フルトヴェングラー

2017年06月24日


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先ず収録曲の音質についてだが、音源はいずれも第2次世界大戦中のものであることを考慮すれば時代相応と言うことができる。

録音方法も使用されたマテリアルも最良とは言い難いが、幸いマスター・テープは破綻のない保存状態で残されていたようだ。

SACD化によって音場に奥行きが出て比較的余裕のある音響が再現され弦の高音にも潤いが出ているが、分離状態に関してはそれほど改善はみられない。

クライマックスの全オーケストラが鳴り響く総奏部分では音割れこそないが団子状態になってしまいそれぞれの楽器固有の音が再生し切れていないが、これはこの時代のモノラル録音の宿命だろう。

併録されている交響曲第7番の第2楽章は更に2年遡る1942年の録音だが、皮肉にもこちらの方が良好な音質が保たれている。

ただし収録は第2楽章アダージョのみで、1949年から51年にかけて彼がベルリン・フィルを振った3回の同曲の全曲録音とは別物で、単独で遺された放送用ライヴ音源のようだ。

幸いどちらも聴衆からのノイズは一切混入していない。

フルトヴェングラーの指揮したブルックナーの交響曲第9番では唯一の音源が1944年10月7日のベルリンに於ける当ラジオ・ライヴである。

このブルックナー未完の大作は終楽章を欠いた形で遺されていて、原典主義を重んじたフルトヴェングラーは、作曲家の書いた楽章以外には何も付け足さずに第3楽章迄で演奏を終了している。

それでもこの曲の演奏時間はトータル57分59秒で、完成していれば彼の交響曲の中でも最大の規模を持った作品になっていた筈だ。

それだけにこの曲の解釈は演奏家は勿論、音楽学者や批評家によって様々で、フルトヴェングラーの遺したこの録音は自己主張が強く、極めて劇的で豪快、振幅の大きい音楽である。

特に曲中でしばしば起こる恣意的で性急とも思えるテンポの変化が現代人の私達の耳にはあざとく聞こえて、この作品ではもっと素朴で端正な表現が望ましいと批判の矢面に立たされることが多いようだ。

それが時代遅れの手法であるか否かはこの際問わないことにして、ブルックナーがオーケストレーションの中に描き出したセオリーとエモーションが高い次元で止揚される壮大な音楽的構想は感じ取ることができると思う。

それはスコアから作曲家の楽理だけでなく宗教観や哲学を読み取る術を知っていた大指揮者ならではの解釈に違いなく、それを敢えて否定する気にはなれない。

従って、必ずしも万人向きの演奏ではないかも知れないが、途轍もない大きなエネルギーを秘めたフルトヴェングラーならではのブルックナーである。

大戦が敗色濃厚になっていたこの時期のドイツでベルリン・フィルを率いてブルックナー最後の大曲を録音すること自体異例な催しとしか考えられないが、ナチによる国民への士気高揚のためのプロパガンダのひとつだったのかも知れない。

ブルックナーの死への恐怖がドイツの滅亡の予感と共鳴しあい、この上ない凄絶な音楽を生み出していて、クレッシェンドとともにテンポが大きく揺れ動き、大きな音楽のうねりを作り出す。

しかも、それは外面的な効果とは全く無縁で、ブルックナーの音楽から決して逸脱おらず、この作曲家にはこうした一面もあったのだと改めて教えてくれる。

フルトヴェングラーにしてみれば自身の確固たる音楽的信念からの選曲だったに違いないが、ナチへの協力者というレッテルを貼られて戦後の一時期楽壇から追放されたのはこうした活動に起因しているのだろう。

しかし敗戦2週間後にベルリン・フィルは逸早く戦後最初のコンサートを開くことになる。

今度はソヴィエトのプロパガンダだったのだが、こうした大きな政治的変遷に振り回されながらも彼らはドイツの文化遺産を絶やすことなく継続していくことになるのは象徴的だ。

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2017年04月03日


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プラガ・ディジタルスからのハイブリッドSACDシリーズでは発売延期になっているルツェルン音楽祭でのベートーヴェンの『第9』を含めると既に7枚目のアルバムになるフルトヴェングラー演奏集。

今回は序曲『レオノーレ』第3番、交響曲第7番イ長調及び同第8番ヘ長調の3曲が収録されたオール・ベートーヴェン・プログラムだ。

昨年2016年5月にリリースされると同時に入手困難になったディスクで、一部の好事家だけでなく多くのフルトヴェングラー・ファンが注目していたことが想像される。

先にワーナーからリリースされたEMI音源のベートーヴェン交響曲全集では第2番と第8番が1948年の古いライヴ録音で、正直言ってその演奏の真価を問うにはほど遠い音質だった。

ここでの第8番は版権の異なる1954年の音源をリマスタリングしているが、勿論こちらの方が音質はずっと良く、SACD化はファンにとって朗報に違いない。

全曲とも擬似ステレオ化されているが不自然さはなく、オーケストラは総てウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で、この時代の彼らの醸し出す音色とその奏法が魅力のひとつになっている。

序曲『レオノーレ』第3番はライナー・ノーツには1944年6月2日のウィーン・ライヴと記されていて、彼の数種類ある同曲の録音では最も古いものだ。

音質は例外的に優れていて第2次世界大戦末期のウィーン・フィルにこれだけパワフルな演奏が可能だったことが興味深い。

第7番は1950年6月18日及び19日のスタジオ・レコーディングとの記載で、どちらが正確なデータか判断できかねるが、これは以前から知られていた同年1月のセッション録音と同一音源だ。

ワーナーのレギュラー・フォーマットの全集からの同曲と聴き比べると、ヒス・ノイズはいくらか多いがオーケストラの鳴りが俄然良く、特に弦楽セクションの勢いが全く違う。

終楽章のたたみかけるような追い込みに唸るように呼応するウィーン・フィルのアンサンブルも秀逸だ。

一方第8番はフルトヴェングラーが亡くなる年のザルツブルク音楽祭からのライヴだが、その生命力漲るエキサイティングな演奏に驚かされる。

ベートーヴェンはウィーンの交響曲には欠かせなかったメヌエットを早くから捨て去ってスケルツォを導入したが、この第8番の第3楽章にはこれが最後だと言わんばかりの、過去の習慣にきっぱりと別れを告げるような大上段に構えたメヌエットを書いている。

フルトヴェングラーはこの作曲家の皮肉っぽいユーモアを熟知していて、かつて聴いたことのないような壮大なメヌエットを奏でている。

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2017年04月01日


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フルトヴェングラーが遺したブルックナーの交響曲第4番の音源は複数存在するが、今回プラガによってSACD化されたのが1951年のシュトゥットガルト・ライヴで、録音データについては諸説あり、このディスクのライナー・ノーツには10月20日と書かれている。

モノラル録音ながら音場にかなりの拡がりがあり低音域も豊かだが、SACD化によって奥行きも感知されるようになり、高音部の再現にも無理がない。

放送用ライヴのためか幸い雑音が極めて少なく音質も良好で、聴衆の咳払いや拍手も一切入っていない。

第1楽章冒頭のいわゆるブルックナーの霧の中に現れるホルン・ソロのミスが聞かれるので、リマスタリングに使われた音源は修正されていないオリジナル・マスターのコピーだろう。

この程度のミスはライヴにはつきもので、虚構を増長するような部分的な差し替えは、それがテクニック的に可能であったとしてもかえって興醒めしてしまう。

スコアは基本的に第3稿(1878ー80)だがレーヴェ版の第3楽章後半のカット部分を復活させて、全曲の演奏時間は66分40秒でハース版に近いものになっている。

ここでもフルトヴェングラーの自己主張が大胆に示されており、全体に極めて劇的な表現をつくり、緩急自在のテンポ感覚に情念が渦巻くようなディナーミクの変化が相俟ってかなり個性的なブルックナーに仕上げられている。

第1楽章から自在な解釈が面白く、聴衆を彼の世界に引き込んでいく変幻自在な指揮法が際立っているが、それに従うウィーン・フィルの特質も浮き彫りにされている。

圧巻は終楽章で、壮麗なうちに感動に満ちたものとなっており、精神の高揚と解放が生き生きと表されている。

大自然の抱擁をイメージさせる弦の温もりやウィンナ・ホルンを始めとするブラス・セクションの渋い音色の咆哮は、より輝かしいサウンドのベルリン・フィルとは対照的で、荘厳な雰囲気の中に導かれる終楽章のカタルシスは理屈抜きで感動的だ。

この曲はウィーン・フィルが初演した作品でもあり、彼らにも伝統を受け継ぐ自負と限りない愛着があったに違いない。

通常ブルックナーの歴史的名盤としては採り上げられないが、一般に考えられているブルックナーとは異なるロマン派の演奏様式としても尊重すべきであり、フルトヴェングラー・ファンだけにキープしておくには勿体ない演奏だ。

ブルックナーらしくないという意見も出ようが、ここまで音楽的になり、豊かな創造性を持つとこれはこれで立派な存在理由がある。

余白にカップリングされたワーグナーの『パルジファル』第3幕から「聖金曜日の音楽」は、同年4月25日のカイロ・ライヴとクレジットされていて、オーケストラはベルリン・フィルになる。

音質に関してだがオーケストラの音響の再生自体は擬似ステレオだが悪くなく、またベルリン・フィルのメンバーの巧みなソロも聴きどころだが、ヒス・ノイズが全体にベールのようにかかっていてやや煩わしいのが残念だ。

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2016年12月05日


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HQCD化によるフルトヴェングラー・シリーズの1枚で、1953年8月12日のザルツブルク音楽祭における一晩のライヴ録音を、プロデューサーはシュヴァルツコップの夫君ウォルター・レッグが担当している。

モノラル録音で経年によるマスター・テープの劣化は否めないが、リマスタリングの効果でかなり聴きやすくなっていることは確かだ。

ヴォルフ没後50年を追悼する全曲ヴォルフのプログラムで、稀代のヴォルフ歌いシュヴァルツコップの彫りの深い歌唱を巧妙に支え、ある時は積極的に歌を先導するフルトヴェングラーのピアノも聴きどころだ。

もっとも、当時まだ38歳だった彼女が大指揮者からの薫陶を得たというのが事実かも知れない。

ジェラルド・ムーアは一流どころの指揮者やピアニストが歌曲の伴奏をすることを強く推奨していた。

それによって歌と伴奏がどういう関係にあるのか初めて体験し得るし、声楽曲の芸術性をより深く理解できるというのが彼の主張だった。

ちなみにこれに先立つ1949年のエディンバラ音楽祭でブルーノ・ワルターがシューマンの『女の愛と生涯』でキャスリーン・フェリアーの伴奏をした録音が遺されている。

彼らに共通することは、ピアノという楽器を超越したところで伴奏を成り立たせていることで、一見朴訥なようでじっくり鑑賞する人にはオーケストラを髣髴とさせる奥深さを内包しているのが聴き取れるだろう。

女声ではシュヴァルツコップ、男声ではフィッシャー=ディースカウやハンス・ホッターなどの詩に対する感性の鋭さは、ドイツ語のメカニズムや心理描写に至る声の陰翳付けなど、あらゆる発声のテクニックをコントロールして表現するところに表れている。

ドイツ・リートの中でもヴォルフの作品では、文学と音楽とが最高度に洗練された状態で結び付いているために歌手と伴奏者の芸術的レベルとその表現力が拮抗していないと、目まぐるしい転調や神経質とも言える楽想が聴くに堪えないものになってしまう。

その意味で本盤は、若々しく艶のある名花シュヴァルツコップと大指揮者フルトヴェングラーの素晴らしさを満喫できるひとつの理想的なライヴ録音と言える。

尚歌う前と小休憩ごとに拍手が入っているが、客席からの雑音は殆んど聞こえない。

この音源は過去にオルフェオやEMIから出ていたもので、昨年ワーナーからリリースされた『シュヴァルツコップ・ザ・コンプリート・リサイタルス』のCD29にも収録されている。

ヴォルフはテクストとして選択した詩を、恐ろしいほどの洞察力で汲み尽し、その言霊の抑揚ひとつひとつに人間の心理やさがを発見し、嬉々としてそれを楽譜に写し取っていった。

ピアノはもはや伴奏の範疇を抜け出して歌詞と対等な立場で、またある時はそれ以上に語りかけてくる。

その手法は森羅万象を表すだけでなく心理描写にも心血が注がれていて、それは殆んど狂気と紙一重のところで行われた作業であるために、その再現には尋常ならざる機知とアイデア、そしてそれを裏付けるだけの高度な表現力が歌手と伴奏者の双方に要求されることには疑いの余地がない。

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2016年10月27日


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晩年のフルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲の演奏は、他のレーベルをも含めれば、全曲をウィーン・フィルによって聴くこともできるが、全集という形で手にするとするならば、これが唯一最高のものと言うことができよう。

歴史的名演とも言えるバイロイト音楽祭ライヴの《第9》が含まれているばかりでなく、いくつかの作品は、彼の録音の中でも傑出したものであり、録音条件の不利をこえた価値がそこにはある。

それは、フルトヴェングラーの音楽と精神とが集約されたものと言っても過言ではなく、創造性にあふれた芸術の記録として、いずれも貴重なものである。

ベートーヴェンの演奏も、人が変わり、時代を追ってくるに従って、かなりの変化をみせてきたが、これは永遠の規範ともなり得よう。

極めて陰影豊かな第1番、若々しい音楽を流動させる第2番、端然とした造型の《エロイカ》、深沈として情感を色濃く漂わせた第4番や《田園》、均整感が強く堂々とした第5番や第7番と、どの演奏も強烈な個性をもった雄渾な表情だ。

第8番の音楽的創意の豊かさも比類なく、第9番は劇的で雄大、声楽陣の充実も素晴らしい。

このベートーヴェン交響曲全集のマスターは2010年に同音源がSACD化された時のリマスタリングで、今回レギュラー・フォーマットのCD5枚に収録してバジェット・ボックスとしてリイシューされた。

それ以前のCDに比べると音質はかなり良くなっていて、潤いと艶のあるサウンドが得られているが、9曲の中では最も古い1948年録音の第2番及び第8番の2曲はさすがにスクラッチ・ノイズの彼方でオーケストラが鳴っているといった感触で、他に音源のないことが惜しまれる。

第8番と第9番以外のオーケストラはウィーン・フィルで、この時代の彼らのローカル色豊かな音響とアンサンブルを堪能できるのも特徴だ。

5枚目の第9番は1954年のルツェルン音楽祭ではなく、それより古い1951年のバイロイト・ライヴだが最後の拍手が入らなければセッションと思えるほど音質に恵まれていて、フルトヴェングラーの憑かれたようにテンポを上げていく熱狂的なフィナーレが聴きどころだ。

第7番に関しては新たに発見された未使用のテープからのリマスタリングという触れ込みだった。

確かに1950年の録音としては良好な音源には違いないが、期待したほどの音質の向上は感じられなかった。

いずれにしても交響曲全曲演奏を通してフルトヴェングラーによるベートーヴェンへの独自の解釈、特にそれぞれの楽器の扱い方やダイナミクスがより一層明瞭に感知されるようになり、自在に変化するテンポ感と相俟って特有の高揚感を体験させてくれる。

入門者にも気軽に鑑賞できるリーズナブルなバジェット・ボックス化を歓迎したい。

尚総てがモノラル録音だが、何曲かについては電気的に音場を拡げた擬似ステレオのように聞こえる。

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2016年10月10日


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プラガ・ディジタルスからのハイブリッドSACDシリーズの1枚で、フルトヴェングラーの演奏集としては既に7枚目のリリースになる。

早期のウィーン楽派と題されていて、ウィーンに本拠地を置いて音楽活動を続けたハイドンとモーツァルトの作品4曲を収録している。

1948年から53年にかけて彼がウィーン・フィル及びベルリン・フィルを振ったもので、総てがモノラル音源だがリマスタリングによる音質の改善という点では、音場が拡がり音色が艶やかでそれぞれのホールの潤沢な残響も煩わしくない程度に再現され、かなり満足のいく仕上がりになっている。

フルトヴェングラーは古典派であろうがロマン派であろうが、その音楽に内包された表現の劇的な部分を実にスケール豊かな演奏に置き換えてしまう。

1曲目の『フィガロの結婚』序曲は一陣の風が吹き抜けるような短い幕開けの音楽だが、フルトヴェングラーはコーダの手前からアッチェレランドして、猛烈な拍車をかけて追い込むように曲を締めくくっている。

イン・テンポを崩さない現在の解釈とは異なった意外性がかえってこのオペラの性急で革新的な本質を暗示していると言えるだろう。

モーツァルトの第40番ト短調はフルトヴェングラーのロマンティシズムが良くマッチしていて、古典派を通り越した迸るような疾走感と不安を掻き立てるような陰鬱さに彼のカリスマ性が発揮されている。

モーツァルトと言えば、ワルターの名がまず思い浮かべられるに違いないし、同曲についても、彼の演奏を1つの理想や規範とする人々がかなり多いに違いない。

しかし、この作品については、ある意味それとは対極的な存在をなすフルトヴェングラーの演奏を忘れることはできないし、1度それに触れると、その体験が心の底に焼きつけられる可能性さえある。

それは、抑えがたいような悲劇的情感がもたらす緊迫感に溢れたもので、時に鬼気迫るものさえ感じさせるが、クラリネットが加わらない第1版の本質は、こうしたところにもあるのかもしれない。

テンポも、単なる速さということよりも、精神的な緊張にすべての音が動かされた結果と言えるところであり、曲の劇的な側面とフルトヴェングラーの波乱の人生経験とがまさに合体したような演奏と言うべきかもしれない。

モーツァルトの音楽の深さ、情感の豊かさ、デモーニッシュな激しさ、あらゆる次元での音楽表現の可能性の広さと言ったものを、このフルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルの演奏から感じ取ることができる。

この曲にここまでの悲劇性があったのかと思わせる演奏内容であり、いつの時代にも聴き手の心に強く深くアピールする演奏となっている。

それに続く2曲のハイドンでも均整のとれた整然とした古典派の形式感というよりは、むしろドラマティックな情熱が滾った生気に溢れた表現が印象的で、モチーフの有機的な処理も鮮やかだ。

そこにはモーツァルトやベートーヴェンの先駆者としてのウィーン楽派の威厳を感じさせるものがある。

作品を大きく見せるのはもちろん、演奏を通して作曲家の存在および意志をはっきり実感させてくれるのがフルトヴェングラーだと筆者は思っている1人だが、彼の手に掛かるとハイドンの交響曲も内面的な感動が極めて大きく厚みのあるものになる。

数あるハイドンの交響曲のうち、第88番《V字》に惹かれる人は、かなりのハイドン好きに違いなく、誰もが注目するほど広く知られているわけではないが、優れた演奏で聴いたら、きっと忘れられなくなるだろうし、ウィーン楽派の神髄に触れさせてくれる、そんな作品の1つである。

フルトヴェングラーの指揮で聴くと、ハイドンの世界が一層大きく、一層深く感じられるから不思議である。

聴きようによっては、ハイドンのベートーヴェン化、といった思いがしなくもないが、それだけ奥行きが深い指揮者だったのだろう。

4つの楽章の音楽的性格の的確な描き分け、強い求心力を感じさせる造型性は他に類がない。

第94番《驚愕》も、少しもこせついたところがない悠然たるテンポで、スケール大きく歌い進んでゆく。

ここに流れているのは、音楽としての自然な呼吸、そして作品に対する深い共感で、演奏全体に漂う大人の風格は、この指揮者ならではのものだ。

ここでフルトヴェングラーは彼らしくないほどに古典的な端正さで演奏しており、大きな身振りもないが、それでいて音楽の作りは大きく、古典派交響曲としての佇まいを緻密かつ美しく示して余すところがない。

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2016年05月09日


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プラガ・ディジタルスSACDシリーズでは既に5枚目になるフルトヴェングラー演奏集で、今回はシューマンの交響曲第1番変ロ長調Op.38『春』、序曲『マンフレッド』Op.115及び交響曲第4番ニ短調Op.120の3曲を収録している。

交響曲第1番は1951年10月29日のミュンヘンに於けるウィーン・フィルとのライヴ、『マンフレッド』は1949年12月18日のベルリン・ライヴ、交響曲第4番は1953年5月14日のベルリンでのセッション録音で後者2曲のオーケストラはベルリン・フィルとクレジットされているので、それぞれがデッカ及びドイツ・グラモフォンからリリースされていたものと同音源になる。

総てがモノラル録音で、音質は交響曲第1番では鑑賞可能といった程度で、彼の音楽的な意図が手に取るように理解できることは確かだが、分離状態も鮮明さもそれほど期待できないことはフルトヴェングラー・ファンであればご承知の通りだ。

SACD化でいくらか音場に立体感が出て高音の伸びが良くなったことは認めるが、この音源からそれ以上の音質向上は望めないだろう。

それに反して他の2曲は時代相応の録音状態だが幸い高度な鑑賞にも堪え得る音質が保たれている。

尚交響曲第4番は音場の拡がりから擬似ステレオ化されているものと思われる。

フルトヴェングラーのシューマンの作品への解釈とその演奏は非常に評価が高く、交響曲第4番に至っては歴史的名演のひとつとされているばかりか、古今のあらゆる録音の中でも最高のセッションという評価を下す人も少なくない。

シューマンの薫り立つようなロマンティシズムや文学的センスが彼の変幻自在に変化するテンポ感やディナーミク、管弦楽法の巧みな処理によって弥が上にも高められ、情念の渦巻くような効果を引き出していく手腕には確かに恐るべきものがある。

現代の演奏では考えられないほど世紀末的で恣意的な趣味を引き摺っているように思われるかも知れないが、批評家達の受け売りをすればそこに不自然な強引さを感じさせないだけのモティーフの有機的な結合と、絶え間ない奔流が知的にコントロールされているのも事実であろう。

フルトヴェングラー独自のこうした手法が現代に生きる私達にかえって新鮮な感覚をもたらして、今もってその演奏に惹きつけて止まない理由ではないだろうか。

ちなみに第2楽章の独奏ヴァイオリンは当時のベルリン・フィルのコンサート・マスター、ジークフリート・ボリスで、控えめだが温もりを感じさせるソロがひと時の安らぎを与えてくれる。

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2016年04月25日


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フルトヴェングラーのブル5(ハース版準拠)はウィーン・フィルとの1951年のザルツブルクでのライヴ盤がよく知られている。

この1942年のライヴ録音は意外に音がクリアで迫力に富み、大戦中のベルリン・フィルとの録音の中でも音は最良のもので、1951年盤よりはるかに明確にフルトヴェングラーのブルックナー観が打ち出されている。

本演奏では、フルトヴェングラーが若々しい気迫に満ちた音楽を聴かせ、アゴーギクとデュナーミクを巧みに融合させた効果は、まさに名人芸と言わねばなるまい。

生前、ブルックナー協会の会長をつとめていたフルトヴェングラーの、ブルックナーの音楽に対する傾倒の深さを物語るかのような、雄渾な演奏で、その彫りの深い、雄大な表現には圧倒されてしまう。

特に第1楽章の冒頭、序奏部のあとのブルックナー休止に続くティンパニの一撃と金管の壮烈なコラールはフルトヴェングラーの真骨頂を示すもの。

フルトヴェングラーの視点から再構成されたブルックナーという印象もあるが、その音楽の壮大さは比類がなく、全編、ライヴならではの即興性はあるものの、それ以前に強固な演奏スタイルを感じる。

フルトヴェングラーの指揮も、ブルックナーの信仰告白とも言うべきこの曲に対して、深い精神性に裏づけされて見事に音化されている。

フレーズの処理が実に生き生きとしており、オーケストラは常時に変化するテンポ、リズムにピタッとあわせ、その一方でメロディは軽く、重く、明るく、暗く、変幻自在に波打つ。

凡庸な演奏では及びもつかない凝縮感と内容の豊穣さであり、作品の世界にのめりこみながらも、バランスを崩す直前で踏みとどまるが、その匙加減が絶妙だ。

第1楽章、ブルックナーに特徴的な「原始霧」からはじまり、順をおって登場する各主題をフルトヴェングラーは意味深長に提示していく。

それはあたかも深い思索とともにあるといった「纏」(まとい)とともに音楽は進行していく。

この曲は極論すれば第1楽章で完結しているかの充足感があるが、続く中間2楽章では、明るく浮き立つメロディ、抒情のパートはあっさりと速く処理し感情の深入りをここでは回避しているようだ。

その一方、主題の重量感とダイナミックなうねりは常に意識され、金管の分厚い合奏がときに前面に出る。

終楽章は、第1楽章の<対>のように置かれ、各楽章での主題はここで走馬灯のように浮かび、かつ短く中断される。

その後、主題は複雑なフーガ、古式を感じさせるコラール風の荘厳な響き、そしてブルックナーならでは巨大なコーダへと展開され、長い九十九折(つづらおり)の山道を登り峻厳なる山頂に到達する。

このブル5、フルトヴェングラーの演奏スタイルに特異な魔術(デーモン)を感じ、作品にふさわしいドラマティックな要素が際立つ。

現代においては殆ど聴かれない大時代的なアプローチとも言えるが、1942年においては一般的なアプローチであり、フルトヴェングラーの演奏が必ずしも特異なものであったとは言えない点に留意すべきであろう。

旋律のみずみずしいしなやかさ、地の底から噴きあげるようなブラスの和声の充実感、作為なく、ブルックナーの音楽そのものを感じさせる造型、あらゆる点で、もう二度と現れまいと思われるような演奏である。

今日のブルックナー解釈とは異なる世界に位置する歴史的名盤である。

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2016年02月14日


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1951年8月19日、ザルツブルク音楽祭における歴史的ライヴ録音で、伝説的なブルックナーとして有名なもの。

作品と指揮者が運命の糸で結ばれている、そんな磁力にも似た求心力を背景にうねるような起伏をもって再現された名演、熱演。

ウィーン・フィルの個性的な音と演奏が豊かであった時代の演奏であり、流暢で深い陰影をもった情緒的表現は、確かに伝説になるだけの価値のあるものだ。

フルトヴェングラーの指揮も、ブルックナーの信仰告白とも言うべきこの曲に対して、深い精神性に裏づけされて見事に音化されている。

フルトヴェングラーは、ドイツ・ブルックナー協会の会長をしていたので、いわば、ブルックナーの専門家であるが、そうした面目が、この古い録音の全面ににじみ出ている。

そうしたフルトヴェングラーの、ブルックナーの音楽に対する傾倒の深さを物語るかのような、内面的な燃焼度の高い、雄渾な演奏で、そのその強烈な個性と彫りの深い、雄大な表現には圧倒されてしまう。

個性的でスケールの大きい表現だが、あまりにロマン的で、ブルックナーの素朴さよりもフルトヴェングラーの音楽を聴く感が強い。

それでもこの指揮者の芸術的ルーツが、ブルックナーと同じところにあることを理解できる自然体の表現であり、そこに演奏の魅力もあるのである。

フルトヴェングラーの視点から再構成されたブルックナーという印象もあるが、その音楽の壮大さは比類がなく、やや晦渋な表現ながら、終楽章の雄大なスケール感は圧倒的である。

音楽の豊かなダイナミズムと、強い緊張感が維持されている第5番であり、この大胆なアゴーギクはフルトヴェングラーらしさを印象づけるものだ。

この演奏におけるフルトヴェングラーのドラマティックな音楽の盛り上げ方は、ブルックナー・ファンの間で意見の分かれるところだが、フルトヴェングラーならではの至高の世界を作り上げている。

現代においては殆ど聴かれない大時代的なアプローチとも言えるが、1951年においては一般的なアプローチであり、フルトヴェングラーの演奏が必ずしも特異なものであったとは言えない点に留意すべきであろう。

旋律のみずみずしいしなやかさ、地の底から噴きあげるようなブラスの和声の充実感、作為なく、ブルックナーの音楽そのものを感じさせる造型、あらゆる点で、もう二度と現れまいと思われるような演奏である。

精神的な高さと深さで、これを凌駕するような演奏は未だもって他にはなく、聴いた後に深い感動の残る秀演である。

フルトヴェングラーの手にかかるとブルックナー作品はにわかに神秘的気配を強め、神々しくなる。

素朴な味わいや木訥な語り口に思えていた特質がその性格を一変させ、深層心理に肉薄するメスとなって機能しはじめ、聴き手に迫るのである。

フルトヴェングラーの巨大な個性によって大きく包み込まれたブルックナーのスケールとロマン、そして全容から立ちのぼってくる言い尽くせぬ香気には何者にも抗えないようなところがある。

この指揮者の深遠でしっとりとしたロマンティシズムが打ち出された演奏であり、官能的かつ叙情的な誘導が最大の魅力になっている。

また、フルトヴェングラーは、なにを指揮しても決して急ぎすぎることがなかった。

悠揚迫らぬそのテンポは、まずは聴き手を落ち着かせるのに力を発揮したばかりでなく、さらに進んで揺るぎない信頼を勝ちとった、と言って良いだろう。

これぞフルトヴェングラー人気の根源のひとつ、という気がする。

この第5番では、そうした独特のグランド・デザインによりながらも、ブルックナーの楽想を生かし、音楽を生かすため、フルトヴェングラーはテンポを細かく動かし、表情に変化を与え、クレッシェンドを活用して強い緊張感を生み出している。

そして表出されたブルックナーの深奥から湧き起こる音楽的情熱と、深々とした祈り、見事だ。

フルトヴェングラーの凄さに圧倒されてしまう巨人の足音である。

今日のブルックナー解釈とは異なる世界に位置する歴史的名盤であり、かつてこの演奏によってブルックナーの洗礼を受けた諸氏も少なくあるまい。

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2016年02月12日


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フルトヴェングラーは同曲をスタジオ録音をしておらず、当録音を含め3種のライヴ盤が出ていたが、このDG盤はEMI盤と並んで、名盤として有名なもので、カイロ放送局のテープによる復刻。

LP発売時にはハース版に準拠とされていたが、今回はシャルク改訂版に準拠と認められている。

しかし、いわゆる改訂版のイメージとは異なり、晴朗な抒情感と堅固な構築力をもった演奏である。

この演奏におけるフルトヴェングラーのドラマティックな音楽の盛り上げ方は、ブルックナー・ファンの間で意見の分かれるところだが、フルトヴェングラーならではの至高の世界を作り上げている。

決して音の状態は良いとは言えないが、生前、ブルックナー協会の会長をつとめていたフルトヴェングラーの、ブルックナーの音楽に対する傾倒の深さを物語るかのような、雄渾な演奏で、その彫りの深い、雄大な表現には圧倒されてしまう。

フルトヴェングラーの視点から再構成されたブルックナーという印象もあるが、その音楽の壮大さは比類がない。

旋律的な魅力によって曲の壮大な美しさを肌で感じることのできる演奏で、フルトヴェングラーは淡々と、しかもよく歌い切っていて、弦の美しい第2楽章ひとつとってもツボをしっかりつかんでいることがよくわかり、さすがに息長く歌わせて、連綿と続く歌の美しさにも特筆すべきものがある。

とはいえ、フルトヴェングラーとしては淡泊な表現で、彼一流の劇性は希薄となっており、抑制のきいた表現とも言えるが、それでもアダージョ楽章は非常に音楽的だ。

作品にふさわしい抑制もきかせているが、クライマックスの構築の仕方はあくまでフルトヴェングラー流。

一貫してメロディ・ラインを重視し、作品の無限旋律の美しさを見事に歌い出すが、第1・第2楽章の無時間的な広大さなど、ほとんど魔力的な世界であり、その中でもとくに第2楽章、クライマックスへの織りなしは圧倒的な効果を放っている。

また、第1楽章と終楽章におけるテンポの大きな動きを伴うロマン的な語り口はこの指揮者ならでは。

この作品の情緒を深くつかんでいればこそとれた手段で、フルトヴェングラーの芸術に直に触れる思いがする。

フルトヴェングラーの手にかかるとブルックナー作品はにわかに神秘的気配を強め、神々しくなる。

素朴な味わいや木訥な語り口に思えていた特質がその性格を一変させ、深層心理に肉薄するメスとなって機能しはじめ、聴き手に迫るのである。

フルトヴェングラーの巨大な個性によって大きく包み込まれたブルックナーのスケールとロマン、そして全容から立ちのぼってくる言い尽くせぬ香気には何者にも抗えないようなところがある。

この指揮者の深遠でしっとりとしたロマンティシズムが打ち出された演奏であり、官能的かつ叙情的な誘導が最大の魅力になっている。

美しさを超えた第2楽章を感動の核としながらも、この交響曲全体像が怒涛となって聴き手に襲う演奏は他に例がなく、怖くなるようなフルトヴェングラーの指揮芸術の奥義を堪能させる。

ベルリン・フィルの楽員たちは全身全霊を傾けて表現している。

今日のブルックナー解釈とは異なる世界に位置する歴史的名盤であり、かつてこの演奏によってブルックナーの洗礼を受けた諸氏も少なくあるまい。

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2016年02月07日


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1944年10月17日、ウィーン、ムジークフェライン・ザールでのライヴ録音。

旧DDR放送局のテープから復刻されたもので、ハース版に基づいた演奏だが、フルトヴェングラーが若々しい気迫に満ちた音楽を聴かせ、アゴーギクとデュナーミクを巧みに融合させた効果は、まさに名人芸と言わねばなるまい。

ブルックナーの交響曲第8番は、ブルックナー自身が、「私の書いた曲の中で最も美しい音楽」と言って自信をもっていたという。

そうしたこの第8番を、フルトヴェングラーは、内面的な燃焼度の高い、雄渾な演奏で聴かせ、その強烈な個性には圧倒されてしまう。

作品と指揮者が運命の糸で結ばれている、そんな磁力にも似た求心力を背景にうねるような起伏をもって再現された名演、熱演。

個性的でスケールの大きい表現だが、あまりにロマン的で、ブルックナーの素朴さよりもフルトヴェングラーの音楽を聴く感が強い。

それでもこの指揮者の芸術的ルーツが、ブルックナーと同じところにあることを理解できる自然体の表現であり、そこに演奏の魅力もあるのである。

フルトヴェングラーの解釈は作品との強い一体感をベースとしたもので、それはバーンスタインがマーラー演奏に見せた陶酔感すら覚えさせるものがあるが、大戦中に演奏されたフルトヴェングラーのブルックナーには例えようもない気品と影の暗さがあり、それが感動のテンションをさらに高める。

そうした美質を引っさげてフルトヴェングラーはブルックナーの核心部分へと果敢かつ勇猛に足を踏み入れていきながら、聴き手を抗し難い興奮へと巻き込み、陶酔的感動に浸らせてしまう。

精神的な高さと深さで、これを凌駕するような演奏は他にないと言えるところであり、聴いたあとに深い感動の残る秀演である。

とりわけ、第3楽章アダージョは比類のない美しさで、晩年のブルックナーが到達した深い精神性が見事にあらわれている。

この第3楽章アダージョの部分を聴くと、ブルックナーの音楽の雄大さ、フルトヴェングラーの表現力の息の長さ(ウィーン・フィルの器の大きさも加えるべきなのかもしれない)に、誰もが圧倒されてしまうことであろう。

われわれの日常生活で用いられている単位では、とても手に負えないような雄大さであり、息の長さである。

こうした芸術活動だけに許されるような次元に接する機会が、最近はとみに少なくなってしまった。

また、フルトヴェングラーは、なにを指揮しても決して急ぎすぎることがなかった。

悠揚迫らぬそのテンポは、まずは聴き手を落ち着かせるのに力を発揮したばかりでなく、さらに進んで揺るぎない信頼を勝ちとった、と言って良いだろう。

これぞフルトヴェングラー人気の根源のひとつ、という気がする。

この第8番では、そうした独特のグランド・デザインによりながらも、ブルックナーの楽想を生かし、音楽を生かすため、フルトヴェングラーはテンポを細かく動かし、表情に変化を与え、クレッシェンドを活用して強い緊張感を生み出している。

そして表出されたブルックナーの深奥から湧き起こる音楽的情熱と、深々とした祈り、見事だ。

フルトヴェングラーの凄さに圧倒されてしまう巨人の足音である。

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2016年01月13日


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フルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる1951年の『ザ・グレイト』の音源は過去にドイツ・グラモフォンからシングルレイヤーの限定盤としてSACD化されていたものだが、今回プラガ・ディジタルス独自のリマスタリングによるハイブリッド盤がリリースされたことを歓迎したい。

カップリングされたもう1曲はベートーヴェンの交響曲第9番の終楽章で、1954年8月22日のルツェルン音楽祭からのライヴになる。

どちらもモノラル録音だがマスター・テープは、当時としては極めて良好な音質と保存状態でSACD化の甲斐がある音源であることに異論はない。

ベートーヴェンの『第9』が終楽章のみの収録というのは、如何にも余白を埋めるためのご都合主義としか思えないが、プラガでは近々全く同一音源の『第9』全曲のSACD化を予定しているので、これは一種のトレイラーとして聴いておくことにした。

ただしこの音源も既にアウディーテ・レーベルから2000年にSACDとしてリリースされていたものだ。

ちなみにヨーロッパではこのシューベルトの方が昨年末に既にメジャーなマーケットに出ていた。

15ページほどのライナー・ノーツには曲目解説とフルトヴェングラーのキャリア及びベートーヴェンの『第9』第4楽章のシラーの頌歌『歓喜に寄せて』の歌詞対訳が英、仏語で掲載されている。

シューベルトの交響曲第9番ハ長調『ザ・グレイト』は、当時のセッションとしては殆んど非の打ちどころのない音質を保っているのに驚かされる。

第1楽章冒頭のホルンは田園的な穏やかさで開始されるが、その後のテンポは柔軟かつ自在に変化して聴く者をフルトヴェングラーの世界に引き込んでおかずにはいない。

しかしオーケストラは常に清澄な響きを失うことがない。

勿論第1楽章の展開部や終楽章のクライマックスではブラス・セクションとの堂々たる総奏があるにしても、全体的には過度にドラマティックな表現や音楽の急激な変化を避けた、一点の迷いもない明朗なシューベルトが再現されているのが特徴だろう。

ベルリン・フィルの一糸乱れぬ精緻なアンサンブルも聴きどころで、SACD化によって楽器間の分離状態も向上して総奏部分でも音響がひと塊の団子状態になることが避けられている。

この時期のフルトヴェングラーのシューベルトの解釈が彼の第1回目の同曲の録音時とはかなり異なっているのも興味深い。

どちらも評価の高い演奏で、その優劣を問うことは殆んど意味を成さないだろうが、シューベルト的な豊かな歌謡性や抒情を感じさせるのがこの1951年盤だと思う。

こうした演奏を鑑賞していると、シューベルトが大上段に構えた管弦楽曲の作曲を目論んだ野心作というより、湧き出るような楽想を1曲の交響曲にまとめあげたという印象を受ける。

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2015年08月13日


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リヒャルト・シュトラウス、ワーグナーに続くプラガのフルトヴェングラーSACDシリーズ第3集は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番変ホ長調『皇帝』及び交響曲第5番ハ短調『運命』の2曲である。

前者がエドヴィン・フィッシャーのソロ、フィルハーモニア管弦楽団による1951年ロンドンEMIスタジオでの収録、後者がウィーン・フィルとの54年ウィーン・ムジークフェラインにおけるいずれもセッション録音になる。

初めてのSACD化ではないが、妥当な価格のハイブリッド盤でどれだけの音響が再生されるか興味があったので聴いてみることにした。

ジュエル・ケース裏面にHMVのLPからのリマスタリングと表記されているが、板起こし特有のスクラッチ・ノイズは一切聞こえない。

レコーディング技術に疎い筆者にはレーザーで読み取らせたものなのか、あるいはノイズが処理されているのか分からないが、かなり鮮明な音質が得られていることは確かで、また全く破綻がないのも古い音源の鑑賞にとっては好都合だ。

音場の拡がりから元になったLPが擬似ステレオ盤だったことが想像されるが、SACD化によって平面的な音響が回避され、いくらか奥行きも感じられるようになっている。

前回のワーグナーの音質がやや期待外れだったが、今回はかなり肯定的な印象を持つことができた。

それぞれの演奏については既に語り尽くされた名盤なので今更云々するつもりもないが、『皇帝』ではエドヴィン・フィッシャーのピアノの響きにクリスタリックな透明感が加わって演奏にそれほど古臭さを感じさせない。

確かに両者のテンポはかなり流動的で、部分的に聴くと大時代的ロマンティシズムのように思えるが、全体を通して鑑賞するのであれば彼らの音楽の普遍的な価値を見出せるだろう。

『運命』に関しては10種類以上の異なった演奏が存在するが、このウィーン・フィルとのセッションは、彼としては比較的冷静でテンポの変化もそれほど目立たない。

しかし音楽設計はさすがに見事で、テーマやモチーフの有機的な繋がりやその再現、楽章ごとの対比と全楽章を結束させる大詰めへの手腕は鮮やかだ。

派手なアピールはないが晩年のフルトヴェングラーの解釈を示した重厚なベートーヴェンと言える。

音質的には弦楽器群の音色が瑞々しく、時折聞こえる生々しい擦弦音も臨場感を高めている。

英、仏語による11ページの簡易なライナー・ノーツ付。

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2015年08月10日


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プラガ・ディジタルスでは初登場のフルトヴェングラーの第2集はワーグナーの劇場作品からのオーケストラル・ワーク集で、前回と同様ウィーン・フィルを振ったHMV音源からのSACD化になる。

第1集のリヒャルト・シュトラウス作品集が思いのほか良かったので今回も期待したが、音質的にはいくらか劣っていることは否めない。

その理由はマスター・テープの経年劣化で、さすがに1940年代のものはヒス・ノイズも少なからず聞こえるが、広めの空間で再生するのであればそれほど煩わしくはない。

むしろこの時代の録音としては良好で、LPで聴いていた時より音場の広がりと奥行きが加わり、モノラルながらしっかりした音像が得られているのはひとつの成果だろう。

またレギュラー・フォーマットのCDでは、こうした古い音源は往々にして痩せて乾涸びた響きになりがちだが、このSACDではある程度の潤いと光沢も蘇生している。

収録曲のデータを見ると『さまよえるオランダ人』序曲(1949年)、『ローエングリン』第1幕への前奏曲(54年)、『タンホイザー』序曲(52年)、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲及び「徒弟たちの踊り」(49年)、『ワルキューレ』より「ワルキューレの騎行」(54年)、『神々の黄昏』より「ジークフリートのライン騎行」及び「ジークフリートの葬送の音楽」(54年)となっているので、「ワルキューレの騎行」に関しては同じメンバーによる旧録音ではなく、全曲盤からピックアップされたものと思われるが、残念ながら『トリスタン』が選曲から漏れている。

フルトヴェングラーはこの時期ウィーン・フィルの実質上の首席指揮者だったこともあり、彼らとのコンサートや録音活動を集中的に行っていてオーケストラも彼の要求に良く呼応している。

フルトヴェングラーは幸いワーグナーの楽劇のいくつかを全曲録音しているので、彼の音楽的な構想を理解するには全曲を通して鑑賞することが理想的だが、こうした部分的な管弦楽曲集でも充分にその片鱗が窺える。

例えば『オランダ人』序曲の冒頭はたいがい嵐の海の情景描写に終始してしまうが、彼のように神の怒りに触れた者の絶望感を表現し得た指揮者は数少ない。

『タンホイザー』で繰り返される巡礼のコーラスのテーマでは、筆者はかつて何故この旋律をカラヤンのようにもっとレガートに演奏しないのか疑問に思ったことがあった。

しかし後になってそれが赦されることのない罪を背負った巡礼者タンホイザーの喘ぎであり、途切れがちな息遣いと足取りを表していることに気付いて愕然とした思い出がある。

一方『マイスタージンガー』の意気揚々とした幸福感に満ちた前奏曲はこの作品の喜劇性とその晴れやかな終幕を予告しているかのようだ。

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2015年08月06日


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昨年プラガ・ディジタルスからSACD化されたフルトヴェングラーの演奏集が2枚ほどリリースされた。

そのひとつがこのリヒャルト・シュトラウスの作品集で、交響詩『ドン・ファン』(1954年)『死と変容』(1950年)『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(1954年)の3曲のそれぞれがフルトヴェングラーがウィーン・フィルと共演したHMV音源になる。

これらは録音及びオリジナル・マスターの保存状態が良好で、モノラルながら音場の広がりと立体感のある音響の再現に成功している。

音域ごとの分離状態も良く、各楽器の音色も明瞭に捉えられている。

例えば曲中でソロを受け持つヴァイオリン、オーボエ、ホルンなどの音像も鮮明で、録音会場になったウィーン・ムジークフェライン・グローサー・ザールの潤沢な残響によって音色に生々しさが加わり、パーカッション群の超高音からティンパニやコントラバスの低音に至るまでの広い音域が無理なく伸展している。

演奏に関しては既に語り尽くされているので、今更その価値について云々するつもりはないが、それぞれの曲でクライマックスへ向かう渦巻くような情念の高揚と、高踏的な音楽美学の止揚はまさにフルトヴェングラーの独壇場だろう。

ディスクの表面にバイ・チャンネル・ステレオの表示があるが、おそらくこの曲集のいくつかは電気的に音場を広げた擬似ステレオと思われる。

後半に収められているオットー・アッカーマン指揮、フィルハーモニア管弦楽団のサポートによるシュヴァルツコップの『四つの最後の歌』(1953年)がまた秀逸だ。

シュヴァルツコップはオーケストラを従えたこの曲の録音を3回行っていて、1965年のジョージ・セル、ベルリン放送交響楽団との演奏が円熟期の名盤として高い評価を受けているが、このセッションはシュヴァルツコップ38歳の最初のもので、その若々しい声と張り詰めた緊張感には替え難い魅力がある。

シュヴァルツコップの声質はソプラノとしては決して重い方ではないが、声の威力ではなく、その歌詞を語り尽くすような表現力の彫りの深さと陰影の変化で驚くほどドラマティックな効果を上げて、失われていくものへの不安や憧憬を見事に歌い切っている。

またアッカーマンの指揮も憂いと期待が交錯するオーケストレーションの綾を絶妙に辿ってソロの背景を描き出したところが素晴らしい。

尚ライナー・ノーツにはドイツ語の歌詞が掲載されているが対訳はない。

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2015年07月06日


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我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる音楽評論家は数少なかった。

本著には、1954年のパリ・オペラ座でのフルトヴェングラー指揮の演奏を聴いた感動を語る「荘厳な熱狂」、ベートーヴェン「エロイカ」のフルトヴェングラー指揮の演奏を徹底分析したその名も「フルトヴェングラーの『エロイカ』」、ナチス・ドイツに残ったフルトヴェングラーの芸術観(たとえドイツがナチスに牛耳られていようと故郷、祖国に踏みとどまり、民衆を見捨てなかった)を考察する「フルトヴェングラーのケース」、トスカニーニとの1937年、ザルツブルク音楽祭での対面と短い会話が紹介されていて興味深い。

吉田氏はフルトヴェングラー生前中から既に彼の指揮が時代遅れのスタイルであることを指摘していた批評家が少なからずいたことを書いているが、筆者自身そう感じたことがあった。

それは26歳のフィッシャー=ディースカウが抜擢された1951年ザルツブルクでのマーラーの『さすらう若人の歌』のライヴ録音を初めて聴いた時で、ウィーン・フィルから官能と陶酔、そして破滅の予感さえも描き出した演奏が世紀末のウィーンの空気感をイメージさせて素晴らしかったが、それが一種の懐古趣味に思えたからだ。

だが吉田氏が力説しているフルトヴェングラーの優れたところは、彼が生きた時代の音楽的趣味や傾向を演奏に反映させていることを認めながら、なおかつより普遍的な楽理的要素を深く読み取って精神的に昇華させ、聴き手に感知させる術を知っていた稀な指揮者だったと回想している。

例を挙げれば作曲家が曲想を変化させる時、それが前後に何の脈絡もなく起こるのではなく、変化に至る必然性を曲の中で刻々と予告しているのだと主張する。

実際ベートーヴェンを始めとするドイツ系の作曲家の作品ではそうした変化の兆しが周到に用意されている場合が多い。

こうした手法によってたとえテンポをかなり自由に動かしていても、聴衆にはその有機的な繋がりが効果的に聴き取れることになる。

これについてはベートーヴェンの交響曲第3番及びブラームス同第4番におけるアナリーゼに詳しい。

ここ数十年のクラシック演奏の傾向として、先ず楽譜に忠実であることが求められる。

しかし楽譜は音楽を伝えるための媒体に過ぎないので、こう書いてあるからそのように演奏するというのは如何にも短絡的な発想であり、聴き手を説得することはできないだろう。

むしろ演奏家は音符に表すことができなかった作曲家のメッセージがどこに、どのようにして存在するかを解明し、それを実際に音にして伝達しなければならない。

その意味でフルトヴェングラーは多くの人が誤解しているように、恣意的な解釈、あるいは即興で人々を熱狂させたカリスマ的指揮者とは一線を画している。

逆説的だが彼の手法は現代の指揮者が目指すべき方向にも相通じる課題の示唆的な解決策を含んではいないだろうか。

最後の章は政治学者、丸山眞男氏との対談で、クルト・リース著『フルトヴェングラー、音楽と政治』をベースにフルトヴェングラーとトスカニーニを対峙させて、両者を育んだ異なったふたつの文化や思想基盤を根拠に彼らの言動の究明を試みている。

フルトヴェングラーが政治に関して意外に無知だったこと、政治が芸術に及ぼす影響力を見くびっていたことなども考察されているが、彼は芸術が政治によって関与されるべきものでないという信念を貫いていたことは確かだろう。

ここではトスカニーニによるニューヨーク招聘を断わって、ナチス政権真っ只中のドイツに留まった理由を、彼の芸術の真の理解者は先ずドイツ人達である筈だと信じていたことなどが論じられていて興味深い。

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2015年06月25日


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いささか懐古的になるが、ユニバーサルが2010年より、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の発売を開始したのは、ネット配信が隆盛期を迎えパッケージメディアの権威が揺らいでいる中において、快挙とも言える素晴らしい出来事であった。

ユニバーサルは発売開始以降、月に3〜5枚のペースで当該SACD&SHM−CD盤を発売してきているが、小澤によるブラームスの交響曲第2番とブリテンの戦争レクイエムを除いては、かつて発売されていたSACDハイブリッド盤の焼き直しに過ぎなかったと言わざるを得なかった。

しかしながら、ライバルのEMIがフルトヴェングラーの遺産のSACD化に踏み切り、大変な好評を得ていることに触発された面もあるのではないかとも思われるが、先般、これまで1度もSACDで発売されたことがないフルトヴェングラーの一連の歴史的な録音を、定評のあるシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤で発売するというのは、素晴らしい壮挙として大いに歓迎したいと考える。

本盤に収められているのはシューマンの交響曲第4番と「マンフレッド」序曲であるが、いずれもそれぞれの楽曲の演奏史上最高の玉座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

フルトヴェングラーが亡くなる1年半前、1953年5月のスタジオ録音によるシューマンの交響曲第4番は、フルトヴェングラーの最も優れたレコーディングとして知られるもので、最新の音楽之友社刊『新編名曲名盤300』でもこの曲のベスト・ワンとして推されている名盤である。

フルトヴェングラーは同曲を、悠揚迫らぬインテンポで荘重に曲想を進めていく。

シューマンの絶望感に苛まれた心の病巣に鋭く切り込んで行くような深沈とした彫りの深さにも際立ったものがある。

演奏全体の造型はきわめて堅固ではあるが、峻厳さを感じさせることはいささかもなく、演奏全体が濃厚なロマンティシズムに満ち溢れているのが素晴らしい。

晩年のスタジオ録音でありながら、ライヴ録音に優るとも劣らぬ鬼気迫る熱演が繰り広げられていると同時に、音楽の流れが自然であり、また細部の処理も入念で、全体として完成度が極めて高い。

歌に満ちたフレーズ、オーケストラの充実した響き、楽器間の絶妙な音量バランス、音楽に寄り添ったテンポのうねりなど、本当に見事だ。

また、通常、フルトヴェングラーの演奏では、「フルトヴェングラーを聴く」という意味合いが強くなるが、この演奏では、シューマンの楽曲自体の素晴らしさを堪能することができるという点でも、楽曲の魅力を最大限に引き出した演奏だと思う。

これほどの深みのあるシューマンの交響曲第4番の演奏は他にも例がなく、その後は、ベーム&ウィーン・フィル(1979年)、バーンスタイン&ウィーン・フィル(1984年)、カラヤン&ウィーン・フィル(1987年)などの名演も生まれてはいるが、本フルトヴェングラーによる超名演には到底足元にも及ばないと考える。

「マンフレッド」序曲も、フルトヴェングラーならではの濃厚で奥行きの深さと実演ならではのドラマティックな圧倒的生命力を感じさせる至高の超名演であり、ウィーン・フィルを指揮した名演(1951年、既にEMIよりSACD化)よりも更に上位に置きたいと考える。

音質は、1953年のスタジオ録音(「マンフレッド」序曲は1949年のライヴ録音であり、若干音質は落ちる)ということもあって従来盤でもフルトヴェングラーのCDとしては良好な方であったが、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって、にわかには信じ難いような鮮明な音質に生まれ変わった。

フルトヴェングラーによる至高の超名演をこのような極上の高音質SACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年06月18日


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フルトヴェングラーの死の年、ベルリン・フィルとの最後の演奏旅行中、ルガーノのテアトロ・アポロにおける実演を録音したものだが、フルトヴェングラーのすべてのディスクの中でも特別の意義を持つ、屈指の名盤と言えよう。

フルトヴェングラーはモーツァルトにあまり深い愛着を持っていなかったらしく、「魔笛」の序曲を犇擬蕊の音楽瓩覆匹噺討鵑任い燭修Δ如遺されたCDもフルトヴェングラーの実力から考えると、信じられないくらいつまらない。

ところが、フルトヴェングラーはやはり天才であった。

死の6ヵ月前に至って、ついにモーツァルトを自分のものにしてしまったのである。

こんな調子で「ジュピター」や「レクイエム」などを遺しておいてくれたら、という愚痴も出るが、今となっては仕方がない。

当時のフルトヴェングラーはかなり耳が遠くなっていたそうで、カール・ベームによればフルトヴェングラーの死は自殺同然だったという。

それが本当ならば、フルトヴェングラーの時代が終わったという認識も大きな原因の1つだろうが、耳が聞こえなくなったことも絶望感も深めたのであろう。

しかし、この「K.466」において、フルトヴェングラーはそんなことは到底信じられないほど強力にオーケストラを統率し、ルフェビュールのピアノと有機的に絡み合ってゆく。

この曲の他のディスクと聴き比べてもフルトヴェングラー盤だけはまったくの別世界なのである。

犁澆い茲Δ發覆へ嶝瓩噺世辰燭蕕茲い里世蹐Δ、他の演奏ではそこここに感じられる爛癲璽張.襯箸量悦瓩まるでないが、音楽として結晶され尽くしているせいか、少しも嫌ではなく、演奏者とともに嘆きつつ、モーツァルトの本質(人生の本質)を垣間見る想いがする。

第1楽章の冒頭からして、フルトヴェングラー自身の声のような、切れば血の出るひびき(あのホルンの強奏!)が聴かれ、まぎれもないフルトヴェングラーのモーツァルトであるが、それが音楽を傷つけるよりはいっそう生かす結果となっている。

フルトヴェングラーにはもはや聴衆など眼中にないように思われてくる。

あれほどの舞台芸術家で、実演において初めて燃えるタイプのフルトヴェングラーが、今は自分のために演奏する。

まことにこれは、爐海寮い悗侶輅未琉篏餃瓩任△蝓堕落を続ける20世紀の音楽界にたった1人で立つ猗犲身へのレクイエム瓩紡召覆蕕覆ぁ

音楽はこの上もなく孤独であり、厳しさのかぎりを尽くし、ヴィブラートは内心の慄きを示してやまない。

いかなる細部もフルトヴェングラー独特の感受性によって映し出され、わけても再現部における弦の伴奏部が、これほど生き物のようにピアノを支えた例は他に決してなかった。

第2楽章も痛ましくはあるが、音楽美として純化され、凛々しさを獲得した倏鯆擦硫劉瓩任△蝓▲侫ナーレももちろん見事だが、筆者にはやはり第1楽章が忘れられない。

晩年のフルトヴェングラーは次のように述べている。

「形式は明確でなければならない。すっきりとして枯れていて、決して余分なものがあってはならない。しかし炎が、炎の核があって、この形式をくまなく照らし出さなければならない」(カルラ・ヘッカー著、薗田宗人訳、『フルトヴェングラーとの対話』)。

まことに「K.466」はこの言葉への理想的な実証である。

イヴォンヌ・ルフェビュールは、1904年生まれのフランスの女流で、日本ではまったく知られていないが、さすがにフルトヴェングラーが選んだだけあって、見事なモーツァルトを聴かせてくれる。

デモーニッシュな大きさには欠けるが、巨匠の造型の中にぴったりと入り込み、指揮者との魂の触れ合いが芸術的感興に聴く者を誘うのだ。

やや冷たい、小味な音は澄み切ってモーツァルトの心を伝え、多用されるルバートも決してべたつきはせず、時には劇的なフォルテも見せるのである。

第2楽章の中間部やフィナーレあたり、女流らしい弱さがあるが、その代わり感じ切ったピアニッシモの美しさは絶品というべく、フルトヴェングラーとともに、肺腑を抉るような哀しさが、しかも超俗の雰囲気を湛えて、比類もない高みに到達している。

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2015年06月11日


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ティタニア・パラストにおける定期演奏会の実況録音であり、場内の咳ばらいが異常に多いが、そんなことが気にならないほど演奏は素晴らしく、音も当時のものとしてはかなり良い。

フルトヴェングラーの数多いCDの中でも、特に注目すべきものであろう。

ブラームスの「第3」は、ブラームスを聴くよりはフルトヴェングラーの名人芸を味わうべき演奏だと思う。

彼は音楽を完全に自己の個性の中に同化しており、テンポの極端な流動感、ドラマティックな設定、スコアにないティンパニに追加など、さながらフルトヴェングラー作曲の交響曲を聴く想いがするほどだ。

ことに驚くべきは、フレーズとフレーズの有機的な移り変わりで、その密接な血の通わせ方は際立って見事であり、これだけ自由自在な表現なのにもかかわらず、作り物の感じが皆無で、音楽が瞬間瞬間に生まれ、湧き起こってくる。

まさにフルトヴェングラー芸術の神髄ではなかろうか。

第1楽章の冒頭からして以上のことは明らかであり、第1主題の提示から第2主題の登場にかけての細かいテンポの流動は、ワルター&ニューヨーク・フィルにも匹敵するほどで、これでこそこの部分の音楽は生きるのである。

何とも言えぬ情感に浸りきる第2主題を経て、音楽は再び冒頭に戻されるが、第1主題がいっそうの情熱を持って反復されるところ、単なる機械的な提示部の繰り返しでないことがわかるであろう。

激しい気迫で追い込んでゆく展開部の加速は雄弁なドラマであり、その終わりの部分から再現部初めにかけての、ものものしいテンポの落とし具合は、沸き立つコーダの高まりとともに、音楽自体の呼吸と完全に一致して少しも違和感もない。

スコアのフレージング指定を改変して始まる第2楽章もフルトヴェングラーの独壇場だ。

ブラームス・ファン以外にはかなり重荷なこの音楽も、彼の手にかかると思わず聴き惚れてしまう。

ピアニッシモは強調されているが、全体としては強めで豊かな音楽になっており、漸強弱の指定があると、待っていましたとばかり強調する。

これはフルトヴェングラーとしても珍しい例であり、テンポの激変といい、旋律の思い切った歌といい、ブラームスのひそやかさを愛する人にはいささかの抵抗があるかもしれない。

第3楽章は中間部の後半以後のほとばしるような憧れの情が聴きもので、中でも再現部でテーマが第1ヴァイオリンに歌われる部分はほとんど泣いているかのようだ。

第4楽章は最もフルトヴェングラー的な部分であろう。

主部だけでもテンポが4段階に激しく変わり、同じ爛▲譽哀蹲瓩涼罎妊▲鵐瀬鵐討らプレストまでの差があり、音楽的な常識からは考えられないことであり、彼だから許されるというべきであろう。

展開部の熾烈な迫力などは凄まじさのかぎりだし、部分的には見事なところも多いが、実演を直接聴いているのならともかく、CDになるとやや極端な感じが否めない。

「マンフレッド」序曲も素晴らしい名演で、何よりも歌い方の豊かさにまいってしまう。

オーケストラの響きが満ち溢れるようであり、すみずみにまでフルトヴェングラーの血が通い、感情の波が大きく拡がってゆく。

フォルトナーはドイツの前衛的な作曲家で、このヴァイオリン協奏曲は1946年の作であり、現代音楽的な理屈っぽさを持つが、ドイツの作曲家ならではの心を打つ場面にも欠けてはおらず、だからこそフルトヴェングラーも採り上げたのであろう。

この曲の初演者でもあり、献呈もされたタッシュナーのヴァイオリンは線が細いが、高音に意味と魅力があり、ポルタメントが心をそそる。

音楽を身近に感じていることがよくわかる演奏だ。

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2015年06月09日


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フルトヴェングラーが録音したシューマンの交響曲は2曲だけであり、この「第1」はハイドンの「V字」やベートーヴェンの「コリオラン」序曲とともにミュンヘンのドイツ博物館ホールで行われた演奏会の実況である。

シューマンの「第1」にはクレンペラーの素晴らしいCDがあり、初めの2つの楽章はさすがのフルトヴェングラーといえども一籌を輸するが、スケルツォ以後は両雄相譲らぬ名演と言えるところであり、しかも演奏スタイルはまったく違うのである。

第1楽章の序奏部からして、フルトヴェングラーの表現は雰囲気満点だ。

ことに主部に向かって盛り上がってゆく時の猛烈な気迫は天下一品といえようし、展開部終わりのクライマックス設定も物凄いの一語に尽きるが、楽章全体として考えると、フルトヴェングラーの気持ちは、まだ充分に燃えきっていない。

したがって、コーダの収め具合など、彼の実演としては堪能しきれないものがあり、この結尾部の途中に現れる〈名残の感情〉もクレンペラーのほうがずっと美しいし、リズムの抉りや金管、木管のクリアーな表出においても、かなり緻密さを欠くようだ。

第2楽章のラルゲットは良いテンポで、弦のレガート奏法がきわめて情緒的であり、中間部の頂点における凄絶なリズムや推進力も見事であるが、前楽章同様、やや彫りの浅い部分があって、フルトヴェングラーとしては多少の物足りなさを感じさせる。

ところが、スケルツォに入るや、演奏旅行中のオーケストラと指揮者は、俄然ぴったりとした意気の投合を見せ始め、ミュンヘンの聴衆を興奮のるつぼに巻き込んでゆく。

この迫力は普通の音力ではなく、人間の発揮し得る、ぎりぎりの精神が生んだものだ。

スタッカートの音型が低弦から起こって、ヴィオラやファイオリン・パートへと進む第2トリオの、驚くべきクレッシェンドはどうだろう。

この部分の神技を聴くだけでも価値のあるCDといえないだろうか。

その後の委細構わぬ進行も痛烈で、フルトヴェングラーが先かウィーン・フィルが先か、ともかく両者の気概はこの瞬間、まったく1つになって、スコアの上を吹きすさぶのである。

第1トリオの豊かな雰囲気も最高で、途中に出現するフェルマータの後、チェロとコントラバスの弱音を思い切ったフォルテで響かせるなど、ことによったら舞台の上のインスピレーションによって行われた即興ではあるまいか。

そして最後の第4楽章ではますます脂がのってくる。

短い序奏を区切る休符をうんと長く取って、次の第1主題のアウフ・タクトをこの上なくゆっくりと始める。

考えようによっては、思わせぶりたっぷりな仕掛け芝居といえよう。

フルトヴェングラーはしばしば意識して芝居をし、聴衆もそれを喜び、かつ期待していたのだと思うが、実演だからこそ許されるというべきか。

したがって、CDを聴くわれわれも、フルトヴェングラーの呪縛の中に自らのめり込んでゆかなければならない。

提示部を反復する際の一番カッコにおける、音楽が停止してしまうようなリタルダンドは、いっそう鮮やかな大芝居であろう。

ピチカートを合の手として、2本ずつのオーボエとファゴットがスタッカートで上昇下降する第2主題は、たいていの指揮者がテンポを速めるが(クレンペラーのような、イン・テンポ主義者でさえも)、フルトヴェングラーは同じ速度で進める。

彼の流動の多い表現からして、ここで第2主題を速めることは造型の破壊につながるからだ。

それにしても、この楽章のフルトヴェングラーは自由自在であり、ネコがネズミをもてあそうぶように、シューマンが完全に彼の自家薬籠中のものと化して、音楽が大揺れに揺らされる。

しかし、地にしっかりと足がついているので、いくらやっても決して嫌味ではなく、むしろ面白い。

そして、ついにコーダの、最高のクライマックス・シーンが現出する。

デモーニッシュな金管の最強奏、アッチェレランドによる嵐の気迫はこの世のものとも思えず、手に汗握るうちに、やがてフルトヴェングラー独特の、大きく息をつく間を伴った和音によって、さしもの演奏も終わりを告げるのである。

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2015年06月08日


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フルトヴェングラーによるフランクの交響曲の名演と言えば、衆目の一致するところ1953年の英デッカ盤であると考えるが、本盤のグランドスラムによる見事なLP復刻に接して、この1945年盤も1953年盤に決して引けを取らない名演であることを思い知った。

「フランスのブラームス」とも評されたフランクの交響曲を、偉大なブラームス解釈者であり、最もドイツ的音楽性を具現したフルトヴェングラーが指揮したこの録音は、フランクの作品の中に流れるドイツ的要素を強く前面に押し出した名演奏となっている。

第1楽章の第1主題に向けてのハチャメチャなアッチェレランドはいかにもやり過ぎだとは思うが、テンポ設定の思い切った変化やダイナミックレンジの幅広さ、金管楽器の最強奏や低弦によるドスの利いた重低音のド迫力、そして情感の豊かさなどを織り交ぜつつ、自由奔放と言ってもいいくらい夢中になって荒れ狂う。

それでいて全体としての造型をいささかも損なうことがなく、スケールの雄大さを失わないのは、フルトヴェングラーだけがなし得た天才的な至芸と言えるだろう。

いちばん良いのは第2楽章で、あっさりした表情づけが、かえって寂しさを感じさせるからである。

曲の最後に美しい中間部の主題がロ長調で再現されるあたりの余情は、その最たるものであり、何でもなく奏されるので、いっそう心を打つ。

それにしても、ナチスドイツの敗色濃厚な中で、敵国であるフランス音楽(フランクはベルギー人であるが)を堂々と演奏するフルトヴェングラーの反骨精神には、ほとほと感心させられる。

他方、モーツァルトの第39番も名演で、一口に言えば、スケールの大きい、ベルリン風のモーツァルトだ。

さすがのフルトヴェングラーも、モーツァルトではフランクのように荒れ狂ったりはしない。

この点は、モーツァルトの本質をしっかりと捉えていたことの証左であろう。

オーケストラの鳴りっぷりは重々しく、暗く、厳しく、しかし弦はよく歌い、この指揮者の音楽哲学がベートーヴェンを原点としていたことを如実に証明するようなモーツァルト演奏ではある。

しかし、「それが何だ!」と、胸を張って主張できるような感動がこのCDには刻まれており、音楽とは何と複雑で、奥行きの深い芸術であることであろうか!

それにしても、この荘重たるインテンポから漂ってくる深みは、何と表現すればいいのだろうか。

まさに、天才だけに可能な至高・至純の境地と言えよう。

第1楽章の出は猛烈なエネルギーで、ここには驚くほどの歌と、まるでベートーヴェンのような響きがあり、導入部最後にはものものしいリタルダンドがかけられる。

主部もカロリー満点、強靭にリズムが刻まれ、前進力もあり、コーダの弦は熾烈とさえ言えるところであり、そして最後はアッチェレランド気味にすごい高まりを見せる。

第2楽章もピアニッシモの深刻な感情移入、フォルティッシモの心からの叫び、というように表現の幅が広い。

メヌエットにおけるフルトヴェングラー式のアインザッツ、フィナーレ最後の高揚感など、いかにもこの指揮者らしい味わいである。

グランドスラムによる復刻も最高で、この当時のものとは言えないくらい鮮明なものであり、既発売CDと、今回のグランドスラム盤の音質の差は大きいと言える。

重厚なオーケストラの低音も見事に捉えられているし、最弱音の繊細は響きもかなり鮮明に捉えられている。

それぐらい、この英HMV盤のLPから復刻された本CDの音質は素晴らしく、改めて、フルトヴェングラーの芸術の真の魅力にのめり込んだ次第である。

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2015年06月07日


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シューベルトの「未完成」は、いかにもフルトヴェングラーらしい名演である。

彼はこの曲を振る前は、そわそわと落ち着かなかったそうだが、曲想が彼の表現とぴったりと合致していないので、演奏しにくかったのだろうと思う。

しかし、このCDは、一応やりたいことをやり尽くし、フルトヴェングラーなりにきわめ尽くしている。

第1楽章は音楽が地の底から湧き起こるように開始され、フォルテの凄絶さはその比を見ない。

ホルンとバスーンによる経過句で大きくリタルダンドし、第2主題を導き出すのもフルトヴェングラーらしいが、チェロの弾く第2主題の翳の濃い表情は、ほかの指揮者からは聴けないものだ。

この主題、たいていの指揮者はピアニッシモの指定にとらわれてしまうからであろう。

つづくヴァイオリンの心のこもったレガートも美しい。

その後の漸進を伴った、しかもスムーズな進行も聴きもので、フルトヴェングラーの魂が次第に高潮し、燃焼していくさまが目に見えるようだ。

そして提示部の終わりで第2主題が現れる部分のヴィブラート奏法は、彼ならではの温かさであり、造型上にも一分の隙さえない。

展開部はフルトヴェングラーと未完成交響曲との厳しい対決であり、真剣勝負である。

これこそ時代の流行を超えた狄深造良集臭瓩任△蝓△修譴罎┐坊茲靴童鼎ならない生命力が燃えたぎっている。

大きくテンポを落とした、ものものしい終結とともに、聴く者の魂を奪うに充分なものがあろう。

第2楽章はテンポが速く、淡々とした運びの中にあふれるような歌を込めた指揮ぶりであり、テンポの微妙な変化はフルトヴェングラーの息づきのように自然だ。

フォルティッシモは相変わらず物凄いが、力づくの迫力ではないので、切れば血の出るような有機性を絶えず保っているのである。

ブラームスの「第4」も、フルトヴェングラー一流の味の濃さと、気迫に満ちたベートーヴェン的な解釈で、1つのフレーズが次のフレーズを生んでゆく自然な音楽が湧出する。

第1楽章の最初のロ音(よくもこんな音が出せるものだ!)を聴いただけで、すでにフルトヴェングラーの世界に誘われてしまう。

彼はブラームスが書いた楽想を徹底して描き分けるが、リズミカルな部分がいくぶん硬く響くきらいもある。

コーダのアッチェレランドはまさに常軌を逸しており、音楽自体から考えて、ここまでやる必要があるのかどうかは疑問だが、興奮させることは事実であり、最後のリタルダンドがいかにも効果的だ。

第2楽章の旋律の密度の濃い歌い方は、フルトヴェングラーがブラームスの交響曲において特別に見せるものである。

第3楽章は実演における一発必中の表現で、情熱の爆発と強い意志による統制が両々相俟って、凄まじい力の噴出となり、終結の決め方(あのテヌートの巧さ!)など、ほかの誰にもできることではない。

第4楽章は第1変奏のものものしい表現にすべてが尽くされており、フルトヴェングラーの演奏に接するとほかの指揮者は生ぬるくてとても聴けない。

ここではこのようにやるべき音楽なのであり、こうでなくてはならないのだ。

第16変奏以後の推進力も素晴らしいが、第3変奏のヴァイオリンに極端なヴィブラートをつけたり、コーダの加速など、ブラームスとしてはやりすぎの部分もあり、筆者自身、手放しでフルトヴェングラーの演奏を謳歌するものではない。

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2015年05月28日


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一時は絶滅の危機に瀕したSACDが息を吹き返しつつある。

SACDから撤退していたユニバーサルが2010年よりSACDの発売を再開するとともに、2011年になってついにEMIがSACDの発売を開始したからだ。

2009末にESOTERICから発売されたショルティ&ウィーン・フィルによるワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」のSACD盤が飛ぶように売れたことからもわかるように、ガラスCDのような常識を外れた価格でさえなければ、少々高額であっても、かつての良質のアナログLPにも比肩し得る高音質のSACDは売れるのである。

最近は、オクタヴィアがややSACDに及び腰になりつつあるのは問題であるが、いずれにしても、大手メーカーによる昨年来のSACD発売の動きに対しては大きな拍手を送りたいと考えている。

そして、今般、ターラレーベルがフルトヴェングラーの過去の遺産のSACD化を開始したということは、SACDの更なる普及を促進するものとして大いに歓迎したい。

ターラレーベルからは、既にフルトヴェングラー&フィルハーモニア管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲第9番(1954年)がSACD化されている(既にレビュー投稿済み)ので、本盤に収められたいわゆる「ウラニアのエロイカ」は、ターラレーベルによるSACD第2弾ということになる。

フルトヴェングラーによる「エロイカ」については、かなり多くの録音が遺されており、音質面を考慮に入れなければいずれ劣らぬ名演であると言えるが、最高峰の名演は本盤に収められた「ウラニアのエロイカ」(1944年)と1952年のスタジオ録音であるというのは論を待たないところだ。

1952年盤が荘重なインテンポによる彫りの深い名演であるのに対して、本盤の演奏は、いかにも実演のフルトヴェングラーならではのドラマティックな名演であると言える。

第1楽章からして、緩急自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして大胆なアッチェレランドを駆使するなど、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を展開している。

第2楽章の情感のこもった歌い方には底知れぬ深みを感じさせるし、終楽章の終結部に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力は、我々聴き手の肺腑を打つだけの圧倒的な迫力を誇っている。

このように、本演奏と1952年盤は同じ指揮者による演奏とは思えないような対照的な名演であると言えるが、音楽の内容の精神的な深みを徹底して追求していこうというアプローチにおいては共通している。

ただ、音質が今一つ良くないのがフルトヴェングラーの「エロイカ」の最大の問題であったのだが、1952年盤については2011年1月、EMIがSACD化を行ったことによって信じ難いような良好な音質に蘇ったところであり、長年の渇きが癒されることになった。

他方、本演奏については、これまではオーパスによる復刻盤がベストの音質であったが、1952年盤がSACD化された今となっては、とても満足できる音質とは言い難いものがあった。

ところが、今般のターラレーベルによるSACD化によって、さすがに1952年盤ほどではないものの、オーパスなどのこれまでの復刻CDとは次元の異なる良好な音質に生まれ変わったと言える。

いずれにしても、「ウラニアのエロイカ」をこのような高音質SACDで聴くことができる喜びを大いに噛み締めたい。

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2015年05月20日


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フルトヴェングラーの代名詞と言えば、ベートーヴェンの交響曲であるが、9曲ある交響曲の中でも第1番を除くいわゆる奇数番の交響曲については、自他ともに認める十八番であったと言えるだろう。

それら4曲の交響曲については、かなりの点数の録音が遺されているのも特徴であり、近年になっても新発見の録音が発掘されたり、あるいはより音質のより音源の発見、さらにはSACD化などの高音質化が図られるなど、フルトヴェングラーの指揮芸術に対する関心は、没後50年以上が経っても今なお衰えの兆しが一向に見られないところだ。

フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲第9番の名演としては、諸説はあると思うが、これまでのところ、レコード史上不滅の金字塔と言われるバイロイト祝祭管弦楽団とのライヴ録音(1951年)、大戦中のベルリン・フィルとのライヴ録音(1942年)、円熟期のウィーン・フィルとのライヴ録音(1952年)が3強を形成していたと言える。

もちろん、これら3つの演奏自体が圧倒的な素晴らしさを誇っているのであるが、それ以上に、これらの名演についてはSACD化が図られているというのも大きいと言えるのではないだろうか。

フルトヴェングラーの録音は、演奏が素晴らしくても音質が良くないというのが定評であり、逆に、これまであまり評価が高くなかった演奏がSACD化によって、高評価を勝ち取ることもあり得るところである(例えば、1947年5月25日のベートーヴェンの交響曲第5番、第6番「田園」のライヴ録音)。

本盤に収められた1954年の交響曲第9番についても、先般のSACD化によって、そのような可能性を秘めた名演と言えるだろう。

これまで、とりわけトゥッティにおいて音が団子状態になったり、不鮮明で聴き取りにくい箇所が極めて多かったのが大幅に解消され、前述のバイロイト盤、ベルリン盤、ウィーン盤にも十分に対抗できるような良好な音質に生まれ変わった意義は、極めて大きいことである。

本演奏は、フルトヴェングラー最晩年のものであるが、それだけに最円熟期のフルトヴェングラーによる至高の指揮芸術を、これまでとは違った良好な音質で堪能することができるようのなったのは実に素晴らしいことと言えるだろう。

第1楽章冒頭の他の指揮者の演奏の追随を許さない深遠さ、その後のとても人間業とは思えないような彫りの深さ、第3楽章の誰よりもゆったりしたテンポによる演奏の神々しいまでの崇高さ、そして終楽章のドラマティックな表現など、フルトヴェングラーだけに可能な至芸は、我々聴き手の深い感動を誘うのに十分である。

オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団であるが、寄せ集めのバイロイト祝祭管弦楽団よりも遥かに実力が上であることも大きなアドバンテージであると言えるところであり、ホルンがデニス・ブレインであることも聴きものである。

いずれにしても、SACD化によって、これまでとは格段に良好な音質に生まれ変わるに至った本盤の演奏は、バイロイト盤、ベルリン盤、ウィーン盤とともに4強の一角を占めるとも言うべき至高の超名演に位置づけられることになったと言えるところであり、本SACD盤が廃盤にならないことを願うのみである。

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2015年05月11日


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これはフルトヴェングラーの遺した数多いディスクの中でも、特に素晴らしい名演奏の1つである。

コンラート・ハンゼンは1906年生まれのドイツのピアニストで、あまり有名ではないが、この「第4」に関するかぎりバックハウスよりも遥かに見事だ。

全体の主導権は指揮者が握っており、たとえば造型などまったく自由自在なフルトヴェングラーのそれであるが、ハンゼンはあたかも自分自身が感じている如く自然に溶け込んでいる。

いや、ハンゼンは精神的にロマンティックなピアニストなのであり、要するにフルトヴェングラーと同じ感情を持った人なのであろう。

おそらく独奏をさせればこんなにすごい造型は創造し得ないだろうが、天才的な指揮者と協演して自己の理想を発見し、心からの尊敬と共感と歓びとをもって弾いているに違いない。

実際、ハンゼンのピアノにはすべての人間感情が隠されている。

素朴でしっとりとした雰囲気、澄みきったリリシズムを基本としながらも、テンポを大きく動かし、大胆きわまる感情移入を随所に見せる。

第1楽章展開部冒頭の驚くべき遅いテンポ、第1楽章再現部の聴く者を興奮させずにはおかない打ち込み方、第2楽章の強い訴えなどがその例だが、至るところに見せる左手の強調、表情豊かな盛り上げ、チャーミングなトリル、ロマンティックな歌、付点音符の名人芸的な弾ませ方など、これ以上は望めないというぎりぎりの線にまで達している。

そしてフルトヴェングラー&ベルリン・フィルの精神そのものの響きがハンゼンのソロを有機的に包み込み、特に繊細さと寂しい静けさの2点においては比較するものとてあるまい。

ベートーヴェンの意図をこれほどニュアンス豊かに感じきって演奏した例は他に皆無だし、ハンゼンもまことに印象的だ。

フィナーレのコーダにおける激しい加速、それ以上に第1楽章コーダの極度に遅いテンポも別の曲を聴く趣があろう。

しかも両者はつとめて即興的な再現を試みているらしく、それが演奏をたった今生まれたようなみずみずしさで蔽うのである。

ともかく、ハンゼンもフルトヴェングラーも、ここではやりたいことをすべてやり尽くしている。

こんなに主観的な演奏はないとも言えるが、聴いていると演奏者の存在は忘れてしまい、音楽の美しさだけが身に迫ってくる。

ベートーヴェンの「第4協奏曲」を徹底的に堪能できるのであり、この演奏によって初めてこの曲の良さを知る人もきっと多いに違いない。

特筆すべきは第1楽章のカデンツァで、ハンゼンはここでベートーヴェン自作のものを使用しながら、後半に入ると自由に変化させ、「熱情ソナタ」の動機さえも組み入れて素晴らしい効果を上げている。

ことによるとフルトヴェングラーの考えが入っているのかもしれない。

他方、ベートーヴェンの「第7交響曲」は、あくまでも私見であるが、フルトヴェングラー&ウィーン・フィル(1950年盤)、クレンペラー&ニューフィルハーモニア管(1968年盤、EMI)、そしてカラヤン&ベルリン・フィル(1978年盤、パレクサ)を名演のベスト3と考えているが、劇的な迫力という観点からすれば、むしろ1950年盤よりも上ではないかと思われ、前述の1950年盤との比較をどうしても考えてしまう。

テンポはめまぐるしく変化し、随所におけるアッチェレランドの連続、金管楽器の最強奏や低弦によるドスの利いた重低音のド迫力など、自由奔放と言ってもいいくらい夢中になって荒れ狂うが、それでいて全体の造型にいささかの揺るぎもなく、スケールの雄大さを失わないのは、フルトヴェングラーだけが成し得た天才的な至芸と言えるだろう。

SACD化により、さすがに最新録音のようにはいかないが、フルトヴェングラー&ベルリン・フィルの戦時中の至芸を従来盤よりも鮮明な音質で味わうことができる。

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2015年05月03日


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定期公演の実況盤であり、良くも悪くも実演に於けるフルトヴェングラーの特徴が最大限に発揮された「ザ・グレイト」である。

それだけにフルトヴェングラーのファンには逸することのできぬものと言えよう。

フルトヴェングラーでも、これだけ感情を生に爆発させた例は珍しいほどだ。

第1楽章の主部をこんなに速いテンポで、これほど燃え上がるような迫力で指揮した人を筆者は知らない。

ものものしく、じっくりと開始して、次第に盛り上げてゆくという、フルトヴェングラーのいつものやり方とは違い、最初から夢中になっている。

したがって、著しく動的な演奏であり、聴く者もわれを忘れて引きずり込まれてしまう。

テンポの極端な変動も自在に行われ、第2主題はもちろんのこと、展開部へ入る瞬間の気分の変え方はまことに堂に行っている。

さらに提示部と展開部のそれぞれ終わりの部分や、コーダなどのアッチェレランドは常軌を逸しており、時には唐突である。

展開部の終わりで大きくテンポを落としたまま、再現部でア・テンポに戻らず、そのまま進行するのも即興的だ。

おそらく会場でこの実演に接していた人たちはフルトヴェングラーの呪縛にかかって興奮の極みを示してしたに違いなく、曲頭に多かった咳払いが主部に入るやほとんど聞こえなくなってしまうほどだが、1942年のフルトヴェングラーにはやや後年の円熟味が欠け、即興的にすぎて造型に乱れを見せているのは事実であろう。

にもかかわらず、これだけやり尽くしてくれればそんな疑問は吹っ飛び、裸身のフルトヴェングラーを垣間見る想いで、ファンにはこたえられない。

展開部の最後におけるホルンとティンパニの最強奏など、いったい何事が始まったのかと思うほどだし、コーダの決め方もさすがだが、ここだけはフィナーレの同じ部分とともに、音がマイクに入り切っていないもどかしさも残る。

第2楽章は毅然たる進行がシューベルトらしい温かいロマンティシズムを弱める結果になっているが、それでも曲が進むにつれてフルトヴェングラー独特の神秘な表情やテンポの揺れが頻出し、恍惚たる弦の歌も出て、細部まで堪能させてくれるのである。

スケルツォは速いテンポと素朴なリズムの躍動による生命力あふれた表現であり、メロディックな部分とリズミカルな部分でテンポがごく自然に変わるのも賛成だ。

最近は杓子定規な演奏が流行っているが、曲想によるテンポの動きは当然なくてはならぬところであり、それが自然であれば゛“イン・テンポ”なのである。

ただしこの楽章、アンサンブルや楽器のバランスに緻密さを欠くのと、トリオの平凡なのがマイナスと言えよう。

フィナーレは第1楽章とともに最もフルトヴェングラーらしい部分だ。

ことに冒頭を芝居気たっぷりな遅いテンポで開始し、みるみるアッチェレランドを掛けてゆくやり方はフルトヴェングラーならではの表現で、まったくうれしくなってしまう。

大時代だと笑う人もあろうが、これこそフルトヴェングラーのドラマであり、真実性にあふれているため、少しも不自然ではない。

むしろこのようなフルトヴェングラー節を享受できず、のめり込めない人のほうが不幸だと思う。

それにしてもフィナーレのテンポは速い。

ひびきとダイナミックスはあくまで凄まじく、トランペットが強奏され、再現部のスピード感は異常なほどで、ブルックナーの「第9」におけるスケルツォを想わせ、ついて行けない人もあろうが、会場で生を直接に聴けば、おそらく居ても立ってもいられないはずだ。

そしてその中に、たとえば展開部の冒頭のように、テンポが落ち、テーマが思いがけぬみずみずしさで登場して、ハッとさせる部分も含まれているのである。

フルトヴェングラーはティンパニを人一倍活躍させる指揮者であり、ベートーヴェンの「第4」やブラームスの「第3」のように、ティンパニの追加がうるさく感じられる曲もあるが、この場合は成功していると思う。

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2015年05月02日


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筆者は他の演奏のレビューでもこれまでよく記してきたところであるが、シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」の演奏は極めて難しいと言える。

それは、レコード芸術誌の「名曲名盤300選」などにおいて、著名な音楽評論家が選出する同曲の名演の順位が割れるのが常であることからも窺い知ることができるところである。

このことは、シューベルトをどう捉えるのかについて定まった考え方がないことに起因すると言えるのではないかとも考えられる。

フルトヴェングラーによるシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」の名演として、本演奏以外に一般的に最もよく知られているのは、録音自体は極めて劣悪ではあるが、本盤と同じくベルリン・フィルを指揮した1942年盤(ライヴ録音)ということになるのではないだろうか。

当該演奏におけるフルトヴェングラーの表現はドラマティックそのもの。

あたかもベートーヴェンの交響曲のエロイカや第5番、第7番を指揮する時のように、楽曲の頂点に向けて遮二無二突き進んでいく燃焼度の高い演奏に仕上がっている。

このような劇的な性格の演奏に鑑みれば、フルトヴェングラーはシューベルトをベートーヴェンの後継者と考えていたと推測することも可能である。

しかしながら、本盤に収められた演奏は、1942年盤とは全く異なる性格のものだ。

ここでのフルトヴェングラーは、荘重な悠揚迫らぬインテンポで決して急がずに曲想を進めている。

シューベルトの楽曲に特有の寂寥感の描出にもいささかの不足もなく、楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような彫りの深さには尋常ならざるものがある。

本演奏は、あたかもブルックナーの交響曲のような崇高さを湛えていると言えるところであり、本演奏だけに限ってみると、フルトヴェングラーがシューベルトをブルックナーの先達であるとの考えに改めたとすることさえも可能である。

実際のところは、フルトヴェングラーがシューベルトを、そして交響曲第9番「ザ・グレイト」をどう捉えていたのかは定かではないが、あまりにも対照的な歴史的な超名演をわずか10年足らずの間に成し遂げたという点からして、フルトヴェングラーがいかに表現力の幅が極めて広い懐の深い大指揮者であったのかがよく理解できるところだ。

ただ、本演奏の弱点は、音質が必ずしも良好とは言えなかったところであり、従来盤ではフルトヴェングラーの彫りの深い表現を堪能することが困難であったと言わざるを得ない。

しかしながら、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって見違えるような素晴らしい音質に生まれ変わり、フルトヴェングラーの遺産の中でも特筆すべき出来映えに仕上がったと言えるところだ。

第1楽章冒頭のホルンの音色はいささか古臭いが、第2楽章の豊穣な弦楽合奏の音色、第3楽章の低弦の唸るような重厚な響きなど、ここまで鮮度の高い音質に蘇るとは殆ど驚異的ですらある。

これによって、フルトヴェングラーの彫りの深い表現を十分に満足できる音質で堪能できるようになった意義は極めて大きいと考える。

ハイドンの交響曲第88番「V字」も、シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」と同様のアプローチによるスケール雄大で彫りの深い名演であり、第1楽章の弦楽合奏の豊穣で艶やかな響きなど、音質向上効果にもきわめて目覚ましいものがある。

いずれにしても、フルトヴェングラーによる至高の超名演を、このような高音質のSACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2015年04月26日


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1944年3月にベルリン国立歌劇場で行われた定期公演のライヴ録音。

フルトヴェングラーの指揮による「魔弾の射手」序曲の録音は5種類あるが、この大戦末期のベルリンでのライヴ盤が傑出している。

死の直前のウィーン・フィルのスタジオ録音よりさらに彫りが深く、実に雰囲気豊かであり、フルトヴェングラーの情感が生々しく迫ってくる。

とりわけ曲の前半はテンポがきわめて遅いが、深閑としてボヘミアの森の暗さをこの上なく雰囲気豊かに描き切っている。

序奏はテンポが遅くておどろおどろしく、スケールも大きく、ホルンのロマンティックな音色が美しく、チェロの表情はつけすぎるくらいだ。

主部もスローテンポを維持し、経過句やコーダのアッチェレランドは抑え気味だが、ひびきの翳が濃く、細部まで刻明に弾き切っているので感銘深い。

1926年盤、1954年盤と並んで後世に遺したい名演と言えよう。

「ダフニスとクロエ」第2番は全奏の音がよく言えば溶け合っているが、実は分離が悪く、濁り気味なので、ラヴェルの音彩を楽しむというわけには到底ゆかず、「夜明け」のみずみずしい詩情など求むべくもない。

ティンパニが意味なく強いのもいただけないし、採るとすれば「無言劇」における木管のソロの巧さであろうか。

フルトヴェングラーの7種の「田園」の中では、このベルリン盤が最も主観的で、フルトヴェングラー色が強い。

フルトヴェングラーの「田園」で最も魅力があるのは第1、2楽章である。

どっしりと重々しく進める第1楽章、対照的に抒情を生かしてこまやかに歌ってゆく第2楽章、ともに楽器のバランスが鮮やかで、この2楽章のゆったりとした表現の美はフルトヴェングラーをおいては見られない。

第1楽章は1952年のウィーン盤によく似ているが、オケのせいもあっていっそう暗く、終結のリタルダンドが大きい。

第2楽章でもテンポの動きが多用されており、第2テーマのあたりのスピード感はほかの盤には見られぬところだ。

以上2つの楽章ではクラリネット奏者の巧さが印象的である。

第3〜5楽章はテンポも速くなって、いよいよ実演色濃厚になり、テンポの変化も多くなるが、そのぶんアンサンブルが雑になり、格調を崩してしまうのも事実だ。

たとえばスケルツォの最後の部分における猛スピード、フィナーレの第2テーマにおけるアッチェレランドなど、いくらなんでもやりすぎではないか。

もしもほかの指揮者がこんなことをしたら、徹底的に叩かれるのは必定だ。

それだけに「嵐」は凄絶だが、ティンパニのアタックは無機的だし、途中でガクンと遅くなるのもおかしい。

フルトヴェングラーならではの「田園」だが、やはり曲自体、これほどまでのドラマを必要としていないのだろう。

音質は、フルトヴェングラーの遺産のSACD化シリーズの中では、音質改善効果が極めて少ないと言えるが、既発売のCDと比較すると、若干は音質の向上効果は見られるところであり、フルトヴェングラーのドラマティックな名演を、不十分ながら、これまでよりは良好な音質で味わうことができることについては一定の評価をしておきたい。

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2015年04月03日


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1953年4月14日 ベルリン、ティタニア・パラストでのライヴ・レコーディング。

フルトヴェングラー晩年の、燃焼度抜群の名演で、オーケストラの力の入りようも尋常ではなく、強烈な印象を残す録音として名高いもの。

フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲第7番の演奏の録音は数多く遺されているが、一般的には1943年のベルリン・フィルとのライヴ録音と1950年のウィーン・フィルとのスタジオ録音が双璧の名演とされている。

いずれも数年前にオーパス蔵が素晴らしい復刻を行ったことから、両名演の優劣をつけるのが極めて困難な状況が続いていたところである。

しかしながら、一昨年1月、EMIが1950年盤をSACD化したことによって、きわめて鮮明な音質に生まれ変わったことから、おそらくは現在では1950年盤をより上位に置く聴き手の方が多数派を占めていると言えるのではないだろうか。

このような2強の一角を脅かす存在になりそうなのが、先般シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化という、現在望み得る最高の高音質化が図られた、本盤に収められた1953年のライヴ録音ということになる。

本演奏については、従来盤(DG)の音質はデッドで音場が全く広がらないという問題外の音質であったが、数年前にスペクトラムレーベルが比較的満足し得る復刻を行ったところだ。

しかしながら、ユニバーサルによる今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって、これまでとは次元が異なる高音質に生まれ変わったと言えるところであり、鮮明で解像度が高く、とても半世紀前の録音とは思えない。

ようやく本演奏の真価を味わうことが可能となるに至ったと言えるだろう。

第7番は1943年のライヴ録音のようなテンポの激しい動きは無いが、集中力と完成度の高い一気に聴かせる素晴らしい演奏である。

冒頭の和音からして崇高さを湛えており、その後は濃厚さの極みとも言うべき重厚な音楽が連続していくが、彫りの深さといい、情感の豊かさといい、これ以上の演奏は考えられないほどの高みに達した神々しさを湛えている。

終楽章の終結部に向けてのアッチェレランドを駆使した畳み掛けていくような力強さは、圧倒的な迫力を誇っている。

筆者としては、本SACD盤が登場しても、なお1950年盤の方をより上位に置きたいと考えてはいるが、本SACD盤は1950年盤に肉薄する超名演と評価するのにいささかも躊躇しない。

他方、交響曲第8番については、ストックホルム・フィルとの演奏(1948年)がEMIによって既にSACD化されているが、必ずしも音質改善が図られたとは言えなかっただけに、本盤の演奏の方が、音質面においても、そしてオーケストラ(ベルリン・フィル)の質においても、より上位を占めるに至ったと言っても過言ではあるまい。

第8番は、フルトヴェングラーが必ずしも得意とした交響曲ではなかったとされているが、このような高音質で聴くと、むしろ同曲を自己薬籠中のものとしていたのではないかとさえ思われるような熟達した名演を繰り広げていることがよく理解できるところだ。

モーツァルト的な演奏とは違う、まさにベートーヴェン的な情熱感のある演奏を繰り広げている。

いずれにしても、フルトヴェングラーによる至高の超名演を、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤という現在最高のパッケージメディアで味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年03月24日


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このCDのメインは、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」で、1953年8月26日のルツェルン音楽祭での演奏のライヴ録音である(フルトヴェングラーの同曲の最後の録音となったもの)。

これは、ラジオ放送を録音したもの(いわゆるエアチェック)なので音の状態は十分ではないものの、演奏は素晴らしい。

フルトヴェングラーの指揮する「エロイカ」は、極めて高い見識を持った優れた解釈を下地にしており、残されたすべての演奏が格別の名演である。

ここでの演奏は、時期的に近接している1952年11月30日のウィーン・フィルとの演奏とごく近いものだが、物腰の柔らかいウィーン・フィルと違い、ルツェルン祝祭管弦楽団(スイス・ロマンド管弦楽団の団員などから構成されているという)の素直な反応がフルトヴェングラーにウィーンでの演奏よりも少しばかり動的かつ情熱的な演奏を促したのも知れない。

第1楽章は物凄い気迫で開始され、最初の和音だけとれば、これが今までのベストと言えよう。

そして続く主題の足どりはゆったりとして実に良い雰囲気であり、堂々としてスケール雄大、ひびきが満ちあふれる。

オーケストラが指揮者に慣れていない感じで、それがフレッシュな感動を生み出す原因の1つになっているのだろう。

指揮者の棒は1952年のスタジオ録音以上に力みがないが、音の背後の凄絶さはまさに最高、常に立派な充実感に満たされている。

テンポの動きは再現部の前と直後に1度ずつあるだけで、後は安定しきっており、最晩年の確立した大演奏と言えよう。

第2楽章は心はこもっているが流れを失わず、旋律はソロといい合奏といい、肉のり厚く歌われ、中間部から再現部のフガート、その後の阿鼻叫喚に至るまで、他のどの盤に比べても仕掛けはないが、それでいて物足りなくないのは偉とすべきであろう。

この楽章は、深く悲しみに沈み込むような1952年12月8日のベルリン・フィルとの演奏より2分も短い。

お互い相手を知りぬいた組み合わせとは異なった、一期一会の感興がこの演奏の大きな魅力となっている。

スケルツォからフィナーレにかけても同じスタイルだが、後者に入ると音質がだんだん濁ってくるのが残念だ。

しかし、少しも速くならないフーガといい、ポコ・アンダンテといい、コーダといい、音の後ろに凄いものが隠されており、充分満足させてくれるのが素晴らしい。

このCDには余白を埋めるものとして、さらに2つのルツェルン音楽祭での録音が収録されている。

1つは1954年8月22日のベートーヴェンの交響曲第9番、その終楽章の最後7分余り。

これは最晩年のフルトヴェングラーの演奏の中でもとりわけ優れた感動的な演奏であるが、これは全曲として聴くべきものだろう。

もう1つは、1951年8月、ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章の練習風景である。

資料によると第2楽章の97小節から187小節までが扱われているが、フルトヴェングラーの指示は基本的に簡潔で具体的なものである。

143小節からの下降音型で、フルトヴェングラーは『重々しさ』を求め、それに応じて見事にオーケストラの演奏が変化していく様子が興味深い。

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2015年03月20日


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いずれも鮮烈な名演だ。

ブラームスの「第3」は1954年4月27日、ベルリンのディタニア・パラストに於ける定期公演の実況盤であるが、音の状態は非常に良く、演奏も死の年のものだけに完璧をきわめ、フルトヴェングラーのディスクの中でも屈指の名盤と言えよう。

この「第3」は旧盤も素晴らしかった。

わけても第1楽章の情熱はむしろ古いほうを採りたいくらいであるが、第2楽章以下は録音の良さも含めて、完成されきった新盤に軍配を挙げるのが妥当であろう。

ただし、解釈の根本はまったく同じである。

とにかく大胆なアゴーギクによって情熱的で共感の限りを表明しており、彫りの深い表情には創造的な芸術性の力が漲っている。

第1楽章は冒頭から緊迫した生命力が湧き出しており、ティンパニの最強打が目立つほかは、旧盤の表現をいっそう凝縮させたものだ。

今回は提示部の反復も行われていない。

第2楽章は録音の鮮明さによって、楽器の音色そのものに心がにじみ出ていることが手に取るようにわかる。

相変わらずテンポの動きの大きい、むせるような歌に満ちたブラームスであるが、旧盤よりは遥かに結晶化されているようである。

第3楽章も音色自体に心がこもりきっており、それが後半、あふれんばかりにほとばしり出て来て、“音楽は心だ”と改めて思い知らされるような表現である。

ただし、第1主題のリズムは旧盤よりも格調があるとはいえ、再現部のホルンには若干崩れが見られる。

第4楽章は旧盤の造型をそのままに立派さを加えた超名演で、疑いもなく全曲の白眉と言えよう。

最晩年のフルトヴェングラーとしては、テンポの激しい動きと表情の凄まじさはその比を見ないほどであるが、ほとんど同じスタイルによる旧盤でいちばん不出来だったこの楽章が、新盤では最上の出来となったところに、フルトヴェングラーの芸術の完成をわれわれは知るのである。

わけても提示部、再現部のそれぞれ終わりの部分における追い込みで、オケの鳴りが少しも悪くならないこと、旧盤では随所に追加されたティンパニを一切使用していないこと、の2点に注目すべきである。

フルトヴェングラーが録音した5つの「未完成」の中で、いちばんすっきりしているのはウィーン盤であり、次いではこの1952年盤である。

解釈の基本は1回目のベルリン盤とまったく同一であり、それを円熟させた表現と言えるところであるが、厳しくも凝縮されたリズムとひびきが際立ち、入魂の演奏が随所に聴かれる。

無駄と虚飾のない秀演で、第1楽章は雄大なスケールをもち、旋律の表情が意外なほど素直に磨かれている。

第2楽章第2主題を吹くクラリネットの、思いをたっぷりと込めた哀しみのソロと、それに応える最弱音も印象的だ。

2曲ともフルトヴェングラーとしても屈指の優れた演奏だけに今後SACD化するなど、更なる音質の向上が望まれる。

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2015年03月16日


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フルトヴェングラー56歳の時のライヴ録音だけに、若々しく、アゴーギクの様相にはこの指揮者ならではのものがある。

テンポに一貫した緊迫感があり、素晴らしく生命力の横溢した表現で、創意豊かな気迫に満ちた「第9」だ。

ベルリン盤と有名なバイロイト盤との間には10年近い歳月が流れ、ドイツの壊滅と裁判による演奏停止期さえ含まれているが、スタイルにはほとんど変化がなく、細部の表現に至るまで、驚くほど似ている。

たとえばベルリン盤の第1楽章と第3楽章の遅いテンポ、雄大なスケールは、すでに1951年盤のそれと同一であって、これはフルトヴェングラーとしても異例のことである。

「第9」に関する限り、フルトヴェングラーは1940年代の初めから、彼の最後期のスタイルを獲得していたのであった。

とはいえ、ベルリン盤とバイロイト盤を比べると、スタイルは同じでも内容の深さはかなり違う。

バイロイト盤の、あたかも永遠を想わせるような、無限の彼方にまで拡がってゆく精神の深みは、ベルリン盤にはまだ見られない。

その代わり、ベルリン盤の良さは直接的な迫力、若々しい生命力とダイナミズムにあるだろう。

ことにティンパニストが決めどころに見せる死んだ気の最強打は、時に聴く者の肺腑を抉る(第1楽章の再現部冒頭が最も良い例と言えよう)。

フルトヴェングラーの解釈で気になるのは、終楽章で歓喜の主題が低弦から静かに湧き上がる直前の2つの和音をスタッカートにしている点で、これはバイロイト盤のように楽譜通り四分音符を充分にのばしたほうが良い。

またテノール独唱に伴う行進曲が始まる前の“vor Gott”のフェルマータはバイロイト盤より長いが、聴いた感じはもう一つ効果的でない。

バイロイト盤ではフェルマータを切る前にクレッシェンドを掛けるのだが、これが効いているのである。

テノール独唱に男声合唱が加わる途中から凄まじいアッチェレランドを掛けるやり方はバイロイト盤には見られぬもので、何度聴いても興奮させられるが、その結果、次のオーケストラだけのフガートが速くなりすぎてしまうのは、実演ならではのミスであろう。

また第3楽章のコーダに近い金管の警告の直前で、第2ホルンが上行音型を1拍早く吹いてしまうのは、フルトヴェングラーもさぞかしびっくりしたに違いない。

次にバイロイト盤を上回る個所を挙げておこう。

第1楽章の再現部以降の味の濃さと迫力、第4楽章の終結の2ヵ所で、このあたりはやはり寄せ集めのバイロイトのオケと、手兵のベルリン・フィルとの差が出ている。

後者など、あの速いテンポにオーケストラが一糸乱れずついてゆき、最後の5つの音符をティンパニストが見事に決めるのである。

もう1つ、同じ楽章のアンダンテ・マエストーソの部分で、男声のユニゾンが歌う“ein lieder Vater wohnen”のディミヌエンドと音色の懐かしさは、バイロイト盤やストックホルム盤ではこれほど巧くいっていない。

この部分、ほどんどの指揮者はフォルティッシモの指定のままどならせてしまうが、それではこの言葉の意味は生かされない。

筆者の知る限り、メンゲルベルクとフルトヴェングラーだけが、父なる主のいます星の彼方に想いを寄せているのである。

この1942年盤は、メロディア盤や仏ターラ盤、最近ではグランドスラムによる復刻盤などでも聴けるが、本アルトゥス盤とそれらとは音の明快さが雲泥の相違で、バイロイト盤と並んでどうしても持っていたいCDとなった。

なお、この演奏は3月22日のベルリン・フィル定期ではなく、4月19日に行われたヒトラー誕生日祝賀コンサートのライヴではないかという意見もあることを付記しておく。

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2015年03月15日


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「第4」の表現はきわめてフルトヴェングラー色が濃く、まことにデモーニッシュの極みと言えよう。

第1楽章の導入部からして、他の指揮者とはまるで違う雰囲気にあふれ、特に目立つのはチェロとバスの動きを強く生かした点であろう。

導入部が終わりに近づくと、いよいよ来るべきものを予感させるようなリタルダンドが掛かり、猛烈なクレッシェンドとテヌート、および狂気じみたティンパニの強打が、ものものしくもドラマティックな効果を上げる。

まさにフルトヴェングラーならではというところだ。

主部のアレグロ・ヴィヴァーチェは遅いテンポで始まるが、次第にアッチェレランドし、相変わらずティンパニを強打しつつ、スピード感と気迫に満ちた進行を示す。

第2主題の木管の掛け合いではテンポを大きく落とし、一息つきながら美しく歌わせるが、確かにここで遅くするのは曲想にぴったり合致しており、フルトヴェングラー・ファンを泣かせる原因ではあるものの、彼の表現が大好きな筆者でさえ、いささかの疑問を感じないではない。

それは1つには「第4」という音楽がこれほど大きな起伏を必要とする曲かどうか、という問題にも関わってくるのである。

ベートーヴェンの「第1」「第2」「第4」などを、ハイドンやモーツァルトの延長として、こぢんまりと指揮することには反対である。

これはあくまでもベートーヴェンだからだ。

しかし、これら3曲が、「エロイカ」「第5」「第7」「第9」などと違うのもまた事実である。

内容はともかくとしても、規模が異なる。

したがって、こぢんまりとさせてはいけないが、そこに自ずから限度が出てこよう。

ところが、フルトヴェングラーはそんなことには一切頓着しておらず、馬鹿でかいスケールとはちきれれるような内容をもって、世界の苦悩を一身に背負った表現を、誰はばかることなく行っているのだ。

これを戦時下という時代のせいにしてはならないであろうし、芸術の根本とは本来このようにあるべきなのだ。

「第4」の場合、確かに疑問は残るが、フルトヴェングラーにとって、これ以外に自分の生きる道はなく、妥協すれば彼も死に、ひいては音楽自体も死んでしまう。

だから正直に、感じた通り行うことだけが、芸術家としての彼の真実となり得るのである。

いかにもフルトヴェングラーらしいのは、展開部の終わり、弱音の部分で、これ以上テンポを落とせば止まってしまいそうに遅くしていることだが、実際に客席に居るならばともかく、CDで聴く限り、造型を崩し、いくぶん思わせぶりな感がするのは否めない。

しかしコーダはすばらしい迫力である。

第2楽章の遅いテンポと粘ったリズムも、フルトヴェングラー以外の何ものでもあるまい。

血が通った、有機的な表現で、盛り上がりのスケール雄大な凄まじさなど見事だが、部分的にかなりもたれ、ついてゆけない人も多いことだろう。

スケルツォも構えの大きさと気迫の烈しさにおいて際立っているが、絶品というべきはフィナーレである。

速めのテンポと推進するリズムから、物凄いエネルギーが噴出し、旋律は思い切って歌われる。

あたかもひた寄せる大奔流のようで、コーダに入る前の、人間業とも思えぬスフォルツァンドと凄絶な和音の生かし方が、「第4」全体を見事に締めくくる。

第1、第2の両楽章は、フルトヴェングラーのレコードの中で、造型面においてベストとは言えないと思うが、このフィナーレだけは最高の出来映えと絶賛されよう。

一方、「コリオラン」序曲は、フルトヴェングラーの劇的表現がぴたりとはまり、彼の数多いディスクの中でも最高の出来映えの1つであろう。

その異常な緊張感と鬼気迫るような迫力、ドラマティックな訴えは見事で、ことに冒頭とコーダにおけるティンパニの最強打が凄まじい。

第2主題のテンポの落とし方も効いており、ことにコーダにおけるそれは、哀しい音色といい、ピアニッシモの生かし方といい、後ろ髪を引かれるような、おずおずとした運びが何とも言えない。

最近はこの第2主題でテンポを落とさない指揮者が増えてきたが、それではこのテーマの意味は生かし得ないだろう。

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2015年02月16日


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いかにもフルトヴェングラーならではの彫りの深い素晴らしい名演だ。

本演奏はスタジオ録音であり、セリフのみの箇所を大幅にカットしていることもあって、ライヴ録音における極めて燃焼度の高いドラマティックな演奏を成し遂げる常々のフルトヴェングラーとはいささか異なった演奏と言えるが、悠揚迫らぬインテンポによって濃密に曲想を進めていくなど深沈とした奥深さを湛えているのが素晴らしい。

なお、フルトヴェングラーには、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」については、本演奏のほかにも1950年のザルツブルク音楽祭でのライヴ録音盤(数年前にオーパスが見事な復刻を行った)があり、それは本演奏とは異なって極めてドラマティックな演奏であるとともに、歌手陣がきわめて豪華であることからそちらの方を上位に置く聴き手も多いとは思うが、本演奏にも優れた箇所も多く存在するところであり、容易には優劣はつけられないのではないだろうか。

また、本演奏においては各登場人物の深層心理に鋭く切り込んでいく彫りの深さが際立っており、とりわけ第2幕冒頭の序奏などにおいては、1950年盤以上に奥行きのある表現を展開しているなど、その筆舌には尽くし難いような深沈たる荘重さは、フルトヴェングラーとしても最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのではないだろうか。

また、フルトヴェングラーは、1950年盤と同様に、レオノーレ序曲第3番を、マーラーが慣習づけた流儀にしたがって終結部(第2幕第2場)の直前に配置しているが、これが冒頭の序曲ともども凄い演奏だ。

両曲ともに冒頭からしていわゆるフルトヴェングラー節全開。

あたかも交響曲に接するのと同様のアプローチで、劇的でなおかつ重厚な演奏を繰り広げており、スケールは雄渾の極み。

とりわけレオノーレ序曲第3番においては、終結部のトゥッティに向けて畳み掛けていくような緊迫感と力強さは圧巻の迫力を誇っている。

このように、序曲及びレオノーレ序曲第3番だけでも腹がいっぱいになるほどの密度の濃い演奏を成し遂げていると言えるだろう。

歌手陣はさすがに1950年盤の豪華さには劣っているが、それでもマルタ・メードルやヴォルフガング・ヴィントガッセン、オットー・エーデルマンなどの一流歌手陣が最高の歌唱を繰り広げている。

フルトヴェングラーの統率の下、最高のパフォーマンスを示したウィーン・フィルやウィーン国立歌劇場合唱団にも大きな拍手を送りたい。

録音は1953年のスタジオ録音であり、従来盤でもフルトヴェングラーのCDとしては比較的満足できる音質である。

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2015年01月09日


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フルトヴェングラーのブルックナーの「第8」の1954年盤については、クナッパーツブッシュの演奏ではないかとの説が存在しているが、本盤の名演を聴いて、そんな疑念はすっかりと吹き飛んでしまった。

第1楽章のゆったりとした深沈たるインテンポの表現を聴いていると、確かに、そのような説を唱える者にも一理あると思ったが、第2楽章のスケルツォの猛スピードの演奏と、中間部のゆったりとしたテンポの極端な対比や、第3楽章のうねるような熱いアダージョの至高美、そして終楽章のものものしい開始や、ドラマティックな展開など、フルトヴェングラーならではのテンペラメントな世界が全開だ。

仰ぎ見ると…その途轍もなく巨大な威容に圧倒され、覗き込むと…底知れぬ暗澹たる深みに震えが来る。

それほど演奏の「深度」は形容しがたいほど深く、1音1音が明確な意味付けをもっているように迫ってくる。

テンポの「振幅」は、フルトヴェングラー以外の指揮者には成し得ないと思わせるほど大胆に可変的であり、強奏で最速なパートと最弱奏でこれ以上の遅さはありえないと感じるパートのコントラストは実に大きい。

しかしそれが、恣意的、技巧的になされているとは全く思えないのは、演奏者の音楽への没入度が凄いからである。

これほど深遠な精神性を感じさせる演奏は稀有中の稀有であると言えるところであり、根底に作曲家すら音楽の作り手ではなく仲介者ではないかと錯覚させる、より大きな、説明不能な音楽のエートスを表現しようとしているからであろうか。

「フルトヴェングラー体験」をしたいリスナーには、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス等の伝説の名演とともに欠くべからざる一角を占める演奏である。

改訂版の使用であり、終楽章には大幅なカットや、ブルックナーらしからぬ厚手のオーケストレーションが散見されるが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。

あと10年生きていてくれたら、フルトヴェングラーはさらなる崇高な高みの境地に至っていたのではないかを思わせる。

グランドスラムによる復刻は、この当時のものとは言えないくらい鮮明なものであり、特に低弦による重量感溢れる迫力には大変驚かされた。

ボーナストラックのワーグナーやマーラーも定評ある名演。

特に、マーラーのさすらう若人の歌は、各楽章ごとの巧みな描き分けが見事であり、殆どマーラーを指揮していないにもかかわらず、これほどの超名演を成し遂げたフルトヴェングラーの偉大さにあらためて感じ入った。

若きフィッシャー=ディースカウも、その後の洋々たる将来を予見させるのに十分な見事な歌唱を披露している。

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2014年12月15日


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数年前にEMIがフルトヴェングラーの一連の録音のSACD化を行ったのは、フルトヴェングラーの偉大な指揮芸術を多くのクラシック音楽ファンにあらためて知らしめる意味においても、そして、昨今のSACDルネッサンスの起爆剤としても、大変大きな意義を有するものであった。

そして、今般、EMIは、フルトヴェングラーの一連の録音の中でも特に圧倒的な支持を集めている、ベートーヴェンのいわゆる奇数番の交響曲を一括して、更に音質面でグレードアップしたシングルレイヤーによるSACD化を行ったのは、2012年のクラシック音楽界を締め括るに相応しい一大イベントとも言うべきものであると考えられる。

先般のSACD化の際には、ベートーヴェンの偶数番の交響曲についても対象となっていたが、第2番については、もともとの音質が劣悪でSACD化を施しても大した改善に至らず、全集の体裁を整えるための穴埋め程度のものでしかない。

第4番及び第6番は、一般的な意味での名演ではあるものの、前者はムラヴィンスキーやクライバー、後者はワルターやベームの演奏の方に軍配があがるのではないだろうか。

第8番も、戦前のワインガルトナーやイッセルシュテットの演奏、さらには、かなりのデフォルメが施されているがクナッパーツブッシュの名演なども存在しており、そちらの方にどうしても食指が動く。

こうした点を勘案すれば、本セット盤こそは、フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲選集の決定盤と言っても過言ではあるまい。

それにしても、音質は素晴らしい。

先般発売されたハイブリッドSACD盤よりも更に高音質にあったことは間違いないと言えるだろう。

特に、フルトヴェングラーの指揮芸術の生命線でもある低弦のうなるような重量感溢れる響きがかなり鮮明に再現されるようになったことは、極めて意義の大きいことと言わざるを得ない。

交響曲第1番については、1954年の最晩年のライヴ録音盤がフルトヴェングラーの決定盤との評価もなされているが、音質面も含めて総合的に考慮すれば、本セット盤も十分に決定盤たりうる価値を有している。

交響曲第3番については、本演奏と1944年のいわゆるウラニア盤との優劣が長年に渡って論点になってきているが、今般のシングルレイヤーによるSACD化によって、ウラニア盤のSACD盤を明らかに上回る高音質になった現時点においては、本演奏の方を推薦したいという気持ちに傾かざるを得ない。

確かに、本演奏にはウラニア盤にように夢中になって突き進むフルトヴェングラーは聴かれないが、音符の奥底に潜む内容を抉り出そうとする音楽的内容の深みにおいては、断然、本演奏の方に軍配があがることになる。

とりわけ、スケールの雄大さには比類がないものがあり、そうしたフルトヴェングラーの崇高な指揮芸術をこのような高音質で聴けるのは何という幸せなことであろうか。

交響曲第5番については、音場の拡がりと音圧が見事。

先般、戦後の復帰コンサートの初日(1947年5月25日)の演奏がシングルレイヤーによるSACD化されたが、音質面においてはそもそも比較にならない。

演奏内容も、その精神的な深みにおいては本演奏の方がはるかに凌駕しており、低弦のうなるような響きや金管楽器及び木管楽器の鮮明さが、フルトヴェングラーの解釈をより明瞭に浮かび上がらせることに繋がり、演奏内容に彫りの深さが加わったことが何よりも大きい。

交響曲第7番については、1943年盤と本演奏が双璧の名演とされてきたが、今般のシングルレイヤーによるSACD化によって、音質面においては完全に勝負がついたと言える。

楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような深みとドラマティックな表現をも兼ね合わせた、同曲演奏史上最高の名演であることは言うまでもないことである。

交響曲第9番も素晴らしい高音質。

人類の持つ至宝とも言うべき永遠の名演が、今般の高音質化によって、まさに名実ともに歴史的な遺産となったと言っても過言ではあるまい。

弦楽器の艶やかな、そして金管楽器のブリリアントな響きは、ハイブリッドSACD盤以上の鮮明な高音質であるし、我々聴き手の肺腑を衝くようなティンパニの雷鳴のような轟きは、凄まじいまでの圧巻の迫力を誇っている。

独唱や合唱も、これ以上は求め得ないような鮮明さであり、オーケストラと見事に分離して聴こえるのには、あらためて大変驚いた。

ホルンの音色がやや古いのは、今般のシングルレイヤーによるSACD盤でも改善されていないのは残念ではあるが、これは、録音年代の古さを考慮すれば、致し方がないと言えるのではないか。

有名なエンディングについては、かつての従来CD盤で聴くと、フルトヴェングラーの夢中になって突き進むハイテンポにオーケストラがついていけず、それ故に音が団子状態になって聴こえていたが、本盤を聴くと、ハイブリッドSACD盤以上に、オーケストラはフルトヴェングラーの指揮に必死についていっており、アンサンブルもさほどは乱れていないことが明確によくわかった。

ハイブリッドSACD盤のレビューにおいても記述したが、これは、まさに世紀の大発見であり、交響曲第9番の肝の箇所だけに、SACD化による最大の功績とも言えるのではないだろうか。

いずれにしても、本セット盤は、2012年のクラシック音楽界の掉尾を飾るに相応しいものであるとともに、歴史的な遺産とも評価し得る至高の名交響曲選集であると高く評価したい。

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2014年12月01日


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驚天動地の超高音質SACDの登場だ。

これがSP復刻による1938年の録音とはとても信じられない。

フルトヴェングラーが遺したチャイコフスキーの「悲愴」の録音としては、本盤といわゆるカイロ盤(1951年のライヴ、DG)の2種が存在し、いずれ劣らぬ名演ではあるが、ライヴ録音ということもあり、どちらかと言えばドラマティックなカイロ盤の方を上位に置く評者が多かったのではないかと思われる。

しかしながら、今般の高音質化を持って、フルトヴェングラーの魔法のような至芸を鮮明な音質で味わうことが可能となったことにより、筆者としては、本盤の方をより上位に置きたいと考える。

SP復刻に起因するテープヒスは若干あるものの、第1楽章冒頭のファゴットの生々しい音色からして大変驚かされる。

第1主題のトゥッティでは若干音は歪むが、それでも既発CDとは段違いの良好な音質だ。

第2主題の弦楽合奏は艶やかに響くし、その後の木管楽器の響きも実にブリリアント。

展開部も音が殆ど歪まず、金管楽器や弦楽器が見事に分離して聴こえるのは圧巻であり、特に、展開部の終わりにおける低弦の動きが鮮明に再現されるのは驚異的ですらある。

ここでのドラマティックな表現は、フルトヴェングラーの面目躍如といったところである。

第2楽章冒頭の弦楽による厚みのある演奏は、音に一本芯が通ったような力強さが印象的。

その後の高弦による艶やかな響きには抗し難い魅力がある。

それにしても、中間部を超スローテンポで演奏するなど、第2楽章におけるフルトヴェングラーの表現は濃厚さの極みであり、この濃密で彫りの深い表現は、チャイコフスキーの真髄に迫る至高・至純の指揮芸術と高く評価したい。

第3楽章は、中間部で、おそらくはマスターテープに起因するであろう音圧の低下があるのは残念ではあるが、全体として各楽器が鮮明に分離して聴こえるのが素晴らしい。

特に、後半のトゥッティにおいて音の歪みが殆ど聴かれず、ブラスセクションがブリリアントに響きわたるのは凄まじいの一言。

終結部に向けての猛烈なアッチェレランドは、フルトヴェングラーならではの圧巻の至芸だ。

終楽章の慟哭のような弦楽合奏の深みのある音は、本高音質SACDを持ってはじめて再現されるものだ。

若干の音の歪みはあるが、さほど気にはならない。

トゥッティに向けてのアッチェレランドを駆使した圧倒的な盛り上がりは、フルトヴェングラーならではの卓越した至芸であるが、タムタムによる一撃や消え入るような終結部なども含め、既発CDとは次元の異なる鮮明な高音質で再現されるのは見事というほかはない。

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2014年11月07日


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素晴らしい高音質SACDの登場だ。

音質において決して恵まれているとは言えなかったフルトヴェングラーの遺産が、これほどまでに極上の高音質に生まれ変わったのはまさに奇跡とも言うべきであり、演奏内容の高さを加味すれば、歴史的な偉業と言っても大袈裟ではあるまい。

そして、EMIが先般ついにSACDの発売に踏み切ったことも、低迷が続くレコード業界にとっては素晴らしい快挙であったと言えるところであり、大いにエールを送りたいという気持ちで一杯であった。

高音質化の内容は、「第5」と「第7」では異なる面があり、「第5」では、音場の拡がりと音圧が見事であり、「第7」は、新マスターテープの発見も多分にあると思うが、あたかも新録音のような鮮明さが売りのように思われる。

「第1」&「エロイカ」盤と同様であるが、これだけの高音質化が施されると、演奏内容への評価も俄然異なってくる。

「第5」については、戦後の復帰後のライヴ録音(1947年)が、特に、アウディーテによる復刻によって高音質化も施されるなど、随一の名演と評価してきたが、演奏内容の精神的な深みにおいては、本盤の「第5」もそれに十分に匹敵するのではなかろうか。

既発のCDとは異なり、低弦のうなるような響きや金管楽器及び木管楽器の鮮明さが、フルトヴェングラーの解釈をより明瞭に浮かび上がらせることに繋がり、演奏内容に彫りの深さが加わったことが何よりも大きい。

「第7」については、1943年盤と1950年盤が双璧であり、特に、オーパス蔵による素晴らしい復刻によって、これまで1943年盤を推してきたが、本高音質化CDの登場によって、これからは1950年盤を随一の名演に掲げることにしたい。

「第7」の名演には、荘重なインテンポによるクレンペラー盤(1968年)や、音のドラマを徹底的に追求したカラヤン盤(1978年のパレクサ盤)があるが、本盤は、それら両者の長所を有するとともに、ドラマティックな要素も加えた随一の名演と高く評価したい。

同じ「第5」と「第7」をカップリングしたCDとしては、一昨年末にシングルレイヤーSACDで発売されたクライバー盤があり、それも極上の高音質で名演と評価はするが、本盤と比較すると(あくまでも比較論ではあるが)、何と軽妙浮薄な演奏に聴こえることか。

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2014年09月30日


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初期盤以降、果たして何度リマスタリングされたのであろうか。

おそらくは概ね2年毎には行われているように思うが、いずれのリマスタリングも、ブライトクランク盤も含め、音質改善効果はわずかであったように思われる。

ところが、本盤はダントツの高音質であり、これを持って、決定盤と評価してもいいのではないか。

それくらい、これまでの既発のCDとの音質の差が著しい。

何よりも、それまでSACDを発売したことがなかったEMIが、ついにSACDの発売に踏み切ったこと自体が快挙であった。

これには、ライバルのユニバーサルやエソテリックの成功が若干なりとも影響しているとは思うが、いずれにしても、これまでの既発のリマスタリングCDとは次元の異なる鮮明な高音質だ。

特に、「エロイカ」での弦楽合奏など、実に艶やかで鮮明な音質がするし、既発のCDでは、音が団子状態で、およそ楽器らしい音がしていなかったホルンや木管楽器の明瞭に分離した鮮明な音質は素晴らしいの一言。

低弦のうなるような重厚さも圧巻の迫力だ。

これだけの高音質になると、演奏に対する評価も俄然変更を余儀なくされる。

フルトヴェングラーは、ライヴでこそ実力を発揮する指揮者であり、筆者としては、本スタジオ録音よりも、「第1」であれば1954年の最晩年のライヴ録音、「エロイカ」であれば1944年のウラニア盤をより高く評価してきたが、本高音質化CDにより、本盤の方を、前述のライヴ録音と同等、あるいはさらに上位に評価してもいいのではないかとさえ考えるようになった。

確かに、ここには夢中になって突き進むフルトヴェングラーは聴かれないが、音符の奥底に潜む内容を抉り出そうとする音楽的内容の深みにおいては、断然、本盤の方に軍配があがることになる。

特に、「エロイカ」については、そのスケールの雄大さから、おそらくは過去のどの名演と比較しても、本盤が随一の名演と評価しても過言ではあるまい。

先般、フルトヴェングラーの後輩であるカラヤンによる来日時のライヴ録音(1977年の普門館ライヴ)が発売され、それは、徹底して音のドラマを追求した超名演であったが、きしくも本盤とカップリング曲が同じ。

ただ、その演奏内容のあまりの極端な違いが、ベートーヴェンの交響曲演奏の傾向の大きな歴史的な変化を示唆していて、実に興味深い。

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2014年09月13日


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本盤にはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲と、フルトヴェングラーのレパートリーとしては大変に珍しいバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番が収められているが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。

ヴァイオリンはいずれもメニューインであるが、これまた素晴らしい名演奏を披露している。

メニューインは、フルトヴェングラーとの共演が終わった後は、これといった名演は遺しているとは必ずしも言えないので、本演奏の録音当時がベストフォームにあったのではないかとも考えられる。

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は、4大ヴァイオリン協奏曲の中でも、チャイコフスキーと同様に音楽内容の深みよりは旋律の美しさが売りの作品である。

したがって、音楽の表層を美しく装っただけの演奏でも十分に魅力のある演奏を成し遂げることは可能であるが、さすがにフルトヴェングラーはそのような薄味の演奏は行っていない。

荘重なインテンポで楽曲の心眼を抉り出していくような奥行きのある演奏は、深沈とした情感を湛えていて実に感動的であり、スケールも雄大だ。

メニューインのヴァイオリンも、表面上の美麗さに拘泥することなく、情感の豊かさと気品の高さを湛えているのが素晴らしい。

バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番も名演だ。

バルトークは巷間「現代のベートーヴェン」と称されているが、フルトヴェングラーの同曲へのアプローチは、ベートーヴェンの楽曲に接する時と何ら変わりがない。

ヴァイオリンだけでなく、オーケストラ演奏にも超絶的な技量が求められる楽曲であるが、フルトヴェングラーは同曲でも徹底した内容重視。

音楽の内容の精神的な深みを徹底的に追求しようという姿勢は健在であり、楽曲の核心に鋭く切り込んでいこうとする凄みのある演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分だ。

メニューインのヴァイオリンもフルトヴェングラーの指揮に一歩も引けを取っていない。

バルトークも生前、メニューインのヴァイオリン演奏を高く評価していたということであり、メニューインもバルトークの音楽に私淑していたとのことであるが、本演奏でも、卓越した技量をベースとしつつ、楽曲への深い理解と愛着に根差した濃密で彫りの深い演奏を披露しているのが素晴らしい。

両演奏ともに1950年代のスタジオ録音であることもあって、今般のSACD化による高音質化の効果には大変目覚ましいものがあり、これまでの既発CDとはそもそも次元の異なる鮮明な音質に生まれ変わった。

メニューインのヴァイオリンの弓使いまで聴こえる鮮明さはほとんど驚異的ですらある。

このような名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年09月11日


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本盤に収められたベートーヴェンの交響曲第5番は、新たに発見されたメタル・マスターよりリマスタリングを行っているとのことである。

録音は、1937年のスタジオ録音であるが、確かに、これまでの既発売のCDとは次元の異なる良好な音質に生まれ変わったと言える。

フルトヴェングラーの「第5」の名演としては、1947年の復帰後のコンサートの3日目のライヴ録音(DG)が超名演として知られているが、これはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化されて、それによって音質の抜本的な改善がみられたところである。

復帰初日のライヴ録音も一昨年、アウディーテからきわめて鮮明な音質で発売されたことから、今後はDG盤とアウディーテ盤が決定盤との評価が確立するものと考えられる。

これに次ぐ名演とされているのが、昨年1月にEMIからSACD盤が発売されたが、1954年のスタジオ録音ということになる。

ドラマティックな1947年盤に対して、こちらは荘重なインテンポを基調とする奥行きのある演奏ではあるが、フルトヴェングラーの芸術の懐の深さをあらわすものとして、この3強の地位は今後ともいささかも揺るぎがないと考えられる。

そして、この3強に続く名演が、1943年のライヴ録音(既にドリームライフによりSACD化)と本盤の1937年のスタジオ録音ということになるのではないだろうか。

フルトヴェングラーの全盛期は1930年代と主張される識者の方も多数おられるところであり、本演奏においても、フルトヴェングラー&ベルリン・フィルの黄金時代の演奏がいかに重厚で深みのあるものであったのかがよく理解できるところだ。

既発CDの音質がきわめて劣悪であったことから、前述の3強や1943年盤の後塵を拝していた名演が、今般のSACD化によって再び脚光を浴びることになることが大いに期待されるところだ。

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、メニューインと組んでルツェルン祝祭管弦楽団を指揮したスタジオ録音であるが、一般的にメニューインとの演奏で名演とされているのは1953年のスタジオ録音盤(同様に今回SACD化)の方である。

しかしながら、今般のSACD化によって見違えるような良好な音質に生まれ変わっており、1953年盤にも比肩し得る名演であることが証明された意義は極めて大きい。

メニューインについては、とある某有名評論家を筆頭に芳しからざる酷評がなされているが、フルトヴェングラーの下で演奏する際には、気品溢れる芸術的な演奏を披露していると言っても過言ではあるまい。

それにしても、メニューインのヴァイオリンの弓使いまで聴こえる今般のSACD化による高音質化の威力は殆ど驚異的ですらある。

ブラームスのハイドンの主題による変奏曲は、1952年のライヴ録音だけに、今般のSACD化による音質向上効果には著しいものがあり、実演ならではのフルトヴェングラーのドラマティックな表現をも加味すれば、フルトヴェングラーによる同曲の演奏の中では最高の名演と高く評価したい。

ワーグナーの2曲は、いずれも1948〜1949年にかけてのスタジオ録音であるが、こちらもSACD化によって素晴らしい音質に蘇った。

いずれも定評ある懐の深い名演であるが、特に、「ブリュンヒルデの自己犠牲」におけるフラグスタートの名唱が鮮明に響くのには大変驚いたところであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。

なお、本盤に収められたハイドンの主題による変奏曲は、第1弾のブラームスの交響曲第1番(TOGE−11006)と同じ日のコンサートの際の演奏であるにもかかわらず、当該盤には本演奏ではなく1949年のスタジオ録音の方が収められていた。

フルトヴェングラーの実演での凄さに鑑みれば、同一のコンサートの演目は可能な限り同じCDに収めるのがベストであり、このようなカップリングには若干の疑問を感じることをこの場を借りて指摘しておきたい。

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2014年07月24日


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フルトヴェングラーの代名詞と言えば、ベートーヴェンの交響曲であるが、9曲ある交響曲の中でも第1番を除くいわゆる奇数番号の交響曲については、自他ともに認める十八番であったと言えるだろう。

それら4曲の交響曲については、かなりの点数の録音が遺されているのも特徴であり、近年になっても新発見の録音が発掘されたり、あるいはより音質のより音源の発見、さらにはSACD化などの高音質化が図られるなど、フルトヴェングラーの指揮芸術に対する関心は、没後50年以上が経っても今なお衰えの兆しが一向に見られないところだ。

フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲第9番の名演としては、諸説はあると思うが、これまでのところ、バイロイト祝祭管弦楽団とのライヴ録音(1951年)と、最晩年のフィルハーモニア管弦楽団とのライヴ録音(1954年)が2強を形成していたと言える。

もちろん、これら2つの演奏自体が圧倒的な素晴らしさを誇っているのであるが、それ以上に、両名演についてはSACD化が図られているというのも大きいと言えるのではないだろうか。

フルトヴェングラーの録音は、演奏が素晴らしくても音質が良くないというのが定評であり、逆に、これまであまり評価が高くなかった演奏がSACD化によって、高評価を勝ち取ることもあり得るところである(例えば、1947年5月25日のベートーヴェンの交響曲第5番のライヴ録音)。

本盤に収められた1952年の交響曲第9番についても、今般のSACD化によって、そのような可能性を秘めた名演と言えるだろう。

これまで、とりわけトゥッティにおいて音が団子状態になったり、不鮮明で聴き取りにくい箇所が極めて多かったのが大幅に解消され、前述のバイロイト盤や1954年盤にも十分に対抗できるような良好な音質に生まれ変わった意義は、極めて大きいことである。

本演奏は、かのバイロイト盤から約半年後のものであるが、それだけに気力・体力ともにさらに充実したフルトヴェングラーによる至高の指揮芸術を、これまでとは違った良好な音質で堪能することができるようのなったのは実に素晴らしいことと言えるだろう。

第1楽章冒頭の他の指揮者の演奏の追随を許さない深遠さ、その後のとても人間業とは思えないような彫りの深さ、第3楽章の誰よりもゆったりしたテンポによる演奏の神々しいまでの崇高さ、そして終楽章のドラマティックな表現など、フルトヴェングラーだけに可能な至芸は、我々聴き手の深い感動を誘うのに十分である。

オーケストラがウィーン・フィルであることも、本演奏の大きなアドバンテージであると言えるところである。

いずれにしても、SACD化によって、これまでとは格段に良好な音質に生まれ変わるに至った本盤の演奏は、バイロイト盤や1954年盤とともに3強の一角を占めるとも言うべき至高の超名演に位置づけられることになったと言えるところであり、本SACD盤の登場を大いに歓迎したい。

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2014年07月19日


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本盤に収録されたモーツァルトの2曲については、これまで幾度となくリマスタリングが繰り返されてきたが、それらとは一線を画する素晴らしい超高音質SACDの登場を大いに歓迎したい。

「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」は、録音が1949年ということもあり、マスターテープの保存状態がかなり良かったのではなかろうか。

何よりも、弦楽合奏の音に一本芯が通ったような力感が増したのが何よりも大きい。

そして、高弦の響きは艶やかで美しさの極み、トゥッティに差し掛かっても音が歪むことがないのが素晴らしい。

演奏は、いわゆるモーツァルト演奏に必要不可欠とされている優美さや繊細さを基調としたものではなく、いかにもフルトヴェングラーならではのロマンティシズム溢れる濃厚なものだ。

しかしながら、雄渾なスケールと彫りの深さにおいては、他のどの演奏よりも際立ったものがあり、本演奏を個性的な名演と評価するのに筆者としてはいささかも躊躇しない。

「グラン・パルティータ」は、さらに2年遡る1947年の録音であるが、これまた驚異的な高音質だ。

戦後間もなくとはとても信じられないような鮮明な音質に唖然としてしまうほどだ。

各管楽器がブリリアントに響くのは圧巻の一言であり、トゥッティにおいても音が歪むことは殆どない。

ここでのフルトヴェングラーの演奏においては、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のような濃厚な味付けは聴かれず、むしろ優美にして颯爽としたものと言える。

それでいて、厳しい造形美や楽曲の核心を抉り出していくが如き彫りの深さは健在であり、今般の高音質化によって、同曲のトップの座を争う名演になったと評価しても過言ではないのではなかろうか。

また、古き良き時代のウィーン・フィルの各奏者が奏でる美音を聴くことができるのも本盤の魅力であり、それらを望み得る最高の音質で味わえることの喜びを大いに噛みしめたい。

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2014年07月04日


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フルトヴェングラーによるブルックナーの交響曲の演奏については、必ずしも評価が高いとは言い難い。

一部の熱心なフルトヴェングラーの愛好者はともかくとして、フルトヴェングラーの演奏を聴く場合には、独墺系の作曲家による交響曲については、先ずはベートーヴェン、次いでブラームスというのが相場ではないかと思われるところだ。

とりわけ、1990年代に入って、ヴァントや朝比奈がいわゆるインテンポを基調とする崇高な名演の数々を成し遂げるようになってからは、テンポの振幅を大胆に駆使したフルトヴェングラーによる演奏は、音質の劣悪さも相俟って、時代遅れの演奏としてますます影の薄い存在となっていったところである。

しかしながら、EMIが1949年の演奏(ライヴ録音)をSACD化するに及んで、とりわけブルックナーの交響曲演奏の生命線でもある低弦の重量感溢れる響きや、ブラスセクションのブリリアントな響きなどが、決して団子状態にならず、かなり鮮明に再現されるようになったことにより、フルトヴェングラーによるブルックナーの交響曲の演奏が再び脚光を浴びることになったのは記憶に新しい。

そして、今般、優秀な音源として知られるRIASのマスターテープから、シングルレイヤーによるSACD化が行われる運びとなり、ついに当該演奏が決定的とも評価し得る圧倒的な高音質に生まれ変わった。

今般のシングルレイヤーによるSACD盤の登場は、フルトヴェングラーによるブルックナーの交響曲演奏の再評価への決定打になるのではないかとさえ考えられるところだ。

それにしても、こうして良好な音質で聴くと、演奏はさすがに素晴らしい。

徹頭徹尾、アッチェレランドを随所に用いるなどテンポの思い切った緩急を駆使したいかにもフルトヴェングラーならではのドラマティックな名演だ。

もっとも、第1楽章におけるトゥッティに向けての猛烈なアッチェレランドや、第2楽章の快速のテンポと中間部のスローテンポの極端な対比など、現代においては殆ど聴かれない大時代的なアプローチとも言えるが、1949年においては一般的なアプローチであり、フルトヴェングラーの演奏が必ずしも特異なものであったとは言えない点に留意すべきであろう。

現代でも文句なく通用するのは第3楽章及び終楽章であり、これは圧倒的な超名演である。

第3楽章におけるいつ果てるとも知れない滔々とした調べは美しさの極みであり、かの歴史的な名演であるベートーヴェンの交響曲第9番のバイロイト盤(1951年ライヴ録音)の第3楽章にも比肩し得る至高・至純の高みに達している。

終楽章も、ハース版にはないシンバルを加えたり、終結部の猛烈なアッチェレランドなど、いささか違和感を感じさせる箇所がないわけではないが、全体としては雄渾なスケール感を感じさせる彫りの深い名演に仕上がっていると高く評価したい。

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2014年07月03日


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素晴らしい高音質SACDの登場だ。

フルトヴェングラーの遺産をSACD化するという歴史的な偉業は、第1弾のベートーヴェン、ブラームス、ワーグナーにおいて、これまでのCDとは一線を画する高音質化に成功していたが、第2弾においても、同様に目覚ましい成果をあげている。

グルックの「アルチェステ」序曲及び「オーリードのイフィジェニー」序曲の弦楽合奏の太い芯が一本通ったような厚みのある音質からして、これまでのCDとは次元の異なる驚異的な高音質だ。

高弦の艶やかな響きも鮮明に再現されており、フルトヴェングラーのロマンティシズムに満ち溢れた名演を望み得る最高の音質で味わうことができるのが素晴らしい。

モーツァルトの第40番は、グルックと比較すると録音年代が古いことから、音場がやや狭いのが残念ではあるが、それでも、既発CDと比較すると、弦楽合奏など段違いに鮮明な音質に生まれ変わっており、この当時の録音としては、最高の音質であると評価したい。

フルトヴェングラーのモーツァルトは、世評においては決して高いものとは言えなかったが、本盤のような鮮明な高音質録音で聴くと、フルトヴェングラーなりによく考え抜かれた、気迫溢れる名演であることがよくわかる。

「魔笛」は、オーケストラとリップの独唱が鮮明に分離して聴こえるのが、フルトヴェングラーのCDとしては驚異的。

フルトヴェングラーのうねるような熱い音楽が、2曲のみの抜粋ではあるが、「魔笛」の真髄を見事に描出しているのが素晴らしい。

これを聴いて、例えば「ドン・ジョヴァンニ」の全曲などをSACD化して欲しいと思った聴き手は筆者だけではあるまい。

ハイドンの交響曲第94番も、グルックほどではないが、十分に満足し得る高音質。

従来のCDだと音が団子状態になっていた箇所も鮮明に再現されることになり、これによって、フルトヴェングラーの定評ある濃密で彫りの深い、そして雄渾な名演を望み得る最高の音質で堪能できることを大いに喜びたい。

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2014年07月01日


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先般発売されたベートーヴェンの交響曲第5番及び第6番「田園」(1947年及び1954年)に続く、RIAS音源のシングルレイヤーによるSACD化の第2弾の発売である。

今般は、シューベルトの交響曲第8番「未完成」及び第9番「ザ・グレイト」、そして、ブルックナーの交響曲第8番だ。

フルトヴェングラーによるシューベルトの交響曲第8番「未完成」の名演としてはウィーン・フィルとのスタジオ録音(1950年)が有名であり、EMIよりSACD盤が発売されたことから、現在までのところ随一の名演との地位を獲得していた。

他方、交響曲第9番「ザ・グレイト」の名演としては、戦前のベルリン・フィルとのライヴ録音(1942年)、そして戦後のベルリン・フィルとのスタジオ録音(1951年)がタイプが全く異なる名演の双璧とされ、とりわけ、後者については、ベルリン・フィルの団員がフルトヴェングラーと成し得た最高の名演との高評価をするほどの名演であった。

それ故に、本盤に収められた両曲のライヴ録音は、数年前にRIAS音源によるCD化が行われるまでは、音質の劣悪さもあって、一部の熱心なフルトヴェングラー愛好者以外には殆ど無視された存在であったが、RIAS音源によるCDが素晴らしい音質であったことから、俄然注目を浴びる存在となったことは記憶に新しい。

そして、今般のシングルレイヤーによるSACD化は、フルトヴェングラーによる両曲演奏の代表盤の一つとしての地位を獲得するのに大きく貢献することに繋がったと言っても過言ではあるまい。

交響曲第8番「未完成」については、1950年盤と同様に、濃密でロマンティシズムに満ち溢れた彫りの深い演奏であるが、ライヴ録音ということもあって、とりわけ第1楽章においては、ドラマティックな表現が聴かれるのがフルトヴェングラーらしい。

もちろん、そうした表現が、いわゆる「未完成」らしさをいささかも損なっておらず、むしろ、表現の濃密さは1950年盤以上であり、実演でこそ真価を発揮するフルトヴェングラーの指揮芸術の真骨頂が本演奏には存在していると言えるだろう。

交響曲第9番「ザ・グレイト」については、1951年盤の深遠な表現に、1942年盤が有していたドラマティックな表現を若干盛り込んだ、いい意味での剛柔のバランスがとれた名演と言えるのではないだろうか。

同曲の演奏は、筆者も常々論評しているように極めて難しいものがあるが、1942年盤のようにベートーヴェンの交響曲に続くものとして演奏するタイプ、1951年盤のようにブルックナーの交響曲の先達として演奏するタイプが両端にあると思われるが、本盤の演奏はその中間点を模索したものとして十分に説得力のある名演に仕上がっていると評価したい。

それにしても、本盤の音質はフルトヴェングラーのCDとしては極上の高音質と言ってもいいのではないだろうか。

とりわけ低弦の生々しいまでの重量感溢れる響きや、高弦の艶やかな響きは、既にSACD化されている音源を除いて、これまでのフルトヴェングラーのCDではなかなか聴くことが出来ないものであり、かかる高音質が本盤の価値を更に高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2014年06月25日


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ブラームスの4つの交響曲の中で最もフルトヴェングラーの芸風に合致するのは、衆目の一致するところ第1番ということになるのではないだろうか。

フルトヴェングラーはベートーヴェンの交響曲を十八番としていただけに、ブラームスの交響曲の中でも最もベートーヴェンの交響曲に近い性格を有している第1番において、その実力を如何なく発揮することは自明の理と言えるからである。

実際のところ、筆者も正確に数えたことはないが、フルトヴェングラー指揮のブラームスの交響曲第1番の録音は、かなりの点数が遺されている。

しかしながら、録音状態はいずれも芳しいとは言えないところであり、フルトヴェングラーならではの至芸を味わうにはきわめて心もとない状況に置かれてきたと言わざるを得ない。

そのような長年の渇きを癒すことになったのが、昨年1月、EMIから発売された、1952年(本演奏の2週間前)にウィーン・フィルと行った演奏のライヴ録音のSACD盤であった。

当該SACD盤の登場によって、既発CDとは次元の異なる高音質に生まれ変わったところであり、これによってフルトヴェングラーによるブラームスの交響曲第1番の決定盤としての地位を獲得したと考えてきたところである。

そのような中で、今般、ユニバーサルによって1952年のベルリン・フィルとのライヴ録音がSACD化されたというのは、前述のEMIによるSACD盤の登場と並ぶ快挙と言えるだろう。

本演奏については、数年前にターラ盤が発売され、それなりに満足し得る音質改善は図られてはいたが、音質の抜本的な改善には繋がっているとは必ずしも言えず、フルトヴェングラーの彫りの深い芸術を味わうのはきわめて困難な状況に置かれていた。

ところが、今般のSACD化によって、見違えるような良好な音質に生まれ変わるとともに音場もかなり広くなったところであり、フルトヴェングラーの深みのある至芸を堪能することが可能になった意義は極めて大きいと言わざるを得ない。

演奏は、前述のEMI盤と同様に冒頭から重厚にして濃厚なフルトヴェングラー節が全開、終楽章の圧倒的なクライマックスに向けて夢中になって畳み掛けていく力強さは圧倒的な迫力を誇っている。

また、どこをとっても豊かな情感に満ち溢れており、その深沈とした奥行きや彫りの深さは、まさに神々しいばかりの崇高さを湛えている。

いずれにしても本盤の演奏は、今般のSACD化によって前述のEMI盤と並ぶ至高の超名演と高く評価し得るに至ったと言えるだろう。

併録のグルックの歌劇「アルチェステ」序曲も、いかにもフルトヴェングラーならではの濃厚な味わいの名演だ。

いずれにしても、このようなフルトヴェングラーによる至高の超名演を、現在望み得る最高のパッケージメディアであるシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年06月20日


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素晴らしい高音質SACDの登場だ。

今般のフルトヴェングラーの一連のSACDシリーズの中でも白眉の出来と言えるのではなかろうか。

フルトヴェングラーによるブラームスの「第4」の初期盤をかつて聴いたが、音の揺れがひどく、とても聴くに堪えない音質であったと記憶する。

爾来、初期盤は、筆者のCD棚に埃をかぶって放置されているが、その後、何度もリマスタリングを繰り返したものの、いずれもどんぐりの背比べといった状態であった。

数年前に、グランドスラムからかなり満足し得る音質のCDが発売されたが、今般のSACDとは比べるべくもない。

それくらい、今般のSACDは、次元の異なる高音質と言えるだろう。

これだけの高音質録音になると、フルトヴェングラーのドラマティックな表現が見事に再現されることになり、その演奏に対する評価も大きく変更を余儀なくされることになる。

ブラームスの「第4」については、シューリヒトやムラヴィンスキーなどの淡麗辛口な演奏や、それに若さを付加したクライバーによる演奏の評価が高く、他方、情感溢れるワルターや、重厚な渋みを加えたベーム盤などが、高く評価されてきた。

筆者も、それに異論を唱えるつもりはないが、それは、今般のフルトヴェングラーのSACD盤が存在しないことが前提である。

ブラームスの「第4」について、これだけドラマティックな演奏をして、名演の評価を勝ち得た演奏は皆無であり、その意味では、本盤は、画期的な名演と評価できる。

第1楽章の、自然体ではじまる開始部の何とも言えない深みからして、別次元の名演と言えるし、その後の緩急自在のテンポ設定は、あたかも魔法の指揮のようだ。

第2楽章のむせ返るような熱い抒情は感動の極みであるし、第3楽章の効果的な間の取り方など、巨匠だけが成し得る至芸と言えるだろう。

終楽章のパッサカリアについては、凄まじい音のドラマであり、これは他のいかなる名演をも凌駕する至高・至純の高みに達している。

併録の「コリオラン」序曲は、おそらくはフルトヴェングラーの同曲の演奏中最高の名演。

ということは、史上最高の名演と言うことであり、今般の高音質化によって、さらに名演のグレードが上がったと言える。

「レオノーレ」序曲第2番の巨大なスケールと圧巻のドラマについては、もはや表現する言葉が追いつかないような凄まじさだ。

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2014年06月02日


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素晴らしい高音質SACDの登場だ。

フルトヴェングラーのチャイコフスキーの交響曲第4番の録音については、これまでグランドスラム盤やオーパス盤などにより様々な復刻を繰り返してきたが、今般のSACDはそれらとは次元の異なる鮮明な高音質に蘇った。

フルトヴェングラーは、必ずしも演奏機会は多いとは言えなかったが、チャイコフスキーの後期3大交響曲についてはコンサートでも時として採り上げ、録音も遺されている。

この中で、「第5」は、聴衆やオーケストラの質の悪さも相まって問題外。

「第6」は、楽曲がフルトヴェングラー向きということもあって複数の録音(しかも名演)が遺されている。

他方、「第4」についてはスタジオ録音による本盤しか遺されていないが、これが素晴らしい名演なのだ。

録音が数日にわたって行われている点にも、フルトヴェングラーが本盤の録音にかけた情熱と意欲、そして強い拘りが表れているとも言える。

チャイコフスキーの「第4」の名演と言えば、ムラヴィンスキー盤(1960年のDG盤)、カラヤン盤(1971年のEMI盤)が何よりも念頭に浮かぶが、本フルトヴェングラー盤は、今般の高音質化を持ってこれらの名演に比肩することが可能となり、同曲の名演のベスト3の一角を占めるに至ったと言っても過言ではない。

ムラヴィンスキーが鉄壁のアンサンブルを駆使した豪演、カラヤンがライヴ録音を思わせるようなドラマティックな名演であるのに対して、フルトヴェングラーは、気宇壮大な彫りの深い名演と言ったところではないだろうか。

フルトヴェングラーはチャイコフスキーの「第4」を、ベートーヴェンやブラームスなどの交響曲に接するのと同様のアプローチで指揮しているのだ。

その意味では、チャイコフスキーの「第4」を、ベートーヴェンの諸交響曲にも比肩する大芸術作品に仕立てあげたとも言えるところであり、その作品の核心に迫っていこうという鋭くも真摯な姿勢は、演奏を濃密で深みのあるものにしており、内容の濃さという点に限って言えば、フルトヴェングラー盤こそは随一の名演と言ってもいいのではないかとさえ考えられる。

それにしても信じられないような高音質だ。

冒頭のホルンのファンファーレの主題の生々しい音にまずは驚かされる。

その後も、高弦の艶やかな響きといい、ブラスセクションや木管楽器のブリリアントな響き、厚みのある低弦の迫力など、信じられないような鮮明な音質に生まれ変わっている。

音場も非常に幅広いものになり、特に終楽章において顕著であるが、トゥッティになっても音が歪むことが殆どないというのは驚異的ですらある。

また、例えば、第1楽章の第1主題の提示に際してのヴァイオリンとチェロによる緩急をつけた導入の仕方、第2楽章の木管楽器による主題や、中間部に向けての弦楽による抑揚をつけた歌わせ方、第3楽章のピツィカートの味わい深い濃厚さ、終楽章終結部の効果的なアッチェレランドなどは、フルトヴェングラーだけが成し得る魔法のような至芸であるが、このように随所に施された至芸が鮮明に再現されるというのは、本高音質盤の最大のメリットであると高く評価したい。

併録の弦楽セレナードからの抜粋2曲も、厚みのある弦楽合奏が鮮明に再現されており、フルトヴェングラーの卓越した至芸を望み得る最高の高音質で味わうことができることを大いに喜びたい。

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2014年05月31日


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マーラーの「さすらう若人の歌」では、フルトヴェングラーは音楽を完全にものにしきっており、オン・マイクの録音のせいもあって、F=ディースカウとのスタジオ録音よりもさらに積極的な部分が多い。

弦の心のこもった音色は本当にすばらしく、第1曲、中間部最後のソロ・ヴァイオリンのロマンティックなポルタメントなど、前盤には見られなかったものだし、同じく中間部の木管も含めた小鳥の歌の可憐な鮮やかさも最高だ。

ペルは声がやや大味で、豊かな声で朗々と、心を込めて歌ってゆくが、高音がちょっと苦しいせいか、リズムが崩れるマイナスがないでもない。

しかし、そのために、時には身につまされるような野暮ったいくらいの歌心が伝わってくる。

「エロイカ」は有名なスタジオ録音直後のライヴだけに、同じスタイルを基本としながら、それに即興性を加えたものとなった。

音質は硬いが明快だ。

感銘深いのは第1楽章、レコーディングの後なのでアンサンブルがきっちりと仕上がり、テンポには緊迫感があり、しかも緩急の動きはこの方が大きい。

それでいて最晩年の様式である枯れた味が全篇に流れ、その中に炎の核がほの見えるところがすばらしい。

つづく第2楽章はオーボエの気持ちのこもった歌とか、低弦のフォルティッシモをすごいテヌートで弾かす即興性など印象的な場面もあるが、中間部の盛り上がりやその後のフガートはもう一つだ。

スケルツォからフィナーレにかけてはあまり上出来ではない。

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