芸術に寄す

2017年03月02日


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ルソーが言語の起源と本質を論じた著作。

言語の本質とは情念の表現にあり、もとは言語と音楽の起源は同一であったという。

言語の起源と変遷、諸言語の地理的差異、音楽の起源、旋律、和声の原理と歴史が分析され、南方と北方の言語の抑揚の相違、言語の現状が言語の変遷といかに関係しているかなどが論じられる。

学生時代単行本で初めてこの作品を読んだ時にはギリシャ、ローマの古典に疎かった筆者は引用の多さと原注を調べることに辟易しながらも、ルソーらしい確信に満ちた論法に興味を惹かれ、彼の思考回路と好奇心を刺激する破天荒の人となりに大きな魅力を感じた思い出がある。

増田氏の訳出によるこの文庫本は平明な口語体で、原注と訳者による訳注がそれぞれの短い章ごとに並列されていて、一般読者のためのより良い理解への便宜が図られている。

ただしルソーの他の論文と同様、当然当時の第一級の教養人を読者に想定して書かれたものであるために、その文学的醍醐味を味わうにはある程度の古典の素養が欠かせないことも事実だ。

ここでも彼が有名な『ブフォン論争』で展開した、殆んど独善的だが豪快な論陣が張られている。

また彼は自分に敵対する人々を常に意識していて、そうした陣営への痛烈な揶揄や時として罵倒も辞さない。

気候が温暖で潤沢な食物に恵まれた地方の人々の最初の言葉は最初の歌であり、一方厳しい気候の北方の民族のそれは相手を威嚇するために鋭い発音になったという論法は、現代の言語学の到達点からすれば観念論の謗りを免れない。

専門分野の資料を欠いていた彼の時代の研究は確たる物的証拠に基いたものではなく、頭脳を駆使して構築されたファンタジーの域を出ない産物だからだ。

しかしながらルソーの思考方法に現代でもその価値を認めるとすれば、むしろそれは彼が古典文学、歴史や地理、文化風俗から哲学、物理、音響学に至るまでの当時の百科全書的な広範囲に亘る知識を総動員して考察しているところである。

すなわちその時代に知り得た総ての知見を総合する術こそ、余りにも細分化され異なった専門分野のミクロ的分析に成り下がってしまった現代の科学に本来の研究方法のあり方を実践してみせている。

そうしたことからもルソーはまさに近代啓蒙思想の元祖的な存在と言えるのではないだろうか。

後半第12章からは話が音楽に移り、彼の論敵である作曲家ラモーへの鋭い攻撃が展開される。

ラモーは既に彼の著書『和声論』で旋律に対する和声の優位を説いているが、ルソーはこれに真っ向から対立し、言葉に源泉を持つ旋律の方に絶対的価値を主張している。

そこで喩えに用いられているのが絵画でのデッサンと色彩で、当然彼はデッサンを音楽の旋律に喩え、色彩を和音に置き換えて論証している。

そして和音が理論化されてしまったために、その進行が逆に旋律を制限し、本来の音声言語の持っている精神的力強さが失われてしまったと説く。

彼の論法では色彩の理論だけでは絵画は成り立たないのだが、それは印象派以後の絵画の傾向を見るなら一概に頷けるものではない。

しかしながら自然界に存在する倍音列とは異なった音律で和声を創り上げた和声法とそれに縛られた旋律は、確かに本来の力強さを失ってしまったのかも知れない。

最後には言語起源論からフランス絶対王政反対に導くルソーならではの強引で飛躍的な帰結も痛快だ。

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2007年11月12日


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ともあれ現代は、人類史上空前ともいうべき、試練と変動の時代を迎えているのである。そうしたなかにあって、多くの人々の心が内面へと向けられていることも明らかである。

晩年のヴァレリーは不気味な軍歌の音をききながら、精神連盟のために奔走した。「創造的生命」の開花、発現は人間の内面的変革を通じ、必ずやそうした精神連盟、精神革命、に大きな道を開いてゆくであろう。

それはまた、芸術をはじめ、人間の全ての営みを活性化させてゆく源泉となりうることも間違いはないと、私は信じている。

(注)ポール・ヴァレリー (1871年10月30日 - 1945年7月20日)フランスの作家、詩人、小説家、評論家。多岐に渡る旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。


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2007年11月11日


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その象徴性の純度というものを考えつき、私はポール・ヴァレリーの、あのソクラテスが踊る女人の姿を凝縮して語る美しい一節を想起するのである。

それは「生命のあの高揚と振動、あの緊張の支配、得られる限り敏捷な自分自身のなかで、あの恍惚状態へは、内面から湧き上がるような力を持ち、恥や煩い、愚かさなど生活の単調な過程はそのなかに焼きつくされて、女人のなかにある神のように尊いものを我々のなかに輝かせてくれるであろう」と。

これはもとより両者を同次元で論ずることはできないのかもしれない。しかし動くものの究極に言語という形を与えようと象徴性の純度を高めてゆく時、期せずして想像力が踊りのイメージを形どる連想作用に誘われるということは、大変興味深いことだと思うのである。

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2007年11月10日


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例えば、フルトヴェングラー指揮のベートーヴェンの「第9」交響曲が終わった後の聴衆の騒ぎは、もう熱狂とか興奮とかいう言葉では表現できないものがあったそうだが、そこでは「結合の力」が十全に発揮され、芸術の次元において人生の昇華をも意味していると思う。

それは単なる歓喜ではなく、人生の深い探求と社会への限りない貢献のうえからの「歓喜のなかの大歓喜」でなければならないということなのである。

それを可能にしたのはフルトヴェングラーの「解釈」であり、それはスコアの客観的描出というよりも「創造的生命」のすぐれて象徴的な描出と捉えることができるのである。


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ここで、一切の事象を永遠の相のもとではなくして持続の相の力で捉えようとした、ベルグソンの生への哲学に内包しているところの生命脈動してやまぬダイナミズムを「創造的生命」と名づけて着目したい。

それは常に時間的、空間的な限界を乗り越えて、小さな自己から大きな自己への超克作業に余念がない。換言すれば、宇宙本源のリズムとの共鳴和音に耳を傾けながら、日々新たなる飛躍をしていくところに、この面目があると思うからである。

(注)ベルグソン(1859〜1941)フランスの哲学者。カントの観念論に対し、直観や本能によって認識される純粋持続としての実在論を構築。




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2007年11月09日


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一例をあげれば、原稿用紙やタブローに一人向かう孤独な芸術家と他方、匿名の多数の読者であり鑑賞者である大衆といった、あまりに近代的な芸術環境にあって「結合の力」がいかに十全に発揮されるかどうか。

個々の努力や才能によってそれなりの成果が期待できるにしても、何よりそこには「結合の力」を発現させるための有機的、共同体的な「場」が欠落してきたということである。

それは例えば、劇場に集まった観客たちも俳優と同様に、時には俳優以上に演劇に参加することができた古代ギリシャの芸術環境とは、よほど違ってしまったということである。


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2007年11月08日


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ところでその普遍性の世界は、往古の演劇が宗教的祭儀と不可分の関係にあった。ハリソン女史も言うように「人間を教会へ向かわせる衝動と劇場へ向かわせる衝動とは、出発点において同じであった」(J・E・ハリソン著『古代芸術と祭式』筑摩書房)というわけである。

つまり芸術は宗教で、また宗教は芸術であった。この二つながらの、良く生きんとする人間の情熱のおのずから志向するところは一致していたように思える。そこで問題は、古今東西を問わず、こうして芸術や宗教を通じて発現されてきた「結合の力」が、社会の近代化にともない、とみに衰微してきたという現実である。

私は19世紀以来、鋭敏な精神が予感し、警告してきたことをここであえて論ずるつもりはない。しかし自然や宇宙から切断されつつある人間は、今や人間同志の絆さえ断たれがちであり、その結果孤独はもはや孤独として、すなわち病いとしてすら意識されなくなってきた時代である。私達をとりまく芸術環境も近代の流れとともに、しだいしだいに大きく変わってきてしまった。


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2007年11月07日


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ではなぜ芸術が人間にとってかくも根源的な営みであり続けてきたのか、その最大の要因は、芸術のもつ「結合の力」に求めることができると私は考えるのである。

ゲーテの『ファウスト』の独白にあるように、あらゆるものが一個の全体を織り成している、一つ一つが生きて働いている、というのが生きとし生ける者の実相ならば、人間と人間、人間と自然、人間と宇宙をも結び合わせ、全一なるものを志向してゆくところに、芸術のすぐれて、芸術たらんとせんがためのものがあったといえる。

詩歌であれ絵画であれ、音楽であれ、彫刻であれ、我々が珠玉の芸術作品に触れたときのあの感動、それを一言にして謂えば、「あたかも我が胸中の湖に共感の波動が幾重にも幾重にも広がり、精妙なリズムがはるか天空へと飛翔してゆくがごとき生命の充実感」であり、これこそ自己拡大への確かなる実感である。

有限なるものは無限なるものへ、体験の確実性は意味論的宇宙ともいうべき普遍性の世界へと昇りつめてゆく。そこに芸術特有の「結合の力」の生き生きとした発動があると、私はみているのである。


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2007年11月06日


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クラシック音楽芸術を考察するにあたって、まず古くから人間は芸術とどのような関わり方をしてきたのかということについて、私なりに常々クラシック音楽芸術を鑑賞しながら考えていることを述べてみたい。

古代、芸術とは、人間の精神性のやむにやまれぬ発露であった。様々な形を結びながら、そこに巧まずして一個の全一なるものを象徴するものであった。

確かに個々の芸術活動は限られた空間内での営みであったかもしれない。しかし芸術に参加する人々の魂には、自らの活動を通じて、宇宙的生命ともいうべき全一なるものとつながり、一体化せんとする希求が脈打っていた。

つまり、自分というミクロな世界が、宇宙というマクロな世界へと融合しつつ、造り出されるダイナミックな生命体 ― 人間は物質的な生活においてパンを欲するように、精神面においては、そうした全一なるものに浸り、それを呼吸し、蘇生の活力を引き出そうとすることを生き方の機軸としてきた歴史である。

パンが肉体の新陳代謝に不可欠であるように、芸術もまた、そのもたらす高揚作用は、カタルシスとなって、心の新陳代謝になくてはならぬものであったわけである。

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