ベートーヴェン

2015年09月03日


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生粋のフランス人でありながら、ベートーヴェンやシューマンなどドイツ音楽にすこぶる付きの名演を残したイーヴ・ナット。

ナットは1956年8月31日にパリでその生涯を終えていることからもわかるように、その録音はすべてモノーラルであるが、彼ほど強烈な印象を与えられたピアニストも数少ない。

筆者がナットの録音を初めて耳にしたのは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集で、これはフランス人の手になる初めての全集であったが、彼の後にベートーヴェン全集を録音したフランスのピアニストは、ハイドシェックくらいだろう。

ベートーヴェンの音楽と言えばゲルマン的気質の最たるものと言えるところであり、古くはシュナーベルからバックハウス、ケンプ、それにグルダやブレンデルなど、ゲルマン系の演奏家による名演がしのぎを削っている中で、わざわざフランス系の演奏を聴こうとは当初は思ってはいなかった。

だがナットの演奏は、マルセル・プルーストが「彼の演奏は極めて偉大で……彼の姿は視界から消えて、作品への窓に過ぎなくなってしまう」と書いたように、非情なまでに作品に献身的であり、そのベートーヴェンやシューマンはいつまでも人類の宝である。

“ベートーヴェンを読む”ことに生涯をかけて悔いのなかったナットの演奏が、こうして聴けることは誠に喜ばしい。

その非情なほどに私情をまじえない姿勢は、バックハウスにも共通していることである。

明晰な打鍵から生み出される濁りのない音色を駆使して奏でられる透明な音像は、それだけでもゲルマン的なベートーヴェン表現とは一線を画した個性的で新鮮な魅力にあふれているが、それが楽曲の構造の隅々までをも、一切の曖昧さを残さず、実にくっきりと描き出しているのに感心することしきりであった。

特に中期から後期にかけての作品で、ナットの演奏は実に厳しく、フランス的な知性と思弁が捉えたベートーヴェンをはっきりと聴くことができる。

打鍵は明晰であるだけでなく力強く深さを持っているため、中期ベートーヴェンの覇気や推進力も見事に表現されるが、それがやみくもに猪突猛進的となるのではなく、あくまで理性によって強力に統御されているため、崇高な精神の輝きとして感じられるのも印象的であった。

ナットは作曲にも相当の才能があったと伝えられているが、それは当然、彼の説得力に満ちた作品の描き方や核心を突く演奏につながったと思われるが、後期曲集などを聴いていると、彼の解釈が優れていたのは、結局は技術や個性的な解釈に依存するのではなく、心から共鳴する作品に真摯に向き合い、余計な恣意を挟まず、作品そのものに対して自らを捧げようとする精神からきていたように思えてならない。

実に透徹した表情を持つ演奏に仕上がっており、しかも情感の豊かさや懐の深い精神性にも事欠かず、ベートーヴェンの音楽の核心を垣間見せてくれる。

またベートーヴェン全集と並ぶナット畢生の傑作であるシューマンの主だった作品がほぼ収められており、ナットのシューマン解釈の説得力の大きさを知らしめてくれる。

ナットのシューマンはまず見通しのよい構成が的確に押さえられているのが特徴で、それに重くもたれるような表現から解放された明快な表現が、逆にシューマンの微妙で繊細な情感の移ろいを見事に捉え、ロマンティシズムというものに新たな光を当てている。

そしてそれはまた、とかく演奏者の思い入れだけが先行して形を崩してしまい、果ては真のロマンティシズムも雲散霧消させてしまいがちなシューマンの作品などで、説得力に満ちた優れた成果をもたらす要因となったように思える。

ここには良い意味でのラテン的精神の粋が見られ、演奏家としてではなく、むしろ芸術家としての強い倫理感が感じられる。

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2015年09月02日


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ブレンデルの3度目のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集で、どのソナタも初めて聴くかのような感銘を与えてくれる。

一定の間隔を置いてベートーヴェンに集中することによって芸術的洞察を深めピアニズムを磨いてきたブレンデルだが、1992年から96年にかけて録音された最新のソナタ全集は、この名ピアニストが最円熟期を迎えて到達した人間的・芸術的境地を余すところなく伝えている。

ブレンデルにとって、ベートーヴェンが不可欠なレパートリーであることは、彼が、早くからソナタと協奏曲の全曲録音を完成し、その後も回を重ね、すでに協奏曲では4回、ソナタも3回、それを実現していることからも頷けるが、もちろん、それらが無為に重ねられたものではなく、それぞれに価値があるものばかりでなく、確実にそこに新たな成熟を加えてきたということは見逃せまい。

ブレンデルのベートーヴェンはドイツ=オーストリアの伝統的な演奏様式を背景に成立しているだけに、表現の普遍性と安定した構成感をそなえているが、3度目の全集録音になって初めて、極めてオリジナリティに溢れた独自な世界を開示するに至った。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタは何度演奏してもその度に新しい発見があるという彼自身の発言通り、どんなに聴き慣れたフレーズからも意外かつ魅力的な側面が引き出されている。

とは言っても決して恣意的な自己顕示などではなく、あくまでも音楽そのものから湧き出た表現なのであり、また、ドイツの伝統的な演奏様式を背景に成立しているために、ある種の普遍性さえ備えている。

ヴィルトゥオーゾ的な効果や無意味な流麗さ、スマートさ、こけおどしの迫力やパッションとは違う。

どのフレーズの表現にもぶれがなく明快で、確かな意味が込められ、意外かつ新鮮。

その上、ベートーヴェンのヒューマンな温もりと機知に富んだフモールが感じられる。

この3度目のソナタ全曲は、彼が楽譜の背面までも読みつくしながら、決してベートーヴェン以外の何ものの介入も許さぬ厳正さと謙虚さをもった姿勢を貫いていることを思わせている。

ブレンデル自身が強調するところの作品の「性格」と「心理」の重視ということに応じて32のソナタのどれひとつとして同じパターンで処理されておらず、1曲1曲に瑞々しい感性と深い洞察が行き届いて、まさに32の異なる小宇宙が形成されているのである。

そして、その32のソナタの全体が人間の性格と心理、感情と理念の総覧、あるいは人間というものの内的な在りようの集大成として大きな宇宙を構築している。

ベートーヴェンという作曲家はかくも繊細で柔軟で敏捷に動く心の持ち主だったのかと改めて驚嘆させられる。

ベートーヴェンは、決して一枚岩の強固な精神で押しまくっていたわけではない。

ブレンデルのソナタ演奏はベートーヴェンの内面の深くも多彩なカレイドスコープを見事なまでに明らかにしてくれているのである。

それはまた、シュナーベル、バックハウスから出発した20世紀のベートーヴェン演奏の1つのブレンデル流の帰結であると同時に、21世紀に向けての新しいベートーヴェン演奏の出発点とも言えよう。

こうした伝統の上に立つ演奏家が、今や希少となっていることも気づかせる。

ブレンデルの総決算であるとともに、演奏史に永く残る不滅のベートーヴェン全集である。

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2015年08月27日


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既に指揮者としても第一級の評価を与えられているバレンボイムであるが、ピアニストとしての彼の活動も忘れるわけにはいかない。

バレンボイムほどに自身の音楽家としての将来に一貫した計画をもち、それに沿って着実に充実を計ってきた演奏家も珍しいのではないだろうか。

ピアニストとしてのバレンボイムは、1回ごとのヴァラエティに頼ったプログラムでのコンサートよりも、モーツァルトやベートーヴェンのソナタや協奏曲の連続演奏会や、ロマン派のピアノ作品のシリーズ演奏会などを通じて、まとまりのある音楽的な体験を聴き手と共有してきた。

指揮者バレンボイムも同様に1975年から首席指揮者・音楽監督をつとめたパリ管弦楽団や、1991年から音楽監督をつとめたシカゴ交響楽団、1992年から音楽監督の地位にあるベルリン州立歌劇場、多く客演するベルリン・フィルやウィーン・フィルなどを通じて、しっかりと目標を定めたプログラミングで演奏活動を行ってきている。

バイロイト音楽祭も含めたそれは、その場の成功だけではなく、将来へ向けての自らの滋養となる音楽を厳選しての活動である。

こうした活動のうちに、バレンボイムは他の人にはなかなか明かさない「最終目標」を秘めていたかのように思えた。

そのひとつがベートーヴェンの「交響曲全曲の録音」で、「自分が確信をもてるオーケストラの地位を得たときに初めて、確信ある演奏で録音したい」と、これほどまでに経験豊かな指揮者としては用心深く慎重な態度を崩さなかったが、先般、シュターツカペレ・ベルリンとともにベートーヴェンの交響曲全集を録音したのは感銘深かった。

そのバレンボイムがピアニストとしてもこうして、実に3度目となるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を録音してくれたのは、彼のベートーヴェンに関心をもつ者にとっては何よりうれしいことである。

先にも記したように、バレンボイムはキャリアの比較的初期からベートーヴェンのソナタ全曲演奏会を各地で開いてきている。

だから、これも慎重を期しての録音なのだろうが、演奏のどこにも慎重さゆえの堅苦しさはなく、音楽は豊かに解放され、その随所で美しい薫りを漂わせている。

バレンボイムは指揮とピアノの両方を二足のわらじとも、相反するふたつのレヴェルのものだとも考えてはいない。

「私に関する限り、音と肉体的な接触をもつことが、どうしても必要なのです。演奏と指揮は私にとって、ひとつの物事の裏と表なのです」「ピアノを演奏しているときには、自分が指揮者であると思って、自分の演奏をほかの誰かの演奏を聴くように第三者として聴こうと試みます。それとは逆に指揮をしているときには、楽器を演奏しているような気持ちをもちます。このふたつは決して相反するものではないのです」(バレンボイム)

このベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集に私たちが聴くのも、“第三者の耳で吟味された音楽”である。

ただしその第三者も、当面する楽器の技巧や表現法に縛られる“いまピアノを弾いているピアノ演奏家としての彼”ではないにしても、広く豊かな経験を有する“音楽家バレンボイム”に他ならないことこそが素晴らしいのである。

「偉大な指揮者は、作曲家や器楽奏者としても優れていなければならない」というバレンボイムの言葉は逆に、「偉大な演奏家であるためには、指揮者のような客観性が必要」だとも聞けるのである。

ここに聴かれるベートーヴェンのソナタは、いずれもいわゆる一般的な意味での「名演奏」を遥かに超えている。

まず第一にテンポの設定とその扱いの自由さには、誰もが瞠目させられるに違いない。

音楽の勢いを表出するために表面的な活気を演出するのではなく、相対的には落ち着いたテンポが選ばれているが、旋律の味わいや和声の変化に添って自然に息づく精妙なニュアンスには、たとえようもなく広がりと奥行きのある楽興が横溢している。

バレンボイムの卓越したベートーヴェン解釈は、まるで交響曲を指揮するかのごとく各パートが立体的に扱われ、信じられないほどに多彩な音色感とデュナーミクが駆使されており、他のベートーヴェン演奏では聴けない充足感がある。

聡明さと音楽表現への意欲、そして愛情がひとつに結ばれて、ベートーヴェンのソナタがこれまで以上に含蓄あるものとして聴き手を存分に触発する優れた演奏である。

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2015年08月26日


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2011年で没後10年の巨匠アイザック・スターンによるベートーヴェン録音を収録した廉価盤BOX。

この9枚のCDにはスターンが1964年から1992年にかけて録音したレパートリーの中からベートーヴェンの作品が集大成されていて、彼の古典音楽に対する典型的な奏法を堪能できるのが特徴だ。

特有の丸みを帯びた、明るく艶のある音色で奏でるヴァイオリンは、どこか天衣無縫な大らかさがあり、しかもメリハリの効いた表現は容易に他のヴァイオリニストと聴き分けることができる。

またスターンは聴衆に対して、尊大で近寄り難い印象を与えることは全く無かった。

彼の魅力はそんな気さくさにも感じられるが、一方ではユダヤ人としての尊厳から、彼は戦後オーストリアとドイツでは決して演奏をしなかった。

そうした不屈の闘志と素朴で飾り気の無い暖かい人間性が、その演奏にも良く反映されていると思う。

彼と同世代のヴァイオリニストにシェリング、グリュミオーそしてコーガンがいたが、いずれも全く異なる演奏スタイルでそれぞれが確固たる哲学を主張していた時代にあって、スターンは活動期間が最も長く、また後進の育成にも熱心だったことから、次の時代への引き継ぎ役としても大きく貢献していた。

このセットでは2曲の協奏曲の他にユージン・イストミンとのヴァイオリン・ソナタ全曲やチェロのレナード・ローズが加わるピアノ・トリオでのアンサンブルの一員としても、毅然としたスケールの大きな演奏を充分に鑑賞できるのが嬉しい。

特に、スターンがバレンボイムと共演したヴァイオリン協奏曲は、この曲のもつ抒情性を尊んだ外柔内剛の演奏で、まさに王者の風格をたたえた名演である。

最高にすばらしいテクニックを持っていながら、それを決して誇示せず、音楽の内面を掘り下げてじっくりと弾いた演奏である。

スターンには1959年にバーンスタイン&ニューヨーク・フィルをバックに弾いたものもあり、それも、きわめて健康的な快演だったが、この演奏には年輪の厚みを加えた大家の、内面から湧き出た心の牴劉瓩ある。

作品の抒情的な面に光をあて、ひとつひとつのフレーズをまごころこめて弾きあげているところがよく、ことに第2楽章の深々とした味わいは絶品だ。

バレンボイムの伴奏も音楽的にきめが細かくスターンの深みのある演奏を見事にサポートしている。

同じく気品と抒情がゆるやかに流れる名作「ロマンス」2曲も、小澤征爾&ボストン響という絶好のバックを得て、これまた秀演と言えるだろう。

スターンは色気のない音で厳しい表現を示し、ともに中間主題の熾烈さが聴きもの。

小澤の指揮は誠実そのもので、充実した厚みと豊かさを持ち、落ち着いた足取りがスターンの音楽にぴったりである。

そして、親しみやすくロマンティックなメロディが春の息吹きを想わせる「スプリング」や、精神の奥深くから溢れ出る心模様をより自由な作風に生かした「クロイツェル」などを含むヴァイオリン・ソナタ全曲。

スターンが、永年の音楽の同志イストミンと紡ぎだす演奏は、純粋であるがままの音楽の流れの中に身をゆだね、幸せな境地に誘う。

巷間、スターンは明るい音色と言われるが、ここでは渋味、厳しさ、枯れた味わいなど彼の音と表現が深く、また広がりを見せている。

そしてレナード・ローズも加わった三重奏曲の全曲も、チャーミングなメロディが横溢する佳品で、まさに知・情・意のバランスが取れた名演奏である。

また時代を感じさせない鮮明な音質も特筆される。

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2015年08月24日


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スメタナ弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲の名演としては、1976〜1985年という約10年の歳月をかけてスタジオ録音したベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集が名高い。

さすがに、個性的という意味では、アルバン・ベルク弦楽四重奏団による全集(1978〜1983年)や、近年のタカーチ弦楽四重奏団による全集(2002年)などに敵わないと言えなくもないが、スメタナ四重奏団の息のあった絶妙のアンサンブル、そして、いささかもあざとさを感じさせない自然体のアプローチは、ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力をダイレクトに聴き手に伝えることに大きく貢献している。

もちろん、自然体といっても、ここぞという時の重量感溢れる力強さにもいささかの不足はないところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた美しい演奏というのが、スメタナ弦楽四重奏団による演奏の最大の美質と言っても過言ではあるまい。

ベートーヴェンの楽曲というだけで、やたら肩に力が入ったり、はたまた威圧の対象とするような居丈高な演奏も散見されるところであるが、スメタナ弦楽四重奏団による演奏にはそのような力みや尊大さは皆無。

ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力を真摯かつダイレクトに聴き手に伝えることに腐心しているとも言えるところであり、まさに音楽そのものを語らせる演奏に徹していると言っても過言ではあるまい。

本盤に収められたベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番と第16番は、前述の名盤の誉れ高い全集に収められた弦楽四重奏曲第15番と第16番の約20年前の演奏だ。

全集があまりにも名高いことから、本盤の演奏はいささか影が薄い存在になりつつあるとも言えるが、レコード・アカデミー賞受賞盤でもあり、メンバーが壮年期を迎えた頃のスメタナ弦楽四重奏団を代表する素晴らしい名演と高く評価したい。

演奏の基本的なアプローチについては、後年の全集の演奏とさしたる違いはないと言える。

しかしながら、各メンバーが壮年期の心身ともに充実していた時期であったこともあり、後年の演奏にはない、畳み掛けていくような気迫や切れば血が噴き出してくるような強靭な生命力が演奏全体に漲っていると言えるところだ。

したがって、後年の円熟の名演よりも本盤の演奏の方を好む聴き手がいても何ら不思議ではないとも言える。

第15番と第16番は、ベートーヴェンが最晩年に作曲した弦楽四重奏曲でもあり、その内容の深遠さには尋常ならざるものがあることから、前述のアルバン・ベルク弦楽四重奏団などによる名演などと比較すると、今一つ内容の踏み込み不足を感じさせないわけではないが、これだけ楽曲の魅力を安定した気持ちで堪能することができる本演奏に文句は言えまい。

いずれにしても、本盤の演奏は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の魅力を安定した気持ちで味わうことが可能な演奏としては最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

音質は、1967、68年のスタジオ録音ではあるが、比較的満足できるものであった。

しかしながら、先般、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤がなされ、圧倒的な高音質に生まれ変わったところだ。

したがって、SACD再生機を有している聴き手は、多少高額であっても当該シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤をお薦めしたいが、SACD再生機を有していない聴き手や、低価格で鑑賞したい聴き手には、本Blu-spec-CD盤をお薦めしたい。

第12番、第13番及び大フーガ、第14番についても今般Blu-spec-CD化がなされたが、従来CD盤との音質の違いは明らかであり、できるだけ低廉な価格で、よりよい音質で演奏を味わいたいという聴き手にはBlu-spec-CD盤の購入をお薦めしておきたいと考える。

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アバドのベートーヴェンの交響曲旧全集には、彼が振る以前のウィーン・フィルでは聴くことのできなかった明るく流麗で、しかも四肢を自由に広げたような奔放とも言える表現がある。

ここではかつての名指揮者が執拗に繰り返した、ベートーヴェンの音楽の深刻さは影を潜め、どちらかと言えば楽天的な趣きさえ感じられるが、その華麗な演奏スタイルとスペクタクルなスケール感はアバドの身上とするところだろう。

特にこの第3番ではそうした彼の長所が遺憾なく発揮されている。

ライヴ特有の熱気が満ち溢れ、凄いほどの活力がみなぎっている。

しかも響きがのびやかで、この両方を満足させることができたのは、ウィーン・フィルの威力と考えてよい。

そのため冒頭から目の覚めるような鮮度があり、音が明るくつややかだ。

この美しさは言語に絶する素晴らしさであり、そこにはやさしさと緊張が交錯している。

『葬送』では辛気臭さは全く感じられず、むしろ流暢なカンタービレの横溢が特徴的だ。

また終楽章での飛翔するようなオーケストラの躍動感とウィーン・フィル特有の練り上げられた音色の美しさが、決定的にこの大曲の性格を一新している。

曲中の随所で大活躍するウィンナ・ホルンの特有の渋みを含んだ味のある響きとそのアンサンブルは他のオーケストラでは聴くことができない。

実に誠実で若々しく、このうえなく音楽的な『英雄』である。

尚カップリングは『コリオラン序曲』で、こちらも作曲家の音楽性を瑞々しく歌い上げた、しかも威風堂々たる演奏が秀逸。

どちらも1985年の録音で音質は極めて良好。

クラウディオ・アバドはウィーン・シュターツオーパーの音楽監督への就任前夜からウィーン・フィルとベートーヴェンの作品を集中的にドイツ・グラモフォンに録音している。

カップリングはライヴの交響曲を中心に、余白を序曲等で満たした6枚の個別のCDとそれらをまとめたセット物もリリースされたが、このシリーズはアバドの80歳誕生記念として先般日本で復活したものだ。

彼はその後ベルリン・フィルと映像付の再録音を果たし、現在ではそちらの方が良く知られているし、先頃出された41枚組の箱物『ザ・シンフォニー・エディション』でも第2回目の全集がリイシューされている。

一方ウィーン・フィルとの旧全集については外盤は既に製造中止で、交響曲のみを5枚のCDにまとめたユニヴァーサル・イタリー盤も入手困難になっているという事情もあり、今回の復活はアバド・ファンには朗報に違いない。

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2015年08月14日


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リヒテルのプラハにおけるライヴからのベートーヴェンの作品集の第1巻にあたる。

ただし順不同で刊行しているために、既に第3巻の『ディアベッリ変奏曲』がリリースされていて、このCDにやや遅れて第2巻も出された。

今回はいずれも後期のソナタで、第27番ホ短調Op.90が1965年、第28番イ長調Op.101が86年、そして最後に置かれた第29番変ロ長調Op.106『ハンマークラヴィーア』が75年のそれぞれのライヴから録音されている。

これらは生前リヒテル自身からリリースの承認を受けたそれほど多くない音源で、このシリーズのベートーヴェン以外の曲目も含めて総てDSDリマスタリングを施したSACD盤のリミテッド・エディションになる

このCDを聴いての第一印象は、先ず音質の瑞々しいことだ。

ピアノの音色に特有の透明感と光沢が備わっていて、一昔前のリヒテルのライヴのイメージを完全に払拭してくれたことを評価したい。

ライヴでその本領を発揮したリヒテルを聴くためには欠かせないコレクションのひとつになるだろう。

一流どころのピアニストの中でもリヒテルは、同じ曲目を弾いてもコンサートごとに曲の解釈が大きく変化する可能性を持った人だった。

それは彼が自分のレパートリーに対して、決して固定的な観念を抱いていた訳ではなく、その都度リフレッシュさせて常に装い新たな形で演奏に臨んでいたためだと思われるが、このあたりにも彼の音楽的に柔軟な創造性が感じられる。

例えば第27番の冒頭のテンポを落とした武骨な開始は、第2楽章の慈しむような美しいカンタービレを心憎いほど活かしている。

しかしこの曲集の中での白眉は第29番『ハンマークラヴィーア』だ。

この稀有な構想を持った作品を前にして、彼は虚心坦懐に臨んでおり、それは一途でひたむきな情熱が天翔るような演奏だ。

クライマックスは第1楽章から丹念に準備され、終楽章の迸り出るような二重フーガに見事に結実している。

その壮大な旅のような音楽は、リヒテルがベートーヴェンの楽譜から読み取ったメッセージであるに違いない。

ライナー・ノーツは英、仏の2ヶ国語で11ページほどの簡易なものだが、録音データに関しては他のリヒテルのライヴ音源と違って充分信頼できるものだ。

このシリーズではこれから新音源が発見されることは期待できないが、リニューアルの形でこれまでに都合9枚がリリースされていて、今後他の曲のSACD化も期待される。

勿論SACD用のプレーヤーで鑑賞するのが理想的だが、ハイブリッド仕様なので互換機がなくても再生可能。

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2015年08月13日


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リヒャルト・シュトラウス、ワーグナーに続くプラガのフルトヴェングラーSACDシリーズ第3集は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番変ホ長調『皇帝』及び交響曲第5番ハ短調『運命』の2曲である。

前者がエドヴィン・フィッシャーのソロ、フィルハーモニア管弦楽団による1951年ロンドンEMIスタジオでの収録、後者がウィーン・フィルとの54年ウィーン・ムジークフェラインにおけるいずれもセッション録音になる。

初めてのSACD化ではないが、妥当な価格のハイブリッド盤でどれだけの音響が再生されるか興味があったので聴いてみることにした。

ジュエル・ケース裏面にHMVのLPからのリマスタリングと表記されているが、板起こし特有のスクラッチ・ノイズは一切聞こえない。

レコーディング技術に疎い筆者にはレーザーで読み取らせたものなのか、あるいはノイズが処理されているのか分からないが、かなり鮮明な音質が得られていることは確かで、また全く破綻がないのも古い音源の鑑賞にとっては好都合だ。

音場の拡がりから元になったLPが擬似ステレオ盤だったことが想像されるが、SACD化によって平面的な音響が回避され、いくらか奥行きも感じられるようになっている。

前回のワーグナーの音質がやや期待外れだったが、今回はかなり肯定的な印象を持つことができた。

それぞれの演奏については既に語り尽くされた名盤なので今更云々するつもりもないが、『皇帝』ではエドヴィン・フィッシャーのピアノの響きにクリスタリックな透明感が加わって演奏にそれほど古臭さを感じさせない。

確かに両者のテンポはかなり流動的で、部分的に聴くと大時代的ロマンティシズムのように思えるが、全体を通して鑑賞するのであれば彼らの音楽の普遍的な価値を見出せるだろう。

『運命』に関しては10種類以上の異なった演奏が存在するが、このウィーン・フィルとのセッションは、彼としては比較的冷静でテンポの変化もそれほど目立たない。

しかし音楽設計はさすがに見事で、テーマやモチーフの有機的な繋がりやその再現、楽章ごとの対比と全楽章を結束させる大詰めへの手腕は鮮やかだ。

派手なアピールはないが晩年のフルトヴェングラーの解釈を示した重厚なベートーヴェンと言える。

音質的には弦楽器群の音色が瑞々しく、時折聞こえる生々しい擦弦音も臨場感を高めている。

英、仏語による11ページの簡易なライナー・ノーツ付。

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2015年08月03日


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アラウはデジタルで12曲録音した所で世を去り、2度目の全集は未完に終わったので、本セット(1962年から66年にかけてのセッション)が彼の唯一のベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集となった。

曲目はソナタ全32曲の他に1968年録音の『エロイカの主題による15の変奏曲とフーガ』Op.35、『主題と32の変奏曲ハ短調』WoO.80、『主題と6つの変奏曲ヘ長調』Op.34及び『ディアベッリの主題による33の変奏曲ハ長調』Op.120で、この曲のみ1952年のモノラル録音になる。

最も正統的なドイツ・ピアノ音楽の後継者と言われたアラウは、詩的ロマンを湛えた堅牢な造形美で、ベートーヴェンやブラームスに多くの名演を残しているが、彼はまたフランツ・リストの直系としての誇りを持ったヴィルトゥオーゾでもあった。

この録音が行われた当時彼は60代半ばで、音楽的にも技術的にもバランスのとれた円熟期を迎えていただけに、今回の復活はベートーヴェン・ファンにとっても朗報に違いない。

バックハウスやケンプの時代が過ぎた20世紀後半にあって、ベートーヴェン弾きとして世界の実質的な頂点に立ったのが、同時にシューマンやショパンをもレパートリーに中核に置くアラウだった。

仮に正統的なベートーヴェン演奏という言い方があり得るとすれば、チリ出身のアラウはドイツ系のどのピアニストよりも、その言葉に近いところにいた人ではなかったろうか。

チリ出身であるが、ピアノを勉強したのがドイツであったので、我々がドイツに持っているイメージ、つまり勤勉、実直、頑固、哲学的といった概念をそのままピアノ音楽にしたような、グルダともブレンデルとも全く違うベートーヴェンが聞こえてくる。

軽く薄っぺらなベートーヴェンが横行する時代にあって、アラウのそれは素朴だがどっしりとした手応えがあり、聴き手の心にじわじわしみ込んでくる独特の説得力がある。

悠揚迫らぬテンポで格調高く歌い続けてゆくアラウの強靭な精神が、聴き手を捉え、耳を傾けさせる。

アラウにとっては1980年代の再録音も名演の名に恥じない演奏だが、多少のテクニックの衰えは否めない。

しかしここでの彼は押しも押されもしない堂々たる風格を持った表現で、また華麗な技巧を縦横に駆使して、極めてスケールの大きな演奏になっている。

同時代に録音された同ソナタ全集ではケンプのものが飄々として何物にも囚われない特有の哲学的な味わいを漂わせているのに対して、アラウのそれはピアノという楽器独自の音響を追究し、またその多様性を充分に活かした骨太な演奏でケンプと共に双璧を成していると言えるだろう。

この12枚のセットには幸い1952年の『ディアベッリ』が組み込まれ、古いモノラル録音でいくらかヒス・ノイズが気になるが、その滔々と流れる大河のような壮大なピアニズムは、聴き終えた後に無類の感動をもたらしてくれる。

デッカ・コレクターズ・エディション・シリーズのクラム・シェル・ボックス・セットで曲目紹介、録音データの他に簡単なライナー・ノーツが英、仏、独語で掲載されている26ページのブックレット付。

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2015年07月29日


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スメタナ弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲の名演としては、1976〜1985年という約10年の歳月をかけてスタジオ録音したベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集が名高い。

さすがに、個性的という意味では、アルバン・ベルク弦楽四重奏団による全集(1978〜1983年)や、近年のタカーチ弦楽四重奏団による全集(2002年)などに敵わないと言えなくもないが、スメタナ四重奏団の息のあった絶妙のアンサンブル、そして、いささかもあざとさを感じさせない自然体のアプローチは、ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力をダイレクトに聴き手に伝えることに大きく貢献している。

もちろん、自然体といっても、ここぞという時の重量感溢れる力強さにもいささかの不足はないところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた美しい演奏というのが、スメタナ弦楽四重奏団による演奏の最大の美質と言っても過言ではあるまい。

ベートーヴェンの楽曲というだけで、やたら肩に力が入ったり、はたまた威圧の対象とするような居丈高な演奏も散見されるところであるが、スメタナ弦楽四重奏団による演奏にはそのような力みや尊大さは皆無。

ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力を真摯かつダイレクトに聴き手に伝えることに腐心しているとも言えるところであり、まさに音楽そのものを語らせる演奏に徹していると言っても過言ではあるまい。

本盤に収められたベートーヴェンの弦楽四重奏曲第12番と第14番は、前述の名盤の誉れ高い全集に収められた弦楽四重奏曲第12番と第14番の約20年前の演奏だ。

全集があまりにも名高いことから、本盤の演奏はいささか影が薄い存在になりつつあるとも言えるが、レコード・アカデミー賞受賞盤でもあり、メンバーが壮年期を迎えた頃のスメタナ弦楽四重奏団を代表する素晴らしい名演と高く評価したい。

演奏の基本的なアプローチについては、後年の全集の演奏とさしたる違いはないと言える。

しかしながら、各メンバーが壮年期の心身ともに充実していた時期であったこともあり、後年の演奏にはない、畳み掛けていくような気迫や切れば血が噴き出してくるような強靭な生命力が演奏全体に漲っていると言えるところだ。

したがって、後年の円熟の名演よりも本盤の演奏の方を好む聴き手がいても何ら不思議ではないとも言える。

第12番と第14番は、ベートーヴェンが最晩年に作曲した弦楽四重奏曲でもあり、その内容の深遠さには尋常ならざるものがあることから、前述のアルバン・ベルク弦楽四重奏団などによる名演などと比較すると、今一つ内容の踏み込み不足を感じさせないわけではないが、これだけ楽曲の魅力を安定した気持ちで堪能することができる本演奏に文句は言えまい。

いずれにしても、本盤の演奏は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の魅力を安定した気持ちで味わうことが可能な演奏としては最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

音質は、1970、71年のスタジオ録音ではあるが、比較的満足できるものであった。

しかしながら、先般、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤がなされ、圧倒的な高音質に生まれ変わったところだ。

したがって、SACD再生機を有している聴き手は、多少高額であっても当該シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤をお薦めしたいが、SACD再生機を有していない聴き手や、低価格で鑑賞したい聴き手には、本Blu-spec-CD盤をお薦めしたい。

第13番及び大フーガ、第15番、第16番についても今般Blu-spec-CD化がなされたが、従来CD盤との音質の違いは明らかであり、できるだけ低廉な価格で、よりよい音質で演奏を味わいたいという聴き手にはBlu-spec-CD盤の購入をお薦めしておきたいと考える。

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2015年07月27日


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クラウディオ・アバドが1985年から90年にかけてウィーン・フィルと録音したベートーヴェン序曲集は、当初2枚組のCDで91年にリリースされたが、その後製造中止になっていた。

2011年にリイシューされた日本盤では、このうち『アテネの廃墟』『シュテファン王』『聖名祝日』を除いた8曲を1枚のSHM−CDにまとめていたが、今年になってようやく全曲が2枚のSHM−CDで復活した。

いずれの演奏も当時から評判の高かったセッション録音で、このうち『コリオラン』及び『聖名祝日』は既に廃盤になったグラモフォンのベートーヴェン・コンプリート・エディション第3巻オーケストラル・ワークスにも加えられていた。

ちなみにアバドはベルリン・フィルとも一連の劇音楽集『エグモント』『アテネの廃墟』『献堂式』『レオノーレ・プロハスカ』の全曲版を録音していて、それらはコンプリート・エディションの方に組み込まれている。

アバドの演奏は、ややイタリア的な熱狂と明るさが強く出すぎている面もあるが、オケがウィーン・フィルのためもあってか響きがなめらかで流麗だ。

ウィーン・フィルの持ち味でもあるシックで瑞々しい響きを最大限に活かし、しかもそれに決して溺れることなく堂々とした自己主張を行っている。

流れるようなカンタービレでベートーヴェンに対する新たな美学を描いてみせた秀演で、音楽の内部から湧き出るような歌心を表出させることによって、滞ることのない奔流のような推進力でそれぞれの曲に生命感が与えられている。

また音楽の設計も緻密で、説得力があり、この指揮者の豊かなオペラ経験がベートーヴェンの作品に内在する生命力を解き放つのに大きく役立っているようである。

それはかつての質実剛健で重厚なベートーヴェンのイメージからすれば、意外なくらい明るく軽快な趣を持っているが、かえってスケールの大きさと劇音楽としてのドラマ性の獲得にも成功している。

かなり個人的な解釈が強く、表情にややオーヴァーなところが無くはないが、序曲であるがゆえにドラマティックな音楽に仕立てあげるということも一理ある。

その成否はともかく、少なくともアバドに微塵の迷いも曖昧さもなく、エネルギッシュな音楽の推進力とウィーン・フィルの厚みと奥行きのある響きがひとつの象徴的なベートーヴェンらしさを醸し出している。

特に堂々として骨格の太い『献堂式』、悲劇色を強く打ち出した『コリオラン』『エグモント』、生き生きとして力強い『フィデリオ』、演出のうまさが光る『レオノーレ』第1番、壮大で最後に激情的に盛り上げる『レオノーレ』第3番では、アバドの長所が遺憾なく発揮されている。

録音会場となったウィーン・ムジークフェライン・グローサーザールの潤沢な残響も決して煩わしいものではない。

ベートーヴェンの交響曲全集と同様、ウィーン・フィルがアバドによってイタリア趣味の洗礼を受けた時期のセッションとして興味深い。

序曲集にはカラヤン&ベルリン・フィルのものもあるが、ウィーン・フィルの響きのほうが序曲の表情としては生彩がある。

音質確認のために古い1991年盤と今回のSHM−CDルビジウム・カッティング仕様を改めて聴き比べてみたが、やはり後者が俄然優っている。

楽器の定位がより明瞭で、雑味が払拭され磨きをかけたような音質が得られている。

ただし1曲目の『プロメテウスの創造物』冒頭アダージョの導入部でのごく小さな傷のような音飛びは改善されていないが、これはおそらくオリジナル・マスターに由来するものと思われる。

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2015年07月26日


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プラガ・ディジタルスの新リリースになり、ベートーヴェンのトリプル・コンチェルト及びヴァイオリン協奏曲の2曲が収録されている。

クリュイタンス指揮、フランス国立放送管弦楽団との後者の演奏は日本盤のSACDも出ているので全く新しい企画とは言えないが、既にプレミアム価格で取り引きされている入手困難なディスクなので今回の再発を歓迎したい。

一方このメンバーによるトリプル・コンチェルトのSACD化は筆者の知る限りでは初めてで、両者とも保存状態の良好なステレオ音源であることも幸いしてDSDリマスタリングの効果も明瞭だ。

1974年に66歳で亡くなったオイストラフの、もっとも脂ののったころの録音である。

1958年パリにおけるセッションになるヴァイオリン協奏曲では、クリュイタンスの流麗な表現に呼応した色彩感豊かなオーケストラが特徴的で、決して重厚な演奏ではないがベートーヴェンのリリカルな歌心を最大限引き出したサポートが注目される。

オイストラフのヴァイオリンは、本演奏でもその持ち前の卓越した技量を聴き取ることは可能であるが、技量一辺倒にはいささかも陥っておらず、どこをとっても情感豊かで気品に満ち溢れているのが素晴らしい。

オイストラフのソロは自由闊達そのもので、その柔軟な奏法と艶やかな音色から紡ぎだされる旋律には高邁な美しさが感じられる。

ベートーヴェンがこの曲をヴァイオリンの超絶技巧誇示ではなく、あくまでも旋律楽器としての能力を存分に発揮させるメロディーを主眼に置いた曲想で書いたことを証明している。

オイストラフらしい押し出しの良い第1楽章、それに続く第2楽章のヴァリエーションは秩序の中にちりばめられた宝石のようだし、終楽章はさながら歓喜を湛えた舞踏だ。

ドイツらしくないと言われれば否定できないが、こうしたベートーヴェンにも強い説得力がある。

スタイルとしては、やや古めかしさを感じるものの、これほど曲の内面を深く掘り下げた演奏というのも少ない。

いずれにしても、本演奏は、同曲演奏史上でも最も気高い優美さに満ち溢れた名演と高く評価したい。

トリプル・コンチェルトの他のメンバーは、チェロがスヴャトスラフ・クヌシェヴィツキ、ピアノがレフ・オボーリンで、マルコム・サージェント指揮、フィルハーモニア管弦楽団との協演になり同じく1958年のロンドンでのセッションで、音質、分離状態とも極めて良好。

こちらはカラヤン盤のようなスケールはないとしても、しっかりまとめられた造形美とダイナミズムがあり、ソロ同士のアンサンブルも堅牢だ。

1人1人がスタンド・プレイで名人芸を披露するというより、お互いにバランスを尊重した合わせが聴きどころだろう。

この曲も多くの選択肢が存在する名曲のひとつだが、飾り気のない真摯な演奏としてお薦めしたい。

SACD化によって両曲とも高音の輝かしさと音場に奥行きが出て、ノイズも殆んど気にならないくらい低レベルだ。

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2015年07月25日


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ミラノ出身、73歳(2015年時)の現役ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音完結作。

クラシック音楽全体の中でも中核をなす重要なレパートリーであり、ベートーヴェン自身の芸術や作曲様式の発展を辿る32の傑作の録音が、39年の歳月をかけて完結された。

ポリーニのマイペースぶりにはほとほと恐れ入るが、殆んど諦めていたベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を、彼がまさに半生を賭けて完成させたことを率直に喜びたい。

この曲集についてはとにかく1度全曲を聴き通すことが望ましい。

そうすればポリーニが如何に自分に誠実な演奏を心掛けてきたかが理解できるだろう。

39年という歳月は、当然のようにポリーニに芸風の変化をもたらしているが、それでも、一貫して深い陰影のある彫像性が刻まれた、コクのあるベートーヴェンとなっている。

ポリーニは完全無欠のテクニックを誇っていた時代でも、決して聴き手に媚びるようなピアニストではなかったし、しばしば指摘されるような無味乾燥の機械屋でもなかった。

中でも彼が壮年期に録音したベートーヴェン中期から後期にかけての作品群が堅牢な音楽的造形美と洗練で、さながら名刀を鍛える刀匠のような素晴らしさがある。

確かにここ数年ポリーニの技巧的な衰えは否めない。

以前のような強靭なタッチも影を潜めたが、あえてそれを別の表現や解釈にすり替えようとはせず、不器用ともいえるくらい真っ正直に自己のポリシーを貫き通しているのが彼らしいところではないだろうか。

最近のセッションでは、初期のソナタでの若き日のベートーヴェンの斬新な創意や、性急で苛立つようなリズム、不安や焦燥の中から希望を見出そうとするひたむきな情熱が感じられる。

そこには尽きることのない目標に向かって突き進むような意志があり、また逆にそれを制御しようとする極めて冷静な知性とのせめぎ合いもあり、巨匠としての風格はむしろ稀薄だ。

その意味ではポリーニに円熟期というのは存在しないのかも知れない。

いずれにしても誰にも真似のできない超一流の美学に輝いたベートーヴェン・ソナタ全集のひとつとして聴くべき価値を持っていることは確かだ。

録音状態はさすがに総て均等というわけにはいかない。

過去40年間の録音技術の進歩も無視できないし、会場によって音響が異なり、またセッションとライヴが入り乱れているので、客席の雑音や拍手が入るのは勿論、ポリーニの癖でもある演奏中のハミングも聞こえてくるが、音楽鑑賞としては全く不都合はない。

同一曲で2種類以上の音源が存在する場合は新録音の方が採用されている。

例えばCD5の『テンペスト』を含む第16番から第20番までの5曲は、2013年と2014年にかけて行われたセッションで初出盤になる。

クラムシェル・ボックスに収納されたごくシンプルな紙ジャケットに色違いの8枚のCDが入っている。

曲順はソナタの番号順に再編集されていて録音年代順ではないが、録音データはジャケットの裏面とライナー・ノーツで参照できる。

なお国内盤は、SHM−CD仕様により、音質は従来盤に比べきわめて鮮明になるとともに、音場が非常に幅広くなった。

ピアノ曲との相性抜群のSHM−CDだけに今般のSHM−CD化は大いに歓迎すべきであり、ポリーニによる至高の名演をこのような高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2015年07月14日


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アルバン・ベルク四重奏団(ABQ)は、1970年に、ウィーン音楽アカデミーの4人の教授たちによって結成された。

アルバン・ベルクの未亡人から、正式にその名前をもらったという。

そうしたことからでもわかるように、この団体の演奏は、ウィーン風のきわめて洗練された表情をもち、しかも、高い技巧と、シャープな切り口で、現代的な表現を行っているのが特徴である。

数年前に惜しまれつつ解散をしてしまったABQであるが、ABQはベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集を2度に渡って録音している。

最初の全集が本盤に収められた1978年〜1983年のスタジオ録音、そして2度目の全集が1989年に集中的に行われたライヴ録音だ。

このうち、2度目の録音についてはライヴ録音ならではの熱気と迫力が感じられる優れた名演であるとも言えるが、演奏の安定性や普遍性に鑑みれば、筆者としては最初の全集の方をABQによるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の代表盤と評価したいと考える。

それどころか、あらゆる弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の中でも、ひとつの規範になり得るトップの座を争う至高の名全集と高く評価したい。

特筆すべきは、個々の奏者が全体に埋没することなど一切なく、かといって個々バラバラの主張では決してなく、曲の解釈、表現の統一感は徹底しており、究極のアンサンブルとしか言いようがない点だ。

この全集では、作曲年代に応じて表現を変化させ、情感豊かにひきあげているが、音楽的に深く掘り下げた演奏となっているところが素晴らしい。

本演奏におけるABQのアプローチは、卓越した技量をベースとした実にシャープと言えるものだ。

全体的に速めのテンポで展開されるが、決して中身が薄くなることはなく、むしろ濃厚である。

鬼気迫るような演奏もあって、隙がなく、ゆったりと聴くには少々疲れるかと思いきや、軽やかに音楽が流れ、十分リラックスして聴ける。

楽想を徹底して精緻に描き出して行くが、どこをとっても研ぎ澄まされたリズム感と緊張感が漂っており、その気迫溢れる演奏には凄みさえ感じさせるところである。

シャープで明快、緊迫度の高い、迫力に満ちた名演奏に聴き手はグイグイ引き込まれ、その自由で大胆、説得力あるアプローチに脱帽しまう。

それでいて、ABQがウィーン出身の音楽家で構成されていることに起因する独特の美しい音色が演奏全体を支配しており、とりわけ各楽曲の緩徐楽章における情感の豊かさには若々しい魅力と抗し難い美しさが満ち溢れている。

すべての楽曲がムラのない素晴らしい名演で、安心して聴いていられるが、とりわけABQのアプローチが功を奏しているのは第12番以降の後期の弦楽四重奏曲であると言えるのではないだろうか。

ここでのABQの演奏は、楽曲の心眼を鋭く抉り出すような奥深い情感に満ち溢れていると言えるところであり、技術的な完成度の高さとシャープさ、そして気宇壮大さをも併せ持つこれらの演奏は、まさに完全無欠の名に相応しい至高の超名演に仕上がっていると高く評価したい。

交響曲に匹敵する世界観や壮大さが、たった4人のアンサンブルの中に凝縮されている。

録音は、初期盤でもEMIにしては比較的良好な音質であったが、これほどの名演であるにもかかわらず、いまだにHQCD化すらなされていないのは実に不思議な気がする。

今後は、とりわけ第12番以降の後期の弦楽四重奏曲だけでもいいので、HQCD化、可能であればSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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これまた素晴らしい名演だ。

本盤の2年後録音されたピアノ協奏曲第1番、第2番、第4番も、録音の素晴らしさもあって、至高の名演であったが、本盤もそれに優るとも劣らない名演揃いである。

パーヴォ・ヤルヴィは、手兵ドイツ・カンマーフィルとともにベートーヴェンの交響曲全集の名演を成し遂げているし、仲道郁代は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の名演を成し遂げている。

その意味では、両者ともにベートーヴェン演奏に多大なる実績を有するとともに、相当なる自信と確信を持ち合わせて臨んだ録音でもあり、演奏全体にも、そうした自信・確信に裏打ちされたある種の風格が漂っているのを大いに感じさせる。

オーケストラは、いわゆる一部にピリオド楽器を使用した古楽器奏法であり、随所における思い切ったアクセントや強弱の変化にその片鱗を感じさせるが、あざとさを感じさせないのは、ヤルヴィの指揮者としてのセンスの良さや才能、そして芸格の高さの証左と言える。

第3番は、第1楽章冒頭をソフトに開始。

しかしながら、すぐに強靭な力奏に変転するが、この変わり身の俊敏さは、いかにもヤルヴィならではの抜群のセンスの良さと言える。

仲道のピアノも、透明感溢れる美音で応え、オーケストラともどもこれ以上は求め得ない優美さを湛えている。

それでいて、力強さにおいてもいささかも不足もなく、ヤルヴィも無機的になる寸前に至るまでオーケストラを最強奏させているが、力みはいささかも感じさせることはない。

第2楽章は、とにかく美しい情感豊かな音楽が連続するが、ヤルヴィも仲道も、音楽を奏でることの平安な喜びに満ち溢れているかのようだ。

終楽章は一転して、仲道の強靭な打鍵で開始され、ヤルヴィもオーケストラの最強奏で応え、大団円に向かってしゃにむに突き進んでいく。

後半の雷鳴のようなティンパニや終結部の力奏などは圧巻の迫力だ。

それでいて、軽快なリズム感や優美さを損なうことはなく、センス満点のコクのある音楽はここでも健在である。

第5番の第1楽章は、実に巨匠風の重々しさで開始され、冒頭のカデンツァの格調高く雄渾で堂々としたピアニズムは、仲道のベートーヴェン弾きとしての円熟の表れとして高く評価したい。

それでいて、時折聴くことができる仲道の透明感溢れる繊細で美しいピアノタッチが、そうした重々しさをいささかでも緩和し、いい意味でのバランスのとれた演奏に止揚している点も見過ごしてはならない。

そして、ヤルヴィと仲道の息の合った絶妙なコンビネーションが、至高・至純の音楽を作り出している。

第2楽章は、第3番の第2楽章と同様に、とにかく美しいとしか言いようがない情感豊かな音楽が連続し、仲道の落ち着き払ったピアノの透明感溢れる美しい響きには、身も心もとろけてしまいそうだ。

終楽章は、疾風の如きハイスピードだ。

それでいて、オーケストラのアンサンブルにいささかの乱れもなく、仲道の天馬空を行く軽快にして典雅なピアノとの相性も抜群だ。

そして、これまで演奏した諸曲を凌駕するような圧倒的なダイナミズムと熱狂のうちに、全曲を締めくくるのである。

録音についても触れておきたい。

次作の第1番、第2番、第4番も同様であったが、本盤は、他のSACDでもなかなか聴くことができないような鮮明な極上の超高音質録音である。

しかも、マルチチャンネルが付いているので、音場の拡がりには圧倒的なものがあり、ピアノやオーケストラの位置関係さえもがわかるほどだ。

ピアノの透明感溢れる美麗さといい、オーケストラの美しい響きといい、本盤の価値をきわめて高いレベルに押し上げるのに大きく貢献していると評価したい。

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2015年07月07日


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本盤にはショルティがシカゴ交響楽団の音楽監督に就任して初めて録音した、ベートーヴェンの交響曲全集の中でも傑作に数えられる《英雄》他が収められている。

ショルティのこの《英雄》を聴くと、既にシカゴ交響楽団がショルティの意志のままに音を出す楽器になった、という感じを強く受けた。

この録音時において、ショルティはシカゴ交響楽団の音楽監督に就任して、10年もたってない筈である。

しかし、ショルティは、このオーケストラの音質を、おそらく自分の思う通りのものに仕上げたと感じていたに違いない。

ヨーロッパで活躍を続けてきたショルティにとっては、オーケストラの響きというものは、やはりヨーロッパ的なものであってほしいということになろう。

ここでのシカゴ交響楽団の響きは、いわばアメリカ的な響きとされるニューヨーク・フィルハーモニックや、フィラデルフィア管弦楽団のものとは違ってきていて、もっとヨーロッパ的なものに傾斜した、深みのあるものになっている。

こうした音質の点について、ショルティは、音楽監督就任以来意図していたことを、見事に果たしたというべきだろう。

シカゴ交響楽団が、ショルティの意のままの楽器になっているということは、単にこのような音質だけのことによるのではない。

つまり、ショルティの要求したものを一糸乱れずに音として表現しているばかりでなく、ショルティの楽器のように各声部の強弱のバランスが自在になっているのである。

しかし、ショルティが、いわば抑えつけて、無理強いにそのようにしているのではなく、楽員に自発性をもたせ、演奏する楽しみを与えていることも事実である。

その証拠に、ここでの演奏には、楽員の気張ったところや固くなったところがない。

このショルティの《英雄》は、そうしたヨーロッパ風のオーケストラの響きをもっていながら、ヨーロッパのある特定の指揮者のものを模範としているわけではない。

これはまさにショルティ独特の解釈の《英雄》である。

ただし、独特だからといって、《英雄》の伝統から離れたものではないし、ショルティが無謀勝手なことをしているわけでもない。

どういう点で独特かというと、もったいぶったところをおかず、爽快なテンポで明快に音楽を進め、率直な表現をしていることにその大きな特色がある。

たとえばセルよりも、スフォルツァンドやスタッカートを強調しておらず、そうしたことは、ほどほどに行われている(たとえば、第1楽章や第3楽章でそのようなことがはっきりと認められるだろう)。

そして、このような柔軟性も併せ持っていることで、音楽は、固く角ばったものにはならない。

ショルティの《英雄》は、決して大袈裟な演奏になっておらず、スケールの大きさは失われていないのだが、必要以上の大きな身振りをみせないのである。

力性の変化にしても、フォルティッシモにしてもそうで、また旋律に過度の表情もつけていないが、神経の行き届いた陰影に満ちていることは驚くほどである。

このために、この《英雄》は、あっさりと、あるいはぼんやりと聴いてしまうと、意外に淡々とした演奏と受けとられてしまいがちであるが、よく聴き込んでみると、高い質の演奏になっていることが知られよう。

ここに、指揮者としていろいろな体験を重ねてきた人のひとつの姿があるのである。

若い指揮者には、到底このような演奏は望めないだろう。

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2015年07月03日


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お薦めの全集である。

オリジナル楽器によるベートーヴェンでは、後発のガーディナー盤、ノリントン盤、ブリュッヘン盤などがあるが、ガーディナーほど軽くなく、ノリントン(旧盤)ほど楽天的でなく、ブリュッヘンほど神妙でないホグウッド盤が、もっとも魅力がある。

特徴がないようでいて味わい深く、聴きながら「ベートーヴェンの音楽はなんて美しいのだろう」と思わせてくれるからである。

ホグウッド盤については、方々で「モダン全盛から古楽器台頭への過渡期の演奏」という評価がなされているようだが、万事を進化論という物差しで測るのに、少なくとも筆者は抵抗がある。

たとえば、ホグウッドの師であり、盟友であったデイヴィッド・マンロウの存在が「ホグウッドへの過渡期」と言えるだろうか?

そんな馬鹿な話はないのであって、スタイルの変遷はあっても、個人の才能・資質は各人唯一のものだ。

いついかなる状況で演奏されようとも、ここでは「演奏家の資質」「良い演奏か否か」を問題にしたい。

ここからは一般論だが、オリジナル楽器の最大の長所は、楽器間の音量のバランスの良いところである。

モダン・オーケストラでは、どんな名指揮者が巧みにバランスを考慮しても、分厚い弦に木管が埋もれがちであるし、逆に金管が強すぎて他のセクションを潰してしまったりする。

また、楽器が違えば音色や奏法も違ってくるわけで、同じフレーズを弾いても印象が異なるものなのである。

木管楽器の素朴さやティンパニなどの原始性に触れただけで、気分が落ち着いたり、和んだり、童心に帰ったようにワクワクしたりする。

古楽器オーケストラを木造家屋とするなら、カラヤン時代のベルリン・フィルなど近代的な超高層ビルであり、「ここまで立派な必要があるだろうか?」という疑問すら湧いてくる(もっとも、機能性を極限まで究めたという、もうひとつの価値は常々のレビューで述べており認めているところである)。

オリジナル派の短所は、長所と背中合わせに、ときに響きの薄さが気になることである。

誤解のないように付け加えるとそれは、たんにモダンより弱い音量に苦情を言っているのではない。

オリジナル楽器が巨大なNHKホールで役に立たないと非難するのは的外れなことは分かっている。

筆者が問題にしているのは、楽器の年齢である。

オリジナル楽器とはいえ、18世紀以前に製作された楽器が、それほど多くは残されておらず、また、大半はモダン楽器風に改造されてしまっているため、オーケストラで使われる楽器の多くは数年から数十年の「復元楽器」なのである。

つまり楽器としては、成熟に遠い、幼児から若者クラスが多いことになる。

それゆえ、どうしても、響きが薄い、若い、安っぽい感じに聴こえてしまうときがあるのだ。

もちろん、演奏自体のエネルギーによって、これが気にならないことも多々あるわけだが、ホグウッドのベートーヴェンは、上述した長所ばかりが印象に残る名演と言って良いだろう。

決して穏健に終わらず、リズム、フレーズといった音楽の根元を見つめた演奏が素晴らしいアプローチは、師マンロウ譲りと言って良い。

聴き手は、「過渡期」という世間の評価に惑わされず、むしろ「事始め」の新鮮な息吹こそ感じるべきであろう。

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2015年06月28日


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現代を代表する指揮者ラトルが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任する頃に、ウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集だ。

サー・サイモン・ラトルは1955年生まれのイギリス人の指揮者で、2002年よりベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者であるが、もう若くはないとの彼の申し出で、2018年で去るとのことである。

ベルリンの新聞によれば、ラトルは前任者たちとは異なり、新しい世代の指揮者と言われている。

指導力は前任者たちと同じようにあるものの、とても人付き合いがよく、独裁的ではなく、楽団員たちに対して偏見がなく、寛大である。

ベルリン・フィルの演奏者たちは言わずもがなとてつもない能力のある一匹狼の集まりである。

一旦指揮を始めると、ラトルはオーケストラをしっかりと自分のものとし、練習のときには、問題があると、指揮台を降り、その楽団員のもとに自ら行き、直接話し合い、自分の目的を説明し、全員でともに音楽を作っていき、指揮する場合、スコアを研究し、長い時間をかけていわば料理しているとのことである。

ラトルは、従来の指揮者と異なり、常に新しい作品をベルリン市民に紹介してきた。

楽団員には、指揮者の言いなりに演奏し、あの指揮者ならあの音とわかるような決まりきった演奏をすることは求めず、作曲家にふさわしい様々な演奏ができる能力を育ててきた。

つまり楽団員にとっては常に新しい発見の日々と思われる。

清澄さ、明瞭さ、透明感がラトルの音楽性の特徴であるが、また音楽教育にも熱心で、楽団員を連れて、保育所にも学校にも生の音楽を聴かせに行くが、そこには希望があるという。

完全について彼は次のように言っている。

「完全はこの世には存在しない。楽団員には最高の技術は求めない。車は技術で作る。音楽は別の世界だ。作曲家はだれでも雰囲気を大事にする。そして解釈について話し合うことを好む。作曲家は完璧に楽譜通りに演奏することは最初から求めていない。音楽を通じてコミュニケーションをしたいなら、精緻さに陥らないようにすることだ。音楽家は機械ではない。そしてミスを恐れる音楽には生命がない」と。

このウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のCDは、すべてライヴで、「第5」が2000年12月、その他は2002年4月から5月にかけて演奏されたものである。

この年にラトルはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に選出されているが、ウィーン・フィルを選んだのは、ベートーヴェンの望む雰囲気があると判断したものと思われる。

そしてベートーヴェンがもし生きていたら、演奏に関する解釈を喜んで聴いてくれるに違いないと、楽団員に彼の解釈を説明し、楽団員が彼の意を理解したと思われる。

21世紀の新のベートーヴェン像としてラトルが名門ウィーン・フィルを起用して行った、モダン楽器を用いての古楽的奏法の導入、アーノンクールたちからの影響もあろうが、ラトルはベートーヴェンのスコアに潜んでいる劇性を見事に描いた、非常にバランスのいい演奏と言えよう。

強いて言えば、ライヴではなくスタジオ録音で徹底して録音して欲しかった反面、ライヴならではの臨場感溢れる素晴らしい出来になっているCDであるとも思う。

ウィーン・フィルもとてつもない技量を持った楽団員の集まりであるし、ラトルの音楽には常に、作曲家の世界を大事にする新しい発見がある。

本全集からは、サイモン・ラトルの目指しているものがなにか、彼の世界に触れることができよう。

「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が私を求めた、だからここにいる」との、いつも控えめなラトルが遠慮がちに言った言葉はとても重い。

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2015年06月26日


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現代を代表する名ピアニストの1人であるゲルバーが残した格調の高いベートーヴェン3大ピアノ・ソナタであるが、ゲルバーのベートーヴェンは素晴らしい。

同じく「テンペスト」、「ワルトシュタイン」、「告別」の3大人気ピアノ・ソナタがBlu-spec-CD化されており、それも音質の素晴らしさも相まって見事な演奏であったが、本盤の3曲も、それらの演奏に優るとも劣らない素晴らしい名演奏だ。

ゲルバーはアルゼンチン生まれのピアニストだが、現在では数少ない、ドイツピアニズムの正統な後継者になっている。

ただし、同じくドイツピアニズムの後継者であるゲルハルト・オピッツがしばしば「堅すぎる」「不器用だ」という批評を受けるのに対して、ゲルバーの演奏にはそういった面は見られない。

テンポ設定は少し速めだが、重厚な響きをフルに生かしたゲルバーらしい演奏に仕上げられている。

ゲルバーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏の特色は、何と言ってもその美しさにある。

もっとも、単なる表面上の美しさにとどまっているわけではない。

その美しさは、後述のように深い内容に裏打ちされていることを忘れてはならない。

加えて、演奏全体の造型は堅固であり、ドイツ風の重厚さが演奏全体に満ち満ちており、独墺系のこれまでの様々な偉大なピアニストの系譜に連なる、まさにいい意味での伝統的な演奏様式に根差したものであると言えるだろう。

「悲愴」、「月光」の終楽章や、「熱情」の第1及び終楽章の雄々しく男性的な打鍵の力強さ、「悲愴」の第2楽章や「月光」の第1楽章の繊細な抒情、これらを厳しい造型の中でスケール豊かに表現している。

テンポも目まぐるしく変わり、最強奏と最弱音のダイナミックレンジも極めて幅広いが、ベートーヴェンとの相性の良さにより、恣意的な表現がどこにも見られず、ベートーヴェンの音楽の魅力がダイレクトに伝わってくる。

そして、どこをとっても、眼光紙背に徹しているとも言うべき厳格なスコア・リーディングに基づいた音符の読みの深さが光っており、前述のようにいわゆる薄味な個所は皆無であり、いかなる音型にも、独特の豊かなニュアンス、奥深い情感が込められていると言えるところだ。

技術的にも何らの問題がないところであり、随所に研ぎ澄まされた技巧を垣間見せるが、いささかも技術偏重には陥っておらず、常に内容の豊かさ、彫りの深さを失っていないのが見事であり、知情兼備の演奏であると言っても過言ではあるまい。

総括すれば、いい意味での剛柔のバランスのとれた演奏というのが、ゲルバーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏であると言えるところであり、ドイツ正統派の伝統的な演奏様式に、現代的なセンスをも兼ね合わせた、まさに現代におけるベートーヴェンのピアノ・ソナタ演奏の理想像の具現化と評価し得ると考えられるところだ。

まさに巨匠の芸風といえるスケールの大きさ、凝縮された感情、叙情、ファンタジー、どこを切っても濃密で熱い血がほとばしる迫真のベートーヴェンである。

いずれにしても、本盤の各楽曲の演奏は、ゲルバーならではの素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

音質については、従来CD盤でも1990年前後のスタジオ録音ということもあって、比較的満足できる音質であると言えるが、これだけの名演だけに、長らくの間、高音質化が望まれてきた。

そのような中で、今般、かかる名演が待望のBlu-spec-CD化がなされたということは、本演奏の価値を再認識させるという意味においても大きな意義がある。

ゲルバーによるピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてBlu-spec-CD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、ゲルバーによる素晴らしい名演をBlu-spec-CDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

そして、可能であれば、既にBlu-spec-CD化されている「テンペスト」、「ワルトシュタイン」、「告別」も含めて、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化して欲しいと思っている聴き手は筆者だけではあるまい。

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2015年06月25日


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ベートーヴェンの交響曲全集で、最も完成度の高い、かつ癖がなく聴きやすいものの1つではなかろうか。

大編成オーケストラを指揮しながら、引き締まった美学を貫いたセルのベートーヴェン演奏はスタンダードと呼ぶに相応しいものとして定評がある。

だが一方では、セルと言えば練習の鬼、厳格、一分の隙もない、というのが代名詞のようにに言われ逆に言うと面白みに欠けるという評価にもなっていた。

それはおそらくLP時代からの平板的で奥行きがない録音のせいで、今回のりマスタリングを聴いてその評価が一変してしまった。

本セットを改めて聴いてみると過度に力を入れず、洗練された正統派のベートーヴェンで、トスカニーニ並みの完璧なリズムとダイナミクスを備えつつも微妙なニュアンスや即興性にも富んでいることが良く分かった。

強烈な個性や情熱を感じさせる演奏も良いが、セルの堂々と揺るがぬ、かつ絶対だれないテンポと、クリーヴランド管弦楽団の鉄壁のアンサンブルによる引き締まった演奏は、迫力十分でも感情過多ではないので聴き飽きないし耳にもたれない。

セルというと、ドヴォルザークなどのチェコ系の作品やR.シュトラウスが高く評価されているようであるが、最も素晴らしいのはベートーヴェンであり、この全集がその証明である。

例によって、指揮者の特別な個性を際だたせるような表現ではないが、やや速めのテンポで高い合奏能力をもったオーケストラによって誠実に演奏されている。

オーケストラの各楽器が見事に解け合って、まるで1つの楽器のように聴こえ、知情意のバランスのとれた演奏で、曲の素晴らしさが率直に伝わってくる。

また、セルの全集はベートーヴェンの前向きで意志的な音楽世界を極めて直截に表現し、一貫して強い推進力を感じさせる。

妥協を許さない強靭なセルの音楽性とリーダーシップがベートーヴェンの作品における意志的側面を見事に浮き彫りにしている。

その点で現在も新鮮であり、このような全集がステレオで残っており安価に入手できることは有難いことだ。

鉄壁のアンサンブル、クールな表現スタイルと言われたセル&クリーヴランド管弦楽団であるが、パーヴォ・ヤルヴィなどの、近年のソリッドな演奏に慣れた耳からすると、むしろ暖かみ、人間味や、ロマンさえも感じさせる。

時代を考えれば当然であるが、大編成オケによるベートーヴェンがコンサート・レパートリーの主役だった時代の息吹を存分に味わえる。

演奏以上に驚かされたのが音質の良さである。

初期CDの音はあまり良くなく、オリジナル・紙ジャケットのセットは高かった上にすぐ品薄になってしまうなど、なかなか理想的な形で出てこなかったセルのベートーヴェン交響曲全集が、漸く万人が入手しやすい形でリリースされた。

リマスタリングは、かなり高い水準で成功しており、特に、少し録音の古い「エロイカ」が良好な音質に蘇っているのも嬉しい。

「エロイカ」はSACD化もされており、そちらも素晴らしい音質で聴けるが、音の骨太感、全体の密度感は今回のセットの方が上な気がする。

さざ波のような弦、適度な余韻をもたらす心地よいホールトーンなどが見事にとらえられており、従来盤と比較したところその違いに驚いてしまった。

テープヒスも、録音年代から考えると全体に低いレベルで抑えられている。

クリーヴランド管弦楽団のものすごい力量も良く分かり、当時世界一のオーケストラと言われたのが納得できる。

ところどころセルの唸り声のようなものも入っており一層生々しさを感じさせる。

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2015年06月23日


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これは、全音楽ファン、ベートーヴェン愛好家に聴いて欲しい全集である。こんなにも瑞々しく、力強く、真摯でいながら愛らしいベートーヴェン全集は稀だからである。

古楽器ブームの台頭から、「ワルターは古い」というレッテルの貼られた時期もあり、筆者自身そんな風潮に踊らされる愚も犯したが、今、改めてまっさらな心で聴くとき、暖かで、爽やかな感動に震えずにおれない。

また、ステレオ初期ながら、ジョン・マックルーアのプロデュースによる録音は最上級であり、最新録音の多くを凌駕している。

ワルターといえば、「第2」「第6」の名演が定評のあるところだ。力よりは愛情、厳しさよりは優美を思わせるワルターの芸風にもっとも相応しいと、誰もが思うところであろう。

確かにそれは間違いではないのだが、今回、改めて聴き直してみて大きく感じたことは、ワルターの圧倒的な力強さである。それゆえ、一般の評価とは裏腹に奇数番の聴き応えが十分なのである。そして、その充足感は、もちろん偶数番においても変わらない。

「第1」は第1楽章は歩みを速めたり遅めたり、というワルター独特のテンポ感が生きた名演。堂々たるコーダも見事。第2楽章では、得意のカンタービレはもちろん、固めの音色を活かしたティンパニの妙やホルンやトランペットのアクセントが聴きものである。第3楽章は主部の抉りの深さとトリオにおける木管の詩情の対比が美しい。フィナーレも、弦の瑞々しさ、木管群のアクセントやティンパニの雄弁さが一体となった名演である。

「第2」は、まさに心技体がひとつになった文句なしの名演で、全曲に颯爽とした覇気が漲り、荒れ狂い、悶え苦しむよりは、瑞々しい若さを謳歌する青春の歌となっている。迫力がありながら踏み外しのないバランス感覚の良さでも随一である。

「英雄」では、シンフォニー・オブ・ジ・エア(元NBC響)とのトスカニーニ追悼ライヴが素晴らしいが、コロンビア響とのスタジオ盤も特筆に値する名演だ。「コロンビア響は小編成で音が薄い」という欠点の微塵も感じられない圧倒的なパワーが充溢しており、衰え知らぬワルターの気合いが凄まじい。第3楽章トリオにおけるホルンの超レガートも美しさの限り。

「第4」も、バランスの良さでは引けをとらない。音楽の勢いはそのままに、「第2」をさらに大人にしたような落ち着きが良い。

「第5」。以前は「均整の取れた古典的演奏」と思っていたが、大変な間違いであることに気づいた。晩年のワルターのどこにこんな凄まじい情熱が隠されていたのだろう。第1楽章では、ゴリゴリとなる低音が聴く者を興奮させる。コーダでの高揚感もただ事でない。フィナーレでは、冒頭こそ肩の力の抜けたフォルテだが、演奏が進行するにつれて内的なパッションが高まるのが手に取るように分かる。

「田園」は、「ワルターの全集中最高の名演」という評価の高い演奏である。第1楽章はまったく無理のない自然な表現に明け暮れる。優しい外見に囚われて聴き逃してならないのは、低音の充実であろう。ことさら目立たぬように、しかし、しっかりと土台となって演奏を支えているのが良い。

「第7」は、全集中もっとも大人しい演奏である。表だった迫力や推進力よりも、ご飯をゆっくり噛んで味わうような趣があり、それはそれで美しい価値がある。第2楽章での、前打音を拍の前に出す扱いが珍しい。

「第8」は、この作品に寄せる「優美」「軽妙」といった一般のイメージとは異なる剛毅な演奏。シェルヘンのライヴも同様に凄まじいものだったが、ワルターはどんなに激しくても、最後まで気品と風格を失わない。

「第9」は、第4楽章のみ、実態はニューヨーク・フィルという変則的な録音である。ウエストミンスター合唱団をビヴァリーヒルズまで呼ぶことが不可能だったためらしい。

第1楽章は気迫に満ち、終結部の気合いなど大したもので、トランペットの派手なミスを録り直さなかったのも、この「気合い」を優先させてのことだろう。第2楽章に入ると、グッと集中力が増し、サウンドそのものも活き活きしてくる。副主題の木管のリズム感など秀逸であるし、トリオにおける歌心もワルターならではだ。歌心といえば、続く第3楽章は夢のカンタービレである。終盤の2度にわたる「目覚めの呼びかけ」も、微睡みの中で聴くようなドラマが内包されていて美しい。

フィナーレは評価の分かれるところだ。オーケストラがニューヨーク・フィルに交代し、サウンドも一変する。冒頭のレチタティーヴォなど、フォルテがヤンキー風になってしまう難点があるが、音色、充実度は前3楽章の比ではない。声楽陣は不調であるが、それを差し引いてもなお、この演奏から受ける印象は圧倒的である。久々に表現力たっぷりのオーケストラを前にして、ワルターの中に燃え立つものがあったのであろう。「優れているのはコーラスが入るまで」という評判もあるが、ここではこのフィナーレを特に高く評価しておきたい。

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2015年06月22日


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メンゲルベルクの名を聞いただけで、顔をしかめる人がいる。

「あんな時代錯誤の音楽。妖怪のようなデフォルメについていけない」というわけだが、そういう先入観から、この素晴らしい芸術を享受できないとすればまことに残念なことである。

徹底したパート練習、全体練習を繰り返し、作品の襞の襞まで自分の意志を徹底させるやり方は、僅か2、3回の稽古で要領よく仕上げる現代のシステムからは生まれ得ない、超個性的な芸術を生み出した。

今では、アマチュアだけに許された贅沢である。

頻出するテンポの動きから、艶めかしいポルタメントまで、すべてが様式的に練り上げられている。

これを現在の流行ではないからといって「時代錯誤」のレッテルを貼ることを戒めたい。

問題は、この様式美が演奏芸術の本質に迫っているか、ということなのである。

さて、メンゲルベルクの音楽作りは、緻密を極めながらも神経質さのない点が素晴らしい。

とても男性的に力強く、大らかで、さらに決して不健康にならない色香すらある。

こうした特質が、人類愛を歌うベートーヴェンにたいへんマッチして、いずれも古い録音であることを超えて圧倒的な感銘を与えてくれる。

「第1」は、SP発売当時、トスカニーニ&BBC響とワインガルトナー&ウィーン・フィルとてい立した。

剛直なトスカニーニ、無造作だが自然なワインガルトナーと比較すると、メンゲルベルクはこの曲を手際よくまとめ、円満な解釈でベートーヴェンらしさを誇張なく表出した。

「英雄」は昔からメンゲルベルクのお家芸で、1930年1月にニューヨーク・フィルを率いて録音したレコードは今でも人気がある。

1940年11月の再録音盤も基本的にはロマンティシズムの円熟性を保持した旧盤とは変わっていないが、その円熟性に加えて、新盤には逞しい迫力があり、テンポも速くなり、率直で荒々しいほどの男性的特徴も顕著になった。

「第4」はゆっくりしたテンポではあるが、メンゲルベルクとしては、情緒に満ちてはいても、あまり誇張なく歌わせた古典的演奏で、終始円満に演奏を進める。

メンゲルベルクがいかに表情を立派につかんでそれをうまく表現するかに感心する。

「第5」はメンゲルベルクが最高。

SP時代でも、フルトヴェングラーとトスカニーニの両盤の評判が高かったが、この曲には、円満で、強壮な威圧感もありながら、全体に悲劇性が薄く、健康な芸術性に満ちたメンゲルベルクの解釈が最適。

「田園」はあたかもオランダの絵のように重い色調で、時に流麗さを失うこともあるが、自然の雰囲気が実に豊かであり、メンゲルベルクのレコードの中でも特徴が最もよく出ている個性的な演奏である。

「第8」では、クリスタル細工のように精緻な彫琢をほどこしたアポロ的なワインガルトナー&ウィーン・フィルと競合、メンゲルベルクは情緒と熱情で統一し、特に第4楽章は血湧き肉躍る。

そして何より「オーケストラのストラディヴァリウス」と謳われた当時のコンセルトヘボウ管の豊穣な響きを堪能したい。

少なくとも技術的にはウィーン・フィルさえ問題にならない程の高みにあったと認めるべきであろう。

マーラーが信頼を寄せ、R.シュトラウスが愛した本物の音楽がここにある。

惜しむらくは、これがあと10年後だったら、こんなに凄まじいまでに美しい音が、英デッカにステレオ録音されていたら、どんな音に聴こえるだろうと想像するだけで、息が止まりそうになる。

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2015年06月20日


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ジュリーニは、イタリア人指揮者であるが、独墺系の作曲家による楽曲も数多く演奏した大指揮者であった。

ブラームスの交響曲全集は2度も録音しているのに対して、意外にもベートーヴェンの交響曲全集は1度も録音していないところだ。

これほどの大指揮者にしては実に不思議と言わざるを得ないと言えるだろう。

ジュリーニは、最晩年に、ミラノ・スカラ座歌劇場フィルとともに、ベートーヴェンの交響曲第1番〜第8番を1991〜1993年にかけてスタジオ録音を行った(ソニー・クラシカル)ところであり、残すは第9番のみとなったところであるが、1989年にベルリン・フィルとともに同曲を既にスタジオ録音していた(DG)ことから、かつて在籍していたDGへの義理立てもあって、同曲の録音を行わなかったとのことである。

このあたりは、いかにもジュリーニの誠実さを物語る事実であると言えるが、我々クラシック音楽ファンとしては、いささか残念と言わざるを得ないところだ。

それはさておき、本盤に収められているのは、1972年にロンドン交響楽団他とともにスタジオ録音を行った交響曲第9番である。

他にライヴ録音が遺されているのかもしれないが、前述のようにベルリン・フィル(1989年)と録音することになることから、その演奏の約20年前のものとなる。

1972年と言えば、ジュリーニの全盛期であるだけに、演奏は、諸説はあると思うが、後年の演奏よりも数段優れた素晴らしい名演と高く評価したい。

1976年にDGに移籍したジュリーニがマーラーの「第9」で一気にスターダムにのし上がる4年前の録音であるが、指揮者の円熟は誰の耳にも明らかで、余裕をもったテンポで内声部をおろそかにせず全ての楽器が伸びやかに歌う流麗な音楽は名前を伏せてもジュリーニだと確信させられる。

ジュリーニの演奏スタイルはテンポを遅めにとり、ズッシリとスケール感のあるベートーヴェンが魅力的で、この最初のEMI録音はその原点とも言えるだろう。

何よりも、テンポ設定が、後年の演奏ではかなり遅めとなっており、演奏自体に往年のキレが失われているきらいがあることから、筆者としては、ジュリーニによる「第9」の代表盤としては、本盤を掲げたいと考えているところだ。

演奏の様相はオーソドックスなもので、後年の演奏とは異なり、ノーマルなテンポで風格豊かな楽想を紡ぎ出している。

細部にまで行き届いた眼力、明確な構成力と美しい音色、ゆっくりとしたテンポによる、あくまで音の明晰さを追求した、ジュリーニならではの「第9」で、音の運びにも停滞感がなく、明確な構成力がきっちりと聴き手に伝わってくる。

落ち着いたテンポ設定によるスケールの大きなアプローチをベースに、ノーブルなカンタービレと、ジュリーニならではのこだわりをみせている点がとても印象的で、重量感に富むフレージング、細部まで考え抜かれた凝った演奏は、ファンにはたまらないところだ。

そして、ジュリーニならではいささかの隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な響きも健在であるが、いささかの重苦しさを感じさせることはなく、歌謡性溢れる豊かな情感が随所に漂っているのは、イタリア人指揮者ならではの面目躍如たるものと言えるだろう。

いわゆる押しつけがましさがどこにも感じられず、まさにいい意味での剛柔のバランスがとれた演奏と言えるところであり、これは、ジュリーニの指揮芸術の懐の深さの証左と言っても過言ではあるまい。

ロンドン交響楽団もジュリーニの統率の下、名演奏を展開しており、シーラ・アームストロング(ソプラノ)、アンナ・レイノルズ(アルト)、ロバート・ティアー(テノール)、ジョン・シャーリー=カーク(バス)といった独唱陣やロンドン交響合唱団も最高のパフォーマンスを発揮している。

いずれにしても、本演奏は、ジュリーニならではの素晴らしい名演であるとともに、ジュリーニによる同曲の演奏の代表的な名演と高く評価したいと考える。

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2015年06月19日


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世界各地での全曲演奏と並行して行われたこの全集は、のびやかで豊麗な音色で描き出された東京クヮルテットならではのベートーヴェン像を確立した名盤。

東京クヮルテットは、弦楽四重奏団の名称に「東京」の名を冠していても、日本人の奏者は2人しかおらず、しかも、結成してから40年が経って、その間にメンバーの入れ替わりがあり、一時は音色の調和に苦労した時期があったようでもある。

しかしながら、本盤に収められた演奏においては、そのような苦難を克服し、息の合った絶妙のアンサンブルを披露してくれており、今や、この団体が円熟の境地にあることを感じさせてくれるのが素晴らしい。

すべての奏者の音色が見事に融合した、息の合った絶妙なアンサンブルを披露しており、この楽団の近年における充実ぶりを味わうことが可能だ。

もちろん、円熟と言っても穏健一辺倒ではなく、第10番の第3楽章や第11番の第1楽章及び第3楽章における気迫溢れる演奏は、凄みさえ感じさせる圧巻の迫力を誇っている。

世界に6セットしか存在していないとされているパガニーニ選定によるストラディバリウスを使用しているというのも、本団体、そして本演奏における最大の魅力でもあり、4人の奏者が奏でる音色の美しさには出色のものがある。

それによって醸し出される独特の美しい音色は、そうした豊かな音楽性に満ち溢れた優美さをさらに助長するものであると考える。

本演奏には、例えば、先般、惜しまれる中で解散したアルバン・ベルク弦楽四重奏団や、今を時めくカルミナ弦楽四重奏団のように聴き手を驚かすような特別な個性があるわけではないが、かつてのスメタナ弦楽四重奏団と同様に、楽想を精緻に、そして情感豊かに描き出して行くというものであり、音楽そのものの美しさを聴き手にダイレクトに伝えてくれている。

初期の弦楽四重奏曲では、むしろ、このような自然体のオーソドックスな演奏の方がより適していると言えるのかもしれない。

中期の弦楽四重奏曲の演奏ももちろん素晴らしいが、ことに後期の弦楽四重奏曲は、弾きこなすのに卓越した技量を要するとともに、その内容の精神的な深みにおいても突出した存在である。

交響曲で言えば第9番、ピアノ・ソナタで言えば第30〜32番、合唱曲で言えばミサ・ソレムニスに匹敵する奥深い内容を有した至高の名作であり、その深遠な世界を表現するには、生半可な演奏では到底かなわないと言える。

このような高峰に聳える名作だけに、これまで様々な弦楽四重奏団によって、多種多様な名演が繰り広げられてきた。

したがって、並大抵の演奏では、海千山千の名演の中で、とてもその存在価値を発揮することは困難である。

そこで、この東京クヮルテットによる演奏であるが、そのアプローチは、これまでの他の弦楽四重奏曲とは何ら変わるところがない。

曲想を精緻に、そして情感豊かに描き出して行くというものだ。

したがって、聴き手を驚かすような特別な個性などは薬にしたくもなく、楽曲の本質に鋭く切り込んでいくような凄みにも欠けている。

しかしながら、いささかも奇を衒わない真摯な姿勢は、かつてのスメタナ四重奏団による名演奏を彷彿とさせるような、豊かな音楽性に満ち溢れた優美さを兼ね備えていると言えるのではないか。

このように、ベートーヴェンの名作群を、ゆったりとした気持ちで満喫させてくれるという意味においては、過去の様々な名演にも決して引けを取らない素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

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2015年06月08日


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ワルターは80歳で現役を引退したが、その後CBSの尽力により専属のオーケストラ、コロンビア交響楽団が結成され、その死に至るまでの間に数々のステレオによる録音が行われたのは何という幸運であったのであろうか。

その中には、ベートーヴェンの交響曲全集も含まれているが、ワルターとともに3大指揮者と称されるフルトヴェングラーやトスカニーニがステレオ録音による全集を遺すことなく鬼籍に入ったことを考えると、一連の録音は演奏の良し悪しは別として貴重な遺産であるとも言える。

当該全集の中でも白眉と言えるのは「第2」と「田園」ではないかと考えられる。

とりわけ、本盤に収められた「田園」については、同じくワルター指揮によるウィーン・フィル盤(1936年)、ベーム&ウィーン・フィル盤(1971年)とともに3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。

巨匠ワルターが切り開いたリリシズムの世界は、この作品を語る上で欠かせない永遠の名盤である。

本演奏は、どこをとっても優美にして豊かな情感に満ち溢れており、「田園」の魅力を抵抗なく安定した気持ちで満喫させてくれるのが素晴らしい。

ワルターの演奏には思い入れとか野心とかがなく、常に清楚な精神性のようなものが宿っている。

端正な響きと肩の力の抜けた表現で刻み込まれる晴朗にして健全なベートーヴェンであり、「田園」の原点とも言うべき演奏だ。

ワルターは、私たちの心にあるこの作品のイメージを最もスタンダードに表現したとも考えられる演奏である。

暖かい人間性を感じさせる温雅でまろやかな語り口は作品の美しさを実にナイーヴに描出する結果をもたらしている。

フルトヴェングラー、シェルヘン、カラヤン、アバド、朝比奈……誰を聴いてもワルターに比べると帯に短し、タスキに長しで、なにがしかの違和感が残る。

オーケストラは、3強の中で唯一ウィーン・フィルではなくコロンビア交響楽団であるが、ワルターの確かな統率の下、ウィーン・フィルにも匹敵するような美しさの極みとも言うべき名演奏を披露している。

スケールの大きさにおいては、ベーム盤に一歩譲ると思われるが、楽曲全体を貫く詩情の味わい深さにおいては、本演奏が随一と言っても過言ではあるまい。

もっとも、第4楽章の強靭さは相当な迫力を誇っており、必ずしも優美さ一辺倒の単調な演奏に陥っていない点も指摘しておきたい。

ワルターの資質と音楽とがぴったり一致した真の牧歌がここにあり、作品が書かれた当時の作曲者の心を、そのままうつし出したかのような、感動的な名演奏である。

なお、ワルターによる1936年盤は録音の劣悪さが問題であったが、数年前にオーパス蔵によって素晴らしい音質に復刻された。

演奏内容自体は本演奏と同格か、さらに優れているとも言える超名演であるが、現在ではオーパス盤が入手難であることに鑑みれば、本演奏をワルターによる「田園」の代表盤とすることにいささかの躊躇もするものではない。

本演奏は至高の超名演であるだけに、これまでリマスタリングを何度も繰り返すとともに、Blu-spec-CD盤も発売されたりしているが、ベストの音質は本シングルレイヤーによるSACD盤であると考える。

本SACD盤は現在でも入手可であり、テープヒスが若干気になるものの、ワルターによる超名演を弦楽奏者の弓使いや木管楽器奏者の息遣いまでが鮮明に再現されるSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年06月06日


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ドイツの巨匠ピアニスト、ウィルヘルム・ケンプ(1895-1991)は1961年10月に来日し、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲を7夜にわたり連続演奏を行った。

単独のピアニストがベートーヴェンのピアノ・ソナタを全曲集中して演奏することは日本初だったとされ、日本音楽界の一大イベントとして非常な話題となったということである。

当時ケンプは66歳で、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は、1950〜56年のモノラルと1964〜65年のステレオの2種のセッション録音が存在し、いずれも屈指の名盤と高く評価されているが、その中間期、ケンプ最盛期の全集がもうひとつ存在したことは驚愕の極み。

歴史的資料としても貴重な演奏で、全盛期のケンプのピアニズムを堪能できる演奏内容となっている。

いずれの楽曲も至高の名演と高く評価したい。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の録音は現在でもかなり数多く存在しており、とりわけテクニックなどにおいては本全集よりも優れたものが多数あると言える。

ケンプによる録音に限ってみても、前述の2つのスタジオ録音の方が、演奏の完成度に関しては断然上にあると言えるが、演奏の持つ閃きやファンタジーにおいては、本演奏がダントツであると言えるのではないだろうか。

本全集におけるケンプによるピアノ演奏は、例によっていささかも奇を衒うことがない誠実そのものと言える。

ドイツ人ピアニストならではの重厚さも健在であり、全体の造型は極めて堅固である。

また、これらの楽曲を熟知していることに去来する安定感には抜群のものがあり、大胆不敵でエネルギッシュな一面を覗かせながら、緩徐部分でのケンプの穏やかな語り口は朴訥ささえ感じさせるほどだ。

しかしながら、一聴すると何でもないような演奏の各フレーズの端々から漂ってくる滋味に溢れる温かみには抗し難い魅力があると言えるところであり、これは人生の辛酸を舐め尽くした晩年の巨匠ケンプだけが成し得た圧巻の至芸と言えるだろう。

筆者としては、ケンプの滋味豊かな演奏を聴衆への媚びと決めつけ、厳しさだけが芸術を体現するという某音楽評論家の偏向的な見解には到底賛成し兼ねるところである。

ケンプによる名演もバックハウスによる名演もそれぞれに違った魅力があると言えるところであり、両者の演奏に優劣を付けること自体がナンセンスと考えるものである。

全曲を通して聴いて驚いたのは、大変エネルギッシュでしかも力強い演奏でありながら、自由自在、奔放で即興的かつ詩的な味わい深い演奏となっていることである。

ピアニストは年輪を重ねるごとにテンポを落として深みのある演奏を聴かせる人が多いが、それはまた同時にテクニックの衰えを隠す一面もあることも否めない。

しかし、ケンプの演奏は速めのテンポを崩すことなく、音楽を前進させていく。

そのため、ミスタッチも目立つ演奏になることがあるが、そのこと自体が演奏の価値を貶める結果に陥っておらず、このCDを演奏順に聴いていくことでケンプの息遣いを追体験できるのである。

ケンプはライヴで最良の面が発揮されるピアニストのため、回を重ねるごとに自由かつ雄弁となり、後期作品では人間業とは思えぬ境地に達し、まさにピアノ音楽史上の至宝の音源と言えるだろう。

要するにケンプのすべてを体験できるのが今回のNHK盤だと確信したところであり、ケンプ・ファン必聴のベートーヴェンここにありと言えよう。

すべてNHKがラジオ放送用に収録したもので、モノラル録音でありながら当時最高の技術が駆使されていて、ステレオ録音にも負けない秀逸な録音となっており、ケンプの生演奏を余すところなく楽しめる演奏となっている点において、歴史的名演であることは間違いない。

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2015年06月05日


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ゲルバーがデンオンで始め、全集に至らずに惜しくも中断した、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ集はいずれも素晴らしい名演だ。

ゲルバーは1941年アルゼンチン生まれのピアニストで、アルゲリッチやバレンボイムとは年代も出身もほぼ同じだが、玄人好みの演奏をするせいか日本での知名度はそれほど高くない。

しかし、ドイツピアニズムの正統な後継者としてベートーヴェンやブラームスでは定評ある演奏をする。

本盤は、ドイツ・ピアニズムの伝統を受け継いだゲルバーの、美しいピアノの響きを捉えた、貴重なスタジオ録音である。

まさに巨匠の芸風といえるスケールの大きさ、凝縮された感情、叙情、ファンタジー、どこを切っても濃密で熱い血がほとばしる迫真のベートーヴェンだ。

ゲルバーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏の特色は、何と言ってもその美しさにある。

ゲルバーは「音楽はいつでも美しく在らねばならない」という信条をもっていると見える。

もっとも、単なる表面上の美しさにとどまっているわけではない。

その美しさは、後述のように深い内容に裏打ちされていることを忘れてはならない。

ゲルバーの奏でるピアノは音も耳につくような煌びやかさではないので、聴いていてとても気持ちがよい。

全体が派手というわけではないのだが、演奏の至る所に淡い光が見えるような演奏だ。

加えて、演奏全体の造型は堅固であり、ドイツ風の重厚さが演奏全体に満ち満ちており、独墺系のこれまでの様々な偉大なピアニストの系譜に連なる、まさにいい意味での伝統的な演奏様式に根差したものであると言えるだろう。

がっちりとした構成感、メリハリの効いた弾むようなタッチ、そして音楽の流れには自由なファンタジーの飛翔が感じられる。

きわめてオーソドックスのようでいて、さまざまな遊び心も感じられ、聴いて実に楽しく、これまで様々な偉大なピアニストたちがベートーヴェンのピアノ・ソナタを録音しているが、ゲルバーのこの演奏くらい豊かな表情の変化に富んだ演奏もないのではないか。

そして、どこをとっても、眼光紙背に徹しているとも言うべき厳格なスコア・リーディングに基づいた音符の読みの深さが光っており、前述のようにいわゆる薄味な個所は皆無。

いかなる音型にも、独特の豊かなニュアンス、奥深い情感が込められていると言えるところだ。

それでいて、底流に熱い魂があり、大きな構えで、余裕をもった恰幅の良い演奏でもある。

技術的にも何らの問題がないところであり、随所に研ぎ澄まされた技巧を垣間見せるが、いささかも技術偏重には陥っておらず、常に内容の豊かさ、彫りの深さを失っていないのが見事であり、知情兼備の演奏であると言っても過言ではあるまい。

総括すれば、いい意味での剛柔のバランスのとれた演奏というのが、ゲルバーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏であると言えるところであり、ドイツ正統派の伝統的な演奏様式に、現代的なセンスをも兼ね合わせた、まさに現代におけるベートーヴェンのピアノ・ソナタ演奏の理想像の具現化と評価し得ると考えられるところだ。

いずれにしても、本盤の各楽曲の演奏は、ゲルバーならではの素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

音質については、従来CD盤でも1990年前後のスタジオ録音ということもあって、比較的満足できる音質である。

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2015年06月03日


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旧東独の鬼才、ヘルベルト・ケーゲルの最晩年、1987年7月31日に演奏されたステレオ・ライヴ録音。

曲開始早々、ケーゲルの気合いの入ったと思われる床に足を踏み込む音がドンドンと響く。

旋律といい、間のとり方といい、楽器の使い方といい、今まで聴けたことのない音がとにかくいろいろと聴こえてくるのである。

ティンパニの打音が、雷鳴のごとく響いて前面に出てくることといい、他楽器のパートもメリハリの利いた歌い方をしているのもやたら耳に届くが、これが不思議と異和感もなく楽しみながら鑑賞できるのである。

その後も明暗が入れ替わり立ち替わり現れる曲想の、暗の部分を、テンポを落としてじっくりと聴かせるところは、大変に充実感があり、また、そういうところの、弱音に素晴らしい味わいがあるわけだ。

対するに明の部分は決して燦然たる白熱の演奏ではないのだが、残念ながら、それに不満を感じるほど、私たちは能天気な時代に生きてもいない。

ベートーヴェンも政治の反動のなかでこの曲を書いたのだし、安倍政権の今日を生きる私たちもしかり。

もっと驚くのは、終楽章の最初のバリトンのソロが伸びやかで長く、ストレスを感じさせず何ともおおらかに開放的に歌われ出すことである。

これは、「第9」では初めての経験で非常に新鮮な展開であり、これはいい、と即座に納得した。

その後、合唱が意表をつくスローテンポで制御され、せかせかした感じがなくて非常に聴き易い。

この終楽章の演奏を、カンタータ的と評する人もいて、確かに、従来の型に全くはまらない合唱であるが、妙に説得力を感じさせる演奏となっている。

ともかく、筆者はこのフィナーレを聴きながら随所で驚きに打たれ、巻き戻しては聴き直した。

「第9」を食傷するほど聴いた私たちに、これほどまでに不意打ちを食わせる演奏はなかなかないことは確実だ。

曲が終わって、筆者の心配をよそに聴衆にも理解された様子で、拍手は盛大だ。

ケーゲルは、「お祭り騒ぎ的な『第9』が嫌いだ」と言っていたらしいが、なるほど、この「第9」は、彼が長い間構想を暖め考え抜いたあげくの「第9」の演奏と印象する。

出来上がりすぎてしまった大堂伽藍ではなく、生身で宇宙の嵐に身をさらす趣きがあり、宮澤賢治が魔物が現れてくると表現し、ミハイル・バクーニンが、全世界が滅ぶとも第9交響曲だけは救い出さなければならないと言ったものが、ここに感じられるようだ。

そして、筆者自身も、この演奏に大いに共感を覚えるようになった。

これは、従来の「第9」が、見え透いて軽く聴えてしまうようになる恐るベきチャレンジ演奏であると言っていい。

この演奏のユニークさ、あえて言うなら奇異は、ケーゲルが作品の内容を追いつめていった結果生まれたものに他ならない。

一見奇妙な解釈には合理的な訳があり、なぜこのような演奏になったのか、それをじっくり考えれば、私たちの「第9」理解はいっそう深まるに違いない。

べートーヴェンがどういう「第9」の演奏を求めていたかについて、従来の、フルトヴェングラーを筆頭に固定観念化されたスタイルについて、深く考え直させる機会を与える意義深い内容の演奏だ。

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2015年06月01日


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チェコの名指揮者であったノイマンの得意のレパートリーは、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコの作曲家による楽曲や、ボヘミア地方で生まれたマーラー(チェコ出身の指揮者はそれを誇りとし、クーベリックや近年のマーツァルなど、チェコ出身の指揮者には、マーラーをレパートリーとした者が多い)の交響曲であった(ノイマンはドヴォルザークとマーラーについては交響曲全集を遺した)。

ノイマンはそれ以外の楽曲、意外に少ないとは言え、とりわけベートーヴェンの楽曲についてはなかなかの名演奏を遺しており、最晩年に録音された序曲集はノイマンによる遺言とも言うべき至高の名演であったことは記憶に新しいところだ。

本盤に収められたベートーヴェンの交響曲第9番は、そうしたノイマンの得意としたレパートリーの1つと言えるところであり、ベートーヴェンにも優れた解釈を示してきたノイマンの数少ない録音の1つとしても貴重である。

ノイマンは同曲を1989年に民主化の喜びに沸く「市民フォーラム」支援のためにプラハで開かれたライヴ録音も遺しているが、本盤に収められた演奏は、それから13年前の1976年に東京文化会館で行われた来日公演の記録で、非常に完成度が高く充実した演奏である。

改めて言うまでもないが、ノイマンによる本演奏は、聴き手を驚かすような奇を衒った解釈を施しているわけではない。

楽想を精緻に、そして丁寧に描き出して行くというオーソドックスなアプローチに徹していると言えるところであり、それはあたかもノイマンの温厚篤実な人柄をあらわしているかのようであるとも言える。

もちろん、ノイマンの演奏が穏健一辺倒のものではないという点についても指摘しておかなければならないところであり、ベートーヴェンの楽曲に特有の強靭にして力強い迫力においてもいささかも不足はない。

それでいて、無機的で力づくの強引な演奏など薬にしたくもなく、常に奥行きのある音が鳴っており、ベートーヴェンの楽曲を単なる威圧の対象として演奏するという愚には陥っていない。

豊かな抒情に満ち溢れた情感豊かな表現も随所に聴かれるところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた演奏に仕上がっているとも言えるところだ。

ノイマンの解釈は極めて端正・精緻であり、一点の曇りも感じさせず、しかも悠然としていて、表面的効果を狙わず、どの部分をとっても安定感があり、堅固で気品がある。

これは、あらゆる「第9」解釈の原点、というより「第9」の原像そのものと言って良く、基本的にノイマン&チェコ・フィル演奏の基本特徴である端正で透明感のある響きはそのままに、ノイマンは高揚感を抑えて端正な演奏を聴かせる。

基本的に落ち着いた堂々たる旧スタイルのベートーヴェン演奏で、すっきりとしたいつものノイマンの基本線は変らないが、やはりライヴだけあってかなり燃えているのがよくわかる。

第1楽章は堂々とした力感と重量感を表し、第2楽章はきめ細かく、軽やかなリズムの端正な表現である。

第3楽章も穏やかな淡々とした表現が美しい流動感を作り、終楽章では合唱が熱気にあふれ、自ずと音楽を盛り上げている。

響きに厚みと勢いがあり、独唱・合唱もすぐれていて、ライヴならではの迫力にも満ちている。

聴き手によっては、ベートーヴェンの「第9」だけに、よりドラマティックな表現を期待する人も多いとは思うが、聴けば聴くほどに味わい深さが滲み出てくる、いわばいぶし銀の魅力を有する本演奏は、ノイマンならではの大人の指揮芸術の粋とも言えるところであり、筆者としてはノイマン最盛期の名演の1つと高く評価したいと考える。

当時、一流の弦セクション及びブラスセクションを擁していたチェコ・フィルの演奏も秀逸であり、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2015年05月31日


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本盤に収められたチェリビダッケ&ミュンヘン・フィルによるベートーヴェンの交響曲第5番は、ちょっと信じがたい演奏である。

特に第1、4楽章は、比較できるどころか、足下に及ぶものすらないユニークさだ。

もしこれを聴くのなら、フルトヴェングラーやクレンペラーや、さまざまな指揮者たちの仕事を聴いたあとのほうがよい。

なぜなら、最初にこれを聴いてしまうと、おそらくほかのものが受け付けられなくなるからだ。

それだけの強烈な魅力というか、毒があるというか、耳に残留してしまう演奏なのである。

交響曲第5番は、有名なダダダダーンという4つの音で開始されるが、ベートーヴェンはこの4つの音を第1楽章だけでなく、以後の楽章でも用いた。

たとえるなら、事件が起きるときには必ず裏で糸を引いている秘密結社があるとするなら、この秘密結社に相当するのがこの4つの音なのだ。

チェリビダッケが行ったのは、この秘密結社が曲の中でどうあちこちにばらまかれ、隠され、ひそかに活躍しているかを明らかにするという徹底的な調査であり検証であり、もしかすると(筆者は「きっと」だと思うが)摘発だったのである。

この演奏で聴くと、今まで気づかなかったが、曲のあちこちに4つの音が配置されていることがわかる。

4つの音が有機的に絡み合い、そして残りの楽章全体を支配していることが如実に表されている。

第1楽章は、普通音楽を聴く者が求める感動だとか興奮だとか高揚というものからは遠い。

チェリビダッケは、人を興奮させる演説がどのように書かれているか、どのような仕組みでできているのかを指摘しているのだ。

過激なまでの分析である。

4つの音だけでなく、普通の演奏では背景に埋もれ寝ころんでいたもろもろの音が立ち上がって、聴き手のほうに接近してくるのだ。

その様子は初めて聴くとき、薄気味悪ささえするだろう。

そして、ここまで暴露され、裸にされてしまうと、曲がまるで恥ずかしがっているように聞こえなくもない。

そして、それを聴く者の心中にも何か恥ずかしめいたもの、いたたまれなさが生じてくる。

たとえば、私がある女の子を口説きたくて、精一杯工夫したラブレターを書いたとする。

第三者がそれを読んで、「あ、おまえ、感激させるために、ここはこう書いただろう」と手口をいちいち指摘するようなものだ。

恥ずかしいに決まっている。

チェリビダッケがベートーヴェンを指揮すると、意識的か無意識的か、この第5番のように曲から距離を置き、醒めた演奏になるのが常だった。

だからベートーヴェンの作品に感激したい人、酔いたい人にはまったく向かない。

第4番も、ベートーヴェンの交響曲の構築性を明確に示すチェリビダッケの最晩年の名演で、指揮者の理念が徹底的に染み込んだ{どこまでも深い}演奏だ。

ライヴでこの水準、いやライヴだからこその水準と言い直すべきだろう。

オケがチェリビダッケの意を汲み、献身的に寄り添っているのも特筆すべきだ。

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2015年05月28日


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一時は絶滅の危機に瀕したSACDが息を吹き返しつつある。

SACDから撤退していたユニバーサルが2010年よりSACDの発売を再開するとともに、2011年になってついにEMIがSACDの発売を開始したからだ。

2009末にESOTERICから発売されたショルティ&ウィーン・フィルによるワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」のSACD盤が飛ぶように売れたことからもわかるように、ガラスCDのような常識を外れた価格でさえなければ、少々高額であっても、かつての良質のアナログLPにも比肩し得る高音質のSACDは売れるのである。

最近は、オクタヴィアがややSACDに及び腰になりつつあるのは問題であるが、いずれにしても、大手メーカーによる昨年来のSACD発売の動きに対しては大きな拍手を送りたいと考えている。

そして、今般、ターラレーベルがフルトヴェングラーの過去の遺産のSACD化を開始したということは、SACDの更なる普及を促進するものとして大いに歓迎したい。

ターラレーベルからは、既にフルトヴェングラー&フィルハーモニア管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲第9番(1954年)がSACD化されている(既にレビュー投稿済み)ので、本盤に収められたいわゆる「ウラニアのエロイカ」は、ターラレーベルによるSACD第2弾ということになる。

フルトヴェングラーによる「エロイカ」については、かなり多くの録音が遺されており、音質面を考慮に入れなければいずれ劣らぬ名演であると言えるが、最高峰の名演は本盤に収められた「ウラニアのエロイカ」(1944年)と1952年のスタジオ録音であるというのは論を待たないところだ。

1952年盤が荘重なインテンポによる彫りの深い名演であるのに対して、本盤の演奏は、いかにも実演のフルトヴェングラーならではのドラマティックな名演であると言える。

第1楽章からして、緩急自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして大胆なアッチェレランドを駆使するなど、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を展開している。

第2楽章の情感のこもった歌い方には底知れぬ深みを感じさせるし、終楽章の終結部に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力は、我々聴き手の肺腑を打つだけの圧倒的な迫力を誇っている。

このように、本演奏と1952年盤は同じ指揮者による演奏とは思えないような対照的な名演であると言えるが、音楽の内容の精神的な深みを徹底して追求していこうというアプローチにおいては共通している。

ただ、音質が今一つ良くないのがフルトヴェングラーの「エロイカ」の最大の問題であったのだが、1952年盤については2011年1月、EMIがSACD化を行ったことによって信じ難いような良好な音質に蘇ったところであり、長年の渇きが癒されることになった。

他方、本演奏については、これまではオーパスによる復刻盤がベストの音質であったが、1952年盤がSACD化された今となっては、とても満足できる音質とは言い難いものがあった。

ところが、今般のターラレーベルによるSACD化によって、さすがに1952年盤ほどではないものの、オーパスなどのこれまでの復刻CDとは次元の異なる良好な音質に生まれ変わったと言える。

いずれにしても、「ウラニアのエロイカ」をこのような高音質SACDで聴くことができる喜びを大いに噛み締めたい。

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ソニー・クラシカルのバジェット・シリーズのひとつで、ルドルフ・ゼルキンが最も得意としたベートーヴェン作品集。

ロシア系ユダヤ人であったゼルキンはナチスの迫害を避け、アメリカに渡って活躍した。

これらの録音もその成果で、ゼルキンの若々しいスタイルが強く伝わる時代の録音でもあり、まさに往年の、王道のベートーヴェンと表現したい貫禄に満ちた演奏を聴くことが出来る。

ゼルキンの風貌や人柄にはどこか朴訥とした印象があって、ややもすれば饒舌で個性の主張が強いピアニスト達の中で、テクニックを誇示するような曲にはそれほど関心を示さなかったために、華麗なヴィルトゥオジティなどという形容には縁がなかったにしても、音楽そのものをじっくり鑑賞したい方なら、常に明確なアーティキュレーションに支えられた滋味に富んだ深い表現、本質的で飾らない真摯な演奏など、彼くらいベートーヴェンの音楽を掘り下げて解釈を探求した音楽家はそれほど多くないことに気付くに違いない。

こういう演奏は得てしてつまらない演奏になりがちだが、要所の締め、あちらこちらに見えるちょっとした閃きのような輝きが耳を奪う。

当然こうした彼の性格は録音に対してもかなり慎重で注意深かったため、ソナタに関しては全曲集を完成させることはなかったが、この11枚のセットには1962年から80年の長きに亘って録音された17曲のソナタと、協演者の異なる全5曲のピアノ協奏曲、2種類の『コラール・ファンタジーハ短調』、『ディアベッリ変奏曲』、11曲の『バガテル』、『幻想曲ロ長調』そしてハイメ・ラレードのヴァイオリンとレスリー・パルナスのチェロが加わる『トリプル・コンチェルトハ長調』が収録されている。

全盛期のゼルキンの至芸をこうした形でまとめて鑑賞できるのは幸いなことであり、こんな名演揃いのCDがこれほどの値段で手に入るとはいい世の中になったものである。

コンチェルトは晩年のクーベリック(Rafael Kubelik 1914-1996)との共演盤が有名だが、これらの録音でも真摯で力強いゼルキンのピアニズムは端的に示されている。

ソナタも素晴らしく「風格ある演奏」で、『熱情』や『悲愴』といった高名なソナタが、ど真ん中の力強い解釈により、「これこそ原型である」という説得力に満ち、聴き手はその本来の姿にあらためて酔い、感動する。

ただ、ソナタではアコーギクにおいてときおり恣意性が感じられるところがあり(決して音楽の全体的美観を損ねるほどではないが)、個人的には、ソナタよりもコンチェルトの方で、この人の美点がより発揮されているように思えた。

オケとの共同作業の中で音楽を構築するという方が、フレージングやアーティキュレーションが冴え、魅力的に響いている。

実に真っ当なベートーヴェン解釈であり、ここぞという時の渾身の迫力が凄いだけでなく、簡素な楽想でさりげなく添えられる深い芸術的情緒は、なんとも味が深く、コクがある。

客観的に全体像を見通したような組み立て方は安心して聴ける最大の要因だろう。

端正で、決して羽目を外すことのない模範的な演奏で、要するにピアノで歌うとは、人を感動させるとはこういう演奏のことなのだ。

まったくこのピアニストには1音1音追いかけて聴きたくなるような深いニュアンスと滋味溢れる響きの世界がある。

ピアノのせいもあるかも知れないが武骨そうなのに、意外に色彩感が豊富なのも優れた特徴で、音の強弱の段階づけの細やかで多彩なことは歴代のピアニストの中でもトップクラスだ。

これに比肩できるのはポリー二とグルダぐらいだろう。

音楽性ももちろんだが、ポリー二がゼルキンを尊敬するピアニストに挙げるわけである。

1曲1曲挙げればキリがないが、そのいずれの演奏も誰も成し得なかった未踏の境地によるもので、これこそ真の芸術遺産と呼ぶべきものである。

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2015年05月26日


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このBOXは、今から30年以上前に録音されたブレンデル旧盤のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集+ピアノ協奏曲全集である。

ピアノ・ソナタ全集は、ブレンデルのきわめて知的なベートーヴェン解釈が、はっきり表面に打ち出されている。

ブレンデルは、納得のゆくまで作品を研究した上で、その曲を自分のレパートリーにする人だが、シューベルトとともに、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの分析にもすぐれている。

これは、そうした彼の徹底した研究が実を結んだもので、スタイルとしては、シューベルト的なソフトな性格をもっており、きわめて抒情的でロマンティックである。

ことに弱音の部分に魅力があり、響きの美しさとニュアンスのこまやかさはこの人ならではのものだ。

彼は余分なものを一切付け加えず、あくまで作品そのものに語らせようとしているが、そのための知と情のコントロールも見事だ。

その結果聴かれるのは、端正でバランスに優れ、しかも深い楽譜の読みと端正なテクニックの行使に支えられた説得力あふれる演奏である。

新しい全集に入っている演奏と比べても、ブレンデルの本質は少しも変わっていない。

眼前の楽譜を論理的・分析的に読みとり、それに基づいてベートーヴェンを論理的に構築しようという確信が、彼を支えている。

どの曲の演奏も音楽の呼吸が自然で表情に温もりがあり、しかも明晰である。

演奏全体は穏健であり、誰でも抵抗なく受け入れられる伝統的なベートーヴェン解釈である。

ブレンデルの狙いは、徹底した作品分析をもとに、明快で論理的な演奏を構築し、しかも乾いた演奏との印象を与えないように、ひびきの細やかなニュアンスに留意し、旋律的にも和声的にも、潤いのある抒情的な表現を志向している。

剛ではなく、柔のベートーヴェンが、ブレンデルの描こうとした世界である。

どのソナタの演奏も秀逸で、ピアノ演奏法の研究者として名高いブレンデルの実力が、十全に発揮された演奏だ。

ブレンデルは高度な技術に裏づけられ、曖昧さのない理詰めな音楽性を誇るピアニストである。

とりわけ、ここにきくベートーヴェンのピアノ協奏曲全集が録音された1970年代には、その傾向が顕著であった。

第1番から第5番にかけてのいずれの演奏においても、彼のピアノは大いに雄弁で、必要な音があるべきところにきちんと収まっている。

ベートーヴェンの音楽におけるメタ・フィジカルな要素を追い求めたというより、むしろ、整合性のとれた論理性を追求した演奏内容だ。

指揮者ハイティンクも力のある伴奏をしているが、この後、急速に成熟した彼だけに、80年代、90年代に録音がなされていれば、と思わせる要素も、ここには残されている。

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2015年05月25日


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素晴らしい名演だ。

ルービンシュタインは何を弾いても超一流の演奏を残した、前世紀最大の奏者の1人であることを再認識させられるものだ。

これは徹頭徹尾、ルービンシュタインの、ルービンシュタインによる、ルービンシュタインのための演奏と言える。

両曲とも、前奏のオケのトゥッティが堂々と鳴り響いた後、ほんの少し間をおいてからルービンシュタインの独奏が始まる。

歌舞伎で大見得を切る主役のようで、本当に「待ってました、千両役者」という掛け声をしたくなる、実に派手な登場である。

ルービンシュタインはベートーヴェンを大きな塊として豪快に、華麗に淀みなく弾いていて、ヴィルトゥオーゾという形容がこれほどふさわしい演奏もないだろう。

ルービンシュタインによるベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番、第3番と言えば、何と言っても88歳の時にバレンボイム&ロンドン・フィルと組んで録音した1975年盤が随一の名演とされている。

これ以外にも、クリップス&シンフォニー・オブ・ジ・エアと組んだ1956年盤もあるが、本盤に収められた演奏はそれらの中間にあたる2度目の録音であり、バレンボイムとクリップスとの狭間に咲いた夜来香とも言えよう。

この時にも既にルービンシュタインは76歳に達しており、1975年盤において顕著であったいわゆる大人(たいじん)としての風格は十分である。

そして、超絶的なテクニックにおいては、衰えがいささかも見られないという意味においては1975年盤よりも本演奏の方が上である。

76歳とは思えないテクニックに驚かされるが、さすが、巨匠円熟の色気は圧倒的存在感だ。

もちろん大人としての風格は1975年盤の方がやや優っており、あとは好みの問題と言えるのではないだろうか。

もちろん、筆者としては、1975年盤の方を随一の名演に掲げたいが、本演奏もそれに肉薄する名演として高く評価したいと考える。

ルービンシュタインの演奏は、その卓抜したテクニックはさることながら、どのフレーズをとっても豊かな情感に満ち溢れていて、スケールも雄渾の極みであり、ルービンシュタインのピアノはいつでも何処でも、華麗で輝きに満ちている。

決して頭ごなしに睥睨するような威圧感はなく、格別主張が強い演奏でもないが、それでも聴き手に一縷の迷いも与えず、有無を言わせない迫力がある。

遅めのテンポで大きく深い呼吸で、音楽を息づかせ、それに腰の強いタッチを与えた名演で、音楽が進むにつれて調子が上がり、大柄で立体的な表現を成し遂げている。

単にピアノを鳴らすだけでなく、どの1音にも情感がこもっており、テクニックも桁外れのうまさで、強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現力の幅はきわめて広い。

ルービンシュタインの演奏を聴いていると、近年流行りの古楽器奏法であるとかピリオド楽器の使用による演奏が実に小賢しいものに思えてくるところであり、何らの小細工も施さずに堂々たるピアニズムで弾き抜いた本演奏(1975年盤も)こそは、真のベートーヴェン像として崇高な至純の高みに達している。

ラインスドルフ&ボストン交響楽団も、ルービンシュタインのピアノに率いられるかのように、常々の即物的な解釈は影を潜め、重厚ではあるが情感の豊かさを損なっていないのが素晴らしい。

ラインスドルフも伴奏に徹しているわけではなく、オケを目一杯鳴らして推進力のある演奏で対抗しているのであるが、ルービンシュタインはさらにその上を駆け抜けているのである。

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2015年05月23日


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1955年2月5日 シャンゼリゼ劇場、パリに於けるライヴ録音。

シューリヒトは、颯爽としたインテンポの下、繊細なニュアンスを随所にちりばめるという、言わば渋くて、枯淡の境地を垣間見せるような名演を繰り広げた指揮者だと思っていた。

しかし、それは、録音状態のいい名演が1960年代の晩年に集中していることによるものであり、1950年代半ばにフランスのオーケストラと繰り広げた演奏によって、そのような印象が見事に覆ってしまった。

巨匠シューリヒトの芸風は飄々とか軽やかという言葉で片付けられがちだが、本盤ではどの曲でも実に豪快そのもので、恐ろしく大胆な変化を平気で繰り広げる激しい指揮者だったということが分かる。

先ず、シューリヒトの遺した、これは最高の「エロイカ」だ。

シューリヒトの天才ぶりが随所に綺羅星の如く輝いており、期待通りの気迫充分の名演で、シューリヒトらしく速めのテンポでストレートに推進してゆくが、細部にまで神経が行き届いており、微妙な表情の変化を楽しめるのはこの指揮者ならではの魅力であり、全ての音が生命感に溢れている。

冒頭の2つの和音が実に濃密な音で、いつものシューリヒトならではの颯爽としたインテンポで演奏するかと思いきや、随所においてテンポに絶妙の変化を加え、金管の最強奏による強調があったり、急速なアッチェレランドがかかったりと決して一筋縄ではいかない。

内声部は先の演奏を予告するように意味深な動きをしており、そしてまぶしく輝くようなスフォルツァンドを聴いたときにはもう演奏の虜になっている。

第2楽章は一転、ゆったりとしたテンポで格調高く旋律を歌いあげ、素晴らしい表現力を発揮している。

颯爽たるテンポによる第3楽章を経て、終楽章はロンド形式による変転の激しい各場面を目もくらむような面白さで巧みに描き分けている。

シューリヒトはこの作品を完全に手中に収めた自信に満ちており、シューリヒトの「エロイカ」の中でも最も強い感銘を受け、本当に凄いと思った。

比較的速いテンポ設定で一気呵成に駆け抜けて行く、という側面もあるが、1つ1つの音に生命が吹き込まれ、凡庸に流れて行くところは皆無である。

折り目正しくも、僅かにテンポを揺らしながら、聴く者の脳裏に音符を刻み込んで行く。

ライヴならではの瑕疵も若干見受けられるが、これは名演の代償の類と言えるものであり、この演奏のマイナス要素とは一切なっていない。

やはりシューリヒトは凄い才能の指揮者であり、フランス国立管弦楽団もシューリヒトの指揮に必死に食らい付き、フランスのオケ独特の音色がシューリヒトの芸風とマッチしており、実に魅惑的なサウンドを引き出している。

まさに圧倒的な名演と言っても過言ではないものであり、巨匠シューリヒトならではの至芸を味わえる1枚だと思う。

モーツァルトは、颯爽としたテンポの中で繊細な抒情を垣間見せるなど内容の濃い佳演となっており、フェラスのヴァイオリンも実に美しい。

悲劇的序曲は、あまりにも音の状態がよくなく、コメントは差し控えたい。

本盤のライナーは平林氏が執筆しているが、シューリヒトの過去の演奏との対比を行うなど実に充実した内容となっており、これを読むだけでも本盤は相当な価値があると言えるだろう。

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2015年05月20日


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フルトヴェングラーの代名詞と言えば、ベートーヴェンの交響曲であるが、9曲ある交響曲の中でも第1番を除くいわゆる奇数番の交響曲については、自他ともに認める十八番であったと言えるだろう。

それら4曲の交響曲については、かなりの点数の録音が遺されているのも特徴であり、近年になっても新発見の録音が発掘されたり、あるいはより音質のより音源の発見、さらにはSACD化などの高音質化が図られるなど、フルトヴェングラーの指揮芸術に対する関心は、没後50年以上が経っても今なお衰えの兆しが一向に見られないところだ。

フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲第9番の名演としては、諸説はあると思うが、これまでのところ、レコード史上不滅の金字塔と言われるバイロイト祝祭管弦楽団とのライヴ録音(1951年)、大戦中のベルリン・フィルとのライヴ録音(1942年)、円熟期のウィーン・フィルとのライヴ録音(1952年)が3強を形成していたと言える。

もちろん、これら3つの演奏自体が圧倒的な素晴らしさを誇っているのであるが、それ以上に、これらの名演についてはSACD化が図られているというのも大きいと言えるのではないだろうか。

フルトヴェングラーの録音は、演奏が素晴らしくても音質が良くないというのが定評であり、逆に、これまであまり評価が高くなかった演奏がSACD化によって、高評価を勝ち取ることもあり得るところである(例えば、1947年5月25日のベートーヴェンの交響曲第5番、第6番「田園」のライヴ録音)。

本盤に収められた1954年の交響曲第9番についても、先般のSACD化によって、そのような可能性を秘めた名演と言えるだろう。

これまで、とりわけトゥッティにおいて音が団子状態になったり、不鮮明で聴き取りにくい箇所が極めて多かったのが大幅に解消され、前述のバイロイト盤、ベルリン盤、ウィーン盤にも十分に対抗できるような良好な音質に生まれ変わった意義は、極めて大きいことである。

本演奏は、フルトヴェングラー最晩年のものであるが、それだけに最円熟期のフルトヴェングラーによる至高の指揮芸術を、これまでとは違った良好な音質で堪能することができるようのなったのは実に素晴らしいことと言えるだろう。

第1楽章冒頭の他の指揮者の演奏の追随を許さない深遠さ、その後のとても人間業とは思えないような彫りの深さ、第3楽章の誰よりもゆったりしたテンポによる演奏の神々しいまでの崇高さ、そして終楽章のドラマティックな表現など、フルトヴェングラーだけに可能な至芸は、我々聴き手の深い感動を誘うのに十分である。

オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団であるが、寄せ集めのバイロイト祝祭管弦楽団よりも遥かに実力が上であることも大きなアドバンテージであると言えるところであり、ホルンがデニス・ブレインであることも聴きものである。

いずれにしても、SACD化によって、これまでとは格段に良好な音質に生まれ変わるに至った本盤の演奏は、バイロイト盤、ベルリン盤、ウィーン盤とともに4強の一角を占めるとも言うべき至高の超名演に位置づけられることになったと言えるところであり、本SACD盤が廃盤にならないことを願うのみである。

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2015年05月18日


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バッハの『無伴奏』がチェロにおける「旧約」聖書ならば、ベートーヴェンの『ソナタ』は「新約」聖書に匹敵すると言われるが、デビュー間もないヨーヨー・マと、盟友アックスによる若々しい掛け合いが音楽に溌剌としたエネルギーを与えた快演盤。

まさにベートーヴェンのチェロ・ソナタのエッセンスをとらえた代表的名演として高い評価を得て、世界中でベストセラーを記録した1983年録音作品である。

ヨーヨー・マは、1955年に台湾系中国人を両親としてパリに生まれたが、まもなく渡米し、ジュリアード音楽院でヤーノシュ・シュタルケルとレナード・ローズに師事した。

その優れた才能は早くから評判となり、欧米各地でオーケストラと共演、多くのリサイタルを開いて絶賛を博して、いまや現代のチェロ界を背負う最高の演奏家として注目されている。

彼が、ポーランド生まれで、アメリカを中心に活躍している名ピアニスト、アックスと組んだこの演奏は、新しい資料による新ベートーヴェン全集によっているため、これまでのとは多少違っている。

このふたりの演奏は、ロストロポーヴィチとリヒテルとの熱演とは対照的に、こちらは飛び切り才能のあるふたりの若者(当時)による掛け合いが楽しく、穏やかでのびのびとしている。

ヨーヨー・マのチェロは、きわめて豪胆で明快、曖昧さのない切れ味の鋭いもので、持ち前の美音と優れたテクニックで、実に素直に悠然と弾きあげており、新鮮な音楽をつくりあげているところがよい。

アックスのピアノもヨーヨー・マとぴったりと呼吸が合っており、最上のアンサンブルと言えるところであり、全体に新鮮で引き締まった好演である。

チェロを豊かに、艶やかに鳴らし、ヴァイオリンのように自由自在に扱うヨーヨー・マの特色が生かされ、自由奔放に歌い、弾むようなリズム感は、聴き手を爽快な気分にさせてくれる。

実にしなやかでのびのびと歯切れのよい運びの中にチェロとピアノのぴったりと息の合った二重奏がかもしだす抒情のかぐわしさは、他に類を見ないもので、自然体・平常心で臨んで曲の味わい深さを出した好演と言えるだろう。

アックスのピアノも少しも引けをとらない。

アックスもベートーヴェンの音楽解釈には一家言をもった演奏家であり、両者のデュオのコンセプトを見事に一致させながらも、古典派時代の単なる伴奏ピアノと独奏楽器という様式を脱した真の二重奏ソナタとしての緊張感に満ちた演奏を繰り広げており、過剰表現のない、洗練された形式美に横溢する。

このコンビの息の合った二重奏はある時は朗々とした歌を生み出し、ある時は熱っぽいクライマックスを築き上げてゆく。

特に第3番では、ベートーヴェンがスコアに書き込んだ野卑なユーモアが、特にスケルツォなどで大炸裂、音楽に新しい生命力を与えている。

そして、豪快な第3番に対して繊細緻密な第4番という具合に、その描き分けが完璧にうまい。

「魔笛」の主題による2曲もヨーヨー・マの技巧は優れていて危なげなところはどこにもなく、短調の変奏での深く熱っぽいチェロの歌が胸を打つ。

ネアカのベートーヴェンだが、両者の和気あいあいのアンサンブルと冴えたテクニックのせいで、これらの作品が実に楽しく味わえる。

音質は従来盤ではあるが、十二分に鮮明であり、本盤の価値を高めるのに大きく貢献している。

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2015年05月16日


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本全集は、カラヤン&ベルリン・フィルという黄金コンビの最絶頂期である1970年(「第9」のみ1968年)に収録された映像作品である。

カラヤンはベートーヴェンの交響曲全集を本DVD作品を除けば4度にわたってスタジオ録音している。

このうち、フィルハーモニア管弦楽団との最初の全集を除けばすべてベルリン・フィルとの録音となっている。

いずれの全集もカラヤンならではの素晴らしい名演であると考えているが、中でもカラヤンの個性が最も発揮されたのは1970年代に録音された3度目の全集ということになるのではないだろうか。

その他では、先般、FM東京から、カラヤン&ベルリン・フィルの1977年の来日時の驚くべき普門館ライヴによる全集が発売されたところだ。

本全集は、さすがにあの超絶的な名演には敵わないが、それらとほぼ同じスタイルによる名演を映像作品によって味わうことが可能であり、精緻さと重厚さを兼ね備えた20世紀最高のベートーヴェン演奏と言える。

演奏は、この時期のカラヤン&ベルリン・フィルならではの圧倒的な勢力がとにかく凄まじく、その奔流と言いたくなる強烈な流動感に息を飲まされる。

特にカラヤンが指揮した時のベルリン・フィルの気合いの入った集中力の高さは見ていて本当に圧倒される。

名うてのスタープレイヤーが数多く在籍していた当時のベルリン・フィルは、一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、ブリリアントなブラスセクションの朗々たる響き、桁外れのテクニックを披露する木管楽器の美しい響き、そしてフォーグラーによる雷鳴のようなティンパニの轟きなどが一体となった圧倒的な演奏を展開していた。

カラヤンは、これに流麗なレガートを施し、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築を行っていたと言える。

それは本全集においても健在であり、これほどの圧倒的な音のドラマは、前述の普門館ライヴ録音は別格として、クラシック音楽演奏史上においても空前にして絶後ではないかと考えられるほどの高みに達している。

もちろん、カラヤンは本全集における各曲の演奏においては音のドラマの構築に徹していることから、各楽曲の精神的な深みの追求などは薬にしたくもないと言える。

したがって、とある影響力の大きい音楽評論家などは、精神的な深みを徹底して追求したフルトヴェングラーの名演などを引き合いにして、本全集のみならずカラヤンのベートーヴェン演奏の精神的な内容の浅薄さを酷評しているが、本全集はかかる酷評を一喝するだけの圧倒的な音のドラマの構築に成功しており、筆者としてはフルトヴェングラーの名演などとの優劣は容易にはつけられないものと考えている。

また、各楽曲の精神的な深みの追求がないという意味においては、何色にも染まっていない演奏であると言える(もちろん、表面的な音はカラヤン色濃厚であるが)ところであり、初心者には安心してお薦めできる反面で、特に熟達した聴き手には、各曲への理解力が試される難しい演奏と言うことができるのかもしれない。

本DVDを見聴きして、カラヤンが絶頂に在る事、ベルリン・フィルの充実度が最高の時期である事が誰の眼にも解るであろう。

録画・録音場所の選定や録画スタイルに異論を抱く愛好家が多いのは事実であり、筆者自身もそのように考えていた。

しかし、カラヤン自身が考えに考えた上での映像であり、チャレンジであった事が痛いほど画面から解る。

幸いフイルムに記録されており、年月を経た今日でも忠実な色再現をしており、音質に至っては本当に申し分ない。

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2015年05月12日


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2011年はベーム没後30年であった。

生前は、とりわけ我が国において、当時絶頂期にあったカラヤンに唯一対抗し得る大指揮者として絶大なる人気を誇っていたが、歳月が経つにつれて、徐々に忘れられた存在になりつつあるというのは残念でならないところである。

そのような状況の中で、本コレクターズ・エディションのような廉価盤が次々と発売される運びとなったことは、ベームの偉大な芸術を再認識させてくれる意味においても極めて意義が大きいと言わざるを得ないだろう。

本盤には、ベートーヴェンの交響曲全集(及び5つの序曲)が収められているが、これはベームによる唯一の全集である。

ベームは、本全集以外にも、ベートーヴェンの交響曲をウィーン・フィルやベルリン・フィル、バイエルン放送交響楽団などと単独で録音を行っているが、全集の形での纏まった録音は本全集が唯一であり、その意味でも本全集の価値は極めて高いと言える。

ベームによる本全集の各交響曲や序曲の演奏は、重厚でシンフォニックなものだ。

全体の造型は例によってきわめて堅固であるが、その中で、ベームはオーケストラを存分に鳴らして濃厚さの極みと言うべき内容豊かな音楽を展開している。

スケールも雄渾の極みであり、テンポは全体として非常にゆったりとしたものである。

演奏は、1970〜1972年のスタジオ録音であり、これはベームが最も輝きを放っていた最後の時期の演奏であるとも言える。

ベームは、とりわけ1970年代半ば過ぎになると、持ち味であった躍動感溢れるリズムに硬直化が見られるなど、音楽の滔々とした淀みない流れが阻害されるケースも散見されるようになるのであるが、本演奏には、そうした最晩年のベームが陥ったリズムの硬直化がいささかも見られず、音楽が滔々と淀みなく流れていくのも素晴らしい。

いずれの楽曲も名演であると言えるが、最も優れた名演は衆目の一致するところ第6番「田園」ということになるであろう。

本演奏は、ワルター&ウィーン・フィルによる演奏(1936年)、ワルター&コロンビア交響楽団による演奏(1958年)と並んで3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。

本演奏の基本的な性格は前述のとおりであるが、第4楽章の畳み掛けていくような力強さや、終楽章の大自然への畏敬の念を感じさせるような崇高な美しさには出色ものがあり、とりわけウィンナ・ホルンなどの立体的で朗々たる奥行きのある響きには抗し難い魅力がある。

次いで第9番を採りたい。

ベームは、最晩年の1980年にも同曲をウィーン・フィルとともに再録音(ベームによる最後のスタジオ録音)しており、最晩年のベームの至高・至純の境地を感じさせる神々しい名演であるとは言えるが、演奏全体の引き締まった造型美と内容充実度においては本演奏の方がはるかに上。

とりわけ、終楽章の悠揚迫らぬテンポであたりを振り払うように進行していく演奏の威容には凄みがあると言えるところであり、ギネス・ジョーンズ(ソプラノ)、タティアーナ・トロヤノス(アルト)、ジェス・トーマス(テノール)、カール・リッダーブッシュ(バス)による名唱や、ウィーン国立歌劇場合唱団による渾身の合唱も相俟って、圧倒的な名演に仕上がっていると評価したい。

その他の楽曲も優れた名演であるが、これらの名演を成し遂げるにあたっては、ウィーン・フィルによる名演奏も大きく貢献していると言えるのではないだろうか。

その演奏は、まさに美しさの極みであり、ベームの重厚でシンフォニック、そして剛毅とも言える演奏に適度な潤いと深みを与えているのを忘れてはならない。

音質は、1970年代初めの頃のスタジオ録音であるが、従来盤でも十分に満足できるものである。

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2015年05月11日


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これはフルトヴェングラーの遺した数多いディスクの中でも、特に素晴らしい名演奏の1つである。

コンラート・ハンゼンは1906年生まれのドイツのピアニストで、あまり有名ではないが、この「第4」に関するかぎりバックハウスよりも遥かに見事だ。

全体の主導権は指揮者が握っており、たとえば造型などまったく自由自在なフルトヴェングラーのそれであるが、ハンゼンはあたかも自分自身が感じている如く自然に溶け込んでいる。

いや、ハンゼンは精神的にロマンティックなピアニストなのであり、要するにフルトヴェングラーと同じ感情を持った人なのであろう。

おそらく独奏をさせればこんなにすごい造型は創造し得ないだろうが、天才的な指揮者と協演して自己の理想を発見し、心からの尊敬と共感と歓びとをもって弾いているに違いない。

実際、ハンゼンのピアノにはすべての人間感情が隠されている。

素朴でしっとりとした雰囲気、澄みきったリリシズムを基本としながらも、テンポを大きく動かし、大胆きわまる感情移入を随所に見せる。

第1楽章展開部冒頭の驚くべき遅いテンポ、第1楽章再現部の聴く者を興奮させずにはおかない打ち込み方、第2楽章の強い訴えなどがその例だが、至るところに見せる左手の強調、表情豊かな盛り上げ、チャーミングなトリル、ロマンティックな歌、付点音符の名人芸的な弾ませ方など、これ以上は望めないというぎりぎりの線にまで達している。

そしてフルトヴェングラー&ベルリン・フィルの精神そのものの響きがハンゼンのソロを有機的に包み込み、特に繊細さと寂しい静けさの2点においては比較するものとてあるまい。

ベートーヴェンの意図をこれほどニュアンス豊かに感じきって演奏した例は他に皆無だし、ハンゼンもまことに印象的だ。

フィナーレのコーダにおける激しい加速、それ以上に第1楽章コーダの極度に遅いテンポも別の曲を聴く趣があろう。

しかも両者はつとめて即興的な再現を試みているらしく、それが演奏をたった今生まれたようなみずみずしさで蔽うのである。

ともかく、ハンゼンもフルトヴェングラーも、ここではやりたいことをすべてやり尽くしている。

こんなに主観的な演奏はないとも言えるが、聴いていると演奏者の存在は忘れてしまい、音楽の美しさだけが身に迫ってくる。

ベートーヴェンの「第4協奏曲」を徹底的に堪能できるのであり、この演奏によって初めてこの曲の良さを知る人もきっと多いに違いない。

特筆すべきは第1楽章のカデンツァで、ハンゼンはここでベートーヴェン自作のものを使用しながら、後半に入ると自由に変化させ、「熱情ソナタ」の動機さえも組み入れて素晴らしい効果を上げている。

ことによるとフルトヴェングラーの考えが入っているのかもしれない。

他方、ベートーヴェンの「第7交響曲」は、あくまでも私見であるが、フルトヴェングラー&ウィーン・フィル(1950年盤)、クレンペラー&ニューフィルハーモニア管(1968年盤、EMI)、そしてカラヤン&ベルリン・フィル(1978年盤、パレクサ)を名演のベスト3と考えているが、劇的な迫力という観点からすれば、むしろ1950年盤よりも上ではないかと思われ、前述の1950年盤との比較をどうしても考えてしまう。

テンポはめまぐるしく変化し、随所におけるアッチェレランドの連続、金管楽器の最強奏や低弦によるドスの利いた重低音のド迫力など、自由奔放と言ってもいいくらい夢中になって荒れ狂うが、それでいて全体の造型にいささかの揺るぎもなく、スケールの雄大さを失わないのは、フルトヴェングラーだけが成し得た天才的な至芸と言えるだろう。

SACD化により、さすがに最新録音のようにはいかないが、フルトヴェングラー&ベルリン・フィルの戦時中の至芸を従来盤よりも鮮明な音質で味わうことができる。

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アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間は、持ち味である豊かな歌謡性と気迫溢れる圧倒的な生命力によって素晴らしい名演の数々を成し遂げていた。

しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後は、なぜかそれまでとは別人のような借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになってしまった。

前任者であるカラヤンを意識し過ぎたせいか、はたまたプライドが高いベルリン・フィルを統御するには荷が重すぎたのかはよくわからないが、そうした心労が重なったせいか、大病を患うことになってしまった。

ところが、皮肉なことに、大病を克服し芸術監督退任間近になってからは、凄味のある素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。

アバドの晩年に発売されたCDは、いずれも円熟の名演であり、紛れもなく現代最高の指揮者と言える偉大な存在であった。

それはさておきアバドは、ベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を2度完成させている。

正確に言うと、「第9」だけは重複しているのだが、第1〜8番の8曲については別の演奏であり、1度目は前述の大病を患う直前のスタジオ録音、そして2度目は大病を克服した直後のローマでのライヴ録音(DVD作品)となっている。

要は、第9番だけは最初の全集に収められたライヴ録音をそのまま採用しているということであり、アバドはベルリン・フィルとの最初の全集の中でも、第9番だけには自信を持っていたということを窺い知ることが出来るところだ。

本盤に収められたベートーヴェンの交響曲全集は、アバド&ベルリン・フィルによる2度目の全集である。

最初の全集については、前述のような低調なアバドによるものであり、2度目の録音を大病克服直後に行ったことからしても、アバド自身もあまり満足していなかったのではないかと考えられる。

最新の研究成果を盛り込んだペーレンライター版を使用したところは、いかにもアバドならではと言えるが、記者の質問に対して版の問題は他に聞いてくれと答えたという芳しからざる噂もあり、実際のところ、アバドが自らの演奏に版の問題をどのように反映させたのかはよくわからないところだ。

いずれにしても、本全集はアバド色の濃いベートーヴェンと言えるだろう。

フルトヴェングラーやカラヤン時代の特徴であった重量感溢れる重厚な音色がベルリン・フィルから完全に消え失せ、いかにも軽やかな音色が全体を支配していると言ったところだ。

かつて、とある影響力の大きい某音楽評論家が自著において、旧全集のエロイカの演奏を「朝シャンをして香水までつけたエロイカ」と酷評しておられたが、かかる評価が正しいかどうかは別として、少なくとも古くからのクラシック音楽ファンには許しがたい演奏であり、それこそ「珍品」に聴こえるのかもしれない。

筆者としても、さすがに許しがたい演奏とまでは考えていないが、好き嫌いで言えば決して好きになれない軽妙浮薄な演奏と言わざるを得ない。

もっとも、前述のように、近年のピリオド楽器や古楽器奏法による演奏を先取りするものと言えるが、天下のベルリン・フィルを指揮してのこのような軽妙な演奏には、いささか失望せざるを得ないというのが正直なところである。

前々任者フルトヴェングラーや前任者カラヤンなどによる重厚な名演と比較すると、長いトンネルを抜けたような爽快でスポーティな演奏と言えるが、好みの問題は別として、新時代のベートーヴェンの演奏様式の先駆けとなったことは否定し得ないと言える。

もっとも、本全集では、アバドならではの豊かな歌謡性が演奏全体に独特の艶やかさを付加しており、アバド&ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては、佳演と評価するのが至当なところではないかと考える。

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2015年05月08日


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1993年に通常CDで発売された際、音楽評論家諸氏が大絶讃したことで非常な評判となったミケランジェリとスメターチェクの「皇帝」は、長らく入手困難となっていたが、この度オリジナル・マスターからSACD化され、新たに登場した。

ミケランジェリがもっとも脂の乗り切った時期に演奏されたライヴ録音で、実に健康的なベートーヴェンだ。

たいへんスケールの大きな演奏で、しかも細部の彫琢も行き届いていて、出だしからミケランジェリの磨き抜かれた美音と生気あふれるスピード感で、聴き手の心を鷲づかみにする。

この快演ぶりはミケランジェリの数種ある「皇帝」のどれにもない凄さであり、物凄いエネルギーとオーラを放っている。

ミケランジェリのピアノはデリカシーの強調は一切なく、思い入れとは無縁の表現で、アクセントの強い男性的なフォルティッシモを駆使し、スケール雄大に、骨太に、颯爽と進める。

ミケランジェリの良さは、そのようなスタイルをとりながらも落ち着きと風格を保ち、音色自体から生理的な喜びを与えてくれる点。

高音は夜空に打ち上げられる花火のきらめきに、低音は打ち上げ音に、またオーケストラ伴奏は大群衆のどよめきに似て、ひびきと光の饗宴を楽しませてくれる。

とくに高音のきらめきは磨き抜かれた艶をおび、仕掛け花火がつぎつぎに炸裂してゆくようで、眼のさめる思いをさせられる。

ミケランジェリのソロは、タッチが明確で1つ1つの音が美しい余韻を伴っていて全体が清々しい。

これは感覚的な美しさというべきもので、この曲の古典的な様式とロマン的な様式の接点を見事に捉えている。

ピアノの音の純粋な美感をこれほど感じさせる演奏も少なく、アポロン的名演とでも言おうか、ここには理想主義的な「エンペラー」像がある。

全盛期のミケランジェリには、落ち着きと貫録があり、アポロン的清澄度は後年の演奏よりもいっそう高い。

そして目を見張らされるのがスメターチェクのバックであり、充実した響きと推進力あふれる演奏でミケランジェリともども作品のボルテージを高める好伴奏を繰り広げている。

スメターチェクのテンポは速めで引き締まった表情をもち、しかも晴れやかな表情もあって、魅力的だし、オーケストラのみの長い前奏も、ベートーヴェンの交響曲を聴くような気分にさせてくれる。

ベートーヴェンの音楽をミケランジェリ&スメターチェクが自らにぐっと引き付けた希代の名演であり、文句のつけようがない。

さらにSACD化によって従来盤とは比較にならないほどの高音質化が図られ、ライヴ録音なのにピアノとオケのバランスも極上で、今までのどの「エンペラー」よりも素晴らしい。

ミケランジェリによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番も数種の録音が存在するが、技術、覇気、若々しさのいずれの点からも、この1961年ロンドン・ライヴに優るものはない。

ある時はオルガン、ある時はチェレスタのような響きを見せながら、ピアノならではの低音が渦を巻く凄さ、こんな鬼気迫る演奏は滅多に聴けない。

その表現は厳しいとはいえ、音楽そのものは決して冷徹なものではなく、むしろきわめてヒューマニスティックな深い味わいを湛えている。

その他、得意のドビュッシーの「映像」両巻からテンポの遅い2曲ずつ選曲されているが、名盤の誉れ高いDG盤に比べてテンポが速く、また別種の味わいを見せてくれる。

いずれも完璧主義者らしい見事な演奏で、特に定評ある音色の、その色合いが作品ごとに使い分けられているのも素晴らしい。

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2015年05月03日


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カルロス・クライバーは、その実力の割にはレパートリーがあまりにも少ない指揮者であったが、ひとたびレパートリーとした楽曲については、それこそより優れた演奏を志向すべく何度も演奏を繰り返した。

ベートーヴェンの交響曲第7番は、そうしたクライバーの数少ないレパートリーの1つであり、来日公演でもとりあげ、日本の聴衆を熱狂の渦に巻き込んだのであるが、ウィーン・フィルとのスタジオ録音(1975年)の他、多数のDVD作品や海賊盤が市場に蔓延っていたところである。

クライバーは本演奏の発売を禁じていたが、没後この演奏が発売されると世界の音楽ファンに衝撃を与え、それまで今一つ親しめる存在ではなかった同曲の魅力を、本演奏を聴くに及んで初めて知ったことが今となっては懐かしく思い出されるところだ。

その後は、別のスタイルの演奏であれば、フルトヴェングラー&ウィーン・フィルによるスタジオ録音(1950年)などが高音質で発売(SACD化)されたことから、本演奏の存在感は若干色褪せてきていたことは否めないところであったが、今般、高音質化されて発売された本演奏に接すると、あらためてその演奏の凄さを思い知った次第である。

天井知らずの熱狂と猛烈なスピード感、切り立つ音響の凄まじさと入念をきわめた細部表現による多彩でデリケートなニュアンスを併せ持ち、緊張と解放を自由自在に繰り返しながら未曾有の燃焼度を達成した稀代の名演である。

全曲を約40分弱という凄まじいスピードで駆け抜けており、繰り返しなどもすべて省略しているが、それでいて、特に緩徐楽章における各旋律の端々に込められた独特のニュアンスの豊かさ、そして、思い切った強弱の変化やテンポの効果的な振幅を駆使して、実に内容豊かな演奏を繰り広げていると言えるだろう。

クライバーの没後、本演奏の発売される運びとなったのは、数多く行ってきた同曲の演奏の中でも、崇敬するベームの追悼コンサートに際しての本演奏を特別視していたからであると思われるが、それも十分に納得することが可能な圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

バイエルン国立管弦楽団も、クライバーの統率の下、渾身の名演奏を繰り広げている。

第1楽章のフルートの入りのミスや、とりわけ終楽章など、あまりのテンポの速さにアンサンブルが乱れる箇所も散見されるが、演奏全体に瑕疵を与えるほどのものではなく、むしろ、実演ならではのスリリングさを味わうことができる点を高く評価すべきであろう。

ウィーン・フィルとのDG盤に比較すると、終楽章で特に顕著であるが、クライバーの華麗な棒さばきに必死の形相で喰らい付いてゆこうとするバイエルン国立管弦楽団の健気さと熱い心がダイレクトに伝わってくるという意味で、筆者としては、本盤に軍配を上げたいと思う。

音質は、従来CD盤でも十分に満足できるものであったが、今般、ハイブリットSACD化がなされるに及んで大変驚いた。

待望のSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、クライバーによる圧倒的な超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年04月30日


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ヨッフムがコンセルトヘボウ・アムステルダムとともにスタジオ録音した名盤の待望の復活を先ずは大いに歓迎したい。

手堅い表現で知られたヨッフムは、晩年スケール感を加えて驚くべき境地に達し、80歳を過ぎてからの来日公演におけるブルックナーは忘れえぬ名演だった。

コンセルトヘボウ・アムステルダムを率いたベートーヴェン交響曲全集は、後にロンドン交響楽団と入れた一期一会の崇高な演奏と較べると質実過ぎると感じるかもしれないが、ここでは中庸にして核心を突く壮年期ならではの才腕が聴き取れる。

ヨッフムというと手堅い演奏で知られているが、この交響曲全集も非常に綿密な演奏で、正確な演奏である。

有名なカラヤン盤と比較すると、テンポも遅めで、演奏も華やかではないが、その簡素な表現と質実剛健とも言える演奏は、むしろ最もオーソドックスなベートーヴェンのスタンダードと言えるものである。

このベートーヴェンも、もう1つのロンドン交響楽団との全集と同じく、猛々しい部分も凪の部分も、ヨッフム独特の「愛」が感じられる名演である。

近年では、ベートーヴェンの交響曲の演奏様式も当時とは大きく様変わりし、小編成オーケストラのピリオド楽器による演奏や、大編成のオーケストラによるピリオド奏法による演奏などが主流を占めつつあり、いまやかつての大編成のオーケストラによる重厚な演奏を時代遅れとさえ批判するような見解も散見されるところだ。

近年発売されたティーレマン&ウィーン・フィルによるベートーヴェンの交響曲全集は、そうした近年の軽妙浮薄とも言うべき演奏傾向へのアンチテーゼとも言うべき意地の名演であったが、それも少数派。

一部の音楽評論家や音楽の研究者は喜んでいるようであるが、少なくとも、かつての大指揮者による重厚な名演に慣れ親しんできたクラシック音楽ファンからすれば、あまり好ましい傾向とは言えないのではないかとも考えられるところだ。

パーヴォ・ヤルヴィやノリントン、ジンマンなどによって、芸術的にもハイレベルの名演は成し遂げられているとは言えるものの、筆者としては、やはりどこか物足りない気がするのである。

そうした中にあって、ヨッフム&コンセルトヘボウ・アムステルダムによる演奏を聴くと、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになるのは筆者だけではあるまい。

もちろん、ヨッフムは何か特別な解釈を施しているわけではない。

奇を衒ったようなアプローチは皆無であり、コンセルトヘボウ・アムステルダムの幾分くすんだドイツ風の重厚な響きを最大限に生かしつつ、曲想を丁寧に描き出していくというオーソドックスな演奏に徹していると言えるところだ。

もっとも、随所にロマンティシズム溢れる表現や決して急がないテンポによる演奏など、ヨッフムならではの独自の解釈も見られないわけではないが、演奏全体としてはまさにドイツ正統派とも言うべき重厚な演奏に仕上がっていると言えるだろう。

オーケストラの自発性を引き出した柔らかな響きの「田園」や溌剌とした第8番など、偶数番号がなかんずく優れた出来栄えである。

もちろん、ベートーヴェンの交響曲全集にはあまたの個性的な名演があり、特に偶数番号の名演としては、ワルター&コロンビア交響楽団、イッセルシュテット&ウィーン・フィルなどが存在し、これらと比較すると強烈な個性に乏しいとも言えるが、ベートーヴェンの交響曲の魅力をダイレクトに表現しているという意味においては、本盤のヨッフムによる演奏を素晴らしい名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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2015年04月27日


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1983年11月7日、バイエルン国立歌劇場アカデミー・コンサートのライヴ録音(ステレオ)で、入手できる海賊盤もなく、大変貴重な演奏。

桁外れな才能に恵まれながらも、レコーディングにはほとんど関心を示さず、また、ライヴ録音に関してもなかなか承認しないことから、生きながらすでに伝説と化していた感のある天才指揮者、カルロス・クライバーが珍しくも許諾したライヴ音源。

カルロス・クライバーが最後に指揮してから一体何年が経つのだろう。

“指揮台に立つだけで奇跡を巻き起こす超カリスマ指揮者”も1990年代に入るとほとんど活動を停止してしまい、隠遁の身となり、2004年に帰らぬ身となった。

そしてカルロスがまだ生きていた頃、こうしてとうとう30年以上も前のライヴ録音までが発掘されたのは、うれしいような悲しいような、ファンとしては複雑な思いにさせられる。

しかし、このディスクの内容は聴き手の期待感をはるかに上回る、霊感に満ちた、信じ難いほどの個性的な名演である。

ことに響きの密度の濃さはただごとではない。

オーケストラが、「何となく全体で」鳴っているのではなく、「一つひとつの楽器が心を寄せ合って」歌っているのが、第1楽章の冒頭のあの有名なメロディから、すぐにわかる。

異常に速いテンポだが、違和感はまったくない。

第2楽章も、何という音楽的な、凛(りん)としたしなやかなカンタービレなのだろうか!

高原の風のように、これほど胸いっぱいに吸い込みたくなる、澄み切った空気が、音楽によって体験できるとは…。

この楽章最後の、カッコウのような木管の掛け合いの美しさには涙が出る。

疾走する第3楽章は愉悦のきわみで、カルロスの舞踊的なセンスのひらめきは天下一品だ。

第4楽章の雷と嵐は、指揮者によって演奏の良し悪しが非常にはっきりと出る部分で、つまらない演奏で聴くと雨が降ったのかどうかも気がつかないほどだが、カルロスの手にかかると、聴き手の誰しもが全身ずぶぬれになる。

クライマックスの一撃は言葉を失うほど壮絶で、遠のく遠雷のティンパニさえも、雷神の背中のようにたくましい筋肉で盛り上がっている。

この楽章の意味するものが、“自然の偉大な力への畏怖”であるということに、改めて気付かせられる。

第5楽章は、誤解を恐れずに言えば、実に男らしい愛に満ちた演奏である。

これっぽっちもベタベタしたところがなく、強くて線が太い。

そしてこのうえもなく優しくて暖かい。

演奏後の拍手とブラヴォーの盛り上がりの素晴らしさが、生演奏の会場でいかにカルロスならではの“奇跡”が起きていたかを証明している。

やはり、あの指揮ぶりをもう一度この目で見たかった! そんな渇望感を覚えずにはいられない、ファン必聴のディスクである。

ただし、オーケストラに保管されていたオリジナルのマスター・テープは、部分的に劣化していたため、カルロスの息子に渡されていたカセットへのコピーもCD化の際にマスターとして使用したとのことで、ステレオとはいえ音質は冴えない。

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2015年04月26日


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カペー四重奏団から、現在少しずつ録音が進行しつつあるハーゲン四重奏団に至るまで、いったい何十組のベートーヴェンを聴いてきたのか、自分でもよくわからないが、筆者はこのハリウッド四重奏団の演奏が最高のベートーヴェンだと思っている。

ハリウッド四重奏団の特色は、明晰で強靱、輝きのある音色、明解なイントネーションとリズムにあると言える。

ハリウッド四重奏団の演奏の特徴は、『スジガネ入りのリスナーが選ぶ クラシック名盤この1枚』(知恵の森文庫)に詳しい。

この団体のベートーヴェンを推して、筆者の1人である難波敦氏は、「ハリウッド四重奏団は、演奏の約束事を軽く飛び超えて、大フーガを含めたすべての旋律を徹底的に歌うように演奏していく」と述べている。

筆者も全く同感で、ハリウッド四重奏団の演奏を聴くと音楽が持つ抒情を明確に感じ取ることができ、メロディーの艶やかな歌い方に聴き惚れてしまう。

そうかといって流麗になりすぎ、凡庸に流れてしまうような箇所がないことが素晴らしく、それは一重に第1ヴァイオリン奏者フェリックス・スラットキンの至芸を支える三者の力によるのだと察せられる。

他のカルテットは、曲が要求するある決まった演奏形式を必ず守ったうえで、自分たちの個性を展開しようとするのだが、形式を維持することにつねに気を配ろうとするために演奏が発展せず、そこで止まってしまうことがあり、ベートーヴェンの曲はメロディーがなくてつまらない、ということになってしまう。

しかし、ベートーヴェンはモーツァルトよりも遥かに、メロディーに頼って曲を書いた作曲家である。

心を込めて美しく歌うスラットキンの第1ヴァイオリンが主導して流麗にして繊細な音楽がつくられてゆくが、4人全体の響きが充実して均質的な美しさをもつので、演奏全体は深い奥行きと大きなスケール感をもつ。

どの曲も名演だが、ことに短調の2曲、作品131、132の2曲が、心に染み入る印象深い演奏になっている。

いずれも清らかな歌に満ちたみずみずしく深く澄んだ演奏で、他の名演奏には聴かれない鮮烈な抒情美を聴かせてくれる。

「後期」の演奏の王道である厳しく絞り込み緻密に練り上げた強固な演奏とは一線を画する演奏だが、ベートーヴェンの最晩年の心の在りように肉薄している点では、ブダペスト四重奏団やメロス四重奏団など「後期」の名盤たちと肩を並べる個性豊かな必聴の名演奏である。

歌うところは歌い、厳しいところは厳しく、そして全体的に落ち着いた、むしろヨーロッパのカルテットに通ずるような演奏になっている。

このような演奏を名演と呼び、名盤と呼ぶのであろうし、アメリカのカルテットによるベートーヴェンなどという先入観は持たないことだ。

名前で損しているような団体だが、緻密なアンサンブルとがっしりとした構成感、艶のあるあたたかな美しい音色で聴かせる非常に力のある名カルテットであり、じっくり聴いてみるとジュリアード四重奏団よりも実力が上かもしれない。

演奏者の名前や、録音されたレーベルだけで、聴くレコードを選ぶのは、愚かなことであるとつくづく感じているところだ。

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1944年3月にベルリン国立歌劇場で行われた定期公演のライヴ録音。

フルトヴェングラーの指揮による「魔弾の射手」序曲の録音は5種類あるが、この大戦末期のベルリンでのライヴ盤が傑出している。

死の直前のウィーン・フィルのスタジオ録音よりさらに彫りが深く、実に雰囲気豊かであり、フルトヴェングラーの情感が生々しく迫ってくる。

とりわけ曲の前半はテンポがきわめて遅いが、深閑としてボヘミアの森の暗さをこの上なく雰囲気豊かに描き切っている。

序奏はテンポが遅くておどろおどろしく、スケールも大きく、ホルンのロマンティックな音色が美しく、チェロの表情はつけすぎるくらいだ。

主部もスローテンポを維持し、経過句やコーダのアッチェレランドは抑え気味だが、ひびきの翳が濃く、細部まで刻明に弾き切っているので感銘深い。

1926年盤、1954年盤と並んで後世に遺したい名演と言えよう。

「ダフニスとクロエ」第2番は全奏の音がよく言えば溶け合っているが、実は分離が悪く、濁り気味なので、ラヴェルの音彩を楽しむというわけには到底ゆかず、「夜明け」のみずみずしい詩情など求むべくもない。

ティンパニが意味なく強いのもいただけないし、採るとすれば「無言劇」における木管のソロの巧さであろうか。

フルトヴェングラーの7種の「田園」の中では、このベルリン盤が最も主観的で、フルトヴェングラー色が強い。

フルトヴェングラーの「田園」で最も魅力があるのは第1、2楽章である。

どっしりと重々しく進める第1楽章、対照的に抒情を生かしてこまやかに歌ってゆく第2楽章、ともに楽器のバランスが鮮やかで、この2楽章のゆったりとした表現の美はフルトヴェングラーをおいては見られない。

第1楽章は1952年のウィーン盤によく似ているが、オケのせいもあっていっそう暗く、終結のリタルダンドが大きい。

第2楽章でもテンポの動きが多用されており、第2テーマのあたりのスピード感はほかの盤には見られぬところだ。

以上2つの楽章ではクラリネット奏者の巧さが印象的である。

第3〜5楽章はテンポも速くなって、いよいよ実演色濃厚になり、テンポの変化も多くなるが、そのぶんアンサンブルが雑になり、格調を崩してしまうのも事実だ。

たとえばスケルツォの最後の部分における猛スピード、フィナーレの第2テーマにおけるアッチェレランドなど、いくらなんでもやりすぎではないか。

もしもほかの指揮者がこんなことをしたら、徹底的に叩かれるのは必定だ。

それだけに「嵐」は凄絶だが、ティンパニのアタックは無機的だし、途中でガクンと遅くなるのもおかしい。

フルトヴェングラーならではの「田園」だが、やはり曲自体、これほどまでのドラマを必要としていないのだろう。

音質は、フルトヴェングラーの遺産のSACD化シリーズの中では、音質改善効果が極めて少ないと言えるが、既発売のCDと比較すると、若干は音質の向上効果は見られるところであり、フルトヴェングラーのドラマティックな名演を、不十分ながら、これまでよりは良好な音質で味わうことができることについては一定の評価をしておきたい。

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2015年04月18日


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2000年の2月に惜しまれつつ世を去ったベートーヴェンの解釈で高い評価を得ていた名ピアニスト、フリードリヒ・グルダが残したベートーヴェンのピアノ協奏曲全集で、鬼才と呼ばれたグルダの音楽性が光る名盤。

ウィーンに生まれ同地で音楽を学んだグルダは、若い頃からクラシックとジャズを混合したプログラムでリサイタルを行うなど個性的な活動を繰り広げ、鬼才の名を欲しいままにした名ピアニスト。

多彩な演奏スタイルを身につけたアーティストであったが、明快なタッチによる求心性と精神的なゆとりが同居しているベートーヴェンの演奏は、グルダの録音の中でも最も高い評価を獲得している1組。

グルダには、鬼才と称されるように個性的な演奏が多いが、初期の「第1」と「第2」では、自我を極力抑制し、ドイツ音楽ならではのシンフォニックでかつ正統派の演奏を聴かせてくれる。

重厚かつ力強い打鍵から軽快なリズム感、そして抒情的な箇所での繊細なタッチに至るまで、表現力の幅広さも特筆すべきものがある。

それに加えて、この当時のウィーン・フィルの音色の高貴な優美さは、筆舌には尽くし難い素晴らしさだ。

これら両者へのシュタインの合わせ方も実に巧みで、ベートーヴェン初期のピアノ協奏曲の名演の中でも上位にランクされる名演に仕上がっていると言っても過言ではないだろう。

≪運命≫交響曲と同じハ短調という調性を持ち、悲劇的なパトスに満ちた劇的な「第3」や優美な旋律と柔和な表現が忘れられない印象を残す「第4」だと、鬼才の名を欲しいままにしているグルダのこと、より個性的なアプローチをとるのかと思いきや、初期の2曲と同様に、あくまでも自我を抑え、オーソドックスな正統派のアプローチに終始している。

もちろん、だからと言って物足りないということは全くなく、強靭な打鍵から繊細なタッチまで、確かな技量をベースとしつつ表現力の幅は実に幅広く、「第3」と「第4」の性格の全く異なる両曲を的確な技巧と柔軟な感性で描き分けも見事に巧みに行っている。

ウィーン・フィルは、どんなに最強奏しても、決して美感を失うことはなく、どの箇所をとっても高貴な優美さを損なうことはない。

シュタインも重厚で巨匠風の堂々たる指揮ぶりで、これら独奏者、オーケストラ、指揮者の3者が揃った演奏は、過去の「第3」や「第4」の名演の中でも、上位にランキングされるものと思われる。

華麗で威風堂々としたスケールの大きな曲想がそのニックネームに相応しい名曲「皇帝」は、グルダ、ウィーン・フィル、そしてシュタインという素晴らしい組み合わせによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全集の有終の美を飾る堂々たる名演である。

グルダの基本的なアプローチは正統派のオーソドックスなもので、「第1」〜「第4」の場合とは特に変わりはない。

ただ、曲が「皇帝」だけに、全体に重厚かつ悠然とした自信に満ち溢れた演奏をしており、ウィーン・フィルの高貴かつ優美な演奏と、シュタインの巨匠風の堂々たる指揮が見事にマッチして、珠玉の名演に仕上がっている。

総じてグルダはベートーヴェンの音楽に思想の表現手段としての音楽以上の意味を持たせることには基本的に興味がないようであるが、ベートーヴェンを音楽として楽しむには、このグルダ盤は最高だ。

もったいぶった哲学的瞑想も、鯱張ったポーズもなく、ただ純粋な音楽的アプローチでベートーヴェンと向き合い、多彩な魅力を十全に引き出している。

音楽を超えたベートーヴェン像を求める向きにはなじまないだろうが、音楽としてベートーヴェンの魅力を存分に味わえる。

いつ聴いても新鮮、スリリング且つダイナミックで、退屈しない素晴らしい全集だ。

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2015年04月15日


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ピアノ、指揮者、オーケストラ、そして録音の4拍子が揃った稀有の名演である。

先ずは、リチャード・グードのピアノであるが、その微動だにしない堂々たるピアニズムを高く評価したい。

グードは今の時代を代表する偉大なピアニストの1人であり、特にベートーヴェンの作品を弾かせたら当代最高峰と言っても過言ではないだろう。

グードはベートーヴェンの演奏によって名声を築き上げたピアニストで、今回の録音はグードとベートーヴェン作品との長年にわたる関係の延長として生まれたものと言えよう。

グードが弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタは、コンサートでもディスクでも(グードはアメリカ出身ピアニストとして初めてベートーヴェンのソナタを全曲録音した)聴くたびに新しい発見がある。

そこには型にはまったマンネリ感が全くなく、音楽そのものと聴き手の間に自分自身を割り込ませようとする演奏家にありがちな尊大さがかけらも感じられない。

この"無私無欲"の才能は彼の師であるルドルフ・ゼルキンが体現していたのと同じものだ。

グードのピアノからは、まるで作曲家自身が鍵盤に向かい、たったいま頭に浮かんだばかりの楽想を表現しているかのように聴こえる。

峻厳たる造型の構築力にも秀でたものがあり、強靭な打鍵は地の底まで響かんばかりの圧巻の迫力がある。

スケールも雄大であり、その落ち着き払った威容には、風格さえ感じさせる。

他方、ピアノタッチは透明感溢れる美しさを誇っており、特に、各曲の緩徐楽章における抒情的なロマンティシズムの描出には抗し難い魅力を湛えている。

技量にも卓越したものがあるのだが、上手く弾いてやろうという小賢しさは薬にしたくも無く、1音1音に熱い情感がこもっており、技術偏重には決して陥っていない。

この風格豊かで、内容の濃いグードのピアノに対して、イヴァン・フィッシャーの指揮も一歩も譲っていない。

いわゆる古楽器奏法を行っているのだが、音楽は実に豊かに流れる。

強弱の絶妙な付け方といい、楽器の効果的な活かし方といい、フィッシャーの音楽性の豊かさや表現力の桁外れの幅の広さを大いに認識させられるところであり、これまでのベートーヴェンのピアノ協奏曲の演奏では聴かれなかったと言っても過言ではないほどの至高・至純の美しさを湛えている。

従来のピアノ協奏曲の録音だと、ピアノが主導権を握って指揮者&オーケストラは伴奏に徹するか、それとも、指揮者が大物であることもあって、ピアノがオーケストラの1つの楽器として埋没してしまうか、はたまた指揮者とピアニストが火花を散らし合ういわゆる競争曲になるケースが多いのだが、本盤の場合は、ピアノと指揮者&オーケストラが同格であり、両者が一体となって音楽を作り上げているのが素晴らしい。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集も数え切れないほど聴いてきたが、この演奏は最近聴いた中では最上のものと言っていいだろう。

ブダペスト祝祭管弦楽団も、フィッシャーの指揮の下、最高のパフォーマンスを示している。

録音はこれまた極上であり、グードのピアノタッチや、フィッシャー&ブタペスト祝祭管弦楽団の最美の演奏を鮮明な音質で味わえる点も高く評価したい。

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2015年04月03日


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1953年4月14日 ベルリン、ティタニア・パラストでのライヴ・レコーディング。

フルトヴェングラー晩年の、燃焼度抜群の名演で、オーケストラの力の入りようも尋常ではなく、強烈な印象を残す録音として名高いもの。

フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲第7番の演奏の録音は数多く遺されているが、一般的には1943年のベルリン・フィルとのライヴ録音と1950年のウィーン・フィルとのスタジオ録音が双璧の名演とされている。

いずれも数年前にオーパス蔵が素晴らしい復刻を行ったことから、両名演の優劣をつけるのが極めて困難な状況が続いていたところである。

しかしながら、一昨年1月、EMIが1950年盤をSACD化したことによって、きわめて鮮明な音質に生まれ変わったことから、おそらくは現在では1950年盤をより上位に置く聴き手の方が多数派を占めていると言えるのではないだろうか。

このような2強の一角を脅かす存在になりそうなのが、先般シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化という、現在望み得る最高の高音質化が図られた、本盤に収められた1953年のライヴ録音ということになる。

本演奏については、従来盤(DG)の音質はデッドで音場が全く広がらないという問題外の音質であったが、数年前にスペクトラムレーベルが比較的満足し得る復刻を行ったところだ。

しかしながら、ユニバーサルによる今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって、これまでとは次元が異なる高音質に生まれ変わったと言えるところであり、鮮明で解像度が高く、とても半世紀前の録音とは思えない。

ようやく本演奏の真価を味わうことが可能となるに至ったと言えるだろう。

第7番は1943年のライヴ録音のようなテンポの激しい動きは無いが、集中力と完成度の高い一気に聴かせる素晴らしい演奏である。

冒頭の和音からして崇高さを湛えており、その後は濃厚さの極みとも言うべき重厚な音楽が連続していくが、彫りの深さといい、情感の豊かさといい、これ以上の演奏は考えられないほどの高みに達した神々しさを湛えている。

終楽章の終結部に向けてのアッチェレランドを駆使した畳み掛けていくような力強さは、圧倒的な迫力を誇っている。

筆者としては、本SACD盤が登場しても、なお1950年盤の方をより上位に置きたいと考えてはいるが、本SACD盤は1950年盤に肉薄する超名演と評価するのにいささかも躊躇しない。

他方、交響曲第8番については、ストックホルム・フィルとの演奏(1948年)がEMIによって既にSACD化されているが、必ずしも音質改善が図られたとは言えなかっただけに、本盤の演奏の方が、音質面においても、そしてオーケストラ(ベルリン・フィル)の質においても、より上位を占めるに至ったと言っても過言ではあるまい。

第8番は、フルトヴェングラーが必ずしも得意とした交響曲ではなかったとされているが、このような高音質で聴くと、むしろ同曲を自己薬籠中のものとしていたのではないかとさえ思われるような熟達した名演を繰り広げていることがよく理解できるところだ。

モーツァルト的な演奏とは違う、まさにベートーヴェン的な情熱感のある演奏を繰り広げている。

いずれにしても、フルトヴェングラーによる至高の超名演を、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤という現在最高のパッケージメディアで味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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