筆者のこと

2019年10月12日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



専門的なチェック機器やメーターを使うことなく、家庭のオーディオ空間や機器をある程度本格的にチェックできる簡易なディスクであることを評価したい。

SACDバージョンに関しては、音質を聴き比べるためのサンプラー盤は幾つかのメーカーからリリースされているが、細かい検証ができて鑑賞のための基本的な改善が可能なディスクは今のところこれが唯一だろう。

先ず左右片側ずつ及び両側同時チャンネルでスピーカーの接続エラーがないか確認後に、中央からブレのない信号音が聞こえてくるか位相をチェックし、スピーカーの位置関係を矯正することによって正しい音場が得られる。

部屋の形がシンメトリーでなくても、ある程度はユニットを的確に移動させることでコンサート・ホールの音響に近づけることができる。

それからピンク・ノイズを使った音色調整をしてから、音域ごとの帯域バランスをチェックするのが最も基本的な事項だろう。

更にリファレンス信号と周波数スイーブ・セクションが続くが、ここでは自分自身の聴覚の検証を行うことにもなる。

サラウンドを装備している方には同様に5,1chのそれぞれと全チャンネルからの信号を正確にキャッチするための調整が可能だ。

パイプ・オルガンの低音部の響きにはサブ・ウーファーの位相の確認も重要だろう。

一通り基礎的なチェックを終えてオーディオ環境を改善した後は、後半のデモンストレーション音源で、どの程度音場やバランスが改善されたかを鑑賞しながら確認できる趣向になっているが、この音源も勿論2チャンネル用とサラウンド用の2種類が収録されている。

サンプルはクラシック音楽が殆んどだが、さまざまな楽器によって編成されているオーケストラやソロの音源で音場や定位、音色などを調節することは他のジャンルにも応用できる。

1曲だけがカーティス・フラー・クインテットによるモノラル録音も含まれているので、中心が定まっているかどうかこの演奏で検証できる。

またこのディスクはハイブリッド仕様なので、レギュラー・フォーマットCDとSACDの音質の差や音色の滑らかさの違いも1枚で試聴可能だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 12:12コメント(0) 

2019年10月08日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



日本人によって書かれた殆ど唯一のマニエリスムに関する本格的な論述である。

マニエリスムとは危機の時代の文化である。

世界調和と秩序の理念が支配した15世紀は、黄金のルネサンスを生み出した。

だが、その根本を支えてきたキリスト教的世界像が崩れ、古き中世が解体する16世紀は、秩序と均衡の美学を喪失する。

不安と葛藤と矛盾の中で16世紀人は「危機の芸術様式」を創造する。

古典主義的価値をもつ美術史により退廃と衰退のレッテルを貼られてきたこの時代の芸術の創造に光を当て、現代におけるマニエリスムの復権を試みた先駆的な書である。

ルネサンスとバロックの狭間に咲いたあだ花のように蔑視されてきた芸術が開花した歴史的背景とその再評価が若桑氏の深い洞察と広範囲に渡る研究によって明らかにされていく。

プラトンによって唱えられた現世における人間の姿、つまり肉体という牢獄に閉じ込められた精神の苦悶とそこから解き放たれる自由への渇望をこの危機の時代にミケランジェロは身を持って体験し、それを自分の作品に具現化させようと試みた。

それはもはや現実的な実態とはかけ離れた精神的な実在に迫る表現であり、ルネサンスの物理的に精緻な物差しを使って彼の作品を計り、理解しようとすることは無謀だろう。

更にブロンヅィーノに至ってはミケランジェロの三次元的な形態は受け継がれたものの、その精神は寓意によってすり替えられた。

彼は自分の作品を病的なまでに寓意で満たし、後の時代の人々が解読不可能になるほどの技巧を凝らせた。

一方パルミジャニーノは既成の空間を反故にして見る者の視線から焦点を逸らし、なかば強制的に思考の迂回を図った。

そうした方法がヴァサーリの言うマニエーラ、つまり作品の背後にある作者の思索を感知させる手段として追求されたのがこの時代の芸術だろう。

そうした意味で本書はミケランジェロとその時代を画したアーティスト達の作品を理解するうえで非常に有益な示唆を与えてくれる。

また後半部に置かれたマニエリスト達の作品の宝庫、フランチェスコ・デイ・メディチのストゥディオーロについての詳述も圧巻だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 12:37コメント(0) 

2019年09月11日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



下巻ではイタリア・ルネサンスが生んだ綺羅星のような多くのアーティスト達の活躍が詳述されているにも拘らず、その時代のイタリアの政治的あるいは文化的な凋落がまざまざと明らかにされている。

先ずルネサンス発祥の地とも言えるフィレンツェから次々に有能な職人が離れていく。

高階秀爾氏の『フィレンツェ』によればロレンツォ・デ・メディチの外交政策によって彼らがイタリア各地に派遣されるが、職人たちは祖国に帰らなかった。

条件の良い土地で働くことを望んだのだが、その理由のひとつにサヴォナローラの事実上のフィレンツェ共和国統治にあるだろう。

サヴォナローラについては本書第2章が捧げられている。

『虚栄の焼却』によって貴重な芸術作品の多くがシニョリーア広場で焼き尽くされた。

こうして人間的な自由で開放的な芸術活動は一切否定されることになる。

彼の息の詰まるような行き過ぎた政策は反感を買うが、ついに彼は教皇アレクサンデル六世への痛烈な批判によって『虚栄の焼却』と同じ場所で火炙りの刑で処刑された。

サヴォナローラが登場したのはメディチ家の牽引した高い文化と同時に享楽社会の絶頂期にあった。

その意味ではこのドメニコ派の僧侶も時代の子と言えるのではないか。

第69章はミケランジェロで、彼はルネサンスから次の時代に芸術活動を切り拓いた巨星だが、彼も少年時代にメディチ家の当主ロレンツォ・イル・マニーフィコとの偶然の出逢いがなければその驚異的な才能を開花できただろうか。

ロレンツォはミケランジェロの才能に驚き、彼をメディチ家に招いて食住を共にさせ教育させる。

当時最高の知識人から受けたあらゆる教養がミケランジェロの作品に滲み出ていることは明らかだ。

教皇ユリウス二世とは腐れ縁で、喧嘩ばかりしていたが何故か最も重要な仕事の幾つか成し遂げている。

彼のオーダーで描いたシスティーナ礼拝堂の天井画はミケランジェロ処女作のフレスコ画だった。

完成直後にダ・ヴィンチが法王庁にやってきて二年間の滞在をしているが、この時期ローマはまたラファエッロ全盛期で、膨大な仕事を請け負って代表作を生み出していた。

こうした切磋琢磨ができたのはやはり時代の成せる偶然だったのだろうか。

この頃がヨーロッパにとってもイタリアが最も輝かしい芸術の都であり、しかし一方で斜陽が射し始めていた時期だった。

ドイツ・ルネサンスの担い手、デューラーも二度のイタリア旅行でジョヴァンニ・ベッリーニなどから多くの影響を受けている。

第68章では斜陽のイタリアと題して16世紀末のイタリアがヨーロッパの文化の主導権から離れていった実情が説明されている。

実質上イタリアには宗教改革は及ばなかったために個人の権利義務の意識も稀薄だったとしている。

国内にスペインの覇権が確立しても大きな抵抗はなかった。

著者はローマ教皇庁の反宗教改革が勝利する中で、イタリア人の気骨は失われ、そのために彼らのサーヴィス業に対する適正がこの頃から顕在化したとしている。

現在のイタリア人が世界最良の給仕であり、ドアボーイであり、また世界最良の靴磨きなのは四百年前から始まったと皮肉を込めて書いているが、これは少し言い過ぎかもしれない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 11:54コメント(0) 

2019年09月04日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



イタリアのジャーナリスト、モンタネッリとジェルヴァーゾの共著による『ルネサンスの歴史』文庫版の上巻になり、ルネサンス黎明期のイタリア小国家同士の紛争と教皇庁対神聖ローマ帝国、そして領土拡張を狙う近隣諸国の四つ巴の確執やヨーロッパを波状攻撃で襲うペストの流行の中で何故ルネサンスが起こったかが前半に説明されている。

そのひとつの理由として著者はイタリアには国家統一構想の観念も気運もなく、それぞれの領主がそのエネルギーを宮廷文化に注ぐことができたからだとしている。

一見独断と偏見に満ちた解説のようだが、実はそこに事実を見極める冷徹な眼がある。

例えば教皇庁の以夷制夷はお家芸とこき下ろす。

つまり敵対する国には他国を戦わせて自己の保身を図り、常に風見鶏的な政策を取って権威と利権にしがみつくだけの存在に堕していた。

そして歴代のローマ教皇の失態とそれに続くアヴィニョン捕囚への歴史が暴きだされている。

ルネサンス黎明期を担った文豪としてイタリア語という俗語で高度な詩のスタイルを完成させたダンテ、俗語によるヨーロッパ初の小説を書いたボッカチオ、そしてラテン文学の健在を示しながら実はイタリア語の達人だったペトラルカを詳細に解説しているが、ダンテは文人であるより先ず政治家であり、生涯政治闘争に巻き込まれ翻弄された。

そこにはまた大商人の興隆が無視できない。

モンタネッリは近代的商人の鏡としてフィレンツェのフランチェスコ・ダティーニの章を設けている。

彼は如何に多くの利潤を引き出し、損失を出さないかを徹底した記録と統計によって取り引きした。

勿論そこに天才的な勘を働かせていたことも事実だろう。

政治には全く関与しなかったので、相手が見方であろうが敵であろうが武器を売って一大財産を築き上げた完璧な商人気質だった。

彼より更に老獪だったのが銀行家コジモ・デ・メディチだ。

彼は金銭の力を誰よりも信じていたし、世の中に金で動かないものはないという哲学を持っていたが、またそれを使う術も熟知していた。コジモは驚くべき寛容さで画家、彫刻家、建築家を起用してフィレンツェ共和国を飾り、私設のアカデミーを創設してヨーロッパ最高の知識人を集めたサークルを開いた。

潔い性格でも知られていて、ライバルのアルビッツィ家の陰謀で国家反逆罪の逮捕状が出た時、コジモは逃げも隠れもせず死刑を覚悟で出頭した。

ただし裁判官に金を送って死刑は十年の流刑に減刑され、更にそれは一年に短縮された。

彼がフィレンツェに返り咲いた時には庶民から凱旋将軍のように受け入れられたという。

常に庶民を味方に付けるのもメディチ家のストラテジーだ。

ここではまた建築家ブルネッレスキ、彫刻家ドナテッロそして画家マサッチョなどが説明されている。

コジモから直接人生訓を受け継いだのが孫のロレンツォで、彼は教皇領イモラを強引に統合したことで教皇シクトゥス四世の恨みを買い、教皇にそそのかされた宿敵パッツィ家の謀反によって弟ジュリアーノを殺されただけでなく、教皇庁とナポリ王国から宣戦布告を受けるが、果敢にもロレンツォは単身ナポリに乗り込んでフェルディナンド王との直談判によって和平協定を結ぶという離れ技をやってのける。

メディチ家の治世に真っ向から反対の説教を繰り返したドメニコ派の僧サヴォナローラには常に寛容の態度を示し、死の床にあってサヴォナローラを呼び寄せ告解をして世を去った。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 12:31コメント(0) 

2019年08月06日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



エンニオ・モリコーネの映画音楽ベリー・ベスト盤は10年ほど前に企画された、オリジナル・サウンド・トラック60曲を収録した3枚組『プラチナム』だが、今回のアルバムは彼自身が選曲してチェコ・ナショナル交響楽団を指揮したものだ。

録音会場はプラハ、ダブリン、ロンドン、ケルン、アントワープ、アムステルダム及びロックロウの七箇所に渡り、ミキシングはローマで行いマスタリングはロンドンのアビーロード・スタジオという、まさにヨーロッパ・ツアーでの精力的な音楽活動とその成果が結集されている。

トラック20から23の4曲を除いてその他の総てが新規に録音されたものになる。

収録曲は23曲でCD1枚分に纏めてあるが、レギュラー盤、ボーナスDVD付2枚組、LP仕様と更に日本盤のSHM−CDを加えると実に4種類の選択肢があり、ここではDVD付ヴァージョンの概要を書くことにする。

DVDにはアメリカの映画監督クェンティン・タランティーノの作品のために作曲された音楽の収録風景が映し出されている。

チェコからロンドンのアビー・ロード・スタジオにやって来たオーケストラを指揮するモリコーネの姿を中心に、彼らや録音担当のエンジニア及びスタッフへのインタビューなどで構成されていて、1本の映画を制作するためのコラボへの情熱と矜持が表れている。

ここでは実際の映像シーンをオーバーラップさせながらフル・ヴァージョンのスコアが演奏されているが、最近の彼の作風を知る上で興味深い。

尚ここで演奏されている作品は『エクソシスト』より「リーガンのテーマ」、『ヘイトフル・エイト』より「レッドロックへの最後の駅馬車」、「雪」及び「白の地獄」で、これらの曲はCDの方には組み込まれていない。

言語は英語でサブタイトルも英語のみ。

ごく簡易な紙ジャケットにCDとDVDが挿入されていてトラック・リストが掲載されたパンフレット付。

モリコーネの音楽には庶民の夢や希望、そして哀感が巧みに表現されていて、そうした独自の手法は彼が担当した映画を青春時代から観てきた筆者を強い郷愁に駆り立てる。

勿論筆者だけでなく、それらの作品に共感し励まされ、また涙した人も数限りない筈だ。

彼の音楽は聴衆に媚びるのではなく、心の琴線に触れるような温もりがあって、それがもはや帰ることのない失われた日々へのララバイのように聞こえてくるのは年のせいかもしれない。

映像とサウンドを離れ難く結び付ける彼の手腕は天賦の才と言うべきだろう。

彼がイタリアでは先輩ニーノ・ロータ亡き後の映画音楽の巨匠であることは明らかだが、未だ衰えることのない活動を続けているのは頼もしい限りだ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 11:46コメント(0) 

2019年07月24日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



本書のタイトル『自分のなかに歴史をよむ』は著者阿部氏の歴史を理解する上での、自分自身の接し方を解説したもので、彼にとって歴史を理解することは事件の流れをクロノロジカルに記憶することではなく、その根底に潜んでいる自分の内面と呼応する関係を発見し、納得した時初めて理解できたと言えるとしている。

前半では自伝的な記述が多く、彼が少年時代に預けられた修道院での生活が思い出されているが、それは彼とヨーロッパを繋いだ鮮烈な体験であり、その後の彼の生涯を決定づける経験になっていることが理解できる。

しかし体験を活かすには、それを対象化する自己の意識と幼い頃の感受性を忘れないことが重要だとしている。

苦学生だった頃、優れた教師に恵まれ、借金をしながらも自分の進むべき道を模索し続けたことで、彼は35歳でドイツ留学を果たすが、ドイツでの古文書研究から想像していなかった副産物を得ることになる。

それが中世の差別意識の萌芽で、この研究は帰国してから『ハーメルンの笛吹き男』として実を結ぶ。

彼が調査の課題としたドイツ騎士修道会の古文書を読んでいる中で、偶然1284年6月26日にハーメルンの町から130人の子供達が行方不明になったという記録を見つけた時、体に電流が走るような戦慄を覚えたと書いている。

それは幼い頃に読んだ不思議なネズミ捕りのメルヘンが根拠を持つ実話だったことへの衝撃だった。

しかしこの笛吹き男が当時忌み嫌われ、差別されていた賤民だったことから彼の興味は俄然差別意識の原因とその成立の解明に向かう。

ただしこの男は実際には笛吹ではなく、当時貧困層の外部への入植を世話する斡旋人であったと考えている。

そこで阿部氏は何故彼らが賤視されるようになったかを調べるに至ったようだ。

実はそれがキリスト教の布教に大きく影響を受けていることに気付く。

中世に生きた人々の宇宙観は人間が制御し得る小宇宙とそれが不可能な大宇宙という関係にあったようだが、キリスト教はそれを否定し、総ては全能の神が創造した唯一の宇宙という教えが定着する。

それによってそれまでふたつの宇宙の狭間で生業を営んでいた死刑執行人、墓掘り、放浪職人や旅芸人などは、その神秘性を暴かれ職業的権威が失墜し、必要な職業であるにも拘らず彼らは単なる汚れ仕事に携わる人、あるいは河原乞食としての賤視が始まる。

この現象を理解することは容易ではないと著者自身書いているが、特殊な能力を持つ者が公の立場から一度排除されると、かえって周りからやっかみを買うだけでなく、彼らに抱いていた畏怖の念が歪められて差別の対象になるという説には、人間にそもそも備わっている差別意識を解明しているようで重みがある。

だからハーメルンの町では多くの子供達を連れ出した張本人として辻芸人の笛吹き男に責任転嫁したメルヘンが形成されていったというのが事実らしい。

勿論メルヘンでは約束したネズミ捕りへの支払いを拒否した町の裏切りというスパイスも巧みに加えて教訓にしているのだが。

世界宗教を標榜するキリスト教では1人でも多くの信者を獲得するために、民族、文化や言語の隔たりを超越した合理性が求められるようになる。

ヨーロッパと日本の間に存在する隔たりを説明する時、産業革命をその根拠の裏付けにする学者もいるようだが、確かに物質的あるいは時間的な合理性には頷けるとしても、より精神的な合理性は阿部氏の言うように中世を通して定着するキリスト教の影響が大であるとする考察には説得力がある。

ここからは日本の負の部分が語られている。

つまり合理性に欠けることが閉鎖性を促すという考えで、欧米では能力次第でアジア人が大学教授やオーケストラの指揮者、バレエのプリマにもなれるが、日本の伝統芸能の世界では完全に門戸が閉ざされているということだ。

近年大相撲で横綱になる外国籍の力士も出てきたが、それは相撲部屋という因習を甘んじて受け入れるという大前提があり、相撲協会でも力士不足を解決する已むに已まれぬ事情があることも事実だろう。

西洋人が能や歌舞伎役者になることは著者の言葉を借りれば絶望的だ。

阿部氏は別の著書で、日本の旧帝国大学は西洋からその制度を取り入れたものの、実際には国家のために尽くす官吏や上級役人を養成する施設で、学生が自主的な研究で成果を上げる場ではないと書いている。

こうした現状からは高度な学術の研究や発展は望むべくもないとしている。

確かに優秀な能力を持つ者が、国にへつらうことを学生時代から鍛えられているというのは耳の痛い話だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:20コメント(0) 

2019年06月25日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



この笑話集を読み解くにはある程度の予習が必要であることを断っておかなければならない。

先ずここに集められた話の主人公ティル・オイレンシュピーゲルが中世時代に差別を被っていた賤民だったことに注目すべきだろう。

これについては非常に奥の深い歴史的事情が関わっているので、阿部氏の中世シリーズの著作を読むに越したことはないが、ティルは階級社会から見捨てられた放浪者で市民たりえない下層のランクに位置付けられていた人間だった。

しかし賤視されるに至った職業は元来人間の制御できない世界との仲介となる、例えば死刑執行人、動物の皮剥人や放浪芸人などで、彼らは意外にもキリスト教の徹底した布教によって世の中の片隅に追いやられてしまう。

そしてティルに一杯食わされるのは領主やカトリックの高位聖職者、あるいは富裕な商人達は勿論、庶民にもその鉾先が向けられる。

しかもその手段にはスカトロジックな戦法が容赦なく続出する。

それはティルの権力への価値観を見事に表明していると同時に、権力におもねる者や階級社会に隷属する人々への痛烈な反感を示しているが、また著者は非常に注意深くこのことを『中世賤民の世界』のなかでも言及している。

阿部氏によれば中世の人々は人間によって制御できる小宇宙と制御不可能な大宇宙との係わり合いで生きていた。

そして大宇宙をも制御できると思い上がった者は、それによって翻弄される結果を招く。

ここでティルに振り回される人々は、自分自身自覚していないにせよ、まさにそうした連中なのだ。

中世時代には、人の体に空いている穴は小宇宙たる人間が大宇宙と結び付く場所として捉えられていた。

それゆえ人は口から大宇宙からのものを体に取り込み、肛門から大宇宙に戻すという営みを続ける。

ティルのストラテジーも単に人々に汚物をぶちまけて仕返しをするという意味の他に、それが最後に返るべき大宇宙に返す行為であることにも気付かなければならないだろう。

また言葉の遊びも随所に現れる。

ドイツ語の方言による行き違いや、名詞の意味の取り違いなどでもティルは意気揚々と相手をへこませる。

第60話ではワインをくすねたかどで絞首刑を宣告されたティルがやすやすと解放されるが、ここでもこの時代特有の風俗習慣を理解していないと落ちが分からない。

いずれにせよ注釈がかなり丁寧に付けられているので、短い話でもその都度理解しながら読み進めていくことが望ましい。

この訳出ではティルの誕生からその死に至るまでのエピソードが阿部氏によってクロノロジカルに整理され、話の進行が分かり易くその前後関係も明らかにされている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 12:40コメント(0) 

2019年06月17日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



文庫本化された吉田秀和氏の文章をまとめて読むことによって、音楽批評家の役割について改めて考えさせられた。

批評家の仕事は自己の感動や思い入れをできる限り平易な言葉、あるいは文章で表現し、対象となる楽曲のあるべき姿を一般の人々に伝え、鑑賞者を啓蒙することにあると思う。

彼はその能力においてひときわ優れている。

しかし吉田氏のような批評家でも自分の考えていることを文章にできないもどかしさもはっきり表明している。

それが芸術の持つ特性であり、筆舌に尽くしがたいという形容を素直に認めていた真摯で正直な人でもあった。

また彼は読者に決して自分の意見を強制しなかった。

音楽を鑑賞する一人ひとりはそれぞれ異なった感性を持っていて、それはさまざまな音楽を聴き、経験を積むことによって洗練されることはあっても、統一することは不可能だからだ。

それがまた幅広い音楽の選択肢を供給し、私たちを勧誘する喜びでもあるわけだ。

しかしだからといって批評家は最大公約数的な発言をすることは許されない。

吉田氏は批評の力量に優れているだけでなく、そのバランスということにかけて絶妙だ。

彼の洞察は非常に鋭く、演奏者全体の姿を見極めた上でなければその人の音楽を評価しない。

どんな天才が現れても、その人が将来どのような努力を課せられるか、そしてどういう方向に向かうべきかを見定めなければ気が済まないし、手放しで賞賛するようなことはしない。

また彼らの欠点も逐一見逃さないし、それを書くことにもやぶさかでない。

レコード会社から金を貰って、売り出し中のアーティストを誉めそやす文章などは書かなかったし、またできもしなかったに違いない。

そうした厳しい姿勢も自ずと文章に滲み出ている。

それだけに彼の批評は常に人間的であり、しかも極めて信頼性が高い。

それが多くの人の賛同を得ている理由でもあるだろう。

筆者自身彼の遺した批評を貴重な資料として高く評価している。

鑑賞の経験が豊かになればなるほど、自然に彼の言葉に共感し、その批評を抵抗なく受け入れられるようになるというのが筆者自身の体験だ。

この本に登場する指揮者の多くは既に他界しているが、彼らの芸術が現在でも生き続けているのと同様に、吉田氏の評価が次の世代への示唆として受け継がれることを期待したい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:00コメント(0) 

2019年05月21日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



阿部謹也氏が他の著書でも繰り返して説明しているヨーロッパ賤民の成立とその経緯が、かなり詳しくまた広範囲の研究によって述べられている。

ヨーロッパという地域の文化にもう一歩深入りしたい方にお薦めしたい一冊だ。

八回に亘るレクチャーから起こされた文章なので、分かり易く丁寧に進められているのが特長で、彼の到達した結論とも言うべきヨーロッパに住む人々の根底にある宗教観や人間観が詳らかにされている。

著者はドイツから帰国した後『ハーメルンの笛吹き男』を発表したが、その時にはまだ賤民について充分な観察が為されていなかったと書いている。

留学中の古文書の閲覧の中で偶然見つけた1284年6月26日にハーメルンの町から130人の子供達が忽然といなくなったという記録自体ショッキングなものだったが、この記録には派手な衣装を纏った笛吹き男の姿は全く出てこない。

それは後の時代のメルヘン作家達によって作り上げられた象徴的な主人公だった。

ここでも繰り返し説明されているが、中世の人々の宇宙観は家や集落を中心として人間が制御できる小宇宙と大自然や森羅万象、病や死など人間が介入できない大宇宙のふたつだった。

その中間で生業を営む死刑執行人、墓掘り、定住しない放浪芸人などは特殊な能力を持った人として当初畏怖の念を持って見られていたが、キリスト教の徹底した布教によって、宇宙は全能の神が創造した唯一のものだという教えが広められ、これによって彼らの職業の権威が失墜してしまう。

その時彼らの仕事はただの汚れ仕事やうらぶれた旅芸人として畏怖が蔑みに変わり、差別の対象となったとしている。

だからこの時代には放浪芸人や辻音楽師などは賤視された差別民で、多くの子供達を連れ去った犯人を魔法を使う笛吹き男として表すのは都合の良いことだったに違いない。

ただし童話には教訓が必要なので、ハーメルンの町が鼠退治に雇った男に約束した謝礼を拒否したために、今度は子供達が笛の音につられて着いて行ってしまったという筋立てになっているのだが。

シャルル・マーニュ大帝はローマ法王から戴冠を受けた後、最も崇高な音楽は単旋律で斉唱されるグレゴリオ聖歌だとしてその他の庶民の間で演奏される、いわゆる世俗の音楽を退けた。

これも辻音楽師の差別に一役買っている。

村落の人々が祭りや宴会の時に呼ぶ放浪芸人の奏でる歌や踊りのため音楽は、魂を掻き立て興奮をもたらす悪魔の音楽だということになったからだ。

これはヒエロニムス・ボスの描いた幾つかの絵画にも表されていて、彼の大作『悦楽の園』の地獄ではハープやリュート、太鼓やクランクなどの周りで責め苛まれる群集が描かれている。

彼が後半でアルブレヒト・デューラーの項を設けて解説しているのも、阿部氏のこれまでの社会学的な視点で得られた成果と見做すことができるし、絵画の解釈にも新しい側面を拓いていると言えるだろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:00コメント(0) 

2018年12月18日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



2012年2月に鬼籍に入ったモーリス・アンドレのEMIへのセッションをまとめた13枚組のボックス・セット。

彼の没後ユニヴァーサルからも6枚組の追悼盤が逸早くリリースされたが、そちらのほうは曲目の殆んどがバロック音楽に絞られている。

それに対してこのEMI盤の中心となるのはテレマン、タルティーニ、ハイドン、フンメルに代表されるバロックから古典派にかけての42曲の協奏曲(協演者の異なる同一曲や編曲物を含む)が収録されている。

CD1はカラヤン、ベルリン・フィル、CD3はへスス・ロペス=コボス、ロンドン・フィル、CD4はネヴィル・マリナ−、アカデミー室内、そしてCD5はムーティ、フィルハーモニアと錚錚たる協演者が揃っている。

その他にビーバーのソナタからオペラ・アリアの編曲物、映画音楽からポピュラー・ナンバー、ジャズからムード・ミュージックまでおよそありとあらゆる小品を吹きまくった、気さくで最も彼らしいアルバムになっているのが特徴だ。

勿論彼の膨大なレパートリーを一通りカバーするセット物が欲しい方はエラートから刊行された全4巻計24枚の全集も選択肢のひとつだが、コスト・パフォーマンスとバラエティーに富んだ選曲の面白さから考えると、このセットが理想的で入門者にもお勧めできる。

彼は筆者の少年時代から既にトランペット界のスターだったし、持っていた音楽性の違いを別にすればホルンのデニス・ブレインのような絶対的な存在だった。

ブレインの生演奏に接することは全く不可能だったが、モーリス・アンドレは幸いコンサートを聴くことができた演奏家の一人で、初めて聴いた演奏会ではその名人芸と聴衆の熱狂に圧倒されたものだ。

彼のトランペットについてはもはや多くの言葉を必要としないと思う。

柔らかく、しかも明るく輝かしい音色とどこまでも軽快で天衣無縫な幅広い表現力、そして目の醒めるような超絶技巧であらゆるジャンルの音楽をオールマイティーにこなした天才というイメージが、彼の体格の良さと人懐っこい顔立ちと共に強く印象に残っている。

アマゾンのページの写真ではボックスが正立方体のように見えるが、実際には13X13X厚み5,5cmの大きさで、先にリリースされたデュ・プレの全集と同様に横に引き出すタイプのしっかりした装丁。

ブックレットは43ページで、モノクロ写真がほぼ12ページ分、そして18ページ目以降に曲目と録音データが掲載されている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:04コメント(0) 

2018年11月12日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



2007年にエンニオ・モリコーネがアカデミー賞・名誉賞受賞記念を祝したCD(3枚組・全60曲)。

音楽だけを聴いていると、これが1人の作曲家が手掛けた作品群とは思えないほど、1曲1曲が個性的で多様な音楽的要素が含まれている。

それだけでなく、おそらく殆んど総てのジャンルのミュージックをそれぞれの映画監督の映像的構想の中に昇華させていく変幻自在のモリコーネ独自の世界が繰り広げられていることに驚かざるを得ない。

しかしながらそれらが映画のシーンと切り離すことができないほど渾然一体となって脳裏に焼き付いているために、BGMとしてなら気にならないかも知れないが、このディスクのように次から次へと並べられるといくらか忙しい編集という感じは否めない。

例えば同じ映画のために作曲された音楽はトラックを一箇所に纏めることができた筈だし、曲数を減らしても作品ごとのストーリーを追った、よりコンプリートな編集を望みたいところだ。

映画は大衆の娯楽として誕生したが、次第にドキュメンタリーとして、あるいは文学作品の領域にも深く進展して独自のアートとしてのジャンルを確立してきた。

特にトーキーの時代を迎えてからは映像の背景を演出するには欠かすことのできないエレメントになって、ショスタコーヴィチやオネゲルなどのクラシックの作曲家達の映像のための創作意欲を高めたことも事実だ。

しかしモリコーネの音楽は大衆の好みを決して手放すことはない。

勿論レベルを下げるのではなく、むしろ啓発してきたのだと思う。

彼は映像と音楽がどんな関係にあって、自分の曲がどの場面で最大の効果をもたらすかも狡猾なくらい熟知している。

それは彼の映画音楽制作への才能や情熱だけでなく、これまでに彼が参画してきた作品からの豊富な経験から会得した能力でもあるだろう。

だから音楽だけを良く聴いていると、いくらかあざといと思われる部分が無きにしも非ずだが、映像を伴った時に観衆を強力に引き込んでいく老獪とも言えるサウンドは忘れることができない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:38コメント(0) 

2018年09月22日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



中世ドイツの研究では第一人者だった阿部謹也氏によるドイツ史の専門的な俯瞰で、ドイツの誕生から今日にいたる歴史に、「ドイツ的」とは何かを思索する、通史とは一味も二味も異なった魅力を持った一冊。

この作品を読んでいると現在のドイツ的国民性や彼らの思考回路を理解するためには、彼らの辿ったかなり複雑な歴史的経過を知らなければならないことを痛感する。

ヨーロッパの中央に位置し古来からゲルマンの他にもケルト、ユダヤ、スラヴ、ラテン系などの民族がひしめいていたドイツでは、ナチスのアーリア人優越論も実際には存在しない唯一のドイツ民族というでっち上げだったことも容易に理解できる。

大洋に開けた港を持っていなかった宿命的な地理的条件から大航海時代に海外に植民地を得ることも逸したし、彼らが現在に至るまで連邦という統治形式を残している理由も自ずと見えてくる。

1815年にドイツ連邦が成立した時にはオーストリア、プロイセンの他4王国、1選挙侯国、7大公国、10候国、10公国、1方伯国、4自由都市の実に39の主権国と都市の連合で、それぞれが異なった貨幣と関税制度を持って頑固なまでにお互いの利害関係に固執していたことから、対外通商においても困難を極めていたようだ。

また戦後分かれた東西ドイツも単にソヴィエトと西側の戦勝国の間での線引きではなかったことも象徴的だ。

その国境線は中世以来社会的にも経済的にも対立していた地域で、東側の社会主義体制も敗戦後に突然生まれたものではなく、西欧の歴史に根ざして育っていったという著者の説明には説得力がある。

ベルリンの壁が偶発的に崩壊したのとは裏腹に、東西両ドイツの実質的かつ完全な統一が困難であったということは当然だろうし、いまだに多くの問題を抱えているのも事実だ。

また本書は1998年に初版が出ているが、阿部氏はアジールの研究から、既に将来移民や難民が重要な社会問題になることを指摘している。

本論の間に挿入されている間奏曲と題したコラムの部分では通史では学習できない、歴史という結果に至るまでのさまざまな経緯やエピソードが解説されていて、更に教養を深めてくれる。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 20:01コメント(0) 

2018年04月21日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ペイターの『ルネサンス』は学生時代に初めて読んで、彼の芸術作品への魅力的な解釈と大胆な論法に惹かれたが、著者が採り上げている時代の美術や文学に精通していなかったために、かなり敷居の高い思想書という印象があった。

しかし本書に紹介されている作品を実際に鑑賞し、またネットを通じて総てが検索できるようになった現在になって、ようやっと彼の批評の精神、つまり人々を啓蒙する批評家としての活動の真価を見出せるようになった。

ペイターの記述の中には、サンプルとして説明されている作品の作者がしばしば誤って示されているが、当時ではまだ知り得なかった事情があるので許容範囲とすべきだろう。

いずれにしてもルネサンスが我々にもたらした啓蒙精神を明かす息遣いや人間性の回復を高らかに唱えていて、後の時代に与えた影響も絶大であったことを証明する一冊だ。

本書には写真や図版などの掲載は皆無だが、入門者のためにはある程度のイメージが必要だろう。

記憶違いでなければ、ワイルドが称賛した同書にもカラー図版が付いていた筈だ。

それぞれの章でルネサンスに関わった人物とその作品が論じられていて、それは現代にも通用する鋭利な視点からの洞察に貫かれている。

最終章に置かれたドイツの古典学者ヴィンケルマンへの考察は圧巻で、確かに彼はルネサンスの時代人ではないが、その精神を実生活においても証明する結果になった彼の人生へのペイターの共感が滲み出ている。

ヴィンケルマンは貧しい家庭の出身だったが自身のギリシャ、ローマの古典作品への並外れた理解力とおよそ真似のできない情熱で、そうした作品群の価値を明らかにしていく。

目標達成のためには省略できるものは総て省き、いよいよ古典の宝庫ローマに向かうためにカトリックへの改宗を果たして、その地に12年間滞在することになる。

後のゲーテを筆頭とするその後のドイツ文学が彼から受けた影響はまさにルネサンス的と言えるものだろう。

ヴィンケルマンは『芸術の美は、自然の美よりも高度の感受性を必要とする....』と書いている。

それはワイルドの『自然は芸術を模倣する』に受け継がれた哲学ではないだろうか。

自然界が神によって創造されたものであれば、プラトンがイデア論で展開した『現世はイデアの世界の影が映し出されたところ』という意味でも理解できるし、芸術が自然に対して優位に立つ創造の源泉であることも認識される。

だからその原点からある種の霊感を得て創り出されるのが芸術作品であり、自然を模倣するだけの作品は芸術作品とは言えない。

こうした思考はルネサンス的発想に支えられているが、それは古典研究から得られた成果であるに違いない。

中世とルネサンスを分けることができるとすれば、その時代に生きたアーティストや科学者たちが時代を切り拓く最先端に立っていたことを自覚していたか否かがその境界線になるのではないだろうか。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:14コメント(0) 

2017年04月19日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



性愛の価値観、差別の形成というヨーロッパ社会の基底に関わる諸事象を日本社会との比較史的考察を通じて明快に解明した、西洋中世史の第一人者として、言論人として、 数々の名著を世に送りながら惜しくも急逝した、碩学の遺著。

かつて日本と同様な「世間」が存在していたヨーロッパが、なぜ個人を重視する社会へと転換したのか、個人の誕生の背景には何が存在していたか、従来の歴史学が語らなかった生活の風景に踏み込み、日本人の生き方を問い続けた著者による総決算。

阿部氏の「世間」という一種の社会的空間の観念を明確に捉えるために著者の文章を直接引用してみたい。

例えば第2章「日本の世間」の中で、「世間」は広い意味で日本の公共性の役割を果たしてきたが、西欧のように市民を主体とする公共性ではなく、人格でもなく、それぞれの持っている個人の集合体としての全体を維持するためのものであると述べている。

そして日本には個人が敬意をもって遇される場所がない、個人がいないとさえ書いている。

その意味は敬意が表されるのは個人ではなく、その人が所属している立場に向けられるということだろう。

現在でも公共性とは官を意味することが多く、「世間」は市民の公共性にはなっていないということだ。

阿部氏は別の著書で旧帝国大学について言及していた。

つまりヨーロッパの大学は市民からの要求で生まれたが、日本では国のために尽くす役人を育てるために国家が創ったのが大学であり、自ずと個人が自由に研究する施設ではない。

己を虚しゅうするとは荘子の言葉だったと思うが、それは古来日本人の美徳として定着して古い時代の「世間」では大いに功を奏していたが、明治以来の急速な近代化が進んだ後にも、こと人間関係に関しては官庁や会社の中で旧態依然とした「世間」が幅を利かせ、その美徳を逆に利用し続けているのが現代の「世間」ではないだろうか。

そしてまさに近代化と相容れない「世間」の相克を取り上げたのが阿部氏の問題提起だと考えられる。

現在話題になっている元官僚の大学への天下り事件についても既に阿部氏は自己の体験を通して、その明快なメカニズムを証している。

彼が国立大学を離れた後勤務したある私立大学では文部科学省の複数の次官経験者が理事になっていて、彼らは大学の放漫経営が発覚しても意に介せず、教育の実態よりも天下りのポストを確保することに腐心していたという。

「世間」の一員として後輩のポストを確保するのも個人の欠乏に他ならない。

更に著者は日本で民主主義を実現しようとすれば、少なくとも個人の「世間」からの自立が不可欠だが欧米流の民主主義にこだわる必要はないとも断言している。

それによって彼の専門分野である中世にキー・ポイントを置く西欧社会の礼賛でもなければ、日本の伝統的文化との優劣の問題でないことも明らかにしている。

この考察の中では「世間」という概念をイメージするためにさまざまな現象が引き合いに出されている。

そのひとつが賤民の差別化の経緯であり、また互酬関係の推移だが、日本と欧米の「世間」を決定的に分けた要因にキリスト教の圧倒的な影響力を見て取っている。

いずれにしてもある程度の難解さが常に付き纏っているので、本書をより良く理解するためには阿部氏の他の作品も併読することをお薦めしたい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:44コメント(0)トラックバック(0) 

2017年03月02日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ルソーが言語の起源と本質を論じた著作。

言語の本質とは情念の表現にあり、もとは言語と音楽の起源は同一であったという。

言語の起源と変遷、諸言語の地理的差異、音楽の起源、旋律、和声の原理と歴史が分析され、南方と北方の言語の抑揚の相違、言語の現状が言語の変遷といかに関係しているかなどが論じられる。

学生時代単行本で初めてこの作品を読んだ時にはギリシャ、ローマの古典に疎かった筆者は引用の多さと原注を調べることに辟易しながらも、ルソーらしい確信に満ちた論法に興味を惹かれ、彼の思考回路と好奇心を刺激する破天荒の人となりに大きな魅力を感じた思い出がある。

増田氏の訳出によるこの文庫本は平明な口語体で、原注と訳者による訳注がそれぞれの短い章ごとに並列されていて、一般読者のためのより良い理解への便宜が図られている。

ただしルソーの他の論文と同様、当然当時の第一級の教養人を読者に想定して書かれたものであるために、その文学的醍醐味を味わうにはある程度の古典の素養が欠かせないことも事実だ。

ここでも彼が有名な『ブフォン論争』で展開した、殆んど独善的だが豪快な論陣が張られている。

また彼は自分に敵対する人々を常に意識していて、そうした陣営への痛烈な揶揄や時として罵倒も辞さない。

気候が温暖で潤沢な食物に恵まれた地方の人々の最初の言葉は最初の歌であり、一方厳しい気候の北方の民族のそれは相手を威嚇するために鋭い発音になったという論法は、現代の言語学の到達点からすれば観念論の謗りを免れない。

専門分野の資料を欠いていた彼の時代の研究は確たる物的証拠に基いたものではなく、頭脳を駆使して構築されたファンタジーの域を出ない産物だからだ。

しかしながらルソーの思考方法に現代でもその価値を認めるとすれば、むしろそれは彼が古典文学、歴史や地理、文化風俗から哲学、物理、音響学に至るまでの当時の百科全書的な広範囲に亘る知識を総動員して考察しているところである。

すなわちその時代に知り得た総ての知見を総合する術こそ、余りにも細分化され異なった専門分野のミクロ的分析に成り下がってしまった現代の科学に本来の研究方法のあり方を実践してみせている。

そうしたことからもルソーはまさに近代啓蒙思想の元祖的な存在と言えるのではないだろうか。

後半第12章からは話が音楽に移り、彼の論敵である作曲家ラモーへの鋭い攻撃が展開される。

ラモーは既に彼の著書『和声論』で旋律に対する和声の優位を説いているが、ルソーはこれに真っ向から対立し、言葉に源泉を持つ旋律の方に絶対的価値を主張している。

そこで喩えに用いられているのが絵画でのデッサンと色彩で、当然彼はデッサンを音楽の旋律に喩え、色彩を和音に置き換えて論証している。

そして和音が理論化されてしまったために、その進行が逆に旋律を制限し、本来の音声言語の持っている精神的力強さが失われてしまったと説く。

彼の論法では色彩の理論だけでは絵画は成り立たないのだが、それは印象派以後の絵画の傾向を見るなら一概に頷けるものではない。

しかしながら自然界に存在する倍音列とは異なった音律で和声を創り上げた和声法とそれに縛られた旋律は、確かに本来の力強さを失ってしまったのかも知れない。

最後には言語起源論からフランス絶対王政反対に導くルソーならではの強引で飛躍的な帰結も痛快だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:35コメント(0)トラックバック(0) 

2017年01月10日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



クラシック音楽ファンにはお馴染みの稀代の音楽評論家、黒田恭一氏がカラヤン、バーンスタイン、カルロス・クライバーからマイルス・デイビス、ピアソラまで、35名のアーティストとひとつのアンサンブルに礼状を書くという想定で綴られたエッセイ集で、それが取りも直さず音楽への礼状としてまとめられている。

同氏の著書の中でも彼の人柄の温かさと、それぞれの人を見極める鋭い洞察がひときわ感じられる作品で、音楽をきくことをこよなく愛し、音楽の輝きをひとりでも多くの人と分かち合うことを切望し続けたひとりの音楽評論家の音楽への深い愛と洞察に満ちた名著である。

ただしこの本の発行が1990年で、著者(1938-2009)も含めてここに登場するアーティストの多くは既に他界している。

黒田氏はフランコ・ボニゾッリをテノール馬鹿の典型としながら、イタリア・オペラの醍醐味はまさにそこにあると断言している。

それは決して蔑視ではなく、自分の声の温存を顧みないサービス精神を潔しとし、聴衆を満足させる術を讃えているのだ。

またカルロス・クライバーには、彼の天才的資質を充分に認めながらも、一方では彼の欠点をも見事に見抜いている。

彼に欠けているのは父のE・クライバーにはあった傷つく勇気だと指摘していて、それは音楽上の欠点ではないにしろ、その視点は非常に興味深い。

マリア・カラスの項では、インタビューを断ってきた彼女の寂しげな一瞬の表情から著者は総てを悟っている。

カルロ=マリア・ジュリーニは、彼の野暮と紙一重の誠実さを褒め、自分の大切な万年筆をお釈迦にされ(筆圧のせい?)ても、その万年筆を宝物として大事にしまっておくという興味深いエピソードがある。

ヘルベルト・フォン・カラヤンについては、全盛期の颯爽とした姿を知っているだけに、晩年の介添人に付き添われ登場した時のカラヤンに対する感情、マイルスに対して、バック・ミラーを捨てて走り続け、寂しくありませんかと問うその感情・・・など挙げていけばきりがないが、総て文字通り黒田氏の温厚な性格が良く出ている。

そこにはもちろんそれぞれのアーティストに対する鋭い観察に裏打ちされている事は言うまでもない。

黒田氏は「きく」という行為の本質をわきまえていた数少ない評論家のひとりだったし、彼にとってそこにはジャンルも境界も存在しなかった。

そしてその喜びをひとりでも多くの人と分かち合うことを心から願っていたし、自分がその仕事に携わっていることへの感謝の気持ちを忘れなかった。

本文中でも「どのような音楽に対しても、感謝の気持ちを胸にたたんできいていきたい、と思う。感謝の気持ちを忘れてきかれた音楽は、いかなる音楽も、ききてにほほえみかけない」とし、クラシック、ジャズ、ポピュラー、中南米音楽……と、ジャンルを問わず、絶えずみずみずしい感性で音楽と向き合い続けたことが理解できる。

文章について言えば、彼は思いついたことをそのまま書き下ろすことはしなかったように思う。

解りにくい言い回しや、むやみな漢字の使用は故意に避けている推敲が窺えるからだ。

また本書を読めば一部の人が黒田氏の批評は生ぬるいと言うのが全く表面的な見解であることも理解できるだろう。

思えば黒田氏は筆者の恩師であり、授業以外の面でも学生達に協力を惜しまない優しい方だった。

東中野のお宅に初めて伺い、地下のオーディオ・ルームに案内された時の驚きを今でも忘れることができない。

部屋の側面には無数のLPが几帳面に整理されて収納してあり、呆気にとられて溜息をついている筆者に、「欲しいのがあったら、ダビングしてやるよ」と気さくに仰ってくれたことも記憶に新しい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 02:09コメント(0)トラックバック(0) 

2015年07月10日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



本著は、不世出の音楽評論家吉田秀和が、世界の名演奏家に光をあて、その芸術の特質とあふれる魅力を明晰に語った作品。

この評論集には23人の器楽奏者、7つの弦楽四重奏団及び17人の声楽家について彼らの演奏への評価とその特質や印象などがまとめてある。

特に、入門者が鑑賞する際に聴くべきポイントは何処にあるか、そしてCDその他のメディアを選択する時、先ず誰の演奏が妥当かなど実用的なガイド・ブックの側面と、一方ではクラシック音楽の将来への展望を示した吉田哲学が随所に滲み出た貴重なエッセイ集としての価値がある。

それは吉田氏の鋭い洞察力と圧倒的な経験や知識が、対象となる演奏家のスピリチュアルな領域にまで踏み込んだ全体像を見抜いているからで、私自身著者と意見を共有できる部分が非常に多く、クラシック鑑賞のための心強い指針となってくれる。

吉田氏の文章はいつもながら平易かつ穏当な口調で、楽譜を掲載して解説することは最小限に抑えている。

そして吉田氏の考察はあくまでも提案という形で提示され、決して読者に強制するものではないが、それには確たる根拠があり充分な説得力を持っている。

私達が批評家に求めるものは啓蒙であって、演奏家への毀誉褒貶ではない筈だ。

音楽家への好みや巧い下手だけをあげつらうことは安易な行為であるにも拘らず、それだけを書いて批評家を名乗る人も往々にして見かけるが大切なのはその理由で、楽曲を分析して分かり易く説明して演奏のあるべき姿をより多くの人に伝える努力が望まれる。

その点についても吉田氏は一点の曇りもなく冷静沈着に書いており、特に我が国においては、吉田氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる音楽評論家は数少なかった。

ただ筆者にとって惜しむらくは、声楽家はドイツ系あるいはドイツ物をレパートリーにする歌手が多く、イタリア・オペラやフランス、スペイン物で活躍する人達がほとんど取り上げられていないことで、それは吉田氏の音楽鑑賞に対する嗜好である可能性が強いが、あえて彼が書くことをためらったジャンルなのかも知れない。

本文中では吉田氏は自分より巧く表現できる人や批評家をためらいもなく挙げているのも潔いが、それは彼が音楽を理知的な基盤の上に展開する感性の昇華として受け止めていたからではないだろうか。

ともすればそれとは対極的な情動的で感性が一人歩きするようなラテン的な音楽は、かえって彼にとってアナリーゼやその評価を下すことが困難だったのかも知れない。

本文は書下ろしではなく、著者生前中に音楽誌への連載やLPやCDのライナー・ノーツ用に執筆されたもので、下記のアーティストが含まれている。

弦楽器奏者ではミルシテイン、シェリング、ヴァルガ、スーク、ヘッツェル、パールマン、クレーメル、ミンツ、ムター、ヴェンゲーロフ、メニューイン、スターン、バシュメット、今井信子、カザルス、シュタルケル、ロストロポーヴィチ、ビルスマ、マイスキー、ヨーヨー・マ、デュ・プレ、鈴木秀美、ケラス。

弦楽四重奏団はジュリアード、メロス、リンゼイ、東京、ドーマス、ハーゲン、フォークラー。

声楽家はキリ・テ・カナワ、フォン・シュターデ、バトル、ヘンドリックス、オッター、シェーファー、コジェナー、ホッター、へフリガー、フィッシャー=ディースカウ、プライ、シュライアー、ベーア、アライサ、ターフェル、マティス、フェリアー。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:58コメント(0)トラックバック(0) 

2015年06月09日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

 

私事で恐縮であるが、海外放浪、ボランティア、そして大企業から吹けば飛ぶよな(実際に飛んでしまった)零細企業までを渡り歩いた個人的経験から、最近の一部マスコミの木を見て森を見ない、あまりに近視眼的な報道に惑わされないために、誠に僭越ながら時事に関する個人的見解をこの機会に述べておきたいと思う。

ようやく抜け出しつつあるが、日本は長い経済のスランプに苦しんできた。年間の自殺者数は3万人を越えるという痛ましいデータもある。企業倒産も高水準だ。悲観論者の評論家の中には、明日にも日本が沈没してしまうような予測をする方々もいる。

だが、どうであろうか? 悲観論者がお先真っ暗だといっても日本のGDP(国内総生産)は500兆円近くもある。2位の中国はこれから生産者人口が減少していく見込みなので、世界最強国である米国に次ぐといってよい。

なるほど、国家財政は健全とは言い難い。国債をはじめ国の抱える借金は1000兆を越える。だが、国民の預金は1400兆円もある。もちろん世界一の資産国だ。バブルに浮かれて不良債権だらけになった銀行にしても、米国国債や米国の主要株式を大量に保有している。

あり得ぬ話だが、仮に銀行がこの米国債を叩き売れば、米国経済は大混乱に陥るだろう。むやみに卑屈になるほど弱い国どころか、なお十二分に世界屈指の経済大国なのである。

生活の面でもそうであろう。特に技能もなく、高給取りではないOLが頻繁に海外旅行に行ける国、長期ローンを組まされるにせよ、20代のサラリーマンが高級外車を乗り回せるような国はほとんどない。

なるほど不安や不満はあるものの、現在の仕組みをすべて叩き壊すのには程遠い状況だ。悪事を働き捕まった中国人が「カネはあるし、(捕まっても)罪は軽く、この国は天国だ」と嘯いたそうだが、あながち的外れではない。そのような豊かな国のシステムがどんでん返しのように変わるわけがない。

今後予測されるのは世の中が自由放任よりも秩序重視へと動いていくということだ。

その象徴といえるのが、安倍晋三首相の自民党による長期政権の維持である。自民党政治家としては珍しく都会的なこの政治家の本質は選別の容認である。わかりやすく言えば、優勝劣敗、弱肉強食の方向を支持している。やむを得ないものと是認している。

一方で、自民党の中ではもの分かりの良い、共存共栄、共生がすべて、皆で一杯やろう式の田中角栄(元首相)型の勢力は日に日に衰えている。さらに先の衆議院選挙からも明らかなように、人すべて平等を唱える共産党や社民党などの左翼(特に社民党)は有権者からほどんど見限られてしまった。

この流れはしばらく変わるまい。歴史とはつまるところ緊張と弛緩の繰り返しであり、ある程度行き過ぎて、あれこれと弊害が出るまではベクトルは逆には向かないからだ。現状を見る限りでは、このベクトルが反転しそうな気配は感じられない。ごく少数の人や、ケチをつけ不平を並べることを日々の生業にしている人々を除けば、誰しも現在のシステムを根こそぎ引っ繰り返そうとするほどの不満は抱いていないからだ。

私が常々参考にしているのは、客観的でわかりやすい解説の池上彰氏による、テレビ朝日の「池上彰解説塾」である(月曜21時より)。やたらと国民の不安を煽る「たけしのTVタックル」は精神衛生上良くない(事実月曜23時15分からに繰り下げになった)。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:41コメント(0)トラックバック(0) 

2015年04月01日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



映画『男はつらいよ』については、初めは、低俗な喜劇ぐらいにしか感じていなかった。

寅次郎の筋は意識的なワンパターンである。

まず夢の場面と、寸劇があった後、ヤクザ者の寅が柴又のとやらにひょっこり帰ってくる。

おいちゃん、おばちゃん、妹のさくら、その夫の博と子供の満男、隣の印刷工場のタコ社長など、おなじみのメンバーに大歓迎されるが、それもつかの間、ささいなことからけんかが始まって再び家を飛び出す。

旅の空で美しい女性と知り合い恋心を燃やすが、やがて失恋、という段取りだ。

寅次郎は無学で根気がなく、頭も少し弱いが、驚くほど純情、純粋で人情に厚く、ひょうきんで、彼のまわりには笑いが絶えない。

相手が芸術家だろうと、金持ちであろうと、乞食であろうと、いっさい分けへだてせず、人間対人間として付き合う。

寅次郎にとって相手の肩書とか職業などは一文の値打ちもなく、人間性だけが大切なのである。

だから女性も完全に心を開いて寅次郎の胸の中に飛び込み、自分のすべての悩みを打ち明け、「私は寅さんが大好き」と言う。

その言葉に嘘偽りはないのだが、寅次郎の方は女も自分に恋しているのだ、と誤解してしまい、悲喜劇が起こるのである。

このシリーズが始まった頃、寅次郎は愚かなだけの男で、おいちゃんが「ばかだなぁ」と慨嘆するのが常であった。

寅次郎がばかなことをしでかし、それを監督もばかにし、観客もばかにし、笑い合って日頃のストレスを解消する、というパターンの連続であった。

ところが……、いつの頃からか、おいちゃんの「ばかだなぁ」というセリフが聞かれなくなり、寅次郎に変化が見えてきたのである。

といって、教養がついたわけではないし、頭が良くなったわけでもなく、寅はあくまで寅なのだが、微妙な深みが出てきたのだ。

つまり作品の中で車寅次郎が一人歩きを始め、その寅次郎に監督であり、原作者でもある山田洋次が教えられるようになったのである。

筆者は今では『男はつらいよ』は最高の娯楽作品で、同時に最高の芸術作品だと考えているが、その理由はまさにこの一点にあるのだ。

寅次郎は無教養で常識がなく、礼儀作法もまったく知らないがゆえに、人間の生まれながらの純粋さがほんのわずかも傷つけられることなく残されていて、大自然から与えられた純粋直観が曇らされていない。

人はとかく肩書で他人を判断しがちであり、教養の有無や礼儀作法の有無で価値を決めがちであるが、寅次郎に言わせれば、これほどナンセンスなことはないだろう。

まったくの裸になったときどういう人間なのか、それだけが問題なのであって、むしろ、教養や常識や礼儀作法は人間を堕落させる。

余計なものがべたべたとはりついて、本来の純粋性が失われ、俗っぽくなり、本質が見えなくなり、何よりも裸になれなくなってしまう。

そこへゆくとフーテンの寅は生まれたままの姿でそこに立っていて、自分の正直な気持ちだけで生きている。

笑いたいときに笑い、悲しいときに悲しみ、怒りたいときに怒る、そこにかけひきや偽りはいっさいない。

子供のような人、いや、神様のような人、それが寅次郎である。

映画の中でいろいろな出来事が起こったとき、他の人は常識でしか考えられないが、寅次郎はズバリ真実を見抜き、真実のままに行動する。

そのことに東大出の山田洋次監督は教えられるのであろう。

といっても、『男はつらいよ』はあくまで大衆のための娯楽作品である。

しかし、寅次郎は単なる笑わせ役ではないのであって、人を笑わせ、楽しませながら、人間の真実を教えてくれる存在である。

山田洋次監督の才能は抜群であるが、彼の偉大さは、渥美清という天才俳優を得て、笑わせながら人生の深い味わいを、しかもそれを求めている人にのみ与えてゆく点であろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:38コメント(0)トラックバック(0) 

2015年02月18日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



黒澤明監督の映画は、一部の例外を除いて「侍の映画」と言えるのではないか。

「侍」が直接的な表題となった映画は、黒澤映画の最高傑作との呼び声の高い「七人の侍」のみであるが、黒澤映画における「侍」とは、我欲には見向きもせず、一定の信念の下に生き、その信念を曲げなければならない時には死をも厭わない者を指すことが多い。

「七人の侍」に登場する「侍」も、もちろん食事にありつけたと言う面もあるが、自分とは全く関わりのない村人たちを守るために命を懸けるという者である。

「七人の侍」が、30本存在している黒澤映画の中でも世界的に最も賞賛されている映画であるが故に、「侍」のイメージについては、死をものともせずに信念のために生きる者を指すということが今や国際的にも定着していると言える。

そして、黒澤映画の「侍」は、いわゆる時代劇に登場する武士の範疇にはとどまらない。

時には、現代劇における一般市民すら「侍」となり得る。

その最たる例が「生きる」の主人公である市役所の市民課長、渡邊勘治である。

長男を男手一つで育てあげ、退職間近まで無遅刻無欠勤で市役所の職員を務めていたある日、胃癌を患っていることを知る。

絶望感に苛まれた渡邊市民課長は、死までの短い間に何をすべきか思い悩む。

その過程の中で、健康な時には、市民課長として歯牙にもかけなかった公園の整備に余命を捧げることを決意。

様々な障害を乗り越えて公園を完成した後、雪の降りしきる中、新公園のブランコで「ゴンドラの唄」を口ずさみながら従容と死んでいく。

この渡邊市民課長こそ、「侍」と言わずして何であろうか。

「生きる」には、かかるゴンドラのシーンの他にも、胃癌を患っていることがわかり、病院を後にした時の一時的な無音化(渡邊市民課長の絶望感を絶妙に表現)、誕生日のパーティをバックに渡邊市民課長が公園の整備に命を捧げることを決意するシーンなど、映画史上にも残る名シーンが満載であり、かかる決意の後は、渡邊市民課長の通夜の場面に移り、そこから過去の回想シーンを巧みに織り交ぜながらストーリーが展開していくという脚本の巧みさは殆ど神業の領域。

諸説はあると思うが、筆者は、「生きる」こそは、いわゆる「侍の映画」たる黒澤映画の真骨頂であり、最高傑作と高く評価したいと考えている。

少年オプーの成長を描いた大河ドラマ、「大地のうた」「大河のうた」「大樹のうた」の3部作で世界的にも著名なインドの映画監督の巨匠、サタジット・レイが、最も好きな黒澤映画として「生きる」を掲げたのも十分に頷ける話だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:53コメント(0)トラックバック(0) 

2008年05月12日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

2008/4/17 ヘラクレスザール、ミュンヘン
SEMYON BYCHKOV, Leitung (昨日はプログラムにDiligentと書いてあったのだが・・・)
EMANUEL AX, Klavier (こちらも表記が違う。どちらも古風な言い方のような気が。)
SYMPHONIEORCHESTER DES BAYERISCHEN RUNDFUNKS

フレデリック・ショパン  ピアノ協奏曲第2番 OP.21
フレデリック・ショパン  ノクターン第13番(アンコール)
---------------------------------------------------------
セルゲイ・ラフマニノフ  交響曲第2番 OP.27

ショパンの2番は恥ずかしながらあまり熱中して聞いたことが無かったが、こんなに素晴らしい曲であったとは。アックスは特にエスプリが効いている訳では無いのだが、曲の良さを丁寧に伝える弾きぶりで十分満足させられる出来、来シーズンも招かれているようだが、ウイーンのブフビンダーといい、日本でスターで無い人がある都市では大スターだったりするから面白い。
昨日とは違い体した期待をして望んだ演奏会では無いのだが、こういう素晴らしいものに出会えるから音楽旅行はやめられない。
ヘラクレスザールは、シュターツオパーも入る旧王宮に一部ある演奏会場だが、実に豊かで温かい音を育むホールであり、バイエルン放送響の品格溢れる繊細な表現は、この音響環境でこそ生まれるものと確信した。先に小さなセヴェランス・ホールでブーレーズ/クリーブランド管弦楽団で新ウイーン学派の演奏会に訪れた際も、なるほどクリーブランドのヨーロッパ風の音楽性溢れる演奏はこのホールの賜と溜飲の下る思いをしたのを思い出す。
観客も音楽を聴きに来ているという思いが強く感じられ、楽章間に咳一つしないのには驚いた。温かく熱心ではあるが、決して粗暴ではない拍手が続く中、当たり前のように、ノクターンの中でも地味な13番がアンコールで奏され、豊かな思いで前半が終了した。
ラフマニノフは正に自家薬籠中のもの。細部までビシュコフの意図するデュナーミクが行き届き、クライマックスの描き方も単に情熱に流れず、抑えるところは抑え、聞かせるところは聞かせる充実した表現で、内声の扱いも実に丁寧で素晴らしい。これを超えられるのはザンデルリンクのロマンだけか。気が付くようなカットは無く、演奏時間は1時間ぴったりであった。ビシュコフはこれまで軽視して聞いてこなかったが、この旅後半での思いがけない再会時もそうだったが、実に入念な音楽作りで指揮能力も高い。これからはもう少し聞く機会を増やしてみようと思う。

この日の昼は、私が欧州一だと感じている鮨屋TOSHIにて43ユーロと少し高いが、十分満足できるTOKUSENを頂く。夕方小腹がすいたところで、Franziskanerともう一つミュンヘンを代表するビールとして有名なAugustinerが美味しいAugustiner GrossgaststatteでEdelstoffを飲む。ここにもWeisbiarはあるが、やはり晩飯を食べたZum FranziskanerでのHefeweiss Biarが最高。定番の酢漬けソーセージサラダ、ブルスト・ザラ―トを食らい大満足の夜であった。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 09:58コメント(0)トラックバック(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

何時もは旅行記などを書くマメなタイプの人間ではないのだが、折角気合の入った音楽旅行を毎年やっているのに、コンサート記録帳を見ないと思い出せない状態に陥っているのに気付き、今回は自分の記憶を深める意味合いも込めて、感じたことを書き綴ることにした。

ミュンヘン

4月16日から約20日間の旅程の第一番目の年はミュンヘン。昨年はバイエルン・シュターツオパーでケント・ナガノ指揮の「サロメ」と「不思議の国のアリス」初演を観劇し、一時はドイツ・ワースト劇場との評に甘んじていた名門の復活・隆盛に胸躍ったものであったが、今年はオペラは無し、宿もシュターツオパーの裏のフィア・ヤーレスツァイテンでは無く、ガスタイクセンター裏のヒルトン・シティである。

2008/4/16 ガスタイク・フィルハーモニー、ミュンヘン
CHRISTIAN THIELEMANN, Dirigent
RENEE FLEMING, Sopran
MUNCHENER PHILHARMONIKER

ハンス・プフィッツナー   劇付随音楽「ハイルブロンのケートヘン」序曲 OP.17
リヒャルト・シュトラウス  4つの最後の歌 OP.AW150
---------------------------------------------------------------------------
リヒャルト・シュトラウス  「エジプトのヘレナ」第2幕から
アルノルト・シェーンベルク 浄夜 OP.4

ルネ・フレミングは声は小さいが、繊細な声の変化や豊かな表現力で聞かせるタイプで何度か聞いたことがある。今回は4つの最後の歌、しかもティーレマンの指揮ということで期待に胸膨らませて行ったのだが、残念ながら満足感は得られなかった。彼女がいつも以上に繊細な表情付けをしようと抑えた声量で歌うのに加え、ガスタイクの貧弱な音響が手伝って全く音楽が伝わってこない。しかも2列目の席であったのが更に悪かった。以前後方の席でマーラーを聞いた時には十分聞こえたが、このホールは曲を考えて席を取らなくてはいけないようだ。ただ、エジプトのヘレナではリラックスして十分聞かせてくれた。声は出るということだ。
4つの最後の歌に関しては、折角の耽美的な場面が、殆ど憧憬を得られぬまま、何とかフレミングの表情を聞き取ろうとするところで終わってしまった。
ティーレマンは良い流れの時があったかと思うと、つまらなく音楽が停滞してしまう場面があるし、やはり指揮の下手さが気になる。齋藤秀雄のしゃくり上げに似た、膠着した縦の動きが頻発し、表現に関する動きが全く無い上にリズムが死んでいる。浄夜は殆どの場面はよかったが、やはりたまにそういう場面に出くわす。後半アダージョのチェロで始まる主題の部分は、オーケストラに助けられた。やはりドイツオケのチェロは心が篭っている。これが無かったら欲求不満のまま帰ることころであった。
夜はホテルのレストランでシーズンのSpargel(=白アスパラガス)を、愛飲のFranziskanerのWeisbiarで頂く。小サイズでも大きなアスパラ5本であったから、ドイツではやはり量に気を付けなくてはいけない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 09:53コメント(0)トラックバック(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

まずは旅程から。

4月16日 7:40タクシー 品川8:14-横須賀線-東京8:22 8:30-(Nex11)-9:29第1ターミナル
Apr.16(Wed)NRT10:55-(OS52)-15:55VIE16:45-(OS115)-17:45MUC Hilton City
20時ミュンヘン ミュンヘン・フィル 浄夜、ヘンツェ、4つの最後の歌

4月17日 20時ミュンヘン バイエルン放送響 ショパン、ラフマニノフ2 Hilton City

4月18日 MUC11:25-(LH1116)-LRJ12:30 列車15分
20時 ゲヴァントハウス リゲティ、マーラー4 Renaissance

4月19日 Apr,19(Sat)LEJ10:40-(AF1617)-12:20CDG Holiday Inn Bastille
20時パリ・バスティーユ ヴォツェック

4月20日 10:55 Gare du Nord-12:17 Brussels Midi ベルギー王立美術館
15時-17:30ブラッセル・モネ メデー/ルセ
19:30 Palais des Beaux-Arts La Fida Ninfa/スピノージ Scandic

4月21日 20時Palais des Beaux-Arts ファウスト/アーノンクール     Scandic

4月22日 8:27 Centraal-9:03 Gent, St.Baaf, MSK Gent, 11:24 Gent-12:00 Centraal
13:16 Central-13:34Aeroport BRU15:00-(SN2585)-16:25TXL  Adlon
7:40タクシー 品川8:14-横須賀線-東京8:22 8:30-(Nex11)-9:29第1ターミナル
Apr.22(Tue)NRT10:55-(OS52)-15:55VIE16:30-(OS7265)-17:40TXL 
20時ベルリン・フィルハーモニー ラトル・BPO

4月23日 19時ベルリン・シュターツオパー ペレアスとメリザンド Adlon

4月24日 Apr.24(Thu) TXL11:55-( AP4215)-13:30 LIN
15:00 Santa Maria delle Gracie  Bulgari
20時ミラノ・スカラ マクベス

4月25日 20:00 Aimo e Nadia Bulgari

4月26日 9:05Milano Centrale-IC611-12:09Venezia Santa Lucia Locanda Vivardi
13:30 Osteria alle Testiere 15:00 SMd Miracoli, Ss. Giovanni e Paolo, Scuola di S.Girogio
19時ヴェニス・フェニーチェ セビリアの理髪師
22時夕食 Antico Martini

4月27日 16:00-17:00 Peggy Guggenheim 17:30-19:15 Galleria dell’Accademia
19:30 Ai Gondolieri Locanda Vivardi

4月28日 12:43 Venezia-ES9473-15:22 Firenze SMN
15:57 Firenze SMN-17:14 Pisa S. Rossore 18:20 ピサの斜塔
19:07 Pisa S. Rossore-20:33 Firenze SMN 21時夕食 Baglioni

4月29日 ボローニャ ノルマ Baglioni

4月30日 サン・マルコ美術館(8:30-13:50) Baglioni
16:30 Galleria degli Uffizi
20時フィレンツェ カルメン

5月1日  Mar.1(Thu)FLR07:05-(OS538)-09:00VIE Radisson SAS
17:30-22:30 ジークフリート

5月2日 19:30-22:15 死の都 Radisson SAS

5月3日 ウイーン 15:30ヤンソンス、19:00-23:15フィガロ Radisson SAS

5月4日 May.04(Sun)VIE14:05-(OS51)-08:15+1NRT 車あり 

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 09:50コメント(0)トラックバック(0) 

2008年02月20日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



読者の方は私をクラシック一辺倒の固い人間だと感じてらっしゃるかもしれないが、実は人知れずビートル・マニアでもある。

「ザ・ビートルズ/サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」は、1968年にビートルズが打ち立てた、音楽ジャンルを超越した一枚。

テープによるマルチ・トラック録音、LPサイズによるコンセプト・アルバムなど、この時代を代表する方法論が全面に打ち出され、さらにロックを基盤としながらクラシックやジャズや民族音楽や現代音楽など様々な音楽要素を万華鏡のようにちりばめたトータル・アートの指向が全編に満ちている傑作である。

もっとも、本人たちはそう大層なことをやろうと思ったわけではなく、ちょっとみんなを驚かそうという遊びのつもりだったのかもしれない。

しかし、結果的にはクラシックとかポップとかいう次元を越えた20世紀を代表する名作の一つとなった。

ロックがクラシックの音楽家にも一目置かれるようになったのも、このアルバムがきっかけ。

クラシック音楽のブログにロックの名盤を混入させたのは、そんな理由から。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 23:44コメント(6)トラックバック(0) 

2008年02月18日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



大河ドラマのファンにとって、待望のアルバムと言える。

大河ドラマは、原則として1年間に渡って放送されるので、メインテーマについては約50回程度聴くことになり、どのような音楽でも自然と耳に入ってしまう。

それ故に、過去の大河ドラマのメインテーマを聴くと、それぞれの年の想い出とオーバーラップして聴くことになるのが、懐かしくもあり、楽しくもある。

そのような貴重な体験をさせてくれる意味でも、きわめて意義の多いアルバムと言える。

筆者個人としては、大河ドラマを通しで見たのは峠の群像以降であるが、1年を通して聴いた曲については、まさに、それぞれの年の想い出に浸りながら楽しく聴かせていただいた。

峠の群像以降に限って言えば、ドラマとしての最高傑作は徳川家康といのち、楽しさだけに限れば、独眼竜政宗と八代将軍吉宗だと考えているが、メインテーマはいずれも超一流の作曲家の手による作品であり、音楽自体はいずれも実に高水準の優れたものである。

それにしても、世界的な作曲家であるモリコーネや武満徹、富田勲をはじめ、池辺信一郎など、超一流の者ばかりであるし、演奏も、デュトワやアシュケナージをはじめ、我が国を代表する指揮者によるもの。

加えて、我が国最高のオーケストラであるNHK交響楽団が演奏するというもの(3作目以降)であり、あらためて、大河ドラマの豪華さを思い知った次第である。

残念なのは、50作目の江が入っていないこと。

2月発売のCDとの兼ね合いがあることはよくわかるが、それであれば、時期を遅らせて、江を含めた上で発売しても良かったのではないかと思った聴き手は筆者だけではあるまい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 13:50コメント(0)トラックバック(0) 

2008年01月14日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

   

わたしたちは、ぜいたくになってきた。たんに物質的なぜいたくということだけではなくて、ぜいたくな時間、ぜいたくな空間を体験したいと思っている。

そのひとつの現われとして、音響も雰囲気もいいホールで、いい音楽をゆったりと楽しみたいという欲求も出てきているのだろう。

すると、これは下品な音楽ではいけない。やっぱりここは、クラシック音楽に登場してもらわなければなるまいということになるのである。

たしかに、クラシックは軽く聴かれるようになった。近寄り難い権威というのはなくなっただろう。

しかし、品のいい高級な音楽というイメージ、ハイ・アートとしての権威は、依然として保持されているのではないだろうか。

だからこそテレビCFが《高級感を出すために》クラシックを使ったりするのではないか。

言い換えれば、クラシックは近寄り難い権威から近寄り易い権威になったのである。誰もがカジュアルに楽しめる高級品になったのである。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 16:11コメント(1)トラックバック(0) 

2008年01月13日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

   

20年くらい前と比べてみると、今わたしたちを取り巻く音楽は、驚くほど多種多様になってきている。

十分に多様化されたとは言わないが、それでもずいぶんといろいろな音楽にたくさん接することができるようになった。

その結果、当然のことながら、わたしたちの耳は鍛えられた。あるいは、べつの言い方をすれば、耳がぜいたくになってきたのである。

だから、ありきたりの薄っぺらな音楽では、もう満足できなくなってきている。ちゃちな音楽に、ぐらっと心動かされるというようなことが減ってきている。

また、いろいろなタイプの音楽を聴きたいという思いが強くなってきている。ワン・タイプの音楽だけでは、どうも飽きてしまうのである。

そこで、さまざまなジャンルを越境しながら、本当にぐっとくるハイ・クオリティの音楽を捜そうという志向が出てくる。

すると、そこにクラシック音楽があった。ここをよけて通るのは損である。もともとジャズやロックを聴いていたような人たちがクラシック音楽に耳を向け始める。

いわゆるクラシック音楽ブームの一角は、そういった層によって支えられているのであろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 19:17コメント(0)トラックバック(0) 

2008年01月07日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

 

つまり、前項でも述べたようにオーディオは生演奏の代用品ではなく、それ自体が独立した音楽の聴取形態なのである。そして、オーディオがあって初めて普及するようになった音楽ジャンルも存在する。

例えばチェンバロやクラヴィコードあるいはリュートなどは音量が小さく、とてもコンサート・ホールで演奏できる代物ではなかったから、19世紀には全く忘れられてしまった。しかしオーディオのおかげでこれらの楽器の個性が再認識されるようになってきている。

オーディオのもうひとつの特徴は、CDやDVDでは繰り返し聴くことができる、という点にある。特に大規模な管弦楽曲などは、1回聴いただけでとらえられるものではない。2回、3回と聴くうちに、細部の微妙な表現から全体の構築性に至るまで、作品がより明確になってくるものである。

これはオーディオだから可能なのであって、もし一生のうち一回しか聴けない状況であれば、作品の理解ははるかに浅いものとなるだろう。

「何回も聴けると思うと真面目には聴かないものだ。一回だからこそ、全身全霊をあげて、一音も聴きもらすまい、と真剣に聴くのだ。」という反論もあろうが、これは負け惜しみだ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 16:48コメント(2)トラックバック(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

 

私は昨年クレーメルとツィメルマンのコンサートに行く予定だったのが、友人宅の優秀なオーディオでオイストラフとリヒテルのフランク/ヴァイオリン・ソナタを聴いて、これをしのぐ演奏はありえないと考えコンサートに行くのをやめてしまった、という記事を書いたが、ここで問題となるのは、「やはりクラシックは生で聴かなければ本当の良さがわからない」という見解である。

結論を先に述べるなら、「同一の演奏が適切な環境で聴ける、という条件が満たされる場合にのみ、ライヴはオーディオをしのぐ」といえよう。具体的にいうなら、例えばクレーメルやツィメルマンが最高のコンディションで、最高の集中力で演奏したフランクを、適切な演奏会場のよい席で聴くことは、同一の演奏のCDを聴くことよりも良いだろう、ということである。

しかし、このような条件はまず満足されることがない。したがって「ライヴはオーディオをしのぐか」という発問は、実際にはほとんどの場合「凡庸なライヴは卓抜な演奏のオーディオをしのぐか」と書き換えられ、この場合の答えは「ノー」である。

良い演奏は音質や臨場感で高められはするが、良くない演奏は、いくら音質が良くても良い演奏にはならないのである。しかも、実際にはライヴは音質の面でも、必ずしもオーディオより良いわけではない。

演奏会場には結構ノイズがある。咳ばらい、空調、隣席の物音などは確実にS/N比を損なっている。周波数特性、音圧レベル、残響特性はマクロにはホールの設計に左右されるが、座席の位置にもかなり左右される。個々人の耳たぶの形状にさえ左右されるのである。

だから、「クラシックはライヴに限る」などというのは一種の迷信なのである。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 16:25コメント(6)トラックバック(0) 

2007年10月09日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

 

たとえ私のようなクラシック音楽狂の人間であっても、世間一般の人々が岩波の青本を読む気を起こさないように、何もワーグナーの楽劇の大作とか新ウィーン楽派の難解な音楽を聴いておかなければならぬ、といった考えは毛頭ない。

確かに現代は働くのが精一杯(特に日本人は)な我々の周囲から何かと「意味」と呼ばれているものが急速に抜け落ちてしまっている時代といえる。

とはいえ芸術のなかに日常生活から想像もつかない不可思議な「意味」を見い出そう、または追い求めようと努める者にとってみれば、現実の日常生活においては、重厚な発想に裏付けられた「意味」から重さがなくなり、軽薄なものしか見当たらないと断定したくなる気持ちにならざるをえない。

新世紀を生きていく上で、常に変わらざるものを問い続ける姿勢を保ち続ければ、周囲から違和感の目を持たれかねないが、個々の現象的なものからより真なるもの、究極的なものに思惟が向かうならば、自らを取り巻く世界の出来事を「意味」付けすることによって価値を問わねばならないという思いに至るのである。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 23:28コメント(0)トラックバック(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

 

それにしてもクラシック音楽を聴く人が少ない。がぜん少数派である。

私は早大時代有志とさんざんあれこれ思案してポスターを作って、学内に張りまくったのだが、集まらないこと夥しいのだった。

もっとも「フルトヴェングラー研究会」というサークルの名前そのものがまずかったのかもしれない。ちょっとイデオロギーがかってると誤解する人もいるのかもしれないし、実際私の知っている教授はフルトヴェングラーをナチだと決め付けてかかってくるのもいた。

フルトヴェングラーとナチスとの関係については、いずれ詳細に述べようと思うが、フルトヴェングラーが戦後裁判にかけられた時にユダヤ系のユーディー・メニューインが強力に援助の手を差し伸べたことや、彼が戦後シカゴ交響楽団に招聘された時に、多くのアメリカで活動している音楽家たちが反対運動するなか、同じくユダヤ系のブルーノ・ワルターが賛成したことからも、フルトヴェングラーの良心は明らかであるとだけここでは述べておく。

話は戻るが、クラシック音楽は古典である。それゆえ何か特別の縁がない限り、一生触れないことがあっても不思議ではない。私としてはこんなにもったいないことはないと思うのだが…。嘆いてばかりいても仕方がない。私がブログを立ち上げる意味もまさにそこにある。

クラシック音楽に少しでも興味のある方が、上記のCDを縁にクラシックを聴いてみたいと思っていただければ幸いである。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 06:48コメント(0)トラックバック(0) 

2007年10月07日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

       

しかし、これらを満足しうる演奏は少ない。

20世紀最高のワーグナー指揮者であるとともにブルックナー指揮者として一世を風靡したハンス・クナッパーツブッシュにしても、ライヴ録音には粘り強いロマン的な表情があり、ブルックナー様式とややかけ離れた感を与える。

従って、クナとカール・シューリヒトの正規録音が最高である。

その他日本には馴染みが深くて定評のあるロヴロ・フォン・マタチッチには優れたライヴ録音がある。

録音の多い朝比奈隆とオイゲン・ヨッフムは前者にはオケの弱さ、後者にはムラッ気があるが、廉価で交響曲全集の一つを揃えられたい向きにはうってつけ。目安としては朝比奈は最近のもの程良く、ヨッフムは新旧両盤どちらとも言いがたい。

交響曲全集よりもまず、ブルックナーの音楽の特質であるスケールの大きさ、オルガン的な響きの美しさ、宗教的な深さを感じられたい向きには、朝比奈指揮大阪フィルの名高き聖フローリアンでの実況録音(7番)をお薦めする。

これはブルックナーの入門であり、深奥でもある。これこそ日本人の誇りである。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:13コメント(0)トラックバック(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

    

ここでまず強調しておきたいのは、作曲家を解釈する演奏家の問題についてであり、これについては後々私のブログのテーマになるのだが、特にブルックナーの演奏についてで、特にブルックナーはナイーヴなのだ。演奏家によって生きも死にもする。それがただ単に凄い指揮者と優秀なオケだと名演奏になりえるとは必ずしも限らない点がユニークなのである。

私は、一時期まで宇野功芳氏の批評に全面的に賛同であった。しかし最近になって宇野氏が批判するフルトヴェングラーやカラヤンのブルックナー演奏にも素直に感動できるようになった。前者の精神性の高さと深さ、後者の良く彫琢された美しい表現も、ブルックナーは許容しうるだけの懐の深さはある作曲家ではないだろうか。

とはいえ、大自然の寂寥と人間の孤独を表現したブルックナーは、ドライな感情の人間には演奏できるか甚だ疑問であるし、即物的な演奏態度によっては必ずしもその本質を具現しない。徹底的に心象の世界の音楽だからである。そこで、私は以下のような基本的な考え方を変えていない。

1 厳しい客観性をもち、効果を狙いすぎず、あるがままを再現する。

2 透明な音感と、響きの透明度が必要。

3 「詩情」がほしい。

ブルックナーの名演へ

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:06コメント(2) 

2007年10月06日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

  

「スコアに忠実に」ということを極端に実施した例といえば、ベートーヴェンの交響曲第3番「エロイカ(英雄)」第1楽章のコーダで第一主題がトランペットに現れるところ、途中トランペットのテーマが消えてしまう演奏(ゲオルグ・ショルティの89年盤等)みたいに余りにもスコアに忠実なのには驚くばかりである。

ご存知のようにベートーヴェンが生きていた頃のトランペットにはそれ以上の音域が吹けなかったのだ。それを忠実に実行したところで何の意味があるのだろうか。ちなみにそれを「忠実に」実行したショルティは、これまた「忠実に」提示部の反復も行っている。

ライヴならともかく、家でCDを聴いてるのに、もう何度もその曲を聴いてて細部まで知り尽くしているのに、ご丁寧にも反復されたのでは、私などうんざりしてしまう。提示部の反復によって音楽が発展、止揚されているのであれば文句は言わない。全く同じ繰り返しなのである。

最近のリッカルド・ムーティ指揮のモーツァルトのシンフォニーなんか、さらにご丁寧にも展開部から再現部にかけても反復を実行している。皆様はどう率直に感じられるだろうか?何度も聴けてラッキーと思われるだろうか?そうではあるまい。反復なぞしなくても、それこそ一期一会、その演奏家の一世一代の名演を聴きたい!とお思いになるのではないだろうか(最近驚愕したのはムーティが「ザ・グレイト」でも反復を実行していたことである)。そこまで忠実にスコアを実行するのは不自然ではないだろうか。

ちなみに私はショルティもムーティも嫌いな指揮者ではない。むしろそれまでいい演奏をしていたからこそ、度重なる不自然さに疑問を呈したいのだ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 19:07コメント(0)トラックバック(0) 

2007年10月05日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

   

同曲異演奏などまだ聴き比べる程聴きこんでないという初心者には、クラシック音楽は初めは堅苦しく感じるかもしれないが、聴くにつれて慣れるものである。何も岩波の青本を読むような知的忍耐力を要しない。

私の場合初めはどこかで、例えばCMや映画などで使われた音楽の断片が記憶に焼きついて、その断片を含む曲であれば、初めて耳にしたときでも全体を興味深く聴き進められた。CMや映画で印象に残ったフレーズを探すことにとても愉悦感に浸れた時期が確かにあった。

上にあげたものはクラシックの入門の入門である。クラシックをそもそも聴かない人やアレルギーを感じる人向け。

そしてそうこうしているうちに、古今の名曲の大半は聴き終えてしまう。大体そういった時期になると曲自体よりも演奏の方に興味が沸いてくる。というのは、演奏家が平凡だと、作品自体までその演奏家の水準に落ちてくることが身に滲みてわかってくるからである。

年末になると各地で開催される「第九」のコンサートに嫌気がさす方々も少なからずいらっしゃるのではないだろうか。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:00コメント(0)トラックバック(0) 

2007年10月04日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

前置きが長くなってしまったが、要するに「クラシック音楽中毒患者」なのである。

クラシック音楽は私の「信仰」でもある。

前述したように、入学当初新興宗教のサークルに誘われたり(これが皆いい人ばかりなので厄介)、クラスメイトから健全な志向へと導かれたりして様々な刺激を受けた。

しかし現在も続いている親友のほとんどはフルトヴェングラー研究会の人たちである。この友情は廃ることがないと思う。

友人はほとんど結婚してしまったが、結婚式の選曲も楽しかった。

私はこのままだといつ結婚するのか知れないが、もし私が結婚するとしたら、結婚式では、ある先輩は居合の演舞、ある後輩は能を披露してくれるそうである。

それも私がクラシック音楽を通して真実を語ってきた功徳なのかもしれない。


ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 08:26コメント(0)トラックバック(0) 

2007年10月03日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

早大時代は個性的な友人に恵まれて幸福だった。

それでも入学当初は迷える子羊を誘うがごとく新興宗教に入り込んだこともあったが、良き友人の導きによって、フルトヴェングラー研究会に入った。

3年生の時幹事長になり、サークルを大学公認に昇格させた。

入学式の時に奥島総長が言ったように、早稲田に豊穣の海を見出すか、不毛の砂漠に彷徨うかは全て本人次第である。

今思えば私は充実した大学生活を送ることができたと思う。何せ卒業論文まで好きなクラシック音楽、それもフルトヴェングラーについて書くことができたのだから。

色々あったけれども文句なしである。

大学を卒業してからは職業を転々として、イタリアにも行ったりして、今現在は帰省している。


ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 15:22コメント(0)トラックバック(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

それから私は東京の早稲田予備校の寮で浪人生活を送った。

ところがその予備校の指導方針が私に合わなかったと感じた。それでも元々できる奴は自分で勉強して開拓していくのであるが、私は行き詰っていた。

そこへ親友が代々木ゼミナールを紹介してくれた。

代ゼミの人気講師陣は違った。つまらない受験勉強を通して人生を語るのだった。

私は填まりこんだ。そのまま二浪目は代ゼミで過ごし、晴れて念願の早稲田大学文学部に合格した。


ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 09:23コメント(0)トラックバック(0) 

2007年10月02日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



純粋だった私の心は荒れ狂った。夜中自転車で遠くまで徘徊した。

家に帰ったら、シューマンの「詩人の恋」をフィッシャー=ディースカウ(バリトン)とエッシェンバッハ(ピアノ)でむさぼるように聴いた。

私は詩人になった。ハイネの詩を追体験した。後で思えばシューマンやハイネの意図する詩人はもっと大人の恋だったのだろうけれども。

当然受験は玉砕である。まぁ第一志望校(早稲田)しか受けなかったから仕方ないが…。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 18:03コメント(0)トラックバック(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

ところがである。高校3年の夏休みに両親の縁でたまたま家庭教師を頼むことになった。女性だった。早稲田大学の1年生。憧れの第一志望校である。ルックスがまた私のストライクゾーンのど真ん中だった。一目ぼれしてしまった。これでは勉強にならない。

今思えば与えられた宿題を形だけ一日10時間位こなしただけだったといえようか。教えてもらう時間はほとんどデート気分である。とはいえ生真面目な性格だったので、怠けてるつもりは毛頭ない。

しかし夏休みは当然終わりの時が来る。当然彼女は東京へ帰ってしまう。最後の日、母が運転する車で駅まで送って、その去りようを見て切なくてたまらなくなった。帰宅しても当然勉強どころの騒ぎではない。彼女にラヴレターを書く決心をした。それこそ熱烈な思いを込めて書いて送った。結果は火を見るより明らかである。

「私は他に好きな人がいます。」


ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 17:33コメント(0)トラックバック(0) 

2007年10月01日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

色々と音楽評論文を(卒論も含めて)書いてきたが、「優れたCDを挙げろ」と言われて選出するのは、大変な難問である。これがよくある雑誌の採点ものだったら案外すっきり割り切れるのだと思うが、「好きなCDも含めて」というのであれば多少ニュアンスは異なり、自らの感性を中心にして考えることができる。

ここでの目的は、どこまでも「優れた〜」を選ぶことであるが、それと「好きな〜」とがある程度一致するとしても、勿論それで全てという訳ではない。それにそれぞれの古典の名演奏に順位をつけるなどというのは、もともと不可能なことなのだが、遊び気分で一応挙げる(それでも真剣に!)だけのことである。

どんな場合でもそうであるが、「好き」であることの順位などは、その日その時で変わることがあっても不思議ではないのだと思う。とはいえ、選出するものは「私の琴線に触れる」ものばかりで、このブログを読んでくれる方々にも共感してもらいたいものばかりである。

まぁ読んで頂ければ、私が特に選り好みをせず、作曲家のジャンルも演奏家のそれも、それなりに聴きこんでる奴だと納得して頂けると思う。まず、私が長年傾倒しており、初心者の多くの方に耳慣れないユニークな作曲家について、紹介を含め持論を展開させて頂く。

ブルックナーへ

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:28コメント(0)トラックバック(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

何だかこれまで書いてきた文章は余りにも構えすぎていて、もっとブログなんだから「徒然なるままに」記しても良いのではないかという気がしてきた。

ブログにしては特殊性に染まりすぎている。これでは読んでもらえるのも読んでもらえない。読者も著者の略歴も知らないで読むのは、ラベルの分からないワインを飲んでいるようで、安心できないだろうから、簡単に自己紹介させて頂く。

私は1974年、熊本県天草郡(現上天草市)生まれ。地元の公立小学校を卒業した。割と運動神経が良い少年でクラス委員などもやる活発な少年であった。卒業写真には「尊敬する人」→「ヘルベルト・フォン・カラヤン」、「将来なりたい職業」→「指揮者」という極めて無邪気な少年だった。

中学校から熊本市に移住した(両親は公務員)。これは両親が熊本市の県立のトップクラス校に入学させるためで、中学時代は塾に通ったり、家庭教師に教えてもらったりと結構それなりに勉強したつもりだったのだが(直前の模試でも成績優秀者の載った)、志望校に落ちてしまった(どうもこの頃から私の人生は狂い始めてたようである)。あがり症のためである(多分)。

やむなく某私立大学の附属高校に通うことになった私は、いきなり担任の教師からこう言われた。「公立に落ちたことは忘れてしまいなさい。これまでもそうした人が充実した高校生活を送ってきてます。」私は納得がいかなかった。なぜなら周囲の生徒で校風に馴染んでいった奴等は、ただその日が良ければそれで良し、遊んでいるようにしか映らなかったからである。

私は流されそうになりながらも、青山学院出の教師の触発や、有名な和田秀樹の「偏差値50からでも早慶に受かる法」を読んで一発逆転を虎視眈々と狙っていた。ちなみに6歳から習っていたピアノもこの頃やめてしまった。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 12:23コメント(2)トラックバック(0) 
メルマガ登録・解除
 

Profile

classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

Categories
Archives
Recent Comments
記事検索
  • ライブドアブログ