2020年05月11日
ウィーンでの陰湿で執拗なモーツァルト潰しの実態
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モーツァルトが洗礼の時に父親によって命名されたラテン語フルネームは、ヨアネス・クリソストムス・ヴォルフガングス・テーオフィルスだが、最後のテーオフィルスをドイツ語に置き換えるとゴットリープになり、イタリア語ではアマデーオと訳される。
モーツァルトは3回のイタリア旅行でヴァティカン、ヴェローナ、ボローニャのそれぞれの都市から法外で名誉な肩書を授与された。
そのイタリア人達からの呼び名がアマデーオだったようで、彼はこの地での大成功を生涯忘れることなく、公式のサインには好んでこれを記したと説明されている。
ミラノの宮廷作曲家としてのオファーを打診したフェルディナント大公は、まだ少年だったために母のマリア・テレージアに助言を求めた。
ウィーンからの返書がここでも紹介されているが、女帝は面と向かっては褒めちぎっていたモーツァルト親子に関して、大公には河原乞食同然の旅芸人であり、息子の名誉を傷つける無用の人々とこき下ろしたために、フェルディナントはオファーを取り下げた。
マリア・テレージアは後々のハプスブルク継承権を目論んで、子女子息を問わず自身の子供達をヨーロッパのめぼしい王家に次々と政略結婚させた。
そうした権謀術数には長けていたが、こと芸術に関しては社交辞令、あるいは刺身のつま程度にしか考えていなかったことが想像される。
それは後世に祀り上げられた芸術の庇護者の名折れでしかないだろう。
いずれにしても当時のウィーンには、かなり陰湿かつ執拗なモーツァルト潰しの動向があり、彼のコンサートやオペラ上演には必ず妨害が入ったようだ。
しかし度重なる就職活動に失敗したことが、モーツァルトをウィーンで独立させ、短い期間であったにも拘らず自由な音楽活動をさせることになったのは運命の皮肉だろうか。
お仕着せの作曲家として宮廷内に留まって能力を発揮するには、彼の才能はあまりにも破格だったからだ。
本書のテーマは、現代ではモーツァルトの名前として罷り通っているアマデウスが、実は本人自身が一度もこの名でのサインをしなかったという事実を明らかにすることで、内容は学術的だが石井氏の平易な筆致で分かり易く、また伝記作品としても興味深く読める一冊だ。
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