筆者のこと

2017年03月02日


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ルソーが言語の起源と本質を論じた著作。

言語の本質とは情念の表現にあり、もとは言語と音楽の起源は同一であったという。

言語の起源と変遷、諸言語の地理的差異、音楽の起源、旋律、和声の原理と歴史が分析され、南方と北方の言語の抑揚の相違、言語の現状が言語の変遷といかに関係しているかなどが論じられる。

学生時代単行本で初めてこの作品を読んだ時にはギリシャ、ローマの古典に疎かった筆者は引用の多さと原注を調べることに辟易しながらも、ルソーらしい確信に満ちた論法に興味を惹かれ、彼の思考回路と好奇心を刺激する破天荒の人となりに大きな魅力を感じた思い出がある。

増田氏の訳出によるこの文庫本は平明な口語体で、原注と訳者による訳注がそれぞれの短い章ごとに並列されていて、一般読者のためのより良い理解への便宜が図られている。

ただしルソーの他の論文と同様、当然当時の第一級の教養人を読者に想定して書かれたものであるために、その文学的醍醐味を味わうにはある程度の古典の素養が欠かせないことも事実だ。

ここでも彼が有名な『ブフォン論争』で展開した、殆んど独善的だが豪快な論陣が張られている。

また彼は自分に敵対する人々を常に意識していて、そうした陣営への痛烈な揶揄や時として罵倒も辞さない。

気候が温暖で潤沢な食物に恵まれた地方の人々の最初の言葉は最初の歌であり、一方厳しい気候の北方の民族のそれは相手を威嚇するために鋭い発音になったという論法は、現代の言語学の到達点からすれば観念論の謗りを免れない。

専門分野の資料を欠いていた彼の時代の研究は確たる物的証拠に基いたものではなく、頭脳を駆使して構築されたファンタジーの域を出ない産物だからだ。

しかしながらルソーの思考方法に現代でもその価値を認めるとすれば、むしろそれは彼が古典文学、歴史や地理、文化風俗から哲学、物理、音響学に至るまでの当時の百科全書的な広範囲に亘る知識を総動員して考察しているところである。

すなわちその時代に知り得た総ての知見を総合する術こそ、余りにも細分化され異なった専門分野のミクロ的分析に成り下がってしまった現代の科学に本来の研究方法のあり方を実践してみせている。

そうしたことからもルソーはまさに近代啓蒙思想の元祖的な存在と言えるのではないだろうか。

後半第12章からは話が音楽に移り、彼の論敵である作曲家ラモーへの鋭い攻撃が展開される。

ラモーは既に彼の著書『和声論』で旋律に対する和声の優位を説いているが、ルソーはこれに真っ向から対立し、言葉に源泉を持つ旋律の方に絶対的価値を主張している。

そこで喩えに用いられているのが絵画でのデッサンと色彩で、当然彼はデッサンを音楽の旋律に喩え、色彩を和音に置き換えて論証している。

そして和音が理論化されてしまったために、その進行が逆に旋律を制限し、本来の音声言語の持っている精神的力強さが失われてしまったと説く。

彼の論法では色彩の理論だけでは絵画は成り立たないのだが、それは印象派以後の絵画の傾向を見るなら一概に頷けるものではない。

しかしながら自然界に存在する倍音列とは異なった音律で和声を創り上げた和声法とそれに縛られた旋律は、確かに本来の力強さを失ってしまったのかも知れない。

最後には言語起源論からフランス絶対王政反対に導くルソーならではの強引で飛躍的な帰結も痛快だ。

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2017年01月10日


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クラシック音楽ファンにはお馴染みの稀代の音楽評論家、黒田恭一氏がカラヤン、バーンスタイン、カルロス・クライバーからマイルス・デイビス、ピアソラまで、35名のアーティストとひとつのアンサンブルに礼状を書くという想定で綴られたエッセイ集で、それが取りも直さず音楽への礼状としてまとめられている。

同氏の著書の中でも彼の人柄の温かさと、それぞれの人を見極める鋭い洞察がひときわ感じられる作品で、音楽をきくことをこよなく愛し、音楽の輝きをひとりでも多くの人と分かち合うことを切望し続けたひとりの音楽評論家の音楽への深い愛と洞察に満ちた名著である。

ただしこの本の発行が1990年で、著者(1938-2009)も含めてここに登場するアーティストの多くは既に他界している。

黒田氏はフランコ・ボニゾッリをテノール馬鹿の典型としながら、イタリア・オペラの醍醐味はまさにそこにあると断言している。

それは決して蔑視ではなく、自分の声の温存を顧みないサービス精神を潔しとし、聴衆を満足させる術を讃えているのだ。

またカルロス・クライバーには、彼の天才的資質を充分に認めながらも、一方では彼の欠点をも見事に見抜いている。

彼に欠けているのは父のE・クライバーにはあった傷つく勇気だと指摘していて、それは音楽上の欠点ではないにしろ、その視点は非常に興味深い。

マリア・カラスの項では、インタビューを断ってきた彼女の寂しげな一瞬の表情から著者は総てを悟っている。

カルロ=マリア・ジュリーニは、彼の野暮と紙一重の誠実さを褒め、自分の大切な万年筆をお釈迦にされ(筆圧のせい?)ても、その万年筆を宝物として大事にしまっておくという興味深いエピソードがある。

ヘルベルト・フォン・カラヤンについては、全盛期の颯爽とした姿を知っているだけに、晩年の介添人に付き添われ登場した時のカラヤンに対する感情、マイルスに対して、バック・ミラーを捨てて走り続け、寂しくありませんかと問うその感情・・・など挙げていけばきりがないが、総て文字通り黒田氏の温厚な性格が良く出ている。

そこにはもちろんそれぞれのアーティストに対する鋭い観察に裏打ちされている事は言うまでもない。

黒田氏は「きく」という行為の本質をわきまえていた数少ない評論家のひとりだったし、彼にとってそこにはジャンルも境界も存在しなかった。

そしてその喜びをひとりでも多くの人と分かち合うことを心から願っていたし、自分がその仕事に携わっていることへの感謝の気持ちを忘れなかった。

本文中でも「どのような音楽に対しても、感謝の気持ちを胸にたたんできいていきたい、と思う。感謝の気持ちを忘れてきかれた音楽は、いかなる音楽も、ききてにほほえみかけない」とし、クラシック、ジャズ、ポピュラー、中南米音楽……と、ジャンルを問わず、絶えずみずみずしい感性で音楽と向き合い続けたことが理解できる。

文章について言えば、彼は思いついたことをそのまま書き下ろすことはしなかったように思う。

解りにくい言い回しや、むやみな漢字の使用は故意に避けている推敲が窺えるからだ。

また本書を読めば一部の人が黒田氏の批評は生ぬるいと言うのが全く表面的な見解であることも理解できるだろう。

思えば黒田氏は筆者の恩師であり、授業以外の面でも学生達に協力を惜しまない優しい方だった。

東中野のお宅に初めて伺い、地下のオーディオ・ルームに案内された時の驚きを今でも忘れることができない。

部屋の側面には無数のLPが几帳面に整理されて収納してあり、呆気にとられて溜息をついている筆者に、「欲しいのがあったら、ダビングしてやるよ」と気さくに仰ってくれたことも記憶に新しい。

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2015年07月10日


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本著は、不世出の音楽評論家吉田秀和が、世界の名演奏家に光をあて、その芸術の特質とあふれる魅力を明晰に語った作品。

この評論集には23人の器楽奏者、7つの弦楽四重奏団及び17人の声楽家について彼らの演奏への評価とその特質や印象などがまとめてある。

特に、入門者が鑑賞する際に聴くべきポイントは何処にあるか、そしてCDその他のメディアを選択する時、先ず誰の演奏が妥当かなど実用的なガイド・ブックの側面と、一方ではクラシック音楽の将来への展望を示した吉田哲学が随所に滲み出た貴重なエッセイ集としての価値がある。

それは吉田氏の鋭い洞察力と圧倒的な経験や知識が、対象となる演奏家のスピリチュアルな領域にまで踏み込んだ全体像を見抜いているからで、私自身著者と意見を共有できる部分が非常に多く、クラシック鑑賞のための心強い指針となってくれる。

吉田氏の文章はいつもながら平易かつ穏当な口調で、楽譜を掲載して解説することは最小限に抑えている。

そして吉田氏の考察はあくまでも提案という形で提示され、決して読者に強制するものではないが、それには確たる根拠があり充分な説得力を持っている。

私達が批評家に求めるものは啓蒙であって、演奏家への毀誉褒貶ではない筈だ。

音楽家への好みや巧い下手だけをあげつらうことは安易な行為であるにも拘らず、それだけを書いて批評家を名乗る人も往々にして見かけるが大切なのはその理由で、楽曲を分析して分かり易く説明して演奏のあるべき姿をより多くの人に伝える努力が望まれる。

その点についても吉田氏は一点の曇りもなく冷静沈着に書いており、特に我が国においては、吉田氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる音楽評論家は数少なかった。

ただ筆者にとって惜しむらくは、声楽家はドイツ系あるいはドイツ物をレパートリーにする歌手が多く、イタリア・オペラやフランス、スペイン物で活躍する人達がほとんど取り上げられていないことで、それは吉田氏の音楽鑑賞に対する嗜好である可能性が強いが、あえて彼が書くことをためらったジャンルなのかも知れない。

本文中では吉田氏は自分より巧く表現できる人や批評家をためらいもなく挙げているのも潔いが、それは彼が音楽を理知的な基盤の上に展開する感性の昇華として受け止めていたからではないだろうか。

ともすればそれとは対極的な情動的で感性が一人歩きするようなラテン的な音楽は、かえって彼にとってアナリーゼやその評価を下すことが困難だったのかも知れない。

本文は書下ろしではなく、著者生前中に音楽誌への連載やLPやCDのライナー・ノーツ用に執筆されたもので、下記のアーティストが含まれている。

弦楽器奏者ではミルシテイン、シェリング、ヴァルガ、スーク、ヘッツェル、パールマン、クレーメル、ミンツ、ムター、ヴェンゲーロフ、メニューイン、スターン、バシュメット、今井信子、カザルス、シュタルケル、ロストロポーヴィチ、ビルスマ、マイスキー、ヨーヨー・マ、デュ・プレ、鈴木秀美、ケラス。

弦楽四重奏団はジュリアード、メロス、リンゼイ、東京、ドーマス、ハーゲン、フォークラー。

声楽家はキリ・テ・カナワ、フォン・シュターデ、バトル、ヘンドリックス、オッター、シェーファー、コジェナー、ホッター、へフリガー、フィッシャー=ディースカウ、プライ、シュライアー、ベーア、アライサ、ターフェル、マティス、フェリアー。

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2015年06月09日


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私事で恐縮であるが、海外放浪、ボランティア、そして大企業から吹けば飛ぶよな(実際に飛んでしまった)零細企業までを渡り歩いた個人的経験から、最近の一部マスコミの木を見て森を見ない、あまりに近視眼的な報道に惑わされないために、誠に僭越ながら時事に関する個人的見解をこの機会に述べておきたいと思う。

ようやく抜け出しつつあるが、日本は長い経済のスランプに苦しんできた。年間の自殺者数は3万人を越えるという痛ましいデータもある。企業倒産も高水準だ。悲観論者の評論家の中には、明日にも日本が沈没してしまうような予測をする方々もいる。

だが、どうであろうか? 悲観論者がお先真っ暗だといっても日本のGDP(国内総生産)は500兆円近くもある。2位の中国はこれから生産者人口が減少していく見込みなので、世界最強国である米国に次ぐといってよい。

なるほど、国家財政は健全とは言い難い。国債をはじめ国の抱える借金は1000兆を越える。だが、国民の預金は1400兆円もある。もちろん世界一の資産国だ。バブルに浮かれて不良債権だらけになった銀行にしても、米国国債や米国の主要株式を大量に保有している。

あり得ぬ話だが、仮に銀行がこの米国債を叩き売れば、米国経済は大混乱に陥るだろう。むやみに卑屈になるほど弱い国どころか、なお十二分に世界屈指の経済大国なのである。

生活の面でもそうであろう。特に技能もなく、高給取りではないOLが頻繁に海外旅行に行ける国、長期ローンを組まされるにせよ、20代のサラリーマンが高級外車を乗り回せるような国はほとんどない。

なるほど不安や不満はあるものの、現在の仕組みをすべて叩き壊すのには程遠い状況だ。悪事を働き捕まった中国人が「カネはあるし、(捕まっても)罪は軽く、この国は天国だ」と嘯いたそうだが、あながち的外れではない。そのような豊かな国のシステムがどんでん返しのように変わるわけがない。

今後予測されるのは世の中が自由放任よりも秩序重視へと動いていくということだ。

その象徴といえるのが、安倍晋三首相の自民党による長期政権の維持である。自民党政治家としては珍しく都会的なこの政治家の本質は選別の容認である。わかりやすく言えば、優勝劣敗、弱肉強食の方向を支持している。やむを得ないものと是認している。

一方で、自民党の中ではもの分かりの良い、共存共栄、共生がすべて、皆で一杯やろう式の田中角栄(元首相)型の勢力は日に日に衰えている。さらに先の衆議院選挙からも明らかなように、人すべて平等を唱える共産党や社民党などの左翼(特に社民党)は有権者からほどんど見限られてしまった。

この流れはしばらく変わるまい。歴史とはつまるところ緊張と弛緩の繰り返しであり、ある程度行き過ぎて、あれこれと弊害が出るまではベクトルは逆には向かないからだ。現状を見る限りでは、このベクトルが反転しそうな気配は感じられない。ごく少数の人や、ケチをつけ不平を並べることを日々の生業にしている人々を除けば、誰しも現在のシステムを根こそぎ引っ繰り返そうとするほどの不満は抱いていないからだ。

私が常々参考にしているのは、客観的でわかりやすい解説の池上彰氏による、テレビ朝日の「池上彰解説塾」である(月曜21時より)。やたらと国民の不安を煽る「たけしのTVタックル」は精神衛生上良くない(事実月曜23時15分からに繰り下げになった)。

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2015年04月01日


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映画『男はつらいよ』については、初めは、低俗な喜劇ぐらいにしか感じていなかった。

寅次郎の筋は意識的なワンパターンである。

まず夢の場面と、寸劇があった後、ヤクザ者の寅が柴又のとやらにひょっこり帰ってくる。

おいちゃん、おばちゃん、妹のさくら、その夫の博と子供の満男、隣の印刷工場のタコ社長など、おなじみのメンバーに大歓迎されるが、それもつかの間、ささいなことからけんかが始まって再び家を飛び出す。

旅の空で美しい女性と知り合い恋心を燃やすが、やがて失恋、という段取りだ。

寅次郎は無学で根気がなく、頭も少し弱いが、驚くほど純情、純粋で人情に厚く、ひょうきんで、彼のまわりには笑いが絶えない。

相手が芸術家だろうと、金持ちであろうと、乞食であろうと、いっさい分けへだてせず、人間対人間として付き合う。

寅次郎にとって相手の肩書とか職業などは一文の値打ちもなく、人間性だけが大切なのである。

だから女性も完全に心を開いて寅次郎の胸の中に飛び込み、自分のすべての悩みを打ち明け、「私は寅さんが大好き」と言う。

その言葉に嘘偽りはないのだが、寅次郎の方は女も自分に恋しているのだ、と誤解してしまい、悲喜劇が起こるのである。

このシリーズが始まった頃、寅次郎は愚かなだけの男で、おいちゃんが「ばかだなぁ」と慨嘆するのが常であった。

寅次郎がばかなことをしでかし、それを監督もばかにし、観客もばかにし、笑い合って日頃のストレスを解消する、というパターンの連続であった。

ところが……、いつの頃からか、おいちゃんの「ばかだなぁ」というセリフが聞かれなくなり、寅次郎に変化が見えてきたのである。

といって、教養がついたわけではないし、頭が良くなったわけでもなく、寅はあくまで寅なのだが、微妙な深みが出てきたのだ。

つまり作品の中で車寅次郎が一人歩きを始め、その寅次郎に監督であり、原作者でもある山田洋次が教えられるようになったのである。

筆者は今では『男はつらいよ』は最高の娯楽作品で、同時に最高の芸術作品だと考えているが、その理由はまさにこの一点にあるのだ。

寅次郎は無教養で常識がなく、礼儀作法もまったく知らないがゆえに、人間の生まれながらの純粋さがほんのわずかも傷つけられることなく残されていて、大自然から与えられた純粋直観が曇らされていない。

人はとかく肩書で他人を判断しがちであり、教養の有無や礼儀作法の有無で価値を決めがちであるが、寅次郎に言わせれば、これほどナンセンスなことはないだろう。

まったくの裸になったときどういう人間なのか、それだけが問題なのであって、むしろ、教養や常識や礼儀作法は人間を堕落させる。

余計なものがべたべたとはりついて、本来の純粋性が失われ、俗っぽくなり、本質が見えなくなり、何よりも裸になれなくなってしまう。

そこへゆくとフーテンの寅は生まれたままの姿でそこに立っていて、自分の正直な気持ちだけで生きている。

笑いたいときに笑い、悲しいときに悲しみ、怒りたいときに怒る、そこにかけひきや偽りはいっさいない。

子供のような人、いや、神様のような人、それが寅次郎である。

映画の中でいろいろな出来事が起こったとき、他の人は常識でしか考えられないが、寅次郎はズバリ真実を見抜き、真実のままに行動する。

そのことに東大出の山田洋次監督は教えられるのであろう。

といっても、『男はつらいよ』はあくまで大衆のための娯楽作品である。

しかし、寅次郎は単なる笑わせ役ではないのであって、人を笑わせ、楽しませながら、人間の真実を教えてくれる存在である。

山田洋次監督の才能は抜群であるが、彼の偉大さは、渥美清という天才俳優を得て、笑わせながら人生の深い味わいを、しかもそれを求めている人にのみ与えてゆく点であろう。

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2015年02月18日


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黒澤明監督の映画は、一部の例外を除いて「侍の映画」と言えるのではないか。

「侍」が直接的な表題となった映画は、黒澤映画の最高傑作との呼び声の高い「七人の侍」のみであるが、黒澤映画における「侍」とは、我欲には見向きもせず、一定の信念の下に生き、その信念を曲げなければならない時には死をも厭わない者を指すことが多い。

「七人の侍」に登場する「侍」も、もちろん食事にありつけたと言う面もあるが、自分とは全く関わりのない村人たちを守るために命を懸けるという者である。

「七人の侍」が、30本存在している黒澤映画の中でも世界的に最も賞賛されている映画であるが故に、「侍」のイメージについては、死をものともせずに信念のために生きる者を指すということが今や国際的にも定着していると言える。

そして、黒澤映画の「侍」は、いわゆる時代劇に登場する武士の範疇にはとどまらない。

時には、現代劇における一般市民すら「侍」となり得る。

その最たる例が「生きる」の主人公である市役所の市民課長、渡邊勘治である。

長男を男手一つで育てあげ、退職間近まで無遅刻無欠勤で市役所の職員を務めていたある日、胃癌を患っていることを知る。

絶望感に苛まれた渡邊市民課長は、死までの短い間に何をすべきか思い悩む。

その過程の中で、健康な時には、市民課長として歯牙にもかけなかった公園の整備に余命を捧げることを決意。

様々な障害を乗り越えて公園を完成した後、雪の降りしきる中、新公園のブランコで「ゴンドラの唄」を口ずさみながら従容と死んでいく。

この渡邊市民課長こそ、「侍」と言わずして何であろうか。

「生きる」には、かかるゴンドラのシーンの他にも、胃癌を患っていることがわかり、病院を後にした時の一時的な無音化(渡邊市民課長の絶望感を絶妙に表現)、誕生日のパーティをバックに渡邊市民課長が公園の整備に命を捧げることを決意するシーンなど、映画史上にも残る名シーンが満載であり、かかる決意の後は、渡邊市民課長の通夜の場面に移り、そこから過去の回想シーンを巧みに織り交ぜながらストーリーが展開していくという脚本の巧みさは殆ど神業の領域。

諸説はあると思うが、筆者は、「生きる」こそは、いわゆる「侍の映画」たる黒澤映画の真骨頂であり、最高傑作と高く評価したいと考えている。

少年オプーの成長を描いた大河ドラマ、「大地のうた」「大河のうた」「大樹のうた」の3部作で世界的にも著名なインドの映画監督の巨匠、サタジット・レイが、最も好きな黒澤映画として「生きる」を掲げたのも十分に頷ける話だ。

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2008年05月12日


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2008/4/17 ヘラクレスザール、ミュンヘン
SEMYON BYCHKOV, Leitung (昨日はプログラムにDiligentと書いてあったのだが・・・)
EMANUEL AX, Klavier (こちらも表記が違う。どちらも古風な言い方のような気が。)
SYMPHONIEORCHESTER DES BAYERISCHEN RUNDFUNKS

フレデリック・ショパン  ピアノ協奏曲第2番 OP.21
フレデリック・ショパン  ノクターン第13番(アンコール)
---------------------------------------------------------
セルゲイ・ラフマニノフ  交響曲第2番 OP.27

ショパンの2番は恥ずかしながらあまり熱中して聞いたことが無かったが、こんなに素晴らしい曲であったとは。アックスは特にエスプリが効いている訳では無いのだが、曲の良さを丁寧に伝える弾きぶりで十分満足させられる出来、来シーズンも招かれているようだが、ウイーンのブフビンダーといい、日本でスターで無い人がある都市では大スターだったりするから面白い。
昨日とは違い体した期待をして望んだ演奏会では無いのだが、こういう素晴らしいものに出会えるから音楽旅行はやめられない。
ヘラクレスザールは、シュターツオパーも入る旧王宮に一部ある演奏会場だが、実に豊かで温かい音を育むホールであり、バイエルン放送響の品格溢れる繊細な表現は、この音響環境でこそ生まれるものと確信した。先に小さなセヴェランス・ホールでブーレーズ/クリーブランド管弦楽団で新ウイーン学派の演奏会に訪れた際も、なるほどクリーブランドのヨーロッパ風の音楽性溢れる演奏はこのホールの賜と溜飲の下る思いをしたのを思い出す。
観客も音楽を聴きに来ているという思いが強く感じられ、楽章間に咳一つしないのには驚いた。温かく熱心ではあるが、決して粗暴ではない拍手が続く中、当たり前のように、ノクターンの中でも地味な13番がアンコールで奏され、豊かな思いで前半が終了した。
ラフマニノフは正に自家薬籠中のもの。細部までビシュコフの意図するデュナーミクが行き届き、クライマックスの描き方も単に情熱に流れず、抑えるところは抑え、聞かせるところは聞かせる充実した表現で、内声の扱いも実に丁寧で素晴らしい。これを超えられるのはザンデルリンクのロマンだけか。気が付くようなカットは無く、演奏時間は1時間ぴったりであった。ビシュコフはこれまで軽視して聞いてこなかったが、この旅後半での思いがけない再会時もそうだったが、実に入念な音楽作りで指揮能力も高い。これからはもう少し聞く機会を増やしてみようと思う。

この日の昼は、私が欧州一だと感じている鮨屋TOSHIにて43ユーロと少し高いが、十分満足できるTOKUSENを頂く。夕方小腹がすいたところで、Franziskanerともう一つミュンヘンを代表するビールとして有名なAugustinerが美味しいAugustiner GrossgaststatteでEdelstoffを飲む。ここにもWeisbiarはあるが、やはり晩飯を食べたZum FranziskanerでのHefeweiss Biarが最高。定番の酢漬けソーセージサラダ、ブルスト・ザラ―トを食らい大満足の夜であった。

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何時もは旅行記などを書くマメなタイプの人間ではないのだが、折角気合の入った音楽旅行を毎年やっているのに、コンサート記録帳を見ないと思い出せない状態に陥っているのに気付き、今回は自分の記憶を深める意味合いも込めて、感じたことを書き綴ることにした。

ミュンヘン

4月16日から約20日間の旅程の第一番目の年はミュンヘン。昨年はバイエルン・シュターツオパーでケント・ナガノ指揮の「サロメ」と「不思議の国のアリス」初演を観劇し、一時はドイツ・ワースト劇場との評に甘んじていた名門の復活・隆盛に胸躍ったものであったが、今年はオペラは無し、宿もシュターツオパーの裏のフィア・ヤーレスツァイテンでは無く、ガスタイクセンター裏のヒルトン・シティである。

2008/4/16 ガスタイク・フィルハーモニー、ミュンヘン
CHRISTIAN THIELEMANN, Dirigent
RENEE FLEMING, Sopran
MUNCHENER PHILHARMONIKER

ハンス・プフィッツナー   劇付随音楽「ハイルブロンのケートヘン」序曲 OP.17
リヒャルト・シュトラウス  4つの最後の歌 OP.AW150
---------------------------------------------------------------------------
リヒャルト・シュトラウス  「エジプトのヘレナ」第2幕から
アルノルト・シェーンベルク 浄夜 OP.4

ルネ・フレミングは声は小さいが、繊細な声の変化や豊かな表現力で聞かせるタイプで何度か聞いたことがある。今回は4つの最後の歌、しかもティーレマンの指揮ということで期待に胸膨らませて行ったのだが、残念ながら満足感は得られなかった。彼女がいつも以上に繊細な表情付けをしようと抑えた声量で歌うのに加え、ガスタイクの貧弱な音響が手伝って全く音楽が伝わってこない。しかも2列目の席であったのが更に悪かった。以前後方の席でマーラーを聞いた時には十分聞こえたが、このホールは曲を考えて席を取らなくてはいけないようだ。ただ、エジプトのヘレナではリラックスして十分聞かせてくれた。声は出るということだ。
4つの最後の歌に関しては、折角の耽美的な場面が、殆ど憧憬を得られぬまま、何とかフレミングの表情を聞き取ろうとするところで終わってしまった。
ティーレマンは良い流れの時があったかと思うと、つまらなく音楽が停滞してしまう場面があるし、やはり指揮の下手さが気になる。齋藤秀雄のしゃくり上げに似た、膠着した縦の動きが頻発し、表現に関する動きが全く無い上にリズムが死んでいる。浄夜は殆どの場面はよかったが、やはりたまにそういう場面に出くわす。後半アダージョのチェロで始まる主題の部分は、オーケストラに助けられた。やはりドイツオケのチェロは心が篭っている。これが無かったら欲求不満のまま帰ることころであった。
夜はホテルのレストランでシーズンのSpargel(=白アスパラガス)を、愛飲のFranziskanerのWeisbiarで頂く。小サイズでも大きなアスパラ5本であったから、ドイツではやはり量に気を付けなくてはいけない。

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まずは旅程から。

4月16日 7:40タクシー 品川8:14-横須賀線-東京8:22 8:30-(Nex11)-9:29第1ターミナル
Apr.16(Wed)NRT10:55-(OS52)-15:55VIE16:45-(OS115)-17:45MUC Hilton City
20時ミュンヘン ミュンヘン・フィル 浄夜、ヘンツェ、4つの最後の歌

4月17日 20時ミュンヘン バイエルン放送響 ショパン、ラフマニノフ2 Hilton City

4月18日 MUC11:25-(LH1116)-LRJ12:30 列車15分
20時 ゲヴァントハウス リゲティ、マーラー4 Renaissance

4月19日 Apr,19(Sat)LEJ10:40-(AF1617)-12:20CDG Holiday Inn Bastille
20時パリ・バスティーユ ヴォツェック

4月20日 10:55 Gare du Nord-12:17 Brussels Midi ベルギー王立美術館
15時-17:30ブラッセル・モネ メデー/ルセ
19:30 Palais des Beaux-Arts La Fida Ninfa/スピノージ Scandic

4月21日 20時Palais des Beaux-Arts ファウスト/アーノンクール     Scandic

4月22日 8:27 Centraal-9:03 Gent, St.Baaf, MSK Gent, 11:24 Gent-12:00 Centraal
13:16 Central-13:34Aeroport BRU15:00-(SN2585)-16:25TXL  Adlon
7:40タクシー 品川8:14-横須賀線-東京8:22 8:30-(Nex11)-9:29第1ターミナル
Apr.22(Tue)NRT10:55-(OS52)-15:55VIE16:30-(OS7265)-17:40TXL 
20時ベルリン・フィルハーモニー ラトル・BPO

4月23日 19時ベルリン・シュターツオパー ペレアスとメリザンド Adlon

4月24日 Apr.24(Thu) TXL11:55-( AP4215)-13:30 LIN
15:00 Santa Maria delle Gracie  Bulgari
20時ミラノ・スカラ マクベス

4月25日 20:00 Aimo e Nadia Bulgari

4月26日 9:05Milano Centrale-IC611-12:09Venezia Santa Lucia Locanda Vivardi
13:30 Osteria alle Testiere 15:00 SMd Miracoli, Ss. Giovanni e Paolo, Scuola di S.Girogio
19時ヴェニス・フェニーチェ セビリアの理髪師
22時夕食 Antico Martini

4月27日 16:00-17:00 Peggy Guggenheim 17:30-19:15 Galleria dell’Accademia
19:30 Ai Gondolieri Locanda Vivardi

4月28日 12:43 Venezia-ES9473-15:22 Firenze SMN
15:57 Firenze SMN-17:14 Pisa S. Rossore 18:20 ピサの斜塔
19:07 Pisa S. Rossore-20:33 Firenze SMN 21時夕食 Baglioni

4月29日 ボローニャ ノルマ Baglioni

4月30日 サン・マルコ美術館(8:30-13:50) Baglioni
16:30 Galleria degli Uffizi
20時フィレンツェ カルメン

5月1日  Mar.1(Thu)FLR07:05-(OS538)-09:00VIE Radisson SAS
17:30-22:30 ジークフリート

5月2日 19:30-22:15 死の都 Radisson SAS

5月3日 ウイーン 15:30ヤンソンス、19:00-23:15フィガロ Radisson SAS

5月4日 May.04(Sun)VIE14:05-(OS51)-08:15+1NRT 車あり 

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2008年02月20日


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読者の方は私をクラシック一辺倒の固い人間だと感じてらっしゃるかもしれないが、実は人知れずビートル・マニアでもある。

「ザ・ビートルズ/サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」は、1968年にビートルズが打ち立てた、音楽ジャンルを超越した一枚。

テープによるマルチ・トラック録音、LPサイズによるコンセプト・アルバムなど、この時代を代表する方法論が全面に打ち出され、さらにロックを基盤としながらクラシックやジャズや民族音楽や現代音楽など様々な音楽要素を万華鏡のようにちりばめたトータル・アートの指向が全編に満ちている傑作である。

もっとも、本人たちはそう大層なことをやろうと思ったわけではなく、ちょっとみんなを驚かそうという遊びのつもりだったのかもしれない。

しかし、結果的にはクラシックとかポップとかいう次元を越えた20世紀を代表する名作の一つとなった。

ロックがクラシックの音楽家にも一目置かれるようになったのも、このアルバムがきっかけ。

クラシック音楽のブログにロックの名盤を混入させたのは、そんな理由から。

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2008年02月18日


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大河ドラマのファンにとって、待望のアルバムと言える。

大河ドラマは、原則として1年間に渡って放送されるので、メインテーマについては約50回程度聴くことになり、どのような音楽でも自然と耳に入ってしまう。

それ故に、過去の大河ドラマのメインテーマを聴くと、それぞれの年の想い出とオーバーラップして聴くことになるのが、懐かしくもあり、楽しくもある。

そのような貴重な体験をさせてくれる意味でも、きわめて意義の多いアルバムと言える。

筆者個人としては、大河ドラマを通しで見たのは峠の群像以降であるが、1年を通して聴いた曲については、まさに、それぞれの年の想い出に浸りながら楽しく聴かせていただいた。

峠の群像以降に限って言えば、ドラマとしての最高傑作は徳川家康といのち、楽しさだけに限れば、独眼竜政宗と八代将軍吉宗だと考えているが、メインテーマはいずれも超一流の作曲家の手による作品であり、音楽自体はいずれも実に高水準の優れたものである。

それにしても、世界的な作曲家であるモリコーネや武満徹、富田勲をはじめ、池辺信一郎など、超一流の者ばかりであるし、演奏も、デュトワやアシュケナージをはじめ、我が国を代表する指揮者によるもの。

加えて、我が国最高のオーケストラであるNHK交響楽団が演奏するというもの(3作目以降)であり、あらためて、大河ドラマの豪華さを思い知った次第である。

残念なのは、50作目の江が入っていないこと。

2月発売のCDとの兼ね合いがあることはよくわかるが、それであれば、時期を遅らせて、江を含めた上で発売しても良かったのではないかと思った聴き手は筆者だけではあるまい。

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2008年01月14日


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わたしたちは、ぜいたくになってきた。たんに物質的なぜいたくということだけではなくて、ぜいたくな時間、ぜいたくな空間を体験したいと思っている。

そのひとつの現われとして、音響も雰囲気もいいホールで、いい音楽をゆったりと楽しみたいという欲求も出てきているのだろう。

すると、これは下品な音楽ではいけない。やっぱりここは、クラシック音楽に登場してもらわなければなるまいということになるのである。

たしかに、クラシックは軽く聴かれるようになった。近寄り難い権威というのはなくなっただろう。

しかし、品のいい高級な音楽というイメージ、ハイ・アートとしての権威は、依然として保持されているのではないだろうか。

だからこそテレビCFが《高級感を出すために》クラシックを使ったりするのではないか。

言い換えれば、クラシックは近寄り難い権威から近寄り易い権威になったのである。誰もがカジュアルに楽しめる高級品になったのである。

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2008年01月13日


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20年くらい前と比べてみると、今わたしたちを取り巻く音楽は、驚くほど多種多様になってきている。

十分に多様化されたとは言わないが、それでもずいぶんといろいろな音楽にたくさん接することができるようになった。

その結果、当然のことながら、わたしたちの耳は鍛えられた。あるいは、べつの言い方をすれば、耳がぜいたくになってきたのである。

だから、ありきたりの薄っぺらな音楽では、もう満足できなくなってきている。ちゃちな音楽に、ぐらっと心動かされるというようなことが減ってきている。

また、いろいろなタイプの音楽を聴きたいという思いが強くなってきている。ワン・タイプの音楽だけでは、どうも飽きてしまうのである。

そこで、さまざまなジャンルを越境しながら、本当にぐっとくるハイ・クオリティの音楽を捜そうという志向が出てくる。

すると、そこにクラシック音楽があった。ここをよけて通るのは損である。もともとジャズやロックを聴いていたような人たちがクラシック音楽に耳を向け始める。

いわゆるクラシック音楽ブームの一角は、そういった層によって支えられているのであろう。

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2008年01月07日


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つまり、前項でも述べたようにオーディオは生演奏の代用品ではなく、それ自体が独立した音楽の聴取形態なのである。そして、オーディオがあって初めて普及するようになった音楽ジャンルも存在する。

例えばチェンバロやクラヴィコードあるいはリュートなどは音量が小さく、とてもコンサート・ホールで演奏できる代物ではなかったから、19世紀には全く忘れられてしまった。しかしオーディオのおかげでこれらの楽器の個性が再認識されるようになってきている。

オーディオのもうひとつの特徴は、CDやDVDでは繰り返し聴くことができる、という点にある。特に大規模な管弦楽曲などは、1回聴いただけでとらえられるものではない。2回、3回と聴くうちに、細部の微妙な表現から全体の構築性に至るまで、作品がより明確になってくるものである。

これはオーディオだから可能なのであって、もし一生のうち一回しか聴けない状況であれば、作品の理解ははるかに浅いものとなるだろう。

「何回も聴けると思うと真面目には聴かないものだ。一回だからこそ、全身全霊をあげて、一音も聴きもらすまい、と真剣に聴くのだ。」という反論もあろうが、これは負け惜しみだ。

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私は昨年クレーメルとツィメルマンのコンサートに行く予定だったのが、友人宅の優秀なオーディオでオイストラフとリヒテルのフランク/ヴァイオリン・ソナタを聴いて、これをしのぐ演奏はありえないと考えコンサートに行くのをやめてしまった、という記事を書いたが、ここで問題となるのは、「やはりクラシックは生で聴かなければ本当の良さがわからない」という見解である。

結論を先に述べるなら、「同一の演奏が適切な環境で聴ける、という条件が満たされる場合にのみ、ライヴはオーディオをしのぐ」といえよう。具体的にいうなら、例えばクレーメルやツィメルマンが最高のコンディションで、最高の集中力で演奏したフランクを、適切な演奏会場のよい席で聴くことは、同一の演奏のCDを聴くことよりも良いだろう、ということである。

しかし、このような条件はまず満足されることがない。したがって「ライヴはオーディオをしのぐか」という発問は、実際にはほとんどの場合「凡庸なライヴは卓抜な演奏のオーディオをしのぐか」と書き換えられ、この場合の答えは「ノー」である。

良い演奏は音質や臨場感で高められはするが、良くない演奏は、いくら音質が良くても良い演奏にはならないのである。しかも、実際にはライヴは音質の面でも、必ずしもオーディオより良いわけではない。

演奏会場には結構ノイズがある。咳ばらい、空調、隣席の物音などは確実にS/N比を損なっている。周波数特性、音圧レベル、残響特性はマクロにはホールの設計に左右されるが、座席の位置にもかなり左右される。個々人の耳たぶの形状にさえ左右されるのである。

だから、「クラシックはライヴに限る」などというのは一種の迷信なのである。

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2007年10月09日


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たとえ私のようなクラシック音楽狂の人間であっても、世間一般の人々が岩波の青本を読む気を起こさないように、何もワーグナーの楽劇の大作とか新ウィーン楽派の難解な音楽を聴いておかなければならぬ、といった考えは毛頭ない。

確かに現代は働くのが精一杯(特に日本人は)な我々の周囲から何かと「意味」と呼ばれているものが急速に抜け落ちてしまっている時代といえる。

とはいえ芸術のなかに日常生活から想像もつかない不可思議な「意味」を見い出そう、または追い求めようと努める者にとってみれば、現実の日常生活においては、重厚な発想に裏付けられた「意味」から重さがなくなり、軽薄なものしか見当たらないと断定したくなる気持ちにならざるをえない。

新世紀を生きていく上で、常に変わらざるものを問い続ける姿勢を保ち続ければ、周囲から違和感の目を持たれかねないが、個々の現象的なものからより真なるもの、究極的なものに思惟が向かうならば、自らを取り巻く世界の出来事を「意味」付けすることによって価値を問わねばならないという思いに至るのである。

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それにしてもクラシック音楽を聴く人が少ない。がぜん少数派である。

私は早大時代有志とさんざんあれこれ思案してポスターを作って、学内に張りまくったのだが、集まらないこと夥しいのだった。

もっとも「フルトヴェングラー研究会」というサークルの名前そのものがまずかったのかもしれない。ちょっとイデオロギーがかってると誤解する人もいるのかもしれないし、実際私の知っている教授はフルトヴェングラーをナチだと決め付けてかかってくるのもいた。

フルトヴェングラーとナチスとの関係については、いずれ詳細に述べようと思うが、フルトヴェングラーが戦後裁判にかけられた時にユダヤ系のユーディー・メニューインが強力に援助の手を差し伸べたことや、彼が戦後シカゴ交響楽団に招聘された時に、多くのアメリカで活動している音楽家たちが反対運動するなか、同じくユダヤ系のブルーノ・ワルターが賛成したことからも、フルトヴェングラーの良心は明らかであるとだけここでは述べておく。

話は戻るが、クラシック音楽は古典である。それゆえ何か特別の縁がない限り、一生触れないことがあっても不思議ではない。私としてはこんなにもったいないことはないと思うのだが…。嘆いてばかりいても仕方がない。私がブログを立ち上げる意味もまさにそこにある。

クラシック音楽に少しでも興味のある方が、上記のCDを縁にクラシックを聴いてみたいと思っていただければ幸いである。

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2007年10月07日


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しかし、これらを満足しうる演奏は少ない。

20世紀最高のワーグナー指揮者であるとともにブルックナー指揮者として一世を風靡したハンス・クナッパーツブッシュにしても、ライヴ録音には粘り強いロマン的な表情があり、ブルックナー様式とややかけ離れた感を与える。

従って、クナとカール・シューリヒトの正規録音が最高である。

その他日本には馴染みが深くて定評のあるロヴロ・フォン・マタチッチには優れたライヴ録音がある。

録音の多い朝比奈隆とオイゲン・ヨッフムは前者にはオケの弱さ、後者にはムラッ気があるが、廉価で交響曲全集の一つを揃えられたい向きにはうってつけ。目安としては朝比奈は最近のもの程良く、ヨッフムは新旧両盤どちらとも言いがたい。

交響曲全集よりもまず、ブルックナーの音楽の特質であるスケールの大きさ、オルガン的な響きの美しさ、宗教的な深さを感じられたい向きには、朝比奈指揮大阪フィルの名高き聖フローリアンでの実況録音(7番)をお薦めする。

これはブルックナーの入門であり、深奥でもある。これこそ日本人の誇りである。

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ここでまず強調しておきたいのは、作曲家を解釈する演奏家の問題についてであり、これについては後々私のブログのテーマになるのだが、特にブルックナーの演奏についてで、特にブルックナーはナイーヴなのだ。演奏家によって生きも死にもする。それがただ単に凄い指揮者と優秀なオケだと名演奏になりえるとは必ずしも限らない点がユニークなのである。

私は、一時期まで宇野功芳氏の批評に全面的に賛同であった。しかし最近になって宇野氏が批判するフルトヴェングラーやカラヤンのブルックナー演奏にも素直に感動できるようになった。前者の精神性の高さと深さ、後者の良く彫琢された美しい表現も、ブルックナーは許容しうるだけの懐の深さはある作曲家ではないだろうか。

とはいえ、大自然の寂寥と人間の孤独を表現したブルックナーは、ドライな感情の人間には演奏できるか甚だ疑問であるし、即物的な演奏態度によっては必ずしもその本質を具現しない。徹底的に心象の世界の音楽だからである。そこで、私は以下のような基本的な考え方を変えていない。

1 厳しい客観性をもち、効果を狙いすぎず、あるがままを再現する。

2 透明な音感と、響きの透明度が必要。

3 「詩情」がほしい。

ブルックナーの名演へ

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2007年10月06日


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「スコアに忠実に」ということを極端に実施した例といえば、ベートーヴェンの交響曲第3番「エロイカ(英雄)」第1楽章のコーダで第一主題がトランペットに現れるところ、途中トランペットのテーマが消えてしまう演奏(ゲオルグ・ショルティの89年盤等)みたいに余りにもスコアに忠実なのには驚くばかりである。

ご存知のようにベートーヴェンが生きていた頃のトランペットにはそれ以上の音域が吹けなかったのだ。それを忠実に実行したところで何の意味があるのだろうか。ちなみにそれを「忠実に」実行したショルティは、これまた「忠実に」提示部の反復も行っている。

ライヴならともかく、家でCDを聴いてるのに、もう何度もその曲を聴いてて細部まで知り尽くしているのに、ご丁寧にも反復されたのでは、私などうんざりしてしまう。提示部の反復によって音楽が発展、止揚されているのであれば文句は言わない。全く同じ繰り返しなのである。

最近のリッカルド・ムーティ指揮のモーツァルトのシンフォニーなんか、さらにご丁寧にも展開部から再現部にかけても反復を実行している。皆様はどう率直に感じられるだろうか?何度も聴けてラッキーと思われるだろうか?そうではあるまい。反復なぞしなくても、それこそ一期一会、その演奏家の一世一代の名演を聴きたい!とお思いになるのではないだろうか(最近驚愕したのはムーティが「ザ・グレイト」でも反復を実行していたことである)。そこまで忠実にスコアを実行するのは不自然ではないだろうか。

ちなみに私はショルティもムーティも嫌いな指揮者ではない。むしろそれまでいい演奏をしていたからこそ、度重なる不自然さに疑問を呈したいのだ。

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2007年10月05日


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同曲異演奏などまだ聴き比べる程聴きこんでないという初心者には、クラシック音楽は初めは堅苦しく感じるかもしれないが、聴くにつれて慣れるものである。何も岩波の青本を読むような知的忍耐力を要しない。

私の場合初めはどこかで、例えばCMや映画などで使われた音楽の断片が記憶に焼きついて、その断片を含む曲であれば、初めて耳にしたときでも全体を興味深く聴き進められた。CMや映画で印象に残ったフレーズを探すことにとても愉悦感に浸れた時期が確かにあった。

上にあげたものはクラシックの入門の入門である。クラシックをそもそも聴かない人やアレルギーを感じる人向け。

そしてそうこうしているうちに、古今の名曲の大半は聴き終えてしまう。大体そういった時期になると曲自体よりも演奏の方に興味が沸いてくる。というのは、演奏家が平凡だと、作品自体までその演奏家の水準に落ちてくることが身に滲みてわかってくるからである。

年末になると各地で開催される「第九」のコンサートに嫌気がさす方々も少なからずいらっしゃるのではないだろうか。

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2007年10月04日


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前置きが長くなってしまったが、要するに「クラシック音楽中毒患者」なのである。

クラシック音楽は私の「信仰」でもある。

前述したように、入学当初新興宗教のサークルに誘われたり(これが皆いい人ばかりなので厄介)、クラスメイトから健全な志向へと導かれたりして様々な刺激を受けた。

しかし現在も続いている親友のほとんどはフルトヴェングラー研究会の人たちである。この友情は廃ることがないと思う。

友人はほとんど結婚してしまったが、結婚式の選曲も楽しかった。

私はこのままだといつ結婚するのか知れないが、もし私が結婚するとしたら、結婚式では、ある先輩は居合の演舞、ある後輩は能を披露してくれるそうである。

それも私がクラシック音楽を通して真実を語ってきた功徳なのかもしれない。


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2007年10月03日


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早大時代は個性的な友人に恵まれて幸福だった。

それでも入学当初は迷える子羊を誘うがごとく新興宗教に入り込んだこともあったが、良き友人の導きによって、フルトヴェングラー研究会に入った。

3年生の時幹事長になり、サークルを大学公認に昇格させた。

入学式の時に奥島総長が言ったように、早稲田に豊穣の海を見出すか、不毛の砂漠に彷徨うかは全て本人次第である。

今思えば私は充実した大学生活を送ることができたと思う。何せ卒業論文まで好きなクラシック音楽、それもフルトヴェングラーについて書くことができたのだから。

色々あったけれども文句なしである。

大学を卒業してからは職業を転々として、イタリアにも行ったりして、今現在は帰省している。


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それから私は東京の早稲田予備校の寮で浪人生活を送った。

ところがその予備校の指導方針が私に合わなかったと感じた。それでも元々できる奴は自分で勉強して開拓していくのであるが、私は行き詰っていた。

そこへ親友が代々木ゼミナールを紹介してくれた。

代ゼミの人気講師陣は違った。つまらない受験勉強を通して人生を語るのだった。

私は填まりこんだ。そのまま二浪目は代ゼミで過ごし、晴れて念願の早稲田大学文学部に合格した。


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2007年10月02日


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純粋だった私の心は荒れ狂った。夜中自転車で遠くまで徘徊した。

家に帰ったら、シューマンの「詩人の恋」をフィッシャー=ディースカウ(バリトン)とエッシェンバッハ(ピアノ)でむさぼるように聴いた。

私は詩人になった。ハイネの詩を追体験した。後で思えばシューマンやハイネの意図する詩人はもっと大人の恋だったのだろうけれども。

当然受験は玉砕である。まぁ第一志望校(早稲田)しか受けなかったから仕方ないが…。

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ところがである。高校3年の夏休みに両親の縁でたまたま家庭教師を頼むことになった。女性だった。早稲田大学の1年生。憧れの第一志望校である。ルックスがまた私のストライクゾーンのど真ん中だった。一目ぼれしてしまった。これでは勉強にならない。

今思えば与えられた宿題を形だけ一日10時間位こなしただけだったといえようか。教えてもらう時間はほとんどデート気分である。とはいえ生真面目な性格だったので、怠けてるつもりは毛頭ない。

しかし夏休みは当然終わりの時が来る。当然彼女は東京へ帰ってしまう。最後の日、母が運転する車で駅まで送って、その去りようを見て切なくてたまらなくなった。帰宅しても当然勉強どころの騒ぎではない。彼女にラヴレターを書く決心をした。それこそ熱烈な思いを込めて書いて送った。結果は火を見るより明らかである。

「私は他に好きな人がいます。」


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2007年10月01日


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色々と音楽評論文を(卒論も含めて)書いてきたが、「優れたCDを挙げろ」と言われて選出するのは、大変な難問である。これがよくある雑誌の採点ものだったら案外すっきり割り切れるのだと思うが、「好きなCDも含めて」というのであれば多少ニュアンスは異なり、自らの感性を中心にして考えることができる。

ここでの目的は、どこまでも「優れた〜」を選ぶことであるが、それと「好きな〜」とがある程度一致するとしても、勿論それで全てという訳ではない。それにそれぞれの古典の名演奏に順位をつけるなどというのは、もともと不可能なことなのだが、遊び気分で一応挙げる(それでも真剣に!)だけのことである。

どんな場合でもそうであるが、「好き」であることの順位などは、その日その時で変わることがあっても不思議ではないのだと思う。とはいえ、選出するものは「私の琴線に触れる」ものばかりで、このブログを読んでくれる方々にも共感してもらいたいものばかりである。

まぁ読んで頂ければ、私が特に選り好みをせず、作曲家のジャンルも演奏家のそれも、それなりに聴きこんでる奴だと納得して頂けると思う。まず、私が長年傾倒しており、初心者の多くの方に耳慣れないユニークな作曲家について、紹介を含め持論を展開させて頂く。

ブルックナーへ

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何だかこれまで書いてきた文章は余りにも構えすぎていて、もっとブログなんだから「徒然なるままに」記しても良いのではないかという気がしてきた。

ブログにしては特殊性に染まりすぎている。これでは読んでもらえるのも読んでもらえない。読者も著者の略歴も知らないで読むのは、ラベルの分からないワインを飲んでいるようで、安心できないだろうから、簡単に自己紹介させて頂く。

私は1974年、熊本県天草郡(現上天草市)生まれ。地元の公立小学校を卒業した。割と運動神経が良い少年でクラス委員などもやる活発な少年であった。卒業写真には「尊敬する人」→「ヘルベルト・フォン・カラヤン」、「将来なりたい職業」→「指揮者」という極めて無邪気な少年だった。

中学校から熊本市に移住した(両親は公務員)。これは両親が熊本市の県立のトップクラス校に入学させるためで、中学時代は塾に通ったり、家庭教師に教えてもらったりと結構それなりに勉強したつもりだったのだが(直前の模試でも成績優秀者の載った)、志望校に落ちてしまった(どうもこの頃から私の人生は狂い始めてたようである)。あがり症のためである(多分)。

やむなく某私立大学の附属高校に通うことになった私は、いきなり担任の教師からこう言われた。「公立に落ちたことは忘れてしまいなさい。これまでもそうした人が充実した高校生活を送ってきてます。」私は納得がいかなかった。なぜなら周囲の生徒で校風に馴染んでいった奴等は、ただその日が良ければそれで良し、遊んでいるようにしか映らなかったからである。

私は流されそうになりながらも、青山学院出の教師の触発や、有名な和田秀樹の「偏差値50からでも早慶に受かる法」を読んで一発逆転を虎視眈々と狙っていた。ちなみに6歳から習っていたピアノもこの頃やめてしまった。

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