2017年04月19日

近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本 阿部謹也著


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性愛の価値観、差別の形成というヨーロッパ社会の基底に関わる諸事象を日本社会との比較史的考察を通じて明快に解明した、西洋中世史の第一人者として、言論人として、 数々の名著を世に送りながら惜しくも急逝した、碩学の遺著。

かつて日本と同様な「世間」が存在していたヨーロッパが、なぜ個人を重視する社会へと転換したのか、個人の誕生の背景には何が存在していたか、従来の歴史学が語らなかった生活の風景に踏み込み、日本人の生き方を問い続けた著者による総決算。

阿部氏の「世間」という一種の社会的空間の観念を明確に捉えるために著者の文章を直接引用してみたい。

例えば第2章「日本の世間」の中で、「世間」は広い意味で日本の公共性の役割を果たしてきたが、西欧のように市民を主体とする公共性ではなく、人格でもなく、それぞれの持っている個人の集合体としての全体を維持するためのものであると述べている。

そして日本には個人が敬意をもって遇される場所がない、個人がいないとさえ書いている。

その意味は敬意が表されるのは個人ではなく、その人が所属している立場に向けられるということだろう。

現在でも公共性とは官を意味することが多く、「世間」は市民の公共性にはなっていないということだ。

阿部氏は別の著書で旧帝国大学について言及していた。

つまりヨーロッパの大学は市民からの要求で生まれたが、日本では国のために尽くす役人を育てるために国家が創ったのが大学であり、自ずと個人が自由に研究する施設ではない。

己を虚しゅうするとは荘子の言葉だったと思うが、それは古来日本人の美徳として定着して古い時代の「世間」では大いに功を奏していたが、明治以来の急速な近代化が進んだ後にも、こと人間関係に関しては官庁や会社の中で旧態依然とした「世間」が幅を利かせ、その美徳を逆に利用し続けているのが現代の「世間」ではないだろうか。

そしてまさに近代化と相容れない「世間」の相克を取り上げたのが阿部氏の問題提起だと考えられる。

現在話題になっている元官僚の大学への天下り事件についても既に阿部氏は自己の体験を通して、その明快なメカニズムを証している。

彼が国立大学を離れた後勤務したある私立大学では文部科学省の複数の次官経験者が理事になっていて、彼らは大学の放漫経営が発覚しても意に介せず、教育の実態よりも天下りのポストを確保することに腐心していたという。

「世間」の一員として後輩のポストを確保するのも個人の欠乏に他ならない。

更に著者は日本で民主主義を実現しようとすれば、少なくとも個人の「世間」からの自立が不可欠だが欧米流の民主主義にこだわる必要はないとも断言している。

それによって彼の専門分野である中世にキー・ポイントを置く西欧社会の礼賛でもなければ、日本の伝統的文化との優劣の問題でないことも明らかにしている。

この考察の中では「世間」という概念をイメージするためにさまざまな現象が引き合いに出されている。

そのひとつが賤民の差別化の経緯であり、また互酬関係の推移だが、日本と欧米の「世間」を決定的に分けた要因にキリスト教の圧倒的な影響力を見て取っている。

いずれにしてもある程度の難解さが常に付き纏っているので、本書をより良く理解するためには阿部氏の他の作品も併読することをお薦めしたい。

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