2022年03月15日
エネスコの幅広い活動で音楽に捧げ尽くしたその人生こそ、オルガニストであり、楽師長も務め、カントールに就いたバッハと、普遍的な活動において完璧な一致をみてとれる
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バッハの最高傑作と言えば、やはりその劇的で雄大なスケールから「マタイ受難曲」や「ヨハネ受難曲」を掲げるかも知れない。
また謎の多さが、イマジネーションを掻き立てるという意味から、「フーガの技法」こそ至上であると主張する人もいるだろう。
筆者もかつては、そのような1人だったかも知れないが、最近、エネスコ指揮による本盤を聴くに及んで、そんな主張は吹っ飛んだ。
本来演奏こそが、作品への評価を決定するのだという思いを改めて強くしたからである。
全4部から構成された長大なこのミサ曲が全曲通して演奏される必然性を意識したことなど、それまで決してなかった。
むしろ「クリスマス・オラトリオ」のように、ミサに応じて各部が演奏される、言わばミサ曲を集成した作品として、これまで聴いてきたように思う。
だが、エネスコの演奏は、作品各部の完成度の高さと、各部が築き上げる全体の普遍性によって、あたかも、ファン・アイクによるあのゲントの祭壇画を仰ぎ見るような作品の多様性と全体の統一、そして何よりも絶対的な偉大さをもって聴かせているようにも思う。
さて、その秘密とは一体どこにあるのか、まず第1は、そのテンポではないだろうか。
エネスコ自身、最晩年のフランス・デッカに録音した一連のバッハのピアノ協奏曲集のライナー・ノートで、テンポについての秘密を解き明かしている。
「できうる限り、不動のテンポを維持すること、和音の継起に付き従えるように急ぎ過ぎないこと、そして、曲の進行に応じて、曲と曲の間に常に確固たる均衡をできる限り維持することが肝要であろう」というのである。
そして第2の点、それは「バッハの旋律を演奏する場合、できるだけ明晰で論理的な表現法を探すこと、つまり旋律が対位法にあてはまる複雑な箇所を参照すること、そうすれば、対位法が道を開いてくれる」(エネスコ『回想録』 白水社刊)とエネスコ自身述べている。
そこには17歳の誕生日に、ルーマニア王妃カルメン・シルヴァから「バッハ全集」をプレゼントされ、「私は休暇を利用して没頭しました。それでもなおわずか150曲のカンタータしか読み終わることができませんでした」と、あまりにも控えめな回顧をしてエネスコが、独学の末にたどり着いたバッハの演奏法こそ、確固たるバックボーンとして存在したのである。
エネスコは、自身天職と考えた作曲家と、生活の自立のためのヴァイオリニストとの二重生活を送ったが、音楽の神の求めのためなら、指揮台にも上がり、ピアニストとしても活躍している。
幅広い活動で音楽に捧げ尽くしたその人生こそ、オルガニストであり、楽師長も務め、カントールに就いたバッハと、普遍的な活動において完璧な一致をみてとれないだろうか。
エネスコこそ20世紀最高のヴァイオリニストであることに、今日異議を唱える者はあるまい。
「ベネディクトス」のアリアでのヴァイオリン・ソロに、エネスコのヴァイオリンを聴くのは筆者だけだろうか。
「ミサ曲ロ短調」は、今日バッハの最後の作品であることが確認されている。
「かくしてバッハはひとつの終焉であり、バッハからは何も生ずることがなく、すべてがひとりバッハへと導かれていくのだった」と述べたのはシュヴァイツァーだったが、この曲こそ、すべてが導かれていくその終焉にあたる作品であり、演奏によって合点がいくのは、エネスコの演奏をおいて他にはない。
今後もこのような演奏が生まれることは決してないだろう。
古楽器によるバッハ以外バッハではなく、音楽史の成果のみ最優先では、音楽家がじっくりと作品に取り組むことなどできようはずもない。
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