2019年08月17日
大器晩成アラウ、デイヴィス&シュターツカペレ・ドレスデンと組んだベートーヴェン:ピアノ協奏曲全集
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クラウディオ・アラウは、本当に死の直前まで録音を続けたピアニストであるが、彼の最晩年の録音のひとつであるこのベートーヴェンのピアノ協奏曲全集は、その中でも特に際立った出来を示す名演と考えてよいだろう。
旧盤は玄人好みの渋いものだったが、アラウ/デイヴィス/シュターツカペレ・ドレスデンの組み合わせはスケールの大きい、それでいてのびやかな演奏を引き出している。
アラウは大器晩成型で、まさに円熟の境地としか形容のしようがなく、その花が絢爛と咲き誇ったのだ。
80代半ばに達していたアラウの芸術の集大成であり、ここに彼のすべてがあると言ってよく、聴き手を意識することなく、彼自身の音楽を奏でながら、それがベートーヴェンの本質とぴったり合致した演奏になっている。
肩の力の抜けた堂々とした幅広い表現のピアノ・ソロはすべてを越えたところで音楽が鳴っているといった趣がある。
アラウ最晩年の演奏だが、彼が真に円熟した芸術家であったことを実感させるし、デイヴィスの暖かいサポートも豊かな雰囲気を生み出している。
晩年のアラウとデイヴィスは互いに尊敬しあい、いたわりあっていたが、二人の共演には、アンサンブルの基礎となる深い信頼感が横たわっている。
ここに聴くアラウの演奏は、タッチの衰えなどを感じさせることも否めない反面、この巨匠が生涯の最後に到達した澄み切った至高の境地を如実に反映させている。
枯淡の美と童心に返ったような無垢で無邪気な感情の不思議な融合は、この演奏に最も純化された精神の様相の一つを見出すことを可能たらしめている。
肉体の老化という生命体の逃れられない宿命は、結果的にアラウの精神を比類なき高みに導いたようであり、最晩年にこの境地に達したアラウに深甚なる敬意を表したい。
第1番の第1楽章は俗世を離れた欲も得もない弾きぶりで、立派な音楽そのものしか感じさせないし、第2番の第1楽章もすべての音符が身についていて本当に安心だ。
ことに第3番が素晴らしく、第1楽章には大船に乗った安心感があり、アラウの左手の生かし方はシンフォニックそのもので、カデンツァの雄々しい男性美は、これこそベートーヴェンと言いたい。
第2楽章の落ち着き払った進行にも息を呑むが、他のピアニストの遠く及ばぬ境地であり、第3楽章もオーケストラともどもベートーヴェンの音楽のエネルギーを生かしながら、威圧感を感じさせない。
第4番もことのほか素晴らしく、アラウの解釈はオーソドックスだが、曲調がアラウにぴったりであり、厚みのある和音、無骨な弾き方はベートーヴェンそのもので、媚びや外面の美しさからは遠く、聴けば聴くほど滋味が出てくる。
それでいて明るい音色と垢抜けたセンスが快く、タッチは変化に富み、洗練された響きを生み出していて単なる透徹した響きとは違った魅力を発散している。
遅めのテンポが、ソロ、オケ双方に良い効果をあげていて、第1楽章冒頭の弦のいぶし銀のような音色と柔らかい響きはデイヴィスのフレージングに美しい品位を与えている。
《皇帝》もアラウの演奏は、すべてがそろった名演で、まことに偉大かつ雄弁、音のひとつひとつを大切にいとおしみながら弾いており、音楽が匂い立つ。
第1楽章は音の1粒1粒が大切にされ、ベートーヴェンが何気なく書いた飾りの音型からも新しい意味を掘り起こしてゆく。
第2楽章は初めは淡々と弾いてゆくが、途中からにわかに輝きを増し大家の芸となり、フィナーレも懐の深い表現だ。
《皇帝》はもちろんのこと数多くの演奏家が録音しているが、演奏として心を打つものは意外に少ないように思える。
アラウの《皇帝》は、様式がそのまま表現になっており、型が崩れないままに、慈しみに満ちた人間の歌が聴こえてくる。
バックのデイヴィス/シュターツカペレ・ドレスデンも純ドイツ風で、充実し切った有機的な響きが快く、ふくよかな響きと自然な表現でよくアラウをサポートしている。
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