2022年04月28日
帝王になる前のカラヤンが死と向き合い、生の意味を問うきびしい精神性をベースに、キリストに思いを馳せる敬虔な祈りとやさしい慰撫をひびかせたミサ曲ロ短調
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カラヤンの生誕100周年を契機に、様々なライヴの名演盤が発掘されてきたが、本盤も、カラヤンがライヴの人であることを証明する素晴らしい名演だ。
近年発売された様々な伝記でも明らかにされているが、カラヤンは、スタジオ録音とコンサートを別ものと捉えていた。
そして、コンサートに足を運んでくれる聴者を特別の人と尊重しており、ライヴでこそ真価を発揮する指揮者だったことを忘れてはならない。
本ライヴ盤(1950年)の異常な緊張は、ミサ曲ロ短調の録音史上で空前のものと言え、楽員と一体になっての音楽の高揚は、時に魂が張り裂けんばかりの悲痛さを伴って、恐怖に近い感動を覚える。
カラヤンは若い頃から、バッハに情熱を燃やし続けてきた人で、彼の演奏は、バッハに対する深い敬愛の念が込められている。
この演奏も、曲の核心に鋭く切り込んだもので、ひとつひとつの音に精魂を込めながら、一分の隙もなくまとめあげている。
カラヤンは豪華歌手陣とウィーン交響楽団、ウィーン楽友協会合唱団の実力を充分に発揮させ、精緻を極めた構成力と、じっくりと腰を据え、各部を入念に仕上げている。
この戦後の音楽界に君臨した巨人は、あたかも高度成長時代の申し子のように思われがちだが、この演奏は、いまコロナ禍と戦禍に見舞われている人たちに、第二次世界大戦を生き抜いてきた時代がどれほど苦渋に満ちたものであったかを伝える貴重なドキュメントだ。
戦後やっと5年たっての演奏で、彼がまだナチの後遺症を引きずっていた時期にあたる。
そのせいか、このミサ曲ロ短調を通して自己の魂のありようを検証しようとする、きびしい自己省察が聴きとれる。
当時のカラヤンに戦争への深刻な反省と鎮魂の気持ちがあったのだろう。
このライヴ録音は奥行きの深いひびきに満ち、死と向き合い、生の意味を問うきびしい精神性をベースに、イエス・キリストに思いを馳せる敬虔な祈りとやさしい慰撫をひびかせている。
その展開が自然でスケールが大きく、しかも全体のバランスは申し分ない。
謙虚でありながら、きわめて気高い姿勢に貫かれ、入魂の業を示し、それは独唱・合唱にも感染している。
特にフェリアーの歌う〈神の子羊〉に漲る宗教的な情感の深さは稀有のものだ。
フェリアーの歌は、最初の数小節を聴いただけで、人間の素晴らしさを感じさせ、人間であることの意味を悟らせてくれる。
人の高貴さ、優しさを、このように歌い出してくる声楽家は、もう私達の前に二度と現われることはないだろう。
いくら讃えても讃え切れないこの演奏が、今後とも、人類のかけがえのない遺産として受け継がれていくよう願わずにはいられない。
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