2022年05月18日
拝啓、小澤征爾様、歯に衣着せたくもなく、慇懃無礼になることをお許しください
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和解と寛容の精神が謳われる中で、とにかく私自身を懐疑論に沈ませる迷著になってしまった。
恨み節のようだが、私が物心がついた時、両者ともそれぞれの分野で甚大な影響力を持つ世界的巨匠には違いなかった。
私が初めて小澤の音楽を聴いたのは、小学生の頃で、我が家に音の出るものと言えばテレビしかなかったので、その番組は消滅して久しいが、貴重な時間ではあった。
記憶に残っているのは《第9》で、高熱を出してステージにも上がれないくらいの体調だったことを後で知ることになるが、第1楽章と第2楽章は手塚幸紀さんが代役に立ち、小澤は後半の2つの楽章を指揮していた。
何と!食道癌という病に冒された現在も同じようなことを繰り返していて、一切指揮者として信頼をなくしていることをご本人は知る由がないのであろうか。
私の興味の対象が音楽よりも文学(村上主義者)や哲学(大学の専攻)のほうに移っていくにつれ、自然と小澤の音楽に接する機会も減っていった。
とにかく小澤はオペラとセッション録音が苦手で、意地の悪い者からすると実演の半分も伝わってこない。
生演奏に接して、小澤の音楽からは音楽に対する熱意は伝わってきても、それ以上のものは伝わってこなかった。
伝家の宝刀、サイトウ・メソッドを片手に日本の音楽家が西洋音楽の分野に充分に通用することを証明してみせただけでも、大変な業績だとは思う。
春樹さんはサイトウ・メソッドは、西洋音楽に内在するリズムを形にするための普遍的な技術を獲得するための方法論だったのだと解釈している。
なので、小澤のフランスものやストラヴィンスキーなどのロシアものは西洋人にも高い評価を得ているのだと認めている。
(閑話休題)
ところで、私には小澤の世界的な活躍と戦後日本の経済復興と失速の状況が重なって見えてしまう。
しかしその母胎である経済構造が、世界規模で考えた経済の発展を支えるには構造的な矛盾であることを村上氏の著作で露呈してしまっている今日、もはやジャパン・ドメスティックではどうにも乗り切っていけないのだ。
かつて世界を股にかけて飛び回っていたビジネスマン第一世代と小澤の姿が重なってしまう自分が悲しい。
つまり小澤が音楽に情熱を傾けるほどに、優秀なメイド・イン・ジャパンの方法論の弱さが露呈してしまうようなのだ。
「カラヤン先生」「レニー」と呼び、カラヤンにはカラヤンのやり方があり、バーンスタインがよい音楽家で、加えてよい人間でもあったらしいことを春樹さんは引き出している(ように思える)。
私が彼らをかわいそうに思うのは、音楽家を育てたかったため、下らない弟子を大勢作ってしまったことだ。
しかもそいつらが臆面もなく自分はカラヤン、バーンスタインの弟子だと得意気に吹聴し、師の栄光を汚して平然としていることだ。
本著で、小澤が師の知的な面を何も学ばなかったことが露呈しているようで、情けなくて仕方がない。
既に師が広めたレパートリーで、しかもベルリン・フィルの指揮台に登場する直前、師のショスタコ5のライヴ録音(オルフェオ)をなぞり、馬鹿みたいに大げさな身振りで陶酔している佐渡裕にはもう呆れ果てて言葉もない。
ゆえに既に指揮者が虚業と化し、演奏家の時代が終焉してしまった現在、カラヤン、バーンスタインを考えるときは、そうした愚かな弟子たちを極力無視し、あいつらは両巨匠の音楽を何も受け継いでいないことを肝に銘じなければならない。
そうでないと、彼らの多面性を見失ってしまい、単なるイケイケ指揮者だと誤解してしまうのだ。
その小澤の社会的存在について、本著においてすばらしい文章が載っているので、そちらをご覧いただきたい。
最後になるが、春樹さんは「スコアなんて簡単に読めるようになるよ」という小澤の勧誘を拒絶している。
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