ベートーヴェン

2016年12月22日


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ケンペ&ミュンヘン・フィルによるベートーヴェン演奏はどれも既に定評あるもので、渋く底光りするような独特の音響による骨格造形も逞しいアプローチは実に魅力的である。

奇を衒ったところなど全くないが、密度の薄いところも全くないという、実にクオリティの高い全集で、何度聴いても飽きのこない内容だ。

この演奏からオーケストラの個々の奏者の名人芸や離れ技を聴き取ることは難しく、個人技による感覚上の美観は、ここでは強く抑制されている。

従ってここに見られる音楽的美しさは、表層にたなびくものではなく、内に頑固なまでにしがみついたものであり、全9曲まったくムラのない出来だが、第4番から第7番までの演奏は特に強い感銘を与える。

最近では、ベートーヴェンの交響曲の演奏にも、ピリオド楽器を用いた演奏や古楽器奏法の波が押し寄せてきているが、本全集が録音された1970年代は、まだまだ大編成のオーケストラを用いた重厚な演奏が主流であったと言える。

例えば独墺系の指揮者で言えば、カラヤンやベームといった大巨匠が交響曲全集を相次いでスタジオ録音するとともに、クーベリックやバーンスタインによる全集なども生み出されるなど、まさにベートーヴェンの交響曲全集録音の黄金時代であったと言っても過言ではあるまい。

そのような中で、決して華やかさとは無縁のケンペによるベートーヴェンの交響曲全集が、1975年のレコード・アカデミー賞を受賞するなど一世を風靡するほどの評判を得たのはなぜなのだろうか。

確かに、本全集の各交響曲の演奏は、巷間言われているように、厳しい造型の下、決して奇を衒わない剛毅で重厚なドイツ正統派の名演と評することが可能であるが、決してそれだけでないのではないだろうか。

一聴すると、オーソドックスに思われる演奏ではあるが、随所にケンペならではの個性が刻印されていると言えるだろう。

例えば、第2番では、冒頭の和音の力強さ、第2楽章のこの世のものとは思えないような美しさ、第3楽章は、他のどの演奏にも増して快速のテンポをとるなど、決して一筋縄ではいかない特徴がある。

第4番第1楽章冒頭の超スローテンポによる開始、そして第3楽章など、他のどの演奏よりも快速のテンポだが、それでいて、全体の造型にいささかの揺らぎも見られないのはさすがと言うべきであろう。

第5番の第1楽章のテンポは実にゆったりとしているが、決してもたれるということはなく、第1楽章に必要不可欠な緊迫感を決して損なうことなく、要所での音の強調やゲネラルパウゼの効果的な活用など、これこそ名匠ケンペの円熟の至芸と言うべきであろう。

終楽章のテンポはかなり速いが、決して荒っぽさはなく、終結部のアッチェレランド寸前の高揚感は、スタジオ録音とは思えないほどのド迫力と言えるところだ。

第6番の第1楽章は、かなりのスローテンポで、同じようなスローテンポで第2楽章もいくかと思いきや、第2楽章は流れるようなやや速めのテンポで駆け抜ける。

第3楽章に至ると、これまた凄まじい快速テンポをとるなど、必ずしも一筋縄ではいかない個性的な演奏を展開している。

第7番は、冒頭から実に柔和なタッチでゆったりとしたテンポをとり、主部に入っても、テンポはほとんど変わらず、剛というよりは柔のイメージで第1楽章を締めくくっている。

第2楽章は、典型的な職人芸であり、決して安っぽい抒情に流されない剛毅さが支配しており、第3楽章は雄大なスケールとダイナミックな音響に圧倒されるし、終楽章は、踏みしめるようなゆったりしたテンポと終結部の圧倒的な迫力が見事だ。

第8番は、中庸のテンポで、ベートーヴェンがスコアに記した優美にして軽快な音楽の魅力を、力強さをいささかも損なうことなく表現しているのが素晴らしい。

そして、第9番は、ケンぺ&ミュンヘン・フィルによる偉大な本全集の掉尾を飾るのに相応しい圧倒的な超名演。

ここでのケンペの指揮は堂々たるドイツ正統派で、気を衒うことは決してしない堂々たるやや遅めのインテンポで、愚直なまでに丁寧に曲想を描いているが、悠揚迫らぬ歩みによるいささかも微動だにしない風格は、巨匠ケンペだけに可能な圧巻の至芸と言えるだろう。

ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団も、ケンペによる確かな統率の下、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

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2016年12月11日


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クレンペラーの巨大とも言える音楽を満喫することが可能な圧倒的名演と高く評価したい。

ベートーヴェンは、クレンペラーの個性が、ハイドンやモーツァルト以上に生きるレパートリーである。

ベートーヴェンが志向し続けた、より良きものへ、より高きものへの意志を、クレンペラーは、竹を割ったような率直さの中に確然と表現するすべを知っており、どれもまず、傾聴に値する演奏と言えるだろう。

本演奏において、クレンペラーは悠揚迫らぬゆったりとしたテンポで曲想を精緻に、そして格調の高さをいささかも失うことなく描き出して行く。

クレンペラーは各楽器を力強く演奏させており、いささかも無機的な演奏に陥ることがなく、どこをとっても彫りの深い、隙間風が全く吹かない重厚な音楽が紡ぎ出されている。

演奏全体の造型はきわめて堅固であるが、スケールは極大であり、重厚にして重量感溢れる音楽が構築されている。

テンポの振幅は必要最小限に抑えるなど、小賢しいアプローチとは無縁であるが、木管楽器をやや強めに演奏させるのはいかにもクレンペラーならではのユニークなもので、これによって演奏がウドの大木になることを避ける結果となっており、演奏のどこをとっても彫りの深さが健在である。

巧言令色などとは全く無縁であり、飾り気が全くない微笑まない音楽であるが、これはまさに質実剛健な音楽と言えるのではないだろうか。

実直そのもので、ドラマティックな要素などは薬にしたくもなく、フルトヴェングラーによる人間のドラマ、カラヤンによる音のドラマとは異なるクレンペラー独自の音楽が展開されてゆく。

近年においては、ベートーヴェンの交響曲演奏は、ピリオド楽器やピリオド奏法による演奏が一般化しているが、本演奏は、そうした近年の傾向とは真逆の伝統的な、ドイツ正統派によるものと言えるだろう。

特に交響曲第3番、第5番、第7番、第9番における悠揚迫らぬゆったりとしたテンポによる演奏は、あたりを振り払うかのような威容に満ち溢れており、あたかも巨象が進軍するかのような重量感に満ち溢れている。

それでいて前述のように木管楽器を効果的に活かして、格調の高さを損なわない範囲において随所にスパイスを効かせるなど、クレンペラー独自の解釈が聴かれる。

このような微動だにしないインテンポによる威風堂々たる重厚なベートーヴェンにはただただ頭を垂れるのみである。

また、交響曲第1番、第2番、第4番、第8番のこれまでの様々な指揮者による演奏としては、ベートーヴェンの交響曲の中でも規模の小さい交響曲だけに比較的軽快に演奏されるものが多いが、クレンペラーは、あたかも大交響曲に接するかのようなスケールの雄大な演奏を行っており、おそらくは各曲の演奏史上でも最も構えの大きい演奏ではないだろうか。

それに、ベートーヴェンの交響曲の一般的な演奏スタイルとして、偶数番の交響曲は柔和に行うとの考えも一部にあるが、クレンペラーにはそのような考えは薬にしたくもなく、奇数番などに行うようなアプローチで偶数番の演奏に臨むことによって、スケール雄大な大交響曲に構築していった点を高く評価すべきであろう。

序曲集もクレンペラーのスケール雄大な音楽づくりを味わうことができる素晴らしい名演揃いだ。

したがって、クレンペラーによるベートーヴェンは、フルトヴェングラーやカラヤンによる名演も含め、古今東西の様々な指揮者による名演の中でも、最も峻厳で剛毅な名演と高く評価したい。

クレンペラーの確かな統率の下、フィルハーモニア管弦楽団もしっかりと付いていき、ドイツ風の重厚な音色を出すなど、最高のパフォーマンスを発揮していることも高く評価すべきものと考える。

いずれにしても、本演奏は、クレンペラーの巨大な芸術の凄さを十二分に満喫することが可能な素晴らしい名演として永遠に語り継がれるべき遺産であることは疑いの余地がない。

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2016年11月09日


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ユニヴァーサル・イタリーの新譜で、昨年12月に亡くなったシレジア出身の指揮者クルト・マズアと彼の手兵ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による2回目のベートーヴェンの交響曲全曲及び三重協奏曲ハ長調、ピアノ、合唱と管弦楽のための『ファンタジア』ハ短調、ヴァイオリン協奏曲ニ長調、そして11曲の序曲を収録したオール・ベートーヴェン・プログラムの充実した内容を持つセットである。

録音は1972年から93年にかけて行われたもので、それはマズアが43歳でゲヴァントハウスの音楽監督就任以来20年以上に亘る彼らのコラボの集積でもある。

アナログからデジタルへの移行期だったために双方のシステムが使われているが、総てがフィリップス音源で音質は極めて良好だ。

グローバル化の進んだ当節のオーケストラのサウンドの変化はゲヴァントハウスでも同様で、近年では非常に洗練された垢抜けた響きを持っていて、昨年聴いた時には旧東ドイツのオーケストラではむしろシュターツカペレ・ドレスデンの方が渋みのあるドイツらしい音色を保っているように思えたが、ゲヴァントハウスには伝統的な文化の厚みを担った重厚さと気迫が残っていて、現在でもそれがこのオーケストラのカラーになっているのだろう。

ある意味では融通性は少ないが質実剛健でベートーヴェンの原点を感じさせるような力強くダイナミックな表現が聴きどころで、それを更に引き出すようなマズアの手法が象徴的だ。

彼にはこれらの作品を小器用にまとめることよりも、もっと大掴みだが骨太な音楽性を感じさせるといった趣があり、媚びや洒落っ気のない直線的で頑固とも言える音響力学が彼らの醍醐味だろう。

マズアの指揮には個性的な面白みやスリルに欠けるという評価があるが、彼はカリスマ性で惹きつけたり個性を前面に出す指揮者ではなく作曲家の音楽語法を手に取るように明らかにするという意味で彼がここに示しているベートーヴェン像は、筆者自身には納得のいくものだ。

シンプルでテンポも速めだが、明確な構想があり整然としたオーケストレーションと混濁のない響きは決して軽佻浮薄な音楽に陥ることがなく、黒光りするような職人的な練達の技を感じるというのが正直な印象だ。

マズアとゲヴァントハウスの対立するイディオムが、背反することなくひとつの語法へと収斂したのが成功の一因と言えるところであり、音楽の起伏も豊かで、骨格が太く強い芯のある演奏になっている。

交響曲は熟成した柔らかく質朴な美しさと、滔々とした音楽の流動感があり、ライプツィヒの街と伝統にふさわしい色が音楽にも表れている。

ヴァイオリン協奏曲ではアッカルドの楽観的なイタリア式カンタービレが意外に良く調和して、ヨアヒムの長大なカデンツァも朗々とした自然な美しさがある。

三重協奏曲のボザール・トリオはソリストとしての主張は控えめながら、粒の揃ったアンサンブルをマズアが几帳面に支えている。

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2016年10月27日


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晩年のフルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲の演奏は、他のレーベルをも含めれば、全曲をウィーン・フィルによって聴くこともできるが、全集という形で手にするとするならば、これが唯一最高のものと言うことができよう。

歴史的名演とも言えるバイロイト音楽祭ライヴの《第9》が含まれているばかりでなく、いくつかの作品は、彼の録音の中でも傑出したものであり、録音条件の不利をこえた価値がそこにはある。

それは、フルトヴェングラーの音楽と精神とが集約されたものと言っても過言ではなく、創造性にあふれた芸術の記録として、いずれも貴重なものである。

ベートーヴェンの演奏も、人が変わり、時代を追ってくるに従って、かなりの変化をみせてきたが、これは永遠の規範ともなり得よう。

極めて陰影豊かな第1番、若々しい音楽を流動させる第2番、端然とした造型の《エロイカ》、深沈として情感を色濃く漂わせた第4番や《田園》、均整感が強く堂々とした第5番や第7番と、どの演奏も強烈な個性をもった雄渾な表情だ。

第8番の音楽的創意の豊かさも比類なく、第9番は劇的で雄大、声楽陣の充実も素晴らしい。

このベートーヴェン交響曲全集のマスターは2010年に同音源がSACD化された時のリマスタリングで、今回レギュラー・フォーマットのCD5枚に収録してバジェット・ボックスとしてリイシューされた。

それ以前のCDに比べると音質はかなり良くなっていて、潤いと艶のあるサウンドが得られているが、9曲の中では最も古い1948年録音の第2番及び第8番の2曲はさすがにスクラッチ・ノイズの彼方でオーケストラが鳴っているといった感触で、他に音源のないことが惜しまれる。

第8番と第9番以外のオーケストラはウィーン・フィルで、この時代の彼らのローカル色豊かな音響とアンサンブルを堪能できるのも特徴だ。

5枚目の第9番は1954年のルツェルン音楽祭ではなく、それより古い1951年のバイロイト・ライヴだが最後の拍手が入らなければセッションと思えるほど音質に恵まれていて、フルトヴェングラーの憑かれたようにテンポを上げていく熱狂的なフィナーレが聴きどころだ。

第7番に関しては新たに発見された未使用のテープからのリマスタリングという触れ込みだった。

確かに1950年の録音としては良好な音源には違いないが、期待したほどの音質の向上は感じられなかった。

いずれにしても交響曲全曲演奏を通してフルトヴェングラーによるベートーヴェンへの独自の解釈、特にそれぞれの楽器の扱い方やダイナミクスがより一層明瞭に感知されるようになり、自在に変化するテンポ感と相俟って特有の高揚感を体験させてくれる。

入門者にも気軽に鑑賞できるリーズナブルなバジェット・ボックス化を歓迎したい。

尚総てがモノラル録音だが、何曲かについては電気的に音場を拡げた擬似ステレオのように聞こえる。

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2016年09月15日


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ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲レコーディングに初めて取り組み、私たちの時代に聴くことができる最も古いサンプルを遺してくれたのがアルトゥール・シュナーベル(1882-1951)である。

これらの演奏が資料として貴重なだけでなく、当時の彼のベートーヴェンのピアノ作品に対する価値観と、それを後世に問うという使命感を伝えていて興味深い。

シュナーベルの演奏は過去の批評家たちによって指摘されているほど恣意的なものではなく、むしろ新時代の解釈を告げる速めのテンポ設定をしたシンプルで、しかも作品の構造を明確にする造形性にも優れている。

グレン・グールドが彼に傾倒したという逸話もあながち信じられないことでもない。

1932年から38年にかけての録音なので音がいくらか痩せていて音場も狭いがノイズは意外に少なく、今回アビーロード・スタジオで新規に行われたリマスタリングによって高度な鑑賞にも堪え得るだけの良好な音質が再現されていることは確かだ。

シュナーベルも毀誉褒貶相半ばする演奏家の1人で、その主な理由はピアニスティックなテクニックが完璧でなかったということから来ているようだ。

確かに彼と同時代に活躍して鍵盤の獅子王の異名を取ったバックハウスに比べると、ヴィルトゥオーゾという観点からすれば劣っていたことは事実だろう。

しかしそうした弱点をカバーするだけの高邁なスピリットと表現力を備えていたことは、このソナタ全集を聴けば明らかである。

シュナーベルはこの録音に先立って早くも1927年にベルリンでソナタ全曲のチクルス・リサイタルを開いているので、1曲1曲を手の内に入れた決して借り物でない彼の哲学を具現した演奏と言える。

世紀末的なロマンティシズムを引き摺ることなく、懐古趣味を早くから捨て去って、独創的なベートーヴェン像を提示しているところはかえって現代的で、彼がこのソナタ全曲録音に取り組んだ理由も納得できる。

また当時の録音システムでは如何なる巨匠であろうとも録り直しや修正が許されない一発録りが基本だったので、彼自身もライヴ同様の緊張感を持って臨んでいたことが想像される。

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2016年09月07日


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1970年から72年にかけてのセッションだが、今回SHM−CD化されたこともあって音質はきわめて良好になっている。

低音から高音まで無理のない伸展とクリアーな質感が感じられ、ウィーン・フィル特有のシックな音色がより艶やかに響いている。

価格を1枚1500円に抑えていることは評価できるが、ライナー・ノーツは古いものの焼き直しで、24ページほどの曲目解説の中でベームについてはわずか2ページのみしかなく、この企画に当たって改訂しなかったのは残念だ。

筆者は、初めてLPで第2番の終楽章を聴いた時,これは本物だと思った記憶があり、それは第4番の終楽章でも同様に感じた。

あたかもベートーヴェンの音響力学を冷徹に解明したかのような、頑固なまでに真っ正直で作為のない音楽だったからだ。

若い頃は往々にしてエキサイティングで情熱的な演奏に惹かれるものだが、この違いは何だろうという疑問を初めて抱かせてくれたのがベームだった。

彼はベートーヴェンの音楽の中にあえて恣意的な見せ場を作ろうとしない。

むしろ見せ場があるとすれば、それは総てスコアに書き込まれていて、その通りに演奏することによって自ずと明らかになるというポリシーを生涯貫いていたに違いない。

一方でその実現のために彼によって鍛えられ、一糸乱れぬ統一感を与えるウィーン・フィルも相当我慢強いオーケストラであることが想像されるが、奇しくも当時はスター・プレイヤーがひしめいていた、この楽団の黄金期が重なっているのも魅力だった。

それ以来彼らの演奏は欠かさず聴いてきたが、その後1997年にドイツ・グラモフォンからCD20セット計87枚のベートーヴェン全集が刊行された時、期待していたこの全集は選択から外され、カラヤン&ベルリン・フィルのものが組み込まれた。

ポピュラー性から言えば後者は圧倒的な強みを持っていたので、売れ筋から考えれば当然の結果だったかもしれない。

ちなみに先般リリースされたウィーン・フィルの50枚組シンフォニー・エディションでも、ベートーヴェンは第6番と第8番のみがこのメンバーで、他はバーンスタイン、クライバー、アバドの混成になっている。

不運にもベームは他の指揮者に追いやられつつあるが、このセットを聴き込めばそれが不当なものであることが理解できるだろう。

指揮者の中には自己の音楽的表現手段として作品を扱うタイプと、ベームのように作曲家、あるいはその作品にできる限り奉仕してその価値を問うタイプが存在する。

勿論その間のバランスの采配が多かれ少なかれどの指揮者にもあり、一概にその良し悪しを論ずることはできないが、結果的に前者の演奏では聴衆の注意は指揮者個人に払われ、後者ではその興味はより一層作品や作曲家に向けられるだろう。

そうした意味でベームの解釈は、流行り廃れのない、より普遍的な価値を持っているように思う。

またこの一連のセッションの魅力はベームによって統制されたウィーン・フィルの瑞々しいアンサンブルの格調の高さにある。

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2016年06月13日


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シェリングとしては2回目の録音になるが、1回目のルービンシュタインと組んだヴァイオリン・ソナタ集はRCAに録音した第5番『春』、第8番及び第9番『クロイツェル』の3曲のみで、音質の面で劣っていることは否めないが演奏の質の高さからすれば彼らが全集を完成させなかったのが惜しまれる。

シェリングは生涯に亘ってコンサートのプログラムからベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを外すことがなかった。

それだけに彼が長いキャリアを通じて常に磨き上げてきた、決して借り物ではない徹底した解釈と独自に開拓した奏法を、晩年イングリット・ヘブラーとの唯一の全曲盤で世に問うことになった。

1970年代後半のシェリングは、流石にルービンシュタインの胸を借りた若い頃の覇気はなくなり、テンポも比較的ゆったりと構えているが、緊張感が失われているわけではない。

むしろマイナス面を微塵も出さない几帳面さと格調の高さでは、ひとつの模範的なアンサンブルではないだろうか。

シェリングは音楽から多彩な可能性を引き出すのではなく、よりシンプルに収斂していく方向性を持っている。

だから『春』においても甘美な音色で魅了するタイプではないが、ベートーヴェンの音楽構成を真摯に辿りながら彫りの深い造形と端正な様式感を抑制された表現で感知させていると言えるだろう。

他に逃げ道を探すことのない正攻法の音楽作りには当然ながらそれだけの厳しさがあって、鑑賞する側にもそれを受け入れるだけの準備が要求される。

個人的には彼らのポリシーが最良に発揮されているのが第10番ト長調だと思うが、例えば『クロイツェル』でもことさら大曲ぶって演奏することはなく、また往々にして戦闘的になりがちな急速部分では協調性を決して失わないように注意深く合わせて、自然に滲み出てくるような2人の円熟期の至芸を披露している。

しかもウィーンのピアニスト、ヘブラーと組むことによって、その厳格さが程良く中和されバランスのとれたエレガントな雰囲気が醸し出されていることも事実だ。

勿論ヘブラーの変化に富んだ細やかなサポートも聴き逃せないが、彼女も主張すべきところでは堂々たる大家の風格をみせている。

1978年から翌79年にかけてスイスで収録されたもので、ロゴはデッカになっているが、フィリップス音源のキレの良いシャープな音質と録音時の音量レベルが高いのが特徴だ。

以前リリースされた全曲集では10曲のヴァイオリン・ソナタの他にハイティンク指揮、コンセルトヘボウ管弦楽団によるベートーヴェンのヴァイオリンとオーケストラのための『ロマンス』ヘ長調及び同ト長調をカップリングしていたが、今回のセットではこの2曲が省かれている。

いずれにしても廃盤になって久しかったCDの廉価盤化での復活を歓迎したい。

フィリップスにはシェリング、ヘブラーの顔合わせでモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集も都合4枚分の音源があり、こちらもまとまったリイシュー盤を期待したい。

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2016年06月07日


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素晴らしい名演だ。

演奏時間はほぼ50分ほどだが、ポリーニの演奏は古典的な観念から逸脱しないオーソドックスで堅固な構成美と張り詰めた緊張感に貫かれていて、作品の長さを全く感じさせない。

その構成は勿論彼の明晰なアイデアに支えられている。

変化や起伏の多い小さなヴァリエーションを個々の特徴をつぶさに捉えてその多様さで表現するというよりは、むしろ拘泥を避けて壮大な伽藍を築くエレメントとして奉仕させているところにポリーニらしさが窺える。

そしてこの力強い推進力は第32変奏の4声部の二重フーガに向けて次第に求心力を増して収斂していく。

ベートーヴェンが彼の曲のクライマックスにバロックの遺物とも言えるフーガを頻繁に使うのは興味深いが、ポリーニはここでも明快な対位法の再現の中に豪快で燦然としたピアニズムを響かせている。

最後のメヌエットはこの大曲の余韻を味わうエピローグ風に閉じられているが、その輝きと流れは最後まで失われることがない。

レパートリーの開拓や録音活動では常にマイペースの姿勢を崩さないポリーニは、70歳を過ぎて漸くベートーヴェンのソナタ全曲集を完成させて、彼のよりインテグラルなベートーヴェン像が顕示されたわけだが、ソナタ以外のジャンルでベートーヴェンのピアニズムの世界を知るために欠かすことができないのが変奏曲だろう。

変奏というテクニックはソナタにも、また協奏曲や交響曲にも常套手段として登場するが、ベートーヴェンはそれをあるひとつの目的に向かうテーマの漸進的な発展として位置付けていた。

彼のピアノ独奏用の作品の中でも最も大きな規模を持っている『アントン・ディアベッリのワルツによる33の変奏曲』でもこうした彼の哲学が実践されていて、楽理からは殆んど解放されたような天衣無縫で巨大な構想に基く音楽を実現した、あらゆる変奏曲の中でも傑出したもののひとつに違いない。

録音は1998年で、ポリーニ壮年期の充実した演奏の記録でもある。

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2016年05月25日


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朝比奈隆の最後を飾るベートーヴェンの交響曲全集であり、朝比奈最晩年の雄姿を捉えた貴重な記録である。

朝比奈自身が「音楽の聖書」として畏敬したベートーヴェンの交響曲は最も得意とするレパートリーであり、その指揮表現は、良き時代のドイツの音楽を反映したものと言うべく、内声部を重視して響きに厚みと重量感をもたせ、壮大なスケール感を生み出す。

朝比奈の偉大さは、その芸術の完成の道にあってすら演奏ごとに新しい発見をしようとする意欲を持ち続け、それを演奏に反映し続けていることである。

テンポの遅い、がっしりした構成という解釈の基本は不変であるが、方向としてはより純度の高い、無駄のないすっきりとした演奏となっている。

完成期の芸術らしくすべては自然のなかで様々な要素が円満に溶け合い、しかも日々新たなものであろうとする彼の晩年の演奏とそのあり方は、ひとりの演奏家の晩年の理想の姿とよんでよいものかもしれない。

第1番、第3番といった過去にも名演の多い曲は相変わらず素晴らしいが、中では第4番が例外的に個性が強く(特に終楽章のスロー・テンポ)、第2番もかなりゴツイ感触がある。

反対に第5番、第8番などはやや歯切れが悪く物足りないナンバーもあるが、総合的に第1番、第3番、第4番、第6番、第9番などは、このスタイルとして他の追随を許さない。

日本の音楽ファンは、自国の指揮者やオーケストラをとかく軽視しがちだが、ここでの朝比奈の指揮ぶりは、その重厚壮麗な迫力と恰幅の良さにおいて際立っており、本場のドイツを見まわしてみても、これだけのベートーヴェンを振れる指揮者は現今見当たらない。

長年に亘って朝比奈が鍛えてきた大阪フィルも熱演で応え、全員打って一丸となった演奏であり、その情熱に打たれてしまう。

第3番は文字通り英雄的、第4番は音楽をはみ出すほど巨大(フィナーレなど超スロー・テンポで悪魔的な最強音が連続する!)、第6番はブルックナーのように重厚な田園、第9番の威容は改めて述べるまでもあるまい。

今回の全集で筆者が特に感銘を受けたのは第6番で、荘重なテンポでしゅくしゅくと進む名演である。

第1楽章の沈んでゆくような趣、第2楽章の俗っぽさのまるでない静かな祈り、それは老年の感慨を伴って格調が高く、スケルツォの立派な充実感と堂々としてケレン味のない〈嵐〉が続くのである。

全体に広々としたテンポ、大編成のオーケストラによる恰幅の良い響き、あたりをはらうスケールの大きい堂々とした造型、悠々として迫らぬ威厳と立派な男性美、各パートの充実と情報量の多さはこの指揮者の独壇場と言えよう。

現代の流行から超然として、分厚くも情熱的なベートーヴェン像が追究されており、スコアへのアプローチはオーソドックスだが、出てきた結果は個性的という、朝比奈独特のスタイルがここにある。

朝比奈は、第1番、第2番、第4番、第8番といった小型のシンフォニーにも弦楽器だけで60人、管楽器は倍に増やす、という大編成のオーケストラを使い、ゆったりとしたテンポと重いリズムで、音楽をあくまで分厚く、堂々と響かせてゆく。

そこには時代の流行を追って新しがったり、スコアをいろいろ工夫して面白く聴かせたり、といった小細工や小賢しさがいっさいなく、無器用に、武骨に、ひたすらベートーヴェンの楽譜を信じ切って、この作曲家の男性美を逞しく描き上げる。

その裏づけとなるのが、ひたむきな情熱なのだ。

いわば無手勝流の指揮ぶりだが、かえって安定した立派さを生み出すのである。

こういうスタイルは昔ながらのドイツ流儀であり、この重厚な迫力と恰幅の良さにおいて際立ったドイツ風の表現はもう古いという人も多いだろう。

もっとスリムで洗練されたベートーヴェン、古楽器の影響を受けた斬新なベートーヴェンがこれからの主流になるだろうからだ。

しかし、そうであるからこそ、朝比奈の描く英雄ベートーヴェン像は、汗くさい人間味を横溢させて、未来にいたるまで価値を持ち続ける筈である。

一点一画もおろそかにしない真摯さと情熱、細部を抉ったきれいごとでない響き、がっしりとした強固な骨組、スケールの大きさ、まことにすばらしい。

長年、朝比奈のベートーヴェンを聴き続け、そのスタイルに慣れてしまったせいもあるかもしれないが、少なくともブルックナーとベートーヴェンに関する限り、音楽そのものを最も堪能させてくれるのが朝比奈であり、他の演奏は指揮者の個性や味つけがチラチラ見え隠れするのだ。

こういったいわゆる愚直なまでの誠実さや頑健さ、虚飾皆無に通じる味わいは、往年のコンヴィチュニー&ゲヴァントハウスの王道を行くベートーヴェン演奏を彷彿とさせる。

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2016年05月15日


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ダヴィッド・オイストラフは1962年にピアニスト、レフ・オボーリンと共にベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲をセッション録音している。

その演奏は全く隙のない生真面目なもので、模範的だがオイストラフの個性が自在に発揮されているとは言えなかった。

敢えて言えば華やかさや喜びの表現が隠されてしまって、意気を抜くことができないほど厳格で緻密な再現になっている。

それはまたオボーリンの精緻だが遊び心の少ない伴奏に影響されていたのかも知れない。

それに反してこのライヴ録音の3曲からは、テクニック上のミスは多少あってもオイストラフが嬉々として演奏を愉しんでいる様子が伝わってくるし、二人のピアニストもそれぞれが表情豊かなサポートでこの曲集の多彩なプロフィールの表現を試みている。

チェコ・プラガの企画によるリマスター・ステレオ・ライヴ録音だが、SACDシリーズとは別のレギュラー・フォーマット仕様。

3曲の中でも相性の良かったリヒテルとの協演になる第6番イ長調が抑制された古典的な優雅さと安定感を感じさせて白眉だ。

ベートーヴェンは終楽章アレグロにテーマとヴァリエーションを置いているが、両者の呼応の巧みさがこの曲の流麗でしかも才気煥発な楽想を楽しませてくれる。

彼らの演奏で『クロイツェル』も聴きたいところだが、第5番『春』と第9番『クロイツェル』の伴奏は多くのコンサートでパートナーを務めた女流ピアニストのフリーダ・バウアーで、流石にオイストラフに見込まれただけあって、彼女も伴奏に回ってもソロに付き随うだけでなく自己の主張を忘れない個性派の演奏を聴かせている。

『春』ではストラディヴァリウスの明るい響きによって、第一声からまさに春の息吹きをイメージさせるような開放感に満ちている。

欲を言えば第3楽章スケルツォのシンコペーションの面白さはシェリング、ルービンシュタイン盤の方が絶妙だ。

『クロイツェル』では冒頭の短い無伴奏ソロ部分がオイストラフ特有の押し出しの良さで大曲の貫禄を感じさせているし、両急速楽章の協奏的なやり取りでも、しばしば聴かれる戦闘的な競演ではなく、圧倒的な余裕の中に音楽の豊かさを表現し得ている。

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2016年05月05日


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シュタルケル磐石の態勢にブッフビンダーが瑞々しいピアノで応じたベートーヴェンのチェロ作品全集で、テルデック音源だがこの2枚組はアペックスからのリイシュー廉価盤になり、正規盤が入手困難なので事実上これが唯一の選択肢だ。

2回目のシェベックとのセッションでは壮年期特有の覇気と骨太な音楽性が表出されていたが、シュタルケルにとって3回目になったこの録音でも覇気は依然衰えていない。

ただ無駄と思われる表現は一切省いてよりシンプルになる一方で気負いも惑いもない余裕と安定感を感じさせる演奏が秀逸で、ベートーヴェンの古典的な音楽構成がすっきり提示されている。

特に第3番イ長調はことさら大曲然とした誇張が多い演奏の中で、両者の誠実だが風格を失わない王道的な再現を堪能できる。

ボヘミア出身でウィーンで学んだブッフビンダーのソリストとしての活動は現在でもウィーンを中心に続いているが、彼は若くしてアンサンブルのスペシャリストとして高い評価を受けていただけに、こうした伴奏に回っても主張すべきところは臆せずに確実な演奏とテクニックの冴えを聴かせている。

ヤーノシュ・シュタルケルは、その長いキャリアで自身の課題となるような作品を繰り返しコンサートのプログラムに採り上げたし、録音も異なった時期のものを数種類遺している。

バッハやコダーイの無伴奏作品がその代表的なレパートリーとして挙げられるが、彼はベートーヴェンの5曲のチェロ・ソナタも3回ほど全曲録音を行った。

一般的に良く知られているのはハンガリーの朋友ジェルジ・シェベックと協演した1960年のエラート音源で、これは最近ワーナーからイコン・シリーズに組み込まれて復活した。

それに対してこのブッフビンダーとのセッションは1977年に録音されていて、ベートーヴェンの同曲集では最後のものになる。

シュタルケルは既に53歳の円熟期に達していたが、ブッフビンダーはまだ31歳で本格的な演奏活動に入った時期だった。

この1年前に彼はハイドンのピアノ・ソナタ全集を完成させているし、シュタルケルとは1973年にシュヴェツィンゲン音楽祭でヨセフ・スークと共にベートーヴェンとメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲を演奏して、第一級のアンサンブル・ピアニストとしての腕も披露している。

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2016年04月02日


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カラヤンはベルリン・フィルとともにDVD作品を除けば3度にわたってベートーヴェンの交響曲全集をスタジオ録音しているが、本盤に収められた全集はそのうちの1960年代に録音された最初のものである。

先般、当該全集のうち、「エロイカ」と第4番がシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化されたが、他の交響曲についても同様にシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化されるのには相当の時間を要することが想定されることから、この機会に全集についてもコメントをしておきたい。

カラヤン&ベルリン・フィルによる3つの全集のうち、最もカラヤンの個性が発揮されたものは何と言っても2度目の1970年代に録音されたものである。

1970年代は名実ともにカラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代であり、ベルリン・フィルの一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、ブリリアントなブラスセクションの朗々たる響き、桁外れのテクニックを披露する木管楽器の美しい響き、そしてフォーグラーによる雷鳴のようなティンパニの轟きなどが一体となった圧倒的な演奏に、カラヤンならではの流麗なレガートが施された、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功していた。

また、1980年代に録音された最後の全集は、カラヤンの圧倒的な統率力に綻びが見られるものの、晩年のカラヤンならでは人生の諦観を感じさせるような味わい深さを感じさせる名演であるということが可能だ。

これに対して、本盤に収められた1960年代に録音された全集であるが、カラヤンがベルリン・フィルの芸術監督に就任してから約10年が経ち、カラヤンも漸くベルリン・フィルを掌握し始めた頃の演奏である。

したがって、1970年代の演奏ほどではないものの、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの萌芽は十分に存在している。

他方、当時のベルリン・フィルには、ティンパニのテーリヒェンなど、フルトヴェングラー時代の名うての奏者がなお数多く在籍しており、ドイツ風の重心の低い重厚な音色を有していたと言える(カラヤンの演奏もフルトヴェングラーの演奏と同様に重厚ではあるが、音色の性格が全く異なっていた)。

演奏はどれも優れたもので、オーケストラとの良好な関係を反映した覇気にあふれたアプローチがとにかく見事。

まだカラヤン色に染まりきらない時期のベルリン・フィルが、木管のソロなどに実に味のある演奏を聴かせているのも聴きどころで、ほとんど前のめり気味なまでの意気軒昂ぶりをみせるカラヤンの意欲的な指揮に絶妙な彩りを添えている。

したがって、本全集に収められた各演奏はいずれも、カラヤンならではの流麗なレガートが施された圧倒的な音のドラマにドイツ風の重厚な音色が付加された、いい意味での剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると評価したいと考える。

カラヤンの個性が全面的に発揮されたという意味では1970年代の全集を採るべきであろうが、徹頭徹尾カラヤン色の濃い演奏に仕上がっている当該1970年代の全集よりも、本全集の方を好む聴き手がいても何ら不思議ではないと考えられる。

録音については、リマスタリングを行ったとは言え、従来盤ではいささか生硬な音質であった。

しかしながら、その後本SACDハイブリッド盤が発売され、これによって生硬さがなくなり、見違えるような高音質に生まれ変わったと言えるところであり、筆者としてもこれまでは本SACDハイブリッド盤を愛聴してきた。

ところが、今般、当該全集のうち、「エロイカ」と第4番がシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化され、当該盤のレビューにも記したが、緑コーティングなども施されたこともあって、更に素晴らしい極上の高音質になったと言える。

前述のように全交響曲をシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化するには相当の時間を要するとは思われるが、カラヤンによる至高の名演でもあり、できるだけ早期に全交響曲をシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化していただくよう強く要望しておきたいと考える。

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2016年01月27日


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オーストラリア・エロクエンスからのリリースになる、ピエール・モントゥー晩年のデッカとフィリップス音源のベートーヴェン交響曲全集。

1957年から1962年にかけてウィーン・フィル、ロンドン交響楽団及びコンセルトヘボウと行った良好なステレオ・セッション録音だがリマスタリングされて更に鮮明な音質で蘇っている。

1950年代の録音は音響がややデッドだが分離状態は良く、その後のものはホールの潤沢な残響も捉えられていて、ごく僅かなヒス・ノイズは無視できる程度だ。

レギュラー・フォーマットの6枚のCDに、交響曲の他に『フィデリオ』『エグモント』『シュテファン王』の3曲の序曲と交響曲第9番の第1、第2、第3楽章のリハーサル、更に交響曲第3番については1957年のウィーン・フィル並びに1962年のコンセルトヘボウとの2種類が収録されている。

ベートーヴェン以外の作曲家の作品では1曲だけ、フランスの国歌『ラ・マルセイエーズ』がベートーヴェンのリハーサルに続く形でご愛嬌に入っている。

旧式のジュエル・ケースに6枚のCDが収納されていて、その外側を簡易なカートン・ボックスがカバーしており、ライナー・ノーツは英語のみで10ページ。

モントゥーのベートーヴェンはロマン派の残照がまだ色濃く残っていた時代の音楽家としては驚くほど明朗で、極端な解釈や恣意的な表現を避け、常に整然とした構造を示して聴き手に分かり易い音楽を心掛けているように思える。

しかし決して即物的ではなく、彼の人間味溢れる音楽が常に格調の高さを保ち、パッショネイトでヒューマンな温もりと大らかな歌心にも溢れている。

また、モントゥーのベートーヴェンの響きは極めてドイツ的で、この演奏を聴くと、演奏家の出自(民族性)と演奏傾向とが安直に結び付くものではないことが痛感される。

特にモントゥーの最後の録音となった「第5」は、同曲の数えきれないほどの録音の中での白眉と言える至高の名演で、聴くほどにその堂々とした風格と気品の高さにひきつけられる。

何よりも全体に際立って感興の豊かなことが目立ち、溌剌と躍動する充実感が音楽を激しく燃焼させている。

「第2」「第4」も優れた成果を見せており、いずれもリズム感がよく、とりわけ両端楽章は勢いがあって輝かしく、「第7」もユニークだが独自の味わいを持っている。

一方、「第3」「第6」のような長めの作品では演奏のノリが今ひとつだが、これはモントゥーとウィーン・フィルとの相性があまり良くなかったことが考えられる。

その点、コンセルトヘボウとの「第3」は感動的名演で、特に第1楽章は堂々とした威容で驚くほどの生命力を表しており、ベートーヴェンの意志的な芸術を感得させる。

第2楽章の深い内面性とオーケストラの色調の美しさ、第3楽章の純音楽的な表情、終楽章のよく練り上げられた各変奏の味わいなど、随所でモントゥーの豊かな芸術が示されている。

それにしても、モントゥーがフルトヴェングラーよりも10歳余り年上だったことを考えると、彼がその当時台頭しつつあったモダンな演奏スタイルの先駆を切っていた指揮者の1人だったことがよく理解できるところだ。

こうした彼の芸風は当時リアルタイムで生み出されていた『春の祭典』を始めとする20世紀の作品の初演を数多く手掛けたことによって切磋琢磨されたものだろう。

その音楽作りの一端をCD6の貴重なリハーサルの記録で窺い知ることができる。

かなり酷いフランス訛りの英語で、アンサンブルの乱れがちなロンドン交響楽団のそれぞれのパートをまとめていく一見ユーモラスな稽古風景が興味深い。

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2016年01月17日


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解散して久しいイタリア四重奏団(1945−80)のユニヴァーサル傘下の音源を網羅したもので、1946年から1979年までの録音が収集された37枚のバジェット・ボックスになる。

ここで中核をなしているのがモーツァルトとベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集で、このふたつは彼らがその非凡な情熱と作品に対する真摯な姿勢で完成させた全曲ステレオ録音による記念碑的なレパートリーだ。

前者はフィリップスから刊行されたモーツァルト・エディション第12巻に組み込まれた8枚で、後者の録音は1967年から1975年にかけて8年がかりで遂行され、CD化された時には10枚組だったものが9枚にリカップリングされている。

その他にも彼らはシューマン、ブラームス及びヴェーベルンの弦楽四重奏曲全曲録音を達成しているが、いずれもカンタービレを武器にしたリリシズムが横溢する独自の解釈とオーケストラを髣髴とさせるメリハリを効かせた大胆なダイナミズムや密度の高いアンサンブルなどに彼らの面目躍如たるものがある。

イタリアでは2009年に1946年から1952年までのモノラル録音集7枚がアマデウスからリリースされていた。

それらがこのセットのCD1−6に当たるが、イタリア版に入っているテレフンケンやRAIイタリア放送協会に著作権が属する第1回目のドビュッシーやヴィンチ、タルティーニなどの音源は漏れている。

また彼らが得意とした20世紀の弦楽四重奏曲に関しては、当セットではドビュッシー、ラヴェル及びヴェーベルンのみだが、やはり著作権の異なるコロンビア音源のストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ミヨーなどの作品群は現在英テスタメントからのリマスター盤が手に入る。

CD34にはドヴォルザークの『アメリカ』及びボロディンの弦楽四重奏曲第2番の「ノクターン」を含む全曲が、CD36にはプレミアム付で入手困難だったヴェーベルン作品集がそれぞれ復活したことを歓迎したい。

イタリア四重奏団はドビュッシーの弦楽四重奏曲を都合3回録音したが、CD35にラヴェルとカップリングされた演奏は1965年の最後のもので、質の良いフィリップス音源で鑑賞できるのは幸いだ。

他のふたつのセッションと比較しても、例えば第2楽章のピツィカートの応酬や迸り出るような色彩感など優るとも劣らないドラマティックな表現に驚かされる。

彼らは演奏に対する確固としたポリシーを掲げていた。

そのひとつがコンサートではプログラム全曲を暗譜で弾く形態をとったことで、それは奇しくも同時期に活躍していたスメタナ四重奏団と共通している。

楽譜に注意を逸らされることなく互いに音を聴き合いながら緊密なアンサンブルを心掛け、その上で各自が自由闊達な演奏を可能にした手法は、この演奏集にも良く表れていると思う。

勿論仕上げにかかる時間的な問題を解決しなければならなかったが、それは4人の練習時間の多さにも証明されていて、彼らの回想によれば新しいレパートリーには午前9時から午後1時まで、午後3時から夜半まで自己に妥協を許さない徹底した合わせ稽古が費やされた。

もうひとつがそれぞれの楽器に全員が金属弦を使ったことで、これは演奏環境や演奏自体によって変化を受け易いガット弦で起こり得る、楽章間での再調律を避けるためで、高まった緊張感を弛緩させることなく、ひとつの楽章から間髪を入れず次の楽章に進むことも可能にしていた。

72ページほどのライナー・ノーツにはこのセットに含まれる総ての演奏曲目の作曲家別索引とCDごとの詳細な録音データ及び英、独語による彼らのキャリアが掲載されている。

尚CD1−4、6、15、17、18、30、33、34の11枚の音源はデッカからは初のCD化になり、今回新しくディジタル・リマスタリングされたようだ。

例えばCD2には1952年のモノラル録音だが、アントワーヌ・ドゥ・バビエをクラリネットに迎えたモーツァルトのクラリネット五重奏曲がレストレーションされて蘇っている。

またポリーニと協演した最後の1枚、ブラームスのピアノ五重奏曲は彼らが1951年のザルツブルク音楽祭に参加した時に、フルトヴェングラー自身のピアノによって直接指導を受けたレパートリーになり、ポリーニとは既に1974年にコンサートで披露している。

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2015年10月20日


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実力派のベートーヴェン弾きとしての長い演奏経験を踏まえた、しっかりした音楽構成と迷いの無い確信に満ちたタッチ、そして堂々たるダイナミズムで大家の風格を感じさせる価値の高いソナタ全曲集だ。

録音が2010年9月から翌11年の3月に集中して行われた為か、音質は勿論、音楽的にも確固とした統一感が貫いている。

全曲ともブッフビンダーがドレスデンに招かれた時のベートーヴェン・チクルスから採られたライヴ録音だが、あらかじめ聴衆に了解を得ていた為か、ライヴ特有の雑音や拍手は一切入っておらず、音質的にはセッションとなんら変わるところがない。

ブッフビンダーは若い頃からソロだけでなく、アンサンブルや伴奏の分野でも幅広く活動を続けてきたが、そうした活動がより客観的な、しかし一方では豊かで自在なニュアンスを含んだ独自のベートーヴェン像を実現させたのかもしれない。

奇をてらった表現ではなく、音楽的にも技術的にも安定した深みのある演奏が秀逸だ。

クラムシェル・ボックス入りの9枚組セットで、それぞれの紙ジャケットは黒地に色違いのナンバーが表示されている。

収録曲順はそのままソナタの番号順になるので聴き手には有難い。

35ページほどのブックレットには録音データの他に、ブッフビンダー自身のこの曲集に関するコメントとヨアヒム・カイザーの寄稿が英、独、仏語で掲載されている。

とりわけ手稿譜のファクシミリからフランツ・リスト校訂版などに至る、現存する様々なソナタの楽譜に対する奏者の熱心な研究は周到で興味深い。

音質は瑞々しく、ライヴとしては例外的と言えるほど極めて良好。

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2015年10月09日


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チェコのピアニスト、ヤン・パネンカの名は日本では名ヴァイオリニスト、スークの伴奏や、スーク及びチェロのフッフロと組んだスーク・トリオのアンサンブル・ピアニストとして良く知られているが、本国チェコではソロ・ピアニストとしての声望も高かった。

パネンカはあらかじめ隅々までオーガナイズしたダイナミズムを潔癖とも言えるきめ細かさで表現していく。

パネンカの演奏はスリルや迫力で押しまくるものではなく、常に音楽的な節度を外さない余裕のあるテクニックと、彼の持っている特質のひとつである美音の威力を最高度に発揮させて、ピアニズムの美しさを全曲に湛えている。

その洗練された奏法は研ぎ澄まされた極めて頭脳的なもので、文字通り音楽性に溢れたベートーヴェンが再現されている。

このCDでは第3番と第4番でスメタナ作曲のカデンツァが採用されている。

1964年から1971年にかけてのセッションでヴァーツラフ・スメターチェク指揮、プラハ交響楽団との協演になり、スメターチェクの骨太で力強く、しかも深みのある指揮もこの全曲録音の価値を高めている。

またスークと彼らの協演による2曲のロマンス、ト長調及びヘ長調も小品ながら極めて美しい。

チェコ・フィルのノイマンに対してプラハのスメターチェクが優るとも劣らない実力の持ち主であったことも証明している。

初代のメンバーによるスーク・トリオがソロ・パートを受け持つ『トリプル・コンチェルト』ハ長調も優れた演奏だ。

クルト・マズア指揮、チェコ・フィルをバックにアンサンブルで鍛えた3人がその完璧ナチーム・ワークを聴かせてくれるのが頼もしい。

この作品は時としてベートーヴェンの駄作のように言われるが、こうした演奏を聴くと筆者には決してそう思えない。

一方ヴァイオリン協奏曲はコンヴィチュニー指揮、チェコ・フィルとの1962年のセッションが選ばれている。

第1楽章の溢れるほどのカンタービレや続く第2楽章での流麗で甘美なヴァリエーションはスークの面目躍如だが、終楽章ではもう少し毅然とした輪郭が欲しいところだ。

その他にこのセットでは、やはりパネンカのソロ、スメターチェク指揮、プラハ交響楽団及び合唱団による『合唱幻想曲』ハ短調も収められている。

38ページの写真入のライナー・ノーツには英、独、仏、チェコ語による録音データ、曲目及び演奏者紹介が掲載されている。

ここ数年チェコ・スプラフォンでは独自のリマスターによるリイシュー盤をセット物にまとめて再リリースしている。

パッケージには洒落っ気がないが、古い録音でもかなり鮮明な音質が蘇り、また入手困難だった名盤がプライス・ダウンされたこともあって魅力的なシリーズになっている。

例えばスークとパネンカのコンビによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲集、パウル・クレツキ指揮、チェコ・フィルによる同交響曲全集、ノイマン、チェコ・フィルのドヴォルザークの交響曲全集やパネンカとパノハ・カルテットが組んだ同室内楽曲集などがそれに当たり、今後のシリーズの充実も期待される。

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2015年09月10日


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本セットには、バックハウスがイッセルシュテット&ウィーン・フィルとともに行ったベートーヴェンのピアノ協奏曲全集などが収められているが、いずれの楽曲の演奏も神々しささえ感じさせるような至高の超名演だ。

本セットに収められた各楽曲の演奏が既に録音から半世紀以上が経過しており、単純に技量面だけに着目すれば更に優れた演奏も数多く生み出されてはいるが、その音楽内容の精神的な深みにおいては、今なお本演奏を凌駕するものがあらわれていないというのは殆ど驚異的ですらある。

バックハウスの経歴をみればわかるように、彼は19世紀最良のベートーヴェン弾きだったダルベールの唯一と言ってよい指導を受けた貴重なピアニストであり、彼がデッカに吹き込んだ録音はドイツ鍵盤音楽の極点であることは誰でも知っている。

だが、バックハウスが壮年のアラウのように教条主義的なまでにドイツ的なピアニストだったか、それは考えてみる余地がある。

若い頃のバックハウスはバルトークが「メトロノームの権化のようだ」と評したように、メカニックの正確さとほかの同年代の演奏家よりもはるかにモダンな、つまり、テンポルバートを廃した演奏をしていたのだし、彼の初期の録音はメカニックだけが優れたインテンポの演奏が目立つ。

しかし、この1950年代後半の録音、つまり、デッカに吹き込まれたものは若かりしバックハウスとはまったく違う。

ここには、譜面をきちんと読み、それを演奏している基本的なものと、完全な技術でもって聴衆を魅了するというだけでない、長い間ベートーヴェンにあったドイツの伝統、つまり、シュナーベルの古い録音にも通じるような伝統と革新という水と油が共存する、バックハウスにしか演奏できない音楽となっている。

まさに長年ベートーヴェンを弾き込んできたバックハウスの、巨人的な演奏の一面を知ることのできる全集で、すこぶる雄渾な演奏である。

内容の彫りの深さ、ドイツ的ながっしりとした構成力の素晴らしさは、見事の一語に尽きる。

まさに本演奏こそは、例えばベートーヴェンの交響曲などでのフルトヴェングラーによる演奏と同様に、ドイツ音楽の精神的な神髄を描出するフラッグシップの役割を担っているとさえ言えるだろう。

バックハウスのピアノはいささかも奇を衒うことなく、悠揚迫らぬテンポで曲想を描き出していくというものだ。

飾り気など薬にしたくもなく、聴き手に微笑みかけることなど皆無であることから、聴きようによっては素っ気なささえ感じさせるきらいがないわけではない。

しかしながら、かかる古武士のような演奏には独特の風格があり、各フレーズの端々から滲み出してくる滋味豊かなニュアンスは、奥深い情感に満ち溢れている。

全体の造型はきわめて堅固であり、スケールは雄渾の極み。

その演奏の威容には峻厳たるものがあると言えるところであり、聴き手もただただ居住まいを正さずにはいられないほどだ。

したがって、本演奏を聴く際には、聴く側も相当の気構えを要すると言える。

バックハウスと覇を争ったケンプの名演には、万人に微笑みかけるある種の親しみやすさがあることから、少々体調が悪くてもその魅力を堪能することが可能であるが、バックハウスの場合は、よほど体調が良くないとその魅力を味わうことは困難であるという、容易に人を寄せ付けないような厳しい側面があり、まさに孤高の至芸と言っても過言ではないのではないかとさえ考えられる。

バックハウスとケンプについてはそれぞれに熱烈な信者が存在し、その優劣について論争が続いているが、筆者としてはいずれもベートーヴェンの至高の名演であり、容易に優劣を付けられるものではないと考えている。

イッセルシュテットの指揮も、バックハウスの意図をよく汲み取った名伴奏であり、ウィーン・フィルの優雅な音色を十全に生かしたもので、曲の美しさを改めて見直させる。

録音は英デッカによる高音質であり、リマスタリングされたこともあって、従来盤でも十分に満足できる高音質に仕上がっている。

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2015年09月03日


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生粋のフランス人でありながら、ベートーヴェンやシューマンなどドイツ音楽にすこぶる付きの名演を残したイーヴ・ナット。

ナットは1956年8月31日にパリでその生涯を終えていることからもわかるように、その録音はすべてモノータルであるが、彼ほど強烈な印象を与えられたピアニストも数少ない。

筆者がナットの録音を初めて耳にしたのは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集で、これはフランス人の手になる初めての全集であったが、彼の後にベートーヴェン全集を録音したフランスのピアニストは、ハイドシェックくらいだろう。

ベートーヴェンの音楽と言えばゲルマン的気質の最たるものと言えるところであり、古くはシュナーベルからバックハウス、ケンプ、それにグルダやブレンデルなど、ゲルマン系の演奏家による名演がしのぎを削っている中で、わざわざフランス系の演奏を聴こうとは当初は思ってはいなかった。

だがナットの演奏は、マルセル・プルーストが「彼の演奏は極めて偉大で……彼の姿は視界から消えて、作品への窓に過ぎなくなってしまう」と書いたように、非情なまでに作品に献身的であり、そのベートーヴェンやシューマンはいつまでも人類の宝である。

“ベートーヴェンを読む”ことに生涯をかけて悔いのなかったナットの演奏が、こうして聴けることは誠に喜ばしい。

その非情なほどに私情をまじえない姿勢は、バックハウスにも共通していることである。

明晰な打鍵から生み出される濁りのない音色を駆使して奏でられる透明な音像は、それだけでもゲルマン的なベートーヴェン表現とは一線を画した個性的で新鮮な魅力にあふれているが、それが楽曲の構造の隅々までをも、一切の曖昧さを残さず、実にくっきりと描き出しているのに感心することしきりであった。

特に中期から後期にかけての作品で、ナットの演奏は実に厳しく、フランス的な知性と思弁が捉えたベートーヴェンをはっきりと聴くことができる。

打鍵は明晰であるだけでなく力強く深さを持っているため、中期ベートーヴェンの覇気や推進力も見事に表現されるが、それがやみくもに猪突猛進的となるのではなく、あくまで理性によって強力に統御されているため、崇高な精神の輝きとして感じられるのも印象的であった。

ナットは作曲にも相当の才能があったと伝えられているが、それは当然、彼の説得力に満ちた作品の描き方や核心を突く演奏につながったと思われるが、後期曲集などを聴いていると、彼の解釈が優れていたのは、結局は技術や個性的な解釈に依存するのではなく、心から共鳴する作品に真摯に向き合い、余計な恣意を挟まず、作品そのものに対して自らを捧げようとする精神からきていたように思えてならない。

実に透徹した表情を持つ演奏に仕上がっており、しかも情感の豊かさや懐の深い精神性にも事欠かず、ベートーヴェンの音楽の核心を垣間見せてくれる。

またベートーヴェン全集と並ぶナット畢生の傑作であるシューマンの主だった作品がほぼ収められており、ナットのシューマン解釈の説得力の大きさを知らしめてくれる。

ナットのシューマンはまず見通しのよい構成が的確に押さえられているのが特徴で、それに重くもたれるような表現から解放された明快な表現が、逆にシューマンの微妙で繊細な情感の移ろいを見事に捉え、ロマンティシズムというものに新たな光を当てている。

そしてそれはまた、とかく演奏者の思い入れだけが先行して形を崩してしまい、果ては真のロマンティシズムも雲散霧消させてしまいがちなシューマンの作品などで、説得力に満ちた優れた成果をもたらす要因となったように思える。

ここには良い意味でのラテン的精神の粋が見られ、演奏家としてではなく、むしろ芸術家としての強い倫理感が感じられる。

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2015年09月02日


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ブレンデルの3度目のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集で、どのソナタも初めて聴くかのような感銘を与えてくれる。

一定の間隔を置いてベートーヴェンに集中することによって芸術的洞察を深めピアニズムを磨いてきたブレンデルだが、1992年から96年にかけて録音された最新のソナタ全集は、この名ピアニストが最円熟期を迎えて到達した人間的・芸術的境地を余すところなく伝えている。

ブレンデルにとって、ベートーヴェンが不可欠なレパートリーであることは、彼が、早くからソナタと協奏曲の全曲録音を完成し、その後も回を重ね、すでに協奏曲では4回、ソナタも3回、それを実現していることからも頷けるが、もちろん、それらが無為に重ねられたものではなく、それぞれに価値があるものばかりでなく、確実にそこに新たな成熟を加えてきたということは見逃せまい。

ブレンデルのベートーヴェンはドイツ=オーストリアの伝統的な演奏様式を背景に成立しているだけに、表現の普遍性と安定した構成感をそなえているが、3度目の全集録音になって初めて、極めてオリジナリティに溢れた独自な世界を開示するに至った。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタは何度演奏してもその度に新しい発見があるという彼自身の発言通り、どんなに聴き慣れたフレーズからも意外かつ魅力的な側面が引き出されている。

とは言っても決して恣意的な自己顕示などではなく、あくまでも音楽そのものから湧き出た表現なのであり、また、ドイツの伝統的な演奏様式を背景に成立しているために、ある種の普遍性さえ備えている。

ヴィルトゥオーゾ的な効果や無意味な流麗さ、スマートさ、こけおどしの迫力やパッションとは違う。

どのフレーズの表現にもぶれがなく明快で、確かな意味が込められ、意外かつ新鮮。

その上、ベートーヴェンのヒューマンな温もりと機知に富んだフモールが感じられる。

この3度目のソナタ全曲は、彼が楽譜の背面までも読みつくしながら、決してベートーヴェン以外の何ものの介入も許さぬ厳正さと謙虚さをもった姿勢を貫いていることを思わせている。

ブレンデル自身が強調するところの作品の「性格」と「心理」の重視ということに応じて32のソナタのどれひとつとして同じパターンで処理されておらず、1曲1曲に瑞々しい感性と深い洞察が行き届いて、まさに32の異なる小宇宙が形成されているのである。

そして、その32のソナタの全体が人間の性格と心理、感情と理念の総覧、あるいは人間というものの内的な在りようの集大成として大きな宇宙を構築している。

ベートーヴェンという作曲家はかくも繊細で柔軟で敏捷に動く心の持ち主だったのかと改めて驚嘆させられる。

ベートーヴェンは、決して一枚岩の強固な精神で押しまくっていたわけではない。

ブレンデルのソナタ演奏はベートーヴェンの内面の深くも多彩なカレイドスコープを見事なまでに明らかにしてくれているのである。

それはまた、シュナーベル、バックハウスから出発した20世紀のベートーヴェン演奏の1つのブレンデル流の帰結であると同時に、21世紀に向けての新しいベートーヴェン演奏の出発点とも言えよう。

こうした伝統の上に立つ演奏家が、今や希少となっていることも気づかせる。

ブレンデルの総決算であるとともに、演奏史に永く残る不滅のベートーヴェン全集である。

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2015年08月27日


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既に指揮者としても第一級の評価を与えられているバレンボイムであるが、ピアニストとしての彼の活動も忘れるわけにはいかない。

バレンボイムほどに自身の音楽家としての将来に一貫した計画をもち、それに沿って着実に充実を計ってきた演奏家も珍しいのではないだろうか。

ピアニストとしてのバレンボイムは、1回ごとのヴァラエティに頼ったプログラムでのコンサートよりも、モーツァルトやベートーヴェンのソナタや協奏曲の連続演奏会や、ロマン派のピアノ作品のシリーズ演奏会などを通じて、まとまりのある音楽的な体験を聴き手と共有してきた。

指揮者バレンボイムも同様に1975年から首席指揮者・音楽監督をつとめたパリ管弦楽団や、1991年から音楽監督をつとめたシカゴ交響楽団、1992年から音楽監督の地位にあるベルリン州立歌劇場、多く客演するベルリン・フィルやウィーン・フィルなどを通じて、しっかりと目標を定めたプログラミングで演奏活動を行ってきている。

バイロイト音楽祭も含めたそれは、その場の成功だけではなく、将来へ向けての自らの滋養となる音楽を厳選しての活動である。

こうした活動のうちに、バレンボイムは他の人にはなかなか明かさない「最終目標」を秘めていたかのように思えた。

そのひとつがベートーヴェンの「交響曲全曲の録音」で、「自分が確信をもてるオーケストラの地位を得たときに初めて、確信ある演奏で録音したい」と、これほどまでに経験豊かな指揮者としては用心深く慎重な態度を崩さなかったが、先般、シュターツカペレ・ベルリンとともにベートーヴェンの交響曲全集を録音したのは感銘深かった。

そのバレンボイムがピアニストとしてもこうして、実に3度目となるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を録音してくれたのは、彼のベートーヴェンに関心をもつ者にとっては何よりうれしいことである。

先にも記したように、バレンボイムはキャリアの比較的初期からベートーヴェンのソナタ全曲演奏会を各地で開いてきている。

だから、これも慎重を期しての録音なのだろうが、演奏のどこにも慎重さゆえの堅苦しさはなく、音楽は豊かに解放され、その随所で美しい薫りを漂わせている。

バレンボイムは指揮とピアノの両方を二足のわらじとも、相反するふたつのレヴェルのものだとも考えてはいない。

「私に関する限り、音と肉体的な接触をもつことが、どうしても必要なのです。演奏と指揮は私にとって、ひとつの物事の裏と表なのです」「ピアノを演奏しているときには、自分が指揮者であると思って、自分の演奏をほかの誰かの演奏を聴くように第三者として聴こうと試みます。それとは逆に指揮をしているときには、楽器を演奏しているような気持ちをもちます。このふたつは決して相反するものではないのです」(バレンボイム)

このベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集に私たちが聴くのも、“第三者の耳で吟味された音楽”である。

ただしその第三者も、当面する楽器の技巧や表現法に縛られる“いまピアノを弾いているピアノ演奏家としての彼”ではないにしても、広く豊かな経験を有する“音楽家バレンボイム”に他ならないことこそが素晴らしいのである。

「偉大な指揮者は、作曲家や器楽奏者としても優れていなければならない」というバレンボイムの言葉は逆に、「偉大な演奏家であるためには、指揮者のような客観性が必要」だとも聞けるのである。

ここに聴かれるベートーヴェンのソナタは、いずれもいわゆる一般的な意味での「名演奏」を遥かに超えている。

まず第一にテンポの設定とその扱いの自由さには、誰もが瞠目させられるに違いない。

音楽の勢いを表出するために表面的な活気を演出するのではなく、相対的には落ち着いたテンポが選ばれているが、旋律の味わいや和声の変化に添って自然に息づく精妙なニュアンスには、たとえようもなく広がりと奥行きのある楽興が横溢している。

バレンボイムの卓越したベートーヴェン解釈は、まるで交響曲を指揮するかのごとく各パートが立体的に扱われ、信じられないほどに多彩な音色感とデュナーミクが駆使されており、他のベートーヴェン演奏では聴けない充足感がある。

聡明さと音楽表現への意欲、そして愛情がひとつに結ばれて、ベートーヴェンのソナタがこれまで以上に含蓄あるものとして聴き手を存分に触発する優れた演奏である。

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2015年08月26日


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2011年で没後10年の巨匠アイザック・スターンによるベートーヴェン録音を収録した廉価盤BOX。

この9枚のCDにはスターンが1964年から1992年にかけて録音したレパートリーの中からベートーヴェンの作品が集大成されていて、彼の古典音楽に対する典型的な奏法を堪能できるのが特徴だ。

特有の丸みを帯びた、明るく艶のある音色で奏でるヴァイオリンは、どこか天衣無縫な大らかさがあり、しかもメリハリの効いた表現は容易に他のヴァイオリニストと聴き分けることができる。

またスターンは聴衆に対して、尊大で近寄り難い印象を与えることは全く無かった。

彼の魅力はそんな気さくさにも感じられるが、一方ではユダヤ人としての尊厳から、彼は戦後オーストリアとドイツでは決して演奏をしなかった。

そうした不屈の闘志と素朴で飾り気の無い暖かい人間性が、その演奏にも良く反映されていると思う。

彼と同世代のヴァイオリニストにシェリング、グリュミオーそしてコーガンがいたが、いずれも全く異なる演奏スタイルでそれぞれが確固たる哲学を主張していた時代にあって、スターンは活動期間が最も長く、また後進の育成にも熱心だったことから、次の時代への引き継ぎ役としても大きく貢献していた。

このセットでは2曲の協奏曲の他にユージン・イストミンとのヴァイオリン・ソナタ全曲やチェロのレナード・ローズが加わるピアノ・トリオでのアンサンブルの一員としても、毅然としたスケールの大きな演奏を充分に鑑賞できるのが嬉しい。

特に、スターンがバレンボイムと共演したヴァイオリン協奏曲は、この曲のもつ抒情性を尊んだ外柔内剛の演奏で、まさに王者の風格をたたえた名演である。

最高にすばらしいテクニックを持っていながら、それを決して誇示せず、音楽の内面を掘り下げてじっくりと弾いた演奏である。

スターンには1959年にバーンスタイン&ニューヨーク・フィルをバックに弾いたものもあり、それも、きわめて健康的な快演だったが、この演奏には年輪の厚みを加えた大家の、内面から湧き出た心の牴劉瓩ある。

作品の抒情的な面に光をあて、ひとつひとつのフレーズをまごころこめて弾きあげているところがよく、ことに第2楽章の深々とした味わいは絶品だ。

バレンボイムの伴奏も音楽的にきめが細かくスターンの深みのある演奏を見事にサポートしている。

同じく気品と抒情がゆるやかに流れる名作「ロマンス」2曲も、小澤征爾&ボストン響という絶好のバックを得て、これまた秀演と言えるだろう。

スターンは色気のない音で厳しい表現を示し、ともに中間主題の熾烈さが聴きもの。

小澤の指揮は誠実そのもので、充実した厚みと豊かさを持ち、落ち着いた足取りがスターンの音楽にぴったりである。

そして、親しみやすくロマンティックなメロディが春の息吹きを想わせる「スプリング」や、精神の奥深くから溢れ出る心模様をより自由な作風に生かした「クロイツェル」などを含むヴァイオリン・ソナタ全曲。

スターンが、永年の音楽の同志イストミンと紡ぎだす演奏は、純粋であるがままの音楽の流れの中に身をゆだね、幸せな境地に誘う。

巷間、スターンは明るい音色と言われるが、ここでは渋味、厳しさ、枯れた味わいなど彼の音と表現が深く、また広がりを見せている。

そしてレナード・ローズも加わった三重奏曲の全曲も、チャーミングなメロディが横溢する佳品で、まさに知・情・意のバランスが取れた名演奏である。

また時代を感じさせない鮮明な音質も特筆される。

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2015年08月24日


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スメタナ弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲の名演としては、1976〜1985年という約10年の歳月をかけてスタジオ録音したベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集が名高い。

さすがに、個性的という意味では、アルバン・ベルク弦楽四重奏団による全集(1978〜1983年)や、近年のタカーチ弦楽四重奏団による全集(2002年)などに敵わないと言えなくもないが、スメタナ四重奏団の息のあった絶妙のアンサンブル、そして、いささかもあざとさを感じさせない自然体のアプローチは、ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力をダイレクトに聴き手に伝えることに大きく貢献している。

もちろん、自然体といっても、ここぞという時の重量感溢れる力強さにもいささかの不足はないところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた美しい演奏というのが、スメタナ弦楽四重奏団による演奏の最大の美質と言っても過言ではあるまい。

ベートーヴェンの楽曲というだけで、やたら肩に力が入ったり、はたまた威圧の対象とするような居丈高な演奏も散見されるところであるが、スメタナ弦楽四重奏団による演奏にはそのような力みや尊大さは皆無。

ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力を真摯かつダイレクトに聴き手に伝えることに腐心しているとも言えるところであり、まさに音楽そのものを語らせる演奏に徹していると言っても過言ではあるまい。

本盤に収められたベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番と第16番は、前述の名盤の誉れ高い全集に収められた弦楽四重奏曲第15番と第16番の約20年前の演奏だ。

全集があまりにも名高いことから、本盤の演奏はいささか影が薄い存在になりつつあるとも言えるが、レコード・アカデミー賞受賞盤でもあり、メンバーが壮年期を迎えた頃のスメタナ弦楽四重奏団を代表する素晴らしい名演と高く評価したい。

演奏の基本的なアプローチについては、後年の全集の演奏とさしたる違いはないと言える。

しかしながら、各メンバーが壮年期の心身ともに充実していた時期であったこともあり、後年の演奏にはない、畳み掛けていくような気迫や切れば血が噴き出してくるような強靭な生命力が演奏全体に漲っていると言えるところだ。

したがって、後年の円熟の名演よりも本盤の演奏の方を好む聴き手がいても何ら不思議ではないとも言える。

第15番と第16番は、ベートーヴェンが最晩年に作曲した弦楽四重奏曲でもあり、その内容の深遠さには尋常ならざるものがあることから、前述のアルバン・ベルク弦楽四重奏団などによる名演などと比較すると、今一つ内容の踏み込み不足を感じさせないわけではないが、これだけ楽曲の魅力を安定した気持ちで堪能することができる本演奏に文句は言えまい。

いずれにしても、本盤の演奏は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の魅力を安定した気持ちで味わうことが可能な演奏としては最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

音質は、1967、68年のスタジオ録音ではあるが、比較的満足できるものであった。

しかしながら、先般、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤がなされ、圧倒的な高音質に生まれ変わったところだ。

したがって、SACD再生機を有している聴き手は、多少高額であっても当該シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤をお薦めしたいが、SACD再生機を有していない聴き手や、低価格で鑑賞したい聴き手には、本Blu-spec-CD盤をお薦めしたい。

第12番、第13番及び大フーガ、第14番についても今般Blu-spec-CD化がなされたが、従来CD盤との音質の違いは明らかであり、できるだけ低廉な価格で、よりよい音質で演奏を味わいたいという聴き手にはBlu-spec-CD盤の購入をお薦めしておきたいと考える。

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アバドのベートーヴェンの交響曲旧全集には、彼が振る以前のウィーン・フィルでは聴くことのできなかった明るく流麗で、しかも四肢を自由に広げたような奔放とも言える表現がある。

ここではかつての名指揮者が執拗に繰り返した、ベートーヴェンの音楽の深刻さは影を潜め、どちらかと言えば楽天的な趣きさえ感じられるが、その華麗な演奏スタイルとスペクタクルなスケール感はアバドの身上とするところだろう。

特にこの第3番ではそうした彼の長所が遺憾なく発揮されている。

ライヴ特有の熱気が満ち溢れ、凄いほどの活力がみなぎっている。

しかも響きがのびやかで、この両方を満足させることができたのは、ウィーン・フィルの威力と考えてよい。

そのため冒頭から目の覚めるような鮮度があり、音が明るくつややかだ。

この美しさは言語に絶する素晴らしさであり、そこにはやさしさと緊張が交錯している。

『葬送』では辛気臭さは全く感じられず、むしろ流暢なカンタービレの横溢が特徴的だ。

また終楽章での飛翔するようなオーケストラの躍動感とウィーン・フィル特有の練り上げられた音色の美しさが、決定的にこの大曲の性格を一新している。

曲中の随所で大活躍するウィンナ・ホルンの特有の渋みを含んだ味のある響きとそのアンサンブルは他のオーケストラでは聴くことができない。

実に誠実で若々しく、このうえなく音楽的な『英雄』である。

尚カップリングは『コリオラン序曲』で、こちらも作曲家の音楽性を瑞々しく歌い上げた、しかも威風堂々たる演奏が秀逸。

どちらも1985年の録音で音質は極めて良好。

クラウディオ・アバドはウィーン・シュターツオーパーの音楽監督への就任前夜からウィーン・フィルとベートーヴェンの作品を集中的にドイツ・グラモフォンに録音している。

カップリングはライヴの交響曲を中心に、余白を序曲等で満たした6枚の個別のCDとそれらをまとめたセット物もリリースされたが、このシリーズはアバドの80歳誕生記念として先般日本で復活したものだ。

彼はその後ベルリン・フィルと映像付の再録音を果たし、現在ではそちらの方が良く知られているし、先頃出された41枚組の箱物『ザ・シンフォニー・エディション』でも第2回目の全集がリイシューされている。

一方ウィーン・フィルとの旧全集については外盤は既に製造中止で、交響曲のみを5枚のCDにまとめたユニヴァーサル・イタリー盤も入手困難になっているという事情もあり、今回の復活はアバド・ファンには朗報に違いない。

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2015年08月19日


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BBC音源のライヴで1965年のステレオ録音になる。

古い音源だが音質は瑞々しく臨場感にも恵まれた、この時代のものとしては優秀なものだ。

収録曲目はボッケリーニの弦楽四重奏曲ト長調『ラ・ティラーナ・スパニョーラ』、モーツァルトの弦楽四重奏曲変ロ長調『狩』K.458及びベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番イ短調Op.132の3曲。

イタリア物とドイツ物を組み合わせたイタリア弦楽四重奏団ならではの特質がよく表れたプログラムで、鍛え上げられた万全のアンサンブルと深みのあるカンタービレ、メリハリを効かせたリズミカルな合わせ技には彼らの面目躍如たるものがある。

第1曲目のボッケリーニは第1楽章のリズムのモチーフがタンブリンを伴うスペインの民族舞踏ティラーナから採られていることからこの名称で呼ばれている。

彼らの軽妙なチーム・ワークを示したプログラムの第1曲目として相応しい選曲だ。

モーツァルトの『狩』は彼らの得意とした曲で、豊麗な和声の響きと溌剌とした歓喜の表現にはラテン的な感性が強く感じられる。

一方4人のイタリア人がベートーヴェンを主要なレパートリーにしていたことは興味深いが、その発端は1951年に参加したザルツブルク・フェスティヴァルでのフルトヴェングラーとの出会いだった。

巨匠は彼らをホテルに招いてベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲とブラームスのピアノ五重奏曲について自らピアノを弾きながら助言した。

それは彼らにとってかけがえのない経験であり、その後の演奏活動の重要な課題ともなった。

ここに収められた第15番も一糸乱れぬ緊張感の中に堂々たる説得力を持っているだけでなく、彼らのオリジナリティーを示した会心の演奏だ。

イタリア弦楽四重奏団は1945年に創設され、1980年の解散に至るまで国際的な活動を続けた、ヨーロッパの弦楽四重奏団の中でも長命を保ったアンサンブルだった。

また第2ヴァイオリンは当初から紅一点のエリーザ・ペグレッフィが担当している。

各パートで使用されている楽器は決して有名製作者のものではなく、また演奏中の微妙な音程の狂いを避けるために、総ての弦に金属弦を用いる合理的なアイデアも彼ら自身の表明するところだ。

配置は第1ヴァイオリンとチェロ、そして第2ヴァイオリンとヴィオラが対角線に構える形で、スメタナ四重奏団と同様に総てのレパートリーを暗譜で弾くことが彼らの合奏のポイントになっている。

ライナー・ノーツは15ページで英、仏、独語の簡単な解説付だが、半分ほどはICAクラシック・レーベルの写真入カタログになっている。

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2015年08月15日


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録音データを見るとヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.61が1962年で、フランツ・コンヴィチュニー指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、そしてロマンス第1番ト長調Op.40が1970年、同第2番ヘ長調Op.50が1977年で、この2曲はヴァーツラフ・スメターチェク指揮、プラハ交響楽団との協演になる。

協奏曲の方ではコンヴィチュニーはオーケストラにも良く歌わせて、チェコ・フィルの持ち味を活かしていると同時に手堅くまとめているという印象だ。

スークにしても決して大曲を聴かせようという野心的な意気込みは感じられず、強烈なインパクトやスリルはないにしても、美音を駆使したどこまでも無理のない伸びやかで端麗な奏法が既に完成されている。

特に第2楽章ヴァリエーションでの様式をわきまえたカンタービレの美しさは比類ない。

ベートーヴェンがソロヴァイオリンに託した役割が超絶技巧の披露ではなく歌であることを思い知らせてくれる演奏だ。

おそらく第3楽章ではもう少し毅然とした輪郭があってもいいと思う。

尚カデンツァはスークの先輩に当たる同郷のヴァイオリニスト、ヴァーシャ・プシホダの簡潔だが情緒豊かなものが採用されている。

このCDではまたふたつのロマンスが秀逸だ。

こうした小品で聴かせるスークの巧さは他の追随を許さないものがある。

彼のような美音家は勢い耽美的な表現に陥りやすいが、充分に歌いながらも楽想をしっかり押さえて抑制を効かせた演奏には全く嫌味がなく、颯爽とした魅力を引き出している。

この2曲でもヴァイオリンが特殊な技巧を誇示するわけではないので、演奏家の音楽性が直に表れる意外に難しい小品だが、指揮者スメターチェクの隙のない巧みな采配による音楽作りがされているところも聴き逃せない。

新しくリマスタリングされた音質はどちらも良好で、当時からスプラフォンの技術水準が高かったことを証明しているが、比較するとやはり協奏曲よりロマンスの方がより鮮明で音の分離状態も良い。

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2015年08月14日


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リヒテルのプラハにおけるライヴからのベートーヴェンの作品集の第1巻にあたる。

ただし順不同で刊行しているために、既に第3巻の『ディアベッリ変奏曲』がリリースされていて、このCDにやや遅れて第2巻も出された。

今回はいずれも後期のソナタで、第27番ホ短調Op.90が1965年、第28番イ長調Op.101が86年、そして最後に置かれた第29番変ロ長調Op.106『ハンマークラヴィーア』が75年のそれぞれのライヴから録音されている。

これらは生前リヒテル自身からリリースの承認を受けたそれほど多くない音源で、このシリーズのベートーヴェン以外の曲目も含めて総てDSDリマスタリングを施したSACD盤のリミテッド・エディションになる

このCDを聴いての第一印象は、先ず音質の瑞々しいことだ。

ピアノの音色に特有の透明感と光沢が備わっていて、一昔前のリヒテルのライヴのイメージを完全に払拭してくれたことを評価したい。

ライヴでその本領を発揮したリヒテルを聴くためには欠かせないコレクションのひとつになるだろう。

一流どころのピアニストの中でもリヒテルは、同じ曲目を弾いてもコンサートごとに曲の解釈が大きく変化する可能性を持った人だった。

それは彼が自分のレパートリーに対して、決して固定的な観念を抱いていた訳ではなく、その都度リフレッシュさせて常に装い新たな形で演奏に臨んでいたためだと思われるが、このあたりにも彼の音楽的に柔軟な創造性が感じられる。

例えば第27番の冒頭のテンポを落とした武骨な開始は、第2楽章の慈しむような美しいカンタービレを心憎いほど活かしている。

しかしこの曲集の中での白眉は第29番『ハンマークラヴィーア』だ。

この稀有な構想を持った作品を前にして、彼は虚心坦懐に臨んでおり、それは一途でひたむきな情熱が天翔るような演奏だ。

クライマックスは第1楽章から丹念に準備され、終楽章の迸り出るような二重フーガに見事に結実している。

その壮大な旅のような音楽は、リヒテルがベートーヴェンの楽譜から読み取ったメッセージであるに違いない。

ライナー・ノーツは英、仏の2ヶ国語で11ページほどの簡易なものだが、録音データに関しては他のリヒテルのライヴ音源と違って充分信頼できるものだ。

このシリーズではこれから新音源が発見されることは期待できないが、リニューアルの形でこれまでに都合9枚がリリースされていて、今後他の曲のSACD化も期待される。

勿論SACD用のプレーヤーで鑑賞するのが理想的だが、ハイブリッド仕様なので互換機がなくても再生可能。

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2015年08月13日


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リヒャルト・シュトラウス、ワーグナーに続くプラガのフルトヴェングラーSACDシリーズ第3集は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番変ホ長調『皇帝』及び交響曲第5番ハ短調『運命』の2曲である。

前者がエドヴィン・フィッシャーのソロ、フィルハーモニア管弦楽団による1951年ロンドンEMIスタジオでの収録、後者がウィーン・フィルとの54年ウィーン・ムジークフェラインにおけるいずれもセッション録音になる。

初めてのSACD化ではないが、妥当な価格のハイブリッド盤でどれだけの音響が再生されるか興味があったので聴いてみることにした。

ジュエル・ケース裏面にHMVのLPからのリマスタリングと表記されているが、板起こし特有のスクラッチ・ノイズは一切聞こえない。

レコーディング技術に疎い筆者にはレーザーで読み取らせたものなのか、あるいはノイズが処理されているのか分からないが、かなり鮮明な音質が得られていることは確かで、また全く破綻がないのも古い音源の鑑賞にとっては好都合だ。

音場の拡がりから元になったLPが擬似ステレオ盤だったことが想像されるが、SACD化によって平面的な音響が回避され、いくらか奥行きも感じられるようになっている。

前回のワーグナーの音質がやや期待外れだったが、今回はかなり肯定的な印象を持つことができた。

それぞれの演奏については既に語り尽くされた名盤なので今更云々するつもりもないが、『皇帝』ではエドヴィン・フィッシャーのピアノの響きにクリスタリックな透明感が加わって演奏にそれほど古臭さを感じさせない。

確かに両者のテンポはかなり流動的で、部分的に聴くと大時代的ロマンティシズムのように思えるが、全体を通して鑑賞するのであれば彼らの音楽の普遍的な価値を見出せるだろう。

『運命』に関しては10種類以上の異なった演奏が存在するが、このウィーン・フィルとのセッションは、彼としては比較的冷静でテンポの変化もそれほど目立たない。

しかし音楽設計はさすがに見事で、テーマやモチーフの有機的な繋がりやその再現、楽章ごとの対比と全楽章を結束させる大詰めへの手腕は鮮やかだ。

派手なアピールはないが晩年のフルトヴェングラーの解釈を示した重厚なベートーヴェンと言える。

音質的には弦楽器群の音色が瑞々しく、時折聞こえる生々しい擦弦音も臨場感を高めている。

英、仏語による11ページの簡易なライナー・ノーツ付。

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2015年08月03日


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アラウはデジタルで12曲録音した所で世を去り、2度目の全集は未完に終わったので、本セット(1962年から66年にかけてのセッション)が彼の唯一のベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集となった。

曲目はソナタ全32曲の他に1968年録音の『エロイカの主題による15の変奏曲とフーガ』Op.35、『主題と32の変奏曲ハ短調』WoO.80、『主題と6つの変奏曲ヘ長調』Op.34及び『ディアベッリの主題による33の変奏曲ハ長調』Op.120で、この曲のみ1952年のモノラル録音になる。

最も正統的なドイツ・ピアノ音楽の後継者と言われたアラウは、詩的ロマンを湛えた堅牢な造形美で、ベートーヴェンやブラームスに多くの名演を残しているが、彼はまたフランツ・リストの直系としての誇りを持ったヴィルトゥオーゾでもあった。

この録音が行われた当時彼は60代半ばで、音楽的にも技術的にもバランスのとれた円熟期を迎えていただけに、今回の復活はベートーヴェン・ファンにとっても朗報に違いない。

バックハウスやケンプの時代が過ぎた20世紀後半にあって、ベートーヴェン弾きとして世界の実質的な頂点に立ったのが、同時にシューマンやショパンをもレパートリーに中核に置くアラウだった。

仮に正統的なベートーヴェン演奏という言い方があり得るとすれば、チリ出身のアラウはドイツ系のどのピアニストよりも、その言葉に近いところにいた人ではなかったろうか。

チリ出身であるが、ピアノを勉強したのがドイツであったので、我々がドイツに持っているイメージ、つまり勤勉、実直、頑固、哲学的といった概念をそのままピアノ音楽にしたような、グルダともブレンデルとも全く違うベートーヴェンが聞こえてくる。

軽く薄っぺらなベートーヴェンが横行する時代にあって、アラウのそれは素朴だがどっしりとした手応えがあり、聴き手の心にじわじわしみ込んでくる独特の説得力がある。

悠揚迫らぬテンポで格調高く歌い続けてゆくアラウの強靭な精神が、聴き手を捉え、耳を傾けさせる。

アラウにとっては1980年代の再録音も名演の名に恥じない演奏だが、多少のテクニックの衰えは否めない。

しかしここでの彼は押しも押されもしない堂々たる風格を持った表現で、また華麗な技巧を縦横に駆使して、極めてスケールの大きな演奏になっている。

同時代に録音された同ソナタ全集ではケンプのものが飄々として何物にも囚われない特有の哲学的な味わいを漂わせているのに対して、アラウのそれはピアノという楽器独自の音響を追究し、またその多様性を充分に活かした骨太な演奏でケンプと共に双璧を成していると言えるだろう。

この12枚のセットには幸い1952年の『ディアベッリ』が組み込まれ、古いモノラル録音でいくらかヒス・ノイズが気になるが、その滔々と流れる大河のような壮大なピアニズムは、聴き終えた後に無類の感動をもたらしてくれる。

デッカ・コレクターズ・エディション・シリーズのクラム・シェル・ボックス・セットで曲目紹介、録音データの他に簡単なライナー・ノーツが英、仏、独語で掲載されている26ページのブックレット付。

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2015年07月29日


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スメタナ弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲の名演としては、1976〜1985年という約10年の歳月をかけてスタジオ録音したベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集が名高い。

さすがに、個性的という意味では、アルバン・ベルク弦楽四重奏団による全集(1978〜1983年)や、近年のタカーチ弦楽四重奏団による全集(2002年)などに敵わないと言えなくもないが、スメタナ四重奏団の息のあった絶妙のアンサンブル、そして、いささかもあざとさを感じさせない自然体のアプローチは、ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力をダイレクトに聴き手に伝えることに大きく貢献している。

もちろん、自然体といっても、ここぞという時の重量感溢れる力強さにもいささかの不足はないところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた美しい演奏というのが、スメタナ弦楽四重奏団による演奏の最大の美質と言っても過言ではあるまい。

ベートーヴェンの楽曲というだけで、やたら肩に力が入ったり、はたまた威圧の対象とするような居丈高な演奏も散見されるところであるが、スメタナ弦楽四重奏団による演奏にはそのような力みや尊大さは皆無。

ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力を真摯かつダイレクトに聴き手に伝えることに腐心しているとも言えるところであり、まさに音楽そのものを語らせる演奏に徹していると言っても過言ではあるまい。

本盤に収められたベートーヴェンの弦楽四重奏曲第12番と第14番は、前述の名盤の誉れ高い全集に収められた弦楽四重奏曲第12番と第14番の約20年前の演奏だ。

全集があまりにも名高いことから、本盤の演奏はいささか影が薄い存在になりつつあるとも言えるが、レコード・アカデミー賞受賞盤でもあり、メンバーが壮年期を迎えた頃のスメタナ弦楽四重奏団を代表する素晴らしい名演と高く評価したい。

演奏の基本的なアプローチについては、後年の全集の演奏とさしたる違いはないと言える。

しかしながら、各メンバーが壮年期の心身ともに充実していた時期であったこともあり、後年の演奏にはない、畳み掛けていくような気迫や切れば血が噴き出してくるような強靭な生命力が演奏全体に漲っていると言えるところだ。

したがって、後年の円熟の名演よりも本盤の演奏の方を好む聴き手がいても何ら不思議ではないとも言える。

第12番と第14番は、ベートーヴェンが最晩年に作曲した弦楽四重奏曲でもあり、その内容の深遠さには尋常ならざるものがあることから、前述のアルバン・ベルク弦楽四重奏団などによる名演などと比較すると、今一つ内容の踏み込み不足を感じさせないわけではないが、これだけ楽曲の魅力を安定した気持ちで堪能することができる本演奏に文句は言えまい。

いずれにしても、本盤の演奏は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の魅力を安定した気持ちで味わうことが可能な演奏としては最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

音質は、1970、71年のスタジオ録音ではあるが、比較的満足できるものであった。

しかしながら、先般、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤がなされ、圧倒的な高音質に生まれ変わったところだ。

したがって、SACD再生機を有している聴き手は、多少高額であっても当該シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤をお薦めしたいが、SACD再生機を有していない聴き手や、低価格で鑑賞したい聴き手には、本Blu-spec-CD盤をお薦めしたい。

第13番及び大フーガ、第15番、第16番についても今般Blu-spec-CD化がなされたが、従来CD盤との音質の違いは明らかであり、できるだけ低廉な価格で、よりよい音質で演奏を味わいたいという聴き手にはBlu-spec-CD盤の購入をお薦めしておきたいと考える。

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2015年07月27日


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クラウディオ・アバドが1985年から90年にかけてウィーン・フィルと録音したベートーヴェン序曲集は、当初2枚組のCDで91年にリリースされたが、その後製造中止になっていた。

2011年にリイシューされた日本盤では、このうち『アテネの廃墟』『シュテファン王』『聖名祝日』を除いた8曲を1枚のSHM−CDにまとめていたが、今年になってようやく全曲が2枚のSHM−CDで復活した。

いずれの演奏も当時から評判の高かったセッション録音で、このうち『コリオラン』及び『聖名祝日』は既に廃盤になったグラモフォンのベートーヴェン・コンプリート・エディション第3巻オーケストラル・ワークスにも加えられていた。

ちなみにアバドはベルリン・フィルとも一連の劇音楽集『エグモント』『アテネの廃墟』『献堂式』『レオノーレ・プロハスカ』の全曲版を録音していて、それらはコンプリート・エディションの方に組み込まれている。

アバドの演奏は、ややイタリア的な熱狂と明るさが強く出すぎている面もあるが、オケがウィーン・フィルのためもあってか響きがなめらかで流麗だ。

ウィーン・フィルの持ち味でもあるシックで瑞々しい響きを最大限に活かし、しかもそれに決して溺れることなく堂々とした自己主張を行っている。

流れるようなカンタービレでベートーヴェンに対する新たな美学を描いてみせた秀演で、音楽の内部から湧き出るような歌心を表出させることによって、滞ることのない奔流のような推進力でそれぞれの曲に生命感が与えられている。

また音楽の設計も緻密で、説得力があり、この指揮者の豊かなオペラ経験がベートーヴェンの作品に内在する生命力を解き放つのに大きく役立っているようである。

それはかつての質実剛健で重厚なベートーヴェンのイメージからすれば、意外なくらい明るく軽快な趣を持っているが、かえってスケールの大きさと劇音楽としてのドラマ性の獲得にも成功している。

かなり個人的な解釈が強く、表情にややオーヴァーなところが無くはないが、序曲であるがゆえにドラマティックな音楽に仕立てあげるということも一理ある。

その成否はともかく、少なくともアバドに微塵の迷いも曖昧さもなく、エネルギッシュな音楽の推進力とウィーン・フィルの厚みと奥行きのある響きがひとつの象徴的なベートーヴェンらしさを醸し出している。

特に堂々として骨格の太い『献堂式』、悲劇色を強く打ち出した『コリオラン』『エグモント』、生き生きとして力強い『フィデリオ』、演出のうまさが光る『レオノーレ』第1番、壮大で最後に激情的に盛り上げる『レオノーレ』第3番では、アバドの長所が遺憾なく発揮されている。

録音会場となったウィーン・ムジークフェライン・グローサーザールの潤沢な残響も決して煩わしいものではない。

ベートーヴェンの交響曲全集と同様、ウィーン・フィルがアバドによってイタリア趣味の洗礼を受けた時期のセッションとして興味深い。

序曲集にはカラヤン&ベルリン・フィルのものもあるが、ウィーン・フィルの響きのほうが序曲の表情としては生彩がある。

音質確認のために古い1991年盤と今回のSHM−CDルビジウム・カッティング仕様を改めて聴き比べてみたが、やはり後者が俄然優っている。

楽器の定位がより明瞭で、雑味が払拭され磨きをかけたような音質が得られている。

ただし1曲目の『プロメテウスの創造物』冒頭アダージョの導入部でのごく小さな傷のような音飛びは改善されていないが、これはおそらくオリジナル・マスターに由来するものと思われる。

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2015年07月26日


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プラガ・ディジタルスの新リリースになり、ベートーヴェンのトリプル・コンチェルト及びヴァイオリン協奏曲の2曲が収録されている。

クリュイタンス指揮、フランス国立放送管弦楽団との後者の演奏は日本盤のSACDも出ているので全く新しい企画とは言えないが、既にプレミアム価格で取り引きされている入手困難なディスクなので今回の再発を歓迎したい。

一方このメンバーによるトリプル・コンチェルトのSACD化は筆者の知る限りでは初めてで、両者とも保存状態の良好なステレオ音源であることも幸いしてDSDリマスタリングの効果も明瞭だ。

1974年に66歳で亡くなったオイストラフの、もっとも脂ののったころの録音である。

1958年パリにおけるセッションになるヴァイオリン協奏曲では、クリュイタンスの流麗な表現に呼応した色彩感豊かなオーケストラが特徴的で、決して重厚な演奏ではないがベートーヴェンのリリカルな歌心を最大限引き出したサポートが注目される。

オイストラフのヴァイオリンは、本演奏でもその持ち前の卓越した技量を聴き取ることは可能であるが、技量一辺倒にはいささかも陥っておらず、どこをとっても情感豊かで気品に満ち溢れているのが素晴らしい。

オイストラフのソロは自由闊達そのもので、その柔軟な奏法と艶やかな音色から紡ぎだされる旋律には高邁な美しさが感じられる。

ベートーヴェンがこの曲をヴァイオリンの超絶技巧誇示ではなく、あくまでも旋律楽器としての能力を存分に発揮させるメロディーを主眼に置いた曲想で書いたことを証明している。

オイストラフらしい押し出しの良い第1楽章、それに続く第2楽章のヴァリエーションは秩序の中にちりばめられた宝石のようだし、終楽章はさながら歓喜を湛えた舞踏だ。

ドイツらしくないと言われれば否定できないが、こうしたベートーヴェンにも強い説得力がある。

スタイルとしては、やや古めかしさを感じるものの、これほど曲の内面を深く掘り下げた演奏というのも少ない。

いずれにしても、本演奏は、同曲演奏史上でも最も気高い優美さに満ち溢れた名演と高く評価したい。

トリプル・コンチェルトの他のメンバーは、チェロがスヴャトスラフ・クヌシェヴィツキ、ピアノがレフ・オボーリンで、マルコム・サージェント指揮、フィルハーモニア管弦楽団との協演になり同じく1958年のロンドンでのセッションで、音質、分離状態とも極めて良好。

こちらはカラヤン盤のようなスケールはないとしても、しっかりまとめられた造形美とダイナミズムがあり、ソロ同士のアンサンブルも堅牢だ。

1人1人がスタンド・プレイで名人芸を披露するというより、お互いにバランスを尊重した合わせが聴きどころだろう。

この曲も多くの選択肢が存在する名曲のひとつだが、飾り気のない真摯な演奏としてお薦めしたい。

SACD化によって両曲とも高音の輝かしさと音場に奥行きが出て、ノイズも殆んど気にならないくらい低レベルだ。

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2015年07月25日


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ミラノ出身、73歳(2015年時)の現役ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音完結作。

クラシック音楽全体の中でも中核をなす重要なレパートリーであり、ベートーヴェン自身の芸術や作曲様式の発展を辿る32の傑作の録音が、39年の歳月をかけて完結された。

ポリーニのマイペースぶりにはほとほと恐れ入るが、殆んど諦めていたベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を、彼がまさに半生を賭けて完成させたことを率直に喜びたい。

この曲集についてはとにかく1度全曲を聴き通すことが望ましい。

そうすればポリーニが如何に自分に誠実な演奏を心掛けてきたかが理解できるだろう。

39年という歳月は、当然のようにポリーニに芸風の変化をもたらしているが、それでも、一貫して深い陰影のある彫像性が刻まれた、コクのあるベートーヴェンとなっている。

ポリーニは完全無欠のテクニックを誇っていた時代でも、決して聴き手に媚びるようなピアニストではなかったし、しばしば指摘されるような無味乾燥の機械屋でもなかった。

中でも彼が壮年期に録音したベートーヴェン中期から後期にかけての作品群が堅牢な音楽的造形美と洗練で、さながら名刀を鍛える刀匠のような素晴らしさがある。

確かにここ数年ポリーニの技巧的な衰えは否めない。

以前のような強靭なタッチも影を潜めたが、あえてそれを別の表現や解釈にすり替えようとはせず、不器用ともいえるくらい真っ正直に自己のポリシーを貫き通しているのが彼らしいところではないだろうか。

最近のセッションでは、初期のソナタでの若き日のベートーヴェンの斬新な創意や、性急で苛立つようなリズム、不安や焦燥の中から希望を見出そうとするひたむきな情熱が感じられる。

そこには尽きることのない目標に向かって突き進むような意志があり、また逆にそれを制御しようとする極めて冷静な知性とのせめぎ合いもあり、巨匠としての風格はむしろ稀薄だ。

その意味ではポリーニに円熟期というのは存在しないのかも知れない。

いずれにしても誰にも真似のできない超一流の美学に輝いたベートーヴェン・ソナタ全集のひとつとして聴くべき価値を持っていることは確かだ。

録音状態はさすがに総て均等というわけにはいかない。

過去40年間の録音技術の進歩も無視できないし、会場によって音響が異なり、またセッションとライヴが入り乱れているので、客席の雑音や拍手が入るのは勿論、ポリーニの癖でもある演奏中のハミングも聞こえてくるが、音楽鑑賞としては全く不都合はない。

同一曲で2種類以上の音源が存在する場合は新録音の方が採用されている。

例えばCD5の『テンペスト』を含む第16番から第20番までの5曲は、2013年と2014年にかけて行われたセッションで初出盤になる。

クラムシェル・ボックスに収納されたごくシンプルな紙ジャケットに色違いの8枚のCDが入っている。

曲順はソナタの番号順に再編集されていて録音年代順ではないが、録音データはジャケットの裏面とライナー・ノーツで参照できる。

なお国内盤は、SHM−CD仕様により、音質は従来盤に比べきわめて鮮明になるとともに、音場が非常に幅広くなった。

ピアノ曲との相性抜群のSHM−CDだけに今般のSHM−CD化は大いに歓迎すべきであり、ポリーニによる至高の名演をこのような高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2015年07月14日


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アルバン・ベルク四重奏団(ABQ)は、1970年に、ウィーン音楽アカデミーの4人の教授たちによって結成された。

アルバン・ベルクの未亡人から、正式にその名前をもらったという。

そうしたことからでもわかるように、この団体の演奏は、ウィーン風のきわめて洗練された表情をもち、しかも、高い技巧と、シャープな切り口で、現代的な表現を行っているのが特徴である。

数年前に惜しまれつつ解散をしてしまったABQであるが、ABQはベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集を2度に渡って録音している。

最初の全集が本盤に収められた1978年〜1983年のスタジオ録音、そして2度目の全集が1989年に集中的に行われたライヴ録音だ。

このうち、2度目の録音についてはライヴ録音ならではの熱気と迫力が感じられる優れた名演であるとも言えるが、演奏の安定性や普遍性に鑑みれば、筆者としては最初の全集の方をABQによるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の代表盤と評価したいと考える。

それどころか、あらゆる弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の中でも、ひとつの規範になり得るトップの座を争う至高の名全集と高く評価したい。

特筆すべきは、個々の奏者が全体に埋没することなど一切なく、かといって個々バラバラの主張では決してなく、曲の解釈、表現の統一感は徹底しており、究極のアンサンブルとしか言いようがない点だ。

この全集では、作曲年代に応じて表現を変化させ、情感豊かにひきあげているが、音楽的に深く掘り下げた演奏となっているところが素晴らしい。

本演奏におけるABQのアプローチは、卓越した技量をベースとした実にシャープと言えるものだ。

全体的に速めのテンポで展開されるが、決して中身が薄くなることはなく、むしろ濃厚である。

鬼気迫るような演奏もあって、隙がなく、ゆったりと聴くには少々疲れるかと思いきや、軽やかに音楽が流れ、十分リラックスして聴ける。

楽想を徹底して精緻に描き出して行くが、どこをとっても研ぎ澄まされたリズム感と緊張感が漂っており、その気迫溢れる演奏には凄みさえ感じさせるところである。

シャープで明快、緊迫度の高い、迫力に満ちた名演奏に聴き手はグイグイ引き込まれ、その自由で大胆、説得力あるアプローチに脱帽しまう。

それでいて、ABQがウィーン出身の音楽家で構成されていることに起因する独特の美しい音色が演奏全体を支配しており、とりわけ各楽曲の緩徐楽章における情感の豊かさには若々しい魅力と抗し難い美しさが満ち溢れている。

すべての楽曲がムラのない素晴らしい名演で、安心して聴いていられるが、とりわけABQのアプローチが功を奏しているのは第12番以降の後期の弦楽四重奏曲であると言えるのではないだろうか。

ここでのABQの演奏は、楽曲の心眼を鋭く抉り出すような奥深い情感に満ち溢れていると言えるところであり、技術的な完成度の高さとシャープさ、そして気宇壮大さをも併せ持つこれらの演奏は、まさに完全無欠の名に相応しい至高の超名演に仕上がっていると高く評価したい。

交響曲に匹敵する世界観や壮大さが、たった4人のアンサンブルの中に凝縮されている。

録音は、初期盤でもEMIにしては比較的良好な音質であったが、これほどの名演であるにもかかわらず、いまだにHQCD化すらなされていないのは実に不思議な気がする。

今後は、とりわけ第12番以降の後期の弦楽四重奏曲だけでもいいので、HQCD化、可能であればSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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これまた素晴らしい名演だ。

本盤の2年後録音されたピアノ協奏曲第1番、第2番、第4番も、録音の素晴らしさもあって、至高の名演であったが、本盤もそれに優るとも劣らない名演揃いである。

パーヴォ・ヤルヴィは、手兵ドイツ・カンマーフィルとともにベートーヴェンの交響曲全集の名演を成し遂げているし、仲道郁代は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の名演を成し遂げている。

その意味では、両者ともにベートーヴェン演奏に多大なる実績を有するとともに、相当なる自信と確信を持ち合わせて臨んだ録音でもあり、演奏全体にも、そうした自信・確信に裏打ちされたある種の風格が漂っているのを大いに感じさせる。

オーケストラは、いわゆる一部にピリオド楽器を使用した古楽器奏法であり、随所における思い切ったアクセントや強弱の変化にその片鱗を感じさせるが、あざとさを感じさせないのは、ヤルヴィの指揮者としてのセンスの良さや才能、そして芸格の高さの証左と言える。

第3番は、第1楽章冒頭をソフトに開始。

しかしながら、すぐに強靭な力奏に変転するが、この変わり身の俊敏さは、いかにもヤルヴィならではの抜群のセンスの良さと言える。

仲道のピアノも、透明感溢れる美音で応え、オーケストラともどもこれ以上は求め得ない優美さを湛えている。

それでいて、力強さにおいてもいささかも不足もなく、ヤルヴィも無機的になる寸前に至るまでオーケストラを最強奏させているが、力みはいささかも感じさせることはない。

第2楽章は、とにかく美しい情感豊かな音楽が連続するが、ヤルヴィも仲道も、音楽を奏でることの平安な喜びに満ち溢れているかのようだ。

終楽章は一転して、仲道の強靭な打鍵で開始され、ヤルヴィもオーケストラの最強奏で応え、大団円に向かってしゃにむに突き進んでいく。

後半の雷鳴のようなティンパニや終結部の力奏などは圧巻の迫力だ。

それでいて、軽快なリズム感や優美さを損なうことはなく、センス満点のコクのある音楽はここでも健在である。

第5番の第1楽章は、実に巨匠風の重々しさで開始され、冒頭のカデンツァの格調高く雄渾で堂々としたピアニズムは、仲道のベートーヴェン弾きとしての円熟の表れとして高く評価したい。

それでいて、時折聴くことができる仲道の透明感溢れる繊細で美しいピアノタッチが、そうした重々しさをいささかでも緩和し、いい意味でのバランスのとれた演奏に止揚している点も見過ごしてはならない。

そして、ヤルヴィと仲道の息の合った絶妙なコンビネーションが、至高・至純の音楽を作り出している。

第2楽章は、第3番の第2楽章と同様に、とにかく美しいとしか言いようがない情感豊かな音楽が連続し、仲道の落ち着き払ったピアノの透明感溢れる美しい響きには、身も心もとろけてしまいそうだ。

終楽章は、疾風の如きハイスピードだ。

それでいて、オーケストラのアンサンブルにいささかの乱れもなく、仲道の天馬空を行く軽快にして典雅なピアノとの相性も抜群だ。

そして、これまで演奏した諸曲を凌駕するような圧倒的なダイナミズムと熱狂のうちに、全曲を締めくくるのである。

録音についても触れておきたい。

次作の第1番、第2番、第4番も同様であったが、本盤は、他のSACDでもなかなか聴くことができないような鮮明な極上の超高音質録音である。

しかも、マルチチャンネルが付いているので、音場の拡がりには圧倒的なものがあり、ピアノやオーケストラの位置関係さえもがわかるほどだ。

ピアノの透明感溢れる美麗さといい、オーケストラの美しい響きといい、本盤の価値をきわめて高いレベルに押し上げるのに大きく貢献していると評価したい。

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2015年07月07日


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本盤にはショルティがシカゴ交響楽団の音楽監督に就任して初めて録音した、ベートーヴェンの交響曲全集の中でも傑作に数えられる《英雄》他が収められている。

ショルティのこの《英雄》を聴くと、既にシカゴ交響楽団がショルティの意志のままに音を出す楽器になった、という感じを強く受けた。

この録音時において、ショルティはシカゴ交響楽団の音楽監督に就任して、10年もたってない筈である。

しかし、ショルティは、このオーケストラの音質を、おそらく自分の思う通りのものに仕上げたと感じていたに違いない。

ヨーロッパで活躍を続けてきたショルティにとっては、オーケストラの響きというものは、やはりヨーロッパ的なものであってほしいということになろう。

ここでのシカゴ交響楽団の響きは、いわばアメリカ的な響きとされるニューヨーク・フィルハーモニックや、フィラデルフィア管弦楽団のものとは違ってきていて、もっとヨーロッパ的なものに傾斜した、深みのあるものになっている。

こうした音質の点について、ショルティは、音楽監督就任以来意図していたことを、見事に果たしたというべきだろう。

シカゴ交響楽団が、ショルティの意のままの楽器になっているということは、単にこのような音質だけのことによるのではない。

つまり、ショルティの要求したものを一糸乱れずに音として表現しているばかりでなく、ショルティの楽器のように各声部の強弱のバランスが自在になっているのである。

しかし、ショルティが、いわば抑えつけて、無理強いにそのようにしているのではなく、楽員に自発性をもたせ、演奏する楽しみを与えていることも事実である。

その証拠に、ここでの演奏には、楽員の気張ったところや固くなったところがない。

このショルティの《英雄》は、そうしたヨーロッパ風のオーケストラの響きをもっていながら、ヨーロッパのある特定の指揮者のものを模範としているわけではない。

これはまさにショルティ独特の解釈の《英雄》である。

ただし、独特だからといって、《英雄》の伝統から離れたものではないし、ショルティが無謀勝手なことをしているわけでもない。

どういう点で独特かというと、もったいぶったところをおかず、爽快なテンポで明快に音楽を進め、率直な表現をしていることにその大きな特色がある。

たとえばセルよりも、スフォルツァンドやスタッカートを強調しておらず、そうしたことは、ほどほどに行われている(たとえば、第1楽章や第3楽章でそのようなことがはっきりと認められるだろう)。

そして、このような柔軟性も併せ持っていることで、音楽は、固く角ばったものにはならない。

ショルティの《英雄》は、決して大袈裟な演奏になっておらず、スケールの大きさは失われていないのだが、必要以上の大きな身振りをみせないのである。

力性の変化にしても、フォルティッシモにしてもそうで、また旋律に過度の表情もつけていないが、神経の行き届いた陰影に満ちていることは驚くほどである。

このために、この《英雄》は、あっさりと、あるいはぼんやりと聴いてしまうと、意外に淡々とした演奏と受けとられてしまいがちであるが、よく聴き込んでみると、高い質の演奏になっていることが知られよう。

ここに、指揮者としていろいろな体験を重ねてきた人のひとつの姿があるのである。

若い指揮者には、到底このような演奏は望めないだろう。

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2015年07月03日


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お薦めの全集である。

オリジナル楽器によるベートーヴェンでは、後発のガーディナー盤、ノリントン盤、ブリュッヘン盤などがあるが、ガーディナーほど軽くなく、ノリントン(旧盤)ほど楽天的でなく、ブリュッヘンほど神妙でないホグウッド盤が、もっとも魅力がある。

特徴がないようでいて味わい深く、聴きながら「ベートーヴェンの音楽はなんて美しいのだろう」と思わせてくれるからである。

ホグウッド盤については、方々で「モダン全盛から古楽器台頭への過渡期の演奏」という評価がなされているようだが、万事を進化論という物差しで測るのに、少なくとも筆者は抵抗がある。

たとえば、ホグウッドの師であり、盟友であったデイヴィッド・マンロウの存在が「ホグウッドへの過渡期」と言えるだろうか?

そんな馬鹿な話はないのであって、スタイルの変遷はあっても、個人の才能・資質は各人唯一のものだ。

いついかなる状況で演奏されようとも、ここでは「演奏家の資質」「良い演奏か否か」を問題にしたい。

ここからは一般論だが、オリジナル楽器の最大の長所は、楽器間の音量のバランスの良いところである。

モダン・オーケストラでは、どんな名指揮者が巧みにバランスを考慮しても、分厚い弦に木管が埋もれがちであるし、逆に金管が強すぎて他のセクションを潰してしまったりする。

また、楽器が違えば音色や奏法も違ってくるわけで、同じフレーズを弾いても印象が異なるものなのである。

木管楽器の素朴さやティンパニなどの原始性に触れただけで、気分が落ち着いたり、和んだり、童心に帰ったようにワクワクしたりする。

古楽器オーケストラを木造家屋とするなら、カラヤン時代のベルリン・フィルなど近代的な超高層ビルであり、「ここまで立派な必要があるだろうか?」という疑問すら湧いてくる(もっとも、機能性を極限まで究めたという、もうひとつの価値は常々のレビューで述べており認めているところである)。

オリジナル派の短所は、長所と背中合わせに、ときに響きの薄さが気になることである。

誤解のないように付け加えるとそれは、たんにモダンより弱い音量に苦情を言っているのではない。

オリジナル楽器が巨大なNHKホールで役に立たないと非難するのは的外れなことは分かっている。

筆者が問題にしているのは、楽器の年齢である。

オリジナル楽器とはいえ、18世紀以前に製作された楽器が、それほど多くは残されておらず、また、大半はモダン楽器風に改造されてしまっているため、オーケストラで使われる楽器の多くは数年から数十年の「復元楽器」なのである。

つまり楽器としては、成熟に遠い、幼児から若者クラスが多いことになる。

それゆえ、どうしても、響きが薄い、若い、安っぽい感じに聴こえてしまうときがあるのだ。

もちろん、演奏自体のエネルギーによって、これが気にならないことも多々あるわけだが、ホグウッドのベートーヴェンは、上述した長所ばかりが印象に残る名演と言って良いだろう。

決して穏健に終わらず、リズム、フレーズといった音楽の根元を見つめた演奏が素晴らしいアプローチは、師マンロウ譲りと言って良い。

聴き手は、「過渡期」という世間の評価に惑わされず、むしろ「事始め」の新鮮な息吹こそ感じるべきであろう。

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2015年06月28日


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現代を代表する指揮者ラトルが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任する頃に、ウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集だ。

サー・サイモン・ラトルは1955年生まれのイギリス人の指揮者で、2002年よりベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者であるが、もう若くはないとの彼の申し出で、2018年で去るとのことである。

ベルリンの新聞によれば、ラトルは前任者たちとは異なり、新しい世代の指揮者と言われている。

指導力は前任者たちと同じようにあるものの、とても人付き合いがよく、独裁的ではなく、楽団員たちに対して偏見がなく、寛大である。

ベルリン・フィルの演奏者たちは言わずもがなとてつもない能力のある一匹狼の集まりである。

一旦指揮を始めると、ラトルはオーケストラをしっかりと自分のものとし、練習のときには、問題があると、指揮台を降り、その楽団員のもとに自ら行き、直接話し合い、自分の目的を説明し、全員でともに音楽を作っていき、指揮する場合、スコアを研究し、長い時間をかけていわば料理しているとのことである。

ラトルは、従来の指揮者と異なり、常に新しい作品をベルリン市民に紹介してきた。

楽団員には、指揮者の言いなりに演奏し、あの指揮者ならあの音とわかるような決まりきった演奏をすることは求めず、作曲家にふさわしい様々な演奏ができる能力を育ててきた。

つまり楽団員にとっては常に新しい発見の日々と思われる。

清澄さ、明瞭さ、透明感がラトルの音楽性の特徴であるが、また音楽教育にも熱心で、楽団員を連れて、保育所にも学校にも生の音楽を聴かせに行くが、そこには希望があるという。

完全について彼は次のように言っている。

「完全はこの世には存在しない。楽団員には最高の技術は求めない。車は技術で作る。音楽は別の世界だ。作曲家はだれでも雰囲気を大事にする。そして解釈について話し合うことを好む。作曲家は完璧に楽譜通りに演奏することは最初から求めていない。音楽を通じてコミュニケーションをしたいなら、精緻さに陥らないようにすることだ。音楽家は機械ではない。そしてミスを恐れる音楽には生命がない」と。

このウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のCDは、すべてライヴで、「第5」が2000年12月、その他は2002年4月から5月にかけて演奏されたものである。

この年にラトルはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に選出されているが、ウィーン・フィルを選んだのは、ベートーヴェンの望む雰囲気があると判断したものと思われる。

そしてベートーヴェンがもし生きていたら、演奏に関する解釈を喜んで聴いてくれるに違いないと、楽団員に彼の解釈を説明し、楽団員が彼の意を理解したと思われる。

21世紀の新のベートーヴェン像としてラトルが名門ウィーン・フィルを起用して行った、モダン楽器を用いての古楽的奏法の導入、アーノンクールたちからの影響もあろうが、ラトルはベートーヴェンのスコアに潜んでいる劇性を見事に描いた、非常にバランスのいい演奏と言えよう。

強いて言えば、ライヴではなくスタジオ録音で徹底して録音して欲しかった反面、ライヴならではの臨場感溢れる素晴らしい出来になっているCDであるとも思う。

ウィーン・フィルもとてつもない技量を持った楽団員の集まりであるし、ラトルの音楽には常に、作曲家の世界を大事にする新しい発見がある。

本全集からは、サイモン・ラトルの目指しているものがなにか、彼の世界に触れることができよう。

「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が私を求めた、だからここにいる」との、いつも控えめなラトルが遠慮がちに言った言葉はとても重い。

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2015年06月26日


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現代を代表する名ピアニストの1人であるゲルバーが残した格調の高いベートーヴェン3大ピアノ・ソナタであるが、ゲルバーのベートーヴェンは素晴らしい。

同じく「テンペスト」、「ワルトシュタイン」、「告別」の3大人気ピアノ・ソナタがBlu-spec-CD化されており、それも音質の素晴らしさも相まって見事な演奏であったが、本盤の3曲も、それらの演奏に優るとも劣らない素晴らしい名演奏だ。

ゲルバーはアルゼンチン生まれのピアニストだが、現在では数少ない、ドイツピアニズムの正統な後継者になっている。

ただし、同じくドイツピアニズムの後継者であるゲルハルト・オピッツがしばしば「堅すぎる」「不器用だ」という批評を受けるのに対して、ゲルバーの演奏にはそういった面は見られない。

テンポ設定は少し速めだが、重厚な響きをフルに生かしたゲルバーらしい演奏に仕上げられている。

ゲルバーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏の特色は、何と言ってもその美しさにある。

もっとも、単なる表面上の美しさにとどまっているわけではない。

その美しさは、後述のように深い内容に裏打ちされていることを忘れてはならない。

加えて、演奏全体の造型は堅固であり、ドイツ風の重厚さが演奏全体に満ち満ちており、独墺系のこれまでの様々な偉大なピアニストの系譜に連なる、まさにいい意味での伝統的な演奏様式に根差したものであると言えるだろう。

「悲愴」、「月光」の終楽章や、「熱情」の第1及び終楽章の雄々しく男性的な打鍵の力強さ、「悲愴」の第2楽章や「月光」の第1楽章の繊細な抒情、これらを厳しい造型の中でスケール豊かに表現している。

テンポも目まぐるしく変わり、最強奏と最弱音のダイナミックレンジも極めて幅広いが、ベートーヴェンとの相性の良さにより、恣意的な表現がどこにも見られず、ベートーヴェンの音楽の魅力がダイレクトに伝わってくる。

そして、どこをとっても、眼光紙背に徹しているとも言うべき厳格なスコア・リーディングに基づいた音符の読みの深さが光っており、前述のようにいわゆる薄味な個所は皆無であり、いかなる音型にも、独特の豊かなニュアンス、奥深い情感が込められていると言えるところだ。

技術的にも何らの問題がないところであり、随所に研ぎ澄まされた技巧を垣間見せるが、いささかも技術偏重には陥っておらず、常に内容の豊かさ、彫りの深さを失っていないのが見事であり、知情兼備の演奏であると言っても過言ではあるまい。

総括すれば、いい意味での剛柔のバランスのとれた演奏というのが、ゲルバーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏であると言えるところであり、ドイツ正統派の伝統的な演奏様式に、現代的なセンスをも兼ね合わせた、まさに現代におけるベートーヴェンのピアノ・ソナタ演奏の理想像の具現化と評価し得ると考えられるところだ。

まさに巨匠の芸風といえるスケールの大きさ、凝縮された感情、叙情、ファンタジー、どこを切っても濃密で熱い血がほとばしる迫真のベートーヴェンである。

いずれにしても、本盤の各楽曲の演奏は、ゲルバーならではの素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

音質については、従来CD盤でも1990年前後のスタジオ録音ということもあって、比較的満足できる音質であると言えるが、これだけの名演だけに、長らくの間、高音質化が望まれてきた。

そのような中で、今般、かかる名演が待望のBlu-spec-CD化がなされたということは、本演奏の価値を再認識させるという意味においても大きな意義がある。

ゲルバーによるピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてBlu-spec-CD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、ゲルバーによる素晴らしい名演をBlu-spec-CDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

そして、可能であれば、既にBlu-spec-CD化されている「テンペスト」、「ワルトシュタイン」、「告別」も含めて、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化して欲しいと思っている聴き手は筆者だけではあるまい。

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2015年06月25日


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ベートーヴェンの交響曲全集で、最も完成度の高い、かつ癖がなく聴きやすいものの1つではなかろうか。

大編成オーケストラを指揮しながら、引き締まった美学を貫いたセルのベートーヴェン演奏はスタンダードと呼ぶに相応しいものとして定評がある。

だが一方では、セルと言えば練習の鬼、厳格、一分の隙もない、というのが代名詞のようにに言われ逆に言うと面白みに欠けるという評価にもなっていた。

それはおそらくLP時代からの平板的で奥行きがない録音のせいで、今回のりマスタリングを聴いてその評価が一変してしまった。

本セットを改めて聴いてみると過度に力を入れず、洗練された正統派のベートーヴェンで、トスカニーニ並みの完璧なリズムとダイナミクスを備えつつも微妙なニュアンスや即興性にも富んでいることが良く分かった。

強烈な個性や情熱を感じさせる演奏も良いが、セルの堂々と揺るがぬ、かつ絶対だれないテンポと、クリーヴランド管弦楽団の鉄壁のアンサンブルによる引き締まった演奏は、迫力十分でも感情過多ではないので聴き飽きないし耳にもたれない。

セルというと、ドヴォルザークなどのチェコ系の作品やR.シュトラウスが高く評価されているようであるが、最も素晴らしいのはベートーヴェンであり、この全集がその証明である。

例によって、指揮者の特別な個性を際だたせるような表現ではないが、やや速めのテンポで高い合奏能力をもったオーケストラによって誠実に演奏されている。

オーケストラの各楽器が見事に解け合って、まるで1つの楽器のように聴こえ、知情意のバランスのとれた演奏で、曲の素晴らしさが率直に伝わってくる。

また、セルの全集はベートーヴェンの前向きで意志的な音楽世界を極めて直截に表現し、一貫して強い推進力を感じさせる。

妥協を許さない強靭なセルの音楽性とリーダーシップがベートーヴェンの作品における意志的側面を見事に浮き彫りにしている。

その点で現在も新鮮であり、このような全集がステレオで残っており安価に入手できることは有難いことだ。

鉄壁のアンサンブル、クールな表現スタイルと言われたセル&クリーヴランド管弦楽団であるが、パーヴォ・ヤルヴィなどの、近年のソリッドな演奏に慣れた耳からすると、むしろ暖かみ、人間味や、ロマンさえも感じさせる。

時代を考えれば当然であるが、大編成オケによるベートーヴェンがコンサート・レパートリーの主役だった時代の息吹を存分に味わえる。

演奏以上に驚かされたのが音質の良さである。

初期CDの音はあまり良くなく、オリジナル・紙ジャケットのセットは高かった上にすぐ品薄になってしまうなど、なかなか理想的な形で出てこなかったセルのベートーヴェン交響曲全集が、漸く万人が入手しやすい形でリリースされた。

リマスタリングは、かなり高い水準で成功しており、特に、少し録音の古い「エロイカ」が良好な音質に蘇っているのも嬉しい。

「エロイカ」はSACD化もされており、そちらも素晴らしい音質で聴けるが、音の骨太感、全体の密度感は今回のセットの方が上な気がする。

さざ波のような弦、適度な余韻をもたらす心地よいホールトーンなどが見事にとらえられており、従来盤と比較したところその違いに驚いてしまった。

テープヒスも、録音年代から考えると全体に低いレベルで抑えられている。

クリーヴランド管弦楽団のものすごい力量も良く分かり、当時世界一のオーケストラと言われたのが納得できる。

ところどころセルの唸り声のようなものも入っており一層生々しさを感じさせる。

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2015年06月23日


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これは、全音楽ファン、ベートーヴェン愛好家に聴いて欲しい全集である。こんなにも瑞々しく、力強く、真摯でいながら愛らしいベートーヴェン全集は稀だからである。

古楽器ブームの台頭から、「ワルターは古い」というレッテルの貼られた時期もあり、筆者自身そんな風潮に踊らされる愚も犯したが、今、改めてまっさらな心で聴くとき、暖かで、爽やかな感動に震えずにおれない。

また、ステレオ初期ながら、ジョン・マックルーアのプロデュースによる録音は最上級であり、最新録音の多くを凌駕している。

ワルターといえば、「第2」「第6」の名演が定評のあるところだ。力よりは愛情、厳しさよりは優美を思わせるワルターの芸風にもっとも相応しいと、誰もが思うところであろう。

確かにそれは間違いではないのだが、今回、改めて聴き直してみて大きく感じたことは、ワルターの圧倒的な力強さである。それゆえ、一般の評価とは裏腹に奇数番の聴き応えが十分なのである。そして、その充足感は、もちろん偶数番においても変わらない。

「第1」は第1楽章は歩みを速めたり遅めたり、というワルター独特のテンポ感が生きた名演。堂々たるコーダも見事。第2楽章では、得意のカンタービレはもちろん、固めの音色を活かしたティンパニの妙やホルンやトランペットのアクセントが聴きものである。第3楽章は主部の抉りの深さとトリオにおける木管の詩情の対比が美しい。フィナーレも、弦の瑞々しさ、木管群のアクセントやティンパニの雄弁さが一体となった名演である。

「第2」は、まさに心技体がひとつになった文句なしの名演で、全曲に颯爽とした覇気が漲り、荒れ狂い、悶え苦しむよりは、瑞々しい若さを謳歌する青春の歌となっている。迫力がありながら踏み外しのないバランス感覚の良さでも随一である。

「英雄」では、シンフォニー・オブ・ジ・エア(元NBC響)とのトスカニーニ追悼ライヴが素晴らしいが、コロンビア響とのスタジオ盤も特筆に値する名演だ。「コロンビア響は小編成で音が薄い」という欠点の微塵も感じられない圧倒的なパワーが充溢しており、衰え知らぬワルターの気合いが凄まじい。第3楽章トリオにおけるホルンの超レガートも美しさの限り。

「第4」も、バランスの良さでは引けをとらない。音楽の勢いはそのままに、「第2」をさらに大人にしたような落ち着きが良い。

「第5」。以前は「均整の取れた古典的演奏」と思っていたが、大変な間違いであることに気づいた。晩年のワルターのどこにこんな凄まじい情熱が隠されていたのだろう。第1楽章では、ゴリゴリとなる低音が聴く者を興奮させる。コーダでの高揚感もただ事でない。フィナーレでは、冒頭こそ肩の力の抜けたフォルテだが、演奏が進行するにつれて内的なパッションが高まるのが手に取るように分かる。

「田園」は、「ワルターの全集中最高の名演」という評価の高い演奏である。第1楽章はまったく無理のない自然な表現に明け暮れる。優しい外見に囚われて聴き逃してならないのは、低音の充実であろう。ことさら目立たぬように、しかし、しっかりと土台となって演奏を支えているのが良い。

「第7」は、全集中もっとも大人しい演奏である。表だった迫力や推進力よりも、ご飯をゆっくり噛んで味わうような趣があり、それはそれで美しい価値がある。第2楽章での、前打音を拍の前に出す扱いが珍しい。

「第8」は、この作品に寄せる「優美」「軽妙」といった一般のイメージとは異なる剛毅な演奏。シェルヘンのライヴも同様に凄まじいものだったが、ワルターはどんなに激しくても、最後まで気品と風格を失わない。

「第9」は、第4楽章のみ、実態はニューヨーク・フィルという変則的な録音である。ウエストミンスター合唱団をビヴァリーヒルズまで呼ぶことが不可能だったためらしい。

第1楽章は気迫に満ち、終結部の気合いなど大したもので、トランペットの派手なミスを録り直さなかったのも、この「気合い」を優先させてのことだろう。第2楽章に入ると、グッと集中力が増し、サウンドそのものも活き活きしてくる。副主題の木管のリズム感など秀逸であるし、トリオにおける歌心もワルターならではだ。歌心といえば、続く第3楽章は夢のカンタービレである。終盤の2度にわたる「目覚めの呼びかけ」も、微睡みの中で聴くようなドラマが内包されていて美しい。

フィナーレは評価の分かれるところだ。オーケストラがニューヨーク・フィルに交代し、サウンドも一変する。冒頭のレチタティーヴォなど、フォルテがヤンキー風になってしまう難点があるが、音色、充実度は前3楽章の比ではない。声楽陣は不調であるが、それを差し引いてもなお、この演奏から受ける印象は圧倒的である。久々に表現力たっぷりのオーケストラを前にして、ワルターの中に燃え立つものがあったのであろう。「優れているのはコーラスが入るまで」という評判もあるが、ここではこのフィナーレを特に高く評価しておきたい。

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2015年06月22日


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メンゲルベルクの名を聞いただけで、顔をしかめる人がいる。

「あんな時代錯誤の音楽。妖怪のようなデフォルメについていけない」というわけだが、そういう先入観から、この素晴らしい芸術を享受できないとすればまことに残念なことである。

徹底したパート練習、全体練習を繰り返し、作品の襞の襞まで自分の意志を徹底させるやり方は、僅か2、3回の稽古で要領よく仕上げる現代のシステムからは生まれ得ない、超個性的な芸術を生み出した。

今では、アマチュアだけに許された贅沢である。

頻出するテンポの動きから、艶めかしいポルタメントまで、すべてが様式的に練り上げられている。

これを現在の流行ではないからといって「時代錯誤」のレッテルを貼ることを戒めたい。

問題は、この様式美が演奏芸術の本質に迫っているか、ということなのである。

さて、メンゲルベルクの音楽作りは、緻密を極めながらも神経質さのない点が素晴らしい。

とても男性的に力強く、大らかで、さらに決して不健康にならない色香すらある。

こうした特質が、人類愛を歌うベートーヴェンにたいへんマッチして、いずれも古い録音であることを超えて圧倒的な感銘を与えてくれる。

「第1」は、SP発売当時、トスカニーニ&BBC響とワインガルトナー&ウィーン・フィルとてい立した。

剛直なトスカニーニ、無造作だが自然なワインガルトナーと比較すると、メンゲルベルクはこの曲を手際よくまとめ、円満な解釈でベートーヴェンらしさを誇張なく表出した。

「英雄」は昔からメンゲルベルクのお家芸で、1930年1月にニューヨーク・フィルを率いて録音したレコードは今でも人気がある。

1940年11月の再録音盤も基本的にはロマンティシズムの円熟性を保持した旧盤とは変わっていないが、その円熟性に加えて、新盤には逞しい迫力があり、テンポも速くなり、率直で荒々しいほどの男性的特徴も顕著になった。

「第4」はゆっくりしたテンポではあるが、メンゲルベルクとしては、情緒に満ちてはいても、あまり誇張なく歌わせた古典的演奏で、終始円満に演奏を進める。

メンゲルベルクがいかに表情を立派につかんでそれをうまく表現するかに感心する。

「第5」はメンゲルベルクが最高。

SP時代でも、フルトヴェングラーとトスカニーニの両盤の評判が高かったが、この曲には、円満で、強壮な威圧感もありながら、全体に悲劇性が薄く、健康な芸術性に満ちたメンゲルベルクの解釈が最適。

「田園」はあたかもオランダの絵のように重い色調で、時に流麗さを失うこともあるが、自然の雰囲気が実に豊かであり、メンゲルベルクのレコードの中でも特徴が最もよく出ている個性的な演奏である。

「第8」では、クリスタル細工のように精緻な彫琢をほどこしたアポロ的なワインガルトナー&ウィーン・フィルと競合、メンゲルベルクは情緒と熱情で統一し、特に第4楽章は血湧き肉躍る。

そして何より「オーケストラのストラディヴァリウス」と謳われた当時のコンセルトヘボウ管の豊穣な響きを堪能したい。

少なくとも技術的にはウィーン・フィルさえ問題にならない程の高みにあったと認めるべきであろう。

マーラーが信頼を寄せ、R.シュトラウスが愛した本物の音楽がここにある。

惜しむらくは、これがあと10年後だったら、こんなに凄まじいまでに美しい音が、英デッカにステレオ録音されていたら、どんな音に聴こえるだろうと想像するだけで、息が止まりそうになる。

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2015年06月20日


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ジュリーニは、イタリア人指揮者であるが、独墺系の作曲家による楽曲も数多く演奏した大指揮者であった。

ブラームスの交響曲全集は2度も録音しているのに対して、意外にもベートーヴェンの交響曲全集は1度も録音していないところだ。

これほどの大指揮者にしては実に不思議と言わざるを得ないと言えるだろう。

ジュリーニは、最晩年に、ミラノ・スカラ座歌劇場フィルとともに、ベートーヴェンの交響曲第1番〜第8番を1991〜1993年にかけてスタジオ録音を行った(ソニー・クラシカル)ところであり、残すは第9番のみとなったところであるが、1989年にベルリン・フィルとともに同曲を既にスタジオ録音していた(DG)ことから、かつて在籍していたDGへの義理立てもあって、同曲の録音を行わなかったとのことである。

このあたりは、いかにもジュリーニの誠実さを物語る事実であると言えるが、我々クラシック音楽ファンとしては、いささか残念と言わざるを得ないところだ。

それはさておき、本盤に収められているのは、1972年にロンドン交響楽団他とともにスタジオ録音を行った交響曲第9番である。

他にライヴ録音が遺されているのかもしれないが、前述のようにベルリン・フィル(1989年)と録音することになることから、その演奏の約20年前のものとなる。

1972年と言えば、ジュリーニの全盛期であるだけに、演奏は、諸説はあると思うが、後年の演奏よりも数段優れた素晴らしい名演と高く評価したい。

1976年にDGに移籍したジュリーニがマーラーの「第9」で一気にスターダムにのし上がる4年前の録音であるが、指揮者の円熟は誰の耳にも明らかで、余裕をもったテンポで内声部をおろそかにせず全ての楽器が伸びやかに歌う流麗な音楽は名前を伏せてもジュリーニだと確信させられる。

ジュリーニの演奏スタイルはテンポを遅めにとり、ズッシリとスケール感のあるベートーヴェンが魅力的で、この最初のEMI録音はその原点とも言えるだろう。

何よりも、テンポ設定が、後年の演奏ではかなり遅めとなっており、演奏自体に往年のキレが失われているきらいがあることから、筆者としては、ジュリーニによる「第9」の代表盤としては、本盤を掲げたいと考えているところだ。

演奏の様相はオーソドックスなもので、後年の演奏とは異なり、ノーマルなテンポで風格豊かな楽想を紡ぎ出している。

細部にまで行き届いた眼力、明確な構成力と美しい音色、ゆっくりとしたテンポによる、あくまで音の明晰さを追求した、ジュリーニならではの「第9」で、音の運びにも停滞感がなく、明確な構成力がきっちりと聴き手に伝わってくる。

落ち着いたテンポ設定によるスケールの大きなアプローチをベースに、ノーブルなカンタービレと、ジュリーニならではのこだわりをみせている点がとても印象的で、重量感に富むフレージング、細部まで考え抜かれた凝った演奏は、ファンにはたまらないところだ。

そして、ジュリーニならではいささかの隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な響きも健在であるが、いささかの重苦しさを感じさせることはなく、歌謡性溢れる豊かな情感が随所に漂っているのは、イタリア人指揮者ならではの面目躍如たるものと言えるだろう。

いわゆる押しつけがましさがどこにも感じられず、まさにいい意味での剛柔のバランスがとれた演奏と言えるところであり、これは、ジュリーニの指揮芸術の懐の深さの証左と言っても過言ではあるまい。

ロンドン交響楽団もジュリーニの統率の下、名演奏を展開しており、シーラ・アームストロング(ソプラノ)、アンナ・レイノルズ(アルト)、ロバート・ティアー(テノール)、ジョン・シャーリー=カーク(バス)といった独唱陣やロンドン交響合唱団も最高のパフォーマンスを発揮している。

いずれにしても、本演奏は、ジュリーニならではの素晴らしい名演であるとともに、ジュリーニによる同曲の演奏の代表的な名演と高く評価したいと考える。

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2015年06月19日


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世界各地での全曲演奏と並行して行われたこの全集は、のびやかで豊麗な音色で描き出された東京クヮルテットならではのベートーヴェン像を確立した名盤。

東京クヮルテットは、弦楽四重奏団の名称に「東京」の名を冠していても、日本人の奏者は2人しかおらず、しかも、結成してから40年が経って、その間にメンバーの入れ替わりがあり、一時は音色の調和に苦労した時期があったようでもある。

しかしながら、本盤に収められた演奏においては、そのような苦難を克服し、息の合った絶妙のアンサンブルを披露してくれており、今や、この団体が円熟の境地にあることを感じさせてくれるのが素晴らしい。

すべての奏者の音色が見事に融合した、息の合った絶妙なアンサンブルを披露しており、この楽団の近年における充実ぶりを味わうことが可能だ。

もちろん、円熟と言っても穏健一辺倒ではなく、第10番の第3楽章や第11番の第1楽章及び第3楽章における気迫溢れる演奏は、凄みさえ感じさせる圧巻の迫力を誇っている。

世界に6セットしか存在していないとされているパガニーニ選定によるストラディバリウスを使用しているというのも、本団体、そして本演奏における最大の魅力でもあり、4人の奏者が奏でる音色の美しさには出色のものがある。

それによって醸し出される独特の美しい音色は、そうした豊かな音楽性に満ち溢れた優美さをさらに助長するものであると考える。

本演奏には、例えば、先般、惜しまれる中で解散したアルバン・ベルク弦楽四重奏団や、今を時めくカルミナ弦楽四重奏団のように聴き手を驚かすような特別な個性があるわけではないが、かつてのスメタナ弦楽四重奏団と同様に、楽想を精緻に、そして情感豊かに描き出して行くというものであり、音楽そのものの美しさを聴き手にダイレクトに伝えてくれている。

初期の弦楽四重奏曲では、むしろ、このような自然体のオーソドックスな演奏の方がより適していると言えるのかもしれない。

中期の弦楽四重奏曲の演奏ももちろん素晴らしいが、ことに後期の弦楽四重奏曲は、弾きこなすのに卓越した技量を要するとともに、その内容の精神的な深みにおいても突出した存在である。

交響曲で言えば第9番、ピアノ・ソナタで言えば第30〜32番、合唱曲で言えばミサ・ソレムニスに匹敵する奥深い内容を有した至高の名作であり、その深遠な世界を表現するには、生半可な演奏では到底かなわないと言える。

このような高峰に聳える名作だけに、これまで様々な弦楽四重奏団によって、多種多様な名演が繰り広げられてきた。

したがって、並大抵の演奏では、海千山千の名演の中で、とてもその存在価値を発揮することは困難である。

そこで、この東京クヮルテットによる演奏であるが、そのアプローチは、これまでの他の弦楽四重奏曲とは何ら変わるところがない。

曲想を精緻に、そして情感豊かに描き出して行くというものだ。

したがって、聴き手を驚かすような特別な個性などは薬にしたくもなく、楽曲の本質に鋭く切り込んでいくような凄みにも欠けている。

しかしながら、いささかも奇を衒わない真摯な姿勢は、かつてのスメタナ四重奏団による名演奏を彷彿とさせるような、豊かな音楽性に満ち溢れた優美さを兼ね備えていると言えるのではないか。

このように、ベートーヴェンの名作群を、ゆったりとした気持ちで満喫させてくれるという意味においては、過去の様々な名演にも決して引けを取らない素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

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2015年06月08日


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ワルターは80歳で現役を引退したが、その後CBSの尽力により専属のオーケストラ、コロンビア交響楽団が結成され、その死に至るまでの間に数々のステレオによる録音が行われたのは何という幸運であったのであろうか。

その中には、ベートーヴェンの交響曲全集も含まれているが、ワルターとともに3大指揮者と称されるフルトヴェングラーやトスカニーニがステレオ録音による全集を遺すことなく鬼籍に入ったことを考えると、一連の録音は演奏の良し悪しは別として貴重な遺産であるとも言える。

当該全集の中でも白眉と言えるのは「第2」と「田園」ではないかと考えられる。

とりわけ、本盤に収められた「田園」については、同じくワルター指揮によるウィーン・フィル盤(1936年)、ベーム&ウィーン・フィル盤(1971年)とともに3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。

巨匠ワルターが切り開いたリリシズムの世界は、この作品を語る上で欠かせない永遠の名盤である。

本演奏は、どこをとっても優美にして豊かな情感に満ち溢れており、「田園」の魅力を抵抗なく安定した気持ちで満喫させてくれるのが素晴らしい。

ワルターの演奏には思い入れとか野心とかがなく、常に清楚な精神性のようなものが宿っている。

端正な響きと肩の力の抜けた表現で刻み込まれる晴朗にして健全なベートーヴェンであり、「田園」の原点とも言うべき演奏だ。

ワルターは、私たちの心にあるこの作品のイメージを最もスタンダードに表現したとも考えられる演奏である。

暖かい人間性を感じさせる温雅でまろやかな語り口は作品の美しさを実にナイーヴに描出する結果をもたらしている。

フルトヴェングラー、シェルヘン、カラヤン、アバド、朝比奈……誰を聴いてもワルターに比べると帯に短し、タスキに長しで、なにがしかの違和感が残る。

オーケストラは、3強の中で唯一ウィーン・フィルではなくコロンビア交響楽団であるが、ワルターの確かな統率の下、ウィーン・フィルにも匹敵するような美しさの極みとも言うべき名演奏を披露している。

スケールの大きさにおいては、ベーム盤に一歩譲ると思われるが、楽曲全体を貫く詩情の味わい深さにおいては、本演奏が随一と言っても過言ではあるまい。

もっとも、第4楽章の強靭さは相当な迫力を誇っており、必ずしも優美さ一辺倒の単調な演奏に陥っていない点も指摘しておきたい。

ワルターの資質と音楽とがぴったり一致した真の牧歌がここにあり、作品が書かれた当時の作曲者の心を、そのままうつし出したかのような、感動的な名演奏である。

なお、ワルターによる1936年盤は録音の劣悪さが問題であったが、数年前にオーパス蔵によって素晴らしい音質に復刻された。

演奏内容自体は本演奏と同格か、さらに優れているとも言える超名演であるが、現在ではオーパス盤が入手難であることに鑑みれば、本演奏をワルターによる「田園」の代表盤とすることにいささかの躊躇もするものではない。

本演奏は至高の超名演であるだけに、これまでリマスタリングを何度も繰り返すとともに、Blu-spec-CD盤も発売されたりしているが、ベストの音質は本シングルレイヤーによるSACD盤であると考える。

本SACD盤は現在でも入手可であり、テープヒスが若干気になるものの、ワルターによる超名演を弦楽奏者の弓使いや木管楽器奏者の息遣いまでが鮮明に再現されるSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年06月06日


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ドイツの巨匠ピアニスト、ウィルヘルム・ケンプ(1895-1991)は1961年10月に来日し、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲を7夜にわたり連続演奏を行った。

単独のピアニストがベートーヴェンのピアノ・ソナタを全曲集中して演奏することは日本初だったとされ、日本音楽界の一大イベントとして非常な話題となったということである。

当時ケンプは66歳で、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は、1950〜56年のモノラルと1964〜65年のステレオの2種のセッション録音が存在し、いずれも屈指の名盤と高く評価されているが、その中間期、ケンプ最盛期の全集がもうひとつ存在したことは驚愕の極み。

歴史的資料としても貴重な演奏で、全盛期のケンプのピアニズムを堪能できる演奏内容となっている。

いずれの楽曲も至高の名演と高く評価したい。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の録音は現在でもかなり数多く存在しており、とりわけテクニックなどにおいては本全集よりも優れたものが多数あると言える。

ケンプによる録音に限ってみても、前述の2つのスタジオ録音の方が、演奏の完成度に関しては断然上にあると言えるが、演奏の持つ閃きやファンタジーにおいては、本演奏がダントツであると言えるのではないだろうか。

本全集におけるケンプによるピアノ演奏は、例によっていささかも奇を衒うことがない誠実そのものと言える。

ドイツ人ピアニストならではの重厚さも健在であり、全体の造型は極めて堅固である。

また、これらの楽曲を熟知していることに去来する安定感には抜群のものがあり、大胆不敵でエネルギッシュな一面を覗かせながら、緩徐部分でのケンプの穏やかな語り口は朴訥ささえ感じさせるほどだ。

しかしながら、一聴すると何でもないような演奏の各フレーズの端々から漂ってくる滋味に溢れる温かみには抗し難い魅力があると言えるところであり、これは人生の辛酸を舐め尽くした晩年の巨匠ケンプだけが成し得た圧巻の至芸と言えるだろう。

筆者としては、ケンプの滋味豊かな演奏を聴衆への媚びと決めつけ、厳しさだけが芸術を体現するという某音楽評論家の偏向的な見解には到底賛成し兼ねるところである。

ケンプによる名演もバックハウスによる名演もそれぞれに違った魅力があると言えるところであり、両者の演奏に優劣を付けること自体がナンセンスと考えるものである。

全曲を通して聴いて驚いたのは、大変エネルギッシュでしかも力強い演奏でありながら、自由自在、奔放で即興的かつ詩的な味わい深い演奏となっていることである。

ピアニストは年輪を重ねるごとにテンポを落として深みのある演奏を聴かせる人が多いが、それはまた同時にテクニックの衰えを隠す一面もあることも否めない。

しかし、ケンプの演奏は速めのテンポを崩すことなく、音楽を前進させていく。

そのため、ミスタッチも目立つ演奏になることがあるが、そのこと自体が演奏の価値を貶める結果に陥っておらず、このCDを演奏順に聴いていくことでケンプの息遣いを追体験できるのである。

ケンプはライヴで最良の面が発揮されるピアニストのため、回を重ねるごとに自由かつ雄弁となり、後期作品では人間業とは思えぬ境地に達し、まさにピアノ音楽史上の至宝の音源と言えるだろう。

要するにケンプのすべてを体験できるのが今回のNHK盤だと確信したところであり、ケンプ・ファン必聴のベートーヴェンここにありと言えよう。

すべてNHKがラジオ放送用に収録したもので、モノラル録音でありながら当時最高の技術が駆使されていて、ステレオ録音にも負けない秀逸な録音となっており、ケンプの生演奏を余すところなく楽しめる演奏となっている点において、歴史的名演であることは間違いない。

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2015年06月05日


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ゲルバーがデンオンで始め、全集に至らずに惜しくも中断した、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ集はいずれも素晴らしい名演だ。

ゲルバーは1941年アルゼンチン生まれのピアニストで、アルゲリッチやバレンボイムとは年代も出身もほぼ同じだが、玄人好みの演奏をするせいか日本での知名度はそれほど高くない。

しかし、ドイツピアニズムの正統な後継者としてベートーヴェンやブラームスでは定評ある演奏をする。

本盤は、ドイツ・ピアニズムの伝統を受け継いだゲルバーの、美しいピアノの響きを捉えた、貴重なスタジオ録音である。

まさに巨匠の芸風といえるスケールの大きさ、凝縮された感情、叙情、ファンタジー、どこを切っても濃密で熱い血がほとばしる迫真のベートーヴェンだ。

ゲルバーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏の特色は、何と言ってもその美しさにある。

ゲルバーは「音楽はいつでも美しく在らねばならない」という信条をもっていると見える。

もっとも、単なる表面上の美しさにとどまっているわけではない。

その美しさは、後述のように深い内容に裏打ちされていることを忘れてはならない。

ゲルバーの奏でるピアノは音も耳につくような煌びやかさではないので、聴いていてとても気持ちがよい。

全体が派手というわけではないのだが、演奏の至る所に淡い光が見えるような演奏だ。

加えて、演奏全体の造型は堅固であり、ドイツ風の重厚さが演奏全体に満ち満ちており、独墺系のこれまでの様々な偉大なピアニストの系譜に連なる、まさにいい意味での伝統的な演奏様式に根差したものであると言えるだろう。

がっちりとした構成感、メリハリの効いた弾むようなタッチ、そして音楽の流れには自由なファンタジーの飛翔が感じられる。

きわめてオーソドックスのようでいて、さまざまな遊び心も感じられ、聴いて実に楽しく、これまで様々な偉大なピアニストたちがベートーヴェンのピアノ・ソナタを録音しているが、ゲルバーのこの演奏くらい豊かな表情の変化に富んだ演奏もないのではないか。

そして、どこをとっても、眼光紙背に徹しているとも言うべき厳格なスコア・リーディングに基づいた音符の読みの深さが光っており、前述のようにいわゆる薄味な個所は皆無。

いかなる音型にも、独特の豊かなニュアンス、奥深い情感が込められていると言えるところだ。

それでいて、底流に熱い魂があり、大きな構えで、余裕をもった恰幅の良い演奏でもある。

技術的にも何らの問題がないところであり、随所に研ぎ澄まされた技巧を垣間見せるが、いささかも技術偏重には陥っておらず、常に内容の豊かさ、彫りの深さを失っていないのが見事であり、知情兼備の演奏であると言っても過言ではあるまい。

総括すれば、いい意味での剛柔のバランスのとれた演奏というのが、ゲルバーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏であると言えるところであり、ドイツ正統派の伝統的な演奏様式に、現代的なセンスをも兼ね合わせた、まさに現代におけるベートーヴェンのピアノ・ソナタ演奏の理想像の具現化と評価し得ると考えられるところだ。

いずれにしても、本盤の各楽曲の演奏は、ゲルバーならではの素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

音質については、従来CD盤でも1990年前後のスタジオ録音ということもあって、比較的満足できる音質である。

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2015年06月03日


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旧東独の鬼才、ヘルベルト・ケーゲルの最晩年、1987年7月31日に演奏されたステレオ・ライヴ録音。

曲開始早々、ケーゲルの気合いの入ったと思われる床に足を踏み込む音がドンドンと響く。

旋律といい、間のとり方といい、楽器の使い方といい、今まで聴けたことのない音がとにかくいろいろと聴こえてくるのである。

ティンパニの打音が、雷鳴のごとく響いて前面に出てくることといい、他楽器のパートもメリハリの利いた歌い方をしているのもやたら耳に届くが、これが不思議と異和感もなく楽しみながら鑑賞できるのである。

その後も明暗が入れ替わり立ち替わり現れる曲想の、暗の部分を、テンポを落としてじっくりと聴かせるところは、大変に充実感があり、また、そういうところの、弱音に素晴らしい味わいがあるわけだ。

対するに明の部分は決して燦然たる白熱の演奏ではないのだが、残念ながら、それに不満を感じるほど、私たちは能天気な時代に生きてもいない。

ベートーヴェンも政治の反動のなかでこの曲を書いたのだし、安倍政権の今日を生きる私たちもしかり。

もっと驚くのは、終楽章の最初のバリトンのソロが伸びやかで長く、ストレスを感じさせず何ともおおらかに開放的に歌われ出すことである。

これは、「第9」では初めての経験で非常に新鮮な展開であり、これはいい、と即座に納得した。

その後、合唱が意表をつくスローテンポで制御され、せかせかした感じがなくて非常に聴き易い。

この終楽章の演奏を、カンタータ的と評する人もいて、確かに、従来の型に全くはまらない合唱であるが、妙に説得力を感じさせる演奏となっている。

ともかく、筆者はこのフィナーレを聴きながら随所で驚きに打たれ、巻き戻しては聴き直した。

「第9」を食傷するほど聴いた私たちに、これほどまでに不意打ちを食わせる演奏はなかなかないことは確実だ。

曲が終わって、筆者の心配をよそに聴衆にも理解された様子で、拍手は盛大だ。

ケーゲルは、「お祭り騒ぎ的な『第9』が嫌いだ」と言っていたらしいが、なるほど、この「第9」は、彼が長い間構想を暖め考え抜いたあげくの「第9」の演奏と印象する。

出来上がりすぎてしまった大堂伽藍ではなく、生身で宇宙の嵐に身をさらす趣きがあり、宮澤賢治が魔物が現れてくると表現し、ミハイル・バクーニンが、全世界が滅ぶとも第9交響曲だけは救い出さなければならないと言ったものが、ここに感じられるようだ。

そして、筆者自身も、この演奏に大いに共感を覚えるようになった。

これは、従来の「第9」が、見え透いて軽く聴えてしまうようになる恐るベきチャレンジ演奏であると言っていい。

この演奏のユニークさ、あえて言うなら奇異は、ケーゲルが作品の内容を追いつめていった結果生まれたものに他ならない。

一見奇妙な解釈には合理的な訳があり、なぜこのような演奏になったのか、それをじっくり考えれば、私たちの「第9」理解はいっそう深まるに違いない。

べートーヴェンがどういう「第9」の演奏を求めていたかについて、従来の、フルトヴェングラーを筆頭に固定観念化されたスタイルについて、深く考え直させる機会を与える意義深い内容の演奏だ。

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2015年06月01日


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チェコの名指揮者であったノイマンの得意のレパートリーは、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコの作曲家による楽曲や、ボヘミア地方で生まれたマーラー(チェコ出身の指揮者はそれを誇りとし、クーベリックや近年のマーツァルなど、チェコ出身の指揮者には、マーラーをレパートリーとした者が多い)の交響曲であった(ノイマンはドヴォルザークとマーラーについては交響曲全集を遺した)。

ノイマンはそれ以外の楽曲、意外に少ないとは言え、とりわけベートーヴェンの楽曲についてはなかなかの名演奏を遺しており、最晩年に録音された序曲集はノイマンによる遺言とも言うべき至高の名演であったことは記憶に新しいところだ。

本盤に収められたベートーヴェンの交響曲第9番は、そうしたノイマンの得意としたレパートリーの1つと言えるところであり、ベートーヴェンにも優れた解釈を示してきたノイマンの数少ない録音の1つとしても貴重である。

ノイマンは同曲を1989年に民主化の喜びに沸く「市民フォーラム」支援のためにプラハで開かれたライヴ録音も遺しているが、本盤に収められた演奏は、それから13年前の1976年に東京文化会館で行われた来日公演の記録で、非常に完成度が高く充実した演奏である。

改めて言うまでもないが、ノイマンによる本演奏は、聴き手を驚かすような奇を衒った解釈を施しているわけではない。

楽想を精緻に、そして丁寧に描き出して行くというオーソドックスなアプローチに徹していると言えるところであり、それはあたかもノイマンの温厚篤実な人柄をあらわしているかのようであるとも言える。

もちろん、ノイマンの演奏が穏健一辺倒のものではないという点についても指摘しておかなければならないところであり、ベートーヴェンの楽曲に特有の強靭にして力強い迫力においてもいささかも不足はない。

それでいて、無機的で力づくの強引な演奏など薬にしたくもなく、常に奥行きのある音が鳴っており、ベートーヴェンの楽曲を単なる威圧の対象として演奏するという愚には陥っていない。

豊かな抒情に満ち溢れた情感豊かな表現も随所に聴かれるところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた演奏に仕上がっているとも言えるところだ。

ノイマンの解釈は極めて端正・精緻であり、一点の曇りも感じさせず、しかも悠然としていて、表面的効果を狙わず、どの部分をとっても安定感があり、堅固で気品がある。

これは、あらゆる「第9」解釈の原点、というより「第9」の原像そのものと言って良く、基本的にノイマン&チェコ・フィル演奏の基本特徴である端正で透明感のある響きはそのままに、ノイマンは高揚感を抑えて端正な演奏を聴かせる。

基本的に落ち着いた堂々たる旧スタイルのベートーヴェン演奏で、すっきりとしたいつものノイマンの基本線は変らないが、やはりライヴだけあってかなり燃えているのがよくわかる。

第1楽章は堂々とした力感と重量感を表し、第2楽章はきめ細かく、軽やかなリズムの端正な表現である。

第3楽章も穏やかな淡々とした表現が美しい流動感を作り、終楽章では合唱が熱気にあふれ、自ずと音楽を盛り上げている。

響きに厚みと勢いがあり、独唱・合唱もすぐれていて、ライヴならではの迫力にも満ちている。

聴き手によっては、ベートーヴェンの「第9」だけに、よりドラマティックな表現を期待する人も多いとは思うが、聴けば聴くほどに味わい深さが滲み出てくる、いわばいぶし銀の魅力を有する本演奏は、ノイマンならではの大人の指揮芸術の粋とも言えるところであり、筆者としてはノイマン最盛期の名演の1つと高く評価したいと考える。

当時、一流の弦セクション及びブラスセクションを擁していたチェコ・フィルの演奏も秀逸であり、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2015年05月31日


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本盤に収められたチェリビダッケ&ミュンヘン・フィルによるベートーヴェンの交響曲第5番は、ちょっと信じがたい演奏である。

特に第1、4楽章は、比較できるどころか、足下に及ぶものすらないユニークさだ。

もしこれを聴くのなら、フルトヴェングラーやクレンペラーや、さまざまな指揮者たちの仕事を聴いたあとのほうがよい。

なぜなら、最初にこれを聴いてしまうと、おそらくほかのものが受け付けられなくなるからだ。

それだけの強烈な魅力というか、毒があるというか、耳に残留してしまう演奏なのである。

交響曲第5番は、有名なダダダダーンという4つの音で開始されるが、ベートーヴェンはこの4つの音を第1楽章だけでなく、以後の楽章でも用いた。

たとえるなら、事件が起きるときには必ず裏で糸を引いている秘密結社があるとするなら、この秘密結社に相当するのがこの4つの音なのだ。

チェリビダッケが行ったのは、この秘密結社が曲の中でどうあちこちにばらまかれ、隠され、ひそかに活躍しているかを明らかにするという徹底的な調査であり検証であり、もしかすると(筆者は「きっと」だと思うが)摘発だったのである。

この演奏で聴くと、今まで気づかなかったが、曲のあちこちに4つの音が配置されていることがわかる。

4つの音が有機的に絡み合い、そして残りの楽章全体を支配していることが如実に表されている。

第1楽章は、普通音楽を聴く者が求める感動だとか興奮だとか高揚というものからは遠い。

チェリビダッケは、人を興奮させる演説がどのように書かれているか、どのような仕組みでできているのかを指摘しているのだ。

過激なまでの分析である。

4つの音だけでなく、普通の演奏では背景に埋もれ寝ころんでいたもろもろの音が立ち上がって、聴き手のほうに接近してくるのだ。

その様子は初めて聴くとき、薄気味悪ささえするだろう。

そして、ここまで暴露され、裸にされてしまうと、曲がまるで恥ずかしがっているように聞こえなくもない。

そして、それを聴く者の心中にも何か恥ずかしめいたもの、いたたまれなさが生じてくる。

たとえば、私がある女の子を口説きたくて、精一杯工夫したラブレターを書いたとする。

第三者がそれを読んで、「あ、おまえ、感激させるために、ここはこう書いただろう」と手口をいちいち指摘するようなものだ。

恥ずかしいに決まっている。

チェリビダッケがベートーヴェンを指揮すると、意識的か無意識的か、この第5番のように曲から距離を置き、醒めた演奏になるのが常だった。

だからベートーヴェンの作品に感激したい人、酔いたい人にはまったく向かない。

第4番も、ベートーヴェンの交響曲の構築性を明確に示すチェリビダッケの最晩年の名演で、指揮者の理念が徹底的に染み込んだ{どこまでも深い}演奏だ。

ライヴでこの水準、いやライヴだからこその水準と言い直すべきだろう。

オケがチェリビダッケの意を汲み、献身的に寄り添っているのも特筆すべきだ。

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2015年05月28日


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一時は絶滅の危機に瀕したSACDが息を吹き返しつつある。

SACDから撤退していたユニバーサルが2010年よりSACDの発売を再開するとともに、2011年になってついにEMIがSACDの発売を開始したからだ。

2009末にESOTERICから発売されたショルティ&ウィーン・フィルによるワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」のSACD盤が飛ぶように売れたことからもわかるように、ガラスCDのような常識を外れた価格でさえなければ、少々高額であっても、かつての良質のアナログLPにも比肩し得る高音質のSACDは売れるのである。

最近は、オクタヴィアがややSACDに及び腰になりつつあるのは問題であるが、いずれにしても、大手メーカーによる昨年来のSACD発売の動きに対しては大きな拍手を送りたいと考えている。

そして、今般、ターラレーベルがフルトヴェングラーの過去の遺産のSACD化を開始したということは、SACDの更なる普及を促進するものとして大いに歓迎したい。

ターラレーベルからは、既にフルトヴェングラー&フィルハーモニア管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲第9番(1954年)がSACD化されている(既にレビュー投稿済み)ので、本盤に収められたいわゆる「ウラニアのエロイカ」は、ターラレーベルによるSACD第2弾ということになる。

フルトヴェングラーによる「エロイカ」については、かなり多くの録音が遺されており、音質面を考慮に入れなければいずれ劣らぬ名演であると言えるが、最高峰の名演は本盤に収められた「ウラニアのエロイカ」(1944年)と1952年のスタジオ録音であるというのは論を待たないところだ。

1952年盤が荘重なインテンポによる彫りの深い名演であるのに対して、本盤の演奏は、いかにも実演のフルトヴェングラーならではのドラマティックな名演であると言える。

第1楽章からして、緩急自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして大胆なアッチェレランドを駆使するなど、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を展開している。

第2楽章の情感のこもった歌い方には底知れぬ深みを感じさせるし、終楽章の終結部に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力は、我々聴き手の肺腑を打つだけの圧倒的な迫力を誇っている。

このように、本演奏と1952年盤は同じ指揮者による演奏とは思えないような対照的な名演であると言えるが、音楽の内容の精神的な深みを徹底して追求していこうというアプローチにおいては共通している。

ただ、音質が今一つ良くないのがフルトヴェングラーの「エロイカ」の最大の問題であったのだが、1952年盤については2011年1月、EMIがSACD化を行ったことによって信じ難いような良好な音質に蘇ったところであり、長年の渇きが癒されることになった。

他方、本演奏については、これまではオーパスによる復刻盤がベストの音質であったが、1952年盤がSACD化された今となっては、とても満足できる音質とは言い難いものがあった。

ところが、今般のターラレーベルによるSACD化によって、さすがに1952年盤ほどではないものの、オーパスなどのこれまでの復刻CDとは次元の異なる良好な音質に生まれ変わったと言える。

いずれにしても、「ウラニアのエロイカ」をこのような高音質SACDで聴くことができる喜びを大いに噛み締めたい。

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