2016年05月10日
F=ディースカウ&バレンボイムのシューベルト:歌曲集「冬の旅」
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《美しき水車小屋の娘》などを聴くと、確かにシューベルトはウィーンの抒情作家だが、《冬の旅》は異なり、いっそう詩の内容が重視されており、その内容が暗いために音楽も深くなっている。
失恋した若者が終わりのないさすらいの旅に出る、という筋立てには何の救いもなく、死の深淵を見つめる晩年の作曲家の絶望や寂寥や、わずかに横切る希望の光があるだけだ。
《水車小屋》が青春の一齣なのに対し、《冬の旅》は全人生に匹敵し、作曲当時、シューベルトの肉体はすでにボロボロで、精神の根っこまで蝕まれて、わずか31年の生涯に過ぎなかったのだ。
《冬の旅》には名盤が多いが、それはとりもなおさず、この曲集の芸術的魅力の大きさを物語っており、多くの歌手がこの絶望のドラマに魅了されてきたのだ。
CDは第一にフィッシャー=ディースカウを採りたいが、とはいっても彼にとってこの曲のレコーディングはライフワークの1つといってもよく、なんと7回もスタジオ録音している。
古今東西、名歌手数多しといえども、ドイツ・リートを歌って、F=ディースカウ以上にうまい人を筆者は知らない。
美声のハイ・バリトンで柔軟な技巧も卓越、いかなる表情も自由自在で、感情の豊かさ、知的なアプローチ、発音の明晰さ、美しさ、どれをとってもベストだ。
初めは名伴奏者として知られたジェラルド・ムーアと組んでいたが、次第に有名な独奏ピアニストの伴奏で歌うようになり、デムス、バレンボイム、ブレンデル、ペライアなどが総動員された。
それらはただ単に繰り返しではなく、それぞれにカラーが違い、掘り下げ方とピアノとのかけ合いもそれぞれに違うが、この歌曲集の内奥に最も深く分け入り、持ち前の完璧な技巧と表現で歌いつくしているのは、この第5回目のバレンボイムとの録音である。
後年の録音のように技巧に走ることもなく、また初期の歌唱のように美声に頼り切ることもなく、きわめて知と情のバランスのとれた、絶妙のシューベルトになっている。
ここではバレンボイムの個性溢れるピアノが、歌い手が望んだとおり、歌唱に大きな刺激を与えているようで、ピアノと歌は互いに相手を信頼し、互いに感情をぶつけ合いながら、この暗いドラマにスケールの大きな起伏を作り出している。
また、対等でありながら深く掘り下げていくという点でも、イマジネーション溢れるバレンボイムとのものが一番面白く、F=ディースカウもいつもの文学的偏向を避けてシューベルトの旋律をなめらかに歌っている。
様式感の崩れもなく、語りだけでなくメロディックな要素も雄弁に語り、この盤で、曲の世界がさらに深まった感じがする。
技巧的に聴こえることがあるF=ディースカウだが、ここでは感情の流れがきわめて自然で、声のみずみずしさも保たれている。
恋人に裏切られ真夜中に町を去っていく若者の憤怒が、旅を最後まで持続させるバネになっているが、そこには若者らしい矜持の念も欠けず、怒りを理性で制御しようとする賢明さもうかがえ、その絶妙なバランスに、この演奏の特色がある。
しかも、その歌は厳しく劇的であるとともに、1曲1曲を明快にしなやかなスケールで歌い分け、全曲を大きな流れと起伏をもって構成している。
特に、次第に悲嘆の感情を強めていった23曲の歌が最後に虚無的ともいえる深い絶望に行き着き、無限の彼方へ消えてゆくような〈ライアー回し〉は、聴き手に恐ろしいほどの感動を呼び起こさずにはいないだろう。
そうしたF=ディースカウの歌唱を可能にしたバレンボイムのピアノも万全、まことに素晴らしく、歌唱とピアノが密着した絶妙のアンサンブルは、数あるドイツ・リートの模範のような出来を示している。
バレンボイムのピアノはそれまでのリートの伴奏という域を大きく踏み出し、歌と同等の発言権を得て比類ない世界を構築している。
さまざまな音色、自在なルバートを駆使した伴奏は見事というほかなく、それはときにオペラ風に傾くが、リートにふさわしい美感を損なうことのない、素晴らしい共演の記録だ。
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