2016年11月23日
アラウ&ハイティンクのブラームス:ピアノ協奏曲第1番、第2番、他
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クラウディオ・アラウはピアノという楽器が持っている機能や特性を知り尽くしていた。
曖昧なタッチや衝撃的な打鍵は注意深く避け楽器を完全に響かせる術を熟知していて、ひたすら明確な響きによるダイナミズムで音楽性を表現する奏法は彼の哲学だったと言っても良いだろう。
2曲ともにかなり難解なテクニックが要求され、アラウ自身もまた稀代のヴィルトゥオーゾとしてリストの作品の演奏でも名を馳せたが、むしろ超絶技巧に聴き手の注意が逸らされることを回避できた数少ないピアニストだったのではないだろうか。
逆に言えばそれだけの確固とした解釈の裏付けと表現力に支えられた、まさに巨匠と呼ぶに相応しい演奏家だった。
ブラームスはアラウのロマン派レパートリーの中でも中核となる作曲家の1人であったが、ブラームス特有の書法と重厚な響きを、アラウは雄大なスケールと微細を極めた表現で美しく歌い上げている。
アラウのピアノにはあざとさやスリリングな要素がない代わりに、常に正面切った雄弁な語り口と正々堂々たる構成力で聴かせる本来の意味でのロマンティシズムが横溢し、ブラームスらしい味わいをじっくりと追究した演奏になっている。
どっしりとしたリズム、ゆったりとしたテンポにアラウの主張がはっきり示されており、ブラームスの重厚な味わいが雄渾に再現されている。
ルバートを多用し、スコアに書かれたすべての音を生かそうとするかのようで、腰の強いタッチや心からの歌も大変美しく、内にこもってしまう作曲者の性格が他の誰よりも表出されており、おそらくブラームスが一番喜ぶ演奏ではないか。
衝撃的な音質を一切避けた潤いに満ちたおおらかで悠然と奏でる音楽のスケールは大きく、良い意味での古き良き時代を髣髴とさせるロマンティックな演奏だが、それは時代を超えた魅力に溢れている。
ただし外面的な演奏効果より内面の秩序を重んじているため、演奏全体の印象は地味で、音色自体の魅力に欠けるため、アラウの求めるコクがいまひとつ表に出て来ず、地味すぎる音楽になってしまった。
それに時として、テンポの動きやハーモニーの生かし方に硬さが伴うのが残念ではあるが、独特の充足感を誇っている。
ハイティンクの指揮もコンセルトヘボウ管弦楽団の渋い音色と厚みを生かしつつ、ブラームスを内面から表現しており、アラウにぴったりの共演ぶりだ。
2曲ともオーケストラ・パートが非常に充実したシンフォニックな書法で作曲されているために、ここでは、ハイティンク&コンセルトヘボウ管弦楽団の強力なサポートが、アラウのソロを引き立てながらも鮮烈なオーケストレーションを主張していて、ロマン派を代表するピアノ協奏曲としての華麗さと風格を備えている。
コンセルトヘボウ管弦楽団はヨーロッパでは最高水準を誇るオーケストラだけに、彼らの品の良い知性的な機動力が充分に発揮されている。
確かに張り詰めた緊張感ではクーベリック&バイエルン放送交響楽団との第1番が優っているが、ハイティンクはブラームスのリリシズムを活かし、一方で弦楽部とブラス・セクションのバランスを巧みに采配してオーケストラに独自の精彩を与え、輝かしくスペクタクルな効果を引き出している。
第2番冒頭のホルンの導入にも聴かれるように鷹揚なテンポ設定の中にも弛緩のない精神的な高揚を伴った演奏が、音楽に身を委ねることへの幸福感をもたらしてくれる。
いずれにしても、本演奏は、アラウ、ハイティンクともに、後年の演奏のようにその芸術性が完熟しているとは言い難いが、後年の円熟の至芸を彷彿とさせるような演奏は十分に行っている。
この両者が、例えば1980年代の前半に両曲を再録音すれば、更に素晴らしい名演に仕上がったのではないかとも考えられるが、それは残念ながら叶えられることはなかったのはいささか残念とも言える。
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