フルトヴェングラー

2022年07月19日


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フルトヴェングラーにとって音楽とは、古典主義とその末裔たるロマン主義こそ唯一絶対の頂点であった。

この絶対主義に同調できない友人には、絶交をその場で申し出たことも、若いころにはたびたびあったそうである。

この絶対主義の理念こそが、フルトヴェングラーのシューマン演奏を、他の演奏家による演奏が及ぶべくもない、比類なきものにしたといえないだろうか。

シューマンは、同時期に3つの「弦楽四重奏曲」も完成させている。

どちらの分野にしろ、これらの作品のチャンピオンはベートーヴェンで、当然シューマン自身、ベートーヴェンを意識して作曲したのであろう。

フルトヴェングラーのベートーヴェン絶対主義こそ、シューマンの演奏を、ベートーヴェンが築き上げた交響曲の高みへと少しでも近づけようとした営みだったといえないだろうか。

この演奏に耳を傾ければ、誰しもすぐそこにベートーヴェンの音楽があると合点するだろう。

ベートーヴェンとの距離の遠近をそれほど意識させずに、ベートーヴェンの後期の作品を聴いているような高みへと誘う演奏こそ、フルトヴェングラーとルシアン・カペーにしかできなかったのではなかろうか。

この2人の芸術家ほど、そのベートーヴェン信仰を生涯貫いた人物はいない。

この録音は第4番がベルリン・フィル、第1番がウィーン・フィルとの演奏になる。

フルトヴェングラーは「僕の結婚相手はベルリン・フィルだよ。でも、ウィーン・フィルは僕の恋人なんだ。だから離れるわけにはいかんのさ」と述べている。

カラヤンもそうだったが、この世界を代表する2大オーケストラを曲によって使い分けられることは指揮者にとってなんと幸せで恵まれていることだろう。

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2022年05月21日


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1953年8月26日のルツェルン音楽祭での演奏の貴重なライヴ録音である。

これは、ラジオ放送を録音したもの(いわゆるエアチェック)なので音の状態は十分ではないものの、演奏は素晴らしい。

シューマンのマンフレッド序曲、交響曲第4番、ベートーヴェンの交響曲第3番「エロイカ」というファンならずともよだれが出そうなプログラムになっている。

フルトヴェングラーの指揮する「エロイカ」は、極めて高い見識を持った優れた解釈を下地にしており、残されたすべての演奏が格別の名演である。

ここでの演奏は、時期的に近接している1952年11月30日のウィーン・フィルとの演奏とごく近いものだ。

物腰の柔らかいウィーン・フィルと違い、ルツェルン祝祭管弦楽団(スイス・ロマンド管弦楽団の団員などから構成されているという)の素直な反応がフルトヴェングラーにウィーンでの演奏よりも少しばかり動的かつ情熱的な演奏を促したのも知れない。

第1楽章は物凄い気迫で開始され、最初の和音だけとれば、これが今までのベストと言えよう。

そして続く主題の足どりはゆったりとして実に良い雰囲気であり、堂々としてスケール雄大、ひびきが満ちあふれる。

オーケストラが指揮者に慣れていない感じで、それがフレッシュな感動を生み出す原因の1つになっているのだろう。

指揮者の棒は1952年のスタジオ録音以上に力みがないが、音の背後の凄絶さはまさに最高、常に立派な充実感に満たされている。

テンポの動きは再現部の前と直後に1度ずつあるだけで、後は安定しきっており、最晩年の確立した大演奏と言えよう。

第2楽章は心はこもっているが流れを失わず、旋律はソロといい合奏といい、肉のり厚く歌われ、中間部から再現部のフガート、その後の阿鼻叫喚に至るまで、他のどの盤に比べても仕掛けはないが、それでいて物足りなくないのは偉とすべきであろう。

この楽章は、深く悲しみに沈み込むような1952年12月8日のベルリン・フィルとの演奏より2分も短い。

お互い相手を知りぬいた組み合わせとは異なった、一期一会の感興がこの演奏の大きな魅力となっている。

スケルツォからフィナーレにかけても同じスタイルだが、後者に入ると音質がだんだん濁ってくるのが残念だ。

しかし、少しも速くならないフーガといい、ポコ・アンダンテといい、コーダといい、音の後ろに凄いものが隠されており、充分満足させてくれるのが素晴らしい。

シューマンの「第4」も完璧無類のグラモフォン盤の後に聴いても引けを取らない名演だ。

録音は濁り気味だが、なんといってもライヴの音がするし、音に命がこもっているのである。

晩年のフルトヴェングラーだけに実演だからといって踏み外すことなく、ベルリン盤の良さをそのまま保ちつつ、やはり気迫が違うのだ。

第1楽章の出もそうだし、フィナーレ冒頭の弦の刻みの生きていること、主部の第1主題の語りかけなど、ベルリン盤を上まわり、録音が同レヴェルなら、筆者はこのルツェルン盤の方を採りたいくらいである。

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2022年05月13日


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フルトヴェングラーは、生前ドイツ・ブルックナー協会の会長を務めていた、いわば、ブルックナーの専門家であったが、そうした面目が、この集成の全面ににじみ出ている。

作品と指揮者が運命の糸で結ばれている、そんな磁力にも似た求心力を背景にうねるような起伏をもって再現された名演、熱演。

フルトヴェングラーのブルックナーは、情熱的で気迫に満ちた音楽を聴かせ、アゴーギクとデュナーミクを巧みに融合させた効果は、まさに名人芸と言わねばなるまい。

フルトヴェングラーは、内面的な燃焼度の高い、雄渾な演奏で、その強烈な個性には圧倒されてしまう。

個性的でスケールの大きい表現だが、あまりにロマン的で、ブルックナーの素朴さよりもフルトヴェングラーの音楽を聴く感が強い。

それでもこの指揮者の芸術的ルーツが、ブルックナーと同じところにあることを理解できる自然体の表現であり、そこに演奏の魅力もあるのである。

フルトヴェングラーの解釈は作品との強い一体感をベースとしたもので、それはバーンスタインがマーラー演奏に見せた陶酔感すら覚えさせるものがある。

とりわけ大戦中に演奏されたフルトヴェングラーのブルックナーには例えようもない気品と影の暗さがあり、それが感動のテンションをさらに高める。

そうした美質を引っさげてフルトヴェングラーはブルックナーの核心部分へと果敢かつ勇猛に足を踏み入れていきながら、聴き手を抗し難い興奮へと巻き込み、陶酔的感動に浸らせてしまう。

精神的な高さと深さで、これを凌駕するような演奏は他になく、聴いたあとに深い感動の残る秀演である。

ブルックナーの音楽の雄大さ、フルトヴェングラーの表現力の息の長さ(オーケストラの器の大きさも加えるべきなのかもしれない)に、誰もが圧倒されてしまうことであろう。

われわれの日常生活で用いられている単位では、とても手に負えないような雄大さであり、息の長さである。

こうした芸術活動だけに許されるような次元に接する機会が、最近はとみに少なくなってしまった。

また、フルトヴェングラーは、なにを指揮しても決して急ぎすぎることがなかった。

悠揚迫らぬそのテンポは、まずは聴き手を落ち着かせるのに力を発揮したばかりでなく、さらに進んで揺るぎない信頼を勝ちとった、と言って良いだろう。

これぞフルトヴェングラー人気の根源のひとつ、という気がする。

そうした独特のグランド・デザインによりながらも、ブルックナーの楽想を生かし、音楽を生かすため、フルトヴェングラーはテンポを細かく動かし、表情に変化を与え、クレッシェンドを活用して強い緊張感を生み出している。

そして表出されたブルックナーの深奥から湧き起こる音楽的情熱と、深々とした祈り、見事だ。

旋律のみずみずしいしなやかさ、地の底から噴きあげるようなブラスの和声の充実感、作為なく、ブルックナーの音楽そのものを感じさせる造型、あらゆる点で、もう二度と現れまいと思われるような演奏だ。

まさにフルトヴェングラーの凄さに圧倒されてしまう巨人の足音である。

尚録音データは以下の通り。

◆第4番『ロマンティック』(VPO、1951年10月22日、シュトゥットガルト)
◆第5番(BPO、1942年10月28日、ベルリン・ベルンブルガ・フィルハーモニー) 
◆第6番(第1楽章欠落、BPO、1943年11月)
◆第7番(BPO、1951年4月23日、カイロ)
◆第8番(VPO、1944年10月17日、ウィーン、ムジークフェラインザール)
◆第9番(BPO、1944年10月7日、ベルリン)

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2022年04月19日


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4種類存在するフルトヴェングラーのブルックナーの交響曲第8番は、どれもユニークな内容を持つ演奏として知られている。

中でも最も強烈なのが、この1949年3月15日にベルリン・フィルとおこなったコンサートのライヴ録音である。

前日の3月14日に、ダーレムのゲマインデハウスで放送用に収録された録音もTESTAMENTから発売されていた。

しかし聴衆の有無や、ホールの響き、録音状態の違いなどもあって、印象は大きく異なる。

この3月15日の演奏は、フルトヴェングラー流の動的ブルックナー解釈の極点を示すものとして有名なものだ。

第1楽章展開部後半での強烈なアッチェランドを伴うクライマックス形成や、第4楽章コーダでの激しい追い込みは、ほかの演奏からは考えられないカタルシスをもたらしてくれる。

もちろんそうしたドラマティックなダイナミズムだけが凄いのではない。

たとえば第3楽章アダージョでは、楽員の共感に満ちた濃厚な演奏が、深い情感表現に結実していて、恍惚とするばかりの美しさをもたらしてくれるのが感動的である。

そうした音楽が、紆余曲折を経ながらも次第にクライマックスに向かって盛り上がってゆくときのコントロールの巧みさ・迫真の音楽づくりは、フルトヴェングラーにしかできない非常に雄弁なものと言えるのではないだろうか。

肝心の音質は、前日の放送用録音に較べてたいへん条件が良く、当時のライヴとしては最良のクオリティで、超弩級のモンスター演奏を味わえるのが大きな魅力となっている。

アルカディア、M&A、ドイツ協会盤などで出ていたが、このデルタ盤は、いままで一番音が良かったドイツ協会盤に近いクオリティをもっているのが嬉しいところだ。

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2022年04月10日


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ゆったりと流れるように始められた音楽から「この演奏はいつもとは違う、今日はどんなところに連れて行かれるのだろう」。

そんな予感のうちに自然に音楽に集中すると、時間の感覚を失い、ただひたすらにブルックナーの永遠に身をゆだね、神秘的な信仰告白を聴き、壮大なバロック時代の英雄崇拝の心地良さに浸りきった。

最初にこのレコードを聴いたときの印象は、いつものフルトヴェングラー体験とは、様相が大きく異なっていた。

演奏の凄さに度肝を抜かれたのはもちろんだが、やはり最後にこんなブルックナーに到達していたのかという思いと、これまで円熟を語られることのなかったフルトヴェングラーの、まさに晩熟を実感した。

今日この演奏が、フルトヴェングラーによるもので、そのオリジナルテープがウィーン・フィルのアルヒーフに存在する旨、トレミスが確認しているが、1982年のレコード発売以来、主にイギリスでの演奏の真偽をめぐって、多くの疑問が寄せられてきた。

それは演奏がフルトヴェングラーの「いつものスタイル」ではなかったから、つまり劇的な曲の進め方や、アゴーギクを強くきかせてアッチェレランドを辞さないというやり方で、ブルックナーになじみのない聴衆にもわかりやすいような、作品への架け橋として意図された演奏とは異なったものだったからである。

フルトヴェングラーの『音楽ノート』(白水社)によれば「正しい均衡を保ち『静力学的』に安定している楽曲は、決して法外な長さを必要としない。

法外に長い作品(ブルックナー)のシンフォニー楽章の再現部においては、自由奔放にして妥協点に欠ける造形が(・・・・・・)その欠点を暴露する。

ベートーヴェン、否ブラームスにもまだ見られた繰り返しが、ブルックナーにはもはや不可能である。(・・・・・・)

最初いくつかの楽章がしばしば再現部に見せる余白は、こうした状況から生じたものである」とかの発言が残されて、ベートーヴェンという峰を辿って、ブルックナーへと到達するというフルトヴェングラーの考え方が理解できるのではなかろうか。

この演奏会を実際に聴いたノヴァコフスキーの文章があるので、紹介させていただく(『フルトヴェングラーを語る』白水社)。

「ニコライ・コンサートでの演奏でした。(・・・・・・)年に一度の演奏会はウィーン音楽シーズンの頂点と言うべきもので、久しい以前からフルトヴェングラーの主催にゆだねられておりました。普通はベートーヴェンの『第9』を演奏するのが長い伝統になっていたしたが、(・・・・・・)ブルックナーの『第8』が選ばれることもありました(・・・・・・)このたびは、音楽の作り方が以前とは趣が変わっていました。アゴーギクに寄りかかった緊張が和らげられ、比類のない大きな瞑想のようでした。指揮者の姿はすべてを受容する献身の器としか思えませんでした。最後に到達した明澄と円熟の境地がここに忘れ難い最晩年の様式を生み出したのです。(・・・・・・)フィナーレの最後の響きがやむと、息を呑むような静寂が一瞬あたりを領します。やがて人々は席から立ち上がり、フルトヴェングラーとフィルハーモニーの楽員に喝采の嵐を送るのでした」

その後フルトヴェングラーはルツェルン音楽祭で、最後となったブルックナーの演奏(『第7番』)を行なっているが、それこそ「人々は魔法でもかけられたように、すわったっきりでした。エドウィン・フィッシャー、フルニエ、シュテフィ・ガイヤー、クーベリック、マイナルディ、ミュンヒンガー、その他多くの音楽家たちはほとんど試演のときから、もうそうでした。稀に見るほどに完璧な演奏でした。さながら冥界からの音信のようでした」。

最晩年のスタイルによる完成されたブルックナーだったのである。

その「冥界からの音信」のようなアダージョだけでも聴いてみたかったものである。

ブルックナーの受容状況は、今日大きく様変わりした。

原典への追従はやめて、ブルックナーの内面へと立ち向かおう。

きっとこの演奏にこそ、最高のブルックナーの『第8』を聴くであろう。

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2022年03月27日


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エルンスト・ペッピング(1901-81)は現代における教会音楽の復興を目指し、多くの合唱曲を書いたドイツの作曲家で、交響曲も3曲ある。

第2番は1942年の作であり、1943年のフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの定期公演のライヴが初演である。

4つの楽章から成り、調性のはっきりしたわかりやすい音楽だが、第1楽章は楽想が目まぐるしく変わり、接続曲風だ。

演奏は共感に富み、ひびき(特に弦の)がいつも真実性にあふれ、内容的である。

第2楽章のうねるように高まる情感や歌、第3楽章の愉しいオーケストレーションを冴えた筆致で生かしてゆくあたりは聴きものだが、録音は歪みが多く、弱音部のくっきりしないのがマイナスといえよう。

ハインツ・シューベルト(1908-45)は世界的にも無名の存在だが、1939年作の「讃歌的交響曲」は非常な感動作であり、もっと演奏されてもよい曲だと思う。

このフルトヴェングラーのディスクは初演(1942年)の記録で、定期公演に採り上げられたわけだが、録音は驚異的にすばらしく、豊かな上に歪みもない。

協奏曲といっても二人の独唱者がラテン語のサンクトゥスやテ・デウムなどの言葉を自由に扱って加わる。

オラトリオのような部分も多いが、常套的なコーラスを使わないのが心にくく、オルガンやオーケストラの各楽器、それに独唱が時に華やかな技巧の動きを示す。

そういう部分は確かにコンチェルト風で、ハインツ・シューベルトという作曲家の卓越した技法の冴えを伝えるが、そのような場面でも音楽の本質を見失わないところが見事なのだ。

この曲の本質とは、文字通り、神の讃歌である。

宗教的な雰囲気は、最初おごそかに、ついには恍惚たる神への讃美を感動的に歌い上げ、そこにウソのものはまったく含まれていない。

ハイトマンの決して外面的に陥らないオルガン・ソロも最高だが、このディスクは旧ベルリン・フィルハーモニーホールのパイプ・オルガンを聴ける唯一のディスクでもあるのだ。

二人のソリストも名唱で、とりわけ全盛期のベルガーの美声は魅力的のきわみといえよう。

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2022年03月06日


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バッハを「雲上に君臨する聖者」と称え、「神の子の苦しみ、キリストの救済史を自己の魂において深く体験し、最後の、最大の受難曲《マタイ受難曲》において一つの巨大な創造的事業を成し遂げた人物」と語ったのは、一世を風靡した巨匠ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)である。

フルトヴェングラーは時代的には後期ロマン派の出であると共に、すぐれた学者・教育者の家系に生まれ、音楽好きでブラームスやシューベルトを尊敬していた父の専門の考古学を始め、さまざまな学問分野に関心を寄せた、近代ドイツの典型的な知識人であった。

そうした幅広い教養を土台としたフルトヴェングラーの芸術家としての生い立ちには、少年時代にバッハのマタイ受難曲を聴いたことと、16歳の時にフィレンツェに滞在してミケランジェロの彫刻に出会ったことが、その成長に本質的な影響力を及ぼした二つの原体験であったといわれる。

カーライルの『英雄と英雄崇拝』やロマン・ロランの『ミケランジェロ』などから知られるように、それは彼の世代の中で心ある人々が共通の体験としてもっていた、あの創造する英雄的人間への強い憧れの目覚めであり、そしてまたその英雄的悲劇性への開眼であった、といえるのではなかろうか。

少なくともバッハの受難曲の解釈に関しては、19世紀後半から第一次世界大戦までのこの時期では、偉大な「神人イエス」を主人公とする受難の悲劇という視点が主流を占めていたから、こうした視点での演奏によるマタイ体験が、あのダビデ像やピエタに象徴されるように偉大な人間の悲劇性とそれをめぐる悲壮美と悲哀感の無比な表現を「冷たく客観的な」石材から呼び起こしたミケランジェロ芸術への共感へとつながって行った必然性が、筆者にはよくうなずけるように思われる。

後年フルトヴェングラー自身がバッハのこの大作について語った次のことばも、そのことを裏付ける。

「神の子の苦しみ、キリストの救済史(のドラマ)を自己の魂において深く体験し、最後の、最大の受難曲においてあの巨大な作品を創造することのできた人間、これがバッハなのだ。この大曲は、少なくとも第一音から最終音に至るまで作品に一貫するあの印象深く巨大な情念の統一性に関する限り、ロマン派時代の記念碑的作品であるヴァーグナーのトリスタンにのみ比せられるべきものであろう」(1948年、『音と言葉』芦津丈夫邦訳により一部改訂)。

そして彼の哲学的音楽観は、そのマタイの音楽の中に客観的、叙事的平静さと主観的、激情の両素が「模倣しがたい独自な仕方で結合している」ことを認識した。

その認識に立脚しつつ、神人イエスの受難と死の救済史に一貫するオラトリオ的・ドラマ的情念の統一性(いまかりにこれを「神的英雄の受難と死をめぐる悲劇性のパトス」と呼んでおく)を表出しようとした真摯な試みが、教会外の場で上演されたフルトヴェングラーのこのマタイ受難曲のユニークな特色ではなかろうか。

バッハ自身はすべて赤インクで記入した福音書聖句の一部省略を始め、アリア、コラールなどの省略も、単に時間上の制約というよりは、そうした悲劇的パトスの一貫性をより明確に打ち出そうとするこの指揮者の天才的直覚と曲全体のドラマ的把握から必然的に生じた行為だったといえよう。

しかし時代は二つの大戦の惨禍を経て、福音書をイエスという一人の宗教的天才の言行録と見る後期ロマン派的自由主義的神学(そこでは聖書の抜萃とその宗教史的、哲学的釈義が重視された!)が、神の主導権とキリストにおける福音の啓示の絶対性を主張する弁証法神学に、そしてまた様式史的、編集史的聖書教義の登場に席を譲らざるをえない情況となった。

そこからバッハを見直すとき、「原始キリスト教の信仰の本質こそが、バッハ自身にとって、未だに完全に自覚された生の基盤であり、魂の糧であった。そこでもし神学の語が、真のキリスト教信仰が自己自身によって立つ実質への自覚と反省への営みを意味するとすれば、バッハは神学の人であったといわねばならない。彼はベートーヴェンのような宗教性の音楽家たるにとどまらず、またブルックナーのようにナイーヴな教会的信仰の人でもなかった。バッハの神学的思考と洞察の枠外れのエネルギーは(カントやヘーゲルなどの思想よりももっと深く人の心を震撼し(シュヴァイツァーの言)、彼の音楽活動の全領域に充溢していて、そのどんな片隅に触れても純粋な生命力として吹き出して来るのである(ハンス・ベッシュ「バッハと終末論」1950年より)。

ルターの説いた十字架の神学をその神学的思考の核心に据えたバッハ音楽。

かくしていぜん大きな未開拓の世界を内蔵したマタイ受難曲は、その後の歴史的主義的復古演奏の試行錯誤を経て、たぶんその基盤の再発掘を含めて、また作品全体の新たな統一的構造の把握に(例えば礒山雅氏はこれを「慈愛の構造」として把えようとする(『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』173項以下)到達するように、現代の私たちに呼びかけ、さし招いているのである。

そして巨匠フルトヴェングラーは、その生涯の最後に、この人独自の全体的統一性の把握に基づくマタイ受難曲のライヴ録音(1954年4月14/17日。同年11月30日に68歳で逝去)を後世へのよき励ましとして、また時には反面教師の意味でも何よりも貴重な精神的教訓として残していってくれたのである。

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2022年03月05日


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フルトヴェングラーの戦時中の行動は、抵抗する「国内亡命」といえるか、それとも政治的無知として断罪されるべきかは、高度な政治問題である。

この点について、リースの本の中でフルトヴェングラーが戦争勃発寸前の1937年の夏、ザルツブルグ音楽祭でトスカニーニとであったくだりにお互いの思想をぶつけあった記述がある。

リースによれば、この時二人が対面して交わした話には、幾通りかの記述があるのだが、その中で筆者に最も真実らしく考えられる一節が次に述べる通りである。

「フルトヴェングラーが数回の客演演奏会のためにザルツブルグにやって来た時、彼は同僚たちから暖かく迎えられた。ただトスカニーニのみは、彼がナチ政府の代表者であることに我慢ができず会うことを避けた。この二人が、よぎない事情で顔を合わせることになった時、フルトヴェングラーがトスカニーニに、彼の『ニュルンベルクの名歌手』の素晴らしい演奏を心からほめたたえた。」

「これに対し、トスカニーニはまったく冷たい返答をかえした。『御挨拶をそっくりおかえし申したいところです。私は、自由な考えをもつすべての人間を迫害する恐ろしいシステムに甘んじられるような者が、ベートーヴェンをまっとうに演奏できるものではないとつねづね考えています。あなた方ナチスの人びとは、精神の自由な表明を全部おさえつけ、許したものといえば、力のゆがめられたリズムと、これ見よがしのお芝居だったではありませんか。「第9」は同胞愛のシンフォニーであることを考えてください。「百万の友よ、相抱いて」の言葉を書きおろしたのも、この言葉を音楽にしたのもドイツ人であったことを忘れないで下さい。この人類に向かっての力強い呼びかけを本当に指揮した人なら、どうしてナチスであることに甘んじておられましょうか。今日の情勢下で、奴隷化された国と自由な国の両方で同時にタクトをとることは芸術家にとり許されません。』と言ったというのである。

これに対しフルトヴェングラーは『もしそうすることによってあなたがザルツブルグ音楽祭のための活動を続けて下さるなら、私は喜んでもう二度とここへ来ないつもりです。しかし私自身は、音楽家にとっては自由な国も奴隷化された国もないと考えています。ヴァーグナーやベートーヴェンが演奏される場所では、人間はいたるところで自由です。もしそうでないとしても、これらの音楽を聴くことによって自由な人間になれるでしょう。音楽はゲシュタポも何ら手出しできない広野へと人間を連れ出してくれるのですから。偉大な音楽は、ナチの無思慮と非情とに対し、真向から対立するものですから、むしろ私はそれによってヒトラーの敵になるのではないでしょうか。』

トスカニーニは頭をふって、『第三帝国で指揮するものはすべてナチです!』」

リースはこれに続けて、自分の見解をこう付け加えている。

「大切なのは、ここでは主観的見解の違いだけが問題なのであって、どちらが実際に正しかったかは別問題だということは忘れないことだ。実際において正しかったのは、もちろん、トスカニーニであった。そしてそののち数年間にわたり、彼の正しさを証明することとなった。なぜなら、独裁政治の内部には現実を超越した自由などありえないのだから。しかし、より高い意味で、いや最高の意味でどちらが正しかったかということについて、果たして疑問の余地があっただろうか?フルトヴェングラーは、実際に自由でいることのできなかった独裁の中にあってさえ、自己の自由を感じることができたのである。なぜなら、彼の真実の世界、内面の世界には、ヒトラーもいなければ、ムッソリーニもいなかったのだから。」

このようにリースの言葉をたどってみて、まず、どうやらリースは最初に述べたことを後段になって忘れてしまっているようである。

さらに筆者が思い起こすのは、前述したドイツ的内面性の神話である。

それは「精神」「内面性」といったフラーゼをつらねながら一個の自足した文化空間をつくり上げる一方で、近代文明やそれに帰属する実証的、実践的運営のための統治技術といったものを程度の低いものとして斥け、自らの世界の「崇高さ」を誇る、というドイツ的内面性の神話である。

ドイツ人は文明と文化を厳格に区別することをはじめた人種である。

文明、すなわち経済も政治も便益の手段にすぎず、リースが「真実の世界、内面の世界」とつづけて書いているように、真実の世界は内面の世界であり、内面の世界は真実の世界なのである。

それはまた、さらに芸術が実現しようとしている自由の世界でもある。それゆえ、ドイツ人にとっては政治、つまり便益の世界で自分たちの意にそぐわないことが起こっていても、それが自らの精神、文化の世界に侵入し、冒してきさえしなければ、それを見逃すか、政治的不可避の悪として許容される。

だから世界に誇る頭脳と教養の士、知識人と芸術家のいたドイツで短期間に、しかもきわめて低級で野蛮な手段でナチスが政権を奪取できたのである。

フルトヴェングラーもドイツ人の例にもれず、政治がどれほどデモーニッシュな権力を持ちうるかということに対して全く気がつかなかったのである。

これに対し、イタリアのルネサンスとヒューマニズムの伝統のもとに育ったトスカニーニは、それをいちはやく見通した。それだけでなく、全力をつくして抵抗し、自らの行動がファッショのもとでは許されないとなると即座にアメリカに出て行った。

フルトヴェングラーの二重で、他者からみると理解に苦しむ曖昧な態度は、連合国すなわち、イギリス、フランス、オランダなどでなら、許される余地があったのかもしれない。

だが現実的にはナチス・ドイツには、トスカニーニがフルトヴェングラーに言った通り、精神の自由などあるはずもなく、権力の奴隷にされた国民の塊しかなかった。

フルトヴェングラーは世界の多くの人々がナチに奴隷化された国で指揮棒をとるものは許されないと考えていて、友人の多くでさえ、なぜ彼がドイツに留まるのかを理解できないでいることを承知していた。

「『個人的利益のためだと真向から非難する人々も少なくなかった。もちろん、それが事実無根であることは、私自身が誰よりもよく知っていた。しかし、私がドイツにあくまでも踏みとどまらなければならぬということは、あらゆる理由をこえ、あらゆる有罪無罪の問題をこえて、揺るがぬ私の信条であった。かつては、キリスト教がわれわれの共通の故郷であった。だが、この信仰の問題が背後に退いた後、あとに残るのは国家だけである。なぜといって、音楽家にとっては、やはり一つの故郷は必要なのだ。たとえヒトラーに共感するところがどんなに少なかろうと、私は、ドイツと最後まで運命を共にしようと思ったのだ。世界における、または世界に対しての私の立場などは、決して、そして最も決定的な問題ではなかった。』

したがって、フルトヴェングラーは『音楽家にとって故郷は必要であり、亡命などは逃避にすぎない。』と考え、行動した。」とリースは記述している。

「芸術と政治とは何の関係もないと、人びとは口癖のように言う。何と間違った考えだろう。芸術も政治も、真空では存在できないということがわかっていないのです。双方とも働きかける人間が必要です。公衆が必要です。音楽は何よりも共有体験でなければならない。公衆のない音楽とは、存在不能でしょう。音楽は、聴衆と芸術家との間にある流動体です。音楽は、構築物でも、抽象的発展でもなく、生きた人間の間に浮動する要素です。そしてこの運動により意味をもつのです。」

とフルトヴェングラーはリースに語っている。

この彼の言葉と、彼のトスカニーニに対する返事とが矛盾するのかしないのか、トスカニーニは矛盾していると考え、フルトヴェングラーは矛盾しないと考えていた。

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2022年03月04日


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我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる音楽評論家は数少なかった。

本著には、1954年のパリ・オペラ座でのフルトヴェングラー指揮の演奏を聴いた感動を語る「荘厳な熱狂」、ベートーヴェン「エロイカ」のフルトヴェングラー指揮の演奏を徹底分析したその名も「フルトヴェングラーの『エロイカ』」、ナチス・ドイツに残ったフルトヴェングラーの芸術観(たとえドイツがナチスに牛耳られていようと故郷、祖国に踏みとどまり、民衆を見捨てなかった)を考察する「フルトヴェングラーのケース」、トスカニーニとの1937年、ザルツブルク音楽祭での対面と短い会話が紹介されていて興味深い。

吉田氏はフルトヴェングラー生前中から既に彼の指揮が時代遅れのスタイルであることを指摘していた批評家が少なからずいたことを書いているが、筆者自身そう感じたことがあった。

それは26歳のフィッシャー=ディースカウが抜擢された1951年ザルツブルクでのマーラーの『さすらう若人の歌』のライヴ録音を初めて聴いた時で、ウィーン・フィルから官能と陶酔、そして破滅の予感さえも描き出した演奏が世紀末のウィーンの空気感をイメージさせて素晴らしかったが、それが一種の懐古趣味に思えたからだ。

だが吉田氏が力説しているフルトヴェングラーの優れたところは、彼が生きた時代の音楽的趣味や傾向を演奏に反映させていることを認めながら、なおかつより普遍的な楽理的要素を深く読み取って精神的に昇華させ、聴き手に感知させる術を知っていた稀な指揮者だったと回想している。

例を挙げれば作曲家が曲想を変化させる時、それが前後に何の脈絡もなく起こるのではなく、変化に至る必然性を曲の中で刻々と予告しているのだと主張する。

実際ベートーヴェンを始めとするドイツ系の作曲家の作品ではそうした変化の兆しが周到に用意されている場合が多い。

こうした手法によってたとえテンポをかなり自由に動かしていても、聴衆にはその有機的な繋がりが効果的に聴き取れることになる。

これについてはベートーヴェンの交響曲第3番及びブラームス同第4番におけるアナリーゼに詳しい。

ここ数十年のクラシック演奏の傾向として、先ず楽譜に忠実であることが求められる。

しかし楽譜は音楽を伝えるための媒体に過ぎないので、こう書いてあるからそのように演奏するというのは如何にも短絡的な発想であり、聴き手を説得することはできないだろう。

むしろ演奏家は音符に表すことができなかった作曲家のメッセージがどこに、どのようにして存在するかを解明し、それを実際に音にして伝達しなければならない。

その意味でフルトヴェングラーは多くの人が誤解しているように、恣意的な解釈、あるいは即興で人々を熱狂させたカリスマ的指揮者とは一線を画している。

逆説的だが彼の手法は現代の指揮者が目指すべき方向にも相通じる課題の示唆的な解決策を含んではいないだろうか。

最後の章は政治学者、丸山眞男氏との対談で、クルト・リース著『フルトヴェングラー、音楽と政治』をベースにフルトヴェングラーとトスカニーニを対峙させて、両者を育んだ異なったふたつの文化や思想基盤を根拠に彼らの言動の究明を試みている。

フルトヴェングラーが政治に関して意外に無知だったこと、政治が芸術に及ぼす影響力を見くびっていたことなども考察されているが、彼は芸術が政治によって関与されるべきものでないという信念を貫いていたことは確かだろう。

ここではトスカニーニによるニューヨーク招聘を断わって、ナチス政権真っ只中のドイツに留まった理由を、彼の芸術の真の理解者は先ずドイツ人達である筈だと信じていたことなどが論じられていて興味深い。

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2022年03月01日


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フルトヴェングラーの一生は俗世界から超越した、音楽だけの生活であったが、舞台人である以上、俗世間との交渉は不可避のものであった。

不器用で処世術に疎く、謙虚で控え目な性格を持つ彼は、議論好きではあったが、世間のことには無知だった。

ソプラノ歌手のマリア・シュターダーは、フルトヴェングラーを「世事に疎い愚人」と呼んでいるが、そんな愚人がナチスと渡り合ったのだから、そもそも結果は見えている。

彼は政治などというものを頭から馬鹿にしていたが、実はそれがどれほどデモーニッシュな権力を持ち得るか、ということに対しては全く気がつかなかったのである。

このフルトヴェングラーの第二次世界大戦中の行動は、抵抗する「国内亡命」といえるか、それとも政治的無知として断罪されるべきかは高度な政治問題である。

そしていま、我々が改めて認識されなければならないのは、こうしたフルトヴェングラーのナチスへの加担が、本人の意識如何にかかわらず、彼の保持し続けようとしたドイツ教養市民文化の反啓蒙的な精神伝統に、そしてその核をなしている「内面性の神話」に由来しているということである。

1945年5月7日、ナチス・ドイツは崩壊し、46年、フルトヴェングラーはナチスに協力した罪で国民裁判の法廷に立たされた。

純粋な芸術家である彼にとって、この間の精神的苦痛はいかばかりであったろう。

初め周囲の証言は彼に不利であったが、次第にその正しさが立証され、彼を尊敬するメニューインなどの力もあって無罪が宣せられたのである。

ここに残念なことが一つある。

それは戦後初めてシカゴ交響楽団が彼をアメリカに招こうと試みた時、トスカニーニを始めとして、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ブライロフスキー、ハイフェッツ、ミルシテイン、ピアティゴルスキーなどの大音楽家がこぞって反対したことである。

すでに裁判でナチスに反対こそすれ、協力した罪はないということになっていたフルトヴェングラーに対するこの仕打ちは、芸術家としてはなはだ心の狭いことと言わねばならない。

彼らの潔癖さもわからぬではない。

しかしナチスとフルトヴェングラーの音楽に何の関係があるというのだろう。

それではフルトヴェングラーの言う通り「ドイツが共産主義になれば自分も共産主義となり、デモクラシーの下では民主主義者となってしまうのか」ということになる。

フルトヴェングラーへのアメリカの招請に対して、一言も反対しなかったたった一人の愛の音楽家ブルーノ・ワルターと、積極的に彼を迎えるべく努力した正義派のメニューインに、トスカニーニやホロヴィッツを始めとする反対者たちには見られない温かい人間味を発見するのである。

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2022年01月27日


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巨匠の戦後初のオペラ公演は、1947年、楽壇にカムバックを果たし、意欲満々の巨匠がドイツのオケを振っての《トリスタン》だった。

残念ながら第1幕は原盤が欠落 (録音機材が不調で収録できなかったとの説もあり)、第2幕、第3幕も一部はカットされているが(計3か所、24分間ほど)、それぞれ66分、68分の収録時間。

有名な「愛の二重唱」から「愛の死」の終結シーンにいたるまで音楽の主要部は収録されている。

音質は録音年を考えればきわめて良好!

トリスタン、イゾルデ、マルケ王の主要三役をドイツ人で固めた歌唱陣の充実ぶりもさることながら、何よりも特筆すべきはフルトヴェングラーの指揮!

後年フィルハーモニア管弦楽団を振っての有名なEMI全曲録音をも凌ぐ、オーケストラ・コントロールの完成度の高さ!

緊迫感に満ち、すさまじいまでの官能と情念の世界が繰り広げられている。

1984年、世界初出LPとなった伊チェトラ盤は、ミラノ、ディスコス社制作のこの音源をキングレコードは同年に国内発売した。

CDは91年にチェトラ輸入盤を国内仕様で発売したが、マスターテープはキングレコードの倉庫に眠ったままだった。

今回、このアナログテープから初のCD化、日本語解説書 (岡俊雄、浅里公三、両氏のライナーノーツ)付、歌詞対訳はホームページ(キングレコードWebサイト)に掲載 (カット箇所も明示)している。

さらにボーナストラックとして、同日の上演前のリハーサル風景の音源を収録されており、同一音盤に集められるのは世界で初めてとなる。

後年のセッション全曲録音(1952年)はオケがドイツの団体でないことを考えれば、この記録の価値は増大する。

事実、そのオケ(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)が素晴らしい。

繊細で雄弁なニュアンス、劇的な緊迫、重量感、後年以上であろう。

この演奏には少なからぬ感銘を与えられた。

その最大の理由は、フルトヴェングラーの指揮がとくに素晴らしいというほかはないオーケストラ・コントロールである。

多分、ピットにマイクを立ててあると思われるほど、1947年録音としてはオーケストラの細部がよくとらえられており、そのオーケストラが歌手の表現を見事にカヴァーしているのである。

ワーグナーの楽劇において、オーケストラの重要さを説いたフルトヴェングラーの見解はいろいろな文献に見られる。

その代表的な例はカルラ・ヘッカーの《フルトヴェングラーとの対話》のオペラの章などである。

ドイツの楽壇に復活したフルトヴェングラーの精神的な昂揚が、オーケストラの細部の息づかいにまで、一瞬の緩むところもなく張りつめており、筆者の耳には歌い手以上にオーケストラが本当の主役であるかのようにきこえた。

きいているうちに、歌手への不満はほとんど気にならなくなってしまったほどである。

第2幕では、トリスタンとイゾルデは夜の闇にまぎれて逢い引きする。

きわめて遅いテンポで奏される抒情的な部分は、単に陶酔的、耽美的なだけではなくて、どうしようもない悲哀を湛えている。

むしろ、悲しみのほうが愛の悦びに勝るほどだ。

こんなに悲しい《トリスタン》は他にはないだろう。

そして、悲しければ悲しいほど、ふたりの人間が声を合わせて歌うという行為が至上の幸福と見えてくる。

もはや《トリスタン》は巷間言われるようなエロティックな禁断の愛の物語ではなく、運命の物語になっている。

筆者が好きだった《トリスタン》の録音(カール・ベーム&バイロイト祝祭管弦楽団かクライバー&シュターツカペレ・ドレスデン)など他の名盤ではこれがわからなかったのだ。

両者とも、速めのテンポで非常に劇的に、生々しく、このドラマを表現していた。

以前の筆者にとっては、これらの演奏が持つ直接的な熱狂や切迫感がリアルに思われた。

人と人が出会ってしまうことの悲しみや恐ろしさをわかっていなかったのだ。

そうやってどうしようもない悲哀にたっぷりと浸されたあとで、音楽の表情が変わり、「それなら、死のうか。別れることなく永遠にひとつでいるために」という台詞が覚悟もて歌い出される。

その部分の衝撃、オーケストラのぞっとするような不気味さ、そしてその不気味さがじわじわと恍惚へと移り変わっていくさまの誘惑と危険、幸福と不幸、高貴と破廉恥。

筆者は今回、ここをききながら、大げさでなく身震いするような思いを味わった。

もしかして、ここでトリスタンとイゾルデが上りつめていくエクスタシーは性愛的なものであると同時に、運命を自ら受け入れてしまったことの歓喜ではあるまいか。

第3幕最後、「イゾルデの愛の死」がまた格別である。

侍女が「イゾルデさま、私たちが言っていることが聞こえていますか?」と尋ねる。

それを伴奏するオーケストラは、イゾルデがもはやこの世の人間ではないことを示している。

形容しがたい弱音から、「愛の死」の浄化された音楽が始まる。

フルトヴェングラーのゆっくりめの速度を心から美しいと思う。

音楽が人を興奮させるのではなく、いっしょに呼吸するような時間を貴重だと思う。

オーケストラの音がしっとりとしており、まさに身体にしみこむような妖しい感触なのだ。

以前はそれほど好きな演奏ではなかったが、時の流れのためなのかどうか、今やこの演奏は魅力的という言葉では足りないくらい、異様な力強さで訴えかけてくるようになっているのである。

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2021年12月27日


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歴史的名演というものの最たるものがこのフルトヴェングラーの「第9」であるだけに、これまでにも高音質化の試みが何度もなされてきた。

今回はまさに1951年7月29日、スウェーデン放送によって中継放送された番組、冒頭の4か国語 (ドイツ語、フランス語、英語、スウェーデン語の順) によるアナウンスから巨匠の入場、渾身の指揮、やや長めのインターバルをはさみ、最後の2分半以上に及ぶ大歓声と嵐のような拍手 (と番組終了のアナウンス) まで、85分間、一切のカットなしに当夜のすべての音をSACDハイブリッド盤に収録されている。

改めて述べるまでもないと思うが、第2次大戦後、ヒットラーとの関係などもあり閉鎖されていたバイロイト音楽祭が1951年に再開されたとき、その開幕記念を飾る演奏として計画されたのが、このフルトヴェングラーの「第9」コンサートであった。

ドイツ人なら誰しもが喜んだであろう再開であったが、それは虐殺されたユダヤ人の悲劇がまだ生々しかった時代のことであり、現代とは自ずと取り巻く環境は異なっていたはずである。

フルトヴェングラーも一時期は演奏活動を禁じられたほど第2次大戦の悲劇は音楽家たちにも影を落とした。

このバイロイト音楽祭もクナッパーツブッシュやカラヤンのようなバイロイト初登場の指揮者たちが顔を揃えているから、再開といえども祝典気分一色というのではなかったはずである。

むしろ新たな陣容でドイツの音楽史が歩み出すことを内外にアピールする切実な責務、使命感がその底にあったものと思われる。

フルトヴェングラーの双肩にそうした期待感と重圧がのしかかってきたわけだが、ここでフルトヴェングラーが聴かせた音楽はまさに壮絶そのものであった。

それは「第9」という作品の桁外れの素晴らしさを余すところなく明らかにすると同時に、演奏という再現行為が達成し得る、さらに深遠で、神秘的な奥深さへと聴き手を誘う記念碑的偉業となったのである。

演奏という行ないはいつしか信仰告白とでも言うべき高みへと浄化され、作品は作品としての姿を超えて彼方からの声と一体化する、そんな陶酔的感動の瞬間を作り出してしまっている。

以来、この歴史的ライヴ録音は演奏芸術の鑑として聳え立ち、もちろんその後、誰もこれを凌駕する演奏など作り出していない。

超えられる演奏などではなく、目標として仰ぎ見ることだけが許された名演と言ってもよいのかもしれない。

アメリカ生まれのスウェーデン人の名指揮者ヘルベルト・ブロムシュテット(1927年生まれ)は偶然にもこの演奏を聴くことができた音楽家だが、その日受けた感動をあまりしゃべりたがらない。

同じ指揮者として自分が日々やってることが、このフルトヴェングラーの演奏と対照されるとき、一体どれほどの意味と価値を持つものなのか悩み抜くからで、ことに「第9」の指揮は今なお怖いという。

聴衆の中に一人でもあの日の聴衆がいると思うと怖くてステージに上がれなくなる、いやこの歴史的名演をCDや放送で聴いて感動した人がいると思っただけでも、もう緊張してしまうのだそうである。

世界的巨匠と崇められるベテランの名指揮者を今なお呪縛してしまう、それほどの名演である。

歴史に残る演奏に出会える機会はそうあるものではないが、稀に見る奇跡を記録した演奏がこの「第9」である。

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2021年11月03日


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ワーナーによるフルトヴェングラーの歴史的遺産のSACD化は、交響曲及び管弦楽曲を皮切りとして、協奏曲や声楽曲など多岐に渡るジャンルについて行われてきたが、ついにオペラが登場した。

ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」と既にご紹介した楽劇「ワルキューレ」、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」の3点という豪華ラインナップとなっている。

いずれも名演であると思うが、その中でもベストの名演は楽劇「トリスタンとイゾルデ」と言えるのではないだろうか。

フルトヴェングラーが生前スタジオ録音した正規レコードのうちでは、この「トリスタン」が最もすばらしい。

それどころか本演奏は、フルトヴェングラーによるあらゆるオペラ録音の中でもダントツの名演であるとともに、様々な指揮者による同曲の名演の中でも、ベーム&バイロイト祝祭管による名演(1966年)、クライバー&ドレスデン国立管による名演(1980〜1982年)と並んでトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

レコーディング嫌いで有名であったフルトヴェングラーが、このような4時間近くも要する長大な作品をスタジオ録音したというのも奇跡的な所業と言えるところであり、フルトヴェングラーがいかにこの演奏に熱意を持って取り組んだのかを伺い知ることが可能であると言えるところだ。

本演奏でのフルトヴェングラーは荘重にして悠揚迫らぬインテンポで曲想を進めていくが、ワーグナーが作曲した官能的な旋律の数々をロマンティシズム溢れる濃厚さで描き出しているのが素晴らしい。

各登場人物の深層心理に鋭く切り込んでいくような彫りの深さも健在であり、スケールも雄渾も極み。

とりわけ終結部の「愛と死」における至純の美しさは、神々しいばかりの崇高さを湛えているとさえ言える。

官能と陶酔がいつの間にか崇高な法悦と浄化にまで昇華していく、彼のワーグナー演奏の秘法が、ここに余すところなく示されているのである。

こうした濃厚で彫りの深いフルトヴェングラーの指揮に対して、イゾルデ役のフラグスタートの歌唱も官能美の極みとも言うべき熱唱を披露しており、いささかも引けを取っていない。

トリスタン役のズートハウスは実力以上のものを発揮していると言えるし、クルヴェナール役のフィッシャー=ディースカウも、後年のいささか巧さが鼻につくのとは別人のような名唱を披露している。

フィルハーモニア管弦楽団もフルトヴェングラーの統率の下、ドイツ風の重厚な演奏を展開しているのが素晴らしい。

録音は、フルトヴェングラー自身がレコーディングに大変に満足していただけのこともあって、従来盤でもかなり満足し得る音質を誇っていたが、ユニバーサルによるSACD化によって見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

細部のニュアンスや全体のデュナーミクの躍動を格段に鮮明に聴くことができる。

例えば、第2幕冒頭の弦楽器の繊細な合奏やホルンによる狩りの響き、そして歌手陣の息遣いまでが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的ですらあり、このような歴史的な超名演を、現在望み得る最高の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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いかにもフルトヴェングラーならではの彫りの深い素晴らしい名演だ。

本演奏はスタジオ録音であり、セリフのみの箇所を大幅にカットしていることもあって、ライヴ録音における極めて燃焼度の高いドラマティックな演奏を成し遂げる常々のフルトヴェングラーとはいささか異なった演奏と言えるが、悠揚迫らぬインテンポによって濃密に曲想を進めていくなど深沈とした奥深さを湛えているのが素晴らしい。

なお、フルトヴェングラーには、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」については、本演奏のほかにも1950年のザルツブルク音楽祭でのライヴ録音盤(数年前にオーパスが見事な復刻を行った)があり、それは本演奏とは異なって極めてドラマティックな演奏であるとともに、歌手陣がきわめて豪華であることからそちらの方を上位に置く聴き手も多いとは思うが、本演奏にも優れた箇所も多く存在するところであり、容易には優劣はつけられないのではないだろうか。

また、本演奏においては各登場人物の深層心理に鋭く切り込んでいく彫りの深さが際立っており、とりわけ第2幕冒頭の序奏などにおいては、1950年盤以上に奥行きのある表現を展開しているなど、その筆舌には尽くし難いような深沈たる荘重さは、フルトヴェングラーとしても最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのではないだろうか。

また、フルトヴェングラーは、1950年盤と同様に、レオノーレ序曲第3番を、マーラーが慣習づけた流儀にしたがって終結部(第2幕第2場)の直前に配置しているが、これが冒頭の序曲ともども凄い演奏だ。

両曲ともに冒頭からしていわゆるフルトヴェングラー節全開。

あたかも交響曲に接するのと同様のアプローチで、劇的でなおかつ重厚な演奏を繰り広げており、スケールは雄渾の極み。

とりわけレオノーレ序曲第3番においては、終結部のトゥッティに向けて畳み掛けていくような緊迫感と力強さは圧巻の迫力を誇っている。

このように、序曲及びレオノーレ序曲第3番だけでも腹がいっぱいになるほどの密度の濃い演奏を成し遂げていると言えるだろう。

歌手陣はさすがに1950年盤の豪華さには劣っているが、それでもマルタ・メードルやヴォルフガング・ヴィントガッセン、オットー・エーデルマンなどの一流歌手陣が最高の歌唱を繰り広げている。

フルトヴェングラーの統率の下、最高のパフォーマンスを示したウィーン・フィルやウィーン国立歌劇場合唱団にも大きな拍手を送りたい。

録音は1953年のスタジオ録音であり、従来盤でもフルトヴェングラーのCDとしては比較的満足できる音質であったが、ユニバーサルによるSACD化によって見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

歌手陣の息遣いまでが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的ですらあり、このような歴史的な超名演を、現在望み得る最高の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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LP時代から筆者にとってこの演奏は一つの座右の盤でもあった。

スタジオ録音ということもあり、ライヴでのフルトヴェングラーのあの凄まじい熱気は不足しているものの、最晩年の彼の悠揚迫らざる境地は伝わってくる。

指揮は個性的でいながらどこまでも普遍的、オペラティックでありながらシンフォニックである。

緊張は和らげられて、大きな瞑想が全体を覆うように包み込んで、明澄さと円熟の境地は、以前のようにドラマを激しく転回させるのではなく、ドラマを音楽の流れに完全に委ね切る方向に作用している。

全体に流れるようなそのテンポは、演技を伴わない分、凝縮へと向かうが、これが無駄を排除した簡素さの実現に寄与している。

フルトヴェングラーは、彼独特の重量感にあふれた情感で、音楽をいわば「再構成」するようないつもの方法を明らかに避けている。

必要以上に情緒を強調したり、モティーフに誇張の色づけを与えたりしていない。

逆に、率直すぎるほど率直に、雄渾なタッチで、ワーグナーの音楽自体を十二分に鳴り響かせている。

歌手陣は、彼のかかる誘導に支えられ、力強い歌いぶりをみせる。

フルトヴェングラーの棒には、オケを含めた奏者すべてに対し「どこからでも来い」と言わんばかりの稀有の懐の深さがある。

フランツのヴォータンの品格、ズートハウスのヘルデンテノール、リザネックのドラマディシズム、フリックの格調、全てがズッシリとした重みとともに今も筆者を襲う。

フルトヴェングラーのワーグナーを聴いていつも感じるのだが、歌われる言葉を大切にして、聴衆に聴こえるように、オーケストラの響きとのバランスを意識しているので、ワーグナー特有の長い語りも、室内楽でも聴いているように、いかなる音楽的退屈さとも無縁なのである。

これこそ、他のすぐれたワーグナー指揮者の演奏では、絶対に体験できないことである。

このフルトヴェングラーの最後の演奏を聴いていると、芸術家とは、あるべきヴィジョンに向かってつねに、そして最後まで進化して仕事をする存在なのだとつくづく合点してしまう。

そんな芸術家に対して、過去のある時点と比較することにどんな意味があるというのだろう。

《ワルキューレ》の最初の一音が鳴り始めたときから、フルトヴェングラーの心の底には、近づく死への予感から、「ヴォータンの惜別の歌」が、ずっと鳴り響いていたのではなかろうか。

録音は、従来盤でも1954年のスタジオ録音ということもあって、フルトヴェングラーのCDとしては比較的満足できる音質を誇ってはいたが、今般のユニバーサルによるSACD化によって見違えるような素晴らしい高音質に生まれ変わった。

とりわけ、歌手陣の息遣いまでが鮮明に再現されるのは驚異的ですらあり、フルトヴェングラーの遺言とも言うべき至高の超名演を、現在望み得る最高の音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2021年10月11日


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フルトヴェングラーによるワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の録音としては、本演奏(1953年のいわゆるローマ盤)と1950年に録音されたミラノ・スカラ座歌劇場管弦楽団ほかとの演奏(いわゆるミラノ盤)の2点が掲げられる。

このうち、ミラノ盤については、演奏としては極めてドラマティックで壮絶な名演であり、フラグスタートがブリュンヒルデ役をつとめるなど歌手陣は豪華でもあり、先般のキングインターナショナルによるSACD化によって音質が改善された。

これに対して、本ローマ盤は、オリジナルマスターテープがミラノ盤よりも比較的良好であるとともに、歌手陣も錚々たる顔ぶれが揃っていること、そしてオーケストラが、フルトヴェングラーの下で何度も演奏を行っていたイタリア放送交響楽団(RAIローマ交響楽団)であることなど、ミラノ盤と比較するとよりよい条件が揃っている。

従って遺された2つの録音を総体として評価すれば、本ローマ盤をフルトヴェングラーによる楽劇「ニーベルングの指環」の代表盤とするのにいささかも躊躇するものではない。

本ローマ盤は、これまで様々なレーベルによってリマスタリングやLPからの板おこしなどが繰り返し行われてきたが、ミラノ盤よりは良好な音質とは言え、必ずしも満足できる音質とは言い難いものであった。

しかしながら、今から約10年前、遂にEMIがSACD化に踏み切ったのは歴史的な快挙であり、これまでの高音質化の取り組みの究極の到達点とも言えた。

ところがレーベルがワーナーになり、製造工程が改善されたためか、更に素晴らしい音質に蘇ったと言える。

もちろん最新録音のようにはいっていないが、各歌手陣の歌唱も比較的鮮明に聴き取ることができるようになったと言えるし、それ以上に、これまでは団子のような音塊に成り下がっていたオーケストラ演奏が見違えるようなクリアな音質に生まれ変わったことにより、フルトヴェングラーの至芸を大いに満喫することが可能になった意義は極めて大きいと言わざるを得ない。

それにしても、フルトヴェングラーによる楽劇「ニーベルングの指環」の全曲演奏を、このような良好な音質で聴ける日が訪れるとはいまだかつて夢想だにもしなかったところであり、筆者としても長年の渇きを癒すものとして深い感慨を覚えたところだ。

演奏内容は、言わずと知れた不朽の超名演だ。

既に他界されたかつて影響力のあった某音楽評論家が、フルトヴェングラーによるワーグナー演奏をスケールが小さいなどと酷評していたようであるが、氏は一体何を聴いてそのような判断を下していたのであろうか。

本演奏の悠揚迫らぬ確かな歩みと同時に、テンポの振幅を効果的に駆使した圧倒的なドラマ性、そして各登場人物の深層心理に鋭く切り込んでいくような彫りの深い深遠な音楽は、ワーグナーの壮麗かつドラマティックな音楽を完璧に音化し尽くしており、神々しささえ感じさせるほどの崇高さを誇っていると言えるところだ。

これに対し、史上最高のワーグナー指揮者と評されてきたクナッパーツブッシュによる3種のバイロイト・ライヴの高音質化の取り組み(1957年盤のSACD化など)もなされてきたが、思うように音質の劇的改善が望めなかったことから、もう間違いなく、フルトヴェングラーのローマSACD盤こそがワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の全曲演奏史上最高の名演の玉座を勝ち取ったと十分に考えられると言っても過言ではあるまい。

歌手陣も、さすがは巨匠フルトヴェングラーがキャスティングしただけあって豪華の極みであり、ジークフリート役のルートヴィヒ・ズートハウス、ブリュンヒルデ役のマルタ・メードル、ローゲ役やジークムント役のヴォルフガング・ヴィントガッセン、そしてミーメ役のユリウス・パツァークなど、フルトヴェングラーの渾身の指揮とともに、これ以上は求め得ないような最高の歌唱を披露しているのが素晴らしい。

イタリア放送交響楽団も、フルトヴェングラーの確かな統率の下、ドイツ風の重厚な名演奏を繰り広げているのを高く評価したい。

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2021年09月29日


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ドイツ・グラモフォンから既出のグラモフォン及びデッカ・レコーディング集はCD34枚にDVDが1枚付いていた。

今回のセットは55枚組で、旧EMI系の音源だけでなくユニヴァーサル系の音源も含まれている。

このために重複している演奏もあるが、例えばブルックナーの交響曲について言えば、前者には第4,5,7-9の5曲が収録されていた。

こちらは第7番の第2楽章のみがベルリン・フィルの演奏で加わっているだけだ。

オペラ全曲録音に関しては、前者は1954年のザルツブルク音楽祭でのウィーン・フィルを振った『ドン・ジョヴァンニ』のDVDだった。

このセットには映像こそないが1952年のフィルハーモニア管弦楽団との『トリスタンとイゾルデ』、1953年のウィーン・フィルとの『フィデリオ』及び54年の『ヴァルキューレ』の3曲が揃っている。

このセットの魅力の一つは幾つかの例外を除いて新規リマスタリングされた音源を使っていて、従来盤より若干音質が向上していることだ。

ライナー・ノーツによればCD1-34,36-54は192kHz/24bit、CD35は96kHz/24bit、最後のインタビュー付きドキュメンタリーは44kHz/16bitと記されている。

またウォリット・カバーはCD6-8、41-43、54,55以外はオリジナル・デザインが印刷されている。

ただしCD31のように2枚だったディスクをリカップリングしたものはひとつのジャケットに両方を掲載している。

録音データや演奏団体は詳細に記録されているので資料としても利用できる。

いずれにしてもグラモフォンのセットと並ぶフルトヴェングラーの決定的なコレクションになるだろう。

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2019年10月14日


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既にライバルのワーナーからベートーヴェンとブラームスの交響曲全集が廉価盤でリリースされていたためか、先を越されたユニヴァーサルも遅れ馳せながらグラモフォン及びデッカ音源をようやく纏めてくれた。

35枚というディスクの数からすればこのセットもバジェット価格だが、コレクション仕様のしっかりした箱物で、ライナー・ノーツも76ページと充実している。

巻頭にはふたつの興味深い書き下ろしエッセイ、ノルマン・レブレヒトの『フルトヴェングラーの失脚と栄達』とロブ・コワンの『あどけないディオニュソス』を英、独文で掲載している。

収録曲目、トラック・リスト及び録音データの他に対訳こそないが、巻末には作曲家別の曲目索引が付いているので、ディスクを検索する時に、何年にどのオーケストラを振ったものかが一目で判別できるようになっているのも親切な配慮だ。

フルトヴェングラーの演奏集は既にLP、CD、SACDなどあらゆるメディアで出尽くしているので目新しい音源は期待していなかった。

全体が4部分に分けられていて、CD1-3は1929年から37年までの早期録音集、CD4-16が1942年から45年までの戦時下の録音、CD17-33が1947年から54年までの戦後の録音集で、残りの2枚はボーナス・ディスクになる。

CD34が1926年のベルリン・フィルとのベートーヴェンの交響曲第 5番と51年のベルリン音楽大学での講演、そして最後のディスクは1954年ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮したモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』全曲のDVDという内訳になっている。

尚戦後の録音は更にピリオド別に初期7枚と後期4枚のラジオ・レコーディング、3枚ずつのドイツ・グラモフォン及びデッカからのリリース盤に別れている。

『ドン・ジョヴァンニ』は比較的良い状態の映像で残されていて、音質も歌手陣の声を良く捉えていて秀逸。

解釈はごくクラシックで平明な勧善懲悪的な演出で統一されていて、現代においては幾らかありきたりかも知れないが、、それを補う実力派キャストの歌唱は当時としてはおそらく最高峰と言って良いだろう。

チェーザレ・シエピのタイトルロールはイタリアのバスの典型でもある、深く凛とした美声を駆使したカンタービレが特徴的だが、また舞台映えのする容姿とおおらかな演技にも説得力がある。

3人の女声、ドラマティックなグリュンマーのドンナ・アンナ、表情豊かなデッラ・カーザのドンナ・エルヴィーラ、軽快なベルガーのツェルリーナもそれぞれ対照的な性格を巧みに描き出している。

男声もコミカルなエーデルマンのレポレッロ、またここでは高貴で真面目な青年に徹するデルモータのドン・オッターヴィオや田舎者マゼットを好演する若き日のヴァルター・ベリーが充実した舞台を創り上げている。

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2019年10月04日


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シュポア以来の伝統を誇るドイツのヴァイオリン界だが、20世紀前半を彩った名手は、アドルフ・ブッシュとゲオルグ・クーレンカンプの2人に尽きると言っても決して過言ではないだろう。

ドイツの演奏家は、ヴァイオリンに詩人の歌を聴くのか、感覚的に熱狂するのとは対照的に、しばし甘美な思索にふけるような演奏を聴かせて聴衆を魅了するが、クーレンカンプの芸術もまさにこうしたドイツ的幻想のヴァイオリンを堪能させてくれるものと言える。

ナチス政権下にあって、ブッシュ、フーベルマンたちは次々と祖国を離れたが、クーレンカンプはヒットラーに気に入られたこともありドイツに留まった。

ヒットラーは「私の愛好するアーリア人の名手」と呼んでクーレンカンプを大事に扱った。

1937年には、シューマンのヴァイオリン協奏曲蘇演をめぐって、メニューイン、ジェリー・ダラーニ、そしてクーレンカンプの間で初演権の争奪戦が繰り広げられるが、もちろんクーレンカンプにファースト・チョイスの権利が与えられたことは言うまでもない。

もっとも、クーレンカンプはナチスの忠実な下僕だったわけではなく、ナチス政権下でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏することも主張したほか、レコーディングまで行っている。

彼は50歳の短い生涯であったが、クーレンカンプについてはエドウィン・フィッシャーが次のように綴った言葉が印象的だ。

「クーレンカンプは、およそ明快でないもの、曖昧なもの、真摯さに欠けるものを嫌った。真実を求めてやまない彼の生き方こそ、人間的にも、芸術的にも、最も素晴らしい」と。

この言葉からうかがわれるように、真摯さと謙虚さこそがクーレンカンプの本質なのであり、彼は作品を修行僧にも似た目でとらえ、1つ1つの音符を最大限の誠実さと磨き抜かれた技術と音色をもって音に変える演奏家と言ってよいであろう。

聴衆を熱狂させる華やかさも、ショウマンシップらしい演出からも遠い演奏家だが、作品をじっくりと見つめ、真実の言葉を捜し出すような、素朴で、力強い面をもつ音楽家なのであり、あくまでも内面的な潤いに溢れた演奏を聴かせてくれる名手であったように思われる。

しかも演奏の背後には、暖かいロマンティシズムの息づかいがあふれており、そのゆったりと水をたたえた流れの豊かさと言葉の優しさが、現代の聴き手すらも充分に感動させる。

ベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーン、チャイコフスキーの協奏曲をはじめ、ソナタなどの録音も数多くが残されており、伝統的な様式感を支えに、実に安定感溢れる巨匠ならではの至芸を聴かせてくれる。

中でもフルトヴェングラーと共演したシベリウスはクーレンカンプを代表する名演の1つで、いやがうえにも1943年という時代背景を感じさせる重さと暗さをたたえた演奏で、深く沈潜していく情感のうねりに圧倒される。

協奏曲であることを忘れて、作品の素晴らしさ、演奏全体が醸し出す気迫におし潰されるかのようだ。

クーレンカンプのシベリウスへの想いは熱く、作曲家に自らの演奏についての指導も仰いでいる。

その高潔な精神性と演奏に漂う潤いは、現代の名手たちにはない奥深さと人間的な暖かさを感じさせるものであり、ヴァイオリン音楽の世界を一段と詩的に感じさせる名手と言ってもよいであろう。

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2019年05月11日


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ドイツの巨匠ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)が聴かせる演奏は深い精神性と哲学的瞑想性とでも形容すべき深遠さを誇っている。

それは聴き手をただ単に音楽的感動に浸らせるだけではなく、長い歴史的脈絡の中でその感動を聴き手一人一人が育てていく旅へと誘う、一種、創造的な営みを促す演奏である。

確かに鳴り響く音とともに私たち聴き手は作品を聴き、演奏という再現芸術が誘う熱気と臨場感に陶酔的興奮を覚えるが、フルトヴェングラーの演奏が与える感動は感覚的なレベルをはるかに超えて魂の奥底へと響きわたる力を持ち、それは尊い人生経験にも似た感動領域へと聴き手を誘うのである。

フルトヴェングラーの指揮は基本的にはロマンティックであるが、ただそのロマンの次元と、美しさ、そして発展の形、姿はとても尋常なレベルではなく、聴き手は予想もしない出来事に直面して戸惑いにも似た経験をすることになる。

だがそれは、抗し難い力で聴き手を魅了し、陶酔させるものであり、曲が終わったときの聴き手は、人間が変わってしまったかのような感慨にすら浸るのである。

演奏で奮い立たせるのがトスカニーニ、思索の人にしてしまうのがフルトヴェングラー、どちらも罪作りなほど素晴らしい。

そんなフルトヴェングラーの名演は数知れないが、シューベルトの最後の交響曲《ザ・グレート》で聴かせてくれる演奏の奥深さは格別である。

シューベルトならではの抒情性もなめらかな歌の世界も、もちろん余すところなく描き出されてはいるが、それ以上に聴き手を魅了するのはフルトヴェングラーというロマンティックな詩人が聴き手を旅の随行者にしてしまう事実であり、聴き始めるともう後には戻れなくなってしまう。

ここに聴く演奏は、1953年8月30日ザルツブルク音楽祭に於けるウィーン・フィルとのライヴ録音である。

そのためか表情の劇的変化、興奮のテンションの激しさは壮絶で、1951年のスタジオ録音よりは1942年のライヴ録音の表現に限りなく近いが、むしろ十数年前よりも過激な部分さえあり、時には不自然な感じを与えるほどである。

しかし、オーケストラの響きの密度の濃さ、カロリーの高さは異常なくらいで、現今ではこんなに夢中になって弾くオーケストラ演奏を聴くことは稀である。

しかも巨匠晩年の心境を反映してか、フルトヴェングラーという詩人が秘め持つ瞑想性が豊かな翼を持った広がりを見せており、落とされる影も一段と長く、また美しい。

ただ問題がないわけではない。

フルトヴェングラーの演奏は吸引力が圧倒的であるだけに、視線が釘付けになったままとなり、聴き手の他への興味・関心を奪い取ってしまうからである。

注意しないと病気になってしまう怖い演奏であるが、名演というのは本来はそれぐらいインパクトの強い、強烈な刺激物なのであろう。

とても毎日なんて聴けない、それほど感銘が持続する歴史的名演である。

この実況盤は名演として評されながら、これまで音質の悪いCDしかなかったが、このデルタ・クラシックスによるLP復刻の音質は素晴らしく、解像度が高いので細部まで良く聴き取れる。

管楽器の美しさ、弦を含めた緻密なアンサンブル、豊かな低音、オリジナルの録音技術もドイツでは相当進んでいた事が想像される。

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2018年11月26日


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『さすらう若人の歌』はマーラーを接点にフルトヴェングラーとフィッシャー=ディースカウを結びつけたザルツブルクの記念碑的名演。

フルトヴェングラーはフィッシャー=ディースカウと2種類のマーラーの『さすらう若人の歌』を遺している。

音質から言えば1952年のフィルハーモニア管弦楽団とのスタジオ録音をお薦めしたいが、マーラー生前時のウィーンを髣髴とさせる特有のデカダンス的な雰囲気とただならぬ緊張感が漂っているという意味ではこのウィーン・フィルとの1951年ザルツブルク・ライヴが圧倒的だ。

スタジオ録音の方が繊細でまとまりはよいが、ライヴでは天をも衝くような烈しい慟哭が主導し、生と死の境をさまよう若者の破れかぶれの心理を鋭く追求している。

内面のこの破綻の風景こそこの歌曲集の核心をなしていることがわかる。

そこにはまたフルトヴェングラーのロマンティックな感性が横溢していて、オーケストラも病的なまでに凝ったマーラーの音楽性と、退廃が最後の雫を滴らせるような表現がおそらくウィーン・フィルにとっても後の時代にはみられない演奏になっている。

そこでは明快な発音に裏打ちされたフィッシャー=ディースカウ20代の絶唱を聴くことができるが、精緻な歌唱の中に挫折する青年の姿が生き生きと映し出されていることに驚かざるを得ない。

彼はその後何度も『さすらう若人の歌』を録音しているが、円熟味や老獪さは増しても、このデモーニッシュさはない。

また世界初出LPのマスターテープ(伊ディスコス制作)から作られ、最新デジタル・リマスタリング、更にメモリーテック社の革命的製盤技術によりUHQCD化されたキング(セブンシーズ)CDの音質は他社盤を凌いでいる。

フルトヴェングラーとフラグスタートのリヒャルト・シュトラウスの『4つの最後の歌』は更に古い1950年の世界初演ライヴになり、フィルハーモニア管弦楽団を振ったものだがスクラッチ・ノイズが煩わしいのが残念だ。

しかし彼女の強靭だが清澄な声に託された晩年のシュトラウスの、失われつつあったウィーンに想いを馳せた、甘美な夢と避けることのできない失望がひしひしと伝わってくる。

前年に亡くなった作曲者とっても、この2人は最適の初演者だったのであって、死と生にまつわるパセティークな情感を、これほどドラマティックに描き出した演奏は他にはない。

この企画はフルトヴェングラーのライヴを復刻することにあるので、名演とは言えないものも収録されていて、最後のボーナス・トラックははっきり言って必要なかったと思われる。

ソロを歌うバリトン、アルフレート・ペルは、こうしてフィッシャー=ディースカウと並べられるとテクニックにおいても、また表現力においても到底及ばない歌唱で、このディスクの価値を下げる結果になっている。

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2018年09月08日


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ワーナーでは昨年フルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲全集のバジェット・ボックスをリリースして、それまで決してリーズナブルとは言えなかったEMI音源の個別売りやセット物がひとつに纏められた。

これはその第2集に当たり、ブラームスの4曲の交響曲及び3曲の協奏曲の他にハイドンの主題による変奏曲、ハンガリー舞曲集と『ドイツ・レクイエム』を6枚のCDに収録している。

ブラームスの音楽は、古典的な特質に重点を置くか、それともロマン的な特質を重視するかで表現がかなり違ったものとなるが、基本的な解釈を充分抑えた上で自在な感興に任せつつ、うねるように感情豊かな音楽を繰り出していくフルトヴェングラーの自在な棒は、ブラームスのロマン的な面に重心を置いたものと言えよう。

聴きどころはSACD用DSDリマスタリングによってどれだけ音質が改善されたかで、廉価盤ということもあってそれほど期待していなかったが、概ね良好なサウンドが再生される。

当然晩年のウィーン・フィルとの共演の方が音質が良く、当時のコンサート・マスター、ボスコフスキーやブラベッツのソロを始め往年の名首席達、レズニチェック、カメシュ、ウラッハなどのアンサンブルに間接的に触れることができるのも幸いだ。

交響曲はフルトヴェングラーの戦後のライヴを集めた全集で、第1番のみウィーン・フィル、あとの3曲は手兵ベルリン・フィル。

第1番のスケール感と劇的起伏に満ちた迫力、第2番での自由な精神の飛翔、第3番における取り憑かれたような感情の激動、第4番の内と外への雄渾な広がり、と音楽の深部にまでのめり込んでの鬼気迫る名演である。

戦中のライヴになるエドヴィン・フィッシャーとのピアノ協奏曲第2番は思ったよりまともな音が保たれている。

ルツェルンとの音源は、メニューインを迎えたヴァイオリン協奏曲が2人のカリスマ性が火花を散らす魅力的な演奏だが、第1楽章の長いカデンツァは今となってはややくどい印象を否めない。

一方保存状態が好ましくないストックホルム・フィルとの『ドイツ・レクイエム』に関しては、お世辞にも良好とは言えないが、これらは別物のマスターでも発見されない限り、これ以上の音質改善は望めないだろう。

むしろ現在となっては、片っ端からSACDや高音質CDに焼き直して価格を吊り上げるより、先ずレギュラー・フォーマットのCDで気軽にフルトヴェングラーの名演に触れることの方が先決だと思う。

勿論フルトヴェングラーのファンであれば立派なコレクションとしての価値を持ったセットだ。

尚それぞれのCDにオリジナル・カバー・デザインが使用され、ライナー・ノーツにはフランスのクラシック・ジャーナリスト、ユーグ・ムソーによる新規の欧文エッセイが掲載されているが、録音データに関してはウォリット裏面にしか印刷されていない。

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2018年07月28日


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戦後フルトヴェングラーが楽壇に復帰した後の1949年から54年にかけてウィーン・フィルとの共演7曲とフィッシャー=ディースカウ、フィルハーモニア管弦楽団によるマーラーの『さすらう若人の歌』及び同フィルハーモニアとのワーグナー『トリスタンとイゾルデ』第3幕への前奏曲の9曲をリマスタリングしたSACD盤で、音質は録音年やライヴ、セッションによってある程度の差があることは事実だが概ね良好だ。

またグルックの『アルチェステ』序曲を始めとして殆んどの曲目に擬似ステレオ音源が使われている。

プラガではリニューアルの時に積極的にEMIの擬似ステレオ音源を採用しているが幸い音場の広がりはそれほど不自然ではなく、あざとくない程度の臨場感のアップにも繋がるので、ひとつの可能性として評価できるだろう。

今回初SACD化されたラヴェルの『スペイン狂詩曲』も擬似ステレオ音源だが、1951年のライヴとしてはかなり鮮明な音質が再生される。

演奏はフルトヴェングラーらしくデカダンス的な雰囲気が横溢していて、これはこれで面白いが古典主義的な傾向を持ったラヴェルの表現としては意見が分かれるところかも知れない。

マーラーの『さすらう若人の歌』に関しては、1951年8月のザルツブルグでのフィッシャー=ディースカウ、フルトヴェングラーの出会いが縁となってつくり出された歴史的名演だ。

マーラー、ディースカウ、フルトヴェングラーの三者が渾然一体となって稀有の一刻をつくり上げている。

戦後のフルトヴェングラーのマーラーはこの曲と『亡き子をしのぶ歌』の2曲のみで、録音は『さすらう若人の歌』のみ3種類残されている。

筆者としては、このセッションの1年前、1951年のウィーン・フィルとのザルツブルク・ライヴを選んで欲しかった。

音質では劣っているがロマン派爛熟期特有の世紀末的な唯美主義や背徳までも感知させる得難い演奏だからだ。

尚このライヴは昨年UHQCD盤で復活している。

こちらのフィルハーモニアとのセッションはより精緻で音質にも恵まれているが、音楽的には前者の方が濃密だ。

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2018年02月03日


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昨年の暮れにプラガ・ディジタルスからリリースされた3種類のフルトヴェングラー・ハイブリッドSACDシリーズの1枚で、ロマン派の作曲家の交響詩や管弦楽用小品を6曲収録している。

オーケストラはブラームスのみがベルリン・フィル、その他はウィーン・フィルとの協演になり、戦後楽壇に復帰したフルトヴェングラー最後のピリオドを飾る演奏集としては比較的小規模の作品を集めているのが特徴だ。

いずれも放送用ライヴ音源らしく客席からの雑音は一切なく、音質自体もこの時代の録音としては期待していた以上のサウンドが再生可能になっている。

初出音源ではないのでこうしたリマスタリング盤で先ず問われるのは音質だが、全体的に鮮明でモノラルながら楽器ごとの分離状態も悪くない。

尚プラガでは電気的に音場を拡げた擬似ステレオ・マスターを積極的に使っているが、鑑賞での違和感はなく曲によっては臨場感を高めることに成功しているので、個人的にはそれなりに意味のある処理だと肯定的に考えている。

いずれの作品にもフルトヴェングラーのオリジナリティーが横溢していて、古典派の音楽では彼の自在なテンポ感覚が批判の対象にもなるが、これらのロマン派の作品では考え抜かれた音楽設計やその傑出したセンスが正当化されているように思う。

1954年の交響詩『前奏曲』におけるフルトヴェングラーは、感情の振幅を可能な限り大きくとりながら、曲想をどこまでもどこまでも追求し続けて行き、そこには妥協めいたものなど、一切入り込むことができない。

彼の姿勢は驚くほど徹底していて、その結果『前奏曲』という作品が途轍もなくスケール雄大に再現されており、それがもつ意味合いといったものも比類なく深い。

他の指揮者の棒で聴く『前奏曲』とは、まるで違った曲のように把握され、再現されている。

まさしくフルトヴェングラーの独壇場と言っていいだろうし、他の指揮者では、とてもこうはいかない。

ウィーン・フィルの持ち味も、ここでは最大限効果を発揮している。

一方、一番古い1949年の『ジークフリートの牧歌』は従来盤と比較して格段と音質が良くなり、実際驚かされる。

フルトヴェングラーというと、極めて劇的で重厚な表現をする指揮者のように思われているが、こうしたほのぼのとした作品を指揮させても、実にうまい。

この巨匠ならではのニュアンスの豊かな、彫りの深い演奏で、ひとつひとつのフレーズの扱いにも、よく神経が行き届いている。

ウィーン・フィル自慢の弦楽のシルキー・トーンや当時の首席ゴットフリート・フォン・フライベルクだと思うが独壇場のウィンナー・ホルンのソロには思わず聴き入ってしまう。

ブラームスのハイドンの主題による変奏曲はベルリン・フィルで、シンフォニックなオーケストレーションを発展させたスケール感の大きさは殆んど交響曲のようだ。

冒頭のテーマがやや暗く全体に粘っこい演奏だが、それでいて全曲を通じてこの曲に特有な世俗的な雰囲気を失っていない。

特に終曲は他のどの録音よりも壮大で、どの音にもフルトヴェングラーの個性があふれている。

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2018年01月26日


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プラガ・ディジタルスからのフルトヴェングラーSACDハイブリッド・シリーズの1枚になるこの序曲集は、これまでにSACD化されたディスクの中では音源の保存状態に恵まれ、リマスタリングも良好で、オーケストラの音響に磨きがかかってある程度の臨場感も確保されている。

1950年代のウィーン・フィルのサウンドが比較的忠実に再現された成功例と言えるだろう。

ただしより古い録音の『ラコッツィ行進曲』と『フィンガルの洞窟』の2曲では総奏部分でテープの収容能力の限界のためか、あるいは経年劣化か定かではないが、音が平面状に潰れるように聞こえる現象も起きている。

また音場の拡がりからすると擬似ステレオ音源が使われている曲も多いが、幸い不自然さは感じられない。

以前のCD化の時に乾涸びたように聞こえた音質が、ここではより潤って高度な鑑賞にも充分堪え得る状態にグレード・アップされたことは評価できる。

フルトヴェングラーの序曲集の鑑賞は劇場感覚で捉える必要があるだろう。

メンデルスゾーンの『フィンガルの洞窟』を除いて他の総てがオペラを中心とする舞台作品のオープニングやその間奏曲としての機能を果たしているので勿論単独で聴いても興味深いが、その作品全体が上演される劇場空間の中で初めて本来の効果を発揮することを考慮しなければならない。

それ故個々に聴いていると、時としていくらかあざといと思われる表現が無きにしも非ずだが、フルトヴェングラーはその時その場にいた人を劇中に巧みに誘導する並外れた手腕を持っていた指揮者でもあるので、これも彼の音楽的ストラテジーと考えられる。

いずれもこの巨匠の芸格の高さがはっきり示された見事な演奏ばかりだが、ウェーバーとグルックの『アルチェステ』序曲の演奏が傑出している。

ことにドイツ的でロマンティックな美しさに溢れた『魔弾の射手』と『オベロン』は、それぞれの曲の持ち味を余すところなく表出した演出のうまさとその格調の高い表現に強く惹かれる。

また巧みな筆致で鮮やかに描き上げた『フィンガルの洞窟』、全曲盤から採った『レオノーレ』第3番もスケール雄大、『ロザムンデ』序曲はやや重苦しいが、いかにもフルトヴェングラーらしい。

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2018年01月05日


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プラガ・ディジタルスから続々とリリースされているフルトヴェングラーのハイブリッドSACDも既に12枚になるが、同ディスクは2枚組でウィーン・フィルとの1944年及びベルリン・フィルとの1949年録音のブルックナーの交響曲第8番をそれぞれ1枚ずつに収録している。

彼の指揮した同曲は4種類の音源が知られていて、ウィーン・フィルを振った1954年4月10日のライヴが最後になるが、このセットの2枚はどちらも放送用録音で、レコーディング状態が安定していて幸い煩わしい客席からの雑音からも解放されている。

フルトヴェングラーの場合はリマスタリングによってどれだけ音質が改善されるかが鑑賞時のひとつのポイントになる。

戦前から戦後にかけての1940年代の録音なので音質に関しては期待していなかったが、比較鑑賞するためにはそれほど苦にならない程度のサウンドが再生されるのは思わぬ収穫だった。

特に後者は擬似ステレオながら、リマスタリング効果もあってかなり鮮明な楽器の音色が甦って、ある程度の奥行きを伴った臨場感にも不足していない。

ただ双方に共通する弱点は総奏部分になると再生しきれない箇所があることだが、それは音源自体に由来するもので改善の余地は期待できないだろう。

両セッション共に1939年のハース版をもとにフルトヴェングラー自身が手を加えたスコアが使用されていて、作品への大きな解釈の変更はない。

演奏時間もトータルでウィーン・フィルが77分04秒、ベルリン・フィルが76分55秒で大差はないが、若干楽章ごとの揺れがあり第3楽章ではウィーン・フィルの方がやや遅く、全体的なトーンも落ち着いている。

フルトヴェングラーのブルックナーは個性的でスケールの大きい表現だが、あまりにもロマン的で、ブルックナーの素朴さよりもフルトヴェングラーの音楽を聴く感が強い。

それでもこの指揮者の芸術的ルーツが、ブルックナーと同じところにあることを理解できる自然体の表現であり、そこに演奏の魅力もあるのである。

ウィーン・フィルとの演奏はフルトヴェングラーが若々しい気迫に満ちた音楽を聴かせ、アゴーギクとデュナーミクを巧みに融合させた効果はまさに名人芸と言わねばなるまい。

ベルリン・フィルの方はよりパワフルで唸りを上げて迫り来る怒涛のような勢いだが、それはむしろヨーロッパの2大オーケストラの創り出すサウンドの違いを熟知していたフルトヴェングラーが、彼らの特質を活かしながら演奏した結果のように思われる。

いずれにしても大戦末期のウィーンで、国威高揚のための放送用音源であったとしても、こうしたレコーディングが平然と行われていたことは驚異に値する。

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2017年06月24日


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先ず収録曲の音質についてだが、音源はいずれも第2次世界大戦中のものであることを考慮すれば時代相応と言うことができる。

録音方法も使用されたマテリアルも最良とは言い難いが、幸いマスター・テープは破綻のない保存状態で残されていたようだ。

SACD化によって音場に奥行きが出て比較的余裕のある音響が再現され弦の高音にも潤いが出ているが、分離状態に関してはそれほど改善はみられない。

クライマックスの全オーケストラが鳴り響く総奏部分では音割れこそないが団子状態になってしまいそれぞれの楽器固有の音が再生し切れていないが、これはこの時代のモノラル録音の宿命だろう。

併録されている交響曲第7番の第2楽章は更に2年遡る1942年の録音だが、皮肉にもこちらの方が良好な音質が保たれている。

ただし収録は第2楽章アダージョのみで、1949年から51年にかけて彼がベルリン・フィルを振った3回の同曲の全曲録音とは別物で、単独で遺された放送用ライヴ音源のようだ。

幸いどちらも聴衆からのノイズは一切混入していない。

フルトヴェングラーの指揮したブルックナーの交響曲第9番では唯一の音源が1944年10月7日のベルリンに於ける当ラジオ・ライヴである。

このブルックナー未完の大作は終楽章を欠いた形で遺されていて、原典主義を重んじたフルトヴェングラーは、作曲家の書いた楽章以外には何も付け足さずに第3楽章迄で演奏を終了している。

それでもこの曲の演奏時間はトータル57分59秒で、完成していれば彼の交響曲の中でも最大の規模を持った作品になっていた筈だ。

それだけにこの曲の解釈は演奏家は勿論、音楽学者や批評家によって様々で、フルトヴェングラーの遺したこの録音は自己主張が強く、極めて劇的で豪快、振幅の大きい音楽である。

特に曲中でしばしば起こる恣意的で性急とも思えるテンポの変化が現代人の私達の耳にはあざとく聞こえて、この作品ではもっと素朴で端正な表現が望ましいと批判の矢面に立たされることが多いようだ。

それが時代遅れの手法であるか否かはこの際問わないことにして、ブルックナーがオーケストレーションの中に描き出したセオリーとエモーションが高い次元で止揚される壮大な音楽的構想は感じ取ることができると思う。

それはスコアから作曲家の楽理だけでなく宗教観や哲学を読み取る術を知っていた大指揮者ならではの解釈に違いなく、それを敢えて否定する気にはなれない。

従って、必ずしも万人向きの演奏ではないかも知れないが、途轍もない大きなエネルギーを秘めたフルトヴェングラーならではのブルックナーである。

大戦が敗色濃厚になっていたこの時期のドイツでベルリン・フィルを率いてブルックナー最後の大曲を録音すること自体異例な催しとしか考えられないが、ナチによる国民への士気高揚のためのプロパガンダのひとつだったのかも知れない。

ブルックナーの死への恐怖がドイツの滅亡の予感と共鳴しあい、この上ない凄絶な音楽を生み出していて、クレッシェンドとともにテンポが大きく揺れ動き、大きな音楽のうねりを作り出す。

しかも、それは外面的な効果とは全く無縁で、ブルックナーの音楽から決して逸脱おらず、この作曲家にはこうした一面もあったのだと改めて教えてくれる。

フルトヴェングラーにしてみれば自身の確固たる音楽的信念からの選曲だったに違いないが、ナチへの協力者というレッテルを貼られて戦後の一時期楽壇から追放されたのはこうした活動に起因しているのだろう。

しかし敗戦2週間後にベルリン・フィルは逸早く戦後最初のコンサートを開くことになる。

今度はソヴィエトのプロパガンダだったのだが、こうした大きな政治的変遷に振り回されながらも彼らはドイツの文化遺産を絶やすことなく継続していくことになるのは象徴的だ。

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2017年04月03日


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プラガ・ディジタルスからのハイブリッドSACDシリーズでは発売延期になっているルツェルン音楽祭でのベートーヴェンの『第9』を含めると既に7枚目のアルバムになるフルトヴェングラー演奏集。

今回は序曲『レオノーレ』第3番、交響曲第7番イ長調及び同第8番ヘ長調の3曲が収録されたオール・ベートーヴェン・プログラムだ。

昨年2016年5月にリリースされると同時に入手困難になったディスクで、一部の好事家だけでなく多くのフルトヴェングラー・ファンが注目していたことが想像される。

先にワーナーからリリースされたEMI音源のベートーヴェン交響曲全集では第2番と第8番が1948年の古いライヴ録音で、正直言ってその演奏の真価を問うにはほど遠い音質だった。

ここでの第8番は版権の異なる1954年の音源をリマスタリングしているが、勿論こちらの方が音質はずっと良く、SACD化はファンにとって朗報に違いない。

全曲とも擬似ステレオ化されているが不自然さはなく、オーケストラは総てウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で、この時代の彼らの醸し出す音色とその奏法が魅力のひとつになっている。

序曲『レオノーレ』第3番はライナー・ノーツには1944年6月2日のウィーン・ライヴと記されていて、彼の数種類ある同曲の録音では最も古いものだ。

音質は例外的に優れていて第2次世界大戦末期のウィーン・フィルにこれだけパワフルな演奏が可能だったことが興味深い。

第7番は1950年6月18日及び19日のスタジオ・レコーディングとの記載で、どちらが正確なデータか判断できかねるが、これは以前から知られていた同年1月のセッション録音と同一音源だ。

ワーナーのレギュラー・フォーマットの全集からの同曲と聴き比べると、ヒス・ノイズはいくらか多いがオーケストラの鳴りが俄然良く、特に弦楽セクションの勢いが全く違う。

終楽章のたたみかけるような追い込みに唸るように呼応するウィーン・フィルのアンサンブルも秀逸だ。

一方第8番はフルトヴェングラーが亡くなる年のザルツブルク音楽祭からのライヴだが、その生命力漲るエキサイティングな演奏に驚かされる。

ベートーヴェンはウィーンの交響曲には欠かせなかったメヌエットを早くから捨て去ってスケルツォを導入したが、この第8番の第3楽章にはこれが最後だと言わんばかりの、過去の習慣にきっぱりと別れを告げるような大上段に構えたメヌエットを書いている。

フルトヴェングラーはこの作曲家の皮肉っぽいユーモアを熟知していて、かつて聴いたことのないような壮大なメヌエットを奏でている。

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2017年04月01日


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フルトヴェングラーが遺したブルックナーの交響曲第4番の音源は複数存在するが、今回プラガによってSACD化されたのが1951年のシュトゥットガルト・ライヴで、録音データについては諸説あり、このディスクのライナー・ノーツには10月20日と書かれている。

モノラル録音ながら音場にかなりの拡がりがあり低音域も豊かだが、SACD化によって奥行きも感知されるようになり、高音部の再現にも無理がない。

放送用ライヴのためか幸い雑音が極めて少なく音質も良好で、聴衆の咳払いや拍手も一切入っていない。

第1楽章冒頭のいわゆるブルックナーの霧の中に現れるホルン・ソロのミスが聞かれるので、リマスタリングに使われた音源は修正されていないオリジナル・マスターのコピーだろう。

この程度のミスはライヴにはつきもので、虚構を増長するような部分的な差し替えは、それがテクニック的に可能であったとしてもかえって興醒めしてしまう。

スコアは基本的に第3稿(1878ー80)だがレーヴェ版の第3楽章後半のカット部分を復活させて、全曲の演奏時間は66分40秒でハース版に近いものになっている。

ここでもフルトヴェングラーの自己主張が大胆に示されており、全体に極めて劇的な表現をつくり、緩急自在のテンポ感覚に情念が渦巻くようなディナーミクの変化が相俟ってかなり個性的なブルックナーに仕上げられている。

第1楽章から自在な解釈が面白く、聴衆を彼の世界に引き込んでいく変幻自在な指揮法が際立っているが、それに従うウィーン・フィルの特質も浮き彫りにされている。

圧巻は終楽章で、壮麗なうちに感動に満ちたものとなっており、精神の高揚と解放が生き生きと表されている。

大自然の抱擁をイメージさせる弦の温もりやウィンナ・ホルンを始めとするブラス・セクションの渋い音色の咆哮は、より輝かしいサウンドのベルリン・フィルとは対照的で、荘厳な雰囲気の中に導かれる終楽章のカタルシスは理屈抜きで感動的だ。

この曲はウィーン・フィルが初演した作品でもあり、彼らにも伝統を受け継ぐ自負と限りない愛着があったに違いない。

通常ブルックナーの歴史的名盤としては採り上げられないが、一般に考えられているブルックナーとは異なるロマン派の演奏様式としても尊重すべきであり、フルトヴェングラー・ファンだけにキープしておくには勿体ない演奏だ。

ブルックナーらしくないという意見も出ようが、ここまで音楽的になり、豊かな創造性を持つとこれはこれで立派な存在理由がある。

余白にカップリングされたワーグナーの『パルジファル』第3幕から「聖金曜日の音楽」は、同年4月25日のカイロ・ライヴとクレジットされていて、オーケストラはベルリン・フィルになる。

音質に関してだがオーケストラの音響の再生自体は擬似ステレオだが悪くなく、またベルリン・フィルのメンバーの巧みなソロも聴きどころだが、ヒス・ノイズが全体にベールのようにかかっていてやや煩わしいのが残念だ。

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2016年12月05日


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HQCD化によるフルトヴェングラー・シリーズの1枚で、1953年8月12日のザルツブルク音楽祭における一晩のライヴ録音を、プロデューサーはシュヴァルツコップの夫君ウォルター・レッグが担当している。

モノラル録音で経年によるマスター・テープの劣化は否めないが、リマスタリングの効果でかなり聴きやすくなっていることは確かだ。

ヴォルフ没後50年を追悼する全曲ヴォルフのプログラムで、稀代のヴォルフ歌いシュヴァルツコップの彫りの深い歌唱を巧妙に支え、ある時は積極的に歌を先導するフルトヴェングラーのピアノも聴きどころだ。

もっとも、当時まだ38歳だった彼女が大指揮者からの薫陶を得たというのが事実かも知れない。

ジェラルド・ムーアは一流どころの指揮者やピアニストが歌曲の伴奏をすることを強く推奨していた。

それによって歌と伴奏がどういう関係にあるのか初めて体験し得るし、声楽曲の芸術性をより深く理解できるというのが彼の主張だった。

ちなみにこれに先立つ1949年のエディンバラ音楽祭でブルーノ・ワルターがシューマンの『女の愛と生涯』でキャスリーン・フェリアーの伴奏をした録音が遺されている。

彼らに共通することは、ピアノという楽器を超越したところで伴奏を成り立たせていることで、一見朴訥なようでじっくり鑑賞する人にはオーケストラを髣髴とさせる奥深さを内包しているのが聴き取れるだろう。

女声ではシュヴァルツコップ、男声ではフィッシャー=ディースカウやハンス・ホッターなどの詩に対する感性の鋭さは、ドイツ語のメカニズムや心理描写に至る声の陰翳付けなど、あらゆる発声のテクニックをコントロールして表現するところに表れている。

ドイツ・リートの中でもヴォルフの作品では、文学と音楽とが最高度に洗練された状態で結び付いているために歌手と伴奏者の芸術的レベルとその表現力が拮抗していないと、目まぐるしい転調や神経質とも言える楽想が聴くに堪えないものになってしまう。

その意味で本盤は、若々しく艶のある名花シュヴァルツコップと大指揮者フルトヴェングラーの素晴らしさを満喫できるひとつの理想的なライヴ録音と言える。

尚歌う前と小休憩ごとに拍手が入っているが、客席からの雑音は殆んど聞こえない。

この音源は過去にオルフェオやEMIから出ていたもので、昨年ワーナーからリリースされた『シュヴァルツコップ・ザ・コンプリート・リサイタルス』のCD29にも収録されている。

ヴォルフはテクストとして選択した詩を、恐ろしいほどの洞察力で汲み尽し、その言霊の抑揚ひとつひとつに人間の心理やさがを発見し、嬉々としてそれを楽譜に写し取っていった。

ピアノはもはや伴奏の範疇を抜け出して歌詞と対等な立場で、またある時はそれ以上に語りかけてくる。

その手法は森羅万象を表すだけでなく心理描写にも心血が注がれていて、それは殆んど狂気と紙一重のところで行われた作業であるために、その再現には尋常ならざる機知とアイデア、そしてそれを裏付けるだけの高度な表現力が歌手と伴奏者の双方に要求されることには疑いの余地がない。

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2016年10月27日


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晩年のフルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲の演奏は、他のレーベルをも含めれば、全曲をウィーン・フィルによって聴くこともできるが、全集という形で手にするとするならば、これが唯一最高のものと言うことができよう。

歴史的名演とも言えるバイロイト音楽祭ライヴの《第9》が含まれているばかりでなく、いくつかの作品は、彼の録音の中でも傑出したものであり、録音条件の不利をこえた価値がそこにはある。

それは、フルトヴェングラーの音楽と精神とが集約されたものと言っても過言ではなく、創造性にあふれた芸術の記録として、いずれも貴重なものである。

ベートーヴェンの演奏も、人が変わり、時代を追ってくるに従って、かなりの変化をみせてきたが、これは永遠の規範ともなり得よう。

極めて陰影豊かな第1番、若々しい音楽を流動させる第2番、端然とした造型の《エロイカ》、深沈として情感を色濃く漂わせた第4番や《田園》、均整感が強く堂々とした第5番や第7番と、どの演奏も強烈な個性をもった雄渾な表情だ。

第8番の音楽的創意の豊かさも比類なく、第9番は劇的で雄大、声楽陣の充実も素晴らしい。

このベートーヴェン交響曲全集のマスターは2010年に同音源がSACD化された時のリマスタリングで、今回レギュラー・フォーマットのCD5枚に収録してバジェット・ボックスとしてリイシューされた。

それ以前のCDに比べると音質はかなり良くなっていて、潤いと艶のあるサウンドが得られているが、9曲の中では最も古い1948年録音の第2番及び第8番の2曲はさすがにスクラッチ・ノイズの彼方でオーケストラが鳴っているといった感触で、他に音源のないことが惜しまれる。

第8番と第9番以外のオーケストラはウィーン・フィルで、この時代の彼らのローカル色豊かな音響とアンサンブルを堪能できるのも特徴だ。

5枚目の第9番は1954年のルツェルン音楽祭ではなく、それより古い1951年のバイロイト・ライヴだが最後の拍手が入らなければセッションと思えるほど音質に恵まれていて、フルトヴェングラーの憑かれたようにテンポを上げていく熱狂的なフィナーレが聴きどころだ。

第7番に関しては新たに発見された未使用のテープからのリマスタリングという触れ込みだった。

確かに1950年の録音としては良好な音源には違いないが、期待したほどの音質の向上は感じられなかった。

いずれにしても交響曲全曲演奏を通してフルトヴェングラーによるベートーヴェンへの独自の解釈、特にそれぞれの楽器の扱い方やダイナミクスがより一層明瞭に感知されるようになり、自在に変化するテンポ感と相俟って特有の高揚感を体験させてくれる。

入門者にも気軽に鑑賞できるリーズナブルなバジェット・ボックス化を歓迎したい。

尚総てがモノラル録音だが、何曲かについては電気的に音場を拡げた擬似ステレオのように聞こえる。

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2016年10月10日


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プラガ・ディジタルスからのハイブリッドSACDシリーズの1枚で、フルトヴェングラーの演奏集としては既に7枚目のリリースになる。

早期のウィーン楽派と題されていて、ウィーンに本拠地を置いて音楽活動を続けたハイドンとモーツァルトの作品4曲を収録している。

1948年から53年にかけて彼がウィーン・フィル及びベルリン・フィルを振ったもので、総てがモノラル音源だがリマスタリングによる音質の改善という点では、音場が拡がり音色が艶やかでそれぞれのホールの潤沢な残響も煩わしくない程度に再現され、かなり満足のいく仕上がりになっている。

フルトヴェングラーは古典派であろうがロマン派であろうが、その音楽に内包された表現の劇的な部分を実にスケール豊かな演奏に置き換えてしまう。

1曲目の『フィガロの結婚』序曲は一陣の風が吹き抜けるような短い幕開けの音楽だが、フルトヴェングラーはコーダの手前からアッチェレランドして、猛烈な拍車をかけて追い込むように曲を締めくくっている。

イン・テンポを崩さない現在の解釈とは異なった意外性がかえってこのオペラの性急で革新的な本質を暗示していると言えるだろう。

モーツァルトの第40番ト短調はフルトヴェングラーのロマンティシズムが良くマッチしていて、古典派を通り越した迸るような疾走感と不安を掻き立てるような陰鬱さに彼のカリスマ性が発揮されている。

モーツァルトと言えば、ワルターの名がまず思い浮かべられるに違いないし、同曲についても、彼の演奏を1つの理想や規範とする人々がかなり多いに違いない。

しかし、この作品については、ある意味それとは対極的な存在をなすフルトヴェングラーの演奏を忘れることはできないし、1度それに触れると、その体験が心の底に焼きつけられる可能性さえある。

それは、抑えがたいような悲劇的情感がもたらす緊迫感に溢れたもので、時に鬼気迫るものさえ感じさせるが、クラリネットが加わらない第1版の本質は、こうしたところにもあるのかもしれない。

テンポも、単なる速さということよりも、精神的な緊張にすべての音が動かされた結果と言えるところであり、曲の劇的な側面とフルトヴェングラーの波乱の人生経験とがまさに合体したような演奏と言うべきかもしれない。

モーツァルトの音楽の深さ、情感の豊かさ、デモーニッシュな激しさ、あらゆる次元での音楽表現の可能性の広さと言ったものを、このフルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルの演奏から感じ取ることができる。

この曲にここまでの悲劇性があったのかと思わせる演奏内容であり、いつの時代にも聴き手の心に強く深くアピールする演奏となっている。

それに続く2曲のハイドンでも均整のとれた整然とした古典派の形式感というよりは、むしろドラマティックな情熱が滾った生気に溢れた表現が印象的で、モチーフの有機的な処理も鮮やかだ。

そこにはモーツァルトやベートーヴェンの先駆者としてのウィーン楽派の威厳を感じさせるものがある。

作品を大きく見せるのはもちろん、演奏を通して作曲家の存在および意志をはっきり実感させてくれるのがフルトヴェングラーだと筆者は思っている1人だが、彼の手に掛かるとハイドンの交響曲も内面的な感動が極めて大きく厚みのあるものになる。

数あるハイドンの交響曲のうち、第88番《V字》に惹かれる人は、かなりのハイドン好きに違いなく、誰もが注目するほど広く知られているわけではないが、優れた演奏で聴いたら、きっと忘れられなくなるだろうし、ウィーン楽派の神髄に触れさせてくれる、そんな作品の1つである。

フルトヴェングラーの指揮で聴くと、ハイドンの世界が一層大きく、一層深く感じられるから不思議である。

聴きようによっては、ハイドンのベートーヴェン化、といった思いがしなくもないが、それだけ奥行きが深い指揮者だったのだろう。

4つの楽章の音楽的性格の的確な描き分け、強い求心力を感じさせる造型性は他に類がない。

第94番《驚愕》も、少しもこせついたところがない悠然たるテンポで、スケール大きく歌い進んでゆく。

ここに流れているのは、音楽としての自然な呼吸、そして作品に対する深い共感で、演奏全体に漂う大人の風格は、この指揮者ならではのものだ。

ここでフルトヴェングラーは彼らしくないほどに古典的な端正さで演奏しており、大きな身振りもないが、それでいて音楽の作りは大きく、古典派交響曲としての佇まいを緻密かつ美しく示して余すところがない。

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2016年05月09日


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プラガ・ディジタルスSACDシリーズでは既に5枚目になるフルトヴェングラー演奏集で、今回はシューマンの交響曲第1番変ロ長調Op.38『春』、序曲『マンフレッド』Op.115及び交響曲第4番ニ短調Op.120の3曲を収録している。

交響曲第1番は1951年10月29日のミュンヘンに於けるウィーン・フィルとのライヴ、『マンフレッド』は1949年12月18日のベルリン・ライヴ、交響曲第4番は1953年5月14日のベルリンでのセッション録音で後者2曲のオーケストラはベルリン・フィルとクレジットされているので、それぞれがデッカ及びドイツ・グラモフォンからリリースされていたものと同音源になる。

総てがモノラル録音で、音質は交響曲第1番では鑑賞可能といった程度で、彼の音楽的な意図が手に取るように理解できることは確かだが、分離状態も鮮明さもそれほど期待できないことはフルトヴェングラー・ファンであればご承知の通りだ。

SACD化でいくらか音場に立体感が出て高音の伸びが良くなったことは認めるが、この音源からそれ以上の音質向上は望めないだろう。

それに反して他の2曲は時代相応の録音状態だが幸い高度な鑑賞にも堪え得る音質が保たれている。

尚交響曲第4番は音場の拡がりから擬似ステレオ化されているものと思われる。

フルトヴェングラーのシューマンの作品への解釈とその演奏は非常に評価が高く、交響曲第4番に至っては歴史的名演のひとつとされているばかりか、古今のあらゆる録音の中でも最高のセッションという評価を下す人も少なくない。

シューマンの薫り立つようなロマンティシズムや文学的センスが彼の変幻自在に変化するテンポ感やディナーミク、管弦楽法の巧みな処理によって弥が上にも高められ、情念の渦巻くような効果を引き出していく手腕には確かに恐るべきものがある。

現代の演奏では考えられないほど世紀末的で恣意的な趣味を引き摺っているように思われるかも知れないが、批評家達の受け売りをすればそこに不自然な強引さを感じさせないだけのモティーフの有機的な結合と、絶え間ない奔流が知的にコントロールされているのも事実であろう。

フルトヴェングラー独自のこうした手法が現代に生きる私達にかえって新鮮な感覚をもたらして、今もってその演奏に惹きつけて止まない理由ではないだろうか。

ちなみに第2楽章の独奏ヴァイオリンは当時のベルリン・フィルのコンサート・マスター、ジークフリート・ボリスで、控えめだが温もりを感じさせるソロがひと時の安らぎを与えてくれる。

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2016年04月25日


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フルトヴェングラーのブル5(ハース版準拠)はウィーン・フィルとの1951年のザルツブルクでのライヴ盤がよく知られている。

この1942年のライヴ録音は意外に音がクリアで迫力に富み、大戦中のベルリン・フィルとの録音の中でも音は最良のもので、1951年盤よりはるかに明確にフルトヴェングラーのブルックナー観が打ち出されている。

本演奏では、フルトヴェングラーが若々しい気迫に満ちた音楽を聴かせ、アゴーギクとデュナーミクを巧みに融合させた効果は、まさに名人芸と言わねばなるまい。

生前、ブルックナー協会の会長をつとめていたフルトヴェングラーの、ブルックナーの音楽に対する傾倒の深さを物語るかのような、雄渾な演奏で、その彫りの深い、雄大な表現には圧倒されてしまう。

特に第1楽章の冒頭、序奏部のあとのブルックナー休止に続くティンパニの一撃と金管の壮烈なコラールはフルトヴェングラーの真骨頂を示すもの。

フルトヴェングラーの視点から再構成されたブルックナーという印象もあるが、その音楽の壮大さは比類がなく、全編、ライヴならではの即興性はあるものの、それ以前に強固な演奏スタイルを感じる。

フルトヴェングラーの指揮も、ブルックナーの信仰告白とも言うべきこの曲に対して、深い精神性に裏づけされて見事に音化されている。

フレーズの処理が実に生き生きとしており、オーケストラは常時に変化するテンポ、リズムにピタッとあわせ、その一方でメロディは軽く、重く、明るく、暗く、変幻自在に波打つ。

凡庸な演奏では及びもつかない凝縮感と内容の豊穣さであり、作品の世界にのめりこみながらも、バランスを崩す直前で踏みとどまるが、その匙加減が絶妙だ。

第1楽章、ブルックナーに特徴的な「原始霧」からはじまり、順をおって登場する各主題をフルトヴェングラーは意味深長に提示していく。

それはあたかも深い思索とともにあるといった「纏」(まとい)とともに音楽は進行していく。

この曲は極論すれば第1楽章で完結しているかの充足感があるが、続く中間2楽章では、明るく浮き立つメロディ、抒情のパートはあっさりと速く処理し感情の深入りをここでは回避しているようだ。

その一方、主題の重量感とダイナミックなうねりは常に意識され、金管の分厚い合奏がときに前面に出る。

終楽章は、第1楽章の<対>のように置かれ、各楽章での主題はここで走馬灯のように浮かび、かつ短く中断される。

その後、主題は複雑なフーガ、古式を感じさせるコラール風の荘厳な響き、そしてブルックナーならでは巨大なコーダへと展開され、長い九十九折(つづらおり)の山道を登り峻厳なる山頂に到達する。

このブル5、フルトヴェングラーの演奏スタイルに特異な魔術(デーモン)を感じ、作品にふさわしいドラマティックな要素が際立つ。

現代においては殆ど聴かれない大時代的なアプローチとも言えるが、1942年においては一般的なアプローチであり、フルトヴェングラーの演奏が必ずしも特異なものであったとは言えない点に留意すべきであろう。

旋律のみずみずしいしなやかさ、地の底から噴きあげるようなブラスの和声の充実感、作為なく、ブルックナーの音楽そのものを感じさせる造型、あらゆる点で、もう二度と現れまいと思われるような演奏である。

今日のブルックナー解釈とは異なる世界に位置する歴史的名盤である。

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2016年02月14日


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1951年8月19日、ザルツブルク音楽祭における歴史的ライヴ録音で、伝説的なブルックナーとして有名なもの。

作品と指揮者が運命の糸で結ばれている、そんな磁力にも似た求心力を背景にうねるような起伏をもって再現された名演、熱演。

ウィーン・フィルの個性的な音と演奏が豊かであった時代の演奏であり、流暢で深い陰影をもった情緒的表現は、確かに伝説になるだけの価値のあるものだ。

フルトヴェングラーの指揮も、ブルックナーの信仰告白とも言うべきこの曲に対して、深い精神性に裏づけされて見事に音化されている。

フルトヴェングラーは、ドイツ・ブルックナー協会の会長をしていたので、いわば、ブルックナーの専門家であるが、そうした面目が、この古い録音の全面ににじみ出ている。

そうしたフルトヴェングラーの、ブルックナーの音楽に対する傾倒の深さを物語るかのような、内面的な燃焼度の高い、雄渾な演奏で、そのその強烈な個性と彫りの深い、雄大な表現には圧倒されてしまう。

個性的でスケールの大きい表現だが、あまりにロマン的で、ブルックナーの素朴さよりもフルトヴェングラーの音楽を聴く感が強い。

それでもこの指揮者の芸術的ルーツが、ブルックナーと同じところにあることを理解できる自然体の表現であり、そこに演奏の魅力もあるのである。

フルトヴェングラーの視点から再構成されたブルックナーという印象もあるが、その音楽の壮大さは比類がなく、やや晦渋な表現ながら、終楽章の雄大なスケール感は圧倒的である。

音楽の豊かなダイナミズムと、強い緊張感が維持されている第5番であり、この大胆なアゴーギクはフルトヴェングラーらしさを印象づけるものだ。

この演奏におけるフルトヴェングラーのドラマティックな音楽の盛り上げ方は、ブルックナー・ファンの間で意見の分かれるところだが、フルトヴェングラーならではの至高の世界を作り上げている。

現代においては殆ど聴かれない大時代的なアプローチとも言えるが、1951年においては一般的なアプローチであり、フルトヴェングラーの演奏が必ずしも特異なものであったとは言えない点に留意すべきであろう。

旋律のみずみずしいしなやかさ、地の底から噴きあげるようなブラスの和声の充実感、作為なく、ブルックナーの音楽そのものを感じさせる造型、あらゆる点で、もう二度と現れまいと思われるような演奏である。

精神的な高さと深さで、これを凌駕するような演奏は未だもって他にはなく、聴いた後に深い感動の残る秀演である。

フルトヴェングラーの手にかかるとブルックナー作品はにわかに神秘的気配を強め、神々しくなる。

素朴な味わいや木訥な語り口に思えていた特質がその性格を一変させ、深層心理に肉薄するメスとなって機能しはじめ、聴き手に迫るのである。

フルトヴェングラーの巨大な個性によって大きく包み込まれたブルックナーのスケールとロマン、そして全容から立ちのぼってくる言い尽くせぬ香気には何者にも抗えないようなところがある。

この指揮者の深遠でしっとりとしたロマンティシズムが打ち出された演奏であり、官能的かつ叙情的な誘導が最大の魅力になっている。

また、フルトヴェングラーは、なにを指揮しても決して急ぎすぎることがなかった。

悠揚迫らぬそのテンポは、まずは聴き手を落ち着かせるのに力を発揮したばかりでなく、さらに進んで揺るぎない信頼を勝ちとった、と言って良いだろう。

これぞフルトヴェングラー人気の根源のひとつ、という気がする。

この第5番では、そうした独特のグランド・デザインによりながらも、ブルックナーの楽想を生かし、音楽を生かすため、フルトヴェングラーはテンポを細かく動かし、表情に変化を与え、クレッシェンドを活用して強い緊張感を生み出している。

そして表出されたブルックナーの深奥から湧き起こる音楽的情熱と、深々とした祈り、見事だ。

フルトヴェングラーの凄さに圧倒されてしまう巨人の足音である。

今日のブルックナー解釈とは異なる世界に位置する歴史的名盤であり、かつてこの演奏によってブルックナーの洗礼を受けた諸氏も少なくあるまい。

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2016年02月12日


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フルトヴェングラーは同曲をスタジオ録音をしておらず、当録音を含め3種のライヴ盤が出ていたが、このDG盤はEMI盤と並んで、名盤として有名なもので、カイロ放送局のテープによる復刻。

LP発売時にはハース版に準拠とされていたが、今回はシャルク改訂版に準拠と認められている。

しかし、いわゆる改訂版のイメージとは異なり、晴朗な抒情感と堅固な構築力をもった演奏である。

この演奏におけるフルトヴェングラーのドラマティックな音楽の盛り上げ方は、ブルックナー・ファンの間で意見の分かれるところだが、フルトヴェングラーならではの至高の世界を作り上げている。

決して音の状態は良いとは言えないが、生前、ブルックナー協会の会長をつとめていたフルトヴェングラーの、ブルックナーの音楽に対する傾倒の深さを物語るかのような、雄渾な演奏で、その彫りの深い、雄大な表現には圧倒されてしまう。

フルトヴェングラーの視点から再構成されたブルックナーという印象もあるが、その音楽の壮大さは比類がない。

旋律的な魅力によって曲の壮大な美しさを肌で感じることのできる演奏で、フルトヴェングラーは淡々と、しかもよく歌い切っていて、弦の美しい第2楽章ひとつとってもツボをしっかりつかんでいることがよくわかり、さすがに息長く歌わせて、連綿と続く歌の美しさにも特筆すべきものがある。

とはいえ、フルトヴェングラーとしては淡泊な表現で、彼一流の劇性は希薄となっており、抑制のきいた表現とも言えるが、それでもアダージョ楽章は非常に音楽的だ。

作品にふさわしい抑制もきかせているが、クライマックスの構築の仕方はあくまでフルトヴェングラー流。

一貫してメロディ・ラインを重視し、作品の無限旋律の美しさを見事に歌い出すが、第1・第2楽章の無時間的な広大さなど、ほとんど魔力的な世界であり、その中でもとくに第2楽章、クライマックスへの織りなしは圧倒的な効果を放っている。

また、第1楽章と終楽章におけるテンポの大きな動きを伴うロマン的な語り口はこの指揮者ならでは。

この作品の情緒を深くつかんでいればこそとれた手段で、フルトヴェングラーの芸術に直に触れる思いがする。

フルトヴェングラーの手にかかるとブルックナー作品はにわかに神秘的気配を強め、神々しくなる。

素朴な味わいや木訥な語り口に思えていた特質がその性格を一変させ、深層心理に肉薄するメスとなって機能しはじめ、聴き手に迫るのである。

フルトヴェングラーの巨大な個性によって大きく包み込まれたブルックナーのスケールとロマン、そして全容から立ちのぼってくる言い尽くせぬ香気には何者にも抗えないようなところがある。

この指揮者の深遠でしっとりとしたロマンティシズムが打ち出された演奏であり、官能的かつ叙情的な誘導が最大の魅力になっている。

美しさを超えた第2楽章を感動の核としながらも、この交響曲全体像が怒涛となって聴き手に襲う演奏は他に例がなく、怖くなるようなフルトヴェングラーの指揮芸術の奥義を堪能させる。

ベルリン・フィルの楽員たちは全身全霊を傾けて表現している。

今日のブルックナー解釈とは異なる世界に位置する歴史的名盤であり、かつてこの演奏によってブルックナーの洗礼を受けた諸氏も少なくあるまい。

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2016年02月07日


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1944年10月17日、ウィーン、ムジークフェライン・ザールでのライヴ録音。

旧DDR放送局のテープから復刻されたもので、ハース版に基づいた演奏だが、フルトヴェングラーが若々しい気迫に満ちた音楽を聴かせ、アゴーギクとデュナーミクを巧みに融合させた効果は、まさに名人芸と言わねばなるまい。

ブルックナーの交響曲第8番は、ブルックナー自身が、「私の書いた曲の中で最も美しい音楽」と言って自信をもっていたという。

そうしたこの第8番を、フルトヴェングラーは、内面的な燃焼度の高い、雄渾な演奏で聴かせ、その強烈な個性には圧倒されてしまう。

作品と指揮者が運命の糸で結ばれている、そんな磁力にも似た求心力を背景にうねるような起伏をもって再現された名演、熱演。

個性的でスケールの大きい表現だが、あまりにロマン的で、ブルックナーの素朴さよりもフルトヴェングラーの音楽を聴く感が強い。

それでもこの指揮者の芸術的ルーツが、ブルックナーと同じところにあることを理解できる自然体の表現であり、そこに演奏の魅力もあるのである。

フルトヴェングラーの解釈は作品との強い一体感をベースとしたもので、それはバーンスタインがマーラー演奏に見せた陶酔感すら覚えさせるものがあるが、大戦中に演奏されたフルトヴェングラーのブルックナーには例えようもない気品と影の暗さがあり、それが感動のテンションをさらに高める。

そうした美質を引っさげてフルトヴェングラーはブルックナーの核心部分へと果敢かつ勇猛に足を踏み入れていきながら、聴き手を抗し難い興奮へと巻き込み、陶酔的感動に浸らせてしまう。

精神的な高さと深さで、これを凌駕するような演奏は他にないと言えるところであり、聴いたあとに深い感動の残る秀演である。

とりわけ、第3楽章アダージョは比類のない美しさで、晩年のブルックナーが到達した深い精神性が見事にあらわれている。

この第3楽章アダージョの部分を聴くと、ブルックナーの音楽の雄大さ、フルトヴェングラーの表現力の息の長さ(ウィーン・フィルの器の大きさも加えるべきなのかもしれない)に、誰もが圧倒されてしまうことであろう。

われわれの日常生活で用いられている単位では、とても手に負えないような雄大さであり、息の長さである。

こうした芸術活動だけに許されるような次元に接する機会が、最近はとみに少なくなってしまった。

また、フルトヴェングラーは、なにを指揮しても決して急ぎすぎることがなかった。

悠揚迫らぬそのテンポは、まずは聴き手を落ち着かせるのに力を発揮したばかりでなく、さらに進んで揺るぎない信頼を勝ちとった、と言って良いだろう。

これぞフルトヴェングラー人気の根源のひとつ、という気がする。

この第8番では、そうした独特のグランド・デザインによりながらも、ブルックナーの楽想を生かし、音楽を生かすため、フルトヴェングラーはテンポを細かく動かし、表情に変化を与え、クレッシェンドを活用して強い緊張感を生み出している。

そして表出されたブルックナーの深奥から湧き起こる音楽的情熱と、深々とした祈り、見事だ。

フルトヴェングラーの凄さに圧倒されてしまう巨人の足音である。

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2016年01月13日


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フルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる1951年の『ザ・グレイト』の音源は過去にドイツ・グラモフォンからシングルレイヤーの限定盤としてSACD化されていたものだが、今回プラガ・ディジタルス独自のリマスタリングによるハイブリッド盤がリリースされたことを歓迎したい。

カップリングされたもう1曲はベートーヴェンの交響曲第9番の終楽章で、1954年8月22日のルツェルン音楽祭からのライヴになる。

どちらもモノラル録音だがマスター・テープは、当時としては極めて良好な音質と保存状態でSACD化の甲斐がある音源であることに異論はない。

ベートーヴェンの『第9』が終楽章のみの収録というのは、如何にも余白を埋めるためのご都合主義としか思えないが、プラガでは近々全く同一音源の『第9』全曲のSACD化を予定しているので、これは一種のトレイラーとして聴いておくことにした。

ただしこの音源も既にアウディーテ・レーベルから2000年にSACDとしてリリースされていたものだ。

ちなみにヨーロッパではこのシューベルトの方が昨年末に既にメジャーなマーケットに出ていた。

15ページほどのライナー・ノーツには曲目解説とフルトヴェングラーのキャリア及びベートーヴェンの『第9』第4楽章のシラーの頌歌『歓喜に寄せて』の歌詞対訳が英、仏語で掲載されている。

シューベルトの交響曲第9番ハ長調『ザ・グレイト』は、当時のセッションとしては殆んど非の打ちどころのない音質を保っているのに驚かされる。

第1楽章冒頭のホルンは田園的な穏やかさで開始されるが、その後のテンポは柔軟かつ自在に変化して聴く者をフルトヴェングラーの世界に引き込んでおかずにはいない。

しかしオーケストラは常に清澄な響きを失うことがない。

勿論第1楽章の展開部や終楽章のクライマックスではブラス・セクションとの堂々たる総奏があるにしても、全体的には過度にドラマティックな表現や音楽の急激な変化を避けた、一点の迷いもない明朗なシューベルトが再現されているのが特徴だろう。

ベルリン・フィルの一糸乱れぬ精緻なアンサンブルも聴きどころで、SACD化によって楽器間の分離状態も向上して総奏部分でも音響がひと塊の団子状態になることが避けられている。

この時期のフルトヴェングラーのシューベルトの解釈が彼の第1回目の同曲の録音時とはかなり異なっているのも興味深い。

どちらも評価の高い演奏で、その優劣を問うことは殆んど意味を成さないだろうが、シューベルト的な豊かな歌謡性や抒情を感じさせるのがこの1951年盤だと思う。

こうした演奏を鑑賞していると、シューベルトが大上段に構えた管弦楽曲の作曲を目論んだ野心作というより、湧き出るような楽想を1曲の交響曲にまとめあげたという印象を受ける。

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2015年08月13日


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リヒャルト・シュトラウス、ワーグナーに続くプラガのフルトヴェングラーSACDシリーズ第3集は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番変ホ長調『皇帝』及び交響曲第5番ハ短調『運命』の2曲である。

前者がエドヴィン・フィッシャーのソロ、フィルハーモニア管弦楽団による1951年ロンドンEMIスタジオでの収録、後者がウィーン・フィルとの54年ウィーン・ムジークフェラインにおけるいずれもセッション録音になる。

初めてのSACD化ではないが、妥当な価格のハイブリッド盤でどれだけの音響が再生されるか興味があったので聴いてみることにした。

ジュエル・ケース裏面にHMVのLPからのリマスタリングと表記されているが、板起こし特有のスクラッチ・ノイズは一切聞こえない。

レコーディング技術に疎い筆者にはレーザーで読み取らせたものなのか、あるいはノイズが処理されているのか分からないが、かなり鮮明な音質が得られていることは確かで、また全く破綻がないのも古い音源の鑑賞にとっては好都合だ。

音場の拡がりから元になったLPが擬似ステレオ盤だったことが想像されるが、SACD化によって平面的な音響が回避され、いくらか奥行きも感じられるようになっている。

前回のワーグナーの音質がやや期待外れだったが、今回はかなり肯定的な印象を持つことができた。

それぞれの演奏については既に語り尽くされた名盤なので今更云々するつもりもないが、『皇帝』ではエドヴィン・フィッシャーのピアノの響きにクリスタリックな透明感が加わって演奏にそれほど古臭さを感じさせない。

確かに両者のテンポはかなり流動的で、部分的に聴くと大時代的ロマンティシズムのように思えるが、全体を通して鑑賞するのであれば彼らの音楽の普遍的な価値を見出せるだろう。

『運命』に関しては10種類以上の異なった演奏が存在するが、このウィーン・フィルとのセッションは、彼としては比較的冷静でテンポの変化もそれほど目立たない。

しかし音楽設計はさすがに見事で、テーマやモチーフの有機的な繋がりやその再現、楽章ごとの対比と全楽章を結束させる大詰めへの手腕は鮮やかだ。

派手なアピールはないが晩年のフルトヴェングラーの解釈を示した重厚なベートーヴェンと言える。

音質的には弦楽器群の音色が瑞々しく、時折聞こえる生々しい擦弦音も臨場感を高めている。

英、仏語による11ページの簡易なライナー・ノーツ付。

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2015年08月10日


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プラガ・ディジタルスでは初登場のフルトヴェングラーの第2集はワーグナーの劇場作品からのオーケストラル・ワーク集で、前回と同様ウィーン・フィルを振ったHMV音源からのSACD化になる。

第1集のリヒャルト・シュトラウス作品集が思いのほか良かったので今回も期待したが、音質的にはいくらか劣っていることは否めない。

その理由はマスター・テープの経年劣化で、さすがに1940年代のものはヒス・ノイズも少なからず聞こえるが、広めの空間で再生するのであればそれほど煩わしくはない。

むしろこの時代の録音としては良好で、LPで聴いていた時より音場の広がりと奥行きが加わり、モノラルながらしっかりした音像が得られているのはひとつの成果だろう。

またレギュラー・フォーマットのCDでは、こうした古い音源は往々にして痩せて乾涸びた響きになりがちだが、このSACDではある程度の潤いと光沢も蘇生している。

収録曲のデータを見ると『さまよえるオランダ人』序曲(1949年)、『ローエングリン』第1幕への前奏曲(54年)、『タンホイザー』序曲(52年)、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲及び「徒弟たちの踊り」(49年)、『ワルキューレ』より「ワルキューレの騎行」(54年)、『神々の黄昏』より「ジークフリートのライン騎行」及び「ジークフリートの葬送の音楽」(54年)となっているので、「ワルキューレの騎行」に関しては同じメンバーによる旧録音ではなく、全曲盤からピックアップされたものと思われるが、残念ながら『トリスタン』が選曲から漏れている。

フルトヴェングラーはこの時期ウィーン・フィルの実質上の首席指揮者だったこともあり、彼らとのコンサートや録音活動を集中的に行っていてオーケストラも彼の要求に良く呼応している。

フルトヴェングラーは幸いワーグナーの楽劇のいくつかを全曲録音しているので、彼の音楽的な構想を理解するには全曲を通して鑑賞することが理想的だが、こうした部分的な管弦楽曲集でも充分にその片鱗が窺える。

例えば『オランダ人』序曲の冒頭はたいがい嵐の海の情景描写に終始してしまうが、彼のように神の怒りに触れた者の絶望感を表現し得た指揮者は数少ない。

『タンホイザー』で繰り返される巡礼のコーラスのテーマでは、筆者はかつて何故この旋律をカラヤンのようにもっとレガートに演奏しないのか疑問に思ったことがあった。

しかし後になってそれが赦されることのない罪を背負った巡礼者タンホイザーの喘ぎであり、途切れがちな息遣いと足取りを表していることに気付いて愕然とした思い出がある。

一方『マイスタージンガー』の意気揚々とした幸福感に満ちた前奏曲はこの作品の喜劇性とその晴れやかな終幕を予告しているかのようだ。

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2015年08月06日


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昨年プラガ・ディジタルスからSACD化されたフルトヴェングラーの演奏集が2枚ほどリリースされた。

そのひとつがこのリヒャルト・シュトラウスの作品集で、交響詩『ドン・ファン』(1954年)『死と変容』(1950年)『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(1954年)の3曲のそれぞれがフルトヴェングラーがウィーン・フィルと共演したHMV音源になる。

これらは録音及びオリジナル・マスターの保存状態が良好で、モノラルながら音場の広がりと立体感のある音響の再現に成功している。

音域ごとの分離状態も良く、各楽器の音色も明瞭に捉えられている。

例えば曲中でソロを受け持つヴァイオリン、オーボエ、ホルンなどの音像も鮮明で、録音会場になったウィーン・ムジークフェライン・グローサー・ザールの潤沢な残響によって音色に生々しさが加わり、パーカッション群の超高音からティンパニやコントラバスの低音に至るまでの広い音域が無理なく伸展している。

演奏に関しては既に語り尽くされているので、今更その価値について云々するつもりはないが、それぞれの曲でクライマックスへ向かう渦巻くような情念の高揚と、高踏的な音楽美学の止揚はまさにフルトヴェングラーの独壇場だろう。

ディスクの表面にバイ・チャンネル・ステレオの表示があるが、おそらくこの曲集のいくつかは電気的に音場を広げた擬似ステレオと思われる。

後半に収められているオットー・アッカーマン指揮、フィルハーモニア管弦楽団のサポートによるシュヴァルツコップの『四つの最後の歌』(1953年)がまた秀逸だ。

シュヴァルツコップはオーケストラを従えたこの曲の録音を3回行っていて、1965年のジョージ・セル、ベルリン放送交響楽団との演奏が円熟期の名盤として高い評価を受けているが、このセッションはシュヴァルツコップ38歳の最初のもので、その若々しい声と張り詰めた緊張感には替え難い魅力がある。

シュヴァルツコップの声質はソプラノとしては決して重い方ではないが、声の威力ではなく、その歌詞を語り尽くすような表現力の彫りの深さと陰影の変化で驚くほどドラマティックな効果を上げて、失われていくものへの不安や憧憬を見事に歌い切っている。

またアッカーマンの指揮も憂いと期待が交錯するオーケストレーションの綾を絶妙に辿ってソロの背景を描き出したところが素晴らしい。

尚ライナー・ノーツにはドイツ語の歌詞が掲載されているが対訳はない。

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2015年06月25日


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いささか懐古的になるが、ユニバーサルが2010年より、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の発売を開始したのは、ネット配信が隆盛期を迎えパッケージメディアの権威が揺らいでいる中において、快挙とも言える素晴らしい出来事であった。

ユニバーサルは発売開始以降、月に3〜5枚のペースで当該SACD&SHM−CD盤を発売してきているが、小澤によるブラームスの交響曲第2番とブリテンの戦争レクイエムを除いては、かつて発売されていたSACDハイブリッド盤の焼き直しに過ぎなかったと言わざるを得なかった。

しかしながら、ライバルのEMIがフルトヴェングラーの遺産のSACD化に踏み切り、大変な好評を得ていることに触発された面もあるのではないかとも思われるが、先般、これまで1度もSACDで発売されたことがないフルトヴェングラーの一連の歴史的な録音を、定評のあるシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤で発売するというのは、素晴らしい壮挙として大いに歓迎したいと考える。

本盤に収められているのはシューマンの交響曲第4番と「マンフレッド」序曲であるが、いずれもそれぞれの楽曲の演奏史上最高の玉座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

フルトヴェングラーが亡くなる1年半前、1953年5月のスタジオ録音によるシューマンの交響曲第4番は、フルトヴェングラーの最も優れたレコーディングとして知られるもので、最新の音楽之友社刊『新編名曲名盤300』でもこの曲のベスト・ワンとして推されている名盤である。

フルトヴェングラーは同曲を、悠揚迫らぬインテンポで荘重に曲想を進めていく。

シューマンの絶望感に苛まれた心の病巣に鋭く切り込んで行くような深沈とした彫りの深さにも際立ったものがある。

演奏全体の造型はきわめて堅固ではあるが、峻厳さを感じさせることはいささかもなく、演奏全体が濃厚なロマンティシズムに満ち溢れているのが素晴らしい。

晩年のスタジオ録音でありながら、ライヴ録音に優るとも劣らぬ鬼気迫る熱演が繰り広げられていると同時に、音楽の流れが自然であり、また細部の処理も入念で、全体として完成度が極めて高い。

歌に満ちたフレーズ、オーケストラの充実した響き、楽器間の絶妙な音量バランス、音楽に寄り添ったテンポのうねりなど、本当に見事だ。

また、通常、フルトヴェングラーの演奏では、「フルトヴェングラーを聴く」という意味合いが強くなるが、この演奏では、シューマンの楽曲自体の素晴らしさを堪能することができるという点でも、楽曲の魅力を最大限に引き出した演奏だと思う。

これほどの深みのあるシューマンの交響曲第4番の演奏は他にも例がなく、その後は、ベーム&ウィーン・フィル(1979年)、バーンスタイン&ウィーン・フィル(1984年)、カラヤン&ウィーン・フィル(1987年)などの名演も生まれてはいるが、本フルトヴェングラーによる超名演には到底足元にも及ばないと考える。

「マンフレッド」序曲も、フルトヴェングラーならではの濃厚で奥行きの深さと実演ならではのドラマティックな圧倒的生命力を感じさせる至高の超名演であり、ウィーン・フィルを指揮した名演(1951年、既にEMIよりSACD化)よりも更に上位に置きたいと考える。

音質は、1953年のスタジオ録音(「マンフレッド」序曲は1949年のライヴ録音であり、若干音質は落ちる)ということもあって従来盤でもフルトヴェングラーのCDとしては良好な方であったが、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって、にわかには信じ難いような鮮明な音質に生まれ変わった。

フルトヴェングラーによる至高の超名演をこのような極上の高音質SACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年06月18日


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フルトヴェングラーの死の年、ベルリン・フィルとの最後の演奏旅行中、ルガーノのテアトロ・アポロにおける実演を録音したものだが、フルトヴェングラーのすべてのディスクの中でも特別の意義を持つ、屈指の名盤と言えよう。

フルトヴェングラーはモーツァルトにあまり深い愛着を持っていなかったらしく、「魔笛」の序曲を犇擬蕊の音楽瓩覆匹噺討鵑任い燭修Δ如遺されたCDもフルトヴェングラーの実力から考えると、信じられないくらいつまらない。

ところが、フルトヴェングラーはやはり天才であった。

死の6ヵ月前に至って、ついにモーツァルトを自分のものにしてしまったのである。

こんな調子で「ジュピター」や「レクイエム」などを遺しておいてくれたら、という愚痴も出るが、今となっては仕方がない。

当時のフルトヴェングラーはかなり耳が遠くなっていたそうで、カール・ベームによればフルトヴェングラーの死は自殺同然だったという。

それが本当ならば、フルトヴェングラーの時代が終わったという認識も大きな原因の1つだろうが、耳が聞こえなくなったことも絶望感も深めたのであろう。

しかし、この「K.466」において、フルトヴェングラーはそんなことは到底信じられないほど強力にオーケストラを統率し、ルフェビュールのピアノと有機的に絡み合ってゆく。

この曲の他のディスクと聴き比べてもフルトヴェングラー盤だけはまったくの別世界なのである。

犁澆い茲Δ發覆へ嶝瓩噺世辰燭蕕茲い里世蹐Δ、他の演奏ではそこここに感じられる爛癲璽張.襯箸量悦瓩まるでないが、音楽として結晶され尽くしているせいか、少しも嫌ではなく、演奏者とともに嘆きつつ、モーツァルトの本質(人生の本質)を垣間見る想いがする。

第1楽章の冒頭からして、フルトヴェングラー自身の声のような、切れば血の出るひびき(あのホルンの強奏!)が聴かれ、まぎれもないフルトヴェングラーのモーツァルトであるが、それが音楽を傷つけるよりはいっそう生かす結果となっている。

フルトヴェングラーにはもはや聴衆など眼中にないように思われてくる。

あれほどの舞台芸術家で、実演において初めて燃えるタイプのフルトヴェングラーが、今は自分のために演奏する。

まことにこれは、爐海寮い悗侶輅未琉篏餃瓩任△蝓堕落を続ける20世紀の音楽界にたった1人で立つ猗犲身へのレクイエム瓩紡召覆蕕覆ぁ

音楽はこの上もなく孤独であり、厳しさのかぎりを尽くし、ヴィブラートは内心の慄きを示してやまない。

いかなる細部もフルトヴェングラー独特の感受性によって映し出され、わけても再現部における弦の伴奏部が、これほど生き物のようにピアノを支えた例は他に決してなかった。

第2楽章も痛ましくはあるが、音楽美として純化され、凛々しさを獲得した倏鯆擦硫劉瓩任△蝓▲侫ナーレももちろん見事だが、筆者にはやはり第1楽章が忘れられない。

晩年のフルトヴェングラーは次のように述べている。

「形式は明確でなければならない。すっきりとして枯れていて、決して余分なものがあってはならない。しかし炎が、炎の核があって、この形式をくまなく照らし出さなければならない」(カルラ・ヘッカー著、薗田宗人訳、『フルトヴェングラーとの対話』)。

まことに「K.466」はこの言葉への理想的な実証である。

イヴォンヌ・ルフェビュールは、1904年生まれのフランスの女流で、日本ではまったく知られていないが、さすがにフルトヴェングラーが選んだだけあって、見事なモーツァルトを聴かせてくれる。

デモーニッシュな大きさには欠けるが、巨匠の造型の中にぴったりと入り込み、指揮者との魂の触れ合いが芸術的感興に聴く者を誘うのだ。

やや冷たい、小味な音は澄み切ってモーツァルトの心を伝え、多用されるルバートも決してべたつきはせず、時には劇的なフォルテも見せるのである。

第2楽章の中間部やフィナーレあたり、女流らしい弱さがあるが、その代わり感じ切ったピアニッシモの美しさは絶品というべく、フルトヴェングラーとともに、肺腑を抉るような哀しさが、しかも超俗の雰囲気を湛えて、比類もない高みに到達している。

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2015年06月11日


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ティタニア・パラストにおける定期演奏会の実況録音であり、場内の咳ばらいが異常に多いが、そんなことが気にならないほど演奏は素晴らしく、音も当時のものとしてはかなり良い。

フルトヴェングラーの数多いCDの中でも、特に注目すべきものであろう。

ブラームスの「第3」は、ブラームスを聴くよりはフルトヴェングラーの名人芸を味わうべき演奏だと思う。

彼は音楽を完全に自己の個性の中に同化しており、テンポの極端な流動感、ドラマティックな設定、スコアにないティンパニに追加など、さながらフルトヴェングラー作曲の交響曲を聴く想いがするほどだ。

ことに驚くべきは、フレーズとフレーズの有機的な移り変わりで、その密接な血の通わせ方は際立って見事であり、これだけ自由自在な表現なのにもかかわらず、作り物の感じが皆無で、音楽が瞬間瞬間に生まれ、湧き起こってくる。

まさにフルトヴェングラー芸術の神髄ではなかろうか。

第1楽章の冒頭からして以上のことは明らかであり、第1主題の提示から第2主題の登場にかけての細かいテンポの流動は、ワルター&ニューヨーク・フィルにも匹敵するほどで、これでこそこの部分の音楽は生きるのである。

何とも言えぬ情感に浸りきる第2主題を経て、音楽は再び冒頭に戻されるが、第1主題がいっそうの情熱を持って反復されるところ、単なる機械的な提示部の繰り返しでないことがわかるであろう。

激しい気迫で追い込んでゆく展開部の加速は雄弁なドラマであり、その終わりの部分から再現部初めにかけての、ものものしいテンポの落とし具合は、沸き立つコーダの高まりとともに、音楽自体の呼吸と完全に一致して少しも違和感もない。

スコアのフレージング指定を改変して始まる第2楽章もフルトヴェングラーの独壇場だ。

ブラームス・ファン以外にはかなり重荷なこの音楽も、彼の手にかかると思わず聴き惚れてしまう。

ピアニッシモは強調されているが、全体としては強めで豊かな音楽になっており、漸強弱の指定があると、待っていましたとばかり強調する。

これはフルトヴェングラーとしても珍しい例であり、テンポの激変といい、旋律の思い切った歌といい、ブラームスのひそやかさを愛する人にはいささかの抵抗があるかもしれない。

第3楽章は中間部の後半以後のほとばしるような憧れの情が聴きもので、中でも再現部でテーマが第1ヴァイオリンに歌われる部分はほとんど泣いているかのようだ。

第4楽章は最もフルトヴェングラー的な部分であろう。

主部だけでもテンポが4段階に激しく変わり、同じ爛▲譽哀蹲瓩涼罎妊▲鵐瀬鵐討らプレストまでの差があり、音楽的な常識からは考えられないことであり、彼だから許されるというべきであろう。

展開部の熾烈な迫力などは凄まじさのかぎりだし、部分的には見事なところも多いが、実演を直接聴いているのならともかく、CDになるとやや極端な感じが否めない。

「マンフレッド」序曲も素晴らしい名演で、何よりも歌い方の豊かさにまいってしまう。

オーケストラの響きが満ち溢れるようであり、すみずみにまでフルトヴェングラーの血が通い、感情の波が大きく拡がってゆく。

フォルトナーはドイツの前衛的な作曲家で、このヴァイオリン協奏曲は1946年の作であり、現代音楽的な理屈っぽさを持つが、ドイツの作曲家ならではの心を打つ場面にも欠けてはおらず、だからこそフルトヴェングラーも採り上げたのであろう。

この曲の初演者でもあり、献呈もされたタッシュナーのヴァイオリンは線が細いが、高音に意味と魅力があり、ポルタメントが心をそそる。

音楽を身近に感じていることがよくわかる演奏だ。

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2015年06月09日


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フルトヴェングラーが録音したシューマンの交響曲は2曲だけであり、この「第1」はハイドンの「V字」やベートーヴェンの「コリオラン」序曲とともにミュンヘンのドイツ博物館ホールで行われた演奏会の実況である。

シューマンの「第1」にはクレンペラーの素晴らしいCDがあり、初めの2つの楽章はさすがのフルトヴェングラーといえども一籌を輸するが、スケルツォ以後は両雄相譲らぬ名演と言えるところであり、しかも演奏スタイルはまったく違うのである。

第1楽章の序奏部からして、フルトヴェングラーの表現は雰囲気満点だ。

ことに主部に向かって盛り上がってゆく時の猛烈な気迫は天下一品といえようし、展開部終わりのクライマックス設定も物凄いの一語に尽きるが、楽章全体として考えると、フルトヴェングラーの気持ちは、まだ充分に燃えきっていない。

したがって、コーダの収め具合など、彼の実演としては堪能しきれないものがあり、この結尾部の途中に現れる〈名残の感情〉もクレンペラーのほうがずっと美しいし、リズムの抉りや金管、木管のクリアーな表出においても、かなり緻密さを欠くようだ。

第2楽章のラルゲットは良いテンポで、弦のレガート奏法がきわめて情緒的であり、中間部の頂点における凄絶なリズムや推進力も見事であるが、前楽章同様、やや彫りの浅い部分があって、フルトヴェングラーとしては多少の物足りなさを感じさせる。

ところが、スケルツォに入るや、演奏旅行中のオーケストラと指揮者は、俄然ぴったりとした意気の投合を見せ始め、ミュンヘンの聴衆を興奮のるつぼに巻き込んでゆく。

この迫力は普通の音力ではなく、人間の発揮し得る、ぎりぎりの精神が生んだものだ。

スタッカートの音型が低弦から起こって、ヴィオラやファイオリン・パートへと進む第2トリオの、驚くべきクレッシェンドはどうだろう。

この部分の神技を聴くだけでも価値のあるCDといえないだろうか。

その後の委細構わぬ進行も痛烈で、フルトヴェングラーが先かウィーン・フィルが先か、ともかく両者の気概はこの瞬間、まったく1つになって、スコアの上を吹きすさぶのである。

第1トリオの豊かな雰囲気も最高で、途中に出現するフェルマータの後、チェロとコントラバスの弱音を思い切ったフォルテで響かせるなど、ことによったら舞台の上のインスピレーションによって行われた即興ではあるまいか。

そして最後の第4楽章ではますます脂がのってくる。

短い序奏を区切る休符をうんと長く取って、次の第1主題のアウフ・タクトをこの上なくゆっくりと始める。

考えようによっては、思わせぶりたっぷりな仕掛け芝居といえよう。

フルトヴェングラーはしばしば意識して芝居をし、聴衆もそれを喜び、かつ期待していたのだと思うが、実演だからこそ許されるというべきか。

したがって、CDを聴くわれわれも、フルトヴェングラーの呪縛の中に自らのめり込んでゆかなければならない。

提示部を反復する際の一番カッコにおける、音楽が停止してしまうようなリタルダンドは、いっそう鮮やかな大芝居であろう。

ピチカートを合の手として、2本ずつのオーボエとファゴットがスタッカートで上昇下降する第2主題は、たいていの指揮者がテンポを速めるが(クレンペラーのような、イン・テンポ主義者でさえも)、フルトヴェングラーは同じ速度で進める。

彼の流動の多い表現からして、ここで第2主題を速めることは造型の破壊につながるからだ。

それにしても、この楽章のフルトヴェングラーは自由自在であり、ネコがネズミをもてあそうぶように、シューマンが完全に彼の自家薬籠中のものと化して、音楽が大揺れに揺らされる。

しかし、地にしっかりと足がついているので、いくらやっても決して嫌味ではなく、むしろ面白い。

そして、ついにコーダの、最高のクライマックス・シーンが現出する。

デモーニッシュな金管の最強奏、アッチェレランドによる嵐の気迫はこの世のものとも思えず、手に汗握るうちに、やがてフルトヴェングラー独特の、大きく息をつく間を伴った和音によって、さしもの演奏も終わりを告げるのである。

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2015年06月08日


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フルトヴェングラーによるフランクの交響曲の名演と言えば、衆目の一致するところ1953年の英デッカ盤であると考えるが、本盤のグランドスラムによる見事なLP復刻に接して、この1945年盤も1953年盤に決して引けを取らない名演であることを思い知った。

「フランスのブラームス」とも評されたフランクの交響曲を、偉大なブラームス解釈者であり、最もドイツ的音楽性を具現したフルトヴェングラーが指揮したこの録音は、フランクの作品の中に流れるドイツ的要素を強く前面に押し出した名演奏となっている。

第1楽章の第1主題に向けてのハチャメチャなアッチェレランドはいかにもやり過ぎだとは思うが、テンポ設定の思い切った変化やダイナミックレンジの幅広さ、金管楽器の最強奏や低弦によるドスの利いた重低音のド迫力、そして情感の豊かさなどを織り交ぜつつ、自由奔放と言ってもいいくらい夢中になって荒れ狂う。

それでいて全体としての造型をいささかも損なうことがなく、スケールの雄大さを失わないのは、フルトヴェングラーだけがなし得た天才的な至芸と言えるだろう。

いちばん良いのは第2楽章で、あっさりした表情づけが、かえって寂しさを感じさせるからである。

曲の最後に美しい中間部の主題がロ長調で再現されるあたりの余情は、その最たるものであり、何でもなく奏されるので、いっそう心を打つ。

それにしても、ナチスドイツの敗色濃厚な中で、敵国であるフランス音楽(フランクはベルギー人であるが)を堂々と演奏するフルトヴェングラーの反骨精神には、ほとほと感心させられる。

他方、モーツァルトの第39番も名演で、一口に言えば、スケールの大きい、ベルリン風のモーツァルトだ。

さすがのフルトヴェングラーも、モーツァルトではフランクのように荒れ狂ったりはしない。

この点は、モーツァルトの本質をしっかりと捉えていたことの証左であろう。

オーケストラの鳴りっぷりは重々しく、暗く、厳しく、しかし弦はよく歌い、この指揮者の音楽哲学がベートーヴェンを原点としていたことを如実に証明するようなモーツァルト演奏ではある。

しかし、「それが何だ!」と、胸を張って主張できるような感動がこのCDには刻まれており、音楽とは何と複雑で、奥行きの深い芸術であることであろうか!

それにしても、この荘重たるインテンポから漂ってくる深みは、何と表現すればいいのだろうか。

まさに、天才だけに可能な至高・至純の境地と言えよう。

第1楽章の出は猛烈なエネルギーで、ここには驚くほどの歌と、まるでベートーヴェンのような響きがあり、導入部最後にはものものしいリタルダンドがかけられる。

主部もカロリー満点、強靭にリズムが刻まれ、前進力もあり、コーダの弦は熾烈とさえ言えるところであり、そして最後はアッチェレランド気味にすごい高まりを見せる。

第2楽章もピアニッシモの深刻な感情移入、フォルティッシモの心からの叫び、というように表現の幅が広い。

メヌエットにおけるフルトヴェングラー式のアインザッツ、フィナーレ最後の高揚感など、いかにもこの指揮者らしい味わいである。

グランドスラムによる復刻も最高で、この当時のものとは言えないくらい鮮明なものであり、既発売CDと、今回のグランドスラム盤の音質の差は大きいと言える。

重厚なオーケストラの低音も見事に捉えられているし、最弱音の繊細は響きもかなり鮮明に捉えられている。

それぐらい、この英HMV盤のLPから復刻された本CDの音質は素晴らしく、改めて、フルトヴェングラーの芸術の真の魅力にのめり込んだ次第である。

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2015年06月07日


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シューベルトの「未完成」は、いかにもフルトヴェングラーらしい名演である。

彼はこの曲を振る前は、そわそわと落ち着かなかったそうだが、曲想が彼の表現とぴったりと合致していないので、演奏しにくかったのだろうと思う。

しかし、このCDは、一応やりたいことをやり尽くし、フルトヴェングラーなりにきわめ尽くしている。

第1楽章は音楽が地の底から湧き起こるように開始され、フォルテの凄絶さはその比を見ない。

ホルンとバスーンによる経過句で大きくリタルダンドし、第2主題を導き出すのもフルトヴェングラーらしいが、チェロの弾く第2主題の翳の濃い表情は、ほかの指揮者からは聴けないものだ。

この主題、たいていの指揮者はピアニッシモの指定にとらわれてしまうからであろう。

つづくヴァイオリンの心のこもったレガートも美しい。

その後の漸進を伴った、しかもスムーズな進行も聴きもので、フルトヴェングラーの魂が次第に高潮し、燃焼していくさまが目に見えるようだ。

そして提示部の終わりで第2主題が現れる部分のヴィブラート奏法は、彼ならではの温かさであり、造型上にも一分の隙さえない。

展開部はフルトヴェングラーと未完成交響曲との厳しい対決であり、真剣勝負である。

これこそ時代の流行を超えた狄深造良集臭瓩任△蝓△修譴罎┐坊茲靴童鼎ならない生命力が燃えたぎっている。

大きくテンポを落とした、ものものしい終結とともに、聴く者の魂を奪うに充分なものがあろう。

第2楽章はテンポが速く、淡々とした運びの中にあふれるような歌を込めた指揮ぶりであり、テンポの微妙な変化はフルトヴェングラーの息づきのように自然だ。

フォルティッシモは相変わらず物凄いが、力づくの迫力ではないので、切れば血の出るような有機性を絶えず保っているのである。

ブラームスの「第4」も、フルトヴェングラー一流の味の濃さと、気迫に満ちたベートーヴェン的な解釈で、1つのフレーズが次のフレーズを生んでゆく自然な音楽が湧出する。

第1楽章の最初のロ音(よくもこんな音が出せるものだ!)を聴いただけで、すでにフルトヴェングラーの世界に誘われてしまう。

彼はブラームスが書いた楽想を徹底して描き分けるが、リズミカルな部分がいくぶん硬く響くきらいもある。

コーダのアッチェレランドはまさに常軌を逸しており、音楽自体から考えて、ここまでやる必要があるのかどうかは疑問だが、興奮させることは事実であり、最後のリタルダンドがいかにも効果的だ。

第2楽章の旋律の密度の濃い歌い方は、フルトヴェングラーがブラームスの交響曲において特別に見せるものである。

第3楽章は実演における一発必中の表現で、情熱の爆発と強い意志による統制が両々相俟って、凄まじい力の噴出となり、終結の決め方(あのテヌートの巧さ!)など、ほかの誰にもできることではない。

第4楽章は第1変奏のものものしい表現にすべてが尽くされており、フルトヴェングラーの演奏に接するとほかの指揮者は生ぬるくてとても聴けない。

ここではこのようにやるべき音楽なのであり、こうでなくてはならないのだ。

第16変奏以後の推進力も素晴らしいが、第3変奏のヴァイオリンに極端なヴィブラートをつけたり、コーダの加速など、ブラームスとしてはやりすぎの部分もあり、筆者自身、手放しでフルトヴェングラーの演奏を謳歌するものではない。

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2015年05月28日


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一時は絶滅の危機に瀕したSACDが息を吹き返しつつある。

SACDから撤退していたユニバーサルが2010年よりSACDの発売を再開するとともに、2011年になってついにEMIがSACDの発売を開始したからだ。

2009末にESOTERICから発売されたショルティ&ウィーン・フィルによるワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」のSACD盤が飛ぶように売れたことからもわかるように、ガラスCDのような常識を外れた価格でさえなければ、少々高額であっても、かつての良質のアナログLPにも比肩し得る高音質のSACDは売れるのである。

最近は、オクタヴィアがややSACDに及び腰になりつつあるのは問題であるが、いずれにしても、大手メーカーによる昨年来のSACD発売の動きに対しては大きな拍手を送りたいと考えている。

そして、今般、ターラレーベルがフルトヴェングラーの過去の遺産のSACD化を開始したということは、SACDの更なる普及を促進するものとして大いに歓迎したい。

ターラレーベルからは、既にフルトヴェングラー&フィルハーモニア管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲第9番(1954年)がSACD化されている(既にレビュー投稿済み)ので、本盤に収められたいわゆる「ウラニアのエロイカ」は、ターラレーベルによるSACD第2弾ということになる。

フルトヴェングラーによる「エロイカ」については、かなり多くの録音が遺されており、音質面を考慮に入れなければいずれ劣らぬ名演であると言えるが、最高峰の名演は本盤に収められた「ウラニアのエロイカ」(1944年)と1952年のスタジオ録音であるというのは論を待たないところだ。

1952年盤が荘重なインテンポによる彫りの深い名演であるのに対して、本盤の演奏は、いかにも実演のフルトヴェングラーならではのドラマティックな名演であると言える。

第1楽章からして、緩急自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして大胆なアッチェレランドを駆使するなど、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を展開している。

第2楽章の情感のこもった歌い方には底知れぬ深みを感じさせるし、終楽章の終結部に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力は、我々聴き手の肺腑を打つだけの圧倒的な迫力を誇っている。

このように、本演奏と1952年盤は同じ指揮者による演奏とは思えないような対照的な名演であると言えるが、音楽の内容の精神的な深みを徹底して追求していこうというアプローチにおいては共通している。

ただ、音質が今一つ良くないのがフルトヴェングラーの「エロイカ」の最大の問題であったのだが、1952年盤については2011年1月、EMIがSACD化を行ったことによって信じ難いような良好な音質に蘇ったところであり、長年の渇きが癒されることになった。

他方、本演奏については、これまではオーパスによる復刻盤がベストの音質であったが、1952年盤がSACD化された今となっては、とても満足できる音質とは言い難いものがあった。

ところが、今般のターラレーベルによるSACD化によって、さすがに1952年盤ほどではないものの、オーパスなどのこれまでの復刻CDとは次元の異なる良好な音質に生まれ変わったと言える。

いずれにしても、「ウラニアのエロイカ」をこのような高音質SACDで聴くことができる喜びを大いに噛み締めたい。

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2015年05月20日


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フルトヴェングラーの代名詞と言えば、ベートーヴェンの交響曲であるが、9曲ある交響曲の中でも第1番を除くいわゆる奇数番の交響曲については、自他ともに認める十八番であったと言えるだろう。

それら4曲の交響曲については、かなりの点数の録音が遺されているのも特徴であり、近年になっても新発見の録音が発掘されたり、あるいはより音質のより音源の発見、さらにはSACD化などの高音質化が図られるなど、フルトヴェングラーの指揮芸術に対する関心は、没後50年以上が経っても今なお衰えの兆しが一向に見られないところだ。

フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲第9番の名演としては、諸説はあると思うが、これまでのところ、レコード史上不滅の金字塔と言われるバイロイト祝祭管弦楽団とのライヴ録音(1951年)、大戦中のベルリン・フィルとのライヴ録音(1942年)、円熟期のウィーン・フィルとのライヴ録音(1952年)が3強を形成していたと言える。

もちろん、これら3つの演奏自体が圧倒的な素晴らしさを誇っているのであるが、それ以上に、これらの名演についてはSACD化が図られているというのも大きいと言えるのではないだろうか。

フルトヴェングラーの録音は、演奏が素晴らしくても音質が良くないというのが定評であり、逆に、これまであまり評価が高くなかった演奏がSACD化によって、高評価を勝ち取ることもあり得るところである(例えば、1947年5月25日のベートーヴェンの交響曲第5番、第6番「田園」のライヴ録音)。

本盤に収められた1954年の交響曲第9番についても、先般のSACD化によって、そのような可能性を秘めた名演と言えるだろう。

これまで、とりわけトゥッティにおいて音が団子状態になったり、不鮮明で聴き取りにくい箇所が極めて多かったのが大幅に解消され、前述のバイロイト盤、ベルリン盤、ウィーン盤にも十分に対抗できるような良好な音質に生まれ変わった意義は、極めて大きいことである。

本演奏は、フルトヴェングラー最晩年のものであるが、それだけに最円熟期のフルトヴェングラーによる至高の指揮芸術を、これまでとは違った良好な音質で堪能することができるようのなったのは実に素晴らしいことと言えるだろう。

第1楽章冒頭の他の指揮者の演奏の追随を許さない深遠さ、その後のとても人間業とは思えないような彫りの深さ、第3楽章の誰よりもゆったりしたテンポによる演奏の神々しいまでの崇高さ、そして終楽章のドラマティックな表現など、フルトヴェングラーだけに可能な至芸は、我々聴き手の深い感動を誘うのに十分である。

オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団であるが、寄せ集めのバイロイト祝祭管弦楽団よりも遥かに実力が上であることも大きなアドバンテージであると言えるところであり、ホルンがデニス・ブレインであることも聴きものである。

いずれにしても、SACD化によって、これまでとは格段に良好な音質に生まれ変わるに至った本盤の演奏は、バイロイト盤、ベルリン盤、ウィーン盤とともに4強の一角を占めるとも言うべき至高の超名演に位置づけられることになったと言えるところであり、本SACD盤が廃盤にならないことを願うのみである。

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2015年05月11日


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これはフルトヴェングラーの遺した数多いディスクの中でも、特に素晴らしい名演奏の1つである。

コンラート・ハンゼンは1906年生まれのドイツのピアニストで、あまり有名ではないが、この「第4」に関するかぎりバックハウスよりも遥かに見事だ。

全体の主導権は指揮者が握っており、たとえば造型などまったく自由自在なフルトヴェングラーのそれであるが、ハンゼンはあたかも自分自身が感じている如く自然に溶け込んでいる。

いや、ハンゼンは精神的にロマンティックなピアニストなのであり、要するにフルトヴェングラーと同じ感情を持った人なのであろう。

おそらく独奏をさせればこんなにすごい造型は創造し得ないだろうが、天才的な指揮者と協演して自己の理想を発見し、心からの尊敬と共感と歓びとをもって弾いているに違いない。

実際、ハンゼンのピアノにはすべての人間感情が隠されている。

素朴でしっとりとした雰囲気、澄みきったリリシズムを基本としながらも、テンポを大きく動かし、大胆きわまる感情移入を随所に見せる。

第1楽章展開部冒頭の驚くべき遅いテンポ、第1楽章再現部の聴く者を興奮させずにはおかない打ち込み方、第2楽章の強い訴えなどがその例だが、至るところに見せる左手の強調、表情豊かな盛り上げ、チャーミングなトリル、ロマンティックな歌、付点音符の名人芸的な弾ませ方など、これ以上は望めないというぎりぎりの線にまで達している。

そしてフルトヴェングラー&ベルリン・フィルの精神そのものの響きがハンゼンのソロを有機的に包み込み、特に繊細さと寂しい静けさの2点においては比較するものとてあるまい。

ベートーヴェンの意図をこれほどニュアンス豊かに感じきって演奏した例は他に皆無だし、ハンゼンもまことに印象的だ。

フィナーレのコーダにおける激しい加速、それ以上に第1楽章コーダの極度に遅いテンポも別の曲を聴く趣があろう。

しかも両者はつとめて即興的な再現を試みているらしく、それが演奏をたった今生まれたようなみずみずしさで蔽うのである。

ともかく、ハンゼンもフルトヴェングラーも、ここではやりたいことをすべてやり尽くしている。

こんなに主観的な演奏はないとも言えるが、聴いていると演奏者の存在は忘れてしまい、音楽の美しさだけが身に迫ってくる。

ベートーヴェンの「第4協奏曲」を徹底的に堪能できるのであり、この演奏によって初めてこの曲の良さを知る人もきっと多いに違いない。

特筆すべきは第1楽章のカデンツァで、ハンゼンはここでベートーヴェン自作のものを使用しながら、後半に入ると自由に変化させ、「熱情ソナタ」の動機さえも組み入れて素晴らしい効果を上げている。

ことによるとフルトヴェングラーの考えが入っているのかもしれない。

他方、ベートーヴェンの「第7交響曲」は、あくまでも私見であるが、フルトヴェングラー&ウィーン・フィル(1950年盤)、クレンペラー&ニューフィルハーモニア管(1968年盤、EMI)、そしてカラヤン&ベルリン・フィル(1978年盤、パレクサ)を名演のベスト3と考えているが、劇的な迫力という観点からすれば、むしろ1950年盤よりも上ではないかと思われ、前述の1950年盤との比較をどうしても考えてしまう。

テンポはめまぐるしく変化し、随所におけるアッチェレランドの連続、金管楽器の最強奏や低弦によるドスの利いた重低音のド迫力など、自由奔放と言ってもいいくらい夢中になって荒れ狂うが、それでいて全体の造型にいささかの揺るぎもなく、スケールの雄大さを失わないのは、フルトヴェングラーだけが成し得た天才的な至芸と言えるだろう。

SACD化により、さすがに最新録音のようにはいかないが、フルトヴェングラー&ベルリン・フィルの戦時中の至芸を従来盤よりも鮮明な音質で味わうことができる。

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早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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