ベートーヴェン

2022年11月10日


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バックハウスが1950〜54年に録音したベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集のモノラル録音は、録音史上における最大の芸術的遺産の一つと断言する事に筆者は躊躇しないが、その録音を補完して、彼のライヴにおける姿を知る為にもうひとつ重要な録音が、この1954年に録音された、「カーネギー・ホール・リサイタル」である。

ステレオ録音でしかバックハウスを知らない人は、この録音を聴くと大いに驚く事であろう。

ここに聴くバックハウスの姿は、まさに即興性の塊で、インテンポの中に絶妙な揺らぎや加速などが交錯する事によって、生々しい一期一会の芸術的神秘、音楽の迫真性を獲得している。

これこそがバックハウスの芸術の真髄だったのだ。

このディスクの中でも特に第32番の演奏は、20世紀最大のベートーヴェン解釈者としてのバックハウスの最高の記録であると筆者は断言したい。

第32番はベートーヴェンの晩年屈指の名曲として知られており、通なクラシックファンの間で同曲を溺愛する人が決して少なく事を筆者は承知しているが、おそらくそういう人たちもこのバックハウスの解釈を聴くと間違いなく仰天することだろう。

 第1楽章は8:10、第2楽章は13:25であるが、問題は第2楽章であり、これ程、演奏時間が短い同曲の演奏は殆ど皆無だ。

なぜこれ程短いのかと言うと、前半のアダージョが次第に加速を帯びて途中から完全にアンダンテになっているからである。

これは同録音のみならず、他日の録音にも聴かれるバックハウスの同曲に対する一貫した解釈なのであるが、これについては「弾き飛ばし」であると批難する声が一般にあるのを筆者ならずとも耳にすることであろう。

しかし、ここにこそ、バックハウスの本質があると言って良い。

バックハウスはこの曲について、多くのピアニストが第2楽章前半のアダージョ部で表現しようとする「人間的な感情への沈潜」を徹底的に拒否しようとしているのではないだろうか。

人間的感傷を吹き飛ばして、一気に天の高みに飛翔する事こそがバックハウスが同曲に見出したベートーヴェンの姿であったと、この演奏を聴くと理解される。

ベートーヴェンの第32番に興味のある人、またバックハウスのベートーヴェン解釈に興味ある人には必聴の録音であるとお薦めしたい。

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2022年11月08日


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クラウディオ・アバドはかつての手兵であったベルリン・フィルとドイツ・グラモフォンにベートーヴェンの交響曲全集を1999年から2000年にかけて録音しているが、本作はそれに先立つ1996年のザルツブルク音楽祭での実況録音である。

話題の「ベーレンライター新版」とは銘打ってはいないものの、アバドが各所で新鮮な解釈を聴かせる(例:フィナーレのピッコロなど)ことも発売当時大いに話題になった。

要は、アバドはベートーヴェンの交響曲の中でも、第9番には特別に自信を持っていたということを窺い知ることが出来るところだ。

このように、アバドが自信を持っていたこともあり、筆者としても、アバドによるベートーヴェンの中で最も出来がいいのは第9番であると考えている。

全体を第9番としては相当に速いテンポで演奏しているが、せかせかした印象をいささかも与えることがなく、トゥッティに向けて畳み掛けていくような力感溢れる気迫とともに、どこをとっても情感の豊かさと歌謡性を失うことがないのが素晴らしい。

特にベルリン・フィルも、この第9番においては、さすがにフルトヴェングラーやカラヤンなどの往年の指揮者による重厚な演奏にはかなわないものの、倍管にしたことも多分にあるとは思うが、重心の低い奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。

特に、終楽章の合唱の壮麗さは抗し難いほどの美しさを誇っており、これは世界最高峰とも称されるスウェーデン放送合唱団の起用が見事に功を奏していると言える。

ソリスト陣も非常に豪華で素晴らしい歌唱を披露しており、スウェーデン放送合唱団とともにエリック・エリクソン室内合唱団にもアバドの意思が反映され、かつてないほど精緻な響きを聴かせてくれ、最高のパフォーマンスを示していると言えるだろう。

いずれにしても、新しい研究成果に基づくベーレンライター版使用による本演奏は、近年の古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとなったものであり、アバドによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては最高峰にある名演と高く評価したい。

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アバド&ベルリン・フィルによる1度目のベートーヴェンの交響曲全集のうち、第1番から第6番については、少なくとも往年の名指揮者による重厚な名演に聴きなれた耳からすると、天下のベルリン・フィルを指揮したにしてはあまりにも軽佻浮薄な演奏であると言えるところであり、筆者としてもあまり高い評価をして来なかった。

ところが、本盤に収められた第7番については、第6番までとは異なり、アバドによるベートーヴェンとしては少なくとも軽佻浮薄とまでは言い切れないのではないだろうか。

もっとも、同曲の過去の名演、例えばフルトヴェングラー&ウィーン・フィル(1950年)、クレンペラー&ニューフィルハーモニア管(1968年)、さらにはカラヤン&ベルリン・フィル(1978年ライブ(パレクサ))などと比較すると、さすがに音の重心は低いとは言い難い。

もっとも、本演奏では、ベルリン・フィルの音色にもかつての伝統的な重厚な音色の残滓を聴くことが可能であるとともに、アバドならではの豊かな歌謡性が演奏全体に独特の艶やかさを付加している。

アバド&ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては、後述の第8番や第9番に次いで、佳演と評価するのにいささかの躊躇もするものではない。

また、新しい研究成果を踏まえたベーレンライター版使用による本演奏は、近年主流となっている古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとも言えるところであり、その意味においても相当の評価をせざるを得ないとも考えられるところだ。

次いで、第8番については、楽曲の性格も多分にあるとは思うが、アバドの演奏にも第7番以上に違和感を感じるところがない。

フルトヴェングラーなどかつての大指揮者たちが名演を遺していないことも功を奏しているのかもしれない。

それ以上にアバドによる歌謡性豊かな指揮が、往年のワインガルトナーによる名演の如き極上のワインのような味わいを演奏全体に付加するのに成功している。

少なくとも、アバドによるベートーヴェンの交響曲演奏の中では、前述の第7番を凌駕するとともに、第9番と並んで名演と評価してもいいのではないだろうか。

録音については従来盤でも十分に高音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質はより鮮明になるとともに音場が幅広くなった。

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2022年11月07日


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本盤に収められたベートーヴェンの「第5」や「田園」を聴いていると、ベルリン・フィルの音色の前任のカラヤン時代からのあまりの変わりように大変驚かされる。

アバドがベルリン・フィルの芸術監督に就任してから10年近く経った頃の録音でもあり、その間にカラヤン時代の名うての奏者の大半が代替わりしたのも大きいと言えるのかもしれない。

それにしても本演奏は、フルトヴェングラーはもとより、カラヤンによる重厚な演奏とは一味もふた味も違う軽妙な演奏である。

その音色はカラフルという表現が当てはまるほどで、南国イタリアの燦々と降り注ぐ陽光を思わせるような明るい響きが支配している。

アバドが1980年代にウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集には若干なりとも存在したドイツ風の重厚な響きは、もはや本演奏では完全に一掃されており、良くも悪しくもアバドの個性が完全に発揮された演奏ということになるのであろう。

このような軽佻浮薄な演奏を、天下のベルリン・フィルを指揮して成し遂げたということについては、古くからのクラシック音楽ファンからすれば許し難いことのように思われるのかもしれない。

筆者としてはさすがに許し難い演奏とまでは思わないが、好き嫌いで言えば到底好きになれない演奏と言わざるを得ない。

しかしながら、最新の研究成果を採り入れたベーレンライター版使用による本演奏が、近年におけるピリオド楽器の使用や古楽器奏法による演奏の先駆けとなったということについては否定できないところであり、その意味においては一定の評価をせざるを得ないのではないかと考えている。

録音については従来盤でも十分に高音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質はより鮮明になるとともに音場が幅広くなった。

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アバドがベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集の録音を開始したのは、芸術監督に就任後10年近く経ってからである。

その理由としては、芸術監督就任の少し前にウィーン・フィルと全集を録音していたのが何よりも大きいとは思うが、ベルリン・フィルを完全に掌握するのを待っていたという側面もあったのではないだろうか。

前任のカラヤンも、ベートーヴェンの交響曲全集の録音を開始したのは芸術監督就任から10年近く経ってからであったことを考慮に入れれば、これは天下のベルリン・フィルの芸術監督の宿命と言えるのかもしれない。

いずれにしても、本演奏は、良くも悪しくもアバド色の濃いベートーヴェンと言えるだろう。

フルトヴェングラーやカラヤン時代の特徴であった重量感溢れる重厚な音色がベルリン・フィルから完全に消え失せ、いかにも軽やかな音色が全体を支配していると言ったところだ。

かつて、とある影響力の大きい某音楽評論家が自著において、本演奏を「朝シャンをして香水までつけたエロイカ」と酷評しておられたが、かかる評価が正しいかどうかは別として、少なくとも古くからのクラシック音楽ファンには許しがたい演奏であり、それこそ「珍品」に聴こえるのかもしれない。

筆者としても、さすがに許しがたい演奏とまでは考えていないが、好き嫌いで言えば決して好きになれない軽佻浮薄な演奏と言わざるを得ない。

しかしながら、最新の研究成果を反映させたベーレンライター版の使用による本演奏は、近年主流の古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとも言えるところであり、その意味においては、好き嫌いは別として一定の評価をせざるを得ないのではないかと考えている。

録音は従来盤でも十分に鮮明な高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、若干ではあるが音質がさらに鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。

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アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間は、持ち味である豊かな歌謡性と気迫溢れる圧倒的な生命力によって素晴らしい名演の数々を成し遂げていた。

しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後は、なぜかそれまでとは別人のような借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになってしまった。

前任者であるカラヤンを意識し過ぎたせいか、はたまたプライドが高いベルリン・フィルを統御するには荷が重すぎたのかはよくわからないが、そうした心労が重なったせいか、大病を患うことになってしまった。

ところが、皮肉なことに、大病を克服し芸術監督退任間近になってからは、凄味のある素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。

アバド晩年のCDは、いずれも円熟の名演であり、紛れもなく現代最高の指揮者と言える偉大な存在であった。

それはさておきアバドは、ベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を2度完成させている。

正確に言うと、「第9」だけは重複しているのだが、第1〜8番の8曲については別の演奏であり、1度目は前述の大病を患う直前のスタジオ録音、そして2度目は大病を克服した直後のライヴ録音となっている。

本盤に収められた第1番及び第2番は、1度目の全集に含まれるもの。

演奏自体は前述のような低調なアバドによるものであり、2度目の録音を大病克服直後に行ったことからしても、アバド自身もあまり満足していなかったのではないかと考えられる。

最新の研究成果を盛り込んだペーレンライター版を使用したところは、いかにもアバドならではと言えるが、記者の質問に対して版の問題は他に聞いてくれと答えたという芳しからざる噂もあり、実際のところ、アバドが自らの演奏に版の問題をどのように反映させたのかはよくわからないところだ。

本演奏を聴くと、アバドならではの歌謡性は豊かであるが、非常に軽やかな演奏という印象だ。

これは、近年のピリオド楽器や古楽器奏法による演奏を先取りするものと言えるが、天下のベルリン・フィルを指揮してのこのような軽妙な演奏には、いささか失望せざるを得ないというのが正直なところである。

前々任者フルトヴェングラーや前任者カラヤンなどによる重厚な名演と比較すると、長いトンネルを抜けたような爽快でスポーティな演奏と言えるが、好みの問題は別として、新時代のベートーヴェンの演奏様式の先駆けとなったことは否定し得ない。

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2022年11月04日


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本盤に収められたベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番、そして、ピアノ・ソナタの第12、22、23番は、東西冷戦の真っ只中であった時代、当時の鉄のカーテンの向こう側からやってきた壮年期のリヒテルによる記念碑的な名演だ。

リヒテルは、偉大なピアニストであったが、同時代に活躍していた世界的な大ピアニストとは異なり、全集を好んで録音したピアニストではなかった。

こうした事実は、これだけの実績のあるピアニストにしては大変珍しいとも言えるし、我々クラシック音楽ファンとしてはいささか残念であるとも言えるところである。

したがって、リヒテルがベートーヴェンのピアノ協奏曲全集やピアノ・ソナタ全集を録音したという記録はない。

ピアノ協奏曲について言えば、スタジオ録音としては、単発的に、本盤の第1番や第3番などを録音したのみであり、他の諸曲についてはライヴ録音が何点か遺されているのみである。

ピアノ・ソナタについても同様であり、こうしたことは、リヒテルがいかに楽曲に対する理解と確信を得ない限り、録音をしようとしないという芸術家としての真摯な姿勢の証左とも言えるのではないだろうか。

それだけに、本盤に収められた各演奏は、貴重な記録であると同時に、リヒテルが自信を持って世に送り出した会心の名演奏とも言えるところだ。

ピアノ協奏曲にしても、ピアノ・ソナタにしても、リヒテルは、超絶的な技巧は当然のことながら、演奏全体のスケールの雄大さ、各フレーズに込められたニュアンスの豊かさ、そして表現の彫りの深さなど、どれをとっても非の打ちどころのない演奏を展開している。

人間業とは思えないような強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現の幅広さは桁外れであり、十分に個性的な表現を駆使しているが、それでいて、そうした表現があくまでも自然体の中で行われており、芝居がかったところがいささかも見られない。

要は、恣意的な解釈が聴かれないということであり、ベートーヴェンへの深い愛着と敬意以外には私心というものが感じられないのが見事である。

個性の発揮とスコア・リーディングの厳格さという二律背反する要素を両立させている点に、本演奏の凄みがあるとも言えるだろう。

とりわけ、ピアノ・ソナタ「熱情」におけるピアノが壊れてしまうと思われるような強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまでのダイナミックレンジの幅広さには出色のものがあり、終楽章終結部の猛烈なアッチェレランドはもはや人間業とは思えないほどの凄みのある演奏に仕上がっていると高く評価したい。

また、ピアノ・ソナタ第22番は、「ワルトシュタイン」と「熱情」に挟まれるなど地味な存在であるが、リヒテルによる本演奏によって、必ずしも有名とは言い難い同曲の真価を聴き手に知らしめることに成功したとも言えるところであり、その意味では稀有の超名演と評しても過言ではあるまい。

ピアノ協奏曲第1番のバックをつとめているのはミュンシュ&ボストン交響楽団であるが、さすがはストラスブール出身で、ブラームスなどの交響曲において名演を聴かせてくれたミュンシュだけに、本演奏においてもドイツ風の重厚な演奏を行っており、リヒテルによる凄みのあるピアノ演奏のバックとして、最高のパフォーマンスを示していると高く評価したい。

いずれにしても、本盤に収められた各演奏は、リヒテルのピアニストとしての偉大さを十二分に窺い知ることが可能な圧倒的な超名演と高く評価したい。

音質については、本盤におさめられた楽曲のうち、ピアノ協奏曲第1番とピアノ・ソナタ第22番が、数年前にXRCD&SHM−CD化され、それは圧倒的に素晴らしい音質であった。

しかしながら、今般、それらにピアノ・ソナタ第12番、第23番を加えてSACD化されたというのは何と言う素晴らしいことであろうか。

とりわけ、3曲のピアノ・ソナタの音質改善効果には目覚ましいものがあり、音質の圧倒的な鮮明さ、そして何よりもリヒテルの透徹したピアノタッチが鮮明に再現されるのは、1960年の録音ということを考慮に入れると、殆ど驚異的とさえ言えるだろう。

いずれにしても、リヒテルによる圧倒的な超名演をSACDによる超高音質で味わうことができるようになったことを心より大いに喜びたい。

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2022年10月30日


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トスカニーニとBBC交響楽団の数少ない共演は、ベートーヴェン作品の中では珍しく、各楽章に標題が付された「田園」。

トスカニーニの明快で輝かしい表現は、同時にこれ以上ないカンティレーナのみずみずしさにも充ち溢れている他、各場面の意味と魅力を明確にクローズ・アップさせた演奏設計の旨味にも比類なきものを示している。

曲の持つ、描写的音楽としてのドラマトゥルギー的要素と、交響曲としての古典的構成要素のバランスが秀逸なトスカニーニは、ベートーヴェン自身の述べた「絵画というよりも感情の表現に重きを置いた」という意図を体現することに成功している。

とりわけ第3楽章からフィナーレにいたる一連の流れは、過剰な感情表出を抑えつつも、絶妙なクライマックスを構築。

いわゆるドイツ的な演奏とはその本質を異にするが、結果的に作品のイデアに最も肉迫し得た内容と考えてよいだろう。

トスカニーニのもっとも脂の乗り切っていた時期の音源として、歴史的に意義深い録音としても重要な位置を占めるであろう。

「悲劇的序曲」は、緊張感みなぎる、引き締まった厳しい造形だ。

BBC響の音色は明晰で、ドイツ的な重い暗い響きではないが、その強靭な響きから聴こえてくるのはまぎれもないブラームスである。

精神主義に寄りかからず、スコアに書いてある音そのものにドラマを語らせるところがあり、当時からするとそのショックは如何ばかりであったろうと思う。

速いテンポのなかにも無駄のない、完成された表現である。

「魔笛」序曲は、テンポがかなり速く、この演奏にメルヘン的イメージを期待すると肩透かしを食らってしまう。

しかし、先入観を持たずに聴けば、これは近代的な感覚を持ったフレッシュな演奏であると感じられる。

何よりリズムの斬れが良く、音楽がはじけるように生き生きとしている。

コンサート・ピースとして完成された表現を目指したものであろうが、トスカニーニのスタイルとして徹底しており、そこに微塵の迷いも感じられない。

BBC交響楽団というオケは実に素晴らしく、後年のNBC響との演奏に優るとも劣らない。

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2022年10月28日


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本盤に収録されているトスカニーニのベートーヴェン「第9」は1941年7月24日におけるブエノスアイレスのコロン歌劇場でのライヴであるが、これは「トスカニーニの1941年ブエノスアイレス・ライヴ」として、クラシック・ファンの間ではかなり有名な演奏である。

これまでにもアリオーソなど、一部のヒストリカル・レーベルからリリースされたこともあるが、それらは入手が難しくて、実際に聴くのはこれが初めてである。

もっとも、音質的には良好とはちょっと言い難く、アナログ・テープ再生時独特のノイズ・レベルがかなり高いし、音場もこもり気味で、録音年代を考慮しても音質水準はそれほど高くはないようである。

しかし、その音質から伝わってくるアンサンブルの燃焼力、そして演奏自体の張り詰めた緊迫感がただごとでなく、例えばフルトヴェングラーのバイロイトの「第9」のように、音質を超えて伝わってくる強度のリアリティに、聴いていて圧倒させられる。

一聴すると、まず第1楽章冒頭の強奏部から凄まじいティンパニの強打に驚かされるし、その後の不気味なほどのうねりが圧倒的である。

たとえば展開部(4:46)での爆発的な強奏といい、(5:55)での度を越したティンパニの激打といい、トスカニーニの流儀による推進性みなぎる音楽の流れの中から、恐ろしいほどのダイナミクスが常に充溢しているし、再現部からコーダにかけてのテンションの高さも、常軌を逸したような凄味に満ちていて圧倒させられるものである。

他の楽章も同様だが、第2楽章は第1楽章より音質が一段鮮明で、演奏の迫力感は殆ど常軌を逸している。

逆に終楽章は相対的に音質が落ち、局面によってはやや聴き苦しい。

そのためか否か、トスカニーニの指揮も前半2楽章ほどの凄味には欠けるようにも思える。

それでもアンサンブルのものすごい燃焼力はジリジリ伝わってきて、やはりこれは並の演奏ではないという印象は、最後まで揺るぎなかった。

オケは南米ブエノス・アイレスのテアトル・コロン・オーケストラ(ケルン歌劇場のオーケストラ)で、弱いセクションを(特に木管楽器を中心に)補強しており、NBC交響楽団のメンバーも加わっている。

とは言っても、腕利きのメンバー(特に弦楽セクション)がいることは間違いない(所々、見事なアンサンブルが聴ける)。

時代(第2次大戦中だから)からしても、亡命演奏家が多く参加しているであろうから、当然であろう。

しかしながら、この録音の魅力は、たとえばNBC交響楽団との演奏ではオーケストラの壮麗なサウンドに耳を奪われて見落としがちになる、デモーニッシュな表現が剥き出しになっていること。

全体に独特の白熱感があり、最後の猛烈な拍手の嵐もうなずけるものである。

あくまでも、ドキュメントとしての価値が高いものであるが、演奏としても激しい熱狂の「第9」として、聴いて損はない。

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2022年10月26日


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本盤に収められているのは、1954年のいずれもベルリン・フィルとのベートーヴェンの交響曲第5番及び第6番になる。

1947年の演奏の方は、フルトヴェングラーの第2次大戦後の復帰コンサートということもあって、歴史的な超名演との評価が定着しており、本盤に収められた1954年の演奏については、やや分が悪いと言わざるを得ない。

フルトヴェングラーの演奏は、演奏内容の深みにおいては共通しているものの、一つ一つの演奏会に対して、初めて楽曲に接する時のような気構えで臨んだとも言われていることから、各演奏の違いには顕著なものがある。

そうした中にあっても、1947年と1954年の演奏の違いは桁外れであると言えるところであり、とても同じ指揮者による演奏とは思えないほどであると言えるだろう。

交響曲第5番において顕著であるが、フルトヴェングラーの美質でもあった実演におけるドラマティックな表現は、本盤の演奏では随分と影を潜めており、その意味ではある種の物足りなさを感じるかもしれない。

もっとも、そうした踏み外しはないものの、演奏の持つ奥行きの深さ、彫りの深さ、独特の深沈とした味わい深さは、交響曲第5番及び第6番ともに、1947年の演奏を大きく凌駕していると言えるところであり、大巨匠フルトヴェングラーも死の年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地にある演奏と評しても過言ではあるまい。

いずれにしても、本盤の演奏は、1947年の演奏などとの対比において諸説はあると思うが、筆者としては、フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲第5番及び第6番の演奏解釈の究極の到達点とも言うべき至高の超名演と高く評価したい。

それにしても、音質は素晴らしい。

1947年の演奏についても、従来盤との違いは歴然としていたが、1954年の演奏については、より後年の演奏だけに、高音質化の効果については歴然たるものがあると言えるだろう。

1954年のライヴ録音、そして音質が悪いとして定評のあるフルトヴェングラーのCDにしては、各楽器セクションの分離度や鮮明さは圧倒的であると言えるところであり、さすがに最新録音のようにはいかないが、この当時の演奏としては最高水準の音質に仕上がったと評してもいいのではないだろうか。

いずれにしても、フルトヴェングラーによる至高の超名演を、現在望み得る最高の高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2022年10月25日


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ベンノ・モイセイヴィッチは20世紀最大のピアニストの一人である。

レシェティツキー門下の巨匠ベンノ・モイセイヴィッチの演奏は、ラフマニノフとホフマンの両巨頭に絶賛されたように、楽譜に対して「音楽的に」自由に対処するロマン派的演奏であるが、それはベートーヴェンの演奏に於いても最良の意味で如何なく発揮されている。

技巧に苦労を感じさせない、いわば天衣無縫型のピアニストの最右翼であるモイセイヴィッチ。

軽快さと柔軟さに富んだ指さばきは当代無二で、ラフマニノフやホフマンといったトップクラスのピアニストと比肩されうるものであった。

若き天才性の具現である第3番と、円熟の極みである第5番「皇帝」の名盤。

前者はマルコム・サージェント指揮フィルハーモニア管弦楽団との共演。

後者はジョージ・セル指揮ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団との共演。

第3番のラルゴの歌わせ方の美しさ、「皇帝」の終楽章の舞曲的闊達さもさることながら、このCDにおける白眉は、第3番第1楽章のC・ライネッケによるカデンツァで、まさに一陣の吹き抜ける風のごとく流麗で、その音の粒の揃い方の見事さに匹敵する妙技は、他では聴き得ないものだ。

第5番「皇帝」はセルのストイックで精緻を極めたオーケストラ演奏と、モイセイヴィッチの貴族的で理性的な処理が見事である。

このCDに収録されている1950年録音の「皇帝」でもっともすぐれている部分は、切ないほどに美しいレガート楽節に満ちた、全編美しさが持続する緩徐楽章だ。

どちらも瑞々しさと優雅の融合した非常に高度な意味での技術と風格を兼ね備えたもので、これらの曲の一つの頂点として引き継がれる価値があるものと思う。

NAXOSの復刻もオリジナル(前者はテープ、後者はSP)の音色を生かした素晴らしいもので、ライナーノートによれば本来の演奏を傷付けないようにクリックノイズの除去程度の処理のみを行なっているそうである。

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2022年10月24日


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チェコの名指揮者であったノイマンの得意のレパートリーは、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコの作曲家による楽曲や、ボヘミア地方で生まれたマーラー(チェコ出身の指揮者はそれを誇りとしており、クーベリックや近年のマーツァルなど、チェコ出身の指揮者には、マーラーをレパートリーとした者が多い)の交響曲であったが、それ以外の楽曲、とりわけベートーヴェンの楽曲についてはなかなかの名演奏を遺しているところだ。

本盤に収められたベートーヴェンの序曲集は、そうしたノイマンの得意としたレパートリーの一つと言えるだろう。

こうして、エクストンが、最晩年のノイマンとの録音を行ってくれたことは大変に素晴らしいことであったとも言える。

ノイマンによる各序曲集の演奏は、聴き手を驚かすような奇を衒った解釈を施しているわけではない。

楽想を精緻に、そして丁寧に描き出して行くというオーソドックスなアプローチに徹しているところであり、それはあたかもノイマンの温厚篤実な人柄をあらわしているかのようであるとも言える。

もちろん、ノイマンの演奏が穏健一辺倒のものではないという点についても指摘しておかなければならないところであり、ベートーヴェンの楽曲に特有の強靭にして力強い迫力においてもいささかも不足はない。

それでいて、無機的で力づくの強引な演奏など薬にしたくもなく、常に奥行きのある音が鳴っており、ベートーヴェンの楽曲を単なる威圧の対象として演奏するという愚には陥っていない。

豊かな抒情に満ち溢れた情感豊かな表現も随所に聴かれるところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた演奏に仕上がっているとも言えるところだ。

聴き手によっては、ベートーヴェンの序曲集だけに、よりドラマティックな表現を期待する人も多いとは思うが、聴けば聴くほどに味わい深さが滲み出てくる、いわばいぶし銀の魅力を有する本演奏は、ノイマンとしても最晩年になって漸く成し得た大人の指揮芸術の粋であり、筆者としては、ノイマンによる遺言とも言うべき至高の名演と高く評価したい。

当時、トランペットのケイマルやホルンのティルシャルなど、一流のブラスセクションを擁していたチェコ・フィルの演奏も秀逸であり、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

そして何と言っても音質も素晴らしい。

このエクストンのゴールドラインシリーズは、音質の鮮明さ、音圧の凄さ、音場の幅広さなど、いずれをとっても一級品の仕上がりである。

いずれにしても、ノイマンの最晩年の至高の名演を高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2022年10月23日


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1955年11月5日 ウィーン国立歌劇場こけら落としの上演のライヴ(モノラル)録音であるが、最初に音質の驚異的改善から報告しなくてはならない。

この時代のライヴ録音としては最上級の出来栄えではなかろうか。

丁寧な作業から鮮明に浮かび上がったのは、まず歴史的公演の恐るべきテンションの高さ。

この演奏にはライヴならではのおよそ比較を絶した熱気と高揚があり、そのことが指揮者、歌手、オケ、合唱の気迫が音からひしひしと伝わってくる。

『フィデリオ』に思い入れのあるベームは、残された『フィデリオ』の録音すべてが名演であるが、中でもこの1955年の再建記念公演は気合の入り方が違っている。

ベーム特有の芯のある音を要所要所に立て、それを柱としてがっちりと音楽を組み立てている。

ベームが低音を抉りつつ、弦に高音を輝かしく強奏させ、立体的、かつ美しくも強靭な響きで音楽を構築していく様子は、今回のCD化で初めて明らかになった。

解釈の基本はベルリンやドレスデンでの録音と同じ路線にあるが、しなやかさ、美しさを増した当盤の魅力は大きいものがある。

長いベームの音楽歴においても、特筆すべき名演である。

歌手がまた大物揃い。

フルトヴェングラーのお気に入りのドラマティック・ソプラノで、彼がEMI録音でもレオノーレ役に起用したマルタ・メードルがここでもレオノーレ。

ウィーンのモーツァルト・テノールとして名高いアントン・デルモータがフロレスタン。

偉大なバリトン、パウル・シェフラーが凄みのあるピツァロ。

ワーグナー・バスとして一世を風靡したルートヴィヒ・ヴェーバーが味のあるロッコ。

そして名花イルムガルト・ゼーフリートがマルツェリーネ。

ウィーンの人々に愛されたテノール、ヴァルデマール・クメントがヤキーノと、まさに1950年代のウィーンを代表する歌手ばかりで、まさにオールスター・キャストと言えよう。

当時のベスト・メンバーを集めた歌手陣が、1人1人熱演しているのはもちろんだが、アンサンブル・オペラとしての行き方を堅持していた時代のウィーンらしい、密度の高いチーム・ワークを聴かせる。

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2022年10月13日


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クナッパーツブッシュのウィーン・フィルとの『エロイカ』(1962年ライヴ)は、ミュンヘン・フィル盤とともにクナッパーツブッシュの巨大さを味わえるのが嬉しい。

第1楽章の凄絶さはブレーメン盤に譲るものの、音の響きを愉しむ高尚な遊びの精神が演奏に桁外れの大きさを与えている。

その点、月並みな論評ながらブルックナー的な演奏と言えるだろう。

クナッパーツブッシュお得意の不意打ちのアクセントもウィーン風に柔らかに翻訳されており、演奏のところどころに可憐な花を咲かせている。

大らかな分、ミュンヘン・フィル盤ほど堅牢な造型ではない。

現実の世界からより自由になった孤高の芸術家の「魂の逍遥」を味わいたい。

第2楽章は、晩年のクナッパーツブッシュとウィーン・フィルだけが創造できた異空間である。

ヴァイオリンの調べに伴う何と言う色香…、喪服を纏った若き未亡人のような妖艶さとでも言おうか。

涙に濡れるオーボエの嘆きも、聴く者の心を濡らさずにはおかない。

中間部の対位法も、晩年のクナッパーツブッシュならではの巨大な音の建築物となっている。

スケルツォもクナ節全開だ。

主部のリズムの何と言う刻みの深さ。トリオでは、クナッパーツブッシュとプレイヤーの微笑ましい心の交流が見て取れる。

ホルンのプレイヤーに向かって「そこは遠慮なく吹いて下さいよ」と合図を送ると「よしきた。任せとけ」とばかりに、とんでもない最強奏で応える。

オケのメンバーは、このようにクナッパーツブッシュに褒められたい一心で張り切る。

クナッパーツブッシュも彼らの頑張りに満足げな表情で応える、というわけだ。

さて、フィナーレの変奏曲こそは、クナッパーツブッシュの真骨頂で、まるでひとりの「英雄」の生涯を回顧するような音のドラマが展開する。

ここには、英雄の台頭、獅子奮迅の活躍から、その失脚と死までが、「叙事詩」のような壮大さで描かれているのである。

ことにテンポを落とすポコ・アダージョ以後の深い感動の歌は、クナッパーツブッシュにしか描けない。

まるでワーグナーの楽劇を聴くようであり、「なるほど、これでこそ『エロイカ』なのだ」という不思議な感動に襲われるのである。

「レオノーレ」序曲第3番も迫真の演奏である。

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2022年10月09日


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本全集は、クレンペラーの芸術が完成期を迎える時期の録音であるが、ここでは、最晩年のクレンペラーの堂々たる至芸を味わうことが可能である。

クレンペラーのスケール雄大な演奏スタイルが確立したのは1960年代に入ってからというのが一般的な見方である。

「第1」など、誰よりもテンポが遅いが、何にも邪魔をされることがない悠々たる進行は、まさに巨象が大地を踏みしめるが如き重量感に満ち溢れているが、それでいて、ウドの大木に陥ることなく、随所に聴かれる情感の豊かさも聴きものだ。

「第2」も、テンポも非常にゆったりとしたものであるが、それ故に、ベートーヴェンがスコアに記した音符の1つ1つを徹底的に鳴らし切り、あたかも重戦車の進軍のような重量感溢れる力強い演奏に仕立て上げたのは、さすがの至芸という他はない。

ベートーヴェンの交響曲の演奏スタイルとして、偶数番の交響曲は柔和に行うとの考えも一部にあるが、クレンペラーにはそのような考えは薬にしたくもなく、「エロイカ」や「第5」に行うようなアプローチで「第2」に臨むことによって、同曲をスケール雄大な大交響曲に構築していった点を高く評価すべきであろう。

「エロイカ」には、フルトヴェングラー&ウィーン・フィルによる1944年盤(ウラニア)及び1952年盤(EMI)という至高の超名演が存在しており、この2強を超える演奏を成し遂げることは困難を極める(私見ではあるが、この2強を脅かすには、カラヤンのように徹底した音のドラマの構築という、音楽内容の精神的な深みを追求したフルトヴェングラーとは別の土俵で勝負する以外にはないのではないかと考えている)が、クレンペラーによる本演奏は、そのスケールの雄大さや仰ぎ見るような威容、演奏の充実度や重厚さにおいて、前述の2強に肉薄する素晴らしい名演と高く評価したい。

冒頭の2つの和音からして胸にずしりと響いてくるものがある。

その後は微動だにしないゆったりとしたインテンポで曲想を精緻に、そして格調の高さを失うことなく描き出して行く。

クレンペラーは各楽器を力強く演奏させており、いささかも隙間風が吹かない重厚な音楽が紡ぎ出されている。

木管楽器をやや強めに演奏させるのは、いかにもクレンペラーならではのものであるが無機的になることはなく、どこをとっても彫りの深さが健在である。

全体の造型はきわめて堅固であるが、スケールは極大であり、悠揚迫らぬ重量感溢れる音楽が構築されている。

「第4」も、「第2」と同様のアプローチで、スケール雄大な演奏を繰り広げており、特に終楽章は、巨象がのっしのっしと歩くような重厚なド迫力に圧倒される、雄渾の極みとも言うべき至高の超名演だ。

クレンペラーは格調の高さをいささかも損なうことなく、悠揚迫らぬテンポで精緻に楽想を描き出している。

木管楽器を強調するのはクレンペラーならではのユニークなものではあるが、各楽器を力強く演奏させて、いささかも隙間風が吹かない重量感溢れる重厚な音楽が紡ぎだされていく。

ドラマティックな要素などは薬にしたくもなく、微動だにしないインテンポが基調であり、造型は極めて堅固である。

「第5」については、かのフルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる至高の超名演(1947年)とは対照的な演奏であるが、そのスケールの雄大さや巨木のような威容、崇高さにおいては、フルトヴェングラーによる超名演にもいささかも引けを取っていないと高く評価したい。

ゆったりとした微動だにしないインテンポは、沈み込んでいくような趣きがあるが、それでいて、いわゆる「田園」ならではの明瞭さにいささかの不足もない。

むしろ、こうした深みのアプローチが、演奏に潤いとコクを与えている点を見過ごしてはならないであろう。

ワルターやベームの「田園」のような独特の愉悦感や優美さには欠けているかもしれないが、演奏の有する深みにおいては、ワルターやベームといえども一歩譲るだろう。

「第7」も素晴らしい超名演だ。

筆者としては、1968年盤の方をさらに上位に置きたいが、本盤の方もほぼ同格の名演と高く評価したい。

楽曲の進行は殆ど鈍行列車だ。

しかしながら、鈍行列車であるが故に、他の演奏では聴かれないような旋律やニュアンスが完璧に表現されており、踏みしめるような重量感溢れるリズムなど、殆ど人間業とは思えないような圧巻のド迫力だ。

「第8」については、テンポの面だけをとれば、クナッパーツブッシュによる各種の演奏と似通っているとも言えるが、決定的な違いは、本演奏にはクナッパーツブッシュの演奏には存在した遊びの要素が全くないということであろう。

したがって、どこをとってもにこりともしない峻厳な音楽が構築されていくが、その仰ぎ見るような威容や演奏の充実度、立派さにおいては、クレンペラーによる本演奏の方をより上位に置きたいと考える。

このような微動だにしないインテンポによる威風堂々たる重厚なベートーヴェンにはただただ頭を垂れるのみである。

ベートーヴェンの「第9」の名演としては、フルトヴェングラー&バイロイト祝祭管弦楽団によるドラマティックな超名演(1951年)の印象があまりにも強烈であるが、当該名演とは対照的に、微動だにしないゆったりとしたインテンポによって曲想を精緻に、そして格調高く描き出しているクレンペラーによる重厚な名演もまた、格別な味わいに満ち溢れている。

クレンペラーは各楽器を力強く演奏させており、とりわけ木管楽器をやや強めにするのはユニークであるが、いささかも無機的な演奏に陥ることがなく、どこをとっても彫りの深い音楽が紡ぎ出されていく。

巧言令色などとは全く無縁であり、飾り気が全くない微笑まない音楽であるが、これはまさに質実剛健な音楽と言えるのではないだろうか。

全体の造型はきわめて堅固であるがスケールは極大であり、いずれにしても、本演奏は、前述のフルトヴェングラーによる名演も含め、古今東西の様々な指揮者による名演の中でも、最も峻厳で剛毅な名演と高く評価したい。

最近では、ベートーヴェンの演奏にも、古楽器奏法やピリオド楽器による小編成のオーケストラによる演奏など、軽佻浮薄な演奏が流行であるが、本全集を聴いていると、現代の演奏など、まるで子どものお遊びのように感じてしまう。

それくらい、本全集は、巨木のような大芸術作品と言うことができるだろう。

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2022年10月04日


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ヘルベルト・フォン・カラヤン生誕100周年特別企画として、同時発売のベートーヴェン・コレクションBOXからの分売。

以前LDで発売が予告されながら未発売となっていた、テレモンディアル原盤の秘蔵映像を初商品化。

映像としては1979年のザルツブルク・イースター音楽祭でのライヴから6年後の2度目の収録となる。

その生涯をかけてベートーヴェンに取り組んだカラヤンにとって、『ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)』はとりわけ特別な作品ともいえ、ウィーン楽友協会合唱団をベルリンに呼び寄せ、カラヤンに指名された4人のソリストが世界各地から駆けつけ演奏に参加。

最円熟期のカラヤン&ベルリン・フィルとの至芸が刻印された、圧倒的な演奏である。

この『ミサ・ソレムニス』は、DGへのレコーディングと並行して収録がおこなわれた映像作品。

1979年の映像がライヴ収録というカラヤンとしては比較的珍しいケースだったこともあり、独自の映像表現も含めてより高い完成度を目指したであろうこの映像には、やはりおおいに注目したい。

ソリストではレッラ・クベルリの参加に注目。

ロッシーニやドニゼッティなど主にベルカント・オペラで活躍したこの美声ソプラノはカラヤン晩年のお気に入りだった。

彼女をヒロインとした『ランメルモールのルチア』や『椿姫』の上演とレコーディングを計画していたとも伝えられていた。

しかしながら1989年にカラヤンが亡くなってしまい、共演作品も結局ごく僅かしか残されなかった。

その意味でも貴重な映像と言えそうである。

カラヤンの映像、この『ミサ・ソレムニス』では作為的な面も少なく、映像ソフトとしてオーソドックスに仕上がっており、楽しめる。

当時のベルリン・フィルのレベル、今ではこれを超えるオケはいくらでもあるものの、やはりカラヤン時代のベルリン・フィルの威力を見せつけられた。

ドイツの作品を徹底的重厚に徹しており、これはなかなか素晴らしい出来映えだ。

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2022年09月28日


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ワルターとニューヨーク・フィル(「田園」のみフィラデルフィア管)のモノーラルによるベートーヴェンの交響曲全集。

録音条件としては後年のステレオ録音の方が当然良いし、演奏もさらに円熟している。

しかしこのベートーヴェンには、ステレオ録音とは異なる独特の精気と艶やかな情緒の表出があり、独自の説得力の強さがある。

オーケストラがニューヨーク・フィルであるのもその一因だろうが、後年の録音に比べて解釈が一層ロマン的なのも非常に興味深い。

第1番は表現上の情緒的変化がワルターの頭の中ではっきり計算されている。

だから楽曲全体を聴いた場合、そこにゆったりとした気分の統一が非常に親しみやすい印象を与え、単純にみえて実はうまく演奏するのは難しいこの曲を一糸乱れぬ統一で、しかも美しい響きですっきりと演奏しているのは立派だ。

特に第2番は、ワルターの個性と曲趣が一致したのであろう、立派な演奏である。

よく歌い、そして自然であり、いささかも渋滞したり誇張したりしない。

滔々と流れる大河のように雄大であり、また細部の美は明瞭である。

「エロイカ」では、いたずらに劇的な誇張を避けたダイナミックな進行で、この曲が内に秘めた大らかな世界を十二分に歌い出している。

充分に音を柔らかくふくらませて、オーケストラ全体をよく歌わせた表現である。

葬送行進曲のテンポと後半の対位法的進行のところの見事な処理、第4楽章の大きく波打つような情感の盛り上がり、こうありたいと思う表現である。

第4番の古典的詩情の曲もワルターの得意とするところである。

第2楽章アダージョの夢のようにのどかな主題をいかに幸福感に満ちて歌ってゆくことか。

第5番は聴き終わって威圧的なものを少しも与えられずに、実に堂々たる作品であった感銘を深くする。

それがワルターの純粋さなのである。

これは伝統を血とした者の純粋な思考が生みだした演奏で、単に情緒的とかロマン的とかの部分的要素を把握した演奏スタイルではないのである。

ワルターが正直に、深く考え感じぬいた結果の「運命」である。

フィラデルフィア管弦楽団との「田園」は、コロンビア交響楽団との共演よりもやや速いテンポで、情緒的に統一のある表現でまとめている。

第7番は野性的と言えるほどに情熱的なこの曲を、ワルターは平穏な特徴をつかんで演奏しているところに特徴がある。

スケルツォと終楽章をトスカニーニと比較してみると、その特徴がよくわかる。

第8番も、じつに柔らかな良い演奏で、現役の指揮者として最盛期にあったこの時代の録音は、やはり貴重なもので、特に第7番はワルター・ファンには、聴き逃せない演奏である。

第9番の演奏の個性的で、歌に満ちた表現は高く評価したい。

その表現はワルター特有の非常に情緒的で流麗なスタイルであり、声楽の部分も良い出来で、個々の歌唱ばかりでなく、四重唱も立派である。

このような一貫した楽想の下に統一された「第9」は他にはない。

総じてニューヨーク・フィル時代のワルターの録音は、ステレオ盤とは幾分異なるワルター像を記録していると言えよう。

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2022年09月24日


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クナッパーツブッシュの面目躍如いった演奏だが、ブレーメン盤の異形をオーソドックスな器に封じ込めたもの、と言うことができる。

全体に客観性を増した演奏と言えようが、異形さが封じ込められた分、かえって恐ろしさが増すということもあるわけだ。

ミュンヘン・フィルの表現力がブレーメン国立フィルを上回ることで余裕が生まれ、格調の高さも段違いである。

また、極めてロマンティックな表現で、音楽は常にゆとりをもって表情豊かに歌っており、その響きにはコクがある。

第1楽章でのテンポ操作はより自然になり、第2楽章でのスコアの改変もない。

「葬送行進曲」は朗々と歌うなかにヒューマンな感情が表現され、非常に味わい深い。

後半の2つの楽章も悠揚迫らずといった趣があり、至るところにクナッパーツブッシュならではの表情がある。

第3楽章トリオのホルンなど、まるでアルプスの山々が眼前に現れたような伸びやかさである。

フィナーレもより高い視点からスコアを眺めた、スケールの大きさを獲得している。

表現力と造型、音そのものの存在感など、この指揮者の4種の『エロイカ』の録音の中で、最もバランスの取れた演奏として評価しておきたい。

筆者は必ずしもこの演奏を愛聴しているとは言えず、当レビューを書くために久々に聴いたのであるが、この『エロイカ』のような演奏が、コンサートに集まった聴衆を唖然とさせ、一回性の魔術で呪縛したことは容易に想像できる。

全くユニークで、特異な芸風がよく表れた演奏と言うほかない。

グランドスラムから発売された当国内盤のCDは、既出のものに較べ音質が改善されており、この種のものとしては録音も良好である。

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2022年09月15日


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クナッパーツブッシュ指揮による『エロイカ』の録音は、現在のところ4種存在する。

その中で、最も異彩の光を放つのが、このブレーメン盤であり、それにしても常識では語れないベートーヴェンである。

第1楽章冒頭の2つの和音、その間の息苦しいまでの沈黙に耐えるのは容易ではない。

巨人の踏み鳴らす足音のような凄絶さは、他の3種の録音を凌駕するものだ。

続く主部も今にも音楽が止まるのではないかと思わせるほどの超スローテンポに始まるが、さすがのクナッパーツブッシュも、このテンポを最後まで維持することはできなかったのだろう。

すぐに軌道修正していく様が面白い(その後のテンポは案外速めだ)。

全体に最晩年のクナッパーツブッシュとは違った若く強靭な生命感があるのが大きな魅力である。

第2楽章「葬送行進曲」は、硝煙くすぶる荒れ果てた戦の跡が目に浮かぶように始まる。

オケの色彩感が乏しい分、暗めのモノトーンの音色が一層凄味を醸し出しており、葬儀への参列者に襲いかかる突発的な嗚咽のようで痛々しい。

第3楽章では、オーボエに歌われたテーマが、弦や他の管楽器と共にフォルティッシモで歌われるところは、肉を斬って骨を断つような音の抉りの深さに恐れ入る。

トリオのホルンの最強奏は、聴くたびに魂を震撼させられる。

クナッパーツブッシュの胆力の為せる技であり、単なる大音響でないことは明らかである。

フィナーレも冒頭の遅いテンポが素晴らしい。

すべての16分音符が見えるようであり、剣の達人の技をスローモーションで解析するような趣がある。

ポコ・アダージョの深々とした響きも良いし、コーダのプレストも慌てず騒がず『エロイカ』のラストに相応しい堂々たる終結である。

当盤は正規の国内盤としてターラから出ているが、音の歪みもなく、情報量も圧倒的に多い。

マイクの捉えた演奏の凄絶さも克明に伝えてくれている。

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2022年08月14日


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フルトヴェングラーによる「エロイカ」については、かなり多くの録音が遺されており、音質面を考慮に入れなければいずれ劣らぬ名演であると言えるが、ウィーン・フィルに限れば最高峰の名演は本盤に収められた「ウラニアのエロイカ」(1944年)と1952年のスタジオ録音であるというのは論を待たないところだ。

1952年盤が荘重なインテンポによる彫りの深い名演であるのに対して、本盤の演奏は、いかにも実演のフルトヴェングラーならではのドラマティックな名演である。

第1楽章からして、緩急自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして大胆なアッチェレランドを駆使するなど、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を展開している。

第2楽章の情感のこもった歌い方には底知れぬ深みを感じさせるし、終楽章の終結部に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力は、我々聴き手の肺腑を打つだけの圧倒的な迫力を誇っている。

このように、本演奏と1952年盤は同じ指揮者による演奏とは思えないような対照的な名演であるが、音楽の内容の精神的な深みを徹底して追求していこうというアプローチにおいては共通している。

ただ、音質が今一つ良くないのがフルトヴェングラーの「エロイカ」の最大の問題であったのだが、1952年盤については、EMIがSACD化を行ったことによって信じ難いような良好な音質に蘇ったところであり、長年の渇きが癒されることになった。

他方、本演奏については、これまではオーパスによる復刻盤がベストの音質であったが、1952年盤がSACD化された今となっては、とても満足できる音質とは言い難いものがあった。

ところが、次にターラレーベルによるSACD化によって、さすがに1952年盤ほどではないものの、オーパスなどのこれまでの復刻CDとは次元の異なる良好な音質に生まれ変わったところであり、筆者もこれこそが「ウラニアのエロイカ」の決定盤として愛聴してきたところだ。

しかし今般、アルトゥスレーベルから、フルトヴェングラー復刻競争にとどめをさすかのような、レーザーによる非接触方式(エルプ)による画期的復刻で、かつてない鮮度と驚きの音質のディスクが登場した。

1940年代の録音にもかかわらず、ダイナミックレンジの広さからして他盤の追随を許さず、フルトヴェングラーの極限のピアニッシモまでもが体感できる。

一例を挙げれば、葬送行進曲の最後のピアニッシモの空気感まで再現し、まるで幻のマスターテープを聴くかのようだ。

いずれにしても、「ウラニアのエロイカ」を現在求め得る最高音質CDで聴くことができる喜びを大いに噛み締めたい。

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2022年07月02日


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これは素晴らしい名演だ。

なんという力強さと強固な意思、そして壮大にして雄弁で、それらが凝縮された巨大さ。

これは、実に厚みのある「第9」で、年の瀬に聴くにふさわしいどっしりとして、しかも暖かみのある演奏だ。

「第9」を聴いて感動するなど何年ぶりのことだろう。

演奏、録音とも垢抜けないものだが、ここには現代のクラシック音楽が失ってしまったものがはちきれんばかりに詰まっている。

マタチッチは、フルトヴェングラーらの生きていた時代の証言者であり、この「第9」は、今のN響と比べてアンサンブルなど荒いものの、音楽は熱気に満ち溢れている。

マタチッチのベートーヴェンに対する共感と尊敬の念がそうさせたのであろうか。

全体を通して、各楽器がしっかりと音を鳴らして、そして心がこもっていて熱い演奏だ。

フルトヴェングラーなどの、伝説的な巨匠時代の名残であり、1970年代、日本の音楽界の発展期にこんな名指揮者と名演を繰り広げていたN響、スケールの大きい不滅の名演と言える。

現代のスマートなベートーヴェンを聴きなれた耳には奇異に聴こえるかも知れない。

決して機能的でないオーケストラの朴訥な音と相俟って、田舎くさく聴こえるかも知れない。

しかし、その音楽のなんと熱いことであろうか。

特にフィナーレのこれ以上は望めないスケールの合唱団を従えての怒涛のクライマックスは圧巻。

N響を最も燃えさせた名指揮者、マタチッチ最大の遺産の一つであり、最近の指揮者の軽佻浮薄な音楽とは対をなす立派な演奏と評価したい。

若干録音は古いが、こういうCDの発売に心から拍手を送りたい。

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2022年07月01日


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ピアノ、指揮者、オーケストラ、そして録音の4拍子が揃った稀有の名演である。

従来のピアノ協奏曲の録音だと、ピアノが主導権を握って指揮者&オーケストラは伴奏に徹するか、それとも、指揮者が大物であることもあって、ピアノがオーケストラの一つの楽器として埋没してしまうか、はたまた指揮者とピアニストが火花を散らし合ういわゆる競争曲になるケースが多い。

本盤の場合は、ピアノと指揮者&オーケストラが同格であり、両者が一体となって音楽を作り上げているのが素晴らしい。

先ずは、グードのピアノであるが、その微動だにしない堂々たるピアニズムを高く評価したい。

峻厳たる造型の構築力にも秀でたものがあり、強靭な打鍵は地の底まで響かんばかりの圧巻の迫力がある。

スケールも雄大であり、その落ち着き払った威容には、風格さえ感じさせる。

他方、ピアノタッチは透明感溢れる美しさを誇っており、特に、各曲の緩徐楽章における抒情的なロマンティシズムの描出には抗し難い魅力を湛えていると言える。

技量にも卓越したものがあるのだが、上手く弾いてやろうという小賢しさは薬にしたくも無く、一音一音に熱い情感がこもっており、技術偏重には決して陥っていない。

この風格豊かで、内容の濃いグードのピアノに対して、イヴァン・フィッシャーも一歩も譲っていない。

いわゆる古楽器奏法を行っているのだが、音楽は実に豊かに流れる。

強弱の絶妙な付け方といい、楽器の効果的な生かし方といい、フィッシャーの音楽性の豊かさや表現力の桁外れの幅の広さを大いに認識させられる。

これまでのベートーヴェンのピアノ協奏曲の演奏では聴かれなかったと言っても過言ではないほどの至高・至純の美しさを湛えていると言える。

ブダペスト祝祭管弦楽団も、フィッシャーの指揮の下、最高のパフォーマンスを示していると言える。

録音はこれまた極上であり、グードのピアノタッチや、フィッシャー&ブタペスト祝祭管弦楽団の最美の演奏を鮮明な音質で味わえる点も高く評価したい。

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2022年06月14日


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アリスによるアルバム第4弾であるが、とてもデビューして間もないピアニストの演奏とは信じられないような成熟した演奏を聴かせてくれている。

彼女のチャイコフスキ−の協奏曲と同様、彼女の演奏はピアノの技巧を感じさせない、素晴らしい音楽のみが聴こえてくるのだ。

初のベートーヴェンのピアノ・ソナタの録音であるが、初期の第3番はともかくとして、いきなり第21番「ワルトシュタイン」の録音に臨むとは、大変恐れ入った次第である。

アリスとしてもよほど自信があるのだろう。

ライナーノーツの解説によれば、10年来の研究・練習の成果とのことであるが、確かに、ここでは若きピアニスト特有の青臭さなど微塵も感じられない。

アリスのベートーヴェンは繊細な神経に支えられ、そしてスケールの大きなものであり、特に「ワルトシュタイン」はベートーヴェンのピアノを理想的に表現している。

それにしても、何という堂々たるピアニズムであろうか。

卓越した技量も当然のことながら、男性顔負けの力強い打鍵には圧倒される。

それでいて、抒情的な箇所での情感豊かさは、さすがは女流ピアニストならではの繊細な美しさに満ち溢れている。

要は、表現の幅が広いということであり、この年齢にして、これだけの表現ができるというのは、アリスの類稀なる才能と、今後の前途洋々たる将来性を感じずにはいられない。

併録の小品もいずれも名演であり、特に、ボーナストラックの「エリーゼのために」の高踏的な美しさは、実に格調が高く、アリスの芸術性の高さを改めて思い知らされた。

録音も実に鮮明であり、アリスのピアノを完璧に捉えられているのが素晴らしい。

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2022年06月07日


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エデルマンは、今をときめく名ピアニストだ。

リストやショパン、シューマン、そしてバッハのピアノ作品集などがトリトーンから発売されているが、いずれも素晴らしい名演に仕上がっている。

本盤は、そうしたエデルマンによる満を持してのベートーヴェンのピアノ・ソナタ集ということになるであろう。

そして、その期待を決して裏切ることのない名演と高く評価したい。

彼の持つ、音のパレットが確固たる音楽の造形に色を添え、エデルマンらしい感性豊かなベートーヴェンを聴かせる。

まず、選曲に注目したい。

ベートーヴェンのピアノ作品集と言えば、「悲愴」、「月光」、「熱情」が通例であるが、エデルマンは「悲愴」のかわりに第4番を録音した。

その理由は定かではないが、エデルマンのベートーヴェンのピアノ・ソナタに対する強い拘りを感じさせるのは事実だ。

その第4番は、エデルマンの手にかかるととても初期の作品とは思えないようなスケール雄大な演奏に仕上がっている。

緩急自在のテンポ設定と力強さが持ち味であるが、一つ一つの音に温かみ溢れる演奏を聴かせ、繊細な抒情にもいささかも不足はない。

「月光」と「熱情」も凄い。

「月光」では、音の伸び、弱音強音の完璧なまでのコントロールを、「熱情」では音の厚みと絶妙な和声感が特筆の演奏。

特に、両曲の終楽章の重厚にして力強い打鍵は圧倒的であり、とりわけ「熱情」の終楽章は、あたかもベートーヴェンの心底に潜む暗い情念のようなものが描出されて感動的だ。

また、第1楽章の展開部から再現部へ移行する部分での音圧も圧巻!

名演と言うよりも、凄演と言った評価の方が正しいのかもしれない。

SACDによる極上の高音質録音も名演に大いなる華を添える結果となっている。

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2022年06月06日


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ウィルヘルム・バックハウスはモノとステレオで2度ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集(第29番を除く)を完成していたが、《ディアベッリの主題による33の変奏曲》はこれが唯一の録音(1954年10月、ヴィクトリア・ホール、ジュネーヴ)である。

バックハウスは、ベートーヴェン弾きとして歴史に名を刻んでいるが、実は意外に幅広いレパートリーをもったピアニストであった。

若い頃は"鍵盤の獅子王"と呼ばれた技巧派で、いかなる難曲もさらりと弾いてしまうほどであったが、それが逆に冷たい演奏という印象を与えてもいたようだ。

ピアニスティックなショパンを弾いていたのもその頃であったが、やがて外面的な美を追求することをやめた。

作曲家の精神あるいは作品の本質に迫る姿勢に変わって、素朴で武骨な、いかにも男性的な演奏を聴かせるようになった。

そうしたバックハウスの真価が最高度に発揮される場がベートーヴェンであったと考えるのは、決して筆者だけではないだろう。

そして、この《ディアベッリ変奏曲》は、ピアノ・ソナタ旧全集と並んで、彼のベートーヴェンの真髄を味わうことのできる録音になっている。

ステレオ録音による新全集と比較すると少し音質は古いが、ここに示された堅固で揺るぎない構成力、重厚で重みのある響き、強靭な集中力の持続、彫りが深く格調の高い造形的美観などは、衰えをみせる前の彼ならではの持ち味であり、それは、このピアニストの本領を鮮やかに伝えているのである。

バックハウスは正確な読みを通じて、作品の根源に迫っている。

彼が読み取ったベートーヴェンの音楽からは、装飾的要素や遊びやゆとりの要素が一切無縁なものとして切り捨てられている。

この《ディアベッリ》はまさにそうしたものとして提示され、ほかには考えられないぎりぎりの解釈を強靭に主張する。

その表現は威厳のある風格を備えると同時に、優しさを感じさせ、特にこのベートーヴェンには隙のない技巧に加えて、独特の味わいがある。

変にうまそうに弾いたり、媚びたり、小才を利かせたりするところがいっさいなく、ピアニズムを感じさせずに、作曲者の魂が深く重厚に、立体的に、交響的に迫ってくる。

最も偉大で立派な音楽があり、本演奏に肉薄し得たのは最晩年のアラウのみであろう。

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2022年05月31日


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生粋のフランス人でありながら、ベートーヴェンやシューマンなどドイツ音楽にすこぶる付きの名演を残したイーヴ・ナット。

ナットは1956年8月31日にパリでその生涯を終えていることからもわかるように、その録音はすべてモノーラルであるが、彼ほど強烈な印象を与えられたピアニストも数少ない。

筆者がナットの録音を初めて耳にしたのは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集で、これはフランス人の手になる初めての全集であったが、彼の後にベートーヴェン全集を録音したフランスのピアニストは、ハイドシェック、ポミエ、レヴィナスくらいだろう。

ベートーヴェンの音楽と言えばゲルマン的気質の最たるものであり、古くはシュナーベルからバックハウス、ケンプ、それにグルダやブレンデルなど、ゲルマン系の演奏家による名演がしのぎを削っている中で、わざわざフランス系の演奏を聴こうとは当初は思ってはいなかった。

だがナットの演奏は、マルセル・プルーストが「彼の演奏は極めて偉大で……彼の姿は視界から消えて、作品への窓に過ぎなくなってしまう」と書いたように、非情なまでに作品に献身的であり、そのベートーヴェンやシューマンはいつまでも人類の宝である。

“ベートーヴェンを読む”ことに生涯をかけて悔いのなかったナットの演奏が、こうして聴けることは誠に喜ばしい。

その非情なほどに私情をまじえない姿勢は、バックハウスにも共通していることである。

明晰な打鍵から生み出される濁りのない音色を駆使して奏でられる透明な音像は、それだけでもゲルマン的なベートーヴェン表現とは一線を画した個性的で新鮮な魅力にあふれているが、それが楽曲の構造の隅々までをも、一切の曖昧さを残さず、実にくっきりと描き出しているのに感心することしきりであった。

特に中期から後期にかけての作品で、ナットの演奏は実に厳しく、フランス的な知性と思弁が捉えたベートーヴェンをはっきりと聴くことができる。

打鍵は明晰であるだけでなく力強く深さを持っているため、中期ベートーヴェンの覇気や推進力も見事に表現されるが、それがやみくもに猪突猛進的となるのではなく、あくまで理性によって強力に統御されているため、崇高な精神の輝きとして感じられるのも印象的であった。

ナットは作曲にも相当の才能があったと伝えられているが、それは当然、彼の説得力に満ちた作品の描き方や核心を突く演奏につながったと思われるが、後期曲集などを聴いていると、彼の解釈が優れていたのは、結局は技術や個性的な解釈に依存するのではなく、心から共鳴する作品に真摯に向き合い、余計な恣意を挟まず、作品そのものに対して自らを捧げようとする精神からきていたように思えてならない。

実に透徹した表情を持つ演奏に仕上がっており、しかも情感の豊かさや懐の深い精神性にも事欠かず、ベートーヴェンの音楽の核心を垣間見せてくれる。

またベートーヴェン全集と並ぶナット畢生の傑作であるシューマンの主だった作品がほぼ収められており、ナットのシューマン解釈の説得力の大きさを知らしめてくれる。

ナットのシューマンはまず見通しのよい構成が的確に押さえられているのが特徴で、それに重くもたれるような表現から解放された明快な表現が、逆にシューマンの微妙で繊細な情感の移ろいを見事に捉え、ロマンティシズムというものに新たな光を当てている。

そしてそれはまた、とかく演奏者の思い入れだけが先行して形を崩してしまい、果ては真のロマンティシズムも雲散霧消させてしまいがちなシューマンの作品などで、説得力に満ちた優れた成果をもたらす要因となったように思える。

ここには良い意味でのラテン的精神の粋が見られ、演奏家としてではなく、むしろ芸術家としての強い倫理感が感じられる。

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2022年05月29日


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弊メルマガ登録者の皆様にお送りしたブッシュ四重奏団のシューベルト「死と乙女」にアクセスが集中している(コメントをいただいた方々にこの場を借りてお礼を申し上げます(__))。

そこで、20世紀前半に活躍した伝説的ドイツ人ヴァイオリニスト、アドルフ・ブッシュが、1928〜1949年に、EMIで制作した音源を全て収録したボックス・セットを紹介したい。

このセットのために、状態の最も良いマスターからリマスターがおこなわれ、さらに、別テイクによる初出音源も含まれるなど注目の内容。

32ページのブックレットには、イラストやレアな写真も含まれている。

アドルフ・ブッシュ[1891-1952]は、兄フリッツ[1890-1951]が指揮者、弟ヘルマン[1897-1975]がチェリストというブッシュ三兄弟の二男。

3歳からヴァイオリン学習を始め、11歳でケルン音楽院に入学、1912年、ブラームスのヴァイオリン協奏曲でソリストとしてデビューした。

同年、ウィーン・コンツェルトフェライン四重奏団を結成、さらにウィーン・コンツェルトフェライ管弦楽団の首席奏者となった。

翌1913年にザルツブルク音楽祭の前身であるSalzburger Musikfestに出演していた(ちなみに現在のザルツブルク音楽祭はSalzburger Festspiele)。

ソロ、室内楽、オケ奏者として実績を重ねたブッシュは、1917年、26歳でベルリン高等音楽院の教授に就任、1919年、ブッシュ弦楽四重奏団を結成している。

その後、1921年に18歳のルドルフ・ゼルキン[1903-1991]とブランデンブルク協奏曲第5番で初共演、大成功を収め、以後、ヨーロッパ各地での室内楽の公演を中心に評価を高めて行く。

しかし1926年、ナチ党がヒトラーの独裁体制となると、翌年、ブッシュはゼルキンがユダヤ系だったこともあり、共にスイスのバーゼルに移住、演奏活動を継続する。

遂に1939年、第二次世界大戦が始まると家族やカルテットのメンバーとアメリカに移住、1952年6月9日に亡くなるまでアメリカを拠点に演奏活動をおこなった。

ブッシュ四重奏団は、巨匠ヨアヒムが築き上げた厳格な形式感と深い精神性を追求していくというドイツ室内楽の伝統を最も正統的に継承し、演奏史に一時代を画した世界最高の四重奏団のひとつである。

この中ではベートーヴェンの弦楽四重奏曲が圧巻だ。

ずっしりと重いボウイングによって楽想を深く沈潜させていくブッシュ独特のアプローチが冴える高貴なベートーヴェン演奏である。

特に後期の弦楽四重奏曲では、その外部に放出する力感を可能な限り抑制する緊迫した造型法がとられている。

その分だけ内に秘めた精神の大きさが感じられて胸が締めつけられる思いがする。

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2022年05月22日


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1917年にブダペスト国立歌劇場のメンバーによって結成されたハンガリーの代表的室内楽団ブダペスト四重奏団は、1967年にちょうど半世紀にわたって個性的な活動を繰り広げた20世紀最高の弦楽四重奏団である。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の黎明期ともいえるSP期から数えると、何と3回もの全曲録音(1回目は1曲欠ける)を行なっているブダペスト四重奏団は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲に生涯を捧げた歴史がある。

1917年からのSP期に第1回、1952年のLP期に第2回、1958年のステレオ期に第3回と、1967年に解散するまで何かとベートーヴェンとのかかわりをもってきた。

このステレオ期の1958年から61年にかけてニューヨークで録音された全集は、ブダペストのそれまでの至芸の総決算といえるもので、ベートーヴェンの本質に肉薄したその演奏は、人間ベートーヴェンの精神性を見事に語り尽くしている。

いわばロシア人だけによるメンバーが復活してからのことであり、このアンサンブルが円熟期を迎えていた時のことである。

ロイスマン、アレクサンダー・シュナイダー、クロイト、ミッシャ・シュナイダーという4人が、その顔ぶれであった。

この顔合わせは、1917年に創設された際のメンバーが、すべて姿を消した1936年に発足したことになる。

もっとも、1944年に第2ヴァイオリンが交代したため、一時変わってしまい、1955年に再び顔をそろえたのであった。

4人がすべてロシア人でありながら、教育はドイツ・オーストリアで受けており、1938年からは、アメリカのワシントン国立図書館に所属していたということを考えると、この名称がかなり奇異に感じられるのも事実だが、意外にブダペスト四重奏団として自然に受け取られていたのも興味深い。

その主軸を占めたのは、新即物主義的なロイスマンであり、彼が主導しながら、その演奏では、4人の平等なる均衡のもとに緊密なアンサンブルが築かれていた。

そのベートーヴェンは、彼らにとってのひとつの究極であり、彼らの音楽も哲学も、そして理念もすべてそこに集約されており、弦楽四重奏のひとつの規範もそこに示されている。

ベートーヴェンの楽譜を深く洞察することによって、音楽の表現に欠くべからざるもののみを有機的に結合させ、作品を構造的に抽出している。

技術的には衰えを見せてはいるものの、聴く度ごとに新たな発見を見出すことのできるレコード史上の一大金字塔と言っても過言ではあるまい。

録音は古くなったが、1967年に解散したこの団体の演奏は、歴史の浅い弦楽四重奏団からは味わえないような風格が感じられる。

初期の作品から、後期の作品に至るまで、常に厳しい姿勢で貫かれ、音楽の内面をじっと凝視するかのような鋭さをもっている。

それだけに、現在聴くと、表情の柔らかさにはやや乏しく、演奏スタイルも古めかしいが、そういったものを越えた、精神的な充実ぶりが、感動を呼ぶ。

ブダペスト四重奏団の残した数多くの遺産のうちでも最高のものといってよく、この弦楽四重奏曲集の音楽特性をこれほど豊かに表現した演奏というのも少ない。

今後このような演奏が再び生まれてくる可能性はまずない。

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2022年05月21日


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1953年8月26日のルツェルン音楽祭での演奏の貴重なライヴ録音である。

これは、ラジオ放送を録音したもの(いわゆるエアチェック)なので音の状態は十分ではないものの、演奏は素晴らしい。

シューマンのマンフレッド序曲、交響曲第4番、ベートーヴェンの交響曲第3番「エロイカ」というファンならずともよだれが出そうなプログラムになっている。

フルトヴェングラーの指揮する「エロイカ」は、極めて高い見識を持った優れた解釈を下地にしており、残されたすべての演奏が格別の名演である。

ここでの演奏は、時期的に近接している1952年11月30日のウィーン・フィルとの演奏とごく近いものだ。

物腰の柔らかいウィーン・フィルと違い、ルツェルン祝祭管弦楽団(スイス・ロマンド管弦楽団の団員などから構成されているという)の素直な反応がフルトヴェングラーにウィーンでの演奏よりも少しばかり動的かつ情熱的な演奏を促したのも知れない。

第1楽章は物凄い気迫で開始され、最初の和音だけとれば、これが今までのベストと言えよう。

そして続く主題の足どりはゆったりとして実に良い雰囲気であり、堂々としてスケール雄大、ひびきが満ちあふれる。

オーケストラが指揮者に慣れていない感じで、それがフレッシュな感動を生み出す原因の1つになっているのだろう。

指揮者の棒は1952年のスタジオ録音以上に力みがないが、音の背後の凄絶さはまさに最高、常に立派な充実感に満たされている。

テンポの動きは再現部の前と直後に1度ずつあるだけで、後は安定しきっており、最晩年の確立した大演奏と言えよう。

第2楽章は心はこもっているが流れを失わず、旋律はソロといい合奏といい、肉のり厚く歌われ、中間部から再現部のフガート、その後の阿鼻叫喚に至るまで、他のどの盤に比べても仕掛けはないが、それでいて物足りなくないのは偉とすべきであろう。

この楽章は、深く悲しみに沈み込むような1952年12月8日のベルリン・フィルとの演奏より2分も短い。

お互い相手を知りぬいた組み合わせとは異なった、一期一会の感興がこの演奏の大きな魅力となっている。

スケルツォからフィナーレにかけても同じスタイルだが、後者に入ると音質がだんだん濁ってくるのが残念だ。

しかし、少しも速くならないフーガといい、ポコ・アンダンテといい、コーダといい、音の後ろに凄いものが隠されており、充分満足させてくれるのが素晴らしい。

シューマンの「第4」も完璧無類のグラモフォン盤の後に聴いても引けを取らない名演だ。

録音は濁り気味だが、なんといってもライヴの音がするし、音に命がこもっているのである。

晩年のフルトヴェングラーだけに実演だからといって踏み外すことなく、ベルリン盤の良さをそのまま保ちつつ、やはり気迫が違うのだ。

第1楽章の出もそうだし、フィナーレ冒頭の弦の刻みの生きていること、主部の第1主題の語りかけなど、ベルリン盤を上まわり、録音が同レヴェルなら、筆者はこのルツェルン盤の方を採りたいくらいである。

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2022年05月19日


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1985年に69歳の誕生日を目前にして没したギレリスは、晩年ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音に取り組んでいたが、残念なことに未完のままに終わった。

ギレリス後期のレコーディング活動は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集がメインとなった。

残念なことに、彼の突然の死によって、全集の完成はあと5曲を残して未完になってしまったものの、録音された27曲の演奏内容はどれも充実したものばかり。

かつての「鋼鉄の腕をもつピアニスト」も、すっかり角がとれて、福徳円満な巨匠に円熟している。

ゆったりとした歌が魅力で、これらの名曲を手中にした自信のようなものがあり、未完ではあっても、今日のベートーヴェン演奏の最高の指針といえよう。

彼の残した演奏はいずれも特筆すべきもので、その強靭なタッチと正確無比なピアニズムはベートーヴェンに最も相応しい。

そうしたギレリスにぴったりの最後のソナタ第32番が録音されなかったのは断腸の思いだが、録音された作品に聴くギレリスの精神の集中力には驚くべきものがある。

つまりギレリスの演奏は、ベートーヴェンこそ彼が真に対決すべき作曲家であったことを如実に物語っているのだ。

その豊かな表現の底には常に鋼の精神があり、ベートーヴェン作品の大きさと奥行きの深さをよく知らしめる演奏である。

ギレリスのベートーヴェンのディスクはいずれも高い評価を得ているが、全体のスケールが大きいだけでなく、細部のすみずみまで磨き抜かれた演奏で、1音1音があざやかに浮かび上がってくる。

力強い一方で、内に秘められたデリケートな抒情性が何とも心憎い。

各部のバランスも良く、非常に安定している。

それぞれの曲の冒頭から聴き手をひきつけ、最後まで緊張感がとぎれないのはさすがである。

ギレリスの強靭なタッチとダイナミック・レンジの広さも魅力的で、彼はつねにコントロールを失うことなく、オーソドックスに、ひとつひとつの音を積み重ねて、音の大建築を作り上げていく。

甘さはないが、格調高い演奏で、シーリアス過ぎてついていけない人が続出しそうだ。

聴きものはやはり後期のピアノ・ソナタ。

《ハンマー・クラヴィーア》は驚くほど高い透明度を持った演奏。

あたかも作品の構造そのものが自らの意志で音楽として鳴り響くという趣だが、これは知と情が作品の特質に従ったバランスを見せるということで、完璧に音楽的な演奏といえる。

余分な感情の動きや情緒のひだがまとわりつくということもない。

そしてギレリスのいわば構造的演奏は第4楽章のフーガでその真価を十全に発揮している。

演奏者本人が「エヴェレストに登るよう」と語った、ひとつの規範となる現代的解釈の名演。

第30番と第31番は1985年10月に急逝したギレリスが残した文字通り最後の録音。

いずれも流麗な演奏で、年齢からは考えられないほどみずみずしい響きだ。

特に第31番は出色の出来で、フィナーレのフーガの前に置かれているアダージョ・マ・ノン・トロッポは、もの悲しい淋しさをしずしずと歌いあげ、弛緩した趣が全くなくてさすが。

ここにはギレリスが到達した最後の境地が示されている。

しかもこの2曲からは、強い精神集中の向こうに、より開かれた世界をうかがい知ることができる。

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2022年05月12日


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ハインツ・レーグナーが1982年から83年にかけてベルリン放送交響楽団を指揮したベートーヴェンの序曲全集。

西側のオーケストラのように垢抜けたスマートな演奏スタイルとサウンドではないが、堅実な音楽構成と頑固とも言えるテンポ設定によって鳴り響くパワフルな音響は、質実剛健なドイツの伝統的なベートーヴェンを堪能させてくれる。

東西ドイツ再統合の後はオーケストラも年々グローバル化が進んで、団員のレベルは向上しているがそれぞれのオーケストラが持っていた独自の音色が失われつつあるのもまた事実だろう。

ほぼ同時代にアバドがウィーン・フィルを振った序曲全集を聴くと、その開放的で流麗なベートーヴェンに驚かされる。しかしレーグナーにはある種の朴訥さとシンプルな力強さが感じられる。

ベートーヴェンは生涯にたった一曲のオペラしか作曲しなかったが、改作や異なった劇場での初演のために都合4曲の序曲を用意した。

またその他の劇場作品のための付随音楽や、特別の機会に演奏する序曲などを合わせると11曲になり、そのすべてがこの2枚のディスクに収録されている。

録音会場のベルリン放送局SRKホールの残響がいくらか過剰な感じがするが、これはオリジナル・マスターに由来するものだろう。

ただし音質は良好で、左右へのワイドな音場が感知され臨場感にも不足していない。

10ページほどのライナー・ノーツにそれぞれの曲についての簡易な日本語解説付。

ところで筆者はレーグナーが読売日本交響楽団を指揮してベートーヴェンの「第9」の実演に接したことがあるが、彼のスタイルは、このCDとは異なり、大いに戸惑った覚えがある。

彼は「第9」を振りながら少しも力まず、最強音は中強音、弱音は最弱音というように音量を抑え、きれいな音色で、さながらモーツァルトのようなベートーヴェンを描き出してみせたのである。

しかも、ユニークなのは全曲にいくつかの山があり、そのクライマックスでは余力を十二分に残した指揮者とオーケストラが、肌に粟粒を生じさせるほどの凄絶なフォルティッシモを轟かせたことである。

レーグナーのオーケストラに対する統率力には抜群のものがあり、読売日本交響楽団がいかにしなやかで緻密な音色とアンサンブルを獲得したのは周知の通りだ。

やがて彼は、乞われて同楽団の常任指揮者となり、やっとその芸風の全貌が示されるようになった。

すなわち、彼は前述の「第9」にみられるように、スケールの小さい、短距離のフレージングを持った、軽やかな音楽を奏でる人で、舞台姿や指揮ぶりもそのことを如実に物語っていたのである。

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2022年04月14日


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ミラノフ、カスターニャ、ビヨルリンク、キプニスと4人の名歌手たちを揃えたこの演奏は多くの点で1953年に録音されたRCA盤を凌駕しているが、《クレド》の冒頭でトロンボーンがミスをしたためにレコード化ができなかったと伝えられている。

RCA盤の鮮明だが広がりに欠ける録音と比べて、この録音は聴きずらいことはない。

トスカニーニはゆっくりとしたテンポを設定しており、それが音楽に落ち着きと厳粛さを与えている。

キプニスの印象的な暗く重いバスも聴く人に大きな感銘を与える。

トスカニーニほど、鉄のような固い意志と、赤々と燃える情熱で、この最高峰に臨んだ指揮者はなかった。

ベートーヴェンがミサのテキストと格闘したが如く、トスカニーニはスコアと激しく闘っている。

トスカニーニはいわゆるドイツ的な伝統とそこから生じる束縛などといった要素を完全に断ち切り、先入観から解放された立場で作品の絶対音楽としてのイデアを抽出している。

さらに演奏スタッフの究極的な技術の見事さをフルに活用することによって、それをこれ以上はあり得ないと想えるほどに理想に近い状態で演奏として結晶させることに偉大な成功を収めている。

そして、巨匠の壮麗無比な造型感覚と他者の追随を許すことのない高度な集中力の持続は、その明晰で隙のない楽曲の把握の完全性ともあいまって、白熱的な輝きを放つ緊迫した音楽表現を実現させている。

特筆すべきは《クレド》後半の〈エト・ヴィータム・ヴェントーリ・セークリ〉(来世の生命を待ちのぞむ)以下の猛スピード(全演奏家にとって、恐怖のテンポ)に聴く、比類なき魂の高揚感。

この厳しさを経てこそ、《サンクトゥス》以下の「魂の浄化」作用が一層際立つのである。

弦楽の瞑想による《ベネディクトゥス》の前奏、その深い精神性は、トスカニーニが決して「トゥッティとアリアだけ」(フルトヴェングラー)の芸術家でなかった何よりの証となろう。

至高の名演であり、これほどのレヴェルの演奏が存在することは驚き以外の何物でもない。

唯一の疑問は、〈ドナ・ノビス・パーチャム〉(我らに平和を与えたまえ〉。

楽聖がついに「心の平安」を確信できず、解決を未来に託した楽曲であるが、トスカニーニが振ると、実に肯定的に終わってしまうのである。

ここだけは、悠久の余韻に浸っていたかった。

トスカニーニの余りにも健全な魂を象徴する一コマではある。

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2022年04月06日


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カール・ズスケは、1962年にベルリン国立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ・ベルリン)のコンサートマスターに引き抜かれ、1965年に同僚と語らってズスケ弦楽四重奏団を結成、1966年にジュネーヴ国際コンクールに入賞した。

ズスケは多忙な国立歌劇場の仕事の合間を縫って室内楽に取り組み、やがてベルリン弦楽四重奏団と改称し、国際的にドイツ民主共和国(東ドイツ)最高の室内楽団と評価されることとなった。

それとともにズスケは室内楽の名手として名声を高め、数々の優れた室内楽のレコードを残したが、このベートーヴェンはこの団体の代表的名盤である。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集には文字通り歴史的名盤がいくつもあって、どれひとつとして聴き逃せないことは勿論であるが、筆者が比較的少数派という自覚付きながらまず真っ先に選ぶのは(旧)ベルリン弦楽四重奏団の全集である。

おそらく戦後ドイツが生み出した最高の弦楽四重奏団の1つの最善の成果が示された演奏で、極めて端正で清潔な表現と清々しい響きに彩られたベートーヴェン。

しかし単にすっきりしているというのではなく、その中に自在で柔軟性に富む表情と豊かな感興が息づいていて、ズスケの叙情性豊かな表現が、緩徐楽章だけでなく随所に効果的である。

強い自己主張を打ち出すよりも、作品に真摯に奉仕することにより、内から自然と滋味が滲み出てくるような秀演である。

旧東ドイツに属するとは言え演奏スタイルは決して古めかしくなく、むしろ優れて今日的で、どの曲、どの楽章を聴いても明確な表現をもった積極性に溢れた音楽が繰り広げられている。

つまり、これは感情のみを第一義とした旧時代的な演奏ではなく、もっと堅固にまとめられた、切れ味の鋭い音楽をつくっている。

そのためには、ベートーヴェンの与えた指定を少しもないがしろにせず、それを曖昧でなく鮮明に示して、すみずみまで迫力に満ちた演奏である。

ズスケ以下切れ込みの鋭い踏み込んだ表現が光り、しかも無用な情熱に駆られることなく、悠然たる歩みと堅固な造形感に貫かれた堂々とした演奏が展開されている。

これは極めて透明度の高い、そして古典的美しさを端正な造形で表現した演奏であるが、ズスケを中核とするメンバーは、瑞々しくも感情の潤いに満ちた音楽を歌っているのである。

全体に精神の輝きと自在な表情に満ちた生命感に溢れており、アダージョ楽章における気品を湛えた崇高な表現も出色である。

4人の奏者の均質で透明な響きが実に美しく、ズスケをはじめ、チェロのブフェンダーや内声も感興に溢れる素晴らしい演奏を展開する。

各声部の自発性豊かな表情と声部間の応答の敏感軽妙なこと、練れた柔らかい響きときめ細かな表情にも感心する。

この団体は、表情が決して粘り過ぎず、響きもいぶし銀のように底光りのする光沢と透明感があり、表現も一見淡泊であるが、実に細やかな神経が行き渡っており、各奏者の反応も敏感で清々しい。

これほど美しい造形と精神性のバランスのとれた演奏は少なく、奇を衒わない正統的な表現でここまでの深みを出せる団体は現在でも多くはない。

初期作品は、古典的で均整の取れた佇まいを、何のケレン味もなく実に落ち着いた余裕を感じさせるアンサンブルで見事に描き出している。

中期作品では、とかく熱を上げすぎバランスを崩す演奏が多いなかで、これは極めて落ち着いた盤石の安定感を示しているが、その中に込められた精神的充実ぶりも超一級。

後期作品は、ズスケの透明で柔軟性に満ちた音楽性がアンサンブル全体に行き渡り、心の奥から滲み出てくるような歌を、決して力まずに豊かに引き出しており、繊細な配慮の行き届いた緩急やデュナーミクの変化も実に自然である。

従って、演奏内容、音の鮮度、録音の自然さなど色々な条件を総合的に考慮して、これはどんな名盤にもおよそひけをとらない素晴らしいレコーディングだと確信する。

そしてリーダーのズスケがライプツィヒ・ゲヴァントハウスに移った後も、じっくり時間をかけてシリーズを完遂した制作態度にも、この全集の盤石の重みがある。

このベートーヴェンの全集完成をもって解散したこのメンバーによる品格高い音楽性が余すところなく記録されているのである。

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2022年04月01日


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ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲レコーディングに初めて取り組み、私たちの時代に聴くことができる最も古いサンプルを遺してくれたのがアルトゥール・シュナーベル(1882-1951)である。

これらの演奏が資料として貴重なだけでなく、当時の彼のベートーヴェンのピアノ作品に対する価値観と、それを後世に問うという使命感を伝えていて興味深い。

シュナーベルの演奏は過去の批評家たちによって指摘されているほど恣意的なものではなく、むしろ新時代の解釈を告げる速めのテンポ設定をしたシンプルで、しかも作品の構造を明確にする造形性にも優れている。

現在シュナーベルに対する認識は薄くなっているが、グレン・グールドが唯一の指針としてシュナーベルの演奏を挙げているように、19世紀の伝統と20世紀の新しい息吹きとを融合させたピアノの巨匠として忘れることのできない演奏家である。

この全集を聴き終わった後、鬼才が彼に傾倒したという逸話もあながち信じられないことでもない。

1932年から35年にかけての録音なので音がいくらか痩せていて音場も狭いがノイズは意外に少なく、今回アビーロード・スタジオで新規に行われたリマスタリングによって高度な鑑賞にも堪え得るだけの良好な音質が再現されていることは確かだ。

シュナーベルも毀誉褒貶相半ばする演奏家の1人で、その主な理由はピアニスティックなテクニックが完璧でなかったということから来ているようだ。

確かに彼と同時代に活躍して鍵盤の獅子王の異名を取ったバックハウスに比べると、ヴィルトゥオーゾという観点からすれば劣っていたことは事実だろう。

しかしそうした弱点をカバーするだけの高邁なスピリットと表現力を備えていたことは、このソナタ全集を聴けば明らかである。

シュナーベルはこの録音に先立って早くも1927年にベルリンでベートーヴェン没後100年記念としてソナタ全曲のチクルス・リサイタルを開いているので、1曲1曲を手の内に入れた決して借り物でない彼の哲学を具現した演奏と言える。

ソナタ全曲演奏会を開いて一大センセーションを巻き起こし、1932年から35年にかけて完成した全集レコードは、当時の演奏家、愛好家にとっては聖書的な役割を果たしていた。

その演奏は現在聴いても決して古びたものではなく、ベートーヴェンの巨大な音楽を見事に描き出した名演として心を打つ。

世紀末的なロマンティシズムを引き摺ることなく、懐古趣味を早くから捨て去って、独創的なベートーヴェン像を提示しているところはかえって現代的で、彼がこのソナタ全曲録音に取り組んだ理由も納得できる。

また当時の録音システムでは如何なる巨匠であろうとも録り直しや修正が許されない一発録りが基本だったので、彼自身もライヴ同様の緊張感を持って臨んでいたことが想像される。

筆者はあるときには、シュナーベルはもはや大時代な演奏に聴こえるに違いないと勝手に思いこんで、遠ざかっていたこともあったが、ワーナーの手で復刻されたシュナーベルは、やはり空前にして絶後のベートーヴェン弾きであったことを肯かせてくれる。

どんな曲を弾かせても、ベートーヴェンの再来ではないかと思わせるほどの説得性を持っている。

ベートーヴェンの音楽は言うまでもなく《高貴》な音楽であり、その高貴さをシュナーベルほど高貴に弾いたピアニストはいない。

一例を挙げれば、作品109の第3楽章の変奏で、限りない高みに近づき、それが崩れ落ちて諦観のうちに終わるのだが、その高揚と崩落のあとの虚無と無言の慟哭を描かせてはシュナーベルの右に出る者はいない。

SP録音を感じさせない凄い響きに着目したい。

こうした、時代を超えた演奏が復刻されては、あとを行く者の影は薄いを言わざるを得ない。

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2022年03月26日


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32曲あるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏を世界中で60回以上行い、60年以上にもわたって作品を研究し続けるベートーヴェンのスペシャリスト、巨匠ブッフビンダー3回目のピアノ・ソナタ全集(第1回はテルデック 1980/82、第2回はRCA 2010)。

2014年のザルツブルク音楽祭における、ひと夏で行った全曲演奏会の貴重な記録で、同音楽祭の歴史の中でも初の全曲演奏会だった。

実力派のベートーヴェン弾きとしての長い演奏経験を踏まえた、しっかりした音楽構成と迷いの無い確信に満ちたタッチ、そして堂々たるダイナミズムで大家の風格を感じさせる価値の高いソナタ全曲集だ。

ブッフビンダーは若い頃からソロだけでなく、アンサンブルや伴奏の分野でも幅広く活動を続けてきたが、そうした活動がより客観的な、しかし一方では豊かで自在なニュアンスを含んだ独自のベートーヴェン像を実現させたのかもしれない。

この全集の妙味は、まずその音のクオリティの高さにあろう。

いっさいの混濁を省き、クリアな音像のなかで、デュナーミクの指示が原典に忠実に、そして目一杯に生かされ、そのなかから重厚かつ繊細きわまりないベートーヴェンが立ち現れる。

全体にペダルを控えめにした演奏であるが、その使用を巧妙に隠していると思われるフシもあり、ペダルの超絶技巧とも言える。

ことに初期作品ではそれはすばらしい成果を上げているし、中期作品以降でのペダルの実験的な使用も、作曲年代に鑑みた解釈の点で、納得のいく処理を常に見せている。

そして、特にソナタ演奏における現代的なスタイルとは何かといろいろ聴いたうち、楽譜=テクストへの批判的態度と演奏密度が、もっとも理想的に結び合っているのが、ブッフビンダーの演奏なのである。

とりわけ手稿譜のファクシミリからフランツ・リスト校訂版などに至る、現存する様々なソナタの楽譜に対する奏者の熱心な研究は周到で興味深い。

現代のピアノで演奏するという前提をあくまでも認識した上で行われた演奏で、その楽器の特質を充分に生かしつつ、例えば、デュナーミクの対照性や打鍵の機能性、果ては「ワルトシュタイン」第3楽章の冒頭などにおけるソステヌート・ペダルの使用という点に到るまで、初期作品にはけっしてダンパー・ペダルを意識させることなく、絶妙にカムフラージュしながら用いる技術のすばらしさなど、これこそドイツ=オーストリアの伝統を今日に継承した類稀な演奏である。

ブッフビンダーは若い頃からソロだけでなく、アンサンブルや伴奏の分野でも幅広く活動を続けてきたが、そうした活動がより客観的な、しかし一方では豊かで自在なニュアンスを含んだ独自のベートーヴェン像を実現させたのかもしれない。

奇を衒った表現ではなく、音楽的にも技術的にも安定した深みのある演奏が秀逸だ。

収録曲順はそのままソナタの番号順になるので聴き手には有難い。

音質は瑞々しく、ライヴとしては例外的と言えるほど極めて良好。

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2022年03月25日


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ターラ・レーベルの名盤を最新リマスタリングで復刻したディスクで、シュライヤーはじめ名歌手を揃えた《ミサ・ソレムニス》のライヴ録音になる。

《ミサ・ソレムニス》は、長くスランプに陥っていたベートーヴェンが、4年間に及ぶ創作を通じて、自らを再生させた音と声による壮大な記念碑である。

それはまた、カトリックの教義と自らの内面の真実との闘争を綴った偉大な魂の記録とも言える。

この作品なしに、晩年の聖なる弦楽四重奏曲群は生まれ得なかったし、カトリック・ミサの範疇では描き切れなかった人類愛、真の自由の究極の理想は《第9交響曲》で実現されたのである。

巨大な声楽と管弦楽が緻密かつ豪快にうねり積み上げられていくベートーヴェンの大曲《ミサ・ソレムニス》を相手に、イッセルシュテットの硬派な美質が存分に発揮された名演だ。

的確に立派に鳴り響く、申し分のない音楽造りは、さすがドイツの伝統を体現する名匠といった演奏である。

この曲は、モノラル録音のトスカニーニ盤を別格とすれば、長らくクレンペラー盤が最高とされてきた。

実際、カラヤンも、ベームも、バーンスタインもショルティもクレンペラーを超えることはできなかったと考えている。

しかし、クレンペラーと近い時期にライヴ録音されたこの演奏はクレンペラーに匹敵するか、あるいはこれを超えた名演奏である。

以下、クレンペラー盤と比較すると独唱者は女声陣は互角であるが、男声陣はシュライヤーとエンゲンでこちらの方が上だ。

オーケストラとコーラスの技量は筆者の聴いたところではこの演奏の方がわずかながら上のように思う。

指揮は、「キリエ」は互角で、「グローリア」と「クレド」はクレンペラーのスケール雄大な指揮に一日の長があるように思うが、「サンクトゥス」以下はこの方が上だと思う。

特に終曲の「アニュス・デイ」はこの方が劇的な迫力があって、暗から明への穏やかにしてゆるぎない移り変わりがことのほか素晴らしい。

多様な精神の流れがひとつに収斂していき、ベートーヴェンの神髄とも言える天上の世界に到達するラストは感動的だ。

オーケストラはイッセルシュテット自ら大戦直後にあちこちの捕虜収容所を回り演奏家を集めて創設した北ドイツ放送交響楽団。

彼は1945年から26年間にわたり初代首席指揮者を務めこのオーケストラを鍛え、世界有数のオーケストラに育て上げた。

その信頼関係が生む悠然とした演奏に注目したい。

また、1966年のライヴ録音ながら非常に明晰でバランスが良く聴きやすいのも特筆されるべきである。

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ワルター・バリリ(1921.6.16〜)はウィーン生まれのヴァイオリニストで、ウィーン音楽院に学んだ後、1936年ミュンヘンでデビューした。

1938年にウィーン・フィルに入団し、1940年にはコンサートマスターに就任、1943年には自らの名を冠した四重奏団を組織した。

当時、ウィーンにはコンツェルトハウス協会に所属するウィーン・コンツェルトハウス四重奏団、ムジークフェラインで定期演奏会を行ったシュナイダーハン四重奏団、と同じウィーン・フィルを母体とする2つの名団体が演奏活動を行っていた。

しかし、バリリ四重奏団は結成以来、なぜかメンバーの離脱や急死などの不運が重なり、1951年6月に一時活動の停止を余儀なくされた。

ところが、同じ年にシュナイダーハン四重奏団を主宰するヴォルフガング・シュナイダーハンがソリストに転身することになり、リーダーを失ったシュナイダーハン四重奏団の他の3人にバリリが加わる形で、1951年8月新たなバリリ四重奏団が生まれた。

バリリ氏は1996年の来日時のインタビューでこの時の運命的とも言えるタイミングの良さについて「なるようになるものだ」と語っていた。

ちょうど同じ頃、レコード界ではLPレコードの開発という革命が起き、戦後景気に湧くアメリカではレコード会社が次々に設立された。

1949年、ニューヨークで設立されたクラシック音楽専門レーベル「ウエストミンスター」もその一つ。

ウエストミンスターは米ドルの強さを背景に、ウィーンに出張録音を行い、バリリ四重奏団やウィーン・コンツェルトハウス四重奏団と数多くのLPレコードを制作した。

ウエストミンスター・レーベルは1954年に日本盤も発売されるようになり、彼らの室内楽演奏は日本でも多くのファンを獲得して、1957年12月、バリリ四重奏団の初来日公演は熱狂的に迎えられた。

ところが1959年、バリリは右ひじを故障し、カルテットの活動を断念、新生バリリ四重奏団も約9年でその幕を下ろすこととなった。

このセットには、バリリ四重奏団の米ウエストミンスターへの録音がまとめられており、LPレコード初期に彗星のように現れては消えて行った、名団体の芸術の粋をじっくりと楽しむことができる。

中でも、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集は、LP初期に、ブダペストSQのそれと人気を二分したバリリSQの名盤である。

精密な機能的側面を追求するブダペストに対し、バリリはヒューマンな情緒性を大切にする点で一線を画した。

ベートーヴェンの特に後期の弦楽四重奏曲は、特に専門家でなくても至難であることはある程度想像できる。

しかし、だからといってひたすら苦行のように、あるいはいたずらに精密さばかりを求められても聴く方にとってはちょっと困るが、その点、このバリリSQの演奏は非常に楽しくて、ほっとする。

奥行きのある内容を多くの言葉を費やして語ることなら、できなくはないかもしれないが、それを優しい表情で、それとはなしに語るのは必ずしも簡単ではない。

また、スケールの大きさとデリカシーとを雄弁の限りを尽して語ることなら、できなくはないかもしれないが、それを柔軟性をもって簡潔に語るのは必ずしも簡単ではない。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集におけるバリリSQの演奏は、そのような難事を立派にやり遂げた内容と言えよう。

ここにおけるバリリSQの4人は、強い緊張感を貫きながらも身のこなしは軽やか、決して肩をいからせぬ優美な輪郭で、ベートーヴェンの各曲の全体像をスムーズに描き出していく。

もちろん、ウィーン風の優雅なスタイルであり、味付けはかなり濃厚な方なので続けて飲用するとやや飽きるかもしれないが、折に触れて取り出せばその都度に新たな感動に浸ることが出来る。

同じウィーンのスタイルとはいっても、コンツェルトハウスSQとはまた違うし、アルバン・ベルクSQとはもっと違いが顕著である。

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2022年03月23日


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ミラノ出身の大ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音完結作。

クラシック音楽全体の中でも中核をなす重要なレパートリーであり、ベートーヴェン自身の芸術や作曲様式の発展を辿る32の傑作の録音が、39年の歳月をかけて完結された。

ポリーニのマイペースぶりにはほとほと恐れ入るが、殆んど諦めていたベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を、彼がまさに半生を賭けて完成させたことを率直に喜びたい。

この曲集についてはとにかく1度全曲を聴き通すことが望ましい。

そうすればポリーニが如何に自分に誠実な演奏を心掛けてきたかが理解できるだろう。

39年という歳月は、当然のようにポリーニに芸風の変化をもたらしているが、それでも、一貫して深い陰影のある彫像性が刻まれた、コクのあるベートーヴェンとなっている。

ポリーニは完全無欠のテクニックを誇っていた時代でも、決して聴き手に媚びるようなピアニストではなかったし、しばしば指摘されるような無味乾燥の機械屋でもなかった。

中でも彼が壮年期に録音したベートーヴェン中期から後期にかけての作品群が堅牢な音楽的造形美と洗練で、さながら名刀を鍛える刀匠のような素晴らしさがある。

確かにここ数年ポリーニの技巧的な衰えは否めない。

以前のような強靭なタッチも影を潜めたが、あえてそれを別の表現や解釈にすり替えようとはせず、不器用ともいえるくらい真っ正直に自己のポリシーを貫き通しているのが彼らしいところではないだろうか。

最近のセッションでは、初期のソナタでの若き日のベートーヴェンの斬新な創意や、性急で苛立つようなリズム、不安や焦燥の中から希望を見出そうとするひたむきな情熱が感じられる。

そこには尽きることのない目標に向かって突き進むような意志があり、また逆にそれを制御しようとする極めて冷静な知性とのせめぎ合いもあり、巨匠としての風格はむしろ稀薄だ。

その意味ではポリーニに円熟期というのは存在しないのかも知れない。

いずれにしても誰にも真似のできない超一流の美学に輝いたベートーヴェン・ソナタ全集のひとつとして聴くべき価値を持っていることは確かだ。

録音状態はさすがに総て均等というわけにはいかない。

過去40年間の録音技術の進歩も無視できないし、会場によって音響が異なり、またセッションとライヴが入り乱れているので、客席の雑音や拍手が入るのは勿論、ポリーニの癖でもある演奏中のハミングも聞こえてくるが、音楽鑑賞としては全く不都合はない。

同一曲で2種類以上の音源が存在する場合は新録音の方が採用されている。

例えばCD5の『テンペスト』を含む第16番から第20番までの5曲は、2013年と2014年にかけて行われたセッションで初出盤になる。

クラムシェル・ボックスに収納されたごくシンプルな紙ジャケットに色違いの8枚のCDが入っている。

曲順はソナタの番号順に再編集されていて録音年代順ではないが、録音データはジャケットの裏面とライナー・ノーツで参照できる。

なお国内盤は、SHM−CD仕様により、音質は従来盤に比べきわめて鮮明になるとともに、音場が非常に幅広くなった。

ピアノ曲との相性抜群のSHM−CDだけに今般のSHM−CD化は大いに歓迎すべきであり、ポリーニによる至高の名演をこのような高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2022年03月22日


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《ファルスタッフ》《ばらの騎士》に続くバーンスタイン&ウィーン・フィルによるオペラ第3作で、バーンスタインがウィーンでセンセーショナルな成功を収めていた1970年代に録音された名盤中の名盤。

バーンスタインはウィーンでベートーヴェン生誕200年記念の1970年にもこのオペラを指揮、「最も感動的な音楽的事件」と絶賛されたが、この録音はそれから8年後の新演出上演に基づくキャストによって行なわれた。

彼のこの「このオペラに生命を与えているのはただただベートーヴェンの音楽なのです」という主張によりセリフはかなりカットされているが、当時ベートーヴェンの交響曲全集も録音中だったウィーン・フィルを見事に統率して展開する演奏には独特の劇的迫力が満ちている。

この特異な理想主義的傾向をもつオペラに対し、バーンスタインは少しもケレン味なく、ホットに取り組んでいっている。

そのひたむきな姿勢は説得力が強く、バーンスタイン自身の生きかたとオーヴァーラップするものを、彼はここに見出しているのだろう。

バーンスタインはウィーン・フィルと新時代のベートーヴェン像を打ち立てたが、オペラもまったく同じである。

とくに本盤に収められた《フィデリオ》では、バーンスタインの音楽に彫りの深さを感じることが可能である。

バーンスタインはこのオペラに得意の同化を行なったが、それが成功し、輝きと躍動感に満ちた《フィデリオ》になった。

大胆といえるテンポやディナーミクの設定、弾むように柔軟で若々しいリズム、のびやかでなめらかなフレージング、立体的なふくらみを誇る明るいサウンドで全曲を再現、どこをとっても初々しい。

ベームが聴かせた劇的求心力と緊迫感には乏しいが、先入観を払拭、ゼロから組み立てて再現したすがすがしさは値千金の価値をもつ。

歌い手の水準が高いのも嬉しく、レオノーレにはリリックな声の優しいヤノヴィッツのレオノーレををはじめ、切実なコロのフロレスタンも聴ける。

他の歌唱もバーンスタインの意図に沿ったもので、とくにフィナーレの感動的な表現は圧巻である。

さらにウィーン・フィルによる極上の美演が付加されることにより、演奏全体に潤いと適度な奥行き、そして重厚さを付加することに成功している点を忘れてはならない。

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「第9」に比べて演奏頻度が極端に低く、ポピュラリティに欠ける《ミサ・ソレムニス》だが、芸術的な感動の深さはむしろ「第9」を上回る。

それだけに演奏はむずかしく、フルトヴェングラーでさえ演奏がうまくいかなかったということで録音もないのが実情だ。

同曲随一の名演と評されるクレンペラー盤(ワーナー)は遅いテンポを一貫させた静的な表現だが、もっと速いテンポを基本にしながら自在な緩急を駆使したドラマティックな演奏があっても良い。

いや、むしろその方がベートーヴェン的なのだが、その要求にぴったり適ったワルター/ニューヨーク・フィル(伊ウラニア)はあまりにも音が悪く、聴くに耐えなかった。

これ以上残念なことはなかったわけだが、この度M&A盤が出て積年の不満が解消したのである。

もっとも、元来が音の良くないディスクで、当時(1948年)の他のライヴに比すると明晰度が不足するが、ひどい歪みや音の割れがなくなったので、十分にワルターの表現を享受できる。

とくにウラニア盤のピッチが半音高かったのを正常に戻したのは何といっても大きい。

それにしても凄まじいベートーヴェンで、ワルターの最高傑作と評しても過言ではない。

第1曲の「キリエ」から彼の気迫と情熱は際立っており、ひびきが実に立派だ。

中間部のテンポがかなり遅く、スケールの大きさと風格を感じさせるのが独特である。

つづく「グローリア」はたいへんなスピードだが、決して上滑りせず、とくに最後のプレストの手に汗を握るような速さと、その直前のアッチェレランドはまさに最高。

録音の分離が悪く、細部を聴きとれないのがかえすがえすも惜しまれるが、決めどころにおけるティンパニのとどろきと金管の最強奏が絶妙のアクセントとなり、テンポも曲想の移りや言葉の意味にしたがって微妙に変化してゆく。

クレンペラーに比して、少なくとも筆者にとっては理想の「グローリア」だが、前記の特徴はワルターの《ミサ・ソレムニス》全体にいえることであり、わけてもオーケストラの雄弁さはその比を見ない。

「クレド」は一転して遅いテンポで開始される。

構えが大きく、まことに壮麗だが、音楽の局面に応じて無限に変化する。

たとえばキリストの受難の場面で、オーケストラの音を一つ一つはっきり切って、異常な苦しみを表出したり、とくに復活の後“天に昇りて御父の右に座し”のコーラスの途中に現われる最後の審判のトロンボーンで、大きくテンポを落としつつ最強奏させるなど、ワルターならではといえよう。

というより、ここはこうなくてはならぬ!と長年の鬱憤が晴らされた思いで、なぜ他の指揮者が簡単に通り過ぎてしまうのか筆者にはまるで理解できない。

つぎの「サンクトゥス」では“オザンナ”のフーガをクレンペラー同様ソロの四重奏にしているが、ここはコーラスの方が良いと思う。

最後の「アニュス・デイ」はワルターらしくよく歌った名演で、聴いていて音楽のみを感じさせ、なんの抵抗もない。

後半の“ドナ・ノービス”の部分は速めだが、終結はちょっとあっさりしすぎるようだ。

ベートーヴェンの書き方はたしかにこの通りだし、その方がミサの儀式の途中なので正しいのかも知れないが、コンサート形式による大曲の結びとしては物足りなさが残る。

ワルターの《ミサ・ソレムニス》で気になったことといえば、この終わり方だけであった。

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2022年03月21日


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ベートーヴェンが作曲した唯一のオペラである《フィデリオ》は、様式的な不統一も目立つし、見る者をオペラの鑑賞というよりも、宗教的な儀式に参列したような思いにさせて終わるオペラ史上特異な名作である。

というのは、オペラ・ブッファとジングシュピールとを混ぜ合わせたような始まり方からシーリアスなオペラへと移行し、最後の場ではオラトリオに近い性格なものになるからだ。

その間の男女間の愛情の描き方も他の多くのオペラとは違っていて、形而下的な官能性を排除して形而上的な愛の追究に終始している。

だが、それでいてすぐれた上演に接したときの感動は他に比べるものがないほど大きいと思われる。

ここにご紹介する1963年10月、東京・日比谷の日生劇場のこけら落としに初来日したベルリン・ドイツ・オペラの《フィデリオ》がそうであろう。

ベルリン・ドイツ・オペラの4つの演目の中でも、最高の凝集度と説得力を発揮していたゼルナーの演出を伝えられないのは、音だけのCDゆえしかたない。

それでも、当時まだ69歳で、老け込む前のベームの指揮、ときの総監督ゼルナーの象徴主義的名演出による熱気をはらんだこの公演のライヴが、予想を上回るいい音でCDに収められているのは幸いだ。

指揮者として全盛期の絶頂にあった指揮の下で、名歌手たちがオケ・合唱と一丸となって盛り上げるアンサンブルの素晴らしさに圧倒される。

レオノーレとフロレスタンには当時30代で声の充実度が絶頂に達していたルートヴィヒとキング、また、ロッコとピツァロにはともにオペラ役者として円熟境に達したところだったグラインドルとナイトリンガーを起用した配役も理想に近い。

これらの名歌手を、絶頂期にあったベームが強い統率力と推進力に溢れた指揮で、力強くまとめ上げている。

ベートーヴェンが真に求めたであろうその本来の姿が堂々と浮かび上がってくる感動的な名演である。

ホールは残響が皆無なので、序曲はこちこちに固まった色気のない音で、全盛期のベームの凝縮し切った迫力が強調されて表われる。

幕が上がってからも演奏の緊張力は半端ではない。

速いテンポの「囚人の合唱」など、ときに乱暴、ときに下手くそに思われるほど表情が強調されており、迫真のドラマとはこのことだ。

第14番の四重唱ではオケが怒り、凄いスピードで猛烈にたたみこむ。

「レオノーレ序曲第3番」もなりふり構わぬ怒濤の迫力で、テンポの動きが激しい。

ベームはこの序曲を第2幕のフィナーレの直前に演奏しているが、最初の和音が鳴ったとき、本当に鳥肌が立った。

前述の歌手はレオノーレ役のルートヴィヒ、フロレスタン役のキング、いずれも感情移入がすごく、スタイルの古さを感じさせるが、ドラマが比類なく生きていることは確かであり、とくにピサロ役のナイトリンガーの邪悪さは格別だ。

指揮も申し分なく、歌の出来もこれだけムラのない全曲盤は他にあるまい。

人間にとっての自由の尊さを訴えたこの祭儀的な音楽劇のCDのまず筆頭にこれを挙げたい。

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トスカニーニが創設2年目のNBC響と1939年に行ったベートーヴェン・チクルスをまとめてCD化したもの。

NBC交響楽団はニューヨーク・フィルを退いたトスカニーニのために結成されたオーケストラで、NBC放送が当時の最高レヴェルのプレイヤーを集めて、トスカニーニの指揮芸術をラジオ放送を通じて世に広めようとしたものである。

トスカニーニは1950年代に同じNBC響を振って、ベートーヴェンの交響曲全曲を再録音しているので、その方が代表盤になってしまったが、演奏自体は問題にならぬくらい1939年盤の方が良い。

オーケストラは創立されたばかり、トスカニーニも70代に入ったばかり、その極度に結晶化された響きと気迫は「凄まじい」の一語に尽き、フルトヴェングラー盤に唯一匹敵し得るCDといえよう。

極めて力強い音楽がひしひしと伝わってくる。

徹頭徹尾トスカニーニの強靭な意志に貫かれ、すべての音に渾身の力が注がれた、激しく熱い音楽である。

ダイナミクスの幅は大きく、フォルテやアクセントが強調され、急速な楽章のクライマックスなどはまさに息をのむほどの迫力だ。

ここにはヨーロッパの伝統、ドイツ風の含みや暗さなど皆無で、すべてむき出しの音だけで勝負している。

金管とティンパニは最強奏されるが少しも粗さを見せず、時にはかなり大きなテンポの動きもあって、決して機械的な演奏ではない。

このベートーヴェン交響曲全集は後年のそれと比べて、トスカニーニのアクレッシヴで毅然としたベートーヴェンをたっぷりと聴き取ることができる。

かつてトスカニーニの指揮は、アメリカを中心に現代の演奏様式に非常な影響を及ぼしたが、ベートーヴェンの交響曲全集は、彼の芸術を代表する名演揃いである。

しかしトスカニーニの演奏は、現代の音楽学的な研究の観点から眺めると、もはや過ぎ去った時代の表現という感がないわけではない。

かつて楽譜に忠実といわれた解釈も、現在の眼で見るとそうではなく、かなりロマン的で主観的な表情や解釈をまじえている。

しかし彼の場合は、音楽が凄いほどの生命力をもっていることを、いまも高く評価せねばなるまい。

現在、トスカニーニの演奏は楽譜に忠実という意味ではなく、視点を変えて受容されることが必要な時代といえる。

これらの演奏にみなぎる極度の緊張力とカンタービレの魅力、ドイツの伝統にしばられない率直な表情などが、改めて評価されてよいのである。

ここには明快な歌と灼熱の生命力をもった音楽があるが、現在の演奏では、ベートーヴェンに必要な意志的な力が、トスカニーニほど端的に示されることが、なくなってしまった。

したがってトスカニーニの演奏は、現在では新しい意味を感じさせる。

特に奇数番の曲にトスカニーニの真骨頂があると言えるだろう。

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2022年03月20日


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ロマン・ロランは実に数多くの作品を書いたが、世界に広く読まれているものは、なんといっても『ジャン・クリストフ』であろう。

ロマン・ロランは当作品でノーベル文学賞を受賞したが、まさに彼の代表作であり、世界文学史上の不滅の傑作である。

この作品は、どんな逆境にあってもひるまずに、人間完成を目指して苦闘する一つの魂の生成史である。

主人公ジャン・クリストフの幼少時代は、ロマン・ロランが終生私淑してやまなかったベートーヴェンがモデルになっていることは周知の通りであるが、彼自身の現実の思い出も少なからず取り入れられている。

また、成人後のジャン・クリストフにも、作者自身の生活体験が豊富に取り入れられている。

しかしジャン・クリストフは、あくまでも、作者が理想の人間像として描き出した人物である。

もちろん、ジャン・クリストフの人生観、社会観、また芸術観などは、作者のそれであることに間違いはないが、ジャン・クリストフの個性なり気質なりは、作者のそれとはかなりかけ離れたものと考えなければなるまい。

むしろ、オリヴィエ・ジャナンの中にこそ、作者の面影が多く射し言っているといっても差し支えないであろう。

ロマン・ロランは、ベートーヴェンこそは一生を通じて彼の魂の師であった。

彼がいく度か生の虚無感におそわれた危機に、彼の心の内部に無限の生の火をともしてくれたものは、実にベートーヴェンの音楽であった。

ロマン・ロランのベートーヴェンに対する尊敬と傾倒とは、また、中年及び晩年において、大規模なベートーヴェン研究となって結実している。

これは音楽研究家としてのロマン・ロランの、専門的な学究的著作ではあるが、ここに分析されたベートーヴェンの自然観、宗教観、女性観は、ロマン・ロラン自身のそれらと非常に似かよったところがある。

われわれはここに、相寄る魂の実に美しい一つの実例を見ることができる。

ロマン・ロランは、19世紀の末から20世紀の前半を誠実に生き抜いた一人の偉大なヒューマニストの、信仰の告白であり、人間信頼の賛歌であり、時代の生きた良心的な証言である。

晩年ロマン・ロランは「私はずいぶん読まれているが理解されていない」と嘆いているが、果たしてそうであろうか?

多くの人々は、彼の幾多の作品を通して、彼の魂の奥深い深淵をのぞきこんで、そこから彼の魂の秘密をくみとろうと努力している。

特に『ジャン・クリストフ』を読むことは、われわれにそうした努力を強いるのである。

そうしたところに、彼の作品のはかり知れぬ魅力と偉大さがあるといえるであろう。

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トスカニーニのスタジオ録音による唯一のドイツ・オペラである。

厳しく切り詰められた造形のなかに、トスカニーニ独特の豊かなカンタービレがあふれ、強烈な説得力を持っている。

その雄渾な気迫に満ちた音楽作りは、ベートーヴェンがこのオペラに込めた精神を見事に描き出して、余すところがない。

録音の古さ、歌手に水準の低さ、管弦楽に粗さは残るあるものの、トスカニーニ芸術の厳然たる美しさは時代を超えて生き続けている。

いろんな《フィデリオ》の演奏にふれたあと、トスカニーニの録音を聴くと、一瞬「ああ、これは志を持った音楽だ」という思いに胸が熱くなる。

トスカニーニの思想は死後一人歩きを始める。

「楽譜に忠実な演奏」は、いつの間にやら「音符を正確に弾くだけの演奏」に堕してしまった。

創造者には、旧勢力との間の生死を賭けた闘いが待っていたが、後を継ぐ者にはそれがなかった。

「ベートーヴェンは史上初めて、音楽に理想と力を持ち込んだ音楽家です」と語った碩学がいらっしゃった(丸山眞男氏)が、それ以来、筆者のベートーヴェンの聴き方が変わった。

天の啓示を受けた思いであったが、トスカニーニのベートーヴェンは筆者にあの時の衝撃を思い出させる。

対立した巨匠フルトヴェングラーは一人の後継者も産むことが出来なかったが、トスカニーニは指揮法と芸術思想の後継者としてカラヤンを持つことができ、演奏スタイルは時代の規範となった。

20世紀楽壇の帝王カラヤンは、トスカニーニに私淑していると公言して憚らなかった。

実際、カラヤンの音楽はトスカニーニ同様、フルトヴェングラーの重厚さ、神秘性、哲学的かつ文学的なねっちりした表現とは無縁だった。

巨匠二人の優劣の問題ではなく、一方は伝統の完成者であり、もう一方は伝統の創始者であった。

トスカニーニが、スコアから一切の文学性を追放したのはファッションのためではない。

作曲者と作品への熱烈な崇拝が、演奏家の愚かなる解釈を拒んだ。

つまり、「自分は偉大な作曲家の僕(しもべ)である」という最大級の謙虚さを、トスカニーニは持ち合わせていた。

オペラ・ハウスにオーケストラ・ピットを設け、客席の照明を落とす習慣を定着させたのもトスカニーニの功績のひとつだ。

これとて、劇場と聴衆の怠慢を許さない、という強い使命感の表れであったに違いない。

トスカニーニの正義は、大は「ナチスやムッソリーニ政権への痛烈な反逆」から、小は「離婚歴のある人物とは口もきかない(浮気は構わない)」まで、政治、プライヴェートの別なく、止まることを知らなかった。

そんなトスカニーニの演奏を、「冷たい」「厳しい」と敬遠するのは簡単だ。

しかし、甘く心地よいばかりが「愛」ではないことを、私たちは知るべきではないのか。

耳当たりのよい音楽は、耳の感度を下げ、魂を怠惰にする。

時代の激動に身を置かざるを得ない今こそ、トスカニーニの《フィデリオ》を聴いて、辛口の「愛」をすすんで享受し、燃えたぎる業火の情熱に、身も心も焼き尽くせと志願するときなのだ。

異論は百も承知の上で「21世紀もこの人を忘れてはならない」と声を大にして言いたい。

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2022年03月10日


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カラヤンは、DVD作品を除くと、4度にわたってベートーヴェンの交響曲全集をスタジオ録音しており、1977年の普門館でのライヴによる全集もあるが、本全集はそれらいずれの全集をも大きく凌駕していると言っても過言ではあるまい。

1966年と言えば、まさにカラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代で、心身ともにベストコンディションであり、精緻さと重厚さを兼ね備えた20世紀最高のベートーヴェン演奏と言える。

ベルリン・フィルも、名うてのスタープレーヤーがあまた在籍した楽団史上でも特筆すべき技量を誇った時代であり、それぞれ最高の状態にあったカラヤン&ベルリン・フィルによる演奏は、おそらくはオーケストラ演奏史上でも空前にして絶後の高水準を誇っていたと言ってもいいのではないだろうか。

弦楽合奏の鉄壁のアンサンブル、唸るような低弦の重量感のある響き、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックを示す木管楽器群の美しい響き、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニの響きなどが見事に融合するとともに、カラヤン一流の流麗なレガートが施された、いわゆるカラヤン・サウンドに満ち溢れたまさに圧倒的な音のドラマの構築に成功していたと言える。

カラヤンの前任者であるフルトヴェングラーのような音楽の精神的な深みの徹底した追求などは薬にしたくもないが、音楽の持つ根源的な力強さにおいては、フルトヴェングラーの数々の名演にいささかも劣っているものではないと言えるところだ。

フルトヴェングラーの目指した音楽とカラヤンの目指した音楽は、このようにそもそも方向性の異なるものであり、その優劣を論ずること自体がナンセンスであると考えられるところである。

かつて影響力の大きかった某音楽評論家の偏向的な批評などを鵜呑みにして、本全集のような圧倒的な名演に接する機会すら放棄してしまうクラシック音楽ファンが少なからず存在すると想定されるのは大変残念なことであると言えるだろう。

カラヤンの個性が全面的に発揮されたベートーヴェンの交響曲全集の演奏としては、1970年代にスタジオ録音された3度目の全集を掲げる者も多くいると思われるが、本全集は、実演でこそ真価を発揮するカラヤンならではの途轍もない生命力溢れる力感が随所に漲っているなど、音のドラマとしての根源的な迫力においてはかかるスタジオ録音による全集を大きく凌駕していると言えるところであり、まさにカラヤン&ベルリン・フィルという稀代の黄金コンビによる全盛時代の演奏の凄さを大いに堪能させてくれる究極の名演奏と言っても過言ではあるまい。

音質は、従来CD盤においても音響がイマイチとされる東京文化会館でのライヴ録音と思えないような生々しさであった。

本全集の演奏のうち、「第3」については1982年のベルリン・フィル創立100周年記念ライヴ盤(ソニークラシカルのDVD作品)、「第7」は、同時期の1978年のベルリンでのライヴ盤(パレクサレーベル)に一歩譲るが、それ以外は、カラヤン自身にとって最高の超名演で構成されている圧倒的な名全集と高く評価したいと考える。

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2022年03月07日


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活動の拠点をヨーロッパに移したバーンスタインが定期的に指揮台に立ったオーケストラのひとつであるアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との初顔合わせ録音だった。

個人的なことだが、ウィーンを中心にヨーロッパで活躍するようになったバーンスタインの円熟を最初に教えてくれたのが、この1978年にライヴ録音された《ミサ・ソレムニス》だった。

このオーケストラやウィーン・フィルといった確固とした個性を持つ楽団との共演を通して、バーンスタイン最円熟期の芸風は確立されていた。

このベートーヴェンでも、それ以前の彼と大きく印象が異なることが実感される。

バーンスタインによる《ミサ・ソレムニス》は、ニューヨーク・フィルとの1960年録音もあるが、当曲がベートーヴェンの最高傑作であることを実感させてくれる稀有の名演である。

この曲はヒマラヤ高峰のような至高かつ峻厳な趣をたたえている。

しかしバーンスタインの演奏はニューヨーク・フィル時代の彼には珍しく柔和な表情を示し、ヒューマンなあたたかみに満ちている。

何の理屈もなく、ただひたすら聴き込まされてしまうような熱演を行なっているのがバーンスタインである。

作品に対する深い共感はオーケストラの伝統的な表現イディオムと一体になり、真に感動的な瞬間を生み出している。

劇的に高揚した場面でも決して上滑りになることなく、宗教的な感動に根差した深い表現が実現される。

演奏会の雰囲気をそのまま収めているだけに、その緊張感には独特のものがあり、バーンスタインの率直でひたむきな情熱といったものが、聴き手にひしひしと伝わってくる。

いかにもバーンスタインらしい作品への共感度が、ライヴ録音によって一段と強く表出され、きわめて劇的で集中力の高い演奏となっている。

バーンスタインらしい、そしてライヴならではの集中力や熱気とともに、作品への共感が少しも力づくになることなく、しなやかに懐深く歌われている。

白熱した昂揚と真摯な沈潜がつくる劇的な表現の幅も驚くほど大きいが、それが決して作為的なものにならず、オーケストラと合唱、独唱者たちが渾然一体となって、ベートーヴェンがこの大作にこめた感動を高らかに歌い上げている。

まさに合唱、オーケストラ、独唱が、聴衆を含めて一体となって、ベートーヴェンの音楽に没入しているかのような感じを受ける。

それら全てが友愛の精神に貫かれ、しかも格調の高さを失っていない。

繊細な神経が隅々にまで行き渡りながらも、調和の理念がスケール大きく展望され、真摯な祈りがこもり、最後は充実した和音感でしめくくられて感動的だ。

アムステルダム・コンセルトヘボウの柔軟な反応力は見事である。

無心なバーンスタインの心から投影されてくるベートーヴェンの音楽は、民族国境をこえて、まさしく世界をひとつに結ぶ力をもっている。

この求心力、緊張力の持続はライヴ独特の強味でもあり、バーンスタインの人となりが明らかになった名演と言える。

カラヤンのよく計算された、完璧ともいえる演出の巧みさこそないが、ここには素晴らしい集中力と、爆発的な熱狂がある。

独唱はベテラン揃いで、なかでもモーザーのスケールの大きな歌いぶりや、シュヴァルツの端正な歌唱は見事だ。

声楽陣も、この指揮者の真摯な姿勢に感化されたような、スケールの大きい充実した歌唱を展開しており、すべての演奏家が最大の力を出しきった、全く自然に音楽を作っていく様は感動的である。

録音もコンセルトヘボウ独特の豊麗でコクのある非常に好ましいものだ。

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2022年03月06日


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ベルリンの壁開放を祝って1989年12月25日に東ベルリンのシャウシュピール・ハウスにおいて行われたバーンスタイン指揮の「第9」演奏会の実況録音。

バイエルン放送響と同合唱団を中心に、東西ドイツと米英仏ソ連のオケと東西ドイツの合唱団のメンバーが参加し、独唱者もアメリカ(ソプラノ)、イギリス(メゾ・ソプラノ)、東ドイツ(テノール)、西ドイツ(バス)と国際色豊かな演奏である。

バイエルン放送協会による録音で、西側だけでなく東側でも同時に発売されたという。

《壁》が崩壊した年のクリスマス・コンサートとして記念碑的企画であり、混成メンバーによる演奏そのものが「第9」の理念を実践したものといえよう。

急遽集まったオケのアンサンブルは最上のものとはいえないが、そうしたことよりもあらゆる思いをこめたその内容を聴き取るべきだ。

第4楽章は、バーンスタインの堂々とした風格豊かな音楽が聴きもので、作品の祝祭的な性格を最大限に発揮させている。

なお、合唱部分では歌詞を「歓喜(Freude)」から「自由(Freiheit)」に変更して歌っている。

危機に取り囲まれたバーンスタインの生きる指標がヒューマニズムなのだった。

かなり際どい言い方になるが、ソロ歌手の人選も、黒人もいればレズもいるというモノスゴイものだ。

こんな企画をキワモノ扱いする向きもあるけれど、キッチュと偽善の危険と隣り合わせのヒューマニズムをここまで貫徹させるエネルギーを持つ音楽家が他にいなかったのは紛れもない事実。

いったい、ヒューマニズムを否定したら何があるのかと問いたげな自信満々のパフォーマンスなのである。

ひたすら高揚するこのフィナーレを聴いて、単に好き嫌いを言っていても仕方がない。

感動しっぱなしでも意味がない。

あなたにとってコレは何なのか、それが問題なのだ。

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2022年03月05日


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ユニバーサルやワーナーが揃ってSACD盤の発売に積極的になってからというもの、一時は瀕死の状態にあったSACDが急速に脚光を浴びるようになったというのは、パッケージメディアの良さをあらためて認識させるという意味において、大変喜ばしいことである。

そうしたSACD復活の流れの中で、大指揮者による数々の来日公演のCD化で定評のあるアルトゥスレーベルが、ムラヴィンスキーの来日公演(1973年)のCD2点を皮切りとして、シングルレイヤーによるSACD盤の発売に踏み切ったのは、何という素晴らしいことであろうか。

アルトゥスレーベルによるSACD化第2弾として、何を発売するのか筆者としても非常に興味を抱いていたところであるが、選ばれた音源は、いずれも文句のない歴史的な名演揃いである。

第2弾の2点のSACD盤のうち、もう一つのSACD盤に収められた、ヨッフムの死の半年前の来日公演のブルックナーの交響曲第7番及びモーツァルトの交響曲第33番も、歴史的とも言うべき超名演であるが、本盤に収められたケーゲルによるベートーヴェンの交響曲第5番及び第6番についても素晴らしい名演であり、その価値においてはいささかも引けを取るものではない。

そして、本演奏もケーゲルの死の1年前の来日公演の貴重な記録であり、アルトゥスレーベルによる第2弾の音源の選び方にも、なかなかの工夫がなされているという好印象を受けたところだ。

ケーゲルは、独カプリッチョレーベル(現在は解散)に、手兵ドレスデン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集をスタジオ録音(1982〜1983年)しており、それもケーゲルの名を辱めることのない名演であると言えるが、本盤の演奏とは比べ物にならないと言えるだろう。

それにしても、本盤の演奏はとてつもなく凄い演奏だ。

筆舌には尽くし難い演奏というのは、本演奏のようなことを言うのであろう。

本演奏には、生きるための希望も、そして絶望も、人間が持ち得るすべての感情が込められていると思われる。

「田園」の第1楽章の超スローテンポや、第5番の終楽章の大見得を切った表現など、個性的な解釈が随所に聴くことができるものの、全体としては、表向きは淡々と音楽が流れており、加えて平静ささえ漂っているだけに、嵐の前の静けさのような不気味さを感じさせる演奏とも言えるところだ。

翌年には自殺を図るケーゲルが、どのような気持ちで本演奏を行ったのかは不明であるが、そうしたケーゲルの悲劇的な死を我々聴き手が知っているだけに、余計に本演奏にとてつもない凄みを感じさせるのかもしれない。

併録の「エグモント」序曲やバッハのG線上のアリアも名演であるが、特に、凄いのはG線上のアリアであろう。

一聴すると淡々と流れていく各旋律の端々には、ケーゲルの救いようのない絶望感を聴き取る(というか感じ取る)ことが可能であり、まさに我々聴き手の心胆を寒かしめる演奏と言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本盤は、演奏の素晴らしさ(というよりも凄さ)、そして極上の高音質という、望み得る要素をすべて併せ持った至高の名SACDと高く評価したい。

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2021年12月27日


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歴史的名演というものの最たるものがこのフルトヴェングラーの「第9」であるだけに、これまでにも高音質化の試みが何度もなされてきた。

今回はまさに1951年7月29日、スウェーデン放送によって中継放送された番組、冒頭の4か国語 (ドイツ語、フランス語、英語、スウェーデン語の順) によるアナウンスから巨匠の入場、渾身の指揮、やや長めのインターバルをはさみ、最後の2分半以上に及ぶ大歓声と嵐のような拍手 (と番組終了のアナウンス) まで、85分間、一切のカットなしに当夜のすべての音をSACDハイブリッド盤に収録されている。

改めて述べるまでもないと思うが、第2次大戦後、ヒットラーとの関係などもあり閉鎖されていたバイロイト音楽祭が1951年に再開されたとき、その開幕記念を飾る演奏として計画されたのが、このフルトヴェングラーの「第9」コンサートであった。

ドイツ人なら誰しもが喜んだであろう再開であったが、それは虐殺されたユダヤ人の悲劇がまだ生々しかった時代のことであり、現代とは自ずと取り巻く環境は異なっていたはずである。

フルトヴェングラーも一時期は演奏活動を禁じられたほど第2次大戦の悲劇は音楽家たちにも影を落とした。

このバイロイト音楽祭もクナッパーツブッシュやカラヤンのようなバイロイト初登場の指揮者たちが顔を揃えているから、再開といえども祝典気分一色というのではなかったはずである。

むしろ新たな陣容でドイツの音楽史が歩み出すことを内外にアピールする切実な責務、使命感がその底にあったものと思われる。

フルトヴェングラーの双肩にそうした期待感と重圧がのしかかってきたわけだが、ここでフルトヴェングラーが聴かせた音楽はまさに壮絶そのものであった。

それは「第9」という作品の桁外れの素晴らしさを余すところなく明らかにすると同時に、演奏という再現行為が達成し得る、さらに深遠で、神秘的な奥深さへと聴き手を誘う記念碑的偉業となったのである。

演奏という行ないはいつしか信仰告白とでも言うべき高みへと浄化され、作品は作品としての姿を超えて彼方からの声と一体化する、そんな陶酔的感動の瞬間を作り出してしまっている。

以来、この歴史的ライヴ録音は演奏芸術の鑑として聳え立ち、もちろんその後、誰もこれを凌駕する演奏など作り出していない。

超えられる演奏などではなく、目標として仰ぎ見ることだけが許された名演と言ってもよいのかもしれない。

アメリカ生まれのスウェーデン人の名指揮者ヘルベルト・ブロムシュテット(1927年生まれ)は偶然にもこの演奏を聴くことができた音楽家だが、その日受けた感動をあまりしゃべりたがらない。

同じ指揮者として自分が日々やってることが、このフルトヴェングラーの演奏と対照されるとき、一体どれほどの意味と価値を持つものなのか悩み抜くからで、ことに「第9」の指揮は今なお怖いという。

聴衆の中に一人でもあの日の聴衆がいると思うと怖くてステージに上がれなくなる、いやこの歴史的名演をCDや放送で聴いて感動した人がいると思っただけでも、もう緊張してしまうのだそうである。

世界的巨匠と崇められるベテランの名指揮者を今なお呪縛してしまう、それほどの名演である。

歴史に残る演奏に出会える機会はそうあるものではないが、稀に見る奇跡を記録した演奏がこの「第9」である。

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2021年12月14日


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ソヴィエト連邦が崩壊後、情報公開の波に乗ってさまざまなロシアの幻のピアニストの録音が紹介され、多くの素晴らしいピアニストたちの全貌が明らかになってきた。

1908年生まれで78年に没したマリア・グリンベルクもその一人で、もし西側で活躍していれば間違いなく最高の女流ピアニストに数えられていただろう。

ロシア帝国末期にオデッサに生まれたマリヤ・グリンベルクは、激動のロシア革命を生き抜き、レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ時代のソ連で過ごしたロシアン・ピアニズムの大御所。

しかし、彼女の一生は苦難の連続で、父や夫はソ連当局によって逮捕され死に追いやられる。

イギリスのスクリベンダム・レーベルから登場したボックスは、グリンベルクの重要な録音を集めたもので、ロシア物に強い同レーベルならではの凝った内容。

得意のベートーヴェン全集録音と別録音のほか、バッハ、スカルラッティからバルトークやルトスワフスキ、ヒンデミット、カバレフスキー、ロクシーン、ワインベルクなどの近現代作品に至る様々な時代の作品を収録。

スクリベンダム・ボックスのデザインは、グリンベルクの故郷オデッサをモチーフに美麗に仕上げたものだ。

ポチョムキン階段から船と鉄道を臨む視点は、オデッサの歴史を考えると意味深でもあり、外に向かって開かれたオデッサのイメージに、ポチョムキンの「赤い旗」、そして「グリンベルクの顔」の織り成す不思議な感覚が面白い。

ソ連随一と言われていたグリンベルクのベートーヴェン演奏は、ゲンリフ・ネイガウス[1888-1964]が絶賛していたほか、かのラザール・ベルマン[1930-2005]も教えを請いに来るほど見事なものであり、LPで全集セットを贈られたショスタコーヴィチも感激していたそうだ。

グリンベルクはもともとベートーヴェン演奏に適性があったようで、イグムノフに師事していた学生の頃にも『熱情ソナタ』第1楽章展開部の第2主題の扱いをめぐって師と激論を戦わせ、最終的にはイグムノフがグリンベルクの方法を認めることになるなど、そこにはすでに大きな説得力も備わっていたようだ。

そのグリンベルクが一気にベートーヴェンに開眼するきっかけになったのが、それから少し経った1935年、27歳の時に接したアルトゥール・シュナーベルのモスクワ公演だった。

シュナーベルのベートーヴェンに接して「私のなかのすべてがまたたく間に燃え上がったのてす」と語るグリンベルクは、それまでに習ったロマンティックなベートーヴェン演奏をリセットし、構築的で論理的なスタイルを強い集中力で実現するようになる。

数々の圧政の中で生き抜いてきたこのグリンベルクの弾くピアノは実に強靭で逞しく、そして慈愛に満ちた両面がある。

筆者が愛聴するシューマンの『交響的練習曲』で前者の、『子供の情景』で後者の豊かなファンタジーを聴かせている。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

よろしくお願いします(__)
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