2020年01月05日
ベートーヴェン・イヤーにまず聴くべき、稀有のような大きな普遍性をつくり出した交響曲全集
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2020年はベートーヴェンの生誕250年であるが、コンヴィチュニー&ゲヴァントハウス管弦楽団のベートーヴェン演奏は過去のものとはいえ自然体の表現が今あらたに普遍性を得ている。
コンヴィチュニーは古いドイツの楽長タイプの指揮者を連想させるが、オーケストラも同様で、第1、第2ヴァイオリンが左右に分かれ、コントラバスは左手奥に位置するという配置がさらに古めかしい印象を強める。
しかし、この配置では完璧なアンサンブルを求めるのは容易なことではないが、ベートーヴェンの場合、左右の掛け合いが実に効果的で、演奏に独自の立体感をもたらしたのは収穫である。
また管楽器の独特の音色が印象的で、いまと違って当時はすべて古い年代の楽器であったのだろうが、なかでも木管の原色的な色調とヴィブラートを抑制した奏法は、彼らの演奏にすばらしく古雅な趣をそえている。
むろん管弦のバランスが、確かにドイツ風といえる独自の重量感をもっていることは付け加えるまでもない。
したがって古典的、理性的なベートーヴェンであるが、それは情念の解放とか、情熱の外部への高揚を求めるより、伝統の枠組のなかにぴたりとはまり込んだような音楽をつくっている。
彼らの演奏はすべてが保守的であり、自由でしなやかな流動感や現代的な感覚美とは無縁のように感じられる。
しかし、それで音楽が形式的かというとそうではなく、楽想の発展が建築的に表出されながらも、その内部には素朴に内燃する感興が示されているのである。
確かに、この指揮者の音楽へのアプローチは、常に実直・誠実であった。
現代の指揮者のように外面的な効果や恰好のよさを求めず、ひたすら純粋に音楽の再現に徹していた。
むろん、いま、このような指揮者はもはや存在しないとさえいえるが、それが、現在再びコンヴィチュニーの再評価をうながす大きな理由となっているのだろう。
あえていえば、すべての演奏はコンヴィチュニーの表現を土台としてはじまる。
その客観的な妥当性と安定感の高さは、稀有のような大きな普遍性をつくり出していると考えてよいのである。
ベートーヴェンはその意味で現在も高く評価されてしかるべき演奏である。
この演奏は、かつてわが国に紹介された頃、伝統の響きと形容されたが、現在ではロマン派をくぐり抜けたところの古典主義への再帰と見るべきであろう。
ベートーヴェン演奏の様式が、オリジナル楽器の再興で大きく変化した現在、既にコンヴィチュニーの演奏のスタイルが過去のものになったといえるが、しかしながらコンヴィチュニーがゲヴァントハウス管弦楽団を駆使した芸術は、彼らの時代の証言であり、それとともにそれなりの普遍性を獲得している。
それは現在も無視し得ないもので、時代を越えて音楽そのものの本質を語ってくれるのである。
コンヴィチュニーの『ベートーヴェン交響曲・序曲全集』は、いま、その意味でかえって新鮮であるかも知れない。
これらの演奏のほとんど一分の隙もない構築性、必要最小限の表情があらゆる虚飾と添加物を取り去って、その本質を無理なく、ほとんど自然体のように表出するからである。
それはコンヴィチュニーの演奏が一見、没個性的に見えながら、実はそうではなく、確固とした音楽観を身に付けていることを証明しているとも思えるほどである。
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