2019年08月19日

「神の声を聴く」崇高な旅、カラヤンの栄光と孤独とが凝縮された最後の指揮姿


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ザルツブルクに生まれザルツブルク近郊に亡くなったカラヤン(1908-89)は晩年になるにつれ、ブルックナーに接近した。

1970年代半ばから80年代初めにはベルリン・フィルと交響曲全集を完成させたが、80年代の最後には再び、しかし今度はウィーン・フィルとの演奏会でブルックナーの《第7番》《第8番》を採り上げた。

そしてこの《第7番》を1989年4月にムジークフェラインで指揮しているが、それはカラヤンの死のわずか3か月前のことだし、結果的にカラヤン最後の指揮姿となったものである。

この4月というのは因縁深く、1955年以来率いてきたベルリン・フィルの終身指揮者のポストを決して円満とは言えない形で辞任しているし、健康状態にも深い翳りがさしてきていた時期にあたる。

最後の曲目がブルックナーの大作になったことはこの“苦渋に満ちた”巨匠の胸の内を考えると複雑である。

だが、最後の指揮だからといってカラヤンは決して穏やかな好々爺のようなマエストロなどには微塵もなっていない。

いやむしろ精神的な高みへの志向がより明確になり、怖ろしいほどの統率力でウィーン・フィルを牽引、彼方の頂への崇高な旅を続けている。

ウィーン・フィルの美音に甘えるのでもなく、またブルックナーのの深い絨毯に憩うのでもない、あくまでも指揮者としての作品を冷徹に見据え、そのあるべき姿に肉薄していった壮絶なるブルックナーの世界を打ち立てている。

そんな尋常ではない気迫に満ちたカラヤンを前にしてウィーン・フィルは襟を正して演奏に専念、“心の王国”を守る石垣となっている。

“心の王国”と言えば、ブルックナーを聴いている人はずるい、と思っていた時期がある。

ベートーヴェンにもモーツァルトにもない世界がブルックナーにあるのはいいが、同じ感動でもブルックナーのそれは、聴き手が心の中に王国を作ってしまう喜びがあると知ったからである。

ブルックナーを聴いていると気持ちが穏やかになり、雄大なる自然との一体感に包まれるが、それはやがて不思議な高揚感とも征服感ともいうべき満足感へと変わり、いつしか心の中に王国を持ったかのような気分になってしまうからである。

この一人天下とでも完全孤独とでも言える感覚はベートーヴェンからもモーツァルトからも与えられない類のものであり、極端に言えばあとは何もいらない、そんな気分にしてしまう力を持つ。

ちょっと怖いが、ブルックナーにはそんな喜びと怖さが同居している。

指揮者には年齢を重ねるにつれ、ブルックナーに接近していく生き方と、そうではない生き方があるようだが、孤独を代償にできなければブルックナー指揮者にはなれないのかもしれない。

カラヤンは広大なレパートリーを誇ったが、最後の指揮が同郷のブルックナーだったのは象徴的だ。

ムーティをして「神の声を聴く」と言わしめたとされる演奏であり、それは同時に20世紀後半の楽壇をリードしてきた帝王カラヤンの栄光と孤独とが凝縮された名演と言うことになろう。

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classicalmusic at 12:33コメント(0)ブルックナー | カラヤン 

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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