2016年12月31日
フリッチャイ&ベルリン放送響(旧RIAS)のチャイコフスキー:交響曲第6番『悲愴』
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1996年4月、本CDが初出されたときには少なからぬ衝撃を受けた。
こんな凄い名演が指揮者の許可を得られないまま、37年間もオクラになっていたというのだから…。
フェレンツ・フリッチャイは、第2次世界大戦後の混迷したヨーロッパ楽界に彗星のように登場し、モノラル録音の時代からステレオの初期に活動し、数多くのレパートリーを次々と録音してきた。
フリッチャイは1953年にベルリン・フィルと第1回目の『悲愴』をセッション録音していて、そちらでは彼のストレートな解釈と覇気が否応なく伝わってくるが、臨場感にやや乏しいモノラル録音なのが惜しまれる。
一方この演奏はその6年後に手兵ベルリン放送交響楽団(旧RIAS)を振った、極めて良好なステレオ録音で、スコアのテクスチュアを明確に描く手法とアンサンブルの手堅さ、見せ掛けの迫力や感傷性を嫌った真摯な音楽作りは変わっていないが、オーケストラのダイナミズムの多様さや柔軟なテンポの変化によって更に深みが増している。
このセッションは彼が白血病による闘病生活の後、一時的な小康状態を得て演奏活動を再開した頃のもので、病を境にその芸術が一変し、中でもこの『悲愴』は2度目の手術後の再起第1作として、またドイツ・グラモフォン初の『悲愴』ステレオ録音(ムラヴィンスキー盤より前)として意義深いものだ。
2年後には再び活動の中断を余儀なくされ1963年に49歳の若さで早世したが、晩年まで彼の演奏には病的な脆弱さは微塵もなく、バイタリティー溢れる指揮ぶりはこの『悲愴』でも決して衰えをみせていない。
最近はこんな演奏は皆無であるが、とにかく『悲愴』という音楽が最も雄弁に、劇的に、抒情的に、内容的に、かつ音楽的、芸術的に語りかけてくるのだ。
全体的に清澄な雰囲気があり、第1楽章の主部がフォルテで出るところから、フリッチャイの指揮は共感に溢れ、展開部のクライマックスでも濁りのないくっきりとしたオーケストラの総奏が印象的だ。
第2楽章の変拍子のワルツでは鮮やかな回想をイメージさせるし、最初のチェロから他の演奏とは別次元にある。
第3楽章の狂想を叫ぶようなマーチにもすべての音に意味があり、コーダの加速はフルトヴェングラーを彷彿とさせる。
一変する終楽章の雄弁な沈潜、銅鑼の音が響き、弦は全員夢中になっての体当たりで、ブラスのコラールからコーダまでは臓腑を抉るような寂寥感を残している。
この曲だけを聴いていてもフリッチャイが枯渇することのない溢れんばかりのアイデアを着々と実現していたことが理解できるし、その余りにも早過ぎた死が悔やまれてならない。
フリッチャイが1音1音を慈しみ、万感を胸に抱き演奏されたこの『悲愴』は彼の時代を明確に刻む記念碑と言えるところであり、当時のベルリン放送交響楽団の巧さも特筆される。
フリッチャイは改名以前のRIAS交響楽団の初代首席指揮者であり、彼によって鍛えられた精緻なアンサンブルや揺るぎない機動力はこの頃ほぼ全盛期に達していたと言えるだろう。
尚1993年に彼らは2度目の改称でベルリン・ドイツ交響楽団として現在まで演奏活動を続けている。
ベルリンには10団体を下らないオーケストラがひしめいていて、ヨーロッパではロンドンに優るとも劣らないオーケストラ王国だが、この1959年の『悲愴』はベルリン放送交響楽団の最も輝かしかった時代の記録としての高い価値を持っている。
当ディスクはSHM−CDで、その他にSACD及びマニアックなファンのためのLP盤の3種類のバージョンがリリースされているが、勿論フリッチャイ・グラモフォン・コンプリート・レコーディング集の第1巻にもレギュラー・フォーマットで収録されている。
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