ショルティの意のままの楽器になっているということは、単にこのような音質だけのことによるのではない。
つまり、ショルティの要求したものを一糸乱れずに音として表現しているばかりでなく、ショルティの楽器のように各声部の強弱のバランスが自在になっているのである。
しかし、ショルティが、いわば抑えつけて、無理強いにそのようにしているのではなく、楽員に自発性をもたせ、演奏する楽しみを与えていることも事実である。
その証拠に、ここでの演奏には、楽員の気張ったところや固くなったところがない。
このショルティの《英雄》は、そうしたヨーロッパ風のオーケストラの響きをもっていながら、ヨーロッパのある特定の指揮者のものを模範としているわけではない。
これはまさにショルティ独特の解釈の《英雄》である。
ただし、独特だからといって、《英雄》の伝統から離れたものではないし、ショルティが無謀勝手なことをしているわけでもない。
どういう点で独特かというと、もったいぶったところをおかず、爽快なテンポで明快に音楽を進め、率直な表現をしていることにその大きな特色がある。
たとえばセルよりも、スフォルツァンドやスタッカートを強調しておらず、そうしたことは、ほどほどに行われている(たとえば、第1楽章や第3楽章でそのようなことがはっきりと認められるだろう)。
そして、このような柔軟性も併せ持っていることで、音楽は、固く角ばったものにはならない。
ショルティの《英雄》は、決して大袈裟な演奏になっておらず、スケールの大きさは失われていないのだが、必要以上の大きな身振りをみせないのである。
力性の変化にしても、フォルティッシモにしてもそうで、また旋律に過度の表情もつけていないが、神経の行き届いた陰影に満ちていることは驚くほどである。
このために、この《英雄》は、あっさりと、あるいはぼんやりと聴いてしまうと、意外に淡々とした演奏と受けとられてしまいがちであるが、よく聴き込んでみると、高い質の演奏になっていることが知られよう。
ここに、指揮者としていろいろな体験を重ねてきた人のひとつの姿があるのである。
若い指揮者には、到底このような演奏は望めないだろう。
ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング
フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。