2020年05月14日
チェリ生涯最高のブル8、1994年リスボン・ライヴ(AUDIOR)、EMI正規盤を遥かに凌ぐ超名演
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ブルックナーの交響曲は版の問題も重要だが、それも指揮者の解釈の結果と考えれば、演奏に備わった説得力のほうがより大きな問題となる。
流動的フォルムの時代錯誤バレンボイム、ブロック的フォルムの朝比奈を両端として、ヴァントやここに採り上げるチェリビダッケの名演には使用楽譜の枠組みを超えた工夫があり、その他、シャルク版使用のクナッパーツブッシュの昔からギーレンの現在まで、指揮者の多様な作品観が構造表出にストレートに反映するさまが実に面白い。
使用楽譜や規模の問題を抱えながらも、その難度の高さが演奏家の意識を鼓舞するのか、これまでに数多くの名盤がつくられた幸運な作品、ブルックナーの交響曲第8番。
CDの発売点数もすでに60種を超え、各演奏の傾向、スタイルには相当な違いが認められる。
合計演奏時間60分を切るクーセヴィツキー盤(カット版)から、ほぼ100分かかるチェリビダッケ盤まで、視野狭搾的な偏狭鑑賞に陥らない限り、さまざまな解釈・主張がたっぷり楽しめる好条件が整ったソフト環境だ。
筆頭に採り上げるべきは、チェリビダッケがミュンヘン・フィルを指揮したもの。
DVDを含めればほかに少なくとも5種の異演盤があるが、内容は1994年盤が最高だ。
解釈に変化があるわけではないが、シュトゥットガルト放送響時代の動的な音楽が激しい身振りによってひきだされたものならば、ミュンヘン・フィルとの静的な音楽は着座しての冷静な指揮から生み出されたものだろう。
実際第3楽章アダージョにおける、地に足のついた見通しのよいフォルムのなかで、極度に純化された美音により各素材がそれぞれの役割を果たしてゆく光景は、形容の言葉もないほど美しい。
「美は餌にすぎない」とはチェリビダッケ自身の言葉だが、終楽章再現部第3主題部から結尾までの表現は、まさにそうした思惟の具現とも呼ぶべきものである。
遅いテンポと張りつめた緊迫感、拡大されたデュナーミクがもたらす異様なクライマックスには、戦慄を覚えるほどの「畏怖」の気配が確かにある。
もちろん、それはブルックナーの音楽に本来存在するものなのだろうが、チェリビダッケ以外の演奏からは、ついぞ聴いたことのない響きの表情・気配であることもまた事実(クレンペラーに至っては、再現部第3主題部をカットしてしまっている)。
改めて「観照と形象」ということについて、考えさせられる偉大な演奏だ。
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