2019年12月30日
あらゆる表現の文化史のなかでも特筆すべき演奏、F=ディースカウの真に歌曲的なアプローチによる『子供の不思議な角笛』
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かつてフィッシャー=ディースカウのリサイタルの放送を見たことがあって、既に老年に入り、かつての輝かしさは失っていたかも知れないが、歌詞の表情付けには類を見ないものがあった。
驚いたのは、彼の顔の表情で、歌が悲しい表情を見せる時には沈鬱な趣になり、遥かな憧れを表わす段になると、にわかに憧れに満ちた表情になる。
決して劇的なのではなく、人間の内面の奥底にある言い表わし難い感情の変遷が、そのまま自然に外に滲み出してくるという風なのだ。
彼のその表情は、めったに人間のこんな顔を見られるものではないな、と感じ、忘れられないものとなった。
そして、単に優れた音楽家としてではなく、一個の芸術家として、彼は物凄い境地に達しているのだな、と思ったのだった。
そのフィッシャー=ディースカウが晩年(1990年)、バレンボイム/ベルリン・フィルと組んでマーラーの『子供の不思議な角笛』を歌ったディスクがあるが、あの放送を見た時の印象がまざまざと思い出される。
これは凄い演奏で、他の一般の演奏とはだいぶ異なった印象を受けるにもかかわらず、この演奏を1度聴いてしまった後では、まさにこういう風でしかありえない、と確信させる、そういう演奏なのだ。
フィッシャー=ディースカウは、まず全曲をひとりで歌っており、これは歌曲としての一貫性という面から考えられていると思われる。
ディースカウの歌のアプローチも、オーケストラも、歌曲的なのだが、そのことが、曲の表現性を減じているわけではなく、事態は全く逆なのだ。
ここでのディースカウの歌唱を一体どんな風に表現したらいいのだろう。
彼の歌は、テクニックやスタイルとして、むろん完璧なのだが、クラシックの表現スタイルを遥かに越えて、人類が持つ「うた」の普遍的な感動のほうに近づいているみたいなのだ。
そこには「民謡」の節回しの素朴さがあり、「語り」の要素があり、「詩の朗唱」の要素があり、そして表情の無類の変化と繊細さがある。
既に述べたように、彼の表わす悲しみや憧れは、物理的な条件を昇華してしまい、人間の繊細な感情の変化そのものと化してしまう。
このことが、マーラーのエッセンスが全てぶちこまれたようなこの歌曲集の、マーラーの悲しみ、憧れ、素朴な喜び、皮肉、人間存在への激しい慟哭や冷笑、運命への屈従と犯行、それらあらゆる全ての要素が恐るべき同化力をもって表現されることと繋がっているのだ。
この曲は、ベルクに影響を与えているように、表現主義的、大衆的なシアターピース、まるで大道芸人が1幕1幕弁じ立てるような要素も持っているが、そうした要素を最も強く感じさせるのもディースカウの歌だ。
バレンボイムの指揮は、彼自身のピアノによる伴奏者としてディースカウと度々共演してきたこともあって、歌曲的なアプローチをごく自然に行なっている。
そして尚且つ、この研ぎ澄まされたオーケストラの表現力は物凄く、これ以後のバレンボイムのマーラー録音を期待させるに足る演奏だった。
とにかくこのディスクは、マーラー演奏史のうえでも、あらゆる表現の文化史のなかでも、特筆すべきものである。
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