トスカニーニ

2008年01月15日


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トスカニーニの代表盤のひとつである。

この1枚は、トスカニーニの、いかにもイタリア風に明晰なすっきりした感覚によって、レスピーギの目的を余すところなく発揮している。

ちなみに「ローマの松」は彼の手で初めて成功収めた作品であり、「ローマの祭り」は彼が初演を手掛けている。

「ローマ」3部作はトスカニーニが自家薬籠中のものとしていた作品だけに、極めつきの素晴らしい演奏だ。

色彩的で華麗な音色、新鮮な感覚、そして精緻で彫りの深い表現と、どの曲も自信に満ちあふれ、表情の美しさには完全に魅了されてしまう。

絵画的要素もはっきりしているし、表現に誇張がなく、流暢な演奏とはこのことである。

ことに「噴水」は優れた出来映えで、静動の比率が強い緊張感を呼び起こす。

「祭」は実に物凄い音響を録音することに成功したものである。一つ一つが手にとるように判然と浮かび上がって、まるで鏡に写しているように鮮やかである。

トスカニーニはこれまで残響を嫌ってほとんど録音に取り入れなかったが、この録音ではほどよく残響効果も生かしているので、いっそう幅とボリュームが加わって、壮麗な演奏を彷彿とさせる。

これはまさに至高の芸術といえよう。確かに会心の録音である。

特に「アッピア街道の松」「チェルチェンセス」「主顕際」は絶品だ。

モノーラルだが音質は良い。

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2008年01月14日


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いまさら何も語るほどのないほど、あらゆる賛辞が寄せられた名盤の集成である。

これらの演奏は今やヴェルディ解釈の規範とも呼ぶべき絶対的な高みに到達し得たものであり、その完璧な様式美の凝集性、内面を流れる情熱、繊細さにあふれたカンタービレの美しさは不滅の生命を保っている。

特に「ファルスタッフ」と「レクイエム」の素晴らしさは、あらゆる賛辞を呈しても不十分なほどである。

トスカニーニのヴェルディの骨格には、どの指揮者も到達し得ないような、冒し難い骨格が具わっている。

現在のどの指揮者も工夫を凝らす《演出》の巧みな設計、デュナーミクの振幅、テンポの緩急などの遠近は、最小限度に抑えられている。

特筆すべきは合唱団で、ことに「レクイエム」におけるロバート・ショウ合唱団は1音符の乱れもなく、素晴らしい情熱で歌い切っている。

「椿姫」は随所にトスカニーニならではの、厳しくも美しいドラマの真実を聴くことができる。

歌手はアルバネーゼの歌唱スタイルと発声の古さは気になるが、メリルの若々しい美声の柔軟でスタイリッシュな歌唱は、今でも全く輝きを失っていない。

ピアースも一応の水準に達している。

歌手の技量のばらつき、オケの粗さはあるものの、「椿姫」の演奏史におけるこの盤の存在価値は依然として高い。

「アイーダ」でもトスカニーニの表現のすばらしさには驚嘆せずにはいられない。

ここに示された美と力、表現の密度、劇的な効果の的確さは、他の追随を許さぬ高さにある。

トスカニーニのオペラ演奏の場合、歌手の出来ばえは単に普通の尺度だけでは計ることができないのだが、ここではまず充実した歌といっていい。

聳え立つ造形の大きさ、圧倒的迫力を伴って押し進む音楽の奔流、その中に満ち満ちた豊かな情緒によって、トスカニーニの「オテロ」は他に類を見ない大きな感動を与えてくれる。

特に様式美にあふれた生き生きとした音楽運びは、他のどの録音からも聴くことのできない素晴らしさだ。

歌手も当時最高の顔ぶれで、ヴィナイの力強い声と集中力に満ちた感情移入による歌唱と、ヴァルテンゴの絶妙な役作りは忘れ難い。

「仮面舞踏会」はトスカニーニの最後のオペラ全曲録音。

トスカニーニの厳しい造形性、様式美の凝縮された美しさ、そして内面にみなぎる情熱が大きな感動を与える。

アメリア役のネッリ、ウルリカ役のターナー、リッカルド役のピアースといった、トスカニーニ晩年の手兵をはじめ、レナート役の若きメリルや脇役に至るまで、歌手陣も全身全霊を込めて、ヴェルディの精神を具現するトスカニーニの音楽に奉仕している。

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2007年12月01日


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ここで、そのことと結びつけて考えないではいられないのが、トスカニーニとフルトヴェングラーの演奏様式の違いである。

トスカニーニの芸術は「伝統とはだらしないことの別称だ」というモットーを根底においた。

曖昧な伝統的解釈を捨ててスコアへの忠誠を誓った厳格なイン・テンポでカンタービレするスタイルは、世界中どこでも聴衆を納得させる客観性をもつといった革命的な演奏様式だった。

このようなトスカニーニの演奏をフルトヴェングラーは「無慈悲なまでの透明さ」と評し、また「私が感じているようなベートーヴェンの『第9』の音と、例えばトスカニーニのベートーヴェンの違いを、中部ヨーロッパ以外の国で、一体誰が分かってくれるだろう。」と述懐していた。

だから、フルトヴェングラーはドイツを離れることができなかった。

彼の音楽はドイツの音楽家と共演し、ドイツの聴衆との交流において最も見事に結実した。その聴衆、すなわち彼のいう「公衆」のいるところが、彼の故郷であると同時に、彼の存在理由だったのだ。

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2007年11月30日


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「芸術と政治とは何の関係もないと、人びとは口癖のように言う。何と間違った考えだろう。芸術も政治も、真空では存在できないということがわかっていないのです。双方とも働きかける人間が必要です。公衆が必要です。

音楽は何よりも共有体験でなければならない。公衆のない音楽とは、存在不能でしょう。音楽は、聴衆と芸術家との間にある流動体です。音楽は、構築物でも、抽象的発展でもなく、生きた人間の間に浮動する要素です。そしてこの運動により意味をもつのです。」

とフルトヴェングラーはリースに語っている。

この彼の言葉と、彼のトスカニーニに対する返事とが矛盾するのかしないのか、トスカニーニは矛盾していると考え、フルトヴェングラーは矛盾しないと考えていた。


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2007年11月29日


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それゆえ、ドイツ人にとっては政治、つまり便益の世界で自分たちの意にそぐわないことが起こっていても、それが自らの精神、文化の世界に侵入し、冒してきさえしなければ、それを見逃すか、政治的不可避の悪として許容される。

だから世界に誇る頭脳と教養の士、知識人と芸術家のいたドイツで短期間に、しかもきわめて低級で野蛮な手段でナチスが政権を奪取できたのである。

フルトヴェングラーもドイツ人の例にもれず、政治がどれほどデモーニッシュな権力を持ちうるかということに対して全く気がつかなかったのである。

これに対し、イタリアのルネサンスとヒューマニズムの伝統のもとに育ったトスカニーニは、それをいちはやく見通した。それだけでなく、全力をつくして抵抗し、自らの行動がファッショのもとでは許されないとなると即座にアメリカに出て行った。

フルトヴェングラーの二重で、他者からみると理解に苦しむ曖昧な態度は、連合国すなわち、イギリス、フランス、オランダなどでなら、許される余地があったのかもしれない。

だが現実的にはナチス・ドイツには、トスカニーニがフルトヴェングラーに言った通り、精神の自由などあるはずもなく、権力の奴隷にされた国民の塊しかなかった。

フルトヴェングラーは世界の多くの人々がナチに奴隷化された国で指揮棒をとるものは許されないと考えていて、友人の多くでさえ、なぜ彼がドイツに留まるのかを理解できないでいることを承知していた。

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2007年11月28日


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リースはこれに続けて、自分の見解をこう付け加えている。

「大切なのは、ここでは主観的見解の違いだけが問題なのであって、どちらが実際に正しかったかは別問題だということは忘れないことだ。実際において正しかったのは、もちろん、トスカニーニであった。そしてそののち数年間にわたり、彼の正しさを証明することとなった。なぜなら、独裁政治の内部には現実を超越した自由などありえないのだから。しかし、より高い意味で、いや最高の意味でどちらが正しかったかということについて、果たして疑問の余地があっただろうか?フルトヴェングラーは、実際に自由でいることのできなかった独裁の中にあってさえ、自己の自由を感じることができたのである。なぜなら、彼の真実の世界、内面の世界には、ヒトラーもいなければ、ムッソリーニもいなかったのだから。」




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2007年11月27日


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「『すると、あなたは、芸術というものはたまたま政権を握った政府のための宣伝、つまりそのかぎりのものにすぎないとおっしゃるのですね。ナチの政府が勢力を占めれば、私は指揮者としてもやはりナチであり、共産主義の下では共産主義者、デモクラシーの下では民主主義者とはるのですか?いいえ、絶対にそうではありません!芸術は、これらのものとは別の世界に存在するものです。それはあらゆる政治的偶発的な出来事の彼岸にあるのではないでしょうか。』

トスカニーニは再び頭をふって答えた。『私はそう考えません。』これで話合いは終わった。」

以上が、フルトヴェングラー側から出た情報によるその日の模様である。

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「これに対し、トスカニーニはまったく冷たい返答をかえした。

『御挨拶をそっくりおかえし申したいところです。私は、自由な考えをもつすべての人間を迫害する恐ろしいシステムに甘んじられるような者が、ベートーヴェンをまっとうに演奏できるものではないとつねづね考えています。あなた方ナチスの人びとは、精神の自由な表明を全部おさえつけ、許したものといえば、力のゆがめられたリズムと、これ見よがしのお芝居だったではありませんか。「第9」は同胞愛のシンフォニーであることを考えてください。「百万の友よ、相抱いて」の言葉を書きおろしたのも、この言葉を音楽にしたのもドイツ人であったことを忘れないで下さい。この人類に向かっての力強い呼びかけを本当に指揮した人なら、どうしてナチスであることに甘んじておれやましょうか。今日の情勢下で、奴隷化された国と自由な国の両方で同時にタクトをとることは芸術家にとり許されません。』と言ったというのである。

これに対しフルトヴェングラーは『もしそうすることによってあなたがザルツブルグ音楽祭のための活動を続けて下さるなら、私は喜んでもう二度とここへ来ないつもりです。しかし私自身は、音楽家にとっては自由な国も奴隷化された国もないと考えています。ヴァーグナーやベートーヴェンが演奏される場所では、人間はいたるところで自由です。もしそうでないとしても、これらの音楽を聴くことによって自由な人間になれるでしょう。音楽はゲシュタポも何ら手出しできない広野へと人間を連れ出してくれるのですから。偉大な音楽は、ナチの無思慮と非情とに対し、真向から対立するものですから、むしろ私はそれによってヒトラーの敵になるのではないでしょうか。』

トスカニーニは頭をふって、『第三帝国で指揮するものはすべてナチです!』(続く)」

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2007年11月26日


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前述したようにフルトヴェングラーのこの間の行動は、抵抗する「国内亡命」といえるか、それとも政治的無知として断罪されるべきかは、高度な政治問題である。

この点について、リースの本の中でフルトヴェングラーが戦争勃発寸前の1937年の夏、ザルツブルグ音楽祭でトスカニーニとであったくだりにお互いの思想をぶつけあった記述がある。

リースによれば、この時二人が対面して交わした話には、幾通りかの記述があるのだが、その中で私に最も真実らしく考えられる一節が次に述べる通りである。

「フルトヴェングラーが数回の客演演奏会のためにザルツブルグにやって来た時、彼は同僚たちから暖かく迎えられた。ただトスカニーニのみは、彼がナチ政府の代表者であることに我慢ができず会うことを避けた。この二人が、よぎない事情で顔を合わせることになった時、フルトヴェングラーがトスカニーニに、彼の『ニュルンベルクの名歌手』の素晴らしい演奏を心からほめたたえた。(続く)」


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2007年11月12日


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ゲルマン芸術が、まず何よりも理念、観念の芸術(あるいは哲学的芸術)であるのは、ロマン派以降の大きな特徴であるが、それを具現するために音楽家が行う和声的処理は、音楽の微妙な変化やそれに伴ういわゆる「アウフヘーベン(止揚)された音」を生み出す。

その結果、伝統的なゲルマン的表現様式は、まるで「アゴーギグの音楽」とでも呼ぶべき様相を呈するのである。これはイタリアの「イン・テンポ(テンポを動かさないで旋律を豊かに歌いあげること。イタリア・オペラで用いられる)とコル・カント(歌に合わせて)の音」とは対極をなす音楽語法であった。

フルトヴェングラーとトスカニーニの語法の差は、すなわちゲルマンとイタリアの差であったわけである。ここで問題とすべきは、この二人の巨匠の登場と相前後して、この二つの対極化した語法のクロス・オーヴァー化が始まったのである。

イタリア・オペラ(特にヴェルディ以前のワーグナーに「汚染」される前のイタリア・オペラの世界)が、確固たる様式美を保っていたのに対して、ドイツ音楽は伝統的語法に様々な異なる要素を導入しつつ変化してきた。

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2007年10月25日


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現在の演奏家はもはやそれを解しない。

トスカニーニの革新は、今ではもはや常識なのであって、フルトヴェングラーの「心的出来事の追認」というロマン的解釈もまた予備知識として彼らの頭の中にインプットされている。実際にはそれらのいずれもが「止揚」されたのである。

その上に今の世のクールなスマートさを付け加え、表面の美麗な感覚面を追い求めがちである。それには20世紀後半の卓越した技術が裏付けとなる。

また生演奏を主体とする演奏様式もフルトヴェングラーの時代の特徴の一つである。フルトヴェングラーの効果は、ライヴ演奏の場合により効果的であり、繰り返しの聴取に耐えないものではないが、自宅で冷静に聴くには若干しつこすぎる面もある。

グレン・グールドが演奏旅行から帰った時に、「その演奏はあらゆる種類のダイナミックでいっぱいだった。」というようにライヴの大ステージではどうしても表現が大味になってしまう。表情たっぷりのデュナーミクとかルバートその他はステージ向きの習慣である。

ありとあらゆる恣意的な工夫が廃れた原因に、録音の普及がないとはいえない。


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2007年10月24日


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過ぎ去ってみれば、表現主義と新即物主義の違いは、スタイルの差であって、個人的な感情の表出であれ、写実的な記述であれ、主眼とされているものは「人間」に変わりないのである。

ロマン主義者メンゲルベルクの録音に聴くことができるような、テンポを自由に伸び縮みさせることが横行していた当時の人々には、トスカニーニは頓狂に聴こえただろうが、残念ながら今の私にはその驚きをあまり共有することはできない。

時代はもっとドライな方向へ行ってしまったので、「全体への意志」の権化フルトヴェングラーと正確さを訓示する「怒れる針鼠」トスカニーニも、その熱情を希求する姿勢において同じにみえるのである。

フルトヴェングラーが「偉大さとは魂のうちにある」と発言するのは当然として、新即物主義の傾向を支持していた指揮者のワインガルトナーでさえ「情熱なしには天才的な業績はありえない」と著書に述べているのである。

熱情的なスタイルは当時の演奏習慣であったに違いなく、この習慣は作曲家が完璧に仕上げ、楽譜を指揮者の意志によって随意に再解釈しなければ気がすまないほど強いものであった。


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2007年10月23日


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フルトヴェングラーは一般に主観的な指揮者の代表にされている。その対極にあるのがトスカニーニということになっているが、今現在の耳で聴くなら、この二人の違いはそれほど大きくはない。

指揮に対するトスカニーニの姿勢はスコアを見ながら聴けばわかるが、彼の信奉者たちが考えるよりはアメリカ流にプラグマティックなところがあった。

今世紀の初めに、ロマン的な演奏家たちの解釈の誇張と曲解にうんざりしたストラヴィンスキーなどが「ただ楽譜通りに弾いてくれればよいので、何も付け加える必要はない。」といった、演奏家にとってはできそうでできない非プラグマティックな見当違いも含んだ作曲家の側からの発言と、トスカニーニの客観主義とを同一視できないのである。

トスカニーニの客観主義は、彼が育ったイタリアの演奏芸術のいささか見かけ倒しな伝統への自然な反応として培われたもので、彼の例が作曲家の意図の尊重という近代的精神を助長したまではよかったのだが、今度はそれが彼のライバルだったフルトヴェングラーなどとことさらに対比させて、一方は主観的で我の強い解釈であり、それに対してトスカニーニの方は、客観的で樂曲に忠実な解釈という神話を作り上げてしまった。


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2007年10月18日


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過去300年をこえるヨーロッパ音楽、つまりクラシック音楽は、その中枢のヨーロッパ大陸ですら黄昏を迎えつつあるかに見えるのが現状である。

そこで物故した大指揮者の遺した名演奏を聴いて、その芸風に感動し、そのドイツ的精神性(フルトヴェングラー)や、完璧な統制による音楽の充実感と歌謡性(トスカニーニ)を感じ取ることは、音楽体験のかなり重要な部分である。

しかし、彼らと同時代に生きた人間でさえ驚く「極東」でのフルトヴェングラー受容はほとんど神がかりに近い。

貧弱というもおろかな放送録音をもとにしたCDでその巨匠性を云々したり、数種どころか十数種を越えるベートーヴェンの「第5」交響曲を比較検討し、返す力で「現代の指揮者はまだ子供」などとやるのは、趣味の世界の話とはいえ、あまり良い「趣味」とはいえない。

他の指揮者であることが証明されている録音(「新世界より」等)が発売されるというのも破廉恥行為であった。

神話や作り話が多いことは、巨匠性の証明でもあるが、再考の余地はまだ残されている。


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2007年10月08日


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今日では作曲を音楽に於ける最も重要な営為であるとみなし、スコアに忠実であることを演奏の基本要件とする傾向が強い。しかし演奏自体も一つの芸術行為である以上、そこに演奏者の個性も現れなければ真の演奏芸術とはなりえない。これら二つは一見相容れぬようにみえるが、決してそうではない。

普通、演奏に際して唯一の手ががりとなるのはスコアであるが、それはあくまでも手がかりにすぎず、真の音楽はその奥にこそ存在しているといえる。つまり、客観的と思われるような解釈でも、スコアの奥に隠されている作曲者の真の意図を探り当てる(または抉り出す)主観的な作業が必要なのである。

主観的なフルトヴェングラーの好敵手で、客観的と評されていたアルトゥーロ・トスカニーニには「愛」「情熱」「正義」「歌」などを信条に作曲者の忠実なる僕と化していながらも、フルヴェンとトスカニーニの両者の質の差異は今日の我々の耳からすると実は大きくなく、今現在から振り返って聴いてみると、実は演奏スタイルの違いだけが歴然としているのだと私には聴こえてくる。客観主義の権化とみなされたトスカニーニも実はそれだけではないことが、スコアを見ながら「運命」を聴くとよくわかる(一目瞭然!)。

それに対し、客観的といわれるトスカニーニの外見だけ真似ている現代の演奏家は、作曲家が音によって繰り広げる内的世界を探る作業の質に問題があるように思える。おそらく作品への忠実を意識しているためであろうが、えてして無味乾燥な演奏が増えてしまった。

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2007年09月29日


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アルトゥーロ・トスカニーニ(1867〜1957)

1867年イタリアに生まれる。イタリア各地のオペラ座で名を上げ、ミラノ・スカラ座を中心に活動、さらにアメリカへも足を伸ばし、メトロポリタン歌劇場やニューヨーク・フィルの指揮台に立った。また1930年後半からはNBC交響楽団を指揮し、レコーディングを行ない85歳まで活躍。1957年没、享年89歳。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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