2022年03月20日
激動の時代こそトスカニーニの《フィデリオ》で辛口の「愛」をすすんで享受し、燃えたぎる業火の情熱に、身も心も焼き尽くせと志願せよ!
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トスカニーニのスタジオ録音による唯一のドイツ・オペラである。
厳しく切り詰められた造形のなかに、トスカニーニ独特の豊かなカンタービレがあふれ、強烈な説得力を持っている。
その雄渾な気迫に満ちた音楽作りは、ベートーヴェンがこのオペラに込めた精神を見事に描き出して、余すところがない。
録音の古さ、歌手に水準の低さ、管弦楽に粗さは残るあるものの、トスカニーニ芸術の厳然たる美しさは時代を超えて生き続けている。
いろんな《フィデリオ》の演奏にふれたあと、トスカニーニの録音を聴くと、一瞬「ああ、これは志を持った音楽だ」という思いに胸が熱くなる。
トスカニーニの思想は死後一人歩きを始める。
「楽譜に忠実な演奏」は、いつの間にやら「音符を正確に弾くだけの演奏」に堕してしまった。
創造者には、旧勢力との間の生死を賭けた闘いが待っていたが、後を継ぐ者にはそれがなかった。
「ベートーヴェンは史上初めて、音楽に理想と力を持ち込んだ音楽家です」と語った碩学がいらっしゃった(丸山眞男氏)が、それ以来、筆者のベートーヴェンの聴き方が変わった。
天の啓示を受けた思いであったが、トスカニーニのベートーヴェンは筆者にあの時の衝撃を思い出させる。
対立した巨匠フルトヴェングラーは一人の後継者も産むことが出来なかったが、トスカニーニは指揮法と芸術思想の後継者としてカラヤンを持つことができ、演奏スタイルは時代の規範となった。
20世紀楽壇の帝王カラヤンは、トスカニーニに私淑していると公言して憚らなかった。
実際、カラヤンの音楽はトスカニーニ同様、フルトヴェングラーの重厚さ、神秘性、哲学的かつ文学的なねっちりした表現とは無縁だった。
巨匠二人の優劣の問題ではなく、一方は伝統の完成者であり、もう一方は伝統の創始者であった。
トスカニーニが、スコアから一切の文学性を追放したのはファッションのためではない。
作曲者と作品への熱烈な崇拝が、演奏家の愚かなる解釈を拒んだ。
つまり、「自分は偉大な作曲家の僕(しもべ)である」という最大級の謙虚さを、トスカニーニは持ち合わせていた。
オペラ・ハウスにオーケストラ・ピットを設け、客席の照明を落とす習慣を定着させたのもトスカニーニの功績のひとつだ。
これとて、劇場と聴衆の怠慢を許さない、という強い使命感の表れであったに違いない。
トスカニーニの正義は、大は「ナチスやムッソリーニ政権への痛烈な反逆」から、小は「離婚歴のある人物とは口もきかない(浮気は構わない)」まで、政治、プライヴェートの別なく、止まることを知らなかった。
そんなトスカニーニの演奏を、「冷たい」「厳しい」と敬遠するのは簡単だ。
しかし、甘く心地よいばかりが「愛」ではないことを、私たちは知るべきではないのか。
耳当たりのよい音楽は、耳の感度を下げ、魂を怠惰にする。
時代の激動に身を置かざるを得ない今こそ、トスカニーニの《フィデリオ》を聴いて、辛口の「愛」をすすんで享受し、燃えたぎる業火の情熱に、身も心も焼き尽くせと志願するときなのだ。
異論は百も承知の上で「21世紀もこの人を忘れてはならない」と声を大にして言いたい。
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