2016年10月10日
フルトヴェングラーのモーツァルト&ハイドン[SACD]
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プラガ・ディジタルスからのハイブリッドSACDシリーズの1枚で、フルトヴェングラーの演奏集としては既に7枚目のリリースになる。
早期のウィーン楽派と題されていて、ウィーンに本拠地を置いて音楽活動を続けたハイドンとモーツァルトの作品4曲を収録している。
1948年から53年にかけて彼がウィーン・フィル及びベルリン・フィルを振ったもので、総てがモノラル音源だがリマスタリングによる音質の改善という点では、音場が拡がり音色が艶やかでそれぞれのホールの潤沢な残響も煩わしくない程度に再現され、かなり満足のいく仕上がりになっている。
フルトヴェングラーは古典派であろうがロマン派であろうが、その音楽に内包された表現の劇的な部分を実にスケール豊かな演奏に置き換えてしまう。
1曲目の『フィガロの結婚』序曲は一陣の風が吹き抜けるような短い幕開けの音楽だが、フルトヴェングラーはコーダの手前からアッチェレランドして、猛烈な拍車をかけて追い込むように曲を締めくくっている。
イン・テンポを崩さない現在の解釈とは異なった意外性がかえってこのオペラの性急で革新的な本質を暗示していると言えるだろう。
モーツァルトの第40番ト短調はフルトヴェングラーのロマンティシズムが良くマッチしていて、古典派を通り越した迸るような疾走感と不安を掻き立てるような陰鬱さに彼のカリスマ性が発揮されている。
モーツァルトと言えば、ワルターの名がまず思い浮かべられるに違いないし、同曲についても、彼の演奏を1つの理想や規範とする人々がかなり多いに違いない。
しかし、この作品については、ある意味それとは対極的な存在をなすフルトヴェングラーの演奏を忘れることはできないし、1度それに触れると、その体験が心の底に焼きつけられる可能性さえある。
それは、抑えがたいような悲劇的情感がもたらす緊迫感に溢れたもので、時に鬼気迫るものさえ感じさせるが、クラリネットが加わらない第1版の本質は、こうしたところにもあるのかもしれない。
テンポも、単なる速さということよりも、精神的な緊張にすべての音が動かされた結果と言えるところであり、曲の劇的な側面とフルトヴェングラーの波乱の人生経験とがまさに合体したような演奏と言うべきかもしれない。
モーツァルトの音楽の深さ、情感の豊かさ、デモーニッシュな激しさ、あらゆる次元での音楽表現の可能性の広さと言ったものを、このフルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルの演奏から感じ取ることができる。
この曲にここまでの悲劇性があったのかと思わせる演奏内容であり、いつの時代にも聴き手の心に強く深くアピールする演奏となっている。
それに続く2曲のハイドンでも均整のとれた整然とした古典派の形式感というよりは、むしろドラマティックな情熱が滾った生気に溢れた表現が印象的で、モチーフの有機的な処理も鮮やかだ。
そこにはモーツァルトやベートーヴェンの先駆者としてのウィーン楽派の威厳を感じさせるものがある。
作品を大きく見せるのはもちろん、演奏を通して作曲家の存在および意志をはっきり実感させてくれるのがフルトヴェングラーだと筆者は思っている1人だが、彼の手に掛かるとハイドンの交響曲も内面的な感動が極めて大きく厚みのあるものになる。
数あるハイドンの交響曲のうち、第88番《V字》に惹かれる人は、かなりのハイドン好きに違いなく、誰もが注目するほど広く知られているわけではないが、優れた演奏で聴いたら、きっと忘れられなくなるだろうし、ウィーン楽派の神髄に触れさせてくれる、そんな作品の1つである。
フルトヴェングラーの指揮で聴くと、ハイドンの世界が一層大きく、一層深く感じられるから不思議である。
聴きようによっては、ハイドンのベートーヴェン化、といった思いがしなくもないが、それだけ奥行きが深い指揮者だったのだろう。
4つの楽章の音楽的性格の的確な描き分け、強い求心力を感じさせる造型性は他に類がない。
第94番《驚愕》も、少しもこせついたところがない悠然たるテンポで、スケール大きく歌い進んでゆく。
ここに流れているのは、音楽としての自然な呼吸、そして作品に対する深い共感で、演奏全体に漂う大人の風格は、この指揮者ならではのものだ。
ここでフルトヴェングラーは彼らしくないほどに古典的な端正さで演奏しており、大きな身振りもないが、それでいて音楽の作りは大きく、古典派交響曲としての佇まいを緻密かつ美しく示して余すところがない。
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