芸術に寄す

2018年11月12日


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2007年にエンニオ・モリコーネがアカデミー賞・名誉賞受賞記念を祝したCD(3枚組・全60曲)。

音楽だけを聴いていると、これが1人の作曲家が手掛けた作品群とは思えないほど、1曲1曲が個性的で多様な音楽的要素が含まれている。

それだけでなく、おそらく殆んど総てのジャンルのミュージックをそれぞれの映画監督の映像的構想の中に昇華させていく変幻自在のモリコーネ独自の世界が繰り広げられていることに驚かざるを得ない。

しかしながらそれらが映画のシーンと切り離すことができないほど渾然一体となって脳裏に焼き付いているために、BGMとしてなら気にならないかも知れないが、このディスクのように次から次へと並べられるといくらか忙しい編集という感じは否めない。

例えば同じ映画のために作曲された音楽はトラックを一箇所に纏めることができた筈だし、曲数を減らしても作品ごとのストーリーを追った、よりコンプリートな編集を望みたいところだ。

映画は大衆の娯楽として誕生したが、次第にドキュメンタリーとして、あるいは文学作品の領域にも深く進展して独自のアートとしてのジャンルを確立してきた。

特にトーキーの時代を迎えてからは映像の背景を演出するには欠かすことのできないエレメントになって、ショスタコーヴィチやオネゲルなどのクラシックの作曲家達の映像のための創作意欲を高めたことも事実だ。

しかしモリコーネの音楽は大衆の好みを決して手放すことはない。

勿論レベルを下げるのではなく、むしろ啓発してきたのだと思う。

彼は映像と音楽がどんな関係にあって、自分の曲がどの場面で最大の効果をもたらすかも狡猾なくらい熟知している。

それは彼の映画音楽制作への才能や情熱だけでなく、これまでに彼が参画してきた作品からの豊富な経験から会得した能力でもあるだろう。

だから音楽だけを良く聴いていると、いくらかあざといと思われる部分が無きにしも非ずだが、映像を伴った時に観衆を強力に引き込んでいく老獪とも言えるサウンドは忘れることができない。

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2018年09月22日


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中世ドイツの研究では第一人者だった阿部謹也氏によるドイツ史の専門的な俯瞰で、ドイツの誕生から今日にいたる歴史に、「ドイツ的」とは何かを思索する、通史とは一味も二味も異なった魅力を持った一冊。

この作品を読んでいると現在のドイツ的国民性や彼らの思考回路を理解するためには、彼らの辿ったかなり複雑な歴史的経過を知らなければならないことを痛感する。

ヨーロッパの中央に位置し古来からゲルマンの他にもケルト、ユダヤ、スラヴ、ラテン系などの民族がひしめいていたドイツでは、ナチスのアーリア人優越論も実際には存在しない唯一のドイツ民族というでっち上げだったことも容易に理解できる。

大洋に開けた港を持っていなかった宿命的な地理的条件から大航海時代に海外に植民地を得ることも逸したし、彼らが現在に至るまで連邦という統治形式を残している理由も自ずと見えてくる。

1815年にドイツ連邦が成立した時にはオーストリア、プロイセンの他4王国、1選挙侯国、7大公国、10候国、10公国、1方伯国、4自由都市の実に39の主権国と都市の連合で、それぞれが異なった貨幣と関税制度を持って頑固なまでにお互いの利害関係に固執していたことから、対外通商においても困難を極めていたようだ。

また戦後分かれた東西ドイツも単にソヴィエトと西側の戦勝国の間での線引きではなかったことも象徴的だ。

その国境線は中世以来社会的にも経済的にも対立していた地域で、東側の社会主義体制も敗戦後に突然生まれたものではなく、西欧の歴史に根ざして育っていったという著者の説明には説得力がある。

ベルリンの壁が偶発的に崩壊したのとは裏腹に、東西両ドイツの実質的かつ完全な統一が困難であったということは当然だろうし、いまだに多くの問題を抱えているのも事実だ。

また本書は1998年に初版が出ているが、阿部氏はアジールの研究から、既に将来移民や難民が重要な社会問題になることを指摘している。

本論の間に挿入されている間奏曲と題したコラムの部分では通史では学習できない、歴史という結果に至るまでのさまざまな経緯やエピソードが解説されていて、更に教養を深めてくれる。

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2018年08月15日


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本書は2001年に出版された単行本の文庫版で、ルネサンス、マニエリズム、ロココそしてバロックという美術史の流れを通して、バロック芸術の占める位置関係を明らかにしながら数多くの作品例を引用してその特徴や傾向、並びに意義が読み解かれていく。

パリのポンピドゥー・センターの建築から始まる本書は、西洋美術史研究の第一人者が、音楽や建築にとどまらず、美術、演劇、文学にまで及ぶ多彩な分野を、さまざまな時代にわたって縦横無尽に駆けめぐりながら、バロックの本質に迫っていく魅惑の旅の記録である。

もともと「歪んだ真珠」、「いびつな真珠」を意味する形容詞として生まれた「バロック」という言葉は、「粗野な」、「劣った」、「価値の低い」というニュアンスを帯びて使われるようになった。

しかし、その一方で、バッハに代表される「バロック音楽」や、サン・ピエトロ大聖堂前の広場に見られる列柱廊に代表される「バロック建築」など、雄大にして壮麗な作品群が「バロック」の名で呼ばれてもいる。

ジャンルとしての「バロック」でもなく、時代区分としての「バロック」でもなく、現代にまで至る全時代に見て取られるものとしての「バロック」を、無数の作品を渉猟しながら求めていった先には、現代こそバロックの時代である、という事実が浮かび上がる。

勿論著者は当時の政治的、また社会的な背景も疎かにしていない。

特にバロック時代の始まりは、マルティン・ルターによってもたらされたプロテスタント側の宗教改革と、逆にカトリック側が巻き返しを図った対抗宗教改革の時代とまさに一致している。

カトリック教会は自らの権威を誇示するような壮麗な芸術を奨励し、より多くの信者の獲得とその支持を得んがためアーティストに万人が理解できる平易な作品を要求した。

冒頭に書かれている現代のハリウッド映画とバロック芸術の類似性の比喩は言い得て妙だ。

つまり大金をかけ、スターを起用して派手な演出だが誰にでも理解できる単純な勧善懲悪の筋立ての映画を作り、不特定多数の観客を魅了し、感化させる。

確かにそうした大衆性がこの時代の芸術の性格を端的に物語っていると言えるだろう。

その意味では著者が書いているように、バロックの思想は歴史を追って現代まで何度も繰り返されている。

だがこの時代の多くの天才達がそのような思想的な枷やジャンルを遥かに超越した総合芸術を創造することに成功したのも紛れもない事実だ。

高階氏の文章は常に平明で、要領を得た無理のない表現が特徴だが、欲を言えば掲載写真をカラーにして欲しかった。

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2018年08月11日


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ルネサンスと言えば日本では文芸復興と訳されて、フィレンツェ、メディチ家が私財を投じて設立したアカデミアでの当時の最高の知識人達による古典を基礎とした学術の探求に象徴されているが、温故知新に則った忘れ去られた過去の優れた文化の模索は既に12世紀には芽生えていたという著者の見解をかなり詳細な考察で明らかにして、それまでの暗黒の中世という既成概念を覆している。

またその前段階に遡るシャルル・マーニュ大帝フランク王国宮廷でのギリシャ、ラテン語による古代作品の蒐集翻訳が始まる、いわゆるカロリング・ルネサンスの啓蒙活動にも触れていて、その後大学が初めて創設されるのがまさに12世紀だとしているが、いずれにしても中世の7つのリベラル・アーツ、つまり文法、修辞法、論理学、算術、幾何学、天文学及び音楽を習得することができたのは修道僧や聖職者で、著者自身219ページで学問を必要とする公職は総て彼らの独占物だったと述べている。

その後に開花する世俗の人々を巻き込んだ異教を大幅に許容した文芸復興には、大商人の興隆と地方を結ぶネットワークによる経済活動の飛躍的向上やグーテンベルクの活版印刷などが更に拍車をかけたことが想像される。

一方科学や医学の面ではその頃ヨーロッパより遥かに優位だったアラビアを経由した東方の文化の伝播が重要な項目として挙げられている。

サラセン人には地中海全域を荒らしまわった海賊集団というイメージがあるが、実際にはそれを可能にするだけの天文学や航海術の裏付けがあったことは間違いないだろうし、自然科学、医学や数学、特に現在世界中に普及しているアラビア数字や計算法などは彼らからの恩恵だ。

著者は私達が日頃何気なく使っているバザー、タリフ、シュガー、コットンなどの語源がアラビア語であることも指摘している。

12世紀の文芸復興の兆しは明らかだがその歩みは緩慢であくまで文学中心で、しかも地方に点在する文化の興隆は単発的で、後の時代の超人的な天才達も未だその姿を現すには至っていない。

彼らが手本とした古典自体が異教徒によって生み出されたものであることから、それを受け入れる教会との軋轢も必然的に生じる。

知の源泉が教会から俗世界に流れ波及したこととは裏腹に、カトリック教会の異端審判と科学者達との確執が、その後も長く続くことになったのは皮肉な現象だ。

文学についでユスティニアヌスのローマ法の復活とその学習について書かれているが、後の時代に役人や官僚になるための最短コースは法学を学ぶことで、その地盤は12世紀にできつつあったことが理解できる。

本書の前半は12世紀を中心とする、地道な羊皮紙への筆写活動が語られていて、それほど魅力的で読ませる文章とは言えないが、当時まだ印刷機のなかった時代に、こうした古典書物の普及にはひたすら手作業の筆写が欠かせなかったことを思い知らされる。

ここでは実際の作品を多数掲載して、読者の鑑賞にも役立つように構成されている。

勿論訳者2人の非常に念入りで分かり易い日本語訳を通してその薫り高い文学に接することができるが、ラテン語韻文のリズムは併録された原文で検証できる。

また中世は風刺とパロディー全盛期の時代で、主としてカトリック教会が槍玉にあがっている。

これはあからさまな蓄財によって権勢をほしいままにしていたローマ教皇への遊歴書生からの隠れた抵抗として説明されている。

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2018年04月27日


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この作品の冒頭ではドイツが1945年5月に連合国に降伏した後、逸早く進駐してきたソヴィエト側がマテリアル的な復興よりも精神的な文化高揚政策を優先させていたことが述べられている。

敗戦後僅か2週間でベルリン・フィルの最初のコンサートが開かれたことには驚かされた。

勿論それはソヴィエトの周到な政治的目論見があってのことだが、インタビューを受けた人々も打ちひしがれたドイツ国民を新たな希望に向けて士気を高めるためには少なからず貢献したことを認めている。

そして2ヶ月後にアメリカ軍が入ってくる前にソヴィエトの方針は既に徹底されていて、分割された地区によって占領軍同士の政策の相違が次第に鮮明になってくることが理解できるが、悲劇は50年代に入ってからのスターリン体制下での締め付けに始まったようだ。

ペーター・シュライアーによれば旧東ドイツの演奏家が国外で活動できるようになったのは1964年からで、彼らのギャラの20%から50%までが国家に徴収されて重要な財源になっていたが、これに味を占めた国側は外貨獲得のために多くの演奏家を西側に送り出すことになる。

しかし個人的な渡航は一切許可されず、彼らの亡命を防ぐために秘密警察があらゆる監視体制を張り巡らせ、演奏家達にも誓約書へのサインを殆んど強制していたようだ。

ベルリンの壁が築かれたのは西側からの影響を阻むためではなく、東側からの人々の流出を阻止する目的だったことは明白だろう。

演出家クリスティーネ・ミーリッツは『国民全員に国を出る権利がある筈で、それを直ちに許可するか否かは自由だが、壁の前で射殺することは絶対に許されない』と憤りを持って語っている。

国の文化政策の中で最も収益を上げていたのがLPレコードの独占販売だったという事実も興味深い。

レコード製作会社は偶然国営になったようだが、精神的に枯渇していた国民にとってレコード鑑賞は欠かせない趣味に定着して、その影響は皮肉にも西側に及ぶことになる。

制作費が安かったために西側のドイツ・グラモフォンは当初質の高い東側のアーティストの演奏を中心に提携という形で録音したが、国営VEB製作LP第1号がフランツ・コンヴィチュニー指揮、シュターツカペレ・ドレスデンによるベートーヴェンの『英雄』だったことも象徴的だ。

ドレスデンのルカ教会が教会としてよりも録音会場として大修復されるのもレコード産業の一役を担うためだったと思われる。

ベルリンの壁の崩壊は東側に次々と起こりつつあった東欧革命の気運が頂点に達した時期に起こるべくして起こった事件であることは疑いない。

東ドイツは経済的な破綻を国民にひた隠しにして事実を全く知らせなかった。

クルト・マズアの立場からも見えてくるように、当時の音楽家達はそれぞれの立場で抵抗し改善を要求したが、彼らが先頭に立って東西の統一運動を進めたわけではなかった。

インタビューの中でも語られているが、一般的に音楽家で積極的に政治に深く介入しようとする人は少なく、しかもオペラ・ハウスやオーケストラでは西側の団員が去った後、メンバーの大幅な補充が余儀なくされたために、彼らが演奏活動によって困窮しないだけの最低限の生活を約束されていたことも要因のひとつだろう。

最後のシーンは1985年に再建を終えたドレスデンのゼンパーオーパーでの杮落としになったベートーヴェンの『フィデリオ』の上演で、この映画のフィナーレとして最も感動的な部分だ。

演出家ミーリッツは囚人のコーラスの後、聴衆が数分間咽び泣いていたことを自らも涙ぐんで思い出している。

そして何よりも国家による国民への精神的な搾取が堪えられなかったという言葉が痛烈だ。

言語は総てドイツ語だが、サブタイトルは日本語も選択できる。

日本語の字幕スーパーは簡潔に要約されているので意味するところは理解できるものの、日本語の文章としては不自然な言い回しや言葉使いが見られるのが残念だ。

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2018年04月21日


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ペイターの『ルネサンス』は学生時代に初めて読んで、彼の芸術作品への魅力的な解釈と大胆な論法に惹かれたが、著者が採り上げている時代の美術や文学に精通していなかったために、かなり敷居の高い思想書という印象があった。

しかし本書に紹介されている作品を実際に鑑賞し、またネットを通じて総てが検索できるようになった現在になって、ようやっと彼の批評の精神、つまり人々を啓蒙する批評家としての活動の真価を見出せるようになった。

ペイターの記述の中には、サンプルとして説明されている作品の作者がしばしば誤って示されているが、当時ではまだ知り得なかった事情があるので許容範囲とすべきだろう。

いずれにしてもルネサンスが我々にもたらした啓蒙精神を明かす息遣いや人間性の回復を高らかに唱えていて、後の時代に与えた影響も絶大であったことを証明する一冊だ。

本書には写真や図版などの掲載は皆無だが、入門者のためにはある程度のイメージが必要だろう。

記憶違いでなければ、ワイルドが称賛した同書にもカラー図版が付いていた筈だ。

それぞれの章でルネサンスに関わった人物とその作品が論じられていて、それは現代にも通用する鋭利な視点からの洞察に貫かれている。

最終章に置かれたドイツの古典学者ヴィンケルマンへの考察は圧巻で、確かに彼はルネサンスの時代人ではないが、その精神を実生活においても証明する結果になった彼の人生へのペイターの共感が滲み出ている。

ヴィンケルマンは貧しい家庭の出身だったが自身のギリシャ、ローマの古典作品への並外れた理解力とおよそ真似のできない情熱で、そうした作品群の価値を明らかにしていく。

目標達成のためには省略できるものは総て省き、いよいよ古典の宝庫ローマに向かうためにカトリックへの改宗を果たして、その地に12年間滞在することになる。

後のゲーテを筆頭とするその後のドイツ文学が彼から受けた影響はまさにルネサンス的と言えるものだろう。

ヴィンケルマンは『芸術の美は、自然の美よりも高度の感受性を必要とする....』と書いている。

それはワイルドの『自然は芸術を模倣する』に受け継がれた哲学ではないだろうか。

自然界が神によって創造されたものであれば、プラトンがイデア論で展開した『現世はイデアの世界の影が映し出されたところ』という意味でも理解できるし、芸術が自然に対して優位に立つ創造の源泉であることも認識される。

だからその原点からある種の霊感を得て創り出されるのが芸術作品であり、自然を模倣するだけの作品は芸術作品とは言えない。

こうした思考はルネサンス的発想に支えられているが、それは古典研究から得られた成果であるに違いない。

中世とルネサンスを分けることができるとすれば、その時代に生きたアーティストや科学者たちが時代を切り拓く最先端に立っていたことを自覚していたか否かがその境界線になるのではないだろうか。

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2017年03月02日


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ルソーが言語の起源と本質を論じた著作。

言語の本質とは情念の表現にあり、もとは言語と音楽の起源は同一であったという。

言語の起源と変遷、諸言語の地理的差異、音楽の起源、旋律、和声の原理と歴史が分析され、南方と北方の言語の抑揚の相違、言語の現状が言語の変遷といかに関係しているかなどが論じられる。

学生時代単行本で初めてこの作品を読んだ時にはギリシャ、ローマの古典に疎かった筆者は引用の多さと原注を調べることに辟易しながらも、ルソーらしい確信に満ちた論法に興味を惹かれ、彼の思考回路と好奇心を刺激する破天荒の人となりに大きな魅力を感じた思い出がある。

増田氏の訳出によるこの文庫本は平明な口語体で、原注と訳者による訳注がそれぞれの短い章ごとに並列されていて、一般読者のためのより良い理解への便宜が図られている。

ただしルソーの他の論文と同様、当然当時の第一級の教養人を読者に想定して書かれたものであるために、その文学的醍醐味を味わうにはある程度の古典の素養が欠かせないことも事実だ。

ここでも彼が有名な『ブフォン論争』で展開した、殆んど独善的だが豪快な論陣が張られている。

また彼は自分に敵対する人々を常に意識していて、そうした陣営への痛烈な揶揄や時として罵倒も辞さない。

気候が温暖で潤沢な食物に恵まれた地方の人々の最初の言葉は最初の歌であり、一方厳しい気候の北方の民族のそれは相手を威嚇するために鋭い発音になったという論法は、現代の言語学の到達点からすれば観念論の謗りを免れない。

専門分野の資料を欠いていた彼の時代の研究は確たる物的証拠に基いたものではなく、頭脳を駆使して構築されたファンタジーの域を出ない産物だからだ。

しかしながらルソーの思考方法に現代でもその価値を認めるとすれば、むしろそれは彼が古典文学、歴史や地理、文化風俗から哲学、物理、音響学に至るまでの当時の百科全書的な広範囲に亘る知識を総動員して考察しているところである。

すなわちその時代に知り得た総ての知見を総合する術こそ、余りにも細分化され異なった専門分野のミクロ的分析に成り下がってしまった現代の科学に本来の研究方法のあり方を実践してみせている。

そうしたことからもルソーはまさに近代啓蒙思想の元祖的な存在と言えるのではないだろうか。

後半第12章からは話が音楽に移り、彼の論敵である作曲家ラモーへの鋭い攻撃が展開される。

ラモーは既に彼の著書『和声論』で旋律に対する和声の優位を説いているが、ルソーはこれに真っ向から対立し、言葉に源泉を持つ旋律の方に絶対的価値を主張している。

そこで喩えに用いられているのが絵画でのデッサンと色彩で、当然彼はデッサンを音楽の旋律に喩え、色彩を和音に置き換えて論証している。

そして和音が理論化されてしまったために、その進行が逆に旋律を制限し、本来の音声言語の持っている精神的力強さが失われてしまったと説く。

彼の論法では色彩の理論だけでは絵画は成り立たないのだが、それは印象派以後の絵画の傾向を見るなら一概に頷けるものではない。

しかしながら自然界に存在する倍音列とは異なった音律で和声を創り上げた和声法とそれに縛られた旋律は、確かに本来の力強さを失ってしまったのかも知れない。

最後には言語起源論からフランス絶対王政反対に導くルソーならではの強引で飛躍的な帰結も痛快だ。

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2007年11月12日


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ともあれ現代は、人類史上空前ともいうべき、試練と変動の時代を迎えているのである。そうしたなかにあって、多くの人々の心が内面へと向けられていることも明らかである。

晩年のヴァレリーは不気味な軍歌の音をききながら、精神連盟のために奔走した。「創造的生命」の開花、発現は人間の内面的変革を通じ、必ずやそうした精神連盟、精神革命、に大きな道を開いてゆくであろう。

それはまた、芸術をはじめ、人間の全ての営みを活性化させてゆく源泉となりうることも間違いはないと、私は信じている。

(注)ポール・ヴァレリー (1871年10月30日 - 1945年7月20日)フランスの作家、詩人、小説家、評論家。多岐に渡る旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。


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2007年11月11日


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その象徴性の純度というものを考えつき、私はポール・ヴァレリーの、あのソクラテスが踊る女人の姿を凝縮して語る美しい一節を想起するのである。

それは「生命のあの高揚と振動、あの緊張の支配、得られる限り敏捷な自分自身のなかで、あの恍惚状態へは、内面から湧き上がるような力を持ち、恥や煩い、愚かさなど生活の単調な過程はそのなかに焼きつくされて、女人のなかにある神のように尊いものを我々のなかに輝かせてくれるであろう」と。

これはもとより両者を同次元で論ずることはできないのかもしれない。しかし動くものの究極に言語という形を与えようと象徴性の純度を高めてゆく時、期せずして想像力が踊りのイメージを形どる連想作用に誘われるということは、大変興味深いことだと思うのである。

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2007年11月10日


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例えば、フルトヴェングラー指揮のベートーヴェンの「第9」交響曲が終わった後の聴衆の騒ぎは、もう熱狂とか興奮とかいう言葉では表現できないものがあったそうだが、そこでは「結合の力」が十全に発揮され、芸術の次元において人生の昇華をも意味していると思う。

それは単なる歓喜ではなく、人生の深い探求と社会への限りない貢献のうえからの「歓喜のなかの大歓喜」でなければならないということなのである。

それを可能にしたのはフルトヴェングラーの「解釈」であり、それはスコアの客観的描出というよりも「創造的生命」のすぐれて象徴的な描出と捉えることができるのである。


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ここで、一切の事象を永遠の相のもとではなくして持続の相の力で捉えようとした、ベルグソンの生への哲学に内包しているところの生命脈動してやまぬダイナミズムを「創造的生命」と名づけて着目したい。

それは常に時間的、空間的な限界を乗り越えて、小さな自己から大きな自己への超克作業に余念がない。換言すれば、宇宙本源のリズムとの共鳴和音に耳を傾けながら、日々新たなる飛躍をしていくところに、この面目があると思うからである。

(注)ベルグソン(1859〜1941)フランスの哲学者。カントの観念論に対し、直観や本能によって認識される純粋持続としての実在論を構築。




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2007年11月09日


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一例をあげれば、原稿用紙やタブローに一人向かう孤独な芸術家と他方、匿名の多数の読者であり鑑賞者である大衆といった、あまりに近代的な芸術環境にあって「結合の力」がいかに十全に発揮されるかどうか。

個々の努力や才能によってそれなりの成果が期待できるにしても、何よりそこには「結合の力」を発現させるための有機的、共同体的な「場」が欠落してきたということである。

それは例えば、劇場に集まった観客たちも俳優と同様に、時には俳優以上に演劇に参加することができた古代ギリシャの芸術環境とは、よほど違ってしまったということである。


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2007年11月08日


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ところでその普遍性の世界は、往古の演劇が宗教的祭儀と不可分の関係にあった。ハリソン女史も言うように「人間を教会へ向かわせる衝動と劇場へ向かわせる衝動とは、出発点において同じであった」(J・E・ハリソン著『古代芸術と祭式』筑摩書房)というわけである。

つまり芸術は宗教で、また宗教は芸術であった。この二つながらの、良く生きんとする人間の情熱のおのずから志向するところは一致していたように思える。そこで問題は、古今東西を問わず、こうして芸術や宗教を通じて発現されてきた「結合の力」が、社会の近代化にともない、とみに衰微してきたという現実である。

私は19世紀以来、鋭敏な精神が予感し、警告してきたことをここであえて論ずるつもりはない。しかし自然や宇宙から切断されつつある人間は、今や人間同志の絆さえ断たれがちであり、その結果孤独はもはや孤独として、すなわち病いとしてすら意識されなくなってきた時代である。私達をとりまく芸術環境も近代の流れとともに、しだいしだいに大きく変わってきてしまった。


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2007年11月07日


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ではなぜ芸術が人間にとってかくも根源的な営みであり続けてきたのか、その最大の要因は、芸術のもつ「結合の力」に求めることができると私は考えるのである。

ゲーテの『ファウスト』の独白にあるように、あらゆるものが一個の全体を織り成している、一つ一つが生きて働いている、というのが生きとし生ける者の実相ならば、人間と人間、人間と自然、人間と宇宙をも結び合わせ、全一なるものを志向してゆくところに、芸術のすぐれて、芸術たらんとせんがためのものがあったといえる。

詩歌であれ絵画であれ、音楽であれ、彫刻であれ、我々が珠玉の芸術作品に触れたときのあの感動、それを一言にして謂えば、「あたかも我が胸中の湖に共感の波動が幾重にも幾重にも広がり、精妙なリズムがはるか天空へと飛翔してゆくがごとき生命の充実感」であり、これこそ自己拡大への確かなる実感である。

有限なるものは無限なるものへ、体験の確実性は意味論的宇宙ともいうべき普遍性の世界へと昇りつめてゆく。そこに芸術特有の「結合の力」の生き生きとした発動があると、私はみているのである。


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2007年11月06日


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クラシック音楽芸術を考察するにあたって、まず古くから人間は芸術とどのような関わり方をしてきたのかということについて、私なりに常々クラシック音楽芸術を鑑賞しながら考えていることを述べてみたい。

古代、芸術とは、人間の精神性のやむにやまれぬ発露であった。様々な形を結びながら、そこに巧まずして一個の全一なるものを象徴するものであった。

確かに個々の芸術活動は限られた空間内での営みであったかもしれない。しかし芸術に参加する人々の魂には、自らの活動を通じて、宇宙的生命ともいうべき全一なるものとつながり、一体化せんとする希求が脈打っていた。

つまり、自分というミクロな世界が、宇宙というマクロな世界へと融合しつつ、造り出されるダイナミックな生命体 ― 人間は物質的な生活においてパンを欲するように、精神面においては、そうした全一なるものに浸り、それを呼吸し、蘇生の活力を引き出そうとすることを生き方の機軸としてきた歴史である。

パンが肉体の新陳代謝に不可欠であるように、芸術もまた、そのもたらす高揚作用は、カタルシスとなって、心の新陳代謝になくてはならぬものであったわけである。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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