2021年09月08日
キリスト教化によって変化する中世の死生観と罪の意識及び個人の人権の容認
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本書の前半は過去に書き残された能う限りの古い文献からの死生観についての言い伝えや経験談が豊富に紹介されていて、現代人の感覚ではなく中世に生きた人々の赤裸々な思考回路に直面するように構成した阿部氏の試みが読み取れる。
しかもこれらのサンプルは興味深いものばかりが採り上げられているので、暗く重いテーマを扱った著書のわりには読み易い。
ヨーロッパでの罪と罰の意識の大きな変革はキリスト教の布教によって訪れている。
当初のキリスト教では、人は死後生前の行ないによって天国か地獄へ行くことになるが、後になって祈ることで救済可能な中間界の煉獄が捻り出される。
しかしそれ以前の北欧やゲルマン或いはギリシャ、ローマの世界では冥界はあってもそうした区分けは存在せず、死後の世界が決して悍ましい苦痛を与えるところでもなかったようだ。
死は彼岸ヘの移動という感覚で現世とそれほど変わらないところとして捉えられているのが興味深いし、人間が生まれながらにして罪を背負って生きているという意識も当然皆無だった。
一方キリスト教ではアダムとイヴが楽園での全被造物に対する特権的支配権を委ねられていたにも拘らず、二人は悪魔の誘惑に負けて禁断の果実を食べたために楽園から追放される。
当初二人は愛と相互の信頼によって生きていたが、神の罰で世界は牢獄化し、霊は肉体の奴隷となった。
従って人間の本質は悪だが、神から与えられた善も残されている。
こうして不完全になった人間はアウグスティヌスによれば自分自身の欲望の奴隷になると同時に他人の奴隷にもなる二重の奴隷化に苛まれる。
本来国家という体制は人間にとって相応しくないが、罪を背負った人間同士が生きるためには甘んじて服従しなければならない。
著者はキリスト教的国家の成立に多大な貢献をしたのがフランク王国のカール大帝だったとしている。
ゲルマンの統一と一貫した宗教を通した統治は彼の野望だったが、それは当時のローマ教皇の目論見とある点で図らずも一致していた。
カールは国政に携わる要職から下部組織に至るまで僧侶を起用して、ゲルマン人のキリスト教化を徹底した。
それが自らの国体を堅持するものと信じて疑わなかったからだが、教会側としては世界の教化に利用できる絶好の人物であった筈だ。
信者には司祭の前で告解することが義務付けられたが、その時教会が個人を強制し服従させるために最大限利用した武器が罪であったとしている。
阿部氏はそれをヨーロッパでの個人の形成の萌芽と見ている。
つまり告解は司祭との間で秘密が厳守されたので、個人の権利が保護されることも意味する。
従って教会からの強制という形であっても、ヨーロッパで個人の人格が認められ、共同体と個人の間に一線が設けられたと締めくくっている。
しかしながらキリスト教会の個人への厳しい介入によって、古いゲルマンの伝統的な精神がすっかり淘汰されてしまったわけではなく、それが古い民話集やグリムやアンデルセンのメルヘンの中に確実に残って現代にも生き続けているという指摘は、伝統や慣習が如何に根強いものかを物語っている。
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