ベートーヴェン
2023年03月03日
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フルトヴェングラー56歳の時のライヴ録音だけに、若々しく、アゴーギクの様相にはこの指揮者ならではのものがある。
テンポに一貫した緊迫感があり、素晴らしく生命力の横溢した表現で、創意豊かな気迫に満ちた「第9」だ。
ベルリン盤と有名なバイロイト盤との間には10年近い歳月が流れ、ドイツの壊滅と裁判による演奏停止期さえ含まれているが、スタイルにはほとんど変化がなく、細部の表現に至るまで、驚くほど似ている。
たとえばベルリン盤の第1楽章と第3楽章の遅いテンポ、雄大なスケールは、すでに1951年盤のそれと同一であって、これはフルトヴェングラーとしても異例のことである。
「第9」に関する限り、フルトヴェングラーは1940年代の初めから、彼の最後期のスタイルを獲得していたのであった。
とはいえ、ベルリン盤とバイロイト盤を比べると、スタイルは同じでも内容の深さはかなり違う。
バイロイト盤の、あたかも永遠を想わせるような、無限の彼方にまで拡がってゆく精神の深みは、ベルリン盤にはまだ見られない。
その代わり、ベルリン盤の良さは直接的な迫力、若々しい生命力とダイナミズムにあるだろう。
ことにティンパニストが決めどころに見せる死んだ気の最強打は、時に聴く者の肺腑を抉る(第1楽章の再現部冒頭が最も良い例と言えよう)。
フルトヴェングラーの解釈で気になるのは、終楽章で歓喜の主題が低弦から静かに湧き上がる直前の2つの和音をスタッカートにしている点で、これはバイロイト盤のように楽譜通り四分音符を充分にのばしたほうが良い。
またテノール独唱に伴う行進曲が始まる前の“vor Gott”のフェルマータはバイロイト盤より長いが、聴いた感じはもう一つ効果的でない。
バイロイト盤ではフェルマータを切る前にクレッシェンドを掛けるのだが、これが効いているのである。
テノール独唱に男声合唱が加わる途中から凄まじいアッチェレランドを掛けるやり方はバイロイト盤には見られぬもので、何度聴いても興奮させられるが、その結果、次のオーケストラだけのフガートが速くなりすぎてしまうのは、実演ならではのミスであろう。
また第3楽章のコーダに近い金管の警告の直前で、第2ホルンが上行音型を1拍早く吹いてしまうのは、フルトヴェングラーもさぞかしびっくりしたに違いない。
次にバイロイト盤を上回る個所を挙げておこう。
第1楽章の再現部以降の味の濃さと迫力、第4楽章の終結の2ヵ所で、このあたりはやはり寄せ集めのバイロイトのオケと、手兵のベルリン・フィルとの差が出ている。
後者など、あの速いテンポにオーケストラが一糸乱れずついてゆき、最後の5つの音符をティンパニストが見事に決めるのである。
もう1つ、同じ楽章のアンダンテ・マエストーソの部分で、男声のユニゾンが歌う“ein lieder Vater wohnen”のディミヌエンドと音色の懐かしさは、バイロイト盤やストックホルム盤ではこれほど巧くいっていない。
この部分、ほどんどの指揮者はフォルティッシモの指定のままどならせてしまうが、それではこの言葉の意味は生かされない。
筆者の知る限り、メンゲルベルクとフルトヴェングラーだけが、父なる主のいます星の彼方に想いを寄せているのである。
この1942年盤は、メロディア盤や仏ターラ盤、最近ではグランドスラムによる復刻盤などでも聴けるが、本アルトゥス盤とそれらとは音の明快さが雲泥の相違で、バイロイト盤と並んでどうしても持っていたいCDとなった。
なお、この演奏は3月22日のベルリン・フィル定期ではなく、4月19日に行われたヒトラー誕生日祝賀コンサートのライヴではないかという意見もあることを付記しておく。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2023年02月28日
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ムラヴィンスキー初来日時(1973年)の衝撃のライヴ録音で、異常とも言える緊迫感で演奏した貴重な記録である。
ムラヴィンスキーの初来日公演は、日本の音楽関係者に大きな衝撃を与え、特にベートーヴェン「第4」での非ドイツ的アプローチによる凄まじい演奏は語り草になっている。
本盤のベートーヴェン「第4」は、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの黄金コンビの凄まじさを存分に味わうことが出来る超名演と高く評価したい。
ムラヴィンスキーのCDは、DGにスタジオ録音したチャイコフスキーの後期3大交響曲を除くと、録音状態が芳しくないのが難点であった。
本盤は信じられないような鮮明な音質であり、これにより、ムラヴィンスキーの透徹したアプローチを存分に味わうことが出来るようになったのは、実に幸運の極みと言える。
この録音は以前ロシアン・ディスクから粗悪な音質でCD化されていたが、今回はNHKに保管されていたマスター・テープを使用し、入念なデジタル・リマスタリングを施した結果、ムラヴィンスキーの全CD中屈指と言える鮮明な音質に仕上がった。
ムラヴィンスキーのベートーヴェン「第4」は、理論的な音楽の造形が明快で、ここまでくると気持ちいい。
第1楽章の冒頭のややゆったりとした序奏部を経ると、終楽章に至るまで疾風の如きハイテンポで疾走する。
ここはテヌートをかけた方がいいと思われる箇所も素っ気なく演奏するなど、全くといいほど飾り気のない演奏であるが、どの箇所をとっても絶妙な繊細なニュアンスに満ち満ちている。
切れ味鋭いアタックも衝撃的であり、ムラヴィンスキーによって鍛え抜かれたレニングラード・フィルの鉄壁のアンサンブルも驚異の一言である。
各奏者とも抜群の巧さを披露しているが、特に、終楽章のファゴットの快速のタンギングの完璧な吹奏は、空前絶後の凄まじさだ。
同様のタイプの演奏としてクライバーの名演(バイエルン国立管弦楽団とのライヴ録音(オルフェオのSACD盤))もあるが、内容の彫りの深さにおいて、ムラヴィンスキーには到底太刀打ちできるものではないと思われる。
アンコールの2曲は、この黄金コンビの自家薬籠中の曲だけに、全く隙のないアンサンブルを披露しており、そうした鉄壁のアンサンブルをベースとした圧倒的な迫力と繊細な抒情が見事にマッチングした超名演だ。
このCDの価値を高めているのは、NHKによる良心的な録音、及びアルトゥスによる優れたリマスタリングにもよる。
会場ノイズを除去しすぎることもなく、徒らな効果も狙うこともなく、きわめて真っ当な音で勝負してくれたのが、何よりありがたい。
このような中で、今般、待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。
音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。
まさにムラヴィンスキーの芸術を知る上で欠く事のできない名SACDの登場と言えるだろう。
いずれにしても、ムラヴィンスキーによる圧倒的な超名演を現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
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1960年、ウィーンでのライヴ録音であるが、本全集より少し以前のスタジオ録音による全集に優るとも劣らぬクレンペラーならではのスケール雄大な名演と高く評価したい。
本全集は、クレンペラーの芸術が完成期を迎える時期の録音であるが、ここでは、晩年のクレンペラーの堂々たる至芸を味わうことが可能である。
クレンペラーのスケール雄大な演奏スタイルが確立したのは1960年代に入ってからというのが一般的な見方であるが、本全集は、そのような演奏スタイルを見せるようになってきたと言えるものがある。
「第1」など、誰よりもテンポが遅いが、何にも邪魔をされることがない悠々たる進行は、まさに巨象が大地を踏みしめるが如き重量感に満ち溢れているが、それでいて、ウドの大木に陥ることなく、随所に聴かれる情感の豊かさも聴きものだ。
「第2」も、テンポも非常にゆったりとしたものであるが、それ故に、ベートーヴェンがスコアに記した音符の1つ1つを徹底的に鳴らし切り、あたかも重戦車の進軍のような重量感溢れる力強い演奏に仕立て上げたのは、さすがの至芸という他はない。
ベートーヴェンの交響曲の演奏スタイルとして、偶数番の交響曲は柔和に行うとの考えも一部にあるが、クレンペラーにはそのような考えは薬にしたくもなく、「エロイカ」や「第5」に行うようなアプローチで「第2」に臨むことによって、同曲をスケール雄大な大交響曲に構築していった点を高く評価すべきであろう。
「エロイカ」には、フルトヴェングラー&ウィーン・フィルによる1944年盤(ウラニア)及び1952年盤(EMI)という至高の超名演が存在しており、この2強を超える演奏を成し遂げることは困難を極める(私見ではあるが、この2強を脅かすには、カラヤンのように徹底した音のドラマの構築という、音楽内容の精神的な深みを追求したフルトヴェングラーとは別の土俵で勝負する以外にはないのではないかと考えている)が、クレンペラーによる本演奏は、そのスケールの雄大さや仰ぎ見るような威容、演奏の充実度や重厚さにおいて、前述の2強に肉薄する素晴らしい名演と高く評価したい。
冒頭の2つの和音からして胸にずしりと響いてくるものがある。
その後は微動だにしないゆったりとしたインテンポで曲想を精緻に、そして格調の高さを失うことなく描き出して行く。
クレンペラーは各楽器を力強く演奏させており、いささかも隙間風が吹かない重厚な音楽が紡ぎ出されている。
木管楽器をやや強めに演奏させるのは、いかにもクレンペラーならではのものであるが無機的になることはなく、どこをとっても彫りの深さが健在である。
全体の造型はきわめて堅固であるが、スケールは極大であり、悠揚迫らぬ重量感溢れる音楽が構築されている。
「第4」も、「第2」と同様のアプローチで、スケール雄大な演奏を繰り広げており、特に終楽章は、巨象がのっしのっしと歩くような重厚なド迫力に圧倒される、雄渾の極みとも言うべき至高の超名演だ。
クレンペラーは格調の高さをいささかも損なうことなく、悠揚迫らぬテンポで精緻に楽想を描き出している。
木管楽器を強調するのはクレンペラーならではのユニークなものではあるが、各楽器を力強く演奏させて、いささかも隙間風が吹かない重量感溢れる重厚な音楽が紡ぎだされていく。
ドラマティックな要素などは薬にしたくもなく、微動だにしないインテンポが基調であり、造型は極めて堅固である。
「第5」については、かのフルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる至高の超名演(1947年)とは対照的な演奏であるが、そのスケールの雄大さや巨木のような威容、崇高さにおいては、フルトヴェングラーによる超名演にもいささかも引けを取っていないと高く評価したい。
ゆったりとした微動だにしないインテンポは、沈み込んでいくような趣きがあるが、それでいて、いわゆる「田園」ならではの明瞭さにいささかの不足もない。
むしろ、こうした深みのアプローチが、演奏に潤いとコクを与えている点を見過ごしてはならないであろう。
ワルターやベームの「田園」のような独特の愉悦感や優美さには欠けているかもしれないが、演奏の有する深みにおいては、ワルターやベームといえども一歩譲るだろう。
「第7」も素晴らしい超名演だ。
筆者としては、1968年盤の方をさらに上位に置きたいが、本盤の方もほぼ同格の名演と高く評価したい。
楽曲の進行は殆ど鈍行列車だ。
しかしながら、鈍行列車であるが故に、他の演奏では聴かれないような旋律やニュアンスが完璧に表現されており、踏みしめるような重量感溢れるリズムなど、殆ど人間業とは思えないような圧巻のド迫力だ。
「第8」については、テンポの面だけをとれば、クナッパーツブッシュによる各種の演奏と似通っているとも言えるが、決定的な違いは、本演奏にはクナッパーツブッシュの演奏には存在した遊びの要素が全くないということであろう。
したがって、どこをとってもにこりともしない峻厳な音楽が構築されていくが、その仰ぎ見るような威容や演奏の充実度、立派さにおいては、クレンペラーによる本演奏の方をより上位に置きたいと考える。
このような微動だにしないインテンポによる威風堂々たる重厚なベートーヴェンにはただただ頭を垂れるのみである。
ベートーヴェンの「第9」の名演としては、フルトヴェングラー&バイロイト祝祭管弦楽団によるドラマティックな超名演(1951年)の印象があまりにも強烈であるが、当該名演とは対照的に、微動だにしないゆったりとしたインテンポによって曲想を精緻に、そして格調高く描き出しているクレンペラーによる重厚な名演もまた、格別な味わいに満ち溢れている。
クレンペラーは各楽器を力強く演奏させており、とりわけ木管楽器をやや強めにするのはユニークであるが、いささかも無機的な演奏に陥ることがなく、どこをとっても彫りの深い音楽が紡ぎ出されていく。
巧言令色などとは全く無縁であり、飾り気が全くない微笑まない音楽であるが、これはまさに質実剛健な音楽と言えるのではないだろうか。
全体の造型はきわめて堅固であるがスケールは極大であり、いずれにしても、本演奏は、前述のフルトヴェングラーによる名演も含め、古今東西の様々な指揮者による名演の中でも、最も峻厳で剛毅な名演と高く評価したい。
最近では、ベートーヴェンの演奏にも、古楽器奏法やピリオド楽器による小編成のオーケストラによる演奏など、軽佻浮薄な演奏が流行であるが、本全集を聴いていると、現代の演奏など、まるで子どものお遊びのように感じてしまう。
それくらい、本全集は、巨木のような大芸術作品と言うことができるだろう。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2023年02月24日
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1977年3月2日 NHKホールに於けるベーム&ウィーン・フィルによるオール・ベートーヴェン・プログラムのコンサートの記録である。
「田園」が白眉だ。
当コンビは1971年にスタジオ録音しており、既に定評のあるものだったが、こちらでは、さらに音楽に余裕がある。
第1楽章が端正なのは前述の録音と変わらないが、第2楽章が驚くほど陶酔的になっている。
1971年録音が楷書なら、こちらはやや草書に傾いたという感じであり、弦楽器も木管楽器も心ゆくまで歌っていながら崩れず、弱音の陰った響きも実にいい。
第3楽章から第4楽章「嵐」への音楽の急変も、まったく乱暴ではないのに半端でない迫力があって、立派そのもの、雄大そのものだ。
全体が自然に流れつつ、怠惰でも無関心でもなく、姿勢がよく、幸福感があり、オーケストラはひとつの楽器のように鳴っている。
本当によいワインは若いときに飲むと、苦くて、硬くて、愛想が悪いが、適切な熟成を経ると、別物のように柔らかく、やさしく、陶酔的になる。
これはベームとウィーン・フィルの熟成のピークに位置する演奏だったのだろう、完全に熟成を経たワインのように甘みも苦みも香りも渾然一体となっているこんな演奏は、ベームとウィーン・フィルでもなかなかできなかった。
この演奏の魅力のひとつは、闊達に歌うヴァイオリン群にあり、著しく耽美的でありながら気品があって、まさにこれでこそウィーン・フィルという演奏をしている。
当時、ゲルハルト・ヘッツェルという名コンサートマスターがいたからだ。
初心者のために説明すると、コンサートマスターとは、客席から見て、指揮者のすぐ左、最前列に座っているヴァイオリニストで、オーケストラ演奏において非常に重要な役割をしている。
世界で一番うまいと言われるベルリン・フィルですらコンサートマスターが交代するとミスが増えたり、音楽全体の緊張感が落ちてしまったりするのだ。
指揮者との相性も重要で、彼は「ウィーン・フィルにヘッツェルあり」とまで言われた名コンサートマスターであり、ベームとの相性も抜群だった。
彼あってこそ、このあまりに豊穣なヴァイオリン群、否、オーケストラ全体の歌が成立したのである。
残念ながらヘッツェルは山岳事故で急死してしまい、それ以来、ウィーン・フィルは凋落やむなきに至ったのである。
ちなみに同じ時代、カラヤンのベルリン・フィルにはミシェル・シュヴァルベというやはり稀代のコンサートマスターがいて、東西両横綱という感じだった。
もし、この録音にひとつだけ文句を言うとしたら、演奏終了後の拍手があまりにも早すぎるということだ。
まだ最後の音が響いているのに、ひとりのお客が気が狂ったように下品な拍手を始めるので、せっかくの音楽の美しさが台無しだ。
幸いなことに、現在では、日本の聴衆もここまでせっかちでなくなり、演奏後の静寂を味わえる機会も増えた。
いずれにしても、ベーム&ウィーン・フィルによる至高の超名演を、良好な音質で味わうことができるのを喜びたい。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2023年02月23日
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カルロス・クライバーという一代の天才が、まさに「天才児現る」と呼ばれた時代の記念碑として、いつまでも語り継がれる1枚。
「クラシック音楽をこれから聴いてみようか?」という初心者に特にお薦めしたい名盤で、凄く感動するのではないかと思う。
クラシックは人によっていろいろ好みが分かれることが多いが、このクライバーのベートーヴェンは素晴らしいと皆が感じることができるアルバムと言えよう。
これまでに作曲されたもっともポピュラーな、もっとも好まれている交響曲である第5番の模範的な演奏と長いことされてきたこの盤、ここには情熱、厳密さ、ドラマ、抒情的な美しさ、そしてまず出だしの音からして人を興奮させる第1楽章のうねるような激情と、すべてがそろっている。
カルロス・クライバーはその際立って優れたキャリアのなかでレコーディングをあまり行っていないが、レコード化されたものはほとんどすべて格別の出来である。
これには第7番の非常にすばらしい演奏もカップリングされていて、こちらは第5番ほどには人を感動させないが、見事な演奏のひとつであることは間違いない。
出だしからして豪快、第4楽章に至るまで力のこもった躍動的な演奏が続き溜め息が出るし、盛り上げ方が素晴らしい。
本盤に収められた両曲の名演中の名演として、世評が著しく高いだけに、これまで数々の高音質化が試みられてきたが、本盤は、究極の高音質CDとして高く評価したい。
これまで発売された高音質CDとしては、SHM−CD盤、SACDハイブリッド盤、そしてDVD−audio盤があり、特に、後者の2つにはマルチチャンネルが付いていることもあって、臨場感溢れる音質が見事であったが、本盤は、それらを凌駕する高音質と言える。
重量感においてはいささか足りない気もしないではないが、各楽器の分離や鮮明さがダントツに増している。
クライバーは、ダイナミックレンジを幅広くとる指揮者であるが、本盤の場合、通常CDでは殆ど聴き取れないような繊細なピアニッシモから、最強奏のトゥッティに至るまで、完璧に再現されている。
マルチチャンネルは付いていないものの、臨場感においても不足はなく、眼前にクライバーの颯爽とした華麗な指揮ぶりが浮かぶかのようだ。
演奏は、トスカニーニやカラヤンの系列に連なる、いわゆる音のドラマに主眼を置いたものであるが、高音質のスタジオ録音という条件を付ければ、現在においてもなお、トップの座に君臨する名演、名盤と言えるだろう。
ライヴ盤にまで裾野を広げれば、カラヤンの名演(第5番は、先般発売された来日時の1977年盤、第7番は同時期のパレクサ盤)にはさすがに劣るが、それでも、この若武者ならではの勢いのある名演は、いささかの存在価値を失うものではないと考える。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2023年02月21日
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穏健派に磨きがかかってきたハイティンクならではの実に美しいベートーヴェンの交響曲全集だ。
このベートーヴェンでは、響きに潤いのようなものもあり、少しも新しがっていないのにフレッシュな音楽になっている。
老いてますます盛んという言葉が当てはまる、しかしみずみずしくさわやかな解釈とも言えよう。
アプローチの仕方は、前2回の全集と基本的には変わらないが、「何も足さない。何も引かない。」と言った風情で、音楽的な純度が一段と高まっている。
ハイティンクが演奏の際に最も気を配る事の1つとして、楽器のバランスを挙げている。
室内楽的なアプローチとバービカンホールの残響を考えた結果、音が濁ったり、壊れたりする事を避けたくてこのような演奏スタイルになったのであろう。
これほどわめいたり咆哮したりしないベートーヴェンというのはなかなか類例は見ないのではなかろうか。
もちろん、ベートーヴェンを威圧の対象にするのはいかがとも思うが、しかし、表面的な美しさに終わってしまうのならば、ライバルとなる名演盤がひしめいているだけに、実に退屈な演奏に陥ってしまうという危険性を孕んでいる。
そして、ハイティンクは、その危険性の落とし穴にはまってしまった。
全集の中で、少し評価できるのは、「第1」、「第2」、「第6」とトリプルコンチェルトのみだ。
特に、「第6」は、穏健派のハイティンクとの相性は決して悪くなく、「田園」という曲の優美さが聴き手によく伝わってくる。
「第1」や「第2」、そしてトリプルコンチェルトは、ベストの演奏とは到底言えないものの、緩徐楽章などにはそれなりの感動がある。
しかし、その他の曲は、表層的な美しさだけが際立つ実に浅薄な凡演だ。
特に、「第3」、「第5」、「第7」など、根源的な力強さに全く欠けている。
「第9」も、あまりの軟弱さのため、最後まで聴きとおすのが実に辛かった。
ロンドンのバービカンホールは残響がデッドなのだが、楽器がよく分離されており、音がよく澄んで聴こえる。
この録音にはかえってプラスに働いたように感じたが、SACDマルチチャンネルによる高音質録音も、再生装置の善し悪しによって聴く側の印象はかなり変わるような気がするし、虚しく聴こえたのは大変残念だ。
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2023年02月09日
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実力派のベートーヴェン弾きとしての長い演奏経験を踏まえた、きわめて知的なベートーヴェン解釈が、はっきり表面に打ち出されている。
アンドレ・ド・フロートは若い頃からソロだけでなく、アンサンブルや伴奏の分野でも幅広く活動を続けてきた。
そうした活動が、客観的な、しかし一方では豊かで自在なニュアンスを含んだ独自のベートーヴェン像を実現させた。
しっかりした音楽構成と迷いの無い確信に満ちたタッチ、そして堂々たるダイナミズムで大家の風格を感じさせる価値の高いソナタ全曲集だ。
ソナタ全曲は、彼が楽譜の背面までも読みつくしながら、決してベートーヴェン以外の何ものの介入も許さぬ厳正さと謙虚さをもった姿勢を貫いていることを思わせている。
32のソナタの全体が人間の性格と心理、感情と理念の総覧、あるいは人間というものの内的な在りようの集大成として大きな宇宙を構築している。
ベートーヴェンという作曲家はかくも繊細で柔軟で敏捷に動く心の持ち主だったのかと改めて驚嘆させられる。
ベートーヴェンは、決して一枚岩の強固な精神で押しまくっていたわけではない。
フロートのソナタ演奏はベートーヴェンの内面の深くも多彩なカレイドスコープを見事なまでに明らかにしてくれているのである。
むろん、奇を衒った表現ではなく、音楽的にも技術的にも安定した深みのある演奏が秀逸だ。
フロートは余分なものを一切付け加えず、あくまで作品そのものに語らせようとする。
そのための知と情のコントロールも見事だ。
その結果聴かれるのは、端正でバランスに優れ、しかも深い楽譜の読みと端正なテクニックの行使に支えられた説得力あふれる演奏である。
眼前の楽譜を論理的・分析的に読みとり、それに基づいてベートーヴェンを論理的に構築しようという確信が、彼を支えている。
どの曲の演奏も音楽の呼吸が自然で表情に温もりがあり、しかも明晰である。
演奏全体は穏健であり、誰でも抵抗なく受け入れられる伝統的なベートーヴェン解釈である。
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室内楽録音の金字塔とも言われるスメタナ四重奏団のベートーヴェン全集から、中期傑作の森の2曲という白眉の1枚。
スメタナ四重奏団によって、1970年代から1980年代初めにかけて完成されたベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集は、恐るべき凝縮力による緊密なアンサンブルによるベートーヴェン演奏の不滅の金字塔として名演の誉れが高い。
その中で、後期の弦楽四重奏曲(第11〜16番)は、名演ではあるものの、スメタナ四重奏団が必ずしもベストというわけではない。
かつてのカペー四重奏団から始まって、引退してしまったもののアルバン・ベルク四重奏団など、海千山千の四重奏団が個性的な名演を繰り広げている。
より音楽的に内容の深いこれら後期の作品では、どうしても、そうした個性的な演奏の方に軍配が上がるからである。
それに対して、初期や、本盤に収められた第9番や第10番を含む中期の弦楽四重奏曲では、スメタナ四重奏団のような自然体の純音楽的アプローチは、抜群の威力を発揮する。
本盤の第9番や第10番も、おそらくはこれら両曲のトップの座を争う名演と高く評価したい。
一昔前は最高の弦楽四重奏団と言われた彼らの特徴は、暗譜による演奏の自由さにあった。
アンサンブルの緊密さから生まれる迫力は、その後の団体のさめた完璧な技術による響きとはかなり異なるが、いまでは聴くことができなくなった価値を思い知らされる。
4人が完全に一体となって、命を削るかのような集中力をもって音楽に奉仕しているのが、誰にでもはっきりと感得出来る。
スメタナ四重奏団の息のあった絶妙のアンサンブル、そして、いささかもあざとさのない自然体のアプローチは、ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力をダイレクトに聴き手に伝えることに大きく貢献している。
もちろん、自然体といっても、第9番の第1楽章や終楽章などのように重量感溢れる力強さにもいささかの不足はない。
相変らず、キリリとしまった隙のない演奏ぶりであるが、そうした生真面目さの中で、第10番の両端楽章の軽やかさが印象的だ。
特に第1楽章の静かに始まる短調の調べから、長調の美しいピチカートへと移る部分は、このCDの聴きどころのひとつであり、憂いに溢れる第2主題で再び短調に戻る展開も、素晴らしい。
UHQCD化による高音質も極上であり、本名演の価値を大きく高めるのに貢献している。
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2023年02月08日
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タカーチ弦楽四重奏団の評価を決定づけたベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集からの抜粋で、レコード・アカデミー賞受賞盤(中期が2002年第40回、初期が2004年第42回、後期が2005年第43回)。
この団体の強い音楽的個性や主張がアルバム全体を通して終始一貫しており、今尚実に強烈な印象を残すアルバムである。
全体にテンポはやや速めだが、決して軽薄に流れず、むしろメリハリが実に明確で、音楽を絶えず前へ前へと駆動する力に溢れているため、若々しい推進力や軽快な躍動が生まれる。
清新な意気に満ち、強い集中力によって統御された緊張度の高さも素晴らしいが、何よりも一期一会的な完成度の高さが魅力的である。
ベートーヴェンの音楽に内在する可能性を鮮烈に引き出した演奏で、アンサンブルの緊密度や柔軟性、各奏者の技術的、精神的な充実感も並々ならぬ高さにある。
初めて彼らの弦楽四重奏を聴いた時には、例えばOp.95『セリオーソ』の極限まで高揚するようなアグレッシブなアタックや第1ヴァイオリンのスタンド・プレー的な独特のディナーミクにいくらか違和感を持った。
しかし追って聴き込んでいくうちに決して表面的でグロテスクなパフォーマンスではないことに気付いた。
そこには外側に表出されるサウンドの斬新さとは裏腹に曲の内部へ掘り下げていく表現の凝縮を感知させることにも成功しているからだ。
しかも彼らのアンサンブルは精緻を極めていて、4人の士気の高さとともに音色には特有の透明感がある。
個人的には特に後期の作品群が、最も彼らの解釈に相応しいのではないかと思うところで、第13番になると鮮明さを強調しすぎることなく音のバランスが良くなっている。
聴覚を失って音響から切り離された世界で作曲を続けなければならなかったベートーヴェンの境遇を考えれば、どうしてもそこにセンチメンタルな表現を期待しがちだ。
彼らはむしろクールな情熱で弾き切り、清澄だが感傷的なイメージを払拭することによって新時代のベートーヴェン像を見事に描き出しているところが秀逸だ。
改めて感じたのはこの団体は、スピード感、刺激といった現代的なセンスをもちながら、決して優美さを失わない点。
強い表現性をもちながら、知・情・意のバランスの良い全集(廃盤)は筆者の愛聴盤になりそうだ。
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アシュケナージのピアノ、パールマンのヴァイオリン、それにハレルのチェロによる演奏を、現代を代表する名演として推薦したい。
1980年頃、ソリストとして最も人気が高かった3人による演奏だけに聴きごたえがある。
アシュケナージはパールマンと組んで『ベートーヴェン/ヴァイオリン・ソナタ全集』を完成、その後で「大公」を録音した。
ハレルは「大公」の録音後にアシュケナージと組んで『ベートーヴェン/チェロ・ソナタ全集』を完成している。
この3人は、アシュケナージをキーマンにして、ベートーヴェンに積極的に取り組んでいた演奏家たちである。
アシュケナージ=パールマンの二重奏コンビにハレルが加わったこのトリオは、スケールの大きさは感じさせないけれど、なめらかでみずみずしい音楽づくりを特色としている。
3人の名手はそれぞれ、独自のコンセプトの持ち主で、豪快に競い合い、まさにコンチェルトのような派手さを聴かせる。
また同時にインティメート(親密)なアンサンブルも楽しく、室内楽的な親しみも感じさせる。
ベートーヴェンに対してはほぼ同じ考え方をしている3人の、なんともチームワークのよい三重奏である。
おもにピアノのアシュケナージがリードしているが、色彩にとんだ豊麗なパールマンのヴァイオリンともよく溶け合っており、ハレルのチェロも端正で無駄がない。
3人のリズム感も素晴らしく、細部にいたるまでよく神経の行き届いた演奏である。
この3人による演奏はほれこんでしまうような巧さがある。
単にテクニック抜群の3人が集まっているというだけでなく、見事な意思統一があるのだ。
その結果、音楽的にも技術的にも、なんの不安もなしに楽しめる「大公」が生み出された。
「大公」は聴く者に安心感を与えるような、よくまとまった好演で、心に訴えかけるおだやかな情感をたたえていて、さすがと思わせる。
特に第3楽章の変奏曲での緻密な合奏は、美しい効果を発揮していると言える。
協奏曲的に演奏した3名人の共演は、この曲のスタンダードともいうべき、素晴らしい名演になっている。
けれども、ベートーヴェンの気宇広大の表出という点では、多少物足りなさが残る。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2023年02月07日
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ポーランドに生まれ、10代半ばにヨーロッパの音楽都市にあいついでデビューしたシェリングは、パリに本拠を置く間にも、1935年にワルシャワでワルターの指揮によってベートーヴェンの協奏曲で大成功を収めるなど、この作品に早くから深いアプローチをみせていた。
その後の彼が、作曲ばかりか哲学や美学にも研鑽を積み、知的な音楽家としてユニークなキャリアも経たことはよく知られている。
1942年にメキシコに渡り、人道主義、社会奉仕的な精神をもって国際的な活動を重ねた彼の音楽にある高潔さや気品の高さ、厳しい造型と確かな様式感といった特質は、相通ずる面をもつS=イッセルシュテットとの間に美しく昇華している。
シェリングの数ある録音の中でも特にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は優れており、音楽性も高く、この曲のもつ美しさや魅力をたっぷりと味わえる。
シェリングのヴァイオリンはあらゆる意味で模範的と言えよう。
アクが強くなく、真摯な感情がこもっているので、曲の美しさや魅力がまっすぐに伝わってくる。
最も抵抗なく音楽の立派さ、美しさに浸れる名演だ。
とにかくシェリングはヴァイオリニストの存在をまったく忘れさせて、われわれを曲自体に結び付けることによって、音楽自体をたのしめるのである。
それを支えるのが、S=イッセルシュテットで、ハーモニーが立体的で立派さに打たれる。
シンフォニックな立体感は他のすべての指揮者を上回り、それでいて構えた硬さは皆無だ。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2023年02月05日
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進境著しい才色兼備のピアニスト、グリモーのベートーヴェンは、すべてがそろった名演だ。
シュターツカペレ・ドレスデン(指揮者ユロフスキはミスキャストの感は否めない)は世界最古の歴史を誇る伝統のある楽団だけに、その響きは素晴らしく、ことに弦楽合奏の柔らかく味わいのある音色は申し分ない。
まずシュターツカペレ・ドレスデンの出だしのフォルテを聴いてほしい。
これほど威風堂々とした響きは、ほかのオーケストラからはなかなか聴くことのできない、伝統の響きだ。
グリモーもその響きに優るとも劣らない風格をもっており、偉大かつ雄弁に音のひとつひとつを大切に弾いており、音楽が匂い立つようだ。
明るい音色と垢抜けたセンスが快く、タッチは変化に富み、洗練された響きを生み出していて単なる透徹した響きとは違った魅力を発散している。
遅めのテンポが、ソロ、オケ双方に良い効果をあげていて、弦のいぶし銀のような音色と柔らかい響きはグリモーのフレージングに美しい品位を与えている。
第1楽章は音の1粒1粒が大切にされ、ベートーヴェンが何気なく書いた飾りの音型からも新しい意味を掘りおこしてゆく、力強く深々とした表現である。
第2楽章は初めは淡々と弾いてゆくが、途中からにわかに輝きを増し、円熟味のある芸となる。
フィナーレも懐の深い表現で、グリモーとユロフスキの、乗りに乗った白熱的なかけあいが聴きものだ。
《皇帝》はもちろんのこと数多くの演奏家が録音しているが、演奏として心を打つものは意外に少ないように思える。
グリモーの《皇帝》は、様式がそのまま表現になっており、型が崩れないままに、ナイーヴな人間の歌が聴こえてくる。
バックも純ドイツ風で、充実し切った有機的な響きが快く、ふくよかな響きと自然な表現でよくグリモーをサポートしている。
ピアノ・ソナタ第28番は、ピアノのタッチの美しさの光った繊細な演奏であるが、《皇帝》に較べると感銘はやや落ちるようだ。
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2023年02月04日
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巨匠ポリーニの素晴らしい想像力と表現力をもって、ベートーヴェン晩年の独自の世界が見事に表現されている。
作品の本質と情緒を余すところなく引き出した演奏で、熟練の技術を見せつける。
完璧なテクニックと克明をきわめたバランス配分により、構造意識の権化のような凄みあるベートーヴェンを聴かせてきたポリーニ。
今回の後期3大ソナタ集では、ベートーヴェンの晩年の心境を十分に踏まえた、表情豊かな演奏に仕上がっているのがポイントとなっている。
ポリーニ自身、「今の私のベートーヴェンは作品と対峠した歴史と蓄積から生まれたもので、当然刻々と変わってきたものです」と語っている。
構造はもちろん、性格の描き分けにも重きを置いたそのアプローチは、副次パートや微細な部分に至るまで徹底的に練りあげられているのが特徴。
通常のソナタ概念から大きく脱皮した、この特異な作品群の解釈法としてはまさに空前絶後。
晩年のベートーヴェン作品ならではの散文的な音響が、実は非常に高密度な構築性を伴ったものであることを実感させてくれるとても奥の深い演奏である。
若いポリーニは本当に素敵だった。
その斬新さは未だ光を失っていない。
だがここに聴く最近のポリーニは更に素晴らしい。
技巧も十分、スケール大きく、深みと豊かさと温かさに満ちた演奏で、楽聖ベートーヴェンの魅力を明らかにしてくれた。
この成熟こそがポリーニらしさではないだろうか。
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極限まで磨き上げられた完全な技巧と知的な解釈で聴かせてきたポリーニ。
近年ではさらに深化を遂げた表現力によって、ベートーヴェンの作品に込められた心情の推移、詩的な世界を見事に表現し、作品の裏側にある深い情感を見事に描き切って間然とするところがない。
響きが切り立ってピアニスティックに情動を沸き立たせる形ではなく、音色のきらめきを抑え、キメを、ふと抜いて音との距離を作ることで想いの行方を聴き手に預け、内面世界にじっくり誘い込む、語り部ポリーニを印象づける練達の熟演。
ポリーニはレパートリーをある程度限定して、自分で納得できる作品だけを演奏している。
それは生涯変わっていないので、彼から新しいジャンルのレパートリーを聴きたいと思っても叶わない。
特にアンサンブルにはほとんど手を付けないし、これから開拓するとも思えない。
しかしこれらのようにベートーヴェンの哲学的な音楽の思索を再現した演奏は稀だろう。
『ハンマー・クラヴィーア』が、ポリーニの持ち味を最高度に発揮した、忘れることのできない熟演。
このソナタの雄渾な性格を失うことなく、しかもあらゆる音を細密画のごとく丹念に弾きわけるのは極めて難しい。
しかし、ポリーニは心配された技巧の衰えも感じさせず、苦もなくそれを実現してしまう。
彼のスケールの大きさが実感されると同時に、構成家としての一面がくっきり浮かびあがり、鮮烈な印象を与える演奏だ。
ショパンがピアノの詩人なら、ベートーヴェンはさしずめピアノの哲人と言うべきか。
ショパンはピアノという楽器の機能を最大限発揮できる作品を書いたが、ベートーヴェンは、おそらく楽器を超越したところで作曲している。
つまりピアノを考える楽器として扱っている。
そのためにテクニックの華麗さを示すような曲想が主体ではなく、音楽の中に思索が溢れている。
そうした課題にポリーニが挑戦し、ひとつの解決策を提示しているのがこのアルバムだろう。
それゆえ聴き流すことはできない、言ってみれば鑑賞者を拘束する演奏だ。
しかしじっくり聴きたい人には、これほどポリーニのベートーヴェンらしい表現方法も珍しいのではないだろうか。
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2023年02月02日
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ヨッフムが最盛期にEMIにスタジオ録音した名盤の待望の復活を先ずは大いに歓迎したい。
本BOXに収録されているブラームスの交響曲全集及びブルックナーの交響曲全集は既にレビュー投稿済みなので、そちらを参照していただきたい。
手堅い表現で知られたヨッフムは、晩年スケール感を加えて驚くべき境地に達し、80歳を過ぎてからの来日公演におけるブルックナーは忘れえぬ名演だった。
ロンドン交響楽団を率いたベートーヴェンの交響曲全集は、一期一会の崇高な演奏で、中庸にして核心を突く壮年期ならではの才腕が聴き取れる。
ヨッフムというと手堅い演奏で知られているが、この交響曲全集も非常に綿密な演奏で、正確な演奏である。
有名なカラヤン盤と比較すると、テンポも遅めで、演奏も華やかではないが、その簡素な表現と質実剛健とも言える演奏は、むしろ最もオーソドックスなベートーヴェンのスタンダードと言えるものである。
このベートーヴェンも、もう1つのコンセルトヘボウ管弦楽団との全集と同じく、猛々しい部分も凪の部分も、ヨッフム独特の「愛」が感じられる名演である。
近年では、ベートーヴェンの交響曲の演奏様式も当時とは大きく様変わりし、小編成オーケストラのピリオド楽器による演奏や、大編成のオーケストラによるピリオド奏法による演奏などが主流を占めつつあり、いまやかつての大編成のオーケストラによる重厚な演奏を時代遅れとさえ批判するような見解も散見されるところだ。
近年発売されたティーレマン&ウィーン・フィルによるベートーヴェンの交響曲全集は、そうした近年の軽佻浮薄とも言うべき演奏傾向へのアンチテーゼとも言うべき意地の名演であったが、それも少数派。
一部の音楽評論家や音楽の研究者は喜んでいるようであるが、少なくとも、かつての大指揮者による重厚な名演に慣れ親しんできたクラシック音楽ファンからすれば、あまり好ましい傾向とは言えないのではないかとも考えられるところだ。
パーヴォ・ヤルヴィやノリントン、ジンマンなどによって、芸術的にもハイレベルの名演は成し遂げられているとは言えるものの、筆者としては、やはりどこか物足りない気がするのである。
そうした中にあって、ヨッフム&ロンドン交響楽団による演奏を聴くと、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになるのは筆者だけではあるまい。
もちろん、ヨッフムは何か特別な解釈を施しているわけではない。
奇を衒ったようなアプローチは皆無であり、ロンドン交響楽団の幾分くすんだドイツ風の重厚な響きを最大限に生かしつつ、曲想を丁寧に描き出していくというオーソドックスな演奏に徹していると言えるところだ。
もっとも、随所にロマンティシズム溢れる表現や決して急がないテンポによる演奏など、ヨッフムならではの独自の解釈も見られないわけではないが、演奏全体としてはまさにドイツ正統派とも言うべき重厚な演奏に仕上がっていると言えるだろう。
オーケストラの自発性を引き出した柔らかな響きの「田園」や溌剌とした第8番など、偶数番号がなかんずく優れた出来栄えである。
もちろん、ベートーヴェンの交響曲全集にはあまたの個性的な名演があり、特に偶数番号の名演としては、ワルター&コロンビア交響楽団、イッセルシュテット&ウィーン・フィルなどが存在する。
これらと比較すると強烈な個性に乏しいとも言えるが、ベートーヴェンの交響曲の魅力をダイレクトに表現しているという意味においては、本盤のヨッフムによる演奏を素晴らしい名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。
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2023年02月01日
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これは、本UHQ-CD/MQA盤を聴く前までは、評価の難しい演奏であった。
ポリーニの研ぎ澄まされた鋭いタッチ、抜群のテクニックに裏打ちされたポリーニのピアニズムを、未来志向の新しい前衛的な表現と見るのか、それとも技術偏重の無機的な浅薄な表現と見るのかは、聴き手の好みにも大いに左右されるものと考える。
筆者としては、どちらかと言えば、後者の考え方を採りたい。
ベートーヴェン晩年のピアノ・ソナタをポリーニは、一点の曇りもない完璧なテクニックで弾き抜いている。
まさに、唖然とするテクニックと言うべきで、場面によっては、機械じかけのオルゴールのような音色がするほどだ。
このような感情移入の全くない無機的な表現は、ベートーヴェンのもっとも深遠な作品の解釈としては、いささか禁じ手も言うべきアプローチと言えるところであり、筆者としては、聴いていて心を揺さぶられる局面が殆どなかったのが大変残念であった。
他方、これを未来志向の前衛的な解釈という範疇で捉えるという寛容な考え方に立てば、万全とは言えないものの、一定の説得力はあると言うべきなのであろう。
それでも、やはり物足りない、喰い足りないというのが正直なところではないか。
しかしながら、今般、UHQ-CD/MQA盤によって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところであり、本演奏に対する評価についても大きく変更を余儀なくせざるを得ないところだ。
こうして、鮮明かつ臨場感溢れる極上の高音質で聴くと、これまで感情移入の全くない無機的な表現と思われていたポリーニによる本演奏が、実は驚くほどの絶妙なニュアンスや表情づけがなされていることが理解できたところである。
かかるポリーニによる演奏は、未来志向の前衛的な解釈という範疇で捉えることが可能であるとともに、血も涙もない無機的な演奏ではなく、むしろポリーニなりに考え抜かれた懐の深さを伴った演奏と言えるのではないだろうか。
もちろん、バックハウスやケンプなどによる人生の諦観さえ感じさせる彫りの深い至高の名演と比較して云々することは容易であるが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。
いずれにしても、本演奏は、ポリーニの偉大な才能を大いに感じさせる素晴らしい名演と高く評価したい。
それにしても、音質によってこれだけ演奏の印象が変わるというのは殆ど驚異的とも言うべきであり、UHQ-CD/MQA盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。
ポリーニによる素晴らしい名演を極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2023年01月31日
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現代の世界の一流オーケストラは、英国系やイタリア系、ロシアを含めた北欧系の指揮者に席巻されていると言っても過言ではあるまい。
ベームやカラヤンが全盛期を迎えた頃の独墺系の指揮者が大活躍をしていた時代とは隔世の感があると言ってもいいのではないだろうか。
2012年、大往生を遂げたザンデルリンクも2002年には指揮活動から引退していた。
そのような状況の中で、指揮者として壮年期を迎えつつあるドイツ人指揮者ティーレマンにかけられた期待は極めて大きいものと言わざるを得ない。
歌劇場でキャリアを積んできたという経歴も、独墺系の指揮者の伝統に根差したものであり、ティーレマンの今後の更なる発展を大いに期待したい。
ウィーン・フィルは、ベートーヴェンの交響曲全集をこれまでイッセルシュテット(1965〜1969年)、ベーム(1970〜1972年)、バーンスタイン(1977〜1979年)、アバド(1985〜1988年)、ラトル(2002年)、ネルソンス(2017〜2018年)と録音をしてきている。
イッセルシュテット、ベーム、バーンスタインは別格として、アバドやラトルは、ウィーン・フィルとの全集録音後ベルリン・フィルの芸術監督に就任している。
ウィーン・フィルのティーレマンに対する期待を感じさせるとともに、本全集は今後のティーレマンのキャリアアップに繋がる一大エポックメーキングと言えるのではないだろうか。
演奏は、まさに独墺系のかつての大指揮者によるベートーヴェンの交響曲の演奏の伝統に根差した重厚にしてシンフォニックなドイツ色の濃い演奏と言えるところだ。
近年では、ピリオド楽器の活用や、現代楽器を使用した古楽器奏法などが、ベートーヴェンの交響曲の演奏様式の主流になりつつあるが、ティーレマンによる本演奏は、そうした軽佻浮薄な演奏への強烈なアンチテーゼとさえ言えるだろう。
楽譜も、定番化しつつあるベーレンライター版ではなく、旧来のブライトコプフ版を使用するという徹底ぶりであり、将来を嘱望された独墺系の指揮者による意地の名演とさえ言えるところだ。
ウィーン・フィルの各奏者も、ティーレマンの指揮に心から共感して渾身の名演奏を行っているようである。
近年の軽佻浮薄なベートーヴェンの交響曲演奏を苦々しく思っていた聴き手には、まさに一服の清涼剤のように、懐かしき故郷に帰省したような気持ちになると言っても過言ではあるまい。
いずれにしても、本盤に収められた各交響曲の演奏は、決して古色蒼然ではなく、軽佻浮薄な風潮に毒されているが故に存在意義が極めて大きい、そして、むしろ新鮮ささえ感じさせる素晴らしい名演と高く評価したい。
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2023年01月27日
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ミサ・ソレムニスは交響曲第9番と並ぶベートーヴェンの最高傑作であるが、交響曲第9番には若干の親しみやすさがあるのに対して、晦渋な箇所も多く、容易には聴き手を寄せ付けないような峻厳さがあると言えるだろう。
したがって、生半可な指揮では、名演など到底望むべくもないと考えられる。
同曲には、クレンペラーのほか、ワルターやトスカニーニ、そしてカラヤンやバーンスタインなどの名演も存在しているが、クレンペラーによる本演奏こそは、同曲のあらゆる名演に冠絶する至高の超名演と高く評価したい。
なお、クレンペラーは、その芸風が同曲と符号しているせいか、同曲の録音を本演奏のほか、ウィーン響(1951年)、ケルン放送響(1955年ライヴ)及びフィルハーモニア管(1963年ライヴ)との演奏の4種類遺しているが、音質面などを総合的に考慮すれば、本演奏の優位は動かないものと考える。
クレンペラーは悠揚迫らぬテンポを基調にして、曲想を精緻に真摯に、そして重厚に描き出している。
そして、ここぞというときの強靭な迫力は、我々聴き手の度肝を抜くのに十分な圧倒的な迫力を誇っている。
演奏全体の様相としては、奇を衒うことは薬にしたくもなく、飾り気などまるでない演奏であり、質実剛健そのものの演奏と言っても過言ではあるまい。
もっとも、同曲の壮麗さは見事なまでに描出されており、その仰ぎ見るような威容は、聴き手の居住まいを正さずにはいられないほどである。
かかる格調が高く、なおかつ堅固な造型の中にもスケールの雄渾さを兼ね備えた彫りの深い演奏は、巨匠クレンペラーだけに可能な圧巻の至芸と言えるところであり、その音楽は、神々しささえ感じさせるほどの崇高さを湛えているとさえ言える。
例によって、木管楽器の生かし方もクレンペラーならではのものであるが、それが演奏に独特の豊かなニュアンスを付加するのに大きく貢献している点も忘れてはならない。
独唱陣も素晴らしい歌唱を披露しており、クレンペラーの確かな統率の下、最高のパフォーマンスを行っているニュー・フィルハーモニア管弦楽団及び同合唱団に対しても大きな拍手を送りたい。
音質は、従来CD盤では高音域が若干歪むのが大いに問題であり、これは同時期のEMIの大編成の合唱曲の録音に多く見られる由々しき傾向であると言えるところだ(例えば、ジュリーニがフィルハーモニア管弦楽団ほかを指揮してスタジオ録音を行ったヴェルディのレクイエムなど)。
したがって、その後リマスタリングされた従来CD盤を聴いても、その不満が解消されることは殆どなかったが、先般、待望のハイブリッドSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところである。
そして、今般のシングルレイヤーによるSACD盤は、当該ハイブリッドSACD盤を遥かに凌駕していると評しても過言ではあるまい。
音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてシングルレイヤーによるSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。
いずれにしても、クレンペラーによる至高の超名演を、超高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2023年01月18日
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ラトルが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任する頃に、ウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集。
筆者は、どうもこの当時のラトルをあまり評価できずに今日に至っている。
バーミンガム市響(一部はフィルハーモニア管)と数々の録音を行っていた若き日のラトルは、生命力に満ち溢れた名演の数々を生み出して素晴らしい。
ここ数年のラトルも、大指揮者の風格を漂わせた円熟の名演を聴かせるようになっており、これまた高く評価している。
しかしながら、ベルリン・フィル就任後数年間は、気負いもあったのだとは思うが、意欲が空回りするケースが多く、数々の凡打を繰り返していたのではないかと思う。
このベートーヴェンの全集も、筆者は、筋の通っていない演奏であると考えている。
各交響曲によってアプローチの仕方が全く変わるのだ。
とある音楽評論家は「ラトルの鋭い読みとともに、深く豊かな想念が随所にあらわれている。みずみずしい感性による創造的な解釈と演奏である」と評価されている。
確かにそうしたやり方もあるのかもしれないが、筆者に言わせれば、ラトルのベートーヴェンの交響曲に対する考え方、見解が固まっていないのではないかと思われる。
一例を挙げれば、「第9」も、総体としては巨匠風のアプローチだ。
しかしながら、終楽章の合唱(特に終結部)に見られるような不自然なアクセントなど、見方によっては個性的とも言える。
筆者に言わせれば、単なる恣意的なあざとさしか感じさせず、伴奏のオーケストラともども脂っこい力唱、力奏が目立つ。
新機軸を打ち出そうという焦りなのかもしれないが、少なくとも芸術性からは程遠いと言える。
もちろん、筆者は、ラトルの才能など微塵も疑っていない。
その後、ベルリン・フィルとベートーヴェンの交響曲全集を録音したが、素晴らしい名演を成し遂げている。
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2023年01月14日
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本盤には、バックハウスが録音した最初のモノラル録音のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集から抜粋した有名な3曲が収められている。
いずれも神々しささえ感じさせるような至高の超名演だ。
本盤の3曲については既に録音から60年以上経過しており、単純に技量面だけに着目すれば更に優れた演奏も数多く生み出されてはいるが、その音楽内容の精神的な深みにおいては、今なお本演奏を凌駕するものがあらわれていないというのは殆ど驚異的ですらある。
まさに本演奏こそは、例えばベートーヴェンの交響曲などでのフルトヴェングラーによる演奏と同様に、ドイツ音楽の精神的な神髄を描出するフラッグシップの役割を担っているとさえ言えるだろう。
バックハウスのピアノはいささかも奇を衒うことなく、悠揚迫らぬテンポで曲想を描き出していくというものだ。
飾り気など薬にしたくもなく、聴き手に微笑みかけることなど皆無であることから、聴きようによっては素っ気なささえ感じさせるきらいがないわけではない。
しかしながら、かかる古武士のような演奏には独特の風格があり、各フレーズの端々から滲み出してくる滋味豊かなニュアンスは、奥深い情感に満ち溢れている。
全体の造型はきわめて堅固であり、スケールは雄渾の極み。
その演奏の威容には峻厳たるものがあると言えるところであり、聴き手もただただ居住まいを正さずにはいられないほどだ。
したがって、本演奏を聴く際には、聴く側も相当の気構えを要する。
バックハウスと覇を争ったケンプの名演には、万人に微笑みかけるある種の親しみやすさがあることから、少々体調が悪くてもその魅力を堪能することが可能であるが、バックハウスの場合は、よほど体調が良くないとその魅力を味わうことは困難であるという、容易に人を寄せ付けないような厳しい側面があり、まさに孤高の至芸と言っても過言ではないのではないかとさえ考えられる。
バックハウスとケンプについてはそれぞれに熱烈な信者が存在し、その優劣について論争が続いているが、筆者としてはいずれもベートーヴェンのピアノ・ソナタの至高の名演であり、容易に優劣を付けられるものではないと考えている。
音質は1950年代前半のモノラル録音であるが、英デッカによる高音質であり、従来盤でも十分に満足できるレベルに達している。
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2023年01月12日
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本盤には、ケンプの第1回目のステレオ録音で世界初CD化となる貴重盤が収められている。
いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。
これらの3曲を収めたCDは現在でもかなり数多く存在しており、とりわけテクニックなどにおいては本演奏よりも優れたものが多数あるが、現在においても、本演奏の価値はいささかも色褪せていないと考える。
本演奏におけるケンプのピアノは、いささかも奇を衒うことがない誠実そのものと言える。
ドイツ人ピアニストならではの重厚さも健在であり、全体の造型は極めて堅固である。
また、これらの楽曲を熟知していることに去来する安定感には抜群のものがあり、その穏やかな語り口は朴訥ささえ感じさせるほどだ。
しかしながら、一聴すると何でもないような演奏の各フレーズの端々から漂ってくる滋味に溢れる温かみには抗し難い魅力があると言える。
これは人生の辛酸を舐め尽くした巨匠ケンプだけが成し得た圧巻の至芸と言えるだろう。
同時期に活躍していた同じドイツ人ピアニストとしてバックハウスが存在し、かつては我が国でも両者の演奏の優劣についての論争が繰り広げられたものであった。
現在では、とある影響力の大きい某音楽評論家による酷評によって、ケンプの演奏はバックハウスを引き合いに著しく貶められているところである。
確かに、某音楽評論家が激賞するバックハウスによるベートーヴェンのピアノ・ソナタについてはいずれも素晴らしい名演であり、筆者としてもたまに聴くと深い感動を覚えるのであるが、体調が悪いとあのような峻厳な演奏に聴き疲れすることがあるのも事実である。
これに対して、ケンプの演奏にはそのようなことはなく、どのような体調であっても、安心して音楽そのものの魅力を味わうことができる。
筆者としては、ケンプの滋味豊かな演奏を聴衆への媚びと決めつけ、厳しさだけが芸術を体現するという某音楽評論家の偏向的な見解には到底賛成し兼ねるところである。
ケンプによる名演もバックハウスによる名演もそれぞれに違った魅力があると言えるところであり、両者の演奏に優劣を付けること自体がナンセンスと考えるものである。
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2023年01月11日
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ヴァントが指揮するベートーヴェンの交響曲の演奏の中でも、その芸風に最も適合している楽曲は、本盤に収められた交響曲第1番及び第2番ではないだろうか。
ヴァントによる両曲の録音は、今回で3度目、そして最後のものと言うことになるが、演奏の素晴らしさは頭一つ抜けた存在であると評価したい。
ヴァントによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては、何と言っても1980年代に、手兵北ドイツ放送交響楽団とともにスタジオ録音した唯一の交響曲全集(1984〜1988年)が念頭に浮かぶ。
当該全集以前の1950年代のギュルツェニヒ管弦楽団との演奏も、テスタメントなどによって発掘がなされているが、ヴァントのベートーヴェン演奏の代表盤としての地位にはいさかも揺らぎがない。
しかも、当該全集については、現在では入手難であるが、数年前にSACDハイブリッド盤で発売されたこともあり、ますますその価値を高めていると言っても過言ではあるまい。
これに対して、本盤に収められたベートーヴェンの交響曲第1番及び第2番の演奏は、1997年及び1999年に北ドイツ放送交響楽団とともにライヴ録音したものである。
本演奏と同様に、前述の全集以降は、第3番〜第6番のライヴ録音も行っただけに、残る第7番〜第9番の録音を果たすことなくこの世を去ってしまったのは極めて残念なことであった。
それはさておき、本盤の演奏は素晴らしい名演だ。
前述の全集も、ヴァントの峻厳な芸風があらわれたいかにもドイツ色の濃厚な名演揃いであったが、いささか厳格に過ぎる造型美や剛毅さが際立っているという点もあって、スケールがいささか小さく感じられたり、無骨に過ぎるという欠点がないとは言えないところだ。
それに対して、本盤の演奏は、おそらくはヴァントの円熟のなせる業であるとも思われるところであるが、全集の演奏と比較すると、堅固な造型の中にも、懐の深さやスケールの雄大さが感じられるところであり、さらにグレードアップした名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。
もちろん、華麗さなどとは無縁の剛毅さや無骨さは相変わらずであるが、それでも一聴すると淡々と流れていく曲想の端々からは、人生の諦観を感じさせるような豊かな情感が滲み出していると言えるところであり、これは、ヴァントが晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのではないかと考えられるところだ。
そして、演奏全体に漂っている古武士のような風格は、まさに晩年のヴァントだけが描出できた崇高な至芸と言える。
本演奏こそは、ヴァントによるベートーヴェンの交響曲第1番及び第2番の最高の名演、さらには、ヴァントによるベートーヴェンの様々な交響曲の演奏の中でも最も優れた至高の超名演と高く評価したい。
音質は、1997年及び1999年のライヴ録音であるだけに、従来CD盤でも十分に満足できる音質であったが、SACD化されたのは何と言う素晴らしいことであろうか。
音質の鮮明さ、音場の幅広さのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。
いずれにしても、ヴァントによる至高の超名演を、SACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2023年01月01日
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ワルターは80歳で現役を引退したが、その後CBSの尽力により専属のオーケストラ、コロンビア交響楽団が結成され、その死に至るまでの間に数々のステレオによる録音が行われたのは何という幸運であったのであろうか。
その中には、ベートーヴェンの交響曲全集も含まれているが、ワルターとともに3大指揮者と称されるフルトヴェングラーやトスカニーニがステレオ録音による全集を遺すことなく鬼籍に入ったことを考えると、一連の録音は演奏の良し悪しは別として貴重な遺産であるとも言える。
当該全集の中でも白眉と言えるのは「第2」と「田園」ではないかと考えられる。
とりわけ、本盤に収められた「田園」については、同じくワルター指揮によるウィーン・フィル盤(1936年)、ベーム&ウィーン・フィル盤(1971年)とともに3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。
本演奏は、どこをとっても優美にして豊かな情感に満ち溢れており、「田園」の魅力を抵抗なく安定した気持ちで満喫させてくれるのが素晴らしい。
オーケストラは、3強の中で唯一ウィーン・フィルではなくコロンビア交響楽団であるが、ワルターの確かな統率の下、ウィーン・フィルにも匹敵するような美しさの極みとも言うべき名演奏を披露している。
スケールの大きさにおいては、ベーム盤に一歩譲ると思われるが、楽曲全体を貫く詩情の味わい深さにおいては、本演奏が随一と言っても過言ではあるまい。
もっとも、第4楽章の強靭さは相当な迫力を誇っており、必ずしも優美さ一辺倒の単調な演奏に陥っていない点も指摘しておきたい。
なお、ワルターによる1936年盤は録音の劣悪さが問題であったが、数年前にオーパスによって素晴らしい音質に復刻された。
演奏内容自体は本演奏と同格か、さらに優れているとも言える超名演であるが、現在ではオーパス盤が入手難であることに鑑みれば、本演奏をワルターによる「田園」の代表盤とすることにいささかの躊躇もするものではない。
他方、「第5」は、いささか疑問に感じる点がないと言えなくもない。
というのも、第1楽章冒頭の有名な運命の動機について、1度目の3連音後のフェルマータよりも2度目の3連音後のフェルマータの方を短くする演奏様式が、これはLP時代からそう思っているのであるがどうしても納得がいかないのである。
また、演奏全体としても、同時代に活躍したフルトヴェングラーやクレンペラーによる名演と比較するといささか重厚さに欠けると言わざるを得ないだろう。
しかしながら、ベートーヴェンを威圧の対象としていないのは好ましいと言えるところであり、そのヒューマニティ溢れる温かみのある演奏は、近年のピリオド楽器や古楽器奏法による演奏などとは別次元の味わい深い名演と高く評価したい。
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ルドルフ・ブッフビンダーは1946年生まれのウィーン育ちのピアニスト。
戦後派を代表する数少ないドイツ=オーストリア系の気鋭のピアニストである。
日本での評価がいまひとつなのは残念であるが、とにかく一聴をお薦めする。
実力派のベートーヴェン弾きとしての長い演奏経験を踏まえた、しっかりした音楽構成と迷いの無い確信に満ちたタッチ、そして堂々たるダイナミズムで大家の風格を感じさせる価値の高い全集だ。
この全集の妙味は、まずその音のクオリティの高さにあろう。
いっさいの混濁を省き、クリアな音像のなかで、デュナーミクの指示が原典に忠実に、そして目一杯に生かされ、そのなかから重厚かつ繊細きわまりないベートーヴェンが立ち現れる。
全体にペダルを控えめにした演奏であるが、その使用を巧妙に隠していると思われるフシもあり、ペダルの超絶技巧とも言える。
ことに初期作品ではそれはすばらしい成果を上げているし、中期作品以降でのペダルの実験的な使用も、作曲年代に鑑みた解釈の点で、納得のいく処理を常に見せている。
そして、特にソナタ演奏における現代的なスタイルとは何かといろいろ聴いたうち、楽譜=テクストへの批判的態度と演奏密度が、もっとも理想的に結び合っているのが、ブッフビンダーの演奏なのである。
とりわけ手稿譜のファクシミリからフランツ・リスト校訂版などに至る、現存する様々なソナタの楽譜に対する奏者の熱心な研究は周到で興味深い。
現代のピアノで演奏するという前提をあくまでも認識した上で行われた演奏で、その楽器の特質を充分に生かしつつ、例えば、デュナーミクの対照性や打鍵の機能性、果ては「ワルトシュタイン」第3楽章の冒頭などにおけるソステヌート・ペダルの使用という点に到るまで、初期作品にはけっしてダンパー・ペダルを意識させることなく、絶妙にカムフラージュしながら用いる技術のすばらしさなど、これこそドイツ=オーストリアの伝統を今日に継承した類稀な演奏である。
ブッフビンダーは若い頃からソロだけでなく、アンサンブルや伴奏の分野でも幅広く活動を続けてきたが、そうした活動がより客観的な、しかし一方では豊かで自在なニュアンスを含んだ独自のベートーヴェン像を実現させたのかもしれない。
奇を衒った表現ではなく、音楽的にも技術的にも安定した深みのある演奏が秀逸だ。
心洗われるようなベートーヴェンで、これを聴くと他のお歴々の演奏はみな、厚化粧の年増の長話のように聴こえてしまう。
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2022年12月12日
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カラヤンはベルリン・フィルとともにDVD作品を除けば3度にわたってベートーヴェンの交響曲全集をスタジオ録音しているが、本盤に収められた全集はそのうちの1960年代に録音された最初のものである。
カラヤン&ベルリン・フィルによる3つの全集のうち、最もカラヤンの個性が発揮されたものは何と言っても2度目の1970年代に録音されたものである。
1970年代は名実ともにカラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代であり、ベルリン・フィルの一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、ブルリアントなブラスセクションの朗々たる響き、桁外れのテクニックを披露する木管楽器の美しい響き、そしてフォーグラーによる雷鳴のようなティンパニの轟きなどが一体となった圧倒的な演奏に、カラヤンならではの流麗なレガートが施された、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功していた。
また、1980年代に録音された最後の全集は、カラヤンの圧倒的な統率力に綻びが見られるものの、晩年のカラヤンならでは人生の諦観を感じさせるような味わい深さを感じさせる名演であるということが可能だ。
これに対して、本盤に収められた1960年代に録音された全集であるが、カラヤンがベルリン・フィルの芸術監督に就任してから約10年が経ち、カラヤンも漸くベルリン・フィルを掌握し始めた頃の演奏である。
したがって、1970年代の演奏ほどではないものの、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの萌芽は十分に存在している。
他方、当時のベルリン・フィルには、ティンパニのテーリヒェンなど、フルトヴェングラー時代の名うての奏者がなお数多く在籍しており、ドイツ風の重心の低い重厚な音色を有していた(カラヤンの演奏もフルトヴェングラーの演奏と同様に重厚ではあるが、音色の性格が全く異なっていた)。
したがって、本全集に収められた各演奏はいずれも、カラヤンならではの流麗なレガートが施された圧倒的な音のドラマにドイツ風の重厚な音色が付加された、いい意味での剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると評価したいと考える。
カラヤンの個性が全面的に発揮されたという意味では1970年代の全集を採るべきであろうが、徹頭徹尾カラヤン色の濃い演奏に仕上がっている当該1970年代の全集よりも、本全集の方を好む聴き手がいても何ら不思議ではないと考えられる。
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2022年12月03日
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バーンスタインのベートーヴェン全集(旧盤)は異様な充実感が全体を貫いている。
そして、この演奏は良くも悪くもバーンスタイン臭の充満した演奏である。
例えば「エロイカ」の第1楽章で、速めのテンポで畳み掛けながら緊張を緩めまいとしている点に、そうしたことが言える。
それにリズム感が異質だ。
これは、全体を通して言えることだから、明らかにこのリズム感はバーンスタインその人のリズム感である。
「第5」では、誰もがまず、テンポが極度に抑制されている、と気づくだろう。
もちろんバーンスタインはそのテンポを最後まで見事に維持している。
彼は恣意的になることを巧みに避け、主観的な要素さえも極力抑え、その意味では演奏の進め方は、まことに慎重である。
解釈者としての彼の力は、意外なところで余すところなく発揮されているのである。
「田園」は個性的な表現で、音楽が楽天的と言えるほどよく弾んでいる。
ドイツの伝統的な解釈とは異なる現代的な表現と言えるが、作品に共感した真実性は高く評価したい。
「第9」は劇的で起伏の激しい、主張の明快な演奏である。
もちろん、バーンスタインはこの巨大な作品の伝統的な演奏様式を十分に知った表現で、例えばトスカニーニのように徹底した解釈ではないが、それでも第1楽章の劇的な推進力や第3楽章の腰の強い表現など、バーンスタイン以外の何者でもない。
終楽章は各部分が的確な表現であり、楽想をくっきりと描いている。
独唱と合唱も見事だ。
「フィデリオ」序曲と「レオノーレ」序曲第3番も、バーンスタインの自己主張が強いが、それが作品の求める様式と一致しないところがあるのは惜しまれる。
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2022年11月30日
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アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間は、持ち味である豊かな歌謡性と気迫溢れる圧倒的な生命力によって素晴らしい名演の数々を成し遂げていた。
しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後は、なぜかそれまでとは別人のような借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになってしまった。
前任者であるカラヤンを意識し過ぎたせいか、はたまたプライドが高いベルリン・フィルを統御するには荷が重すぎたのかはよくわからないが、そうした心労が重なったせいか、大病を患うことになってしまった。
ところが、皮肉なことに、大病を克服し芸術監督退任間近になってからは、凄味のある素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。
アバドの晩年に発売されたCDは、いずれも円熟の名演であり、紛れもなく現代最高の指揮者と言える偉大な存在であった。
それはさておきアバドは、ベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を2度完成させている。
正確に言うと、「第9」だけは重複しているのだが、第1〜8番の8曲については別の演奏であり、1度目は前述の大病を患う直前のスタジオ録音、そして2度目は大病を克服した直後のローマでのライヴ録音(DVD作品)となっている。
要は、第9番だけは最初の全集に収められたライヴ録音をそのまま採用しているということであり、アバドはベルリン・フィルとの最初の全集の中でも、第9番だけには自信を持っていたということを窺い知ることが出来るところだ。
本盤に収められたベートーヴェンの交響曲全集は、アバド&ベルリン・フィルによる2度目の全集である。
最初の全集については、前述のような低調なアバドによるものであり、2度目の録音を大病克服直後に行ったことからしても、アバド自身もあまり満足していなかったのではないかと考えられる。
最新の研究成果を盛り込んだペーレンライター版を使用したところは、いかにもアバドならではと言えるが、記者の質問に対して版の問題は他に聞いてくれと答えたという芳しからざる噂もあり、実際のところ、アバドが自らの演奏に版の問題をどのように反映させたのかはよくわからないところだ。
いずれにしても、本全集はアバド色の濃いベートーヴェンと言えるだろう。
フルトヴェングラーやカラヤン時代の特徴であった重量感溢れる重厚な音色がベルリン・フィルから完全に消え失せ、いかにも軽やかな音色が全体を支配していると言ったところだ。
かつて、とある影響力の大きい某音楽評論家が自著において、旧全集のエロイカの演奏を「朝シャンをして香水までつけたエロイカ」と酷評しておられたが、かかる評価が正しいかどうかは別として、少なくとも古くからのクラシック音楽ファンには許しがたい演奏であり、それこそ「珍品」に聴こえるのかもしれない。
筆者としても、さすがに許しがたい演奏とまでは考えていないが、好き嫌いで言えば決して好きになれない軽佻浮薄な演奏と言わざるを得ない。
もっとも、前述のように、近年のピリオド楽器や古楽器奏法による演奏を先取りするものと言えるが、天下のベルリン・フィルを指揮してのこのような軽妙な演奏には、いささか失望せざるを得ないというのが正直なところである。
前々任者フルトヴェングラーや前任者カラヤンなどによる重厚な名演と比較すると、長いトンネルを抜けたような爽快でスポーティな演奏と言えるが、好みの問題は別として、新時代のベートーヴェンの演奏様式の先駆けとなったことは否定し得ないと言える。
もっとも、本全集では、アバドならではの豊かな歌謡性が演奏全体に独特の艶やかさを付加しており、アバド&ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては、佳演と評価するのが至当なところではないかと考える。
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2022年11月24日
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本盤に収められたベートーヴェンの交響曲第7番とブリテンの4つの海の間奏曲は、バーンスタインによる生涯最後のコンサートの記録である。
死の2か月前の演奏でもあるということもあって、本演奏にはただならぬ雰囲気が漂っていると言えるだろう。
ニューヨーク・フィルの音楽監督時代のバーンスタインは、いかにも陽気なヤンキー気質の爽快な演奏を繰り広げていた。
ところが、ヨーロッパに拠点を移し、ウィーン・フィルを恒常的に指揮するようになってからは、テンポは異常に遅くなりとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。
とりわけ、1980年代に入ってからは、かかる特徴が顕著であり、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏が目白押しであったように思われる。
このような芸風の著しい変化は、バーンスタインによる体力の衰えが原因なのか、それともバーンスタインの音楽の捉え方がより深化したのかは正直なところよくわからない。
バーンスタインには熱烈なファンも多いことから、かかる芸風の変化を持ってバーンスタインは真の巨匠になったと評価する人もいることも十分に考えられる。
しかしながら、他方では、かかる常識はずれのテンポにとても付いていけないと感じる聴き手が多いのも事実である。
その意味では、本盤の演奏は両曲ともに、かかる晩年の芸風が顕著にあらわれており、途轍もない遅いテンポと重苦しい雰囲気に演奏全体が包まれていると言えるだろう。
ましてや、バーンスタインの体調の悪さも多分にあると思うが、ボストン交響楽団にも戸惑いが見られ、アンサンブルなども大幅に乱れるなど、バーンスタイン、そしてボストン交響楽団によるベストフォームにある演奏とはとても言い難いと言えるところだ。
したがって、本演奏を凡演として切り捨ててしまうのは容易ではあるが、筆者はむしろ、死の2か月前、体調も最悪であったにもかかわらず、渾身の力を振り絞って本演奏会に臨んだバーンスタインの直向きさに強く心を打たれるのである。
そう思って本演奏を聴くと、いかに本演奏が渾身の大熱演であったのかが理解できるところだ。
本演奏はまさに、死を間近に控えたバーンスタインが最後の力を振り絞って成し遂げた魂の音楽であると言えるところであり、その渾身の直向きさが我々聴き手の肺腑を打つのである。
このような魂の音楽に対しては、大仰で重苦しい演奏であるとか些末なアンサンブルのミスなどとは無関係であり、ただただ虚心になって最晩年のバーンスタインによる渾身の大熱演を鑑賞するのみである。
いずれにしても、本演奏は、特にマーラーの交響曲や歌曲において偉大な名演を成し遂げてきた大指揮者バーンスタインの最後の演奏としては痛々しさを感じずにはいられないが、バーンスタインが人生の最後に成し遂げた魂の音楽として、未来永劫に語り伝えたい演奏と高く評価したいと考える。
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2022年11月21日
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ベートーヴェンの三重協奏曲はベートーヴェンが作曲した労作であり、一部の評論家が指摘しているような駄作とは思わないが、それでも5曲のピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲などと比較するといささか魅力に乏しいと言わざるを得ないのではないだろうか。
もちろん、親しみやすい旋律などにも事欠かないと言えなくもないが、よほどの指揮者やソリストが揃わないと同曲の真価を聴き手に知らしめるのは困難と言えるだろう。
したがって、本演奏の関心は、もっぱら演奏者とその演奏内容の方に注がれることになる。
カラヤンとロシアの偉大な3人のソリストという超豪華な布陣は、ネット配信の隆盛などによりクラシック音楽界が不況下にある現代においては望むべくもない、夢のような共演と言えるだろう。
ましてやオーケストラが世界最高のベルリン・フィルであり、三重協奏曲のような楽曲ではもったいないような究極の布陣とも言える。
そして、本演奏が凄いのは(裏方では微妙な意見の食い違いがあったようであるが、我々は遺された録音を聴くのみである)、4巨匠とベルリン・フィルがその能力を最大限に発揮しているところであろう。
カラヤン&ベルリン・フィルは、この黄金コンビの全盛時代ならではのオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築を行っているし、ロストロポーヴィチの渾身のチェロ演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧巻の迫力を誇っている。
オイストラフのヴァイオリンも、ロストロポーヴィチのチェロに引けを取らないような凄みのある演奏を展開しているし、リヒテルのピアノも、本名演の縁の下の力持ちとして、重心の低い堂々たるピアニズムを展開している。
いずれにしても、凄い演奏であるし超名演に値すると言える。
そして、このような凄い超名演を持ってして漸くこの三重協奏曲の魅力が聴き手に伝えられたというのが正直なところであり、その意味では、本演奏こそが同曲の唯一無二の名演と言えるのかもしれない。
もっとも、本演奏は狭い土俵の上で、天下の大横綱が5人いてお互いに相撲をとっているようなイメージとも言えるところであり、このような5人の大横綱には、もう少し広い土俵で相撲をとって欲しかったというのが正直なところだ(と言っても、広い土俵たり得る三重協奏曲に変わる作品は存在しないが)。
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2022年11月12日
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本CDはシューリヒトがフランスで指揮した最後の演奏会の貴重な記録で、幸いにもステレオで残されていた。
1965年6月15日、パリ・シャンゼリゼ劇場でのライヴ録音であるが、スタジオ録音かと聴き間違うばかりの高音質で、しかもステレオ収録、と音質面では全くマイナス要素を感じさせないものとなっている。
当演奏の「第9」正規盤は初めてで、長年待ち望んでいたものである。
フルトヴェングラーのバイロイトの「第9」をはじめとして、この曲は名演揃いであるが、その中にこのシューリヒトのライヴ盤が加わったのは喜ばしい限りである。
この演奏は、とても端正なものとも言えるが、それでも情熱にあふれ、とても85歳の老指揮者によるものとは思えない素晴らしいものである。
比較的速いテンポ設定で一気呵成に駆け抜けて行く、という側面もあるが、一つ一つの音に生命が吹き込まれ、凡庸に流れて行くところは皆無である。
シューリヒトは時折、大胆なアゴーギクを用いて聴くものの度肝を抜くようなところがあったが、この演奏ではそういったところは皆無。
折り目正しくも、僅かにテンポを揺らしながら、聴く者の脳裏に音符を刻み込んで行く。
ライヴならではの瑕疵も若干見受けられるが、これは名演の代償の類と言えるものであり、この演奏のマイナス要素とは一切なっていない。
シューリヒトは、この演奏以後体調を崩したというが、消えゆくローソクが最後に明るく燃え上がったような感銘を受けた。
この演奏の素晴らしさを理解できない批評家は、木を見て森を見ていないと言わざるを得ない。
個人的にはシューリヒトの「第9」のベスト・パフォーマンスにしたい。
カップリングは同じくベートーヴェンの交響曲第1番で、この曲は当日の公演の前プロで演奏されたもの。
「第1」はかつて、ディスクモンテーニュ盤で聴くことができたが、こちらも素晴らしい演奏で、名演名盤が沢山あるが、この演奏もそれら名盤の列に加えても全く遜色の無い演奏内容となっている。
是非、一聴をお薦めしたい。
オリジナル・マスターから復刻されたのは今回が初めてであり、この2曲ともに正規のスタジオ録音並みの鮮明なステレオというのが何よりも嬉しい。
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2022年11月11日
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いささかも奇を衒うことがないドイツ正統派の堂々たる名演だ。
今では解散してしまったアマデウス弦楽四重奏団であるが、約40年間にわたってメンバーが一度も入れ替わることなく、伝統の音、音楽を守り続けてきたのは、弦楽四重奏団としても極めて稀な存在であったとも言えるだろう。
それだけに、ヴィオラ奏者であったシドロフの死去によって解散となったのは当然の帰結と言えるのかもしれない。
また、そうしたアマデウス弦楽四重奏団の主要なレパートリーは、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなどの独墺系の作曲家の楽曲であったのは当然のことであり、前述のように、まさにドイツ正統派とも言うべき名演の数々を成し遂げていたところだ。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は、弦楽四重奏団にとっては名刺代わりの楽曲であり、その後に活躍したアルバン・ベルク弦楽四重奏団やタカーチュ弦楽四重奏団など、個性的かつ現代的な解釈による名演が続々と登場してきている。
そうした演奏と比較すると、強烈な個性にはいささか乏しい演奏と言わざるを得ないところだ。
しかしながら、楽想を精緻かつ丁寧に描き出し、誠実に音楽を紡ぎだしていくというアプローチは、ベートーヴェンが作曲した両曲の魅力をダイレクトに表現するのに大きく貢献しているとも言えるところである。
あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちにさせてくれる演奏とも言えるところであり、このような、古き良き伝統に根差したとも言える正統派の演奏を奏でてくれる弦楽四重奏団がなくなってしまったことを残念に、そしてある種の郷愁を覚える聴き手もおられるのではないだろうか。
若干、時代は下るが、チェコのスメタナ弦楽四重奏団のアプローチにも通底するものがあると言えるが、そうしたスメタナ弦楽四重奏団の演奏に、ドイツ風の風格を付加させた演奏と言えるのかもしれない。
今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化に際しては、アマデウス弦楽四重奏団にとって唯一の全集から、後期の傑作である第14番と中期の傑作である第7番が抜粋してカップリングされたが、残る諸曲についても同様に高音質化を期待する聴き手は筆者だけではあるまい。
それにしても、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって素晴らしい高音質になったのは大変喜ばしいところだ。
1950年代末〜1960年代初めの頃のスタジオ録音であり、さすがに最新録音のようにはいかないが、音質の鮮明さ、音圧、音場の拡がりのどれをとっても一級品の仕上がりであり、各奏者の弦楽合奏が艶やかに、なおかつ明瞭に分離して再現されるなど、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。
いずれにしても、アマデウス弦楽四重奏団による素晴らしい名演を、現在望みうる最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。
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2022年11月10日
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バックハウスが1950〜54年に録音したベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集のモノラル録音は、録音史上における最大の芸術的遺産の一つと断言する事に筆者は躊躇しないが、その録音を補完して、彼のライヴにおける姿を知る為にもうひとつ重要な録音が、この1954年に録音された、「カーネギー・ホール・リサイタル」である。
ステレオ録音でしかバックハウスを知らない人は、この録音を聴くと大いに驚く事であろう。
ここに聴くバックハウスの姿は、まさに即興性の塊で、インテンポの中に絶妙な揺らぎや加速などが交錯する事によって、生々しい一期一会の芸術的神秘、音楽の迫真性を獲得している。
これこそがバックハウスの芸術の真髄だったのだ。
このディスクの中でも特に第32番の演奏は、20世紀最大のベートーヴェン解釈者としてのバックハウスの最高の記録であると筆者は断言したい。
第32番はベートーヴェンの晩年屈指の名曲として知られており、通なクラシックファンの間で同曲を溺愛する人が決して少なく事を筆者は承知しているが、おそらくそういう人たちもこのバックハウスの解釈を聴くと間違いなく仰天することだろう。
第1楽章は8:10、第2楽章は13:25であるが、問題は第2楽章であり、これ程、演奏時間が短い同曲の演奏は殆ど皆無だ。
なぜこれ程短いのかと言うと、前半のアダージョが次第に加速を帯びて途中から完全にアンダンテになっているからである。
これは同録音のみならず、他日の録音にも聴かれるバックハウスの同曲に対する一貫した解釈なのであるが、これについては「弾き飛ばし」であると批難する声が一般にあるのを筆者ならずとも耳にすることであろう。
しかし、ここにこそ、バックハウスの本質があると言って良い。
バックハウスはこの曲について、多くのピアニストが第2楽章前半のアダージョ部で表現しようとする「人間的な感情への沈潜」を徹底的に拒否しようとしているのではないだろうか。
人間的感傷を吹き飛ばして、一気に天の高みに飛翔する事こそがバックハウスが同曲に見出したベートーヴェンの姿であったと、この演奏を聴くと理解される。
ベートーヴェンの第32番に興味のある人、またバックハウスのベートーヴェン解釈に興味ある人には必聴の録音であるとお薦めしたい。
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2022年11月08日
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クラウディオ・アバドはかつての手兵であったベルリン・フィルとドイツ・グラモフォンにベートーヴェンの交響曲全集を1999年から2000年にかけて録音しているが、本作はそれに先立つ1996年のザルツブルク音楽祭での実況録音である。
話題の「ベーレンライター新版」とは銘打ってはいないものの、アバドが各所で新鮮な解釈を聴かせる(例:フィナーレのピッコロなど)ことも発売当時大いに話題になった。
要は、アバドはベートーヴェンの交響曲の中でも、第9番には特別に自信を持っていたということを窺い知ることが出来るところだ。
このように、アバドが自信を持っていたこともあり、筆者としても、アバドによるベートーヴェンの中で最も出来がいいのは第9番であると考えている。
全体を第9番としては相当に速いテンポで演奏しているが、せかせかした印象をいささかも与えることがなく、トゥッティに向けて畳み掛けていくような力感溢れる気迫とともに、どこをとっても情感の豊かさと歌謡性を失うことがないのが素晴らしい。
特にベルリン・フィルも、この第9番においては、さすがにフルトヴェングラーやカラヤンなどの往年の指揮者による重厚な演奏にはかなわないものの、倍管にしたことも多分にあるとは思うが、重心の低い奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。
特に、終楽章の合唱の壮麗さは抗し難いほどの美しさを誇っており、これは世界最高峰とも称されるスウェーデン放送合唱団の起用が見事に功を奏していると言える。
ソリスト陣も非常に豪華で素晴らしい歌唱を披露しており、スウェーデン放送合唱団とともにエリック・エリクソン室内合唱団にもアバドの意思が反映され、かつてないほど精緻な響きを聴かせてくれ、最高のパフォーマンスを示していると言えるだろう。
いずれにしても、新しい研究成果に基づくベーレンライター版使用による本演奏は、近年の古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとなったものであり、アバドによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては最高峰にある名演と高く評価したい。
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アバド&ベルリン・フィルによる1度目のベートーヴェンの交響曲全集のうち、第1番から第6番については、少なくとも往年の名指揮者による重厚な名演に聴きなれた耳からすると、天下のベルリン・フィルを指揮したにしてはあまりにも軽佻浮薄な演奏であると言えるところであり、筆者としてもあまり高い評価をして来なかった。
ところが、本盤に収められた第7番については、第6番までとは異なり、アバドによるベートーヴェンとしては少なくとも軽佻浮薄とまでは言い切れないのではないだろうか。
もっとも、同曲の過去の名演、例えばフルトヴェングラー&ウィーン・フィル(1950年)、クレンペラー&ニューフィルハーモニア管(1968年)、さらにはカラヤン&ベルリン・フィル(1978年ライブ(パレクサ))などと比較すると、さすがに音の重心は低いとは言い難い。
もっとも、本演奏では、ベルリン・フィルの音色にもかつての伝統的な重厚な音色の残滓を聴くことが可能であるとともに、アバドならではの豊かな歌謡性が演奏全体に独特の艶やかさを付加している。
アバド&ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては、後述の第8番や第9番に次いで、佳演と評価するのにいささかの躊躇もするものではない。
また、新しい研究成果を踏まえたベーレンライター版使用による本演奏は、近年主流となっている古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとも言えるところであり、その意味においても相当の評価をせざるを得ないとも考えられるところだ。
次いで、第8番については、楽曲の性格も多分にあるとは思うが、アバドの演奏にも第7番以上に違和感を感じるところがない。
フルトヴェングラーなどかつての大指揮者たちが名演を遺していないことも功を奏しているのかもしれない。
それ以上にアバドによる歌謡性豊かな指揮が、往年のワインガルトナーによる名演の如き極上のワインのような味わいを演奏全体に付加するのに成功している。
少なくとも、アバドによるベートーヴェンの交響曲演奏の中では、前述の第7番を凌駕するとともに、第9番と並んで名演と評価してもいいのではないだろうか。
録音については従来盤でも十分に高音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質はより鮮明になるとともに音場が幅広くなった。
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2022年11月07日
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本盤に収められたベートーヴェンの「第5」や「田園」を聴いていると、ベルリン・フィルの音色の前任のカラヤン時代からのあまりの変わりように大変驚かされる。
アバドがベルリン・フィルの芸術監督に就任してから10年近く経った頃の録音でもあり、その間にカラヤン時代の名うての奏者の大半が代替わりしたのも大きいと言えるのかもしれない。
それにしても本演奏は、フルトヴェングラーはもとより、カラヤンによる重厚な演奏とは一味もふた味も違う軽妙な演奏である。
その音色はカラフルという表現が当てはまるほどで、南国イタリアの燦々と降り注ぐ陽光を思わせるような明るい響きが支配している。
アバドが1980年代にウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集には若干なりとも存在したドイツ風の重厚な響きは、もはや本演奏では完全に一掃されており、良くも悪しくもアバドの個性が完全に発揮された演奏ということになるのであろう。
このような軽佻浮薄な演奏を、天下のベルリン・フィルを指揮して成し遂げたということについては、古くからのクラシック音楽ファンからすれば許し難いことのように思われるのかもしれない。
筆者としてはさすがに許し難い演奏とまでは思わないが、好き嫌いで言えば到底好きになれない演奏と言わざるを得ない。
しかしながら、最新の研究成果を採り入れたベーレンライター版使用による本演奏が、近年におけるピリオド楽器の使用や古楽器奏法による演奏の先駆けとなったということについては否定できないところであり、その意味においては一定の評価をせざるを得ないのではないかと考えている。
録音については従来盤でも十分に高音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質はより鮮明になるとともに音場が幅広くなった。
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アバドがベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集の録音を開始したのは、芸術監督に就任後10年近く経ってからである。
その理由としては、芸術監督就任の少し前にウィーン・フィルと全集を録音していたのが何よりも大きいとは思うが、ベルリン・フィルを完全に掌握するのを待っていたという側面もあったのではないだろうか。
前任のカラヤンも、ベートーヴェンの交響曲全集の録音を開始したのは芸術監督就任から10年近く経ってからであったことを考慮に入れれば、これは天下のベルリン・フィルの芸術監督の宿命と言えるのかもしれない。
いずれにしても、本演奏は、良くも悪しくもアバド色の濃いベートーヴェンと言えるだろう。
フルトヴェングラーやカラヤン時代の特徴であった重量感溢れる重厚な音色がベルリン・フィルから完全に消え失せ、いかにも軽やかな音色が全体を支配していると言ったところだ。
かつて、とある影響力の大きい某音楽評論家が自著において、本演奏を「朝シャンをして香水までつけたエロイカ」と酷評しておられたが、かかる評価が正しいかどうかは別として、少なくとも古くからのクラシック音楽ファンには許しがたい演奏であり、それこそ「珍品」に聴こえるのかもしれない。
筆者としても、さすがに許しがたい演奏とまでは考えていないが、好き嫌いで言えば決して好きになれない軽佻浮薄な演奏と言わざるを得ない。
しかしながら、最新の研究成果を反映させたベーレンライター版の使用による本演奏は、近年主流の古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとも言えるところであり、その意味においては、好き嫌いは別として一定の評価をせざるを得ないのではないかと考えている。
録音は従来盤でも十分に鮮明な高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、若干ではあるが音質がさらに鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。
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アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間は、持ち味である豊かな歌謡性と気迫溢れる圧倒的な生命力によって素晴らしい名演の数々を成し遂げていた。
しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後は、なぜかそれまでとは別人のような借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになってしまった。
前任者であるカラヤンを意識し過ぎたせいか、はたまたプライドが高いベルリン・フィルを統御するには荷が重すぎたのかはよくわからないが、そうした心労が重なったせいか、大病を患うことになってしまった。
ところが、皮肉なことに、大病を克服し芸術監督退任間近になってからは、凄味のある素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。
アバド晩年のCDは、いずれも円熟の名演であり、紛れもなく現代最高の指揮者と言える偉大な存在であった。
それはさておきアバドは、ベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を2度完成させている。
正確に言うと、「第9」だけは重複しているのだが、第1〜8番の8曲については別の演奏であり、1度目は前述の大病を患う直前のスタジオ録音、そして2度目は大病を克服した直後のライヴ録音となっている。
本盤に収められた第1番及び第2番は、1度目の全集に含まれるもの。
演奏自体は前述のような低調なアバドによるものであり、2度目の録音を大病克服直後に行ったことからしても、アバド自身もあまり満足していなかったのではないかと考えられる。
最新の研究成果を盛り込んだペーレンライター版を使用したところは、いかにもアバドならではと言えるが、記者の質問に対して版の問題は他に聞いてくれと答えたという芳しからざる噂もあり、実際のところ、アバドが自らの演奏に版の問題をどのように反映させたのかはよくわからないところだ。
本演奏を聴くと、アバドならではの歌謡性は豊かであるが、非常に軽やかな演奏という印象だ。
これは、近年のピリオド楽器や古楽器奏法による演奏を先取りするものと言えるが、天下のベルリン・フィルを指揮してのこのような軽妙な演奏には、いささか失望せざるを得ないというのが正直なところである。
前々任者フルトヴェングラーや前任者カラヤンなどによる重厚な名演と比較すると、長いトンネルを抜けたような爽快でスポーティな演奏と言えるが、好みの問題は別として、新時代のベートーヴェンの演奏様式の先駆けとなったことは否定し得ない。
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2022年11月04日
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本盤に収められたベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番、そして、ピアノ・ソナタの第12、22、23番は、東西冷戦の真っ只中であった時代、当時の鉄のカーテンの向こう側からやってきた壮年期のリヒテルによる記念碑的な名演だ。
リヒテルは、偉大なピアニストであったが、同時代に活躍していた世界的な大ピアニストとは異なり、全集を好んで録音したピアニストではなかった。
こうした事実は、これだけの実績のあるピアニストにしては大変珍しいとも言えるし、我々クラシック音楽ファンとしてはいささか残念であるとも言えるところである。
したがって、リヒテルがベートーヴェンのピアノ協奏曲全集やピアノ・ソナタ全集を録音したという記録はない。
ピアノ協奏曲について言えば、スタジオ録音としては、単発的に、本盤の第1番や第3番などを録音したのみであり、他の諸曲についてはライヴ録音が何点か遺されているのみである。
ピアノ・ソナタについても同様であり、こうしたことは、リヒテルがいかに楽曲に対する理解と確信を得ない限り、録音をしようとしないという芸術家としての真摯な姿勢の証左とも言えるのではないだろうか。
それだけに、本盤に収められた各演奏は、貴重な記録であると同時に、リヒテルが自信を持って世に送り出した会心の名演奏とも言えるところだ。
ピアノ協奏曲にしても、ピアノ・ソナタにしても、リヒテルは、超絶的な技巧は当然のことながら、演奏全体のスケールの雄大さ、各フレーズに込められたニュアンスの豊かさ、そして表現の彫りの深さなど、どれをとっても非の打ちどころのない演奏を展開している。
人間業とは思えないような強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現の幅広さは桁外れであり、十分に個性的な表現を駆使しているが、それでいて、そうした表現があくまでも自然体の中で行われており、芝居がかったところがいささかも見られない。
要は、恣意的な解釈が聴かれないということであり、ベートーヴェンへの深い愛着と敬意以外には私心というものが感じられないのが見事である。
個性の発揮とスコア・リーディングの厳格さという二律背反する要素を両立させている点に、本演奏の凄みがあるとも言えるだろう。
とりわけ、ピアノ・ソナタ「熱情」におけるピアノが壊れてしまうと思われるような強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまでのダイナミックレンジの幅広さには出色のものがあり、終楽章終結部の猛烈なアッチェレランドはもはや人間業とは思えないほどの凄みのある演奏に仕上がっていると高く評価したい。
また、ピアノ・ソナタ第22番は、「ワルトシュタイン」と「熱情」に挟まれるなど地味な存在であるが、リヒテルによる本演奏によって、必ずしも有名とは言い難い同曲の真価を聴き手に知らしめることに成功したとも言えるところであり、その意味では稀有の超名演と評しても過言ではあるまい。
ピアノ協奏曲第1番のバックをつとめているのはミュンシュ&ボストン交響楽団であるが、さすがはストラスブール出身で、ブラームスなどの交響曲において名演を聴かせてくれたミュンシュだけに、本演奏においてもドイツ風の重厚な演奏を行っており、リヒテルによる凄みのあるピアノ演奏のバックとして、最高のパフォーマンスを示していると高く評価したい。
いずれにしても、本盤に収められた各演奏は、リヒテルのピアニストとしての偉大さを十二分に窺い知ることが可能な圧倒的な超名演と高く評価したい。
音質については、本盤におさめられた楽曲のうち、ピアノ協奏曲第1番とピアノ・ソナタ第22番が、数年前にXRCD&SHM−CD化され、それは圧倒的に素晴らしい音質であった。
しかしながら、今般、それらにピアノ・ソナタ第12番、第23番を加えてSACD化されたというのは何と言う素晴らしいことであろうか。
とりわけ、3曲のピアノ・ソナタの音質改善効果には目覚ましいものがあり、音質の圧倒的な鮮明さ、そして何よりもリヒテルの透徹したピアノタッチが鮮明に再現されるのは、1960年の録音ということを考慮に入れると、殆ど驚異的とさえ言えるだろう。
いずれにしても、リヒテルによる圧倒的な超名演をSACDによる超高音質で味わうことができるようになったことを心より大いに喜びたい。
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2022年10月30日
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トスカニーニとBBC交響楽団の数少ない共演は、ベートーヴェン作品の中では珍しく、各楽章に標題が付された「田園」。
トスカニーニの明快で輝かしい表現は、同時にこれ以上ないカンティレーナのみずみずしさにも充ち溢れている他、各場面の意味と魅力を明確にクローズ・アップさせた演奏設計の旨味にも比類なきものを示している。
曲の持つ、描写的音楽としてのドラマトゥルギー的要素と、交響曲としての古典的構成要素のバランスが秀逸なトスカニーニは、ベートーヴェン自身の述べた「絵画というよりも感情の表現に重きを置いた」という意図を体現することに成功している。
とりわけ第3楽章からフィナーレにいたる一連の流れは、過剰な感情表出を抑えつつも、絶妙なクライマックスを構築。
いわゆるドイツ的な演奏とはその本質を異にするが、結果的に作品のイデアに最も肉迫し得た内容と考えてよいだろう。
トスカニーニのもっとも脂の乗り切っていた時期の音源として、歴史的に意義深い録音としても重要な位置を占めるであろう。
「悲劇的序曲」は、緊張感みなぎる、引き締まった厳しい造形だ。
BBC響の音色は明晰で、ドイツ的な重い暗い響きではないが、その強靭な響きから聴こえてくるのはまぎれもないブラームスである。
精神主義に寄りかからず、スコアに書いてある音そのものにドラマを語らせるところがあり、当時からするとそのショックは如何ばかりであったろうと思う。
速いテンポのなかにも無駄のない、完成された表現である。
「魔笛」序曲は、テンポがかなり速く、この演奏にメルヘン的イメージを期待すると肩透かしを食らってしまう。
しかし、先入観を持たずに聴けば、これは近代的な感覚を持ったフレッシュな演奏であると感じられる。
何よりリズムの斬れが良く、音楽がはじけるように生き生きとしている。
コンサート・ピースとして完成された表現を目指したものであろうが、トスカニーニのスタイルとして徹底しており、そこに微塵の迷いも感じられない。
BBC交響楽団というオケは実に素晴らしく、後年のNBC響との演奏に優るとも劣らない。
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2022年10月28日
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本盤に収録されているトスカニーニのベートーヴェン「第9」は1941年7月24日におけるブエノスアイレスのコロン歌劇場でのライヴであるが、これは「トスカニーニの1941年ブエノスアイレス・ライヴ」として、クラシック・ファンの間ではかなり有名な演奏である。
これまでにもアリオーソなど、一部のヒストリカル・レーベルからリリースされたこともあるが、それらは入手が難しくて、実際に聴くのはこれが初めてである。
もっとも、音質的には良好とはちょっと言い難く、アナログ・テープ再生時独特のノイズ・レベルがかなり高いし、音場もこもり気味で、録音年代を考慮しても音質水準はそれほど高くはないようである。
しかし、その音質から伝わってくるアンサンブルの燃焼力、そして演奏自体の張り詰めた緊迫感がただごとでなく、例えばフルトヴェングラーのバイロイトの「第9」のように、音質を超えて伝わってくる強度のリアリティに、聴いていて圧倒させられる。
一聴すると、まず第1楽章冒頭の強奏部から凄まじいティンパニの強打に驚かされるし、その後の不気味なほどのうねりが圧倒的である。
たとえば展開部(4:46)での爆発的な強奏といい、(5:55)での度を越したティンパニの激打といい、トスカニーニの流儀による推進性みなぎる音楽の流れの中から、恐ろしいほどのダイナミクスが常に充溢しているし、再現部からコーダにかけてのテンションの高さも、常軌を逸したような凄味に満ちていて圧倒させられるものである。
他の楽章も同様だが、第2楽章は第1楽章より音質が一段鮮明で、演奏の迫力感は殆ど常軌を逸している。
逆に終楽章は相対的に音質が落ち、局面によってはやや聴き苦しい。
そのためか否か、トスカニーニの指揮も前半2楽章ほどの凄味には欠けるようにも思える。
それでもアンサンブルのものすごい燃焼力はジリジリ伝わってきて、やはりこれは並の演奏ではないという印象は、最後まで揺るぎなかった。
オケは南米ブエノス・アイレスのテアトル・コロン・オーケストラ(ケルン歌劇場のオーケストラ)で、弱いセクションを(特に木管楽器を中心に)補強しており、NBC交響楽団のメンバーも加わっている。
とは言っても、腕利きのメンバー(特に弦楽セクション)がいることは間違いない(所々、見事なアンサンブルが聴ける)。
時代(第2次大戦中だから)からしても、亡命演奏家が多く参加しているであろうから、当然であろう。
しかしながら、この録音の魅力は、たとえばNBC交響楽団との演奏ではオーケストラの壮麗なサウンドに耳を奪われて見落としがちになる、デモーニッシュな表現が剥き出しになっていること。
全体に独特の白熱感があり、最後の猛烈な拍手の嵐もうなずけるものである。
あくまでも、ドキュメントとしての価値が高いものであるが、演奏としても激しい熱狂の「第9」として、聴いて損はない。
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2022年10月26日
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本盤に収められているのは、1954年のいずれもベルリン・フィルとのベートーヴェンの交響曲第5番及び第6番になる。
1947年の演奏の方は、フルトヴェングラーの第2次大戦後の復帰コンサートということもあって、歴史的な超名演との評価が定着しており、本盤に収められた1954年の演奏については、やや分が悪いと言わざるを得ない。
フルトヴェングラーの演奏は、演奏内容の深みにおいては共通しているものの、一つ一つの演奏会に対して、初めて楽曲に接する時のような気構えで臨んだとも言われていることから、各演奏の違いには顕著なものがある。
そうした中にあっても、1947年と1954年の演奏の違いは桁外れであると言えるところであり、とても同じ指揮者による演奏とは思えないほどであると言えるだろう。
交響曲第5番において顕著であるが、フルトヴェングラーの美質でもあった実演におけるドラマティックな表現は、本盤の演奏では随分と影を潜めており、その意味ではある種の物足りなさを感じるかもしれない。
もっとも、そうした踏み外しはないものの、演奏の持つ奥行きの深さ、彫りの深さ、独特の深沈とした味わい深さは、交響曲第5番及び第6番ともに、1947年の演奏を大きく凌駕していると言えるところであり、大巨匠フルトヴェングラーも死の年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地にある演奏と評しても過言ではあるまい。
いずれにしても、本盤の演奏は、1947年の演奏などとの対比において諸説はあると思うが、筆者としては、フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲第5番及び第6番の演奏解釈の究極の到達点とも言うべき至高の超名演と高く評価したい。
それにしても、音質は素晴らしい。
1947年の演奏についても、従来盤との違いは歴然としていたが、1954年の演奏については、より後年の演奏だけに、高音質化の効果については歴然たるものがあると言えるだろう。
1954年のライヴ録音、そして音質が悪いとして定評のあるフルトヴェングラーのCDにしては、各楽器セクションの分離度や鮮明さは圧倒的であると言えるところであり、さすがに最新録音のようにはいかないが、この当時の演奏としては最高水準の音質に仕上がったと評してもいいのではないだろうか。
いずれにしても、フルトヴェングラーによる至高の超名演を、現在望み得る最高の高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
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2022年10月25日
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ベンノ・モイセイヴィッチは20世紀最大のピアニストの一人である。
レシェティツキー門下の巨匠ベンノ・モイセイヴィッチの演奏は、ラフマニノフとホフマンの両巨頭に絶賛されたように、楽譜に対して「音楽的に」自由に対処するロマン派的演奏であるが、それはベートーヴェンの演奏に於いても最良の意味で如何なく発揮されている。
技巧に苦労を感じさせない、いわば天衣無縫型のピアニストの最右翼であるモイセイヴィッチ。
軽快さと柔軟さに富んだ指さばきは当代無二で、ラフマニノフやホフマンといったトップクラスのピアニストと比肩されうるものであった。
若き天才性の具現である第3番と、円熟の極みである第5番「皇帝」の名盤。
前者はマルコム・サージェント指揮フィルハーモニア管弦楽団との共演。
後者はジョージ・セル指揮ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団との共演。
第3番のラルゴの歌わせ方の美しさ、「皇帝」の終楽章の舞曲的闊達さもさることながら、このCDにおける白眉は、第3番第1楽章のC・ライネッケによるカデンツァで、まさに一陣の吹き抜ける風のごとく流麗で、その音の粒の揃い方の見事さに匹敵する妙技は、他では聴き得ないものだ。
第5番「皇帝」はセルのストイックで精緻を極めたオーケストラ演奏と、モイセイヴィッチの貴族的で理性的な処理が見事である。
このCDに収録されている1950年録音の「皇帝」でもっともすぐれている部分は、切ないほどに美しいレガート楽節に満ちた、全編美しさが持続する緩徐楽章だ。
どちらも瑞々しさと優雅の融合した非常に高度な意味での技術と風格を兼ね備えたもので、これらの曲の一つの頂点として引き継がれる価値があるものと思う。
NAXOSの復刻もオリジナル(前者はテープ、後者はSP)の音色を生かした素晴らしいもので、ライナーノートによれば本来の演奏を傷付けないようにクリックノイズの除去程度の処理のみを行なっているそうである。
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2022年10月24日
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チェコの名指揮者であったノイマンの得意のレパートリーは、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコの作曲家による楽曲や、ボヘミア地方で生まれたマーラー(チェコ出身の指揮者はそれを誇りとしており、クーベリックや近年のマーツァルなど、チェコ出身の指揮者には、マーラーをレパートリーとした者が多い)の交響曲であったが、それ以外の楽曲、とりわけベートーヴェンの楽曲についてはなかなかの名演奏を遺しているところだ。
本盤に収められたベートーヴェンの序曲集は、そうしたノイマンの得意としたレパートリーの一つと言えるだろう。
こうして、エクストンが、最晩年のノイマンとの録音を行ってくれたことは大変に素晴らしいことであったとも言える。
ノイマンによる各序曲集の演奏は、聴き手を驚かすような奇を衒った解釈を施しているわけではない。
楽想を精緻に、そして丁寧に描き出して行くというオーソドックスなアプローチに徹しているところであり、それはあたかもノイマンの温厚篤実な人柄をあらわしているかのようであるとも言える。
もちろん、ノイマンの演奏が穏健一辺倒のものではないという点についても指摘しておかなければならないところであり、ベートーヴェンの楽曲に特有の強靭にして力強い迫力においてもいささかも不足はない。
それでいて、無機的で力づくの強引な演奏など薬にしたくもなく、常に奥行きのある音が鳴っており、ベートーヴェンの楽曲を単なる威圧の対象として演奏するという愚には陥っていない。
豊かな抒情に満ち溢れた情感豊かな表現も随所に聴かれるところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた演奏に仕上がっているとも言えるところだ。
聴き手によっては、ベートーヴェンの序曲集だけに、よりドラマティックな表現を期待する人も多いとは思うが、聴けば聴くほどに味わい深さが滲み出てくる、いわばいぶし銀の魅力を有する本演奏は、ノイマンとしても最晩年になって漸く成し得た大人の指揮芸術の粋であり、筆者としては、ノイマンによる遺言とも言うべき至高の名演と高く評価したい。
当時、トランペットのケイマルやホルンのティルシャルなど、一流のブラスセクションを擁していたチェコ・フィルの演奏も秀逸であり、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。
そして何と言っても音質も素晴らしい。
このエクストンのゴールドラインシリーズは、音質の鮮明さ、音圧の凄さ、音場の幅広さなど、いずれをとっても一級品の仕上がりである。
いずれにしても、ノイマンの最晩年の至高の名演を高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
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2022年10月23日
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1955年11月5日 ウィーン国立歌劇場こけら落としの上演のライヴ(モノラル)録音であるが、最初に音質の驚異的改善から報告しなくてはならない。
この時代のライヴ録音としては最上級の出来栄えではなかろうか。
丁寧な作業から鮮明に浮かび上がったのは、まず歴史的公演の恐るべきテンションの高さ。
この演奏にはライヴならではのおよそ比較を絶した熱気と高揚があり、そのことが指揮者、歌手、オケ、合唱の気迫が音からひしひしと伝わってくる。
『フィデリオ』に思い入れのあるベームは、残された『フィデリオ』の録音すべてが名演であるが、中でもこの1955年の再建記念公演は気合の入り方が違っている。
ベーム特有の芯のある音を要所要所に立て、それを柱としてがっちりと音楽を組み立てている。
ベームが低音を抉りつつ、弦に高音を輝かしく強奏させ、立体的、かつ美しくも強靭な響きで音楽を構築していく様子は、今回のCD化で初めて明らかになった。
解釈の基本はベルリンやドレスデンでの録音と同じ路線にあるが、しなやかさ、美しさを増した当盤の魅力は大きいものがある。
長いベームの音楽歴においても、特筆すべき名演である。
歌手がまた大物揃い。
フルトヴェングラーのお気に入りのドラマティック・ソプラノで、彼がEMI録音でもレオノーレ役に起用したマルタ・メードルがここでもレオノーレ。
ウィーンのモーツァルト・テノールとして名高いアントン・デルモータがフロレスタン。
偉大なバリトン、パウル・シェフラーが凄みのあるピツァロ。
ワーグナー・バスとして一世を風靡したルートヴィヒ・ヴェーバーが味のあるロッコ。
そして名花イルムガルト・ゼーフリートがマルツェリーネ。
ウィーンの人々に愛されたテノール、ヴァルデマール・クメントがヤキーノと、まさに1950年代のウィーンを代表する歌手ばかりで、まさにオールスター・キャストと言えよう。
当時のベスト・メンバーを集めた歌手陣が、1人1人熱演しているのはもちろんだが、アンサンブル・オペラとしての行き方を堅持していた時代のウィーンらしい、密度の高いチーム・ワークを聴かせる。
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2022年10月13日
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クナッパーツブッシュのウィーン・フィルとの『エロイカ』(1962年ライヴ)は、ミュンヘン・フィル盤とともにクナッパーツブッシュの巨大さを味わえるのが嬉しい。
第1楽章の凄絶さはブレーメン盤に譲るものの、音の響きを愉しむ高尚な遊びの精神が演奏に桁外れの大きさを与えている。
その点、月並みな論評ながらブルックナー的な演奏と言えるだろう。
クナッパーツブッシュお得意の不意打ちのアクセントもウィーン風に柔らかに翻訳されており、演奏のところどころに可憐な花を咲かせている。
大らかな分、ミュンヘン・フィル盤ほど堅牢な造型ではない。
現実の世界からより自由になった孤高の芸術家の「魂の逍遥」を味わいたい。
第2楽章は、晩年のクナッパーツブッシュとウィーン・フィルだけが創造できた異空間である。
ヴァイオリンの調べに伴う何と言う色香…、喪服を纏った若き未亡人のような妖艶さとでも言おうか。
涙に濡れるオーボエの嘆きも、聴く者の心を濡らさずにはおかない。
中間部の対位法も、晩年のクナッパーツブッシュならではの巨大な音の建築物となっている。
スケルツォもクナ節全開だ。
主部のリズムの何と言う刻みの深さ。トリオでは、クナッパーツブッシュとプレイヤーの微笑ましい心の交流が見て取れる。
ホルンのプレイヤーに向かって「そこは遠慮なく吹いて下さいよ」と合図を送ると「よしきた。任せとけ」とばかりに、とんでもない最強奏で応える。
オケのメンバーは、このようにクナッパーツブッシュに褒められたい一心で張り切る。
クナッパーツブッシュも彼らの頑張りに満足げな表情で応える、というわけだ。
さて、フィナーレの変奏曲こそは、クナッパーツブッシュの真骨頂で、まるでひとりの「英雄」の生涯を回顧するような音のドラマが展開する。
ここには、英雄の台頭、獅子奮迅の活躍から、その失脚と死までが、「叙事詩」のような壮大さで描かれているのである。
ことにテンポを落とすポコ・アダージョ以後の深い感動の歌は、クナッパーツブッシュにしか描けない。
まるでワーグナーの楽劇を聴くようであり、「なるほど、これでこそ『エロイカ』なのだ」という不思議な感動に襲われるのである。
「レオノーレ」序曲第3番も迫真の演奏である。
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2022年10月09日
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本全集は、クレンペラーの芸術が完成期を迎える時期の録音であるが、ここでは、最晩年のクレンペラーの堂々たる至芸を味わうことが可能である。
クレンペラーのスケール雄大な演奏スタイルが確立したのは1960年代に入ってからというのが一般的な見方である。
「第1」など、誰よりもテンポが遅いが、何にも邪魔をされることがない悠々たる進行は、まさに巨象が大地を踏みしめるが如き重量感に満ち溢れているが、それでいて、ウドの大木に陥ることなく、随所に聴かれる情感の豊かさも聴きものだ。
「第2」も、テンポも非常にゆったりとしたものであるが、それ故に、ベートーヴェンがスコアに記した音符の1つ1つを徹底的に鳴らし切り、あたかも重戦車の進軍のような重量感溢れる力強い演奏に仕立て上げたのは、さすがの至芸という他はない。
ベートーヴェンの交響曲の演奏スタイルとして、偶数番の交響曲は柔和に行うとの考えも一部にあるが、クレンペラーにはそのような考えは薬にしたくもなく、「エロイカ」や「第5」に行うようなアプローチで「第2」に臨むことによって、同曲をスケール雄大な大交響曲に構築していった点を高く評価すべきであろう。
「エロイカ」には、フルトヴェングラー&ウィーン・フィルによる1944年盤(ウラニア)及び1952年盤(EMI)という至高の超名演が存在しており、この2強を超える演奏を成し遂げることは困難を極める(私見ではあるが、この2強を脅かすには、カラヤンのように徹底した音のドラマの構築という、音楽内容の精神的な深みを追求したフルトヴェングラーとは別の土俵で勝負する以外にはないのではないかと考えている)が、クレンペラーによる本演奏は、そのスケールの雄大さや仰ぎ見るような威容、演奏の充実度や重厚さにおいて、前述の2強に肉薄する素晴らしい名演と高く評価したい。
冒頭の2つの和音からして胸にずしりと響いてくるものがある。
その後は微動だにしないゆったりとしたインテンポで曲想を精緻に、そして格調の高さを失うことなく描き出して行く。
クレンペラーは各楽器を力強く演奏させており、いささかも隙間風が吹かない重厚な音楽が紡ぎ出されている。
木管楽器をやや強めに演奏させるのは、いかにもクレンペラーならではのものであるが無機的になることはなく、どこをとっても彫りの深さが健在である。
全体の造型はきわめて堅固であるが、スケールは極大であり、悠揚迫らぬ重量感溢れる音楽が構築されている。
「第4」も、「第2」と同様のアプローチで、スケール雄大な演奏を繰り広げており、特に終楽章は、巨象がのっしのっしと歩くような重厚なド迫力に圧倒される、雄渾の極みとも言うべき至高の超名演だ。
クレンペラーは格調の高さをいささかも損なうことなく、悠揚迫らぬテンポで精緻に楽想を描き出している。
木管楽器を強調するのはクレンペラーならではのユニークなものではあるが、各楽器を力強く演奏させて、いささかも隙間風が吹かない重量感溢れる重厚な音楽が紡ぎだされていく。
ドラマティックな要素などは薬にしたくもなく、微動だにしないインテンポが基調であり、造型は極めて堅固である。
「第5」については、かのフルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる至高の超名演(1947年)とは対照的な演奏であるが、そのスケールの雄大さや巨木のような威容、崇高さにおいては、フルトヴェングラーによる超名演にもいささかも引けを取っていないと高く評価したい。
ゆったりとした微動だにしないインテンポは、沈み込んでいくような趣きがあるが、それでいて、いわゆる「田園」ならではの明瞭さにいささかの不足もない。
むしろ、こうした深みのアプローチが、演奏に潤いとコクを与えている点を見過ごしてはならないであろう。
ワルターやベームの「田園」のような独特の愉悦感や優美さには欠けているかもしれないが、演奏の有する深みにおいては、ワルターやベームといえども一歩譲るだろう。
「第7」も素晴らしい超名演だ。
筆者としては、1968年盤の方をさらに上位に置きたいが、本盤の方もほぼ同格の名演と高く評価したい。
楽曲の進行は殆ど鈍行列車だ。
しかしながら、鈍行列車であるが故に、他の演奏では聴かれないような旋律やニュアンスが完璧に表現されており、踏みしめるような重量感溢れるリズムなど、殆ど人間業とは思えないような圧巻のド迫力だ。
「第8」については、テンポの面だけをとれば、クナッパーツブッシュによる各種の演奏と似通っているとも言えるが、決定的な違いは、本演奏にはクナッパーツブッシュの演奏には存在した遊びの要素が全くないということであろう。
したがって、どこをとってもにこりともしない峻厳な音楽が構築されていくが、その仰ぎ見るような威容や演奏の充実度、立派さにおいては、クレンペラーによる本演奏の方をより上位に置きたいと考える。
このような微動だにしないインテンポによる威風堂々たる重厚なベートーヴェンにはただただ頭を垂れるのみである。
ベートーヴェンの「第9」の名演としては、フルトヴェングラー&バイロイト祝祭管弦楽団によるドラマティックな超名演(1951年)の印象があまりにも強烈であるが、当該名演とは対照的に、微動だにしないゆったりとしたインテンポによって曲想を精緻に、そして格調高く描き出しているクレンペラーによる重厚な名演もまた、格別な味わいに満ち溢れている。
クレンペラーは各楽器を力強く演奏させており、とりわけ木管楽器をやや強めにするのはユニークであるが、いささかも無機的な演奏に陥ることがなく、どこをとっても彫りの深い音楽が紡ぎ出されていく。
巧言令色などとは全く無縁であり、飾り気が全くない微笑まない音楽であるが、これはまさに質実剛健な音楽と言えるのではないだろうか。
全体の造型はきわめて堅固であるがスケールは極大であり、いずれにしても、本演奏は、前述のフルトヴェングラーによる名演も含め、古今東西の様々な指揮者による名演の中でも、最も峻厳で剛毅な名演と高く評価したい。
最近では、ベートーヴェンの演奏にも、古楽器奏法やピリオド楽器による小編成のオーケストラによる演奏など、軽佻浮薄な演奏が流行であるが、本全集を聴いていると、現代の演奏など、まるで子どものお遊びのように感じてしまう。
それくらい、本全集は、巨木のような大芸術作品と言うことができるだろう。
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2022年10月04日
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ヘルベルト・フォン・カラヤン生誕100周年特別企画として、同時発売のベートーヴェン・コレクションBOXからの分売。
以前LDで発売が予告されながら未発売となっていた、テレモンディアル原盤の秘蔵映像を初商品化。
映像としては1979年のザルツブルク・イースター音楽祭でのライヴから6年後の2度目の収録となる。
その生涯をかけてベートーヴェンに取り組んだカラヤンにとって、『ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)』はとりわけ特別な作品ともいえ、ウィーン楽友協会合唱団をベルリンに呼び寄せ、カラヤンに指名された4人のソリストが世界各地から駆けつけ演奏に参加。
最円熟期のカラヤン&ベルリン・フィルとの至芸が刻印された、圧倒的な演奏である。
この『ミサ・ソレムニス』は、DGへのレコーディングと並行して収録がおこなわれた映像作品。
1979年の映像がライヴ収録というカラヤンとしては比較的珍しいケースだったこともあり、独自の映像表現も含めてより高い完成度を目指したであろうこの映像には、やはりおおいに注目したい。
ソリストではレッラ・クベルリの参加に注目。
ロッシーニやドニゼッティなど主にベルカント・オペラで活躍したこの美声ソプラノはカラヤン晩年のお気に入りだった。
彼女をヒロインとした『ランメルモールのルチア』や『椿姫』の上演とレコーディングを計画していたとも伝えられていた。
しかしながら1989年にカラヤンが亡くなってしまい、共演作品も結局ごく僅かしか残されなかった。
その意味でも貴重な映像と言えそうである。
カラヤンの映像、この『ミサ・ソレムニス』では作為的な面も少なく、映像ソフトとしてオーソドックスに仕上がっており、楽しめる。
当時のベルリン・フィルのレベル、今ではこれを超えるオケはいくらでもあるものの、やはりカラヤン時代のベルリン・フィルの威力を見せつけられた。
ドイツの作品を徹底的重厚に徹しており、これはなかなか素晴らしい出来映えだ。
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2022年09月28日
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ワルターとニューヨーク・フィル(「田園」のみフィラデルフィア管)のモノーラルによるベートーヴェンの交響曲全集。
録音条件としては後年のステレオ録音の方が当然良いし、演奏もさらに円熟している。
しかしこのベートーヴェンには、ステレオ録音とは異なる独特の精気と艶やかな情緒の表出があり、独自の説得力の強さがある。
オーケストラがニューヨーク・フィルであるのもその一因だろうが、後年の録音に比べて解釈が一層ロマン的なのも非常に興味深い。
第1番は表現上の情緒的変化がワルターの頭の中ではっきり計算されている。
だから楽曲全体を聴いた場合、そこにゆったりとした気分の統一が非常に親しみやすい印象を与え、単純にみえて実はうまく演奏するのは難しいこの曲を一糸乱れぬ統一で、しかも美しい響きですっきりと演奏しているのは立派だ。
特に第2番は、ワルターの個性と曲趣が一致したのであろう、立派な演奏である。
よく歌い、そして自然であり、いささかも渋滞したり誇張したりしない。
滔々と流れる大河のように雄大であり、また細部の美は明瞭である。
「エロイカ」では、いたずらに劇的な誇張を避けたダイナミックな進行で、この曲が内に秘めた大らかな世界を十二分に歌い出している。
充分に音を柔らかくふくらませて、オーケストラ全体をよく歌わせた表現である。
葬送行進曲のテンポと後半の対位法的進行のところの見事な処理、第4楽章の大きく波打つような情感の盛り上がり、こうありたいと思う表現である。
第4番の古典的詩情の曲もワルターの得意とするところである。
第2楽章アダージョの夢のようにのどかな主題をいかに幸福感に満ちて歌ってゆくことか。
第5番は聴き終わって威圧的なものを少しも与えられずに、実に堂々たる作品であった感銘を深くする。
それがワルターの純粋さなのである。
これは伝統を血とした者の純粋な思考が生みだした演奏で、単に情緒的とかロマン的とかの部分的要素を把握した演奏スタイルではないのである。
ワルターが正直に、深く考え感じぬいた結果の「運命」である。
フィラデルフィア管弦楽団との「田園」は、コロンビア交響楽団との共演よりもやや速いテンポで、情緒的に統一のある表現でまとめている。
第7番は野性的と言えるほどに情熱的なこの曲を、ワルターは平穏な特徴をつかんで演奏しているところに特徴がある。
スケルツォと終楽章をトスカニーニと比較してみると、その特徴がよくわかる。
第8番も、じつに柔らかな良い演奏で、現役の指揮者として最盛期にあったこの時代の録音は、やはり貴重なもので、特に第7番はワルター・ファンには、聴き逃せない演奏である。
第9番の演奏の個性的で、歌に満ちた表現は高く評価したい。
その表現はワルター特有の非常に情緒的で流麗なスタイルであり、声楽の部分も良い出来で、個々の歌唱ばかりでなく、四重唱も立派である。
このような一貫した楽想の下に統一された「第9」は他にはない。
総じてニューヨーク・フィル時代のワルターの録音は、ステレオ盤とは幾分異なるワルター像を記録していると言えよう。
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2022年09月24日
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クナッパーツブッシュの面目躍如いった演奏だが、ブレーメン盤の異形をオーソドックスな器に封じ込めたもの、と言うことができる。
全体に客観性を増した演奏と言えようが、異形さが封じ込められた分、かえって恐ろしさが増すということもあるわけだ。
ミュンヘン・フィルの表現力がブレーメン国立フィルを上回ることで余裕が生まれ、格調の高さも段違いである。
また、極めてロマンティックな表現で、音楽は常にゆとりをもって表情豊かに歌っており、その響きにはコクがある。
第1楽章でのテンポ操作はより自然になり、第2楽章でのスコアの改変もない。
「葬送行進曲」は朗々と歌うなかにヒューマンな感情が表現され、非常に味わい深い。
後半の2つの楽章も悠揚迫らずといった趣があり、至るところにクナッパーツブッシュならではの表情がある。
第3楽章トリオのホルンなど、まるでアルプスの山々が眼前に現れたような伸びやかさである。
フィナーレもより高い視点からスコアを眺めた、スケールの大きさを獲得している。
表現力と造型、音そのものの存在感など、この指揮者の4種の『エロイカ』の録音の中で、最もバランスの取れた演奏として評価しておきたい。
筆者は必ずしもこの演奏を愛聴しているとは言えず、当レビューを書くために久々に聴いたのであるが、この『エロイカ』のような演奏が、コンサートに集まった聴衆を唖然とさせ、一回性の魔術で呪縛したことは容易に想像できる。
全くユニークで、特異な芸風がよく表れた演奏と言うほかない。
グランドスラムから発売された当国内盤のCDは、既出のものに較べ音質が改善されており、この種のものとしては録音も良好である。
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2022年09月15日
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クナッパーツブッシュ指揮による『エロイカ』の録音は、現在のところ4種存在する。
その中で、最も異彩の光を放つのが、このブレーメン盤であり、それにしても常識では語れないベートーヴェンである。
第1楽章冒頭の2つの和音、その間の息苦しいまでの沈黙に耐えるのは容易ではない。
巨人の踏み鳴らす足音のような凄絶さは、他の3種の録音を凌駕するものだ。
続く主部も今にも音楽が止まるのではないかと思わせるほどの超スローテンポに始まるが、さすがのクナッパーツブッシュも、このテンポを最後まで維持することはできなかったのだろう。
すぐに軌道修正していく様が面白い(その後のテンポは案外速めだ)。
全体に最晩年のクナッパーツブッシュとは違った若く強靭な生命感があるのが大きな魅力である。
第2楽章「葬送行進曲」は、硝煙くすぶる荒れ果てた戦の跡が目に浮かぶように始まる。
オケの色彩感が乏しい分、暗めのモノトーンの音色が一層凄味を醸し出しており、葬儀への参列者に襲いかかる突発的な嗚咽のようで痛々しい。
第3楽章では、オーボエに歌われたテーマが、弦や他の管楽器と共にフォルティッシモで歌われるところは、肉を斬って骨を断つような音の抉りの深さに恐れ入る。
トリオのホルンの最強奏は、聴くたびに魂を震撼させられる。
クナッパーツブッシュの胆力の為せる技であり、単なる大音響でないことは明らかである。
フィナーレも冒頭の遅いテンポが素晴らしい。
すべての16分音符が見えるようであり、剣の達人の技をスローモーションで解析するような趣がある。
ポコ・アダージョの深々とした響きも良いし、コーダのプレストも慌てず騒がず『エロイカ』のラストに相応しい堂々たる終結である。
当盤は正規の国内盤としてターラから出ているが、音の歪みもなく、情報量も圧倒的に多い。
マイクの捉えた演奏の凄絶さも克明に伝えてくれている。
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