芸術に寄す

2022年08月04日


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クロノロジカルな編集で旧約、新約の両聖書の歴史と内容がコンパクトにまとめられていて、それぞれのエピソードごとに、それにまつわる1点から2点の名画を紹介して、その見どころを説いたガイド・ブック。

この一冊で聖書の成り立ちとその概要を把握することができ、欧米の教会や美術館を飾る絵画の鑑賞に一役かってくれる実用書でもある。

美術作品の写真についてはオール・カラーで掲載されているので、オリジナルの作品をイメージするのに有効だ。

ただしひとつだけ難を言うのであれば、聖書の解説については要点を分かり易く記述してあるので重宝するが、そこからテーマを採った美術作品の説明がそれほど充実しているとは言えない。

作品の数自体は107点で満足のいくものだろう。

また異なった多くのアーティストが選ぶテーマは往々にして共通しているので、例えばひとつの絵画をサンプルとして、扱われている題材と、それぞれの登場人物が誰であるか、あるいは一緒に描かれている物が何を意味しているかを理解するのに応用ができる。

しかし美術作品の紹介としては、質的にどうしても中途半端にならざるを得ない。

その理由は、先ず一冊の簡易な単行本に2つの重要なテーマを盛り込んだことで、聖書と絵画を同等の質と量で解説することに無理があり、入門書の域を出ていない。

更に美術作品の解説には、どうしても作品の成り立ちやオーダー者が誰であったか、どういうテクニックが使われているかなどの分析が不可欠になる。

このあたりは著者自身が美術の専門家ではないという理由もあるかも知れないが、残念ながら作品の芸術的価値を捉えるまで踏み込んでいない。

もし読者が実際に宗教美術に興味を持ち、それらを鑑賞し、その美術的価値を知りたいのであれば、専門の美術書の併読をお勧めする。

ちなみに67ページに紹介されているラファエッロの『エリコの陥落』は著者の言うシスティーナ礼拝堂ではなく、同じバチカンのロッジャ・ディ・ラファエッロの10番目の天井に描かれたフレスコ画になる。

もうひとつの誤りは203ページのマメ知識欄に出ているラオコーン像はルネサンス期のイタリアの代表作ではなく、ギリシャ彫刻をローマ時代、紀元前一世紀にコピーしたものというのが現在の考古学者の見解である。

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2022年07月11日


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[ 失われた時を求めて ]の直近訳では、現在逐次刊行が進行中の高遠弘美氏と、既に全巻が揃ったこの吉川一義氏の訳出が双璧といったところだ。

高遠氏はこの作品を最初から日本語で書かれた小説のように訳を練り上げて、日本語の感覚で理解できる平易な文章を心がけている。

それに対して、吉川氏はあくまでも語彙を洗練させ、高踏的なプルーストの薫り高い筆致を追って、パリのサロンや社交界の雰囲気を醸し出しているように思われる。

それだけにこうした大作に慣れていない人には、ややハードルが高いかも知れない。

しかしながら決して難解な訳ではないし、幾らかの忍耐を覚悟すれば、それを遥かに上回る感動と作品の深みに誘う魅力を持っている。

この全訳には文庫版の制限にも拘らず図版や貴重な当時の写真が数多く掲載されていて、読者のイメージを助けてくれる。

また訳注は見開きページの左側に纏めてあり、読書中の注探しの往復を避けているのも親切な配慮だ。

巻頭には多くの登場人物と主人公との関係や、彼らの行動範囲を示した地図もあり、言ってみれば至れり尽くせりの配慮がなされている。

全巻セットで購入すると、限定版のフェルメールの[デルフトの眺望]が印刷されたカートンケース収納になる。

プルースト自身もこのフェルメールの絵画を生涯に二度鑑賞したらしい。

筆者がアムステルダムに行った時、偶然マウリッツハイスで修復を終えたばかりの[デルフトの眺望]が修復中の[青いターバンの乙女]と共に展示されていた。

写真では煤けたように見えたフェルメールの色使いが鮮やかに蘇っていたのを思い出し、その時の強い印象は忘れることができない。

プルーストはクラシック音楽通としても知られていたが、往年のフランスの名ピアニスト、イーヴ・ナットの演奏について「彼の演奏は極めて偉大で……彼の姿は視界から消えて、作品への窓に過ぎなくなってしまうのである」と書いている。

確かに、ナットは非情なまでに作品に献身的であり、そのベートーヴェンとシューマンはいつまでも人類の宝である。



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2022年06月05日


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本書はJames Hall: "Hall's Dictionary of Subjects and Symbols in Art", 1974の翻訳である。

筆者は大学時代絵画の見方がわからないことが気になり、西欧美術に関する講義を受けていた時がある。

そして昔の美術作品は教会などの特定の階層の人たちのものであり、主題に対して様式が決められていることを知った。

この予備知識があったため、本書の見出し語を見て、「この題名は・・」とか、「作品中にあるこのものの意味は・・」と、本辞典の使い方を容易に理解することができた。

しかし、このような予備知識のない方も本書を読むことが想定される。

本書の最初に高橋達史氏による『「絵の言葉」を読む』で絵画のカラー写真を参照しながら主題と様式の関係について解説されている。

歴史画の見方のわからない方はこの部分を読んだ上、本書を使用することをお勧めしたい。

もう20年ほど前のことだが、ローマのサンタ・マリア・デル・ポーポロ教会でカラヴァッジョの名画[ 聖パウロの回心]を初めて鑑賞した。

何ら予備知識の無かった筆者は、天才画家カラヴァッジョの光と闇を巧妙に使った恐ろしいほどの色彩感覚や異色の美学は理解できたが、聖人パウロが神から天罰を受けなければならなかった理由を知らなかった。

しかし後に本書で当初パウロがキリスト教徒迫害者だったことを知った。

彼は任務遂行の途上で天光を受け、落馬して失明した。

その時あるキリスト教徒に介抱され、視力を回復し、この事件が彼をキリスト教に改宗させることになった。

西洋美術だけでなく、ヨーロッパの歴史や音楽、文化一般を理解するためには、どうしてもこうした予備知識が求められる。

アーティストは自分の作品に持っているものの総てを注ぎ込むので、鑑賞する側にもそれだけのものを要求するし、その人の生まれつきの感性だけで理解しようとしても限界がある。

しかし付加情報を示す属性、アトリビュートなどを少しずつ学習していくことによって、ひとつの芸術作品の鑑賞に際して全く別の扉が開かれるような体験が可能になる。

本書は用語やシンボル、そしてそれらに関する逸話までが、あいうえお順に図解付きで簡潔に網羅されていて、疑問を持った時に即座に役立つ画期的な事典と言えるだろう。

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2022年06月03日


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吉川一義氏が巻末の訳者あとがきでも書いているように、この大作の日本語訳に取り組んだ姿勢の最も大切なところは、プルーストの原文を如何にそのまま訳出するかということを常に心がけたことだろう。

しかし異なった言語への移し替えを、構文を変えずに行うのは至難の業だ。

日本語にぴったり符合するような語彙を選び、構文の整合性を追求した吉川氏の訳は自然であり、しかもフランス語でのエスプリのきいた表現を生き生きと写し取っている。

語彙の選択も洗練されているが、日本語として不自然な単語や言い回しはない 。

あくまでもプルーストの語順や文章の特徴を崩さずに貫徹した訳業に敬意を表したい。

プルーストは自分自身の五感を総動員してこの大河小説を書き進めている。

一見すると取り留めもない話が何の脈絡もなく、次から次へと回想されるように見える。  

実はその中に繊細な感性や驚くほどの洞察力が働いていて、決して読み飛ばせる小説ではないことが伝わってくる。

またこれも訳者あとがきで触れられているが、いたるところにさまざまな伏線が張り巡らされていてテクニック的にも圧倒させられる。

さらに文学以外の音楽、美術、演劇、哲学や社交などの知識が混然と表現されていて非常に味わうところが多い作品だと思う。

こうした総合芸術的な手法と作品の長さが敬遠される原因のひとつかも知れないが。プルーストは『スワンの恋』でそれまでのステレオタイプのラヴストーリーを刷新したと言われている。

つまり宿命的な美男美女の悲恋や英雄的な犠牲で結末を迎える物語ではなく、第一級の教養人のブルジョワだ。

一見風采の上がらないスワンと、その場を取り繕うために常習的に噓をつく、それほど美人でもない高級娼婦オデットの恋愛をプルーストは滑稽なまでに描写している。

それを目に見えるように訳出した吉川氏の力量も流石だ。

貢ぐスワンと男達の間をしおらしく、しかししたたかに立ち回るオデットのコンビは興味深い。

スワン自身も彼女の嘘には気付いているが、彼女が自分自身には嘘がつけない女だということも知っていて、彼女を芸術作品に喩えて美点を模索し追想する恋に飢えた男の姿は確かに滑稽だ。

背景になるパリ社交界の複雑怪奇なしきたりと、それに対抗するブルジョワ、ヴェルデュラン夫人の主催する『少数精鋭』の対比も面白い。

それはプルースト自身が身をもって体験した社交界という特殊な世界での出来事が、この小説の中にフィクションとして描かれている。

だから私達が生活している社会とはかけ離れているようで、意外にも他人事とは思えないのだろう。

小説で引用される絵画や劇場作品、カフェなどは多く写真入りで註に掲載されているのも親切な配慮だ。

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2022年05月24日


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ブルーレイで鑑賞するとファン・ゴッホの強烈な色彩感とデッサンの力強さが動き始める説得力が印象的だ。

余白に付いているボーナスに制作過程が詳しく映像化されているが、最終的に世界中の100人を超える画家がオーディションの末に、この企画に参加したようだ。

実際に俳優たちが演じるシーンにファン・ゴッホ風の油彩のタッチをオーバーラップさせることにも成功している。

ここでの主人公になるアルマンを始めとして登場人物の殆どの肖像画が遺されているので、彼の絵画を見たことがある人なら一層親しみも湧いてくるに違いない。

バックに流れる「スターリー・スターリ―・ナイト」も孤独の生涯を送った画家と、不器用で喧嘩っ早いアルマンが次第に人間的に成長する様子と、天才と共有する寂しさを表現している。

ファン・ゴッホの死については自殺とも他殺とも断定していない。

この作品を鑑賞する人の判断に任せているのも自然で好感が持てる。

ファン・ゴッホは37年の短い人生の中でも絵を描いたのは後半の10年で、油彩だけでも860点になるが、最後の2年間ほど精力的に描いた時期はなかった。

しかし空と雲の渦巻くような強い色彩からは、言い知れない孤独感が感じられる。

その生涯で売れた絵はわずか1点だが、生活費と画材一式は弟テオが総て負担していた。

20人に宛てて投函した手紙は800通あり、この作品のテーマになる最後の手紙もテオに向けて書かれている。

しかし彼の死後からほぼ半年後にテオは発狂し、精神病院で亡くなった。

33歳の時だった。

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2022年05月20日


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ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)の15曲の弦楽四重奏曲は、数の面からだけでなく、音楽の質や内容の点でも、彼の15曲の交響曲に並ぶ位置を占めている。

初心者のために敢えて言っておくが、日本の絶滅した音楽評論家の誤解と迷信による解説は一切参考にしないでほしい。

いずれにしても難解なことに疑いの余地はないので、手引きとして参考にしていただければ幸甚である。

筆者が参考にした解説は旧東ドイツの女流音楽学者ジーグリド・ネーフ博士(Siegrid Neef)の筆によるものである。

ボロディン弦楽四重奏団の演奏そのものは、1980年代前半のものがほとんどで、それ以前のものも含まれているが、いずれにしても、まだ旧ソ連が立派に存在していた時代のものである。

しかし解説は、年代は明記されていないが、その内容からボロディン弦楽四重奏団の全集の後に執筆されたものであることが、その内容から明白である。

ネーフは1985年に東ベルリンで出版された「ロシア・ソヴィエト・オペラ・ハンドブック」という大部で、便利な本の著者として広く知られていた。

彼女はベルリン国立歌劇場の文芸部員を長年勤めて、19世紀ロシアだけでなく、ソ連の作曲家オペラを数多く手がけてきた。

一方、本格的な音楽学者でもあり、東ドイツきってのソ連音楽通の一人といって良いだろう。

それだけに、ソ連時代の矛盾を自ら実感してきた経験を持ち、ショスタコーヴィチの作品に対しても、同時代を生きた芸術家の一人として、共感を抱くところが多いのであろう。

この解説において、彼女の語り口は生々しく、まさに本音を語っていると言えるだろう。

長年にわたって、ソ連の優等生作曲家と考えられていたショスタコーヴィチが、実は反体制な創作傾向を持っていたことが明らかになったのは、偽書とされるヴォルコフのいわゆる「自伝」が1979年に西欧に出版されてから、ショスタコーヴィチの作品に隠されている真の意味を考えることが、一気に一般化した。

しかし、想像に基づく推論は別として、具体的には、その本質がなかなか分からないままであった。

とくに後期の作品では、自作からの引用が多く、引用の意味が興味を引くが、どこからの引用であるかはもちろん、その背景を解明することは、容易ではなかった。

なぜならば、ショスタコーヴィチの作品は広く知られているものも少なくないが、一方で、ソ連時代には、ほとんど知られていない作品も、決して少なくなかったからである。

そのようななかで、ネーフはこの弦楽四重奏曲全集の解説のなかで、かなり具体的に、ショスタコーヴィチの音楽の反体制的な本質に迫っている。

ネーフが社会主義体制の下で学問や芸術の活動を続けながら、体制が本来的に抱えてた矛盾に、日常的に直面していた体験があるからであろう。

ショスタコーヴィチはかつて「音楽は思索と観念を通して、つまり、普遍化の過程を通して、その力を獲得する。そして、弦楽四重奏曲においては、思索は深淵で、観念は純粋でなければならない」と述べた。

弦楽四重奏曲にたいするショスタコーヴィチの興味は、1924年から1974年まで、半世紀を越えて続いていたが、初心者の実験から円熟した老齢者の熟達へといった、発展という感じは少しもない。

すでに最初の出発点から、基本的な観念、つまり、はかなさと死に対する悲しみや、野蛮な力の行使と暗黒な時間の経過に対する抗議は、ふさわしい巧みさをもって表現され、語られている。

現実社会で政治の暴力さを増すにつれて、作曲家の内面的力と見通す目の明快さが増大した。

このような発達の印しの一つが、彼のアダージョ楽章に見出される。

それらはことごとく、内面性と真実性に満ち満ちている。

ここには苦悩の音楽があり、その苦悩と折り合う能力が見出される。

作曲家のもっとも美しい憧れの総和として、これらの楽章は20世紀の、そして、20世紀のための音楽となっている。

ショスタコーヴィチは弦楽四重奏曲において、ドストエフスキーが「人生の呪うべき問題」「死のこと」と定義したものを、さらにまた、「何百万の人々に、個々の人生の魂のなかで何かが行われているかを示し、そして、全人類の魂が何によって満たされているかを、個々の人々に明かす」という彼の欲求によって支えられている過程を、抽出して見せたのである。

ボロディン四重奏団は日本にいくどか来ていて、その緻密な演奏を賞賛するファンは少なくないであろう。

驚異的なアンサンブルの妙もさることながら、明白な主張に裏打ちされた、彼らの明快な演奏は、心憎いばかりである。

何も考えずに聴いても、ダイナミックな音響の対比と、歯切れの良いアーティキュレーションは、そのものとして十分面白い。

しかし、それにネーフの解説を重ね合わせて聞くと、彼らの演奏が主張している、ショスタコーヴィチの音楽の背後に隠された意味を聞き取ることができて、面白さは一段と深まるだろう。

まして、不自由なロシアの生活を垣間みたことのある人であれば、いや、そうでなくても、偽善的な現代社会の本質に飽き飽きしている人であれば、そこに表現されている人の心の深い悲しみを、共感を持って実感することができるであろう。

このボロディン弦楽四重奏団の弦楽四重奏曲全集は、20世紀が生んだ鬼子、社会主義社会という矛盾に満ちた現象を、そこに生きた人間の心の機微を通して、憎々しいまでに明白に、多面的に描き上げている。

これは21世紀の現在を生きるわれわれに、20世紀を振り返る絶好のチャンスを与えてくれる、まさに哲学的な内容をもった全集であるといっても過言ではないだろう。

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2022年05月18日


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映画はほとんどの方がご存知だろうが、この本は主人公マリアとフォン・トラップ・ファミリーの自叙伝に当たる。

前半はオーストリアを中心としたヨーロッパでの体験談とアメリカ亡命前夜までが記されている。

渡米以降の家族の生活については続編になるもう一冊に収められている。

谷口由美子氏の訳は常に平明で文面にマリアの敬虔だが、機知に富んだ明るく積極的な人柄が滲み出ている。

また専門用語については注釈が見開きごとに設けられ、読者が読んでいるページですぐに理解できるように工夫されているのも特徴だ。

ここでは修道院で慎ましく生涯を過ごすことに何の疑問も持っていなかったマリアが、トラップ男爵の7人の子供達の家庭教師から男爵夫人となり金融恐慌による破産、男爵の反ナチ思想からの苦悩と亡命に至る不穏な出来事が回想される。

そうした時期を通じて、彼らのささやかな楽しみだった趣味のファミリー・コーラスがヴァスナー神父と名歌手ロッテ・レーマンの協力を得た。

そして奇しくもザルツブルク音楽祭で優勝してからはプロの合唱団として全ヨーロッパでの演奏活動を始める事になる。

またオーストリアのクリスマスや復活祭、そして夏のバカンスなどの歳時記についても詳しく描写されていて、当時の彼らの生活を余すところなく伝えている。

最後の章で男爵は軍人としてドイツに貢献することを拒み、家族も全員一致でヒットラーの前で歌わない決意をする。

危険を冒してさえも自分達の尊厳を貫くことを選んだ固い意志が、その後の彼らの運命を方向付けることになったのだ。

後半では10人の子供達とアメリカでのゼロからの再出発と成功を勝ち得るまでの家族の奮闘がマリア特有のユーモアを交えて綴られている。

フォン・トラップ・ファミリーの前には氷山のような障害も少しずつ溶け去っていく。

激動の時代にあって、彼らは常に前向きに考え、行動した。

いやむしろ体当たり的に生きざるを得なかったというべきだろうか。

しかし稀にみる家族の結束と行動力によって降りかかる難関を次々に切り抜けていくストーリーには興味が尽きない。

家族合唱団を結成して以来、精神的にも、また経済的にも彼らを常に支えたものは彼ら自身のコーラスだった。

トラップ家の絆は音楽によって強く結ばれ、彼らの歌が多くの人々の心を惹きつけ、行動に移した。

アメリカの入国管理の検閲に引っかかり、難民抑留所に何日も軟禁状態になったり、客の入らない演奏会が続いて興行主に契約を打ち切られたり、波乱に満ちた日々の生活の中でも彼らは果敢に歌い続けた。

ここには映画に描かれた美しくロマンティックなエピソードだけではない、彼らの真実の人生が正直に記録されている。

終わりに近い『手紙』の章はそれまで決して弱音を吐かなかったマリアが、常に苦労を共にし励ましてくれた夫、ゲオルク・フォン・トラップ男爵の病に蝕まれていく姿に狼狽し、困惑する。

全編の中で唯一彼女の悲痛な心情が吐露され、彼の臨終に際しては女性らしい暖かで細やかな思いやりがひときわ美しい。

余談ながら次男ヴェルナーの4人の孫が現在でもザ・フォン・トラップ・チルドレンとしてモダンだが繊細で美しいコーラスを世界中で披露している。

曾祖母マリア以来のトラディションが見事に受け継がれているのだ。

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《ミケランジェロの詩による組曲》は、ショスタコーヴィチの死の前年の傑作ながら、現役盤が少ない作品である。

この作品(以下『ミケランジェロ組曲』)は、そのミケランジェロの11の詩に、ショスタコーヴィチが、作曲した、男声独唱とオーケストラのための声楽組曲である。

ミケランジェロの詩11篇に付曲した音楽は、ショスタコの苦悩に満ちた心情を反映するかのように、暗く重い。

バスのポルスターが力強く艶のある声、テンションの高いオケ、壮絶な演奏だ。

この作品(『ミケランジェロ組曲』)は、ヴァイオリン協奏曲第1番や交響曲第14番と並ぶ、ショスタコーヴィチの最高傑作の一つである。

それにも関わらず、この作品が、交響曲第14番と同様、演奏会で取り上げられる事が極めて稀である。

まだネット配信が普及していない頃、CDも殆どないという時代に、筆者は本盤を持っているのにも関わらず、長らく謎のまま放置していた。

ルネサンス美術の巨匠、ミケランジェロは、同時に、優れた詩人でもあった。

あのシスティナ礼拝堂の『最後の審判』やダヴィデ像、ピエタ像の彫刻で有名なルネサンスの芸術家が書いた詩に付曲したものである。

芸術や愛、そして憤りなどを詩情豊かに綴ったダンテ風の詩なのだが、音楽は無駄がなく、切羽詰まった心情吐露を聴くごとく暗く重い(全11曲)。

この曲を聴くと、ミケランジェロの詩の深さと、それらの詩にショスタコーヴィチが抱いた深い共感に打たれずにはいられない。

中でも、「創造」(第8曲)、「死」(第10曲)、「不滅」(第11曲)の3曲の精神的深さは、殆ど形而上学的だ。

その最後の曲(「不滅」)の中で、死を迎えた詩人が、「だが、私は、生きている」と歌う一節には、何度聴いても感動を覚えずにはいられない。

この言葉は、死を間近に感じたショスタコーヴィチ自身の遺言だったのではないだろうか?

この作品に使れているミケランジェロの詩の選択には、ショスタコーヴィチのメッセージが込められている。

そこには、明らかに体制批判的なメッセージがあるようだが、そんな事は、大した事柄ではない。

筆者が打たれるのは、むしろ、こうしたショスタコーヴィチの死への思いである。

このディスクは、ミケランジェロの詩をドイツ語訳で歌うヴァージョンである。

それが、ドイツ語の深さ、美しさと相俟って、ショスタコーヴィチの音楽の素晴らしさを際立たせている事が、深く印象的である。

ショスタコーヴィチが託した晩年の心境を読み解いていくかのような感興を覚えさせる名盤であるが、繰り返し聴くのにはちょっとつらい歌曲だ。

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2022年05月15日


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下巻は文庫本としての便宜的な配慮から分けられた部分なので、上巻の後半で始まったネオ・プラトニズムの観念について引き続き詳しい解説がされている。

フィレンツェ・メディチ家のサークル、プラトン・アカデミーでは、本来のプラトンの哲学とキリスト教神学の要素を一体化する必要から、その整合性への試みとして2人のアプロディーテ(ウェヌス)と2人のエロス(アモルあるいはクピド)を生み出すことになる。

つまり瞑想的な至高の愛と、より低次元の物質的な愛の具現で、ティツィアーノはこれを『聖愛と俗愛』で独自の解釈を示した。

パノフスキーはここに描かれた2人を「双子のウェヌス」の対立ではなく、知的な美と視覚的な美の調和と解いている。

現世的な欲望を捨て去った姿としての裸体表現はミケランジェロの作品でも常套的に使われているのは明らかだ。

少年時代にロレンツォ・マニフィコにその才能を見出されてから、メディチ家の一員としての待遇を受け、彼らと食住を共にしたミケランジェロであれば、彼が如何にネオ・プラトニズムの影響下に育ったか想像に難くない。

しかしプラトンの言うイデアの世界が不可視であるがゆえに、その想起にまた彼ほど限りなく近付こうと苦闘した人も稀だろう。

下巻の後半部分はミケランジェロの哲学とその作品についてパノフスキーの詳しい考察が開陳されている。

フィレンツェ聖ロレンツォ教会のメディチ家礼拝堂のイコノロジー的な解釈は彼の面目躍如たる部分で、ロレンツォとジュリアーノのためにミケランジェロが製作した4体の像『朝』『昼』『夕』『夜』がそれぞれ冥界を流れる四つの河、つまりアケロン、フレゲトン、ステュクス、コキュトスに一致し、更にそのひとつひとつが中世の四大元素、大気、火、土及び水を表し、それを「多血質、春」「胆汁質、夏」「憂鬱質、秋」「粘液質、冬」に該当させている。

そしてロレンツォの像を瞑想を表すサトゥルヌスに、ジュリアーノを行動を示すユピテルに見立てている。

そう考えるとこれはもはや2人の公爵の墓というより、ミケランジェロ自身の哲学堂のようなものでだ。

彼が同じような構想で創る筈だったローマのユリウス二世墓廟が再三の計画変更を余儀なくされ、彼の手で完成しなかったのは芸術的な損失だったというべきだろう。

最後にパノフスキーはこの著書を終えるに当たって「天才たちの象徴的な創造物というものは、遺憾ながら、二流の芸術家たちの寓意的な作品に比べその主題を釘付けにすることは難しい」と結んでる。

この言葉にはミケランジェロのような人物の作品から、その一種近付き難い高邁な精神を感じ取り、それを哲学的、あるいは芸術的に解釈することが決して容易でないという率直な気持ちが滲み出ている。

何故ならそれは理論というものを遥かに超えた、本人自身にしか理解することができないような独自の信仰があったからに違いない。

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2022年05月13日


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ルネサンスやマニエリズムの時代には教養人の間で当然のように理解されていた共通の見識があり、アーティスト達も言ってみれば暗黙の了解のもとにさまざまな技巧を凝らして作品に深みを与えた。

それはキリスト教世界にも共通することだが、またこの時期にはユダヤ教や多神教などの研究も盛んに行われたために、作品にも一通りでない複雑な要素が入り込む結果になった。

しかし美術鑑賞が一般化した現代では、そうした限られたサークルの外にいる人達にとって、あるいはその伝統を受け継がない別の社会に生活する者にとっては西洋美術鑑賞の視野を広げるための相応の学習が望まれる。

それがまさに絵解きを必要とする理由で、パノフスキーはこの著書で一般読者向けに説明しているが、後半にまとめられた原注だけでも89ページほどあり、ある程度の難解さは覚悟しなければならない。

それは作品の奥深さを知る上で、これまでとは全く異なった鑑賞の世界を開くための鍵になってくれるだろう。

上巻では序論に説明されている、男の首を持つ若い女性の絵画についての考察が興味深い。

通常こうした場面は、ヘロデ王にヨカナーンの首を要求したサロメか、アッシリアの将軍ホロフェルネスを討ち取った寡婦ユディトのどちらかだが、判断がつかない時は彼女の持ち物を観察することでその謎が解ける。

過去の類型を調べた著者の記述には「盆を持つユディトの類型はあったが、剣を持つサロメの類型はない...剣はユディトや多くの殉教者の、また正義や剛毅などの美徳の広く一般に認められた名誉ある持ち物であったから、剣が淫奔な女性(サロメ)に移されなかったのは当然」とある。

つまり登場人物の判定は剣がそこに描かれているか否かにかかっている。

第三章「時の翁」では、バロック期の墓廟にしばしば描かれた鎌を持つ骸骨が、ギリシャの農耕神クロノス(羅サトゥルヌス)に由来し、それ故に鎌を携えるが、それはまた父神ウラノスを去勢した道具でもあり、同じ発音の「時」と結合して時間の擬人化に繋がると説明されている。

それが往々にして砂時計や翼を伴っている理由だろう。

そしてそれは時の経過、つまり生きるものの宿命である死を意味する。

この章ではブロンヅィーノの『寓意』についての解説が白眉だ。あたかもイコノロジーの手本のようなこの作品は、観る者の裏の裏をかいた画家の老獪な趣向が凝らされていて、多くの美術書が格好のサンプルとして採り上げているが、パノフスキーの解釈は決定的で、オリジナリティーに富んだ強い説得力がある。

第四章の「盲目のクピド」も知的興味をそそられる章だ。古代には小さな翼を持った愛らしい幼児として表された愛の神が、愛が人を盲目にするという意味合いから、中世時代には目隠しをしたクピドが登場する。

やがて目を覆ったクピドが俗性の愛、そうでないクピドが聖なる愛を象徴するという分岐の過程もそれぞれの時代の哲学を反映している。

最後にクラナハのプラトンの著書の上に立つ『自ら目隠しを取るクピド』がプラトニック・ラブを絵画化した顕著な例として紹介し、このテーマは更に下巻に続いていく。

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2022年04月24日


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北フランスで建設が始まったゴシック様式の教会は、著者がプロローグで述べているようにゲルマン民族のゴート人が創り上げたものではなく、むしろその地の先住民族たるケルト人に関係が深い。

パリやシャルトルの大聖堂の地下を掘っていくと、ケルト信仰の聖所が出て来るというのも象徴的だ。

フランスの山村では中世時代になっても多くの農民達は、異教である大地母神の信仰を頑なに持ち続けていたようで、カトリックの布教者は彼らに違和感を与えることなく改宗させるべく実に老獪な策を敷いた。

彼らの信仰の場所であった森林をイメージさせる広い空間と高い天井、木々の枝が上昇していくようなリブや尖ったアーチ、そして執拗とも言える樹葉のモチーフを使った装飾、更に木漏れ日はステンドグラスに取って代わり、古代の生贄の観念は苦悩するキリスト像にオーバー・ラップさせる。

こうして大地母神信仰が鮮やかに聖母マリア信仰にすり替えられていく。

また著者はゴシック教会の装飾としてしばしば使われる魑魅魍魎の彫刻やレリーフについて、グロテスクなものを好む感性は異教の感性と断言している。

ルネサンス時代にゴシック様式は均整と調和を欠くものとしてラファエッロやヴァサーリによって糾弾された。

確かにフランス、スペイン、ドイツに比較してイタリアには純粋なゴシック様式の建築物は数えるほどしかない。

しかし著者はルネサンスでは許されなかった未完了のアンバランスな姿こそ終わることのない時間の流動性の表現であり、ゴシックの本質と結論付けている。

ゴシックの大聖堂が異種のものに身を開いているように見えるのは、異教から流用された精神的、物質的なあらゆるエレメントが今もってそこに息づいているからだろう。

この著書では酒井氏が建築学の立場に立ったゴシックの特性だけでなく、それが導かれた宗教文化や精神面から筆を起こしているところに価値があり、日本語で書かれた類書の中でも優れた内容が特筆される。

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2022年02月28日


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この作品の冒頭ではドイツが1945年5月に連合国に降伏した後、逸早く進駐してきたソヴィエト側がマテリアル的な復興よりも精神的な文化高揚政策を優先させていたことが述べられている。

敗戦後僅か2週間でベルリン・フィルの最初のコンサートが開かれたことには驚かされた。

勿論それはソヴィエトの周到な政治的目論見があってのことだが、インタビューを受けた人々も打ちひしがれたドイツ国民を新たな希望に向けて士気を高めるためには少なからず貢献したことを認めている。

そして2ヶ月後にアメリカ軍が入ってくる前にソヴィエトの方針は既に徹底されていて、分割された地区によって占領軍同士の政策の相違が次第に鮮明になってくることが理解できるが、悲劇は50年代に入ってからのスターリン体制下での締め付けに始まったようだ。

ペーター・シュライアーによれば旧東ドイツの演奏家が国外で活動できるようになったのは1964年からで、彼らのギャラの20%から50%までが国家に徴収されて重要な財源になっていたが、これに味を占めた国側は外貨獲得のために多くの演奏家を西側に送り出すことになる。

しかし個人的な渡航は一切許可されず、彼らの亡命を防ぐために秘密警察があらゆる監視体制を張り巡らせ、演奏家達にも誓約書へのサインを殆んど強制していたようだ。

ベルリンの壁が築かれたのは西側からの影響を阻むためではなく、東側からの人々の流出を阻止する目的だったことは明白だろう。

演出家クリスティーネ・ミーリッツは『国民全員に国を出る権利がある筈で、それを直ちに許可するか否かは自由だが、壁の前で射殺することは絶対に許されない』と憤りを持って語っている。

国の文化政策の中で最も収益を上げていたのがLPレコードの独占販売だったという事実も興味深い。

レコード製作会社は偶然国営になったようだが、精神的に枯渇していた国民にとってレコード鑑賞は欠かせない趣味に定着して、その影響は皮肉にも西側に及ぶことになる。

制作費が安かったために西側のドイツ・グラモフォンは当初質の高い東側のアーティストの演奏を中心に提携という形で録音したが、国営VEB製作LP第1号がフランツ・コンヴィチュニー指揮、シュターツカペレ・ドレスデンによるベートーヴェンの『英雄』だったことも象徴的だ。

ドレスデンのルカ教会が教会としてよりも録音会場として大修復されるのもレコード産業の一役を担うためだったと思われる。

ベルリンの壁の崩壊は東側に次々と起こりつつあった東欧革命の気運が頂点に達した時期に起こるべくして起こった事件であることは疑いない。

東ドイツは経済的な破綻を国民にひた隠しにして事実を全く知らせなかった。

クルト・マズアの立場からも見えてくるように、当時の音楽家達はそれぞれの立場で抵抗し改善を要求したが、彼らが先頭に立って東西の統一運動を進めたわけではなかった。

インタビューの中でも語られているが、一般的に音楽家で積極的に政治に深く介入しようとする人は少なく、しかもオペラ・ハウスやオーケストラでは西側の団員が去った後、メンバーの大幅な補充が余儀なくされたために、彼らが演奏活動によって困窮しないだけの最低限の生活を約束されていたことも要因のひとつだろう。

最後のシーンは1985年に再建を終えたドレスデンのゼンパーオーパーでの杮落としになったベートーヴェンの『フィデリオ』の上演で、この映画のフィナーレとして最も感動的な部分だ。

演出家ミーリッツは囚人のコーラスの後、聴衆が数分間咽び泣いていたことを自らも涙ぐんで思い出している。

そして何よりも国家による国民への精神的な搾取が堪えられなかったという言葉が痛烈だ。

言語は総てドイツ語だが、サブタイトルは日本語も選択できる。

日本語の字幕スーパーは簡潔に要約されているので意味するところは理解できるものの、日本語の文章としては不自然な言い回しや言葉使いが見られるのが残念だ。

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2021年12月01日


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村上春樹氏は自己の内面と世界との関わり方についての指針を常に現在進行形で示唆を与えてくれる存在である。

そして彼が小説家としての生き方、世界との関わり方、モノゴトに対する姿勢の在り方たるや既成の価値観を常に打破し、進取の精神が感じ取れるのは今も昔も変わりがない。

もはや彼にとって必要なのは勲章ではなく、自らの内面世界の豊穣さを実り豊かな果実として後世に遺すことに腐心されているように思われるのは筆者だけであろうか。

拙ブログで個人的な読書の体験を余り書くことは余りないが、村上さんの著作から感知し得る音楽性、例えば小澤征爾氏との対談記事や文藝春秋誌にバイロイト初体験レポートなど身近な存在になったのは比較的最近のことだ。

現在では筆者も村上さんの全著書、更には翻訳家としての知られざる(特に米文学)を読まずにはいられないほどの村上主義者(かれはハルキストと呼ばれるのを嫌う)の一人となる。

村上さんがジャズのみではなく、かなりのクラシック音楽に造詣の深いひとだということが彼の長編小説全体にモチーフとして散りばめられていることは有名で、次々と発売されてきた長編小説作品が全く他人事とは思えなくなり、内面の王国を築く上で欠かせぬ滋養であったことをもう疑いの余地がない。

そんな村上さんが『意味がなければスウィングはない』で、当時誰も注目していなかったシューベルトのピアノ・ソナタ第17番に的を絞って同曲異演盤を独自の視点で徹底的に深掘りしていたのも今思えば懐かしい。

さらにはプーランクについてかなり高度なクラシック音楽鑑賞をされているのを読み、それが何とも言えないノスタルジアを覚えたものだ。

常に次第の先端を自らトップランナーとして走り続けた彼ももはや(何と時の流れるのがはやいことか!)、年齢的に自らの歩みを振り返ってもおかしくはない。

そんな村上さんが初めてクラシック音楽のみのガイドブックを最近発表されたのには思わず快哉を叫びたくなる。

ここではもはやLPでしか音楽を聴かないという今日的な姿勢からは作曲家の時代もとうに終焉し、演奏芸術が虚業となり果てた現状に鑑み、もう一度不滅の巨匠に新たな豊饒の海を見出そうというスタンスに何だか運命の絆に結ばれているかのような夢のような話だ。

既に音楽評論自体が壊滅し、現代人としての視点からクラシック音楽への愛着の源泉を自らの豊かなディスコグラフィーに絞り込まれ過去のLPからはむしろ自明の理というか音楽業界全体の確実に衰退を自覚されておられるかのようですらある。

筆者自身も拙ブログで既に現在のクラシック音楽を取り巻く状況に限界を感じ、過去の巨匠にばかり目を向けてしまう。

懐かしいとしか言いようのない村上さん所有のLPのジャケットが掲載された外装からしてノスタルジックな雰囲気が漂い、かつてポスト・モダンと称された村上ワールド全開。

その円熟した語り口に接するに現在の筆者自身と世代は違うにせよ同じ土俵で究極のオアシスと癒しの場を提供された本著に感謝の念しかない。

ともかく20世紀録音芸術の真髄を知る者にとっては欠かせない総括的書物となると言えるが、村上さんの現在到達された境地に同時代人として共感させられずにはおかない内容だ。

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2021年09月08日


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本書の前半は過去に書き残された能う限りの古い文献からの死生観についての言い伝えや経験談が豊富に紹介されていて、現代人の感覚ではなく中世に生きた人々の赤裸々な思考回路に直面するように構成した阿部氏の試みが読み取れる。

しかもこれらのサンプルは興味深いものばかりが採り上げられているので、暗く重いテーマを扱った著書のわりには読み易い。

ヨーロッパでの罪と罰の意識の大きな変革はキリスト教の布教によって訪れている。

当初のキリスト教では、人は死後生前の行ないによって天国か地獄へ行くことになるが、後になって祈ることで救済可能な中間界の煉獄が捻り出される。

しかしそれ以前の北欧やゲルマン或いはギリシャ、ローマの世界では冥界はあってもそうした区分けは存在せず、死後の世界が決して悍ましい苦痛を与えるところでもなかったようだ。

死は彼岸ヘの移動という感覚で現世とそれほど変わらないところとして捉えられているのが興味深いし、人間が生まれながらにして罪を背負って生きているという意識も当然皆無だった。

一方キリスト教ではアダムとイヴが楽園での全被造物に対する特権的支配権を委ねられていたにも拘らず、二人は悪魔の誘惑に負けて禁断の果実を食べたために楽園から追放される。

当初二人は愛と相互の信頼によって生きていたが、神の罰で世界は牢獄化し、霊は肉体の奴隷となった。

従って人間の本質は悪だが、神から与えられた善も残されている。

こうして不完全になった人間はアウグスティヌスによれば自分自身の欲望の奴隷になると同時に他人の奴隷にもなる二重の奴隷化に苛まれる。

本来国家という体制は人間にとって相応しくないが、罪を背負った人間同士が生きるためには甘んじて服従しなければならない。

著者はキリスト教的国家の成立に多大な貢献をしたのがフランク王国のカール大帝だったとしている。

ゲルマンの統一と一貫した宗教を通した統治は彼の野望だったが、それは当時のローマ教皇の目論見とある点で図らずも一致していた。

カールは国政に携わる要職から下部組織に至るまで僧侶を起用して、ゲルマン人のキリスト教化を徹底した。

それが自らの国体を堅持するものと信じて疑わなかったからだが、教会側としては世界の教化に利用できる絶好の人物であった筈だ。

信者には司祭の前で告解することが義務付けられたが、その時教会が個人を強制し服従させるために最大限利用した武器が罪であったとしている。

阿部氏はそれをヨーロッパでの個人の形成の萌芽と見ている。

つまり告解は司祭との間で秘密が厳守されたので、個人の権利が保護されることも意味する。

従って教会からの強制という形であっても、ヨーロッパで個人の人格が認められ、共同体と個人の間に一線が設けられたと締めくくっている。

しかしながらキリスト教会の個人への厳しい介入によって、古いゲルマンの伝統的な精神がすっかり淘汰されてしまったわけではなく、それが古い民話集やグリムやアンデルセンのメルヘンの中に確実に残って現代にも生き続けているという指摘は、伝統や慣習が如何に根強いものかを物語っている。

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2020年09月10日


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著者ヒュー・トレヴァー=ローパー氏は美術評論家ではなく歴史家なので、本書はハプスブルク家がコレクションした美術作品の鑑定的ないわゆる美術書ではなく、ヨーロッパに君臨した一大名家がその歴史的位置付けの中で如何に芸術と関わったかというところに中心を置いて書いている。

言及している作品の写真等は総てモノクロで最低限しか掲載されていないが、それぞれの時代の当主のヨーロッパに於ける政治的スタンスと彼らの性格やその趣味が浮き彫りにされていて非常に興味深い。

神聖ローマ帝国皇帝の座を長期間に亘って受け継いだハプスブルク家が率先してその時代の芸術家達を庇護して作品を製作させたというより、当初は自分達の肖像を描かせ、彼らの功績を誇示するための手段として利用した結果、当時を時めくアーティスト達に名作を生み出させたという実用本位の指向が理解できるが、後のルドルフの時代になるとそれが本末転倒してあらゆる手段を講じてコレクションに躍起になる姿が明らかにされている。

ハプスブルク・スペイン系では保守的な堅物で、いくらか時代遅れの壮大な陵墓エル・エスコリアルを建設させたフェリペ二世が、フランドルの画家ヒエロニムス・ボスの殆んどシュールレアリズム的な絵画を虱潰しにコレクションしていたという逸話は面白い。

敬虔なカトリック教徒だった彼はボスの作品の奇怪な斬新さにある種の宗教的な崇高さと同時に現世に対する空蝉的幻想を見出していたのかも知れない。

しかし一方でフェリペは新進気鋭のエル・グレコの作風を退けた。

その選択がエル・グレコの画家としての創作活動の明暗を分けたとも言えるだろう。

後半では実質的にルドルフの後を継いだ弟アルベルト大公とルーベンスについての考察が秀逸だ。

大公妃イサベラはルーベンスに外交官の肩書きを与えてヨーロッパ各地に送り込んでいる。

著者はハプスブルクの政治手腕について高く評価しているとは言えないにしても、最後に「彼らの審美的なプロパガンダは首尾一貫してその時代の芸術家達に刺激とチャンスを与え、彼らの天才を認識させるのに十分な自由を与えた。

この芸術保護がなかったらあの百年間の芸術は如何に違っていたものになっていたであろうか」と結んでいる。

この作品が発表されたのが1976年のことなので、もはや続編を望むことはできないが、ハプスブルク家が芸術家達の庇護者として君臨する時代はその後も女帝マリア・テレージアの庇護を求めて多くのアーティストがウィーンに集まってくる18世紀後半まで続くことになる。

しかもこの時代はそれが功を奏したか否かは別としても、彼女の更に徹底した政略結婚政策が執拗に実施されたハプスブルク爛熟期を迎えたことを考えるならば、著者の研究がフェリペ二世の統治下とルドルフ二世及びアルベルト大公の時代で終わっているのが残念だ。

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2019年11月28日


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ルイ王朝時代の宮廷ガンバ奏者、マレン・マレの回想を描いた映画アラン・コルノー監督『めぐり逢う朝』自体は、フランスの作品らしく深い陰翳に包まれた瞑想的なストーリーが魅力的だ。

それ以上にサヴァルの音楽はそれに自在な空気感を与えて、ある時は更に陰鬱に、またある時は沈みがちなシーンに仄かな幸福感を醸し出しているのが秀逸だ。

作曲家同士の師弟の確執を扱った一種の音楽映画であることは事実だが、それは天才の生涯を美化しただけの一昔前の安っぽい作曲家の伝記映画とは一線を画した、主人公が犯した取り返しのつかない罪への後悔と内なる懺悔が恐ろしいほどのリアリティーで迫ってくる。

サヴァルが映画音楽を手掛けたのはこれが最初かも知れないが、ピリオド・アンサンブルによるサウンド・トラックが過去になかったものだけに、周到な選曲と古色蒼然とした音色が映像と離れ難く結び付いて、この作品には不可欠な一端を担っていることを認めざるを得ない。

このディスクでのそれぞれの曲の配列は映画の中のストーリーの進行とは無関係だが、曲順は決して脈絡のない編集ではなく、1枚のサウンド・トラック盤として完結した構成を考えたものだろう。

それ故第1曲を映画の半ばで、栄誉を極めたマレが演奏するリュリの荘重な『トルコ行進曲』で開始して、最後を映画冒頭で主演のジェラール・ドパルデューの顔のアップとともに流されるマレの『聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モンの鐘』で締めくくっていることで編集者の意図が容易に理解できるだろう。

あとは主にサント=コロンブとマレの作品から選ばれており、とりわけ映画で繰り返し流れるサント=コロンブの「涙」は、聴く者を深い瞑想の世界へ呼び込む。

むろん映画の諸場面を思い出しながら聴くのがよいけれども、まったく映画を知らなくても、フランス・バロック音楽、特にヴィオールの名曲集として楽しめるだろう。

13曲目は、マレのヴィオール曲集第4巻所収の「冗談」である。この虚無的な旋律が、サント=コロンブの娘マドレーヌとマレの愛の場面で使われていることは、ほどなく訪れるふたりの破局を暗示しているようで、なんとも忘れがたい。

素晴らしい音質が体験できるのも特徴で、サヴァルが自主レーベル、アリア・ヴォクスを立ち上げて以来、常にハイブリッドSACD盤をメインにリリースしている。

その理由は、自身ガンビストでもある彼がヴィオールのような繊細な音色を持つ古楽器の音の忠実な再生と臨場感に富むサウンドに逸早く着目したからに他ならない。

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2019年10月08日


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日本人によって書かれた殆ど唯一のマニエリスムに関する本格的な論述である。

マニエリスムとは危機の時代の文化である。

世界調和と秩序の理念が支配した15世紀は、黄金のルネサンスを生み出した。

だが、その根本を支えてきたキリスト教的世界像が崩れ、古き中世が解体する16世紀は、秩序と均衡の美学を喪失する。

不安と葛藤と矛盾の中で16世紀人は「危機の芸術様式」を創造する。

古典主義的価値をもつ美術史により退廃と衰退のレッテルを貼られてきたこの時代の芸術の創造に光を当て、現代におけるマニエリスムの復権を試みた先駆的な書である。

ルネサンスとバロックの狭間に咲いたあだ花のように蔑視されてきた芸術が開花した歴史的背景とその再評価が若桑氏の深い洞察と広範囲に渡る研究によって明らかにされていく。

プラトンによって唱えられた現世における人間の姿、つまり肉体という牢獄に閉じ込められた精神の苦悶とそこから解き放たれる自由への渇望をこの危機の時代にミケランジェロは身を持って体験し、それを自分の作品に具現化させようと試みた。

それはもはや現実的な実態とはかけ離れた精神的な実在に迫る表現であり、ルネサンスの物理的に精緻な物差しを使って彼の作品を計り、理解しようとすることは無謀だろう。

更にブロンヅィーノに至ってはミケランジェロの三次元的な形態は受け継がれたものの、その精神は寓意によってすり替えられた。

彼は自分の作品を病的なまでに寓意で満たし、後の時代の人々が解読不可能になるほどの技巧を凝らせた。

一方パルミジャニーノは既成の空間を反故にして見る者の視線から焦点を逸らし、なかば強制的に思考の迂回を図った。

そうした方法がヴァサーリの言うマニエーラ、つまり作品の背後にある作者の思索を感知させる手段として追求されたのがこの時代の芸術だろう。

そうした意味で本書はミケランジェロとその時代を画したアーティスト達の作品を理解するうえで非常に有益な示唆を与えてくれる。

また後半部に置かれたマニエリスト達の作品の宝庫、フランチェスコ・デイ・メディチのストゥディオーロについての詳述も圧巻だ。

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2019年08月12日


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高階氏は先ずルネサンスを育む土壌となったフィレンツェ共和国という都市国家の特異性を説くことから始めている。

引用されているヴァサーリの言葉は確かにこの国の体質を象徴している。

コジモ・デ・メディチによって創設されたアカデミアでネオ・プラトニズムや新しい科学に感化されて育った文化人や芸術家達は、彼らの才能を先進的な創作活動に注ぎ込むが、フィレンツェがその爛熟と凋落の狭間にさしかかった時、メディチ家の当主ロレンツォ・マニフィコは外交的な政略手段として多くのアーティストの外部派遣を敢行する。

しかしその後彼らは故郷での仕事に再び就くことは稀だった。

何故なら因習的なフィレンツェの人々の趣味は洗練に敏感であっても革新的なものには常に懐疑的だったからだ。

そしてロレンツォのサヴォナローラとの確執と敗北、更にサヴォナローラの火刑に至る時空をフィレンツェで生き続けたボッティチェッリの作風が第七章までの中心的なテーマになる。

これについては同著者の『フィレンツェ』に詳しいが、以降の考察に欠かすことができないプロローグとなっている。

ルネサンス以降のアーティスト達は作品に彼らの哲学や宗教的、あるいは歴史的事象を意識的に盛り込むので、ヨーロッパ文化から離れた世界の人にとっては、個人の美学的センスに頼るだけでは充分ではなく、いわゆる絵解きが不可欠になってくる。

後半では三美神や目隠しされたキューピッドの意味するところが詳述されているが、ボッティチェッリの『春』ひとつを鑑賞するのに最低限知っておくべきことが如何に多いかという事実も、彼が当時を代表する第一級の教養人だったことを証明している。

こうした絵解きをしていくことによって初めてそれぞれの作品の深みに接することが可能になるだろう。

しかしある程度のルールを理解するのであれば、それは他の作品にも応用できる。

そうした重要なヒントが満載されているのが本書だ。

その意味では学術書であると同時に芸術作品鑑賞のための最良のガイド・ブックになり得る優れた解説書でもある。

確かに掲載された写真は総て白黒でサイズも充分な大きさとは言えないが、現在インターネットを通じてたやすく作品のイメージを閲覧できることを考えれば、それらの欠点を補って余りある価値の高い著作だ。

アカデミアのネオ・プラトニズムはプラトン哲学とキリスト教の整合性を観念的に理想化しているが、そうした複雑な考察がさまざまな名画にも映し出されている。

第四部2人のヴィーナスではボッティチェッリの『ヴィーナス誕生』からティツィアーノの『聖愛と俗愛』、ラファエッロの『騎士の夢』、更にはティツィアーノの『フローラ』や『聖女マグダレーナ』と続いて女神ヴィーナスの持つ二面性を説いている。

美の象徴であるヴィーナスには、その背後に快楽をもたらす娼婦のイメージが二重写しになるのは宿命と言えるだろう。

第五部ではジョヴァンニ・ベッリーニの『神々の祝祭』の謎めいた登場人物についての詳細な考察が興味深い。

カトリック宗教画の権威だったベッリーニがイサベッラ・デステとの長い交渉の末にようやく承諾した異教の神々の宴に寄せた作品は、実は1502年に結婚した弟のアルフォンソ・デステとルクレツィア・ボルジャのために描かれたと結論付けている。

神々のそれぞれの顔は新郎新婦やこの絵画制作を仲介したピエトロ・ベンボ、またベッリーニ自身の自画像になっているが、弟子のティツィアーノによってかなり大胆な手直しがされた事情も解き明かされている。

それはアルフォンソの趣味に合わせた改変だが、新しい絵画様式の到来をも告げていて象徴的だ。

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2019年07月24日


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本書のタイトル『自分のなかに歴史をよむ』は著者阿部氏の歴史を理解する上での、自分自身の接し方を解説したもので、彼にとって歴史を理解することは事件の流れをクロノロジカルに記憶することではなく、その根底に潜んでいる自分の内面と呼応する関係を発見し、納得した時初めて理解できたと言えるとしている。

前半では自伝的な記述が多く、彼が少年時代に預けられた修道院での生活が思い出されているが、それは彼とヨーロッパを繋いだ鮮烈な体験であり、その後の彼の生涯を決定づける経験になっていることが理解できる。

しかし体験を活かすには、それを対象化する自己の意識と幼い頃の感受性を忘れないことが重要だとしている。

苦学生だった頃、優れた教師に恵まれ、借金をしながらも自分の進むべき道を模索し続けたことで、彼は35歳でドイツ留学を果たすが、ドイツでの古文書研究から想像していなかった副産物を得ることになる。

それが中世の差別意識の萌芽で、この研究は帰国してから『ハーメルンの笛吹き男』として実を結ぶ。

彼が調査の課題としたドイツ騎士修道会の古文書を読んでいる中で、偶然1284年6月26日にハーメルンの町から130人の子供達が行方不明になったという記録を見つけた時、体に電流が走るような戦慄を覚えたと書いている。

それは幼い頃に読んだ不思議なネズミ捕りのメルヘンが根拠を持つ実話だったことへの衝撃だった。

しかしこの笛吹き男が当時忌み嫌われ、差別されていた賤民だったことから彼の興味は俄然差別意識の原因とその成立の解明に向かう。

ただしこの男は実際には笛吹ではなく、当時貧困層の外部への入植を世話する斡旋人であったと考えている。

そこで阿部氏は何故彼らが賤視されるようになったかを調べるに至ったようだ。

実はそれがキリスト教の布教に大きく影響を受けていることに気付く。

中世に生きた人々の宇宙観は人間が制御し得る小宇宙とそれが不可能な大宇宙という関係にあったようだが、キリスト教はそれを否定し、総ては全能の神が創造した唯一の宇宙という教えが定着する。

それによってそれまでふたつの宇宙の狭間で生業を営んでいた死刑執行人、墓掘り、放浪職人や旅芸人などは、その神秘性を暴かれ職業的権威が失墜し、必要な職業であるにも拘らず彼らは単なる汚れ仕事に携わる人、あるいは河原乞食としての賤視が始まる。

この現象を理解することは容易ではないと著者自身書いているが、特殊な能力を持つ者が公の立場から一度排除されると、かえって周りからやっかみを買うだけでなく、彼らに抱いていた畏怖の念が歪められて差別の対象になるという説には、人間にそもそも備わっている差別意識を解明しているようで重みがある。

だからハーメルンの町では多くの子供達を連れ出した張本人として辻芸人の笛吹き男に責任転嫁したメルヘンが形成されていったというのが事実らしい。

勿論メルヘンでは約束したネズミ捕りへの支払いを拒否した町の裏切りというスパイスも巧みに加えて教訓にしているのだが。

世界宗教を標榜するキリスト教では1人でも多くの信者を獲得するために、民族、文化や言語の隔たりを超越した合理性が求められるようになる。

ヨーロッパと日本の間に存在する隔たりを説明する時、産業革命をその根拠の裏付けにする学者もいるようだが、確かに物質的あるいは時間的な合理性には頷けるとしても、より精神的な合理性は阿部氏の言うように中世を通して定着するキリスト教の影響が大であるとする考察には説得力がある。

ここからは日本の負の部分が語られている。

つまり合理性に欠けることが閉鎖性を促すという考えで、欧米では能力次第でアジア人が大学教授やオーケストラの指揮者、バレエのプリマにもなれるが、日本の伝統芸能の世界では完全に門戸が閉ざされているということだ。

近年大相撲で横綱になる外国籍の力士も出てきたが、それは相撲部屋という因習を甘んじて受け入れるという大前提があり、相撲協会でも力士不足を解決する已むに已まれぬ事情があることも事実だろう。

西洋人が能や歌舞伎役者になることは著者の言葉を借りれば絶望的だ。

阿部氏は別の著書で、日本の旧帝国大学は西洋からその制度を取り入れたものの、実際には国家のために尽くす官吏や上級役人を養成する施設で、学生が自主的な研究で成果を上げる場ではないと書いている。

こうした現状からは高度な学術の研究や発展は望むべくもないとしている。

確かに優秀な能力を持つ者が、国にへつらうことを学生時代から鍛えられているというのは耳の痛い話だ。

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2019年06月25日


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この笑話集を読み解くにはある程度の予習が必要であることを断っておかなければならない。

先ずここに集められた話の主人公ティル・オイレンシュピーゲルが中世時代に差別を被っていた賤民だったことに注目すべきだろう。

これについては非常に奥の深い歴史的事情が関わっているので、阿部氏の中世シリーズの著作を読むに越したことはないが、ティルは階級社会から見捨てられた放浪者で市民たりえない下層のランクに位置付けられていた人間だった。

しかし賤視されるに至った職業は元来人間の制御できない世界との仲介となる、例えば死刑執行人、動物の皮剥人や放浪芸人などで、彼らは意外にもキリスト教の徹底した布教によって世の中の片隅に追いやられてしまう。

そしてティルに一杯食わされるのは領主やカトリックの高位聖職者、あるいは富裕な商人達は勿論、庶民にもその鉾先が向けられる。

しかもその手段にはスカトロジックな戦法が容赦なく続出する。

それはティルの権力への価値観を見事に表明していると同時に、権力におもねる者や階級社会に隷属する人々への痛烈な反感を示しているが、また著者は非常に注意深くこのことを『中世賤民の世界』のなかでも言及している。

阿部氏によれば中世の人々は人間によって制御できる小宇宙と制御不可能な大宇宙との係わり合いで生きていた。

そして大宇宙をも制御できると思い上がった者は、それによって翻弄される結果を招く。

ここでティルに振り回される人々は、自分自身自覚していないにせよ、まさにそうした連中なのだ。

中世時代には、人の体に空いている穴は小宇宙たる人間が大宇宙と結び付く場所として捉えられていた。

それゆえ人は口から大宇宙からのものを体に取り込み、肛門から大宇宙に戻すという営みを続ける。

ティルのストラテジーも単に人々に汚物をぶちまけて仕返しをするという意味の他に、それが最後に返るべき大宇宙に返す行為であることにも気付かなければならないだろう。

また言葉の遊びも随所に現れる。

ドイツ語の方言による行き違いや、名詞の意味の取り違いなどでもティルは意気揚々と相手をへこませる。

第60話ではワインをくすねたかどで絞首刑を宣告されたティルがやすやすと解放されるが、ここでもこの時代特有の風俗習慣を理解していないと落ちが分からない。

いずれにせよ注釈がかなり丁寧に付けられているので、短い話でもその都度理解しながら読み進めていくことが望ましい。

この訳出ではティルの誕生からその死に至るまでのエピソードが阿部氏によってクロノロジカルに整理され、話の進行が分かり易くその前後関係も明らかにされている。

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2019年06月17日


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文庫本化された吉田秀和氏の文章をまとめて読むことによって、音楽批評家の役割について改めて考えさせられた。

批評家の仕事は自己の感動や思い入れをできる限り平易な言葉、あるいは文章で表現し、対象となる楽曲のあるべき姿を一般の人々に伝え、鑑賞者を啓蒙することにあると思う。

彼はその能力においてひときわ優れている。

しかし吉田氏のような批評家でも自分の考えていることを文章にできないもどかしさもはっきり表明している。

それが芸術の持つ特性であり、筆舌に尽くしがたいという形容を素直に認めていた真摯で正直な人でもあった。

また彼は読者に決して自分の意見を強制しなかった。

音楽を鑑賞する一人ひとりはそれぞれ異なった感性を持っていて、それはさまざまな音楽を聴き、経験を積むことによって洗練されることはあっても、統一することは不可能だからだ。

それがまた幅広い音楽の選択肢を供給し、私たちを勧誘する喜びでもあるわけだ。

しかしだからといって批評家は最大公約数的な発言をすることは許されない。

吉田氏は批評の力量に優れているだけでなく、そのバランスということにかけて絶妙だ。

彼の洞察は非常に鋭く、演奏者全体の姿を見極めた上でなければその人の音楽を評価しない。

どんな天才が現れても、その人が将来どのような努力を課せられるか、そしてどういう方向に向かうべきかを見定めなければ気が済まないし、手放しで賞賛するようなことはしない。

また彼らの欠点も逐一見逃さないし、それを書くことにもやぶさかでない。

レコード会社から金を貰って、売り出し中のアーティストを誉めそやす文章などは書かなかったし、またできもしなかったに違いない。

そうした厳しい姿勢も自ずと文章に滲み出ている。

それだけに彼の批評は常に人間的であり、しかも極めて信頼性が高い。

それが多くの人の賛同を得ている理由でもあるだろう。

筆者自身彼の遺した批評を貴重な資料として高く評価している。

鑑賞の経験が豊かになればなるほど、自然に彼の言葉に共感し、その批評を抵抗なく受け入れられるようになるというのが筆者自身の体験だ。

この本に登場する指揮者の多くは既に他界しているが、彼らの芸術が現在でも生き続けているのと同様に、吉田氏の評価が次の世代への示唆として受け継がれることを期待したい。

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2019年05月21日


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阿部謹也氏が他の著書でも繰り返して説明しているヨーロッパ賤民の成立とその経緯が、かなり詳しくまた広範囲の研究によって述べられている。

ヨーロッパという地域の文化にもう一歩深入りしたい方にお薦めしたい一冊だ。

八回に亘るレクチャーから起こされた文章なので、分かり易く丁寧に進められているのが特長で、彼の到達した結論とも言うべきヨーロッパに住む人々の根底にある宗教観や人間観が詳らかにされている。

著者はドイツから帰国した後『ハーメルンの笛吹き男』を発表したが、その時にはまだ賤民について充分な観察が為されていなかったと書いている。

留学中の古文書の閲覧の中で偶然見つけた1284年6月26日にハーメルンの町から130人の子供達が忽然といなくなったという記録自体ショッキングなものだったが、この記録には派手な衣装を纏った笛吹き男の姿は全く出てこない。

それは後の時代のメルヘン作家達によって作り上げられた象徴的な主人公だった。

ここでも繰り返し説明されているが、中世の人々の宇宙観は家や集落を中心として人間が制御できる小宇宙と大自然や森羅万象、病や死など人間が介入できない大宇宙のふたつだった。

その中間で生業を営む死刑執行人、墓掘り、定住しない放浪芸人などは特殊な能力を持った人として当初畏怖の念を持って見られていたが、キリスト教の徹底した布教によって、宇宙は全能の神が創造した唯一のものだという教えが広められ、これによって彼らの職業の権威が失墜してしまう。

その時彼らの仕事はただの汚れ仕事やうらぶれた旅芸人として畏怖が蔑みに変わり、差別の対象となったとしている。

だからこの時代には放浪芸人や辻音楽師などは賤視された差別民で、多くの子供達を連れ去った犯人を魔法を使う笛吹き男として表すのは都合の良いことだったに違いない。

ただし童話には教訓が必要なので、ハーメルンの町が鼠退治に雇った男に約束した謝礼を拒否したために、今度は子供達が笛の音につられて着いて行ってしまったという筋立てになっているのだが。

シャルル・マーニュ大帝はローマ法王から戴冠を受けた後、最も崇高な音楽は単旋律で斉唱されるグレゴリオ聖歌だとしてその他の庶民の間で演奏される、いわゆる世俗の音楽を退けた。

これも辻音楽師の差別に一役買っている。

村落の人々が祭りや宴会の時に呼ぶ放浪芸人の奏でる歌や踊りのため音楽は、魂を掻き立て興奮をもたらす悪魔の音楽だということになったからだ。

これはヒエロニムス・ボスの描いた幾つかの絵画にも表されていて、彼の大作『悦楽の園』の地獄ではハープやリュート、太鼓やクランクなどの周りで責め苛まれる群集が描かれている。

彼が後半でアルブレヒト・デューラーの項を設けて解説しているのも、阿部氏のこれまでの社会学的な視点で得られた成果と見做すことができるし、絵画の解釈にも新しい側面を拓いていると言えるだろう。

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2018年09月22日


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中世ドイツの研究では第一人者だった阿部謹也氏によるドイツ史の専門的な俯瞰で、ドイツの誕生から今日にいたる歴史に、「ドイツ的」とは何かを思索する、通史とは一味も二味も異なった魅力を持った一冊。

この作品を読んでいると現在のドイツ的国民性や彼らの思考回路を理解するためには、彼らの辿ったかなり複雑な歴史的経過を知らなければならないことを痛感する。

ヨーロッパの中央に位置し古来からゲルマンの他にもケルト、ユダヤ、スラヴ、ラテン系などの民族がひしめいていたドイツでは、ナチスのアーリア人優越論も実際には存在しない唯一のドイツ民族というでっち上げだったことも容易に理解できる。

大洋に開けた港を持っていなかった宿命的な地理的条件から大航海時代に海外に植民地を得ることも逸したし、彼らが現在に至るまで連邦という統治形式を残している理由も自ずと見えてくる。

1815年にドイツ連邦が成立した時にはオーストリア、プロイセンの他4王国、1選挙侯国、7大公国、10候国、10公国、1方伯国、4自由都市の実に39の主権国と都市の連合で、それぞれが異なった貨幣と関税制度を持って頑固なまでにお互いの利害関係に固執していたことから、対外通商においても困難を極めていたようだ。

また戦後分かれた東西ドイツも単にソヴィエトと西側の戦勝国の間での線引きではなかったことも象徴的だ。

その国境線は中世以来社会的にも経済的にも対立していた地域で、東側の社会主義体制も敗戦後に突然生まれたものではなく、西欧の歴史に根ざして育っていったという著者の説明には説得力がある。

ベルリンの壁が偶発的に崩壊したのとは裏腹に、東西両ドイツの実質的かつ完全な統一が困難であったということは当然だろうし、いまだに多くの問題を抱えているのも事実だ。

また本書は1998年に初版が出ているが、阿部氏はアジールの研究から、既に将来移民や難民が重要な社会問題になることを指摘している。

本論の間に挿入されている間奏曲と題したコラムの部分では通史では学習できない、歴史という結果に至るまでのさまざまな経緯やエピソードが解説されていて、更に教養を深めてくれる。

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2018年08月15日


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本書は2001年に出版された単行本の文庫版で、ルネサンス、マニエリズム、ロココそしてバロックという美術史の流れを通して、バロック芸術の占める位置関係を明らかにしながら数多くの作品例を引用してその特徴や傾向、並びに意義が読み解かれていく。

パリのポンピドゥー・センターの建築から始まる本書は、西洋美術史研究の第一人者が、音楽や建築にとどまらず、美術、演劇、文学にまで及ぶ多彩な分野を、さまざまな時代にわたって縦横無尽に駆けめぐりながら、バロックの本質に迫っていく魅惑の旅の記録である。

もともと「歪んだ真珠」、「いびつな真珠」を意味する形容詞として生まれた「バロック」という言葉は、「粗野な」、「劣った」、「価値の低い」というニュアンスを帯びて使われるようになった。

しかし、その一方で、バッハに代表される「バロック音楽」や、サン・ピエトロ大聖堂前の広場に見られる列柱廊に代表される「バロック建築」など、雄大にして壮麗な作品群が「バロック」の名で呼ばれてもいる。

ジャンルとしての「バロック」でもなく、時代区分としての「バロック」でもなく、現代にまで至る全時代に見て取られるものとしての「バロック」を、無数の作品を渉猟しながら求めていった先には、現代こそバロックの時代である、という事実が浮かび上がる。

勿論著者は当時の政治的、また社会的な背景も疎かにしていない。

特にバロック時代の始まりは、マルティン・ルターによってもたらされたプロテスタント側の宗教改革と、逆にカトリック側が巻き返しを図った対抗宗教改革の時代とまさに一致している。

カトリック教会は自らの権威を誇示するような壮麗な芸術を奨励し、より多くの信者の獲得とその支持を得んがためアーティストに万人が理解できる平易な作品を要求した。

冒頭に書かれている現代のハリウッド映画とバロック芸術の類似性の比喩は言い得て妙だ。

つまり大金をかけ、スターを起用して派手な演出だが誰にでも理解できる単純な勧善懲悪の筋立ての映画を作り、不特定多数の観客を魅了し、感化させる。

確かにそうした大衆性がこの時代の芸術の性格を端的に物語っていると言えるだろう。

その意味では著者が書いているように、バロックの思想は歴史を追って現代まで何度も繰り返されている。

だがこの時代の多くの天才達がそのような思想的な枷やジャンルを遥かに超越した総合芸術を創造することに成功したのも紛れもない事実だ。

高階氏の文章は常に平明で、要領を得た無理のない表現が特徴だが、欲を言えば掲載写真をカラーにして欲しかった。

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2012年09月24日


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故ヴェルナー・テーリヒェン著『フルトヴェングラーかカラヤンか』はテーリヒェンを始めとするベルリン・フィル元団員たちの証言を楯にしてずらりと並べてあるが、元団員たちもただ者ではない。

色々興味深い証言はあるのだが・・・・。

それにしても、世の中、本書に限らず、「白か黒か」、「正義か悪か」式の割り切り方に無理矢理持って行こうという傾向が強くて辟易する。

テーリヒェンはすっかりアンチ・カラヤン派のヒーローにされてしまった。

しかし、先年、NHKが、保有する往年の名演奏家たちによるライヴ映像を最新技術で蘇らせたが、ある番組の中に、1957年のベルリン・フィル初来日公演の模様を元団員たちが視聴するシーンがあった。

その中で、かつての自分たちの演奏を、指揮(勿論カラヤン)も含めて一番熱っぽく賞賛し懐かしがっていたのがテーリヒェンその人であった。

上記著書を読んでいただけに少々驚いたが、一方でなるほどと納得もできるのである。

長く続いた人間関係には、単純に仲が良かった悪かったでは済まされない、愛憎が複雑に絡み合った事情があるもの。

うまくいっている時は「あばたもえくぼ」だったのが、一つ歯車が狂い出すとすべてがネガティブになり「えくぼがあばた」になることも珍しくない。

互いに年をとり、柔軟性がなくなって頑なになり、寛容さも忍耐強さも失われてくれば尚更である。

テーリヒェンの著述や発言はそのことを踏まえて受け取る必要があるのではないか。

また、著者とテーリヒェンが崇敬してやまないフルトヴェングラーにしても、ベルリン・フィルとの関係は常に蜜月状態、運命共同体であったわけではなかったことは、ミーシャ・アスター著『第三帝国のオーケストラ』(早川書房)等、近年出版されたいくつかの書物につぶさに記されている。



特に第2次世界大戦後は、1947年5月の有名な復帰コンサートにおける興奮と感動があったにしても、両者の関係はかなり微妙で考え方の乖離も小さくなかった様子。

この点、日本のフルトヴェングラー・ファン諸氏の認識とはかなり相違しているのではないか。

テーリヒェンの著述や発言が、必ずしもこうした事実関係を反映しているわけではないことも記憶しておくべきであろう。

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2011年10月13日


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アメリカのソプラノ歌手バトルは、わが国において最もよくその声と姿とが知られている存在といえよう。

彼女の声と姿の浸透率は、たんにクラシック音楽ファンの間だけにとどまらず、日頃はクラシック音楽などに縁のないひとたちの間にも、広くいき届いている。

その原因は、いうまでもなく、彼女が出演したTVのCFが大ヒットしたせいだ。

そこで彼女がうたったヘンデルの《オンブラ・マイ・フ》の一部分によって、彼女は多くのひとの心をとらえてしまったのである。

もちろん、そこには彼女の傑出した声の美しさがあってのことであり、また、その時点で彼女は既にオペラの世界などで活躍はしていたのだけれど、こうした世間への出かたは、彼女を新しい時代の新しいタイプの歌手というイメージ形成する原因にもなっているといえよう。

彼女は1948年オハイオ州ポーツマスで生まれた。

早くから声楽家としてのすぐれた才能を示し、最初はシッパーズに認められデビュー。次いでレヴァインにも認められるようになった。

1980年代にはヨーロッパの各歌劇場などにおいても活躍するようになる。

また、この頃からレコーディングも次第に活発におこなうようになった。

そして、あのTVのCFが来るのである。

その細身だけれども、きわめて洗練されたリリックな美しさをもつ声は、今後も独特の魅力を放っていくことであろう。

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2008年02月18日


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大河ドラマのファンにとって、待望のアルバムと言える。

大河ドラマは、原則として1年間に渡って放送されるので、メインテーマについては約50回程度聴くことになり、どのような音楽でも自然と耳に入ってしまう。

それ故に、過去の大河ドラマのメインテーマを聴くと、それぞれの年の想い出とオーバーラップして聴くことになるのが、懐かしくもあり、楽しくもある。

そのような貴重な体験をさせてくれる意味でも、きわめて意義の多いアルバムと言える。

筆者個人としては、大河ドラマを通しで見たのは峠の群像以降であるが、1年を通して聴いた曲については、まさに、それぞれの年の想い出に浸りながら楽しく聴かせていただいた。

峠の群像以降に限って言えば、ドラマとしての最高傑作は徳川家康といのち、楽しさだけに限れば、独眼竜政宗と八代将軍吉宗だと考えているが、メインテーマはいずれも超一流の作曲家の手による作品であり、音楽自体はいずれも実に高水準の優れたものである。

それにしても、世界的な作曲家であるモリコーネや武満徹、富田勲をはじめ、池辺信一郎など、超一流の者ばかりであるし、演奏も、デュトワやアシュケナージをはじめ、我が国を代表する指揮者によるもの。

加えて、我が国最高のオーケストラであるNHK交響楽団が演奏するというもの(3作目以降)であり、あらためて、大河ドラマの豪華さを思い知った次第である。

嬉しいのは、前回発売のCDとの兼ね合いで入ってなかった50作目の江が入っていること。

江を含めた上で発売しても良かったのではないかと思っていただけに朗報と言える。

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2008年01月07日


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バッハ以来の西洋音楽の流れのすべてのもとが平均律であったのはもう言うまでもない。

しかし、その平均律が18世紀から20世紀にかけてのヨーロッパ土着音楽の一音組織に過ぎない事を忘れてしまってはいけない。世界中には平均律等と無縁な様々な素晴らしい音楽がある。

しかし私たちの耳は知らず知らずのうちに平均律に支配されていることが多い。

例えばガムランを調子外れと思ったり、日本民謡の正調何々節を音痴だとかフィーリングが違うとか少しでも思うなら、それは私たちの耳が慣習と教育によって平均律に毒されている証拠である。

平均律は、音楽を発展させたと同時に私たちの耳をそこにしばりつけるという、両義的な働きをしたわけである。

平均律の先入観にとらわれずに心を開き耳を澄ます方が音楽体験としてはよほど豊かであることだろう。

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2007年11月13日


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オリジナル楽器によるオーケストラが、古典派の作品を演奏することは、決して「古楽」の領域の拡大をはかりやっていることではないのである。

そもそも「古楽」は拡大すべき領域観ではなく、むしろ、歴史的なものを意識して、現代に再構築するためのひとつの思想なのである。

それぞれの時代には、それぞれのスタイルがあり、それを知るのと知らないのでは、解釈に大きな違いがあるのは当然である。

演奏家が自らの個性を表現し、独自の解釈で、全く歴史的なるものを意識せずに作品を意識せずに作品を演奏するのもいいであろう。

しかし、それはあくまで「19世紀的なる正統」であり、20世紀に、いや現代に生きる全ての人間に押し付けることはできない。

絶対的な正統性というものは存在しない以上、オリジナル楽器により歴史的に意識された演奏が「絶対に正しい」ということは全く言えないし、そのように「これでなければならない」という考え方とは、全く別のところに、コープマンやブリュッヘンやガーディナーのオーケストラはあるのである。

このような思想、あえて「古楽の思想」と呼ぶなら、それに共鳴する人々が増えているのも事実であるし、その演奏家それぞれが、モダンのオーケストラにはない個性をもっているところに魅力がある。

現在では上記のノリントンのように、オリジナル楽器の奏法を現代楽器のオーケストラに応用する演奏も出てきている。

またラトルとジンマンによるベートーヴェン交響曲全集(新ベーレンライター版)は明らかにオリジナル楽器の隆盛を経た上での新解釈である。

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例えば、モーツァルトをオリジナル楽器(当時行われていた楽器)で、当時行われていた様式にのっとって演奏することは、「正しくない」とする。

それは、本当のモーツァルトではない、正統的ではないというのだ。ワルターやベームの棒こそ、モーツァルトの精神性を示し、オリジナル楽器による演奏は、まぁ面白いが、「本物」ではないねと評価する。

また、バロック以前という時代に「古楽」をおしこみつつも、やはりバッハは誰々が本当だとか、バロックのある作曲家が現代に生きていれば、こうやったはずだとか、彼らの「芸術的正統性」を主張する。

オーケストラに限っていえば、指揮者は常に立って振らねばならない、大編成で音色が厚く塗り重ねられなければならない、オーケストラは圧倒するものだと、相も変わらず「19世紀」を主張する。歴史は19世紀で止まっているし、19世紀の見方が、「芸術的正統性」を生み出すのである。

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オリジナル楽器の演奏家たちには明確なアイデアがあることも確かである。

つまりなぜオリジナル楽器なのかということにもかかわる問題でもあるが、それは、「古楽」という言葉があるなら、この言葉は、時代区分や様式を示す言葉ではなくて、ひとつの思想を表わす言葉であるということだ。

よくいわれることは、音楽史という時代区分の詭弁にのっとった「古楽」の解釈である。

例えば、有名なバロック1750年終焉説や、150年周期時代説である。

歴史はとぎれることなく連続している。それを忘れて、ある一転で全てが一変するかのように解釈し、それが事実であるかのように考えるものにとって、「古楽」とは時代区分にすぎないし、「バロック時代」から出てはいけない領域であった。

そもそも「バロック時代」というものも、そのような時代区分論的理論音楽史学者の発明であるのだが。

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2007年11月12日


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ドイツにも名演奏家がいる。

ラインハルト・ゲーベル指揮、ムジカ・アンティクヮ・ケルンがそれで、彼らは室内楽に優れた力量を示している。

またこのコンビの「ブランデンブルグ」は瞠目すべきもので、アカデミックな裏付けに基づいた上で、テンポにおいてもダイナミクスにおいても、大胆極まりない解釈を示している。特に第3番を初めて聴いたときには腰が抜けた。

このように、現在のバロック音楽の演奏は、オリジナル楽器によるオーケストラや室内楽団を除いてしまったら、実に味気のないものとなってしまうだろう。

もちろん、現代楽器でバロック物を聴くのも悪くはないが、オリジナル楽器の魅力にとりつかれてしまうと、今までの知らなかったような世界が開けてくる。

20世紀後半から、バロック音楽は、新しい時代を迎えたのである。

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イギリス勢でもう一つあげておかなければならないのは、アンドリュー・パロット指揮、タヴァナー・コンソートおよびタヴァナー・プレイヤーズだ。

このグループは、中世やルネサンス音楽の演奏でも優れているのだが、モンテヴェルディやバッハの音楽などで、まことに美しい響きを作り出し、前にあげた3つのグループとはまた一味違った魅力を醸し出している。

友人のバッハマニアに「ブランデンブルグ協奏曲」のベストは?と訊いたら、それこそ数多い名盤の中からこのパロットのCDを筆頭にあげていた。

残念ながら現在は上記した「ブランデンブルグ」以外にも、パロットのディスクは入手困難なものが多い。実に残念なことである。

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まず、クリストファー・ホグウッド指揮、アカデミー・オヴ・エンシェント・ミュージック。

このオーケストラは、モーツァルトの交響曲の演奏でセンセーションを巻きおこし、その後ハイドンやベートーヴェンに新しい光を投げかけていることで、話題になったが、どちらかといえば、バロック物を演奏するオーケストラなのである。

何よりも、新鮮な解釈と爽やかな音色が、彼らの大きな魅力となっている。

「画一的な芸術性」を求めた19世紀の哲学からは発生しない、シャープな相違をもった個性が、オリジナル楽器によるオーケストラにあり、それは今後のオーケストラ像への可能性を示している。

推薦ディスクを一つあげるとすれば、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの「6つのシンフォニア」(現在入手難)。

今現在で彼らの盛名はきかれないが、活動してるのだろうか?



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バロック音楽の演奏界は、今や昔とは大きく変わってしまっている。イ・ムジチのような合奏団は、普通のオーケストラで使われるヴァイオリンやチェロなどを、そのまま使ってバロック音楽を演奏するタイプの室内オーケストラなのだが、現在のバロック演奏の主流は、完全にオリジナル楽器を使ったオーケストラが占めているといってよい。

オリジナル楽器というのは、バロック時代に作られた楽器そのもの、あるいは、バロック時代の楽器を新たに復元して作った、いわばコピー楽器のことをいう。

バロック時代に使われていた楽器は、ベートーヴェンの時代あたりから使われなくなってしまい、我々が普通知っているオーケストラの楽器の時代になってゆき、現在に至っているわけで、バロック時代の楽器と現代の楽器とは様々な点で大きく異なっているのである。

それで、今までは、バロック時代の音楽も現代楽器で演奏してきたのだが、この十数年来、当時使われていた楽器を使い、当時の響きを再現しようという動きが活発になり、今や、このオリジナル楽器による室内オーケストラが、大変な活躍をみせているのである。

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バロック音楽ほど気楽に聴ける音楽はない。バロック音楽というのは、例えばベートーヴェンのシンフォニーのように深刻ぶって聴くようなものと違って、実に気軽に聴き流せるものなのだ。

喫茶店のバックグラウンド・ミュージックとしても最適で、気分が休まり、清々しくさえなってくる。

そのバロック音楽のなかで、一番ポピュラーなのは何といってもヴィヴァルディの「四季」だろう。

今はどうか知らないが、ひと頃は、イ・ムジチ合奏団の演奏する「四季」が、クラシック・レコードの売り上げベスト・ワンを何年も続けていたのである。

言い換えれば、イタリアの室内合奏団であるイ・ムジチがヴィヴァルディの名を高め、さらには、バロック音楽の存在を多くの人々に広めたということにもなるわけである。

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ともあれ現代は、人類史上空前ともいうべき、試練と変動の時代を迎えているのである。そうしたなかにあって、多くの人々の心が内面へと向けられていることも明らかである。

晩年のヴァレリーは不気味な軍歌の音をききながら、精神連盟のために奔走した。「創造的生命」の開花、発現は人間の内面的変革を通じ、必ずやそうした精神連盟、精神革命、に大きな道を開いてゆくであろう。

それはまた、芸術をはじめ、人間の全ての営みを活性化させてゆく源泉となりうることも間違いはないと、私は信じている。

(注)ポール・ヴァレリー (1871年10月30日 - 1945年7月20日)フランスの作家、詩人、小説家、評論家。多岐に渡る旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。


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2007年11月11日


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その象徴性の純度というものを考えつき、私はポール・ヴァレリーの、あのソクラテスが踊る女人の姿を凝縮して語る美しい一節を想起するのである。

それは「生命のあの高揚と振動、あの緊張の支配、得られる限り敏捷な自分自身のなかで、あの恍惚状態へは、内面から湧き上がるような力を持ち、恥や煩い、愚かさなど生活の単調な過程はそのなかに焼きつくされて、女人のなかにある神のように尊いものを我々のなかに輝かせてくれるであろう」と。

これはもとより両者を同次元で論ずることはできないのかもしれない。しかし動くものの究極に言語という形を与えようと象徴性の純度を高めてゆく時、期せずして想像力が踊りのイメージを形どる連想作用に誘われるということは、大変興味深いことだと思うのである。

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2007年11月10日


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例えば、フルトヴェングラー指揮のベートーヴェンの「第9」交響曲が終わった後の聴衆の騒ぎは、もう熱狂とか興奮とかいう言葉では表現できないものがあったそうだが、そこでは「結合の力」が十全に発揮され、芸術の次元において人生の昇華をも意味していると思う。

それは単なる歓喜ではなく、人生の深い探求と社会への限りない貢献のうえからの「歓喜のなかの大歓喜」でなければならないということなのである。

それを可能にしたのはフルトヴェングラーの「解釈」であり、それはスコアの客観的描出というよりも「創造的生命」のすぐれて象徴的な描出と捉えることができるのである。


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ここで、一切の事象を永遠の相のもとではなくして持続の相の力で捉えようとした、ベルグソンの生への哲学に内包しているところの生命脈動してやまぬダイナミズムを「創造的生命」と名づけて着目したい。

それは常に時間的、空間的な限界を乗り越えて、小さな自己から大きな自己への超克作業に余念がない。換言すれば、宇宙本源のリズムとの共鳴和音に耳を傾けながら、日々新たなる飛躍をしていくところに、この面目があると思うからである。

(注)ベルグソン(1859〜1941)フランスの哲学者。カントの観念論に対し、直観や本能によって認識される純粋持続としての実在論を構築。




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2007年11月09日


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一例をあげれば、原稿用紙やタブローに一人向かう孤独な芸術家と他方、匿名の多数の読者であり鑑賞者である大衆といった、あまりに近代的な芸術環境にあって「結合の力」がいかに十全に発揮されるかどうか。

個々の努力や才能によってそれなりの成果が期待できるにしても、何よりそこには「結合の力」を発現させるための有機的、共同体的な「場」が欠落してきたということである。

それは例えば、劇場に集まった観客たちも俳優と同様に、時には俳優以上に演劇に参加することができた古代ギリシャの芸術環境とは、よほど違ってしまったということである。


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2007年11月08日


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ところでその普遍性の世界は、往古の演劇が宗教的祭儀と不可分の関係にあった。ハリソン女史も言うように「人間を教会へ向かわせる衝動と劇場へ向かわせる衝動とは、出発点において同じであった」(J・E・ハリソン著『古代芸術と祭式』筑摩書房)というわけである。

つまり芸術は宗教で、また宗教は芸術であった。この二つながらの、良く生きんとする人間の情熱のおのずから志向するところは一致していたように思える。そこで問題は、古今東西を問わず、こうして芸術や宗教を通じて発現されてきた「結合の力」が、社会の近代化にともない、とみに衰微してきたという現実である。

私は19世紀以来、鋭敏な精神が予感し、警告してきたことをここであえて論ずるつもりはない。しかし自然や宇宙から切断されつつある人間は、今や人間同志の絆さえ断たれがちであり、その結果孤独はもはや孤独として、すなわち病いとしてすら意識されなくなってきた時代である。私達をとりまく芸術環境も近代の流れとともに、しだいしだいに大きく変わってきてしまった。


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2007年11月07日


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ではなぜ芸術が人間にとってかくも根源的な営みであり続けてきたのか、その最大の要因は、芸術のもつ「結合の力」に求めることができると私は考えるのである。

ゲーテの『ファウスト』の独白にあるように、あらゆるものが一個の全体を織り成している、一つ一つが生きて働いている、というのが生きとし生ける者の実相ならば、人間と人間、人間と自然、人間と宇宙をも結び合わせ、全一なるものを志向してゆくところに、芸術のすぐれて、芸術たらんとせんがためのものがあったといえる。

詩歌であれ絵画であれ、音楽であれ、彫刻であれ、我々が珠玉の芸術作品に触れたときのあの感動、それを一言にして謂えば、「あたかも我が胸中の湖に共感の波動が幾重にも幾重にも広がり、精妙なリズムがはるか天空へと飛翔してゆくがごとき生命の充実感」であり、これこそ自己拡大への確かなる実感である。

有限なるものは無限なるものへ、体験の確実性は意味論的宇宙ともいうべき普遍性の世界へと昇りつめてゆく。そこに芸術特有の「結合の力」の生き生きとした発動があると、私はみているのである。


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2007年11月06日


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クラシック音楽芸術を考察するにあたって、まず古くから人間は芸術とどのような関わり方をしてきたのかということについて、私なりに常々クラシック音楽芸術を鑑賞しながら考えていることを述べてみたい。

古代、芸術とは、人間の精神性のやむにやまれぬ発露であった。様々な形を結びながら、そこに巧まずして一個の全一なるものを象徴するものであった。

確かに個々の芸術活動は限られた空間内での営みであったかもしれない。しかし芸術に参加する人々の魂には、自らの活動を通じて、宇宙的生命ともいうべき全一なるものとつながり、一体化せんとする希求が脈打っていた。

つまり、自分というミクロな世界が、宇宙というマクロな世界へと融合しつつ、造り出されるダイナミックな生命体 ― 人間は物質的な生活においてパンを欲するように、精神面においては、そうした全一なるものに浸り、それを呼吸し、蘇生の活力を引き出そうとすることを生き方の機軸としてきた歴史である。

パンが肉体の新陳代謝に不可欠であるように、芸術もまた、そのもたらす高揚作用は、カタルシスとなって、心の新陳代謝になくてはならぬものであったわけである。

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2007年10月12日


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そもそも民主主義の発展が求められる現在及び近未来において、絶対権を持った指揮者そのものの存在が時流に反することは明らかである。

カラヤンの後にベルリン・フィルの音楽監督に就任したクラウディオ・アバドみたいな露骨な失敗例は非常に残念だが、現在第一線で活躍している指揮者たちは、いかにも小粒というか、テクノクラート(技術官僚)のような印象を与える。

ことに前世紀後半頃になって、世界中の競合オーケストラは、テクノクラート集団による集中管理のもとにある様相を呈している。つまり、世界中の有力指揮者たちは自らの本拠地となるオーケストラやオペラハウスの音楽監督を在任しながらも、それぞれどこか別のオーケストラやオペラハウスに度々客演して稼いでいる、といった仕組みなのである。

そういう状況に異を唱えるがごとく、アメリカの指揮者ジェームズ・レヴァインのように、指揮者が旅行人間と化しているこういった仕組みこそが、音楽自体をつまらなくしていると主張し、最近の彼はメトロポリタン歌劇場に腰を落ち着けて活動している指揮者もいる。

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2007年10月08日


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演奏家はどんな音楽でも、自らの感覚と精神を通したうえで全体を把握し、細部を創り上げてゆかねばならない。クラシック音楽は様式と精神の芸術だからである。

しかし、様式という合理的なものは、あくまで音楽の筋骨であり、精神が生み出すドラマという形而上のものが秘められているからこそ、音による造形の積み重ねが、緊張と明晰さを保ちながら感動的な芸術となるのである。

演奏家のテクニックと表現力は、そういった意味で、自らの個性を音楽に生かすためにあるのだと言わねばならない。

そしていかなる音楽もまず自分の内面で見つめ、自分の納得した表現によって、演奏する態度は、演奏家としての自覚と良心に基づくものに違いあるまい。

音楽評論家を「馬鹿」呼ばわりするフジコ・ヘミングさんもちょっとその辺のところを理解してもらわないと…、大味と評されても仕方がないでしょう。

私は様式の枠いっぱいに演奏者の豊かな個性が充満する演奏を、今は亡き名演奏家たちの遺産からではなく、いま時代を共有しているアーティストから享受したいのである。


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2007年10月06日


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ところで何故私が今は亡き演奏家の名前ばかり挙げているのかというと以下のような考えを強めるに至ったからである。

20世紀初頭にそれまでのロマン的な演奏に対するアンチテーゼとして新即物主義と呼ばれる演奏家が台頭した。それは音楽は基本的に音の遊びであり、音を数学的秩序で組み合わせたものが音楽である、という美学であり、次第に勢力を拡げていった。

それに伴い、演奏とはスコアにかかれた通りに正確に音に実現することであり、それ以上でもそれ以下でもあるべきではない、という思想が広く浸透しつつあった。

その潮流が現代に至って、演奏家はスコアが要求する数学的秩序、例えばベートーヴェン以降のスコアに指示されるようになったメトロノームに機械的に従わなくてはならない、などといった流行を招いた。


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2007年10月04日


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前述したように私の学生時代はとても個性的な友人に恵まれたが(ここで音楽の話に戻ります)、社会に出て思うのは、現代は世界的に人間一般が没個性化しつつあるということ。クラシック音楽でも演奏家固有の感性や思想、本当の意味での個性を無視した、画一的な奏法や様式がコンサートやディスクを埋め尽くしている。

つまり、コンサートにおいてカーテンの陰に演奏者を隠して各曲ごとに入れ替わったところで、あるいはディスクのラベルをはりかえたところで、少しも差し支えのない事態が生じつつあるといってよい。

とはいえ、欧米にはまだ、幾つかの真の個性が瞬いているものの、非個性化の大波に対する防波堤とでもいえるような存在は、なかなか見つけることができないのが現状である。

歴史に残る名演奏家は、つまり希代の個性というものは、我々は残された録音を通じてしか知りえないのだが、その鳴り響く音そのものの響き、オーラというものが、他の演奏家や奏法とは一線を画した真の個性の輝きを帯びているのである。


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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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