2022年04月10日
フルトヴェングラーの最後に到達した明澄と円熟の境地、冥界からの音信のようなブルックナーの『第8』
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ゆったりと流れるように始められた音楽から「この演奏はいつもとは違う、今日はどんなところに連れて行かれるのだろう」。
そんな予感のうちに自然に音楽に集中すると、時間の感覚を失い、ただひたすらにブルックナーの永遠に身をゆだね、神秘的な信仰告白を聴き、壮大なバロック時代の英雄崇拝の心地良さに浸りきった。
最初にこのレコードを聴いたときの印象は、いつものフルトヴェングラー体験とは、様相が大きく異なっていた。
演奏の凄さに度肝を抜かれたのはもちろんだが、やはり最後にこんなブルックナーに到達していたのかという思いと、これまで円熟を語られることのなかったフルトヴェングラーの、まさに晩熟を実感した。
今日この演奏が、フルトヴェングラーによるもので、そのオリジナルテープがウィーン・フィルのアルヒーフに存在する旨、トレミスが確認しているが、1982年のレコード発売以来、主にイギリスでの演奏の真偽をめぐって、多くの疑問が寄せられてきた。
それは演奏がフルトヴェングラーの「いつものスタイル」ではなかったから、つまり劇的な曲の進め方や、アゴーギクを強くきかせてアッチェレランドを辞さないというやり方で、ブルックナーになじみのない聴衆にもわかりやすいような、作品への架け橋として意図された演奏とは異なったものだったからである。
フルトヴェングラーの『音楽ノート』(白水社)によれば「正しい均衡を保ち『静力学的』に安定している楽曲は、決して法外な長さを必要としない。
法外に長い作品(ブルックナー)のシンフォニー楽章の再現部においては、自由奔放にして妥協点に欠ける造形が(・・・・・・)その欠点を暴露する。
ベートーヴェン、否ブラームスにもまだ見られた繰り返しが、ブルックナーにはもはや不可能である。(・・・・・・)
最初いくつかの楽章がしばしば再現部に見せる余白は、こうした状況から生じたものである」とかの発言が残されて、ベートーヴェンという峰を辿って、ブルックナーへと到達するというフルトヴェングラーの考え方が理解できるのではなかろうか。
この演奏会を実際に聴いたノヴァコフスキーの文章があるので、紹介させていただく(『フルトヴェングラーを語る』白水社)。
「ニコライ・コンサートでの演奏でした。(・・・・・・)年に一度の演奏会はウィーン音楽シーズンの頂点と言うべきもので、久しい以前からフルトヴェングラーの主催にゆだねられておりました。普通はベートーヴェンの『第9』を演奏するのが長い伝統になっていたしたが、(・・・・・・)ブルックナーの『第8』が選ばれることもありました(・・・・・・)このたびは、音楽の作り方が以前とは趣が変わっていました。アゴーギクに寄りかかった緊張が和らげられ、比類のない大きな瞑想のようでした。指揮者の姿はすべてを受容する献身の器としか思えませんでした。最後に到達した明澄と円熟の境地がここに忘れ難い最晩年の様式を生み出したのです。(・・・・・・)フィナーレの最後の響きがやむと、息を呑むような静寂が一瞬あたりを領します。やがて人々は席から立ち上がり、フルトヴェングラーとフィルハーモニーの楽員に喝采の嵐を送るのでした」
その後フルトヴェングラーはルツェルン音楽祭で、最後となったブルックナーの演奏(『第7番』)を行なっているが、それこそ「人々は魔法でもかけられたように、すわったっきりでした。エドウィン・フィッシャー、フルニエ、シュテフィ・ガイヤー、クーベリック、マイナルディ、ミュンヒンガー、その他多くの音楽家たちはほとんど試演のときから、もうそうでした。稀に見るほどに完璧な演奏でした。さながら冥界からの音信のようでした」。
最晩年のスタイルによる完成されたブルックナーだったのである。
その「冥界からの音信」のようなアダージョだけでも聴いてみたかったものである。
ブルックナーの受容状況は、今日大きく様変わりした。
原典への追従はやめて、ブルックナーの内面へと立ち向かおう。
きっとこの演奏にこそ、最高のブルックナーの『第8』を聴くであろう。
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