2020年10月05日
ベルク、そして世紀末受容を際立たせるラトル&バーミンガム市響の新ウィーン楽派
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新ウィーン楽派の管弦楽曲を1枚のディスクに収録する場合、どういう選曲があり得るか。
例えばシェーンベルクのop.16、ベルクのop.6、ヴェーベルンのop.6といった、無調表現主義時代の作品群を並べるのは、最もオーソドックスな路線と言えよう。
ところでラトルのディスクでは、ベルクの曲をop.6を入れるかわりに『ルル組曲』を入れている。
これだと、ベルクの曲だけちょっと異質で、しかもこの曲だけがやや長大で、比重が大きくなる。
これは、外側から見れば、シェーンベルクから、セリー音楽と前衛主義の教師だったヴェーベルンを経て、今やポスト・モダン的で世紀末的雰囲気を最も色濃く残したベルクへと、重点を大きく移してきていることを反映していよう。
また内側から見れば、そうした時代の流れにあって、ラトルの表現が、知的なものよりむしろ、感覚的な凄みのあるものへとこれらの音楽の性格を変質させているということでもある。
ラトルの表現は、現代音楽を完全に自分のものとできる若い世代だけあって、ツボにはまったものだ。
旋律の歌わせ方もテンポの動かし方もリズムの切れも、オーケストラの色彩も、自在で、かつ自然に聞こえる。
そしてこの曲のむせかえるような官能性、頽廃、極限的な美を冒頭から見事に音響化している。
このような演奏は多分これ(1990年録音)までになかったのではないだろうか。
例えば第1曲71小節前のゲネラル・パウゼは、ラトルの演奏では大きな呼吸のなかで捉えられており、その「間」が濃密な官能を湛えだす。
オージェの声も柔らかく演奏の性格とマッチしている。
しかし、ラトルの演奏には、獲得されたものがあると同時に、失われたものもあると言えないだろうか。
面白いのは、第5曲のルルの死の叫びへ向けての演出だが、ラトルは官能的な波がこれ以上できないほど高められた末にそのカタルシスとしての死がやってくるように聞こえる。
ラトルの演奏では現在的な死とエロスから解放するというように思えるが、当時のベルク受容の意味を考えさせてくれる。
シェーンベルクのop.16、ヴェーベルンのop.6も分析的なアプローチながら、リジッドな統一感がない一方、どこかに素朴さも残っていて、しかもオーケストラと一所懸命に音楽をつくっていくという姿勢が心地よい緊張感を生んでいる。
ラトルがバーミンガム市交響楽団との共同作業でマーラーとともに、得意の演目であった新ウィーン楽派だが、その新感覚がベルリン・フィルの常任の椅子を得る原動力になったのだろう。
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