カラヤン

2022年08月02日


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プロコフィエフの交響曲は、初期の数作を除き、番号で呼ばれているものだけをとっても7曲ある。

それらの中でいわば頂点をなす作品が、1944年に完成された第5番であることは、大方の人々が認めるところであろう。

現在では、この作品についてもかなりの数にのぼる録音があり、定評あるものもいくつかある。

作曲から24年も後にカラヤンとベルリン・フィルとによって収録されたこの演奏は、オーケストラも最も好ましい時代にあったものである。

カラヤンも、いわば聴かせ上手という以上にこの作品の真価を強く印象づけるような自信に満ちたアプローチをみせている。

カラヤンは1968年という彼の最も輝かしい時代にこの交響曲を録音している。

カラヤン60歳、ベルリン・フィルとの関係も最良の状況にあり、このコンビは世界のオーケストラの頂点に君臨する地位と名誉を謳歌していたが、そんな時期の演奏は鳴り響く音それ自体に風格と威厳をたたえた厳かさがある。

それは現代の耳には時に威圧的に感じられなくもないが、プロコフィエフの傑作がしかるべきサウンドと技術とアンサンブルで再現されたカラヤンの演奏は、名演のモデルのようであり、作品の全貌と聴き手を向き合わせてくれる。

確かにロシア的重厚さ、土の匂い、汗の力強さとは異なるが、重厚な低音を背景に雄大なる音の光景が築き上げられていく演奏は圧巻である。

ことに第3楽章から終楽章にかけての運びの巧さと表現の密度の濃さに驚かされる。

そのスケールの大きい表現には、高度の造型性と深い内容が溢れている。

その後、ベートーヴェンやブラームス、チャイコフスキーの交響曲は何度でも録音を繰り返してきたカラヤンだが、このプロコフィエフは1回きりで終わっている。

完全満足の成果と言っても間違いではないだろう。

カップリングされた《古典交響曲》は入念な仕上げでベルリン・フィルのヴィルトゥオーゾぶりを充分に発揮させた演奏。

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2022年07月28日


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ザルツブルクを支配したカラヤンが、伝説になるべくしてなったのが、この《ばらの騎士》だった。

舞台は映画化され、その映画は世界中で上映されたし、もちろん日本でも。

いまなら当然だが、1960年代はそうではなかった。

実際の舞台を収録したライヴ、というより、夢の彼方の映画だった。

だが、伝説の名舞台も、さすがに影が薄くなっている。

絶え間なく時は流れて半世紀以上経った。

元帥夫人の老いを、誰も止めようがない。

62年という歳月は、《ばらの騎士》というオペラにとって、決して短い歳月ではなかった。

いまなお、「シュヴァルツコップの元帥夫人」の神話は生きているけれど、シュヴァルツコップ的な歌唱はもう過去のものとなりかけている。

《ばらの騎士》というオペラも、コメディにしては涙の量が多いものに変わってきている。

残された映像や録音によって、時の変化がまざまざとうかがえる。

第1幕の幕切れで元帥夫人が見る鏡のように……。

「時」が《ばらの騎士》の主役になったのも、初めはシュヴァルツコップの元帥夫人だったのかもしれない。

映画で知る限り、まだこの上演で元帥夫人は、年齢や色香の衰えを悲しみ、受け入れている。

でもその深いため息に、過ぎゆく時を前にした人間の悲しみへと昇華する兆しを、私たちは聴きとることができる。

1960年の美しい《ばらの騎士》は、コメディーであり、ドイツ的歌唱によって与えられていることによって、過去に属していた。

しかし、同時にこの《ばらの騎士》は、未来でもあったのだ。

「時」のなんという不思議! そして時のオペラ《ばらの騎士》の、なんという不思議!

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2022年07月19日


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正規では4種類あるカラヤンの幻想交響曲のうち演奏・録音含めベストと言えるのがこの1964年盤。

当時の重厚なベルリン・フィルと意欲漲るカラヤンが聴かせる、美しく、迫力満点の幻想交響曲だ。

カラヤンはこの交響曲を作曲者ベルリオーズ自身が付記しているように、失恋体験を告白することを意図した標題音楽として忠実に再現している。

そして、ベルリオーズが意図的に演出しようとしたサイケディックさを極上の美しさをもって幻想的に仕上げている。

特に筆者にとっては第1楽章の「夢、情熱」が白眉である。

むせ返るような、やるせない恋の感情を、弦楽器群と木管楽器群の見事なアンサンブルで表現している。

そして、颯爽としたテンポと大地を揺るがす巨大なトゥッティに思わず痺れる。

教会の豊かな残響を伴ったカラヤン・サウンドは極上で、第2楽章など本当に言葉にならないくらい美しい。

どちらかと言えば毒々しい狂気的な印象がある曲だが、カラヤンは「断頭台への行進」や「ワルプルギスの饗宴」までも美しく、そして上品に創り上げている。

そして最後の最後まで張り詰めた緊張の糸が途切れず、一気にクライマックスを作り上げるところはカラヤンならではの構成である。

終楽章コーダのティンパニと大太鼓の凄まじい重低音に導かれ炸裂するベルリン・フィルのフルパワーは圧巻。

さすがにカラヤン&ベルリン・フィルにこの手の楽曲を演奏させると上手い。

とにかく、美しさではこの盤の右に出る演奏にはお目にかかっていない。

録音も力感&スケール感不足の新盤に比べ重厚感あり、リアルで良い。

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2022年06月06日


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ベートーヴェンを演奏して最高の巨匠であったウィルヘルム・バックハウスは、また、ブラームスでも比類のないピアニズムを示して、技巧は豪快、深い精神美とストイックな抒情性で、独特の威厳を感じさせる名演を聴かせた。

ことにブラームスの2曲のピアノ協奏曲は、バックハウスが生涯を通じて愛奏した作品であった。

とりわけピアノ協奏曲第2番は1903年という19歳の時、ハンス・リヒターの指揮で初の公開演奏して以来お得意の曲で、1954年春、初めて(そして最後の)来日した時にも東京交響楽団の定期演奏会(1954年4月12日)に上田仁の指揮により弾いている。

さらに、最後のザルツブルク音楽祭となった1968年夏のベーム指揮、ウィーン・フィル演奏会(1968年8月18日)と、同じ顔合わせによるバックハウス最後の協奏曲録音(1967年4月、ウィーン・ゾフィエンザール)でも、ブラームスの第2番がとりあげられた。

そしてこのベームとは、遥かSPレコード時代の昔にも、ザクセン国立管弦楽団の共演で《第2》をレコーディングしているのである。

いわば、ブラームスのピアノ協奏曲第2番こそ、大ピアニスト、バックハウスの名刺代わりの名曲に他ならなかった。

バックハウスを古くから聴いてきたファンの1人として思うのだが、SPとモノーラル録音のLP、そしてステレオと、前後3回にわたるブラームスの《第2》のバックハウスを聴くと、どれもベストの出来とは言えない。

筆者としては、1953年にウィーンのムジークフェラインザールでライヴ録音された、クレメンス・クラウス&ウィーン・フィルと共演した海賊盤が最上の出来映えだと思う。

しかし歳をとっても技巧の衰えや造型力の弱まりを見せなかったバックハウスだけに、1964年の時点は円熟期と言って良かったし、指揮のカラヤンもまた、端正で気品と格調の高さを感じさせる表現が円熟の極みに達して、ベルリン・フィルから至高のブラームスの響きを導き出している。

それは、この《第2》でのオーケストラの出来映えが、ベルリン・フィルとしても最高の水準を聴かせてくれることによる。

第1楽章、柔らかいホルンの呼び声に応じて出現するピアノの、穏やかだが精神力の込められた含蓄の深い演奏の何という雰囲気か。

木管につづくピアノのカデンツァで、次第に力感を凝集させる左手の低音、ブラームスの音楽のファンダメンタルは、この低音の雄弁さによって支えられる。

管弦楽の第1、第2主題提示の、どこか明るい響きの陰翳こそ、カラヤンの表現のすばらしい聴きどころだろう。

管弦楽のシンフォニックな構成に包まれて、バックハウスのピアノは曲が進むにつれて光彩と迫力を増し、情感のふくよかさ、技巧の切れ味で圧倒的なクライマックスを作り出す。

第2楽章スケルツォをリードするピアノの厳しい表情と弦の優美な主題の見事な対比、スタッカート主題で始まる中間部の管弦楽の彫りの深さに、オクターヴをppで奏するピアノが反応する個所のバックハウス。

第3楽章でチェロ独奏が歌って行くロマンティックな旋律は、ブラームス・ファンの愛惜してやまぬ情緒の美しさだが、それを装飾するかのごとく弾くピアノの控えめな表情、軽やかなタッチ、内省的で、まさに絶妙なピアノとベルリン・フィルの弦が呼応する。

第4楽章では、バックハウスの力量と音楽性がさらに圧倒的な凝集力を見せ、カラヤンの指揮のきりりと引き締まったリズム感と厳しいダイナミックスは、いっそうの直截さでピアノと手を結ぶ。

1964年という録音年代にしては、管弦楽の自然な響きで捉えられ、バックハウスのピアノも力強さと柔らかいニュアンスももって再生され、古いけれど鑑賞に堪え得る音質である。

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2022年05月02日


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本盤に収められた演奏は、マーラーの「第9」演奏史上最も美しい演奏であるだけでなく、カラヤン&ベルリン・フィルが成し遂げた数々の名演の中でも究極の美を誇る至高の超名演と高く評価したい。

カラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代というのは1960年代及び1970年代というのが大方の見方だ。

1982年末になると、ザビーネ・マイヤー事件が勃発し、カラヤンとベルリン・フィルの関係が修復不可能になるまで悪化するが、それ以前の全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏はそれは凄いものであった。

一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、ブリリアントな金管楽器による朗々たる響き、桁外れのテクニックを披露する木管楽器、雷鳴のように轟くティンパニなどを展開するベルリン・フィルをカラヤンは卓越した統率力で纏め上げ、流麗なレガートを駆使して楽曲を徹底的に美しく磨きあげた。

そうして生み出された演奏は、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべきものであり、かかる演奏に対しては、とある影響力のある某音楽評論家などは精神的な内容の浅薄さを批判しているが、それを一喝するだけの圧倒的な音のドラマの構築に成功していた。

本演奏は、前述のザビーネ・マイヤー事件が勃発する直前にライヴ録音されたものであり、カラヤン&ベルリン・フィルが構築し得た最高の音のドラマがここにあると言えるだろう。

スタジオ録音に固執しライヴ録音を拒否してきたカラヤンが、本演奏の3年前にスタジオ録音した同曲の演奏(1979年)を、当該演奏も完成度が高い名演であるにもかかわらず、本ライヴ盤に差し替えたというのは、カラヤン自身としても本演奏を特別視していた証左であると考えられる。

マーラーの「第9」には、バーンスタイン&コンセルトヘボウ盤(1985年)やワルター&ウィーン・フィル盤(1938年)といった、マーラーが同曲に込めた死への恐怖と闘いや生への妄執や憧憬を音化したドラマティックな名演があり、我々聴き手の肺腑を打つのはこれらドラマティックな名演である。

これに対して、カラヤンによる本演奏は、それらのドラマティックな名演とはあらゆる意味で対極にある演奏であり、ここには前述のような人間のドラマはいささかもなく、純音楽的な絶対美だけが存在している。

しかしながら、その圧倒的な究極の音のドラマは、他の指揮者が束になっても構築不可能であるだけでなく、クラシック音楽史上最大のレコーディング・アーティストであったカラヤンとしても、晩年になって漸く構築し得た高峰の高みに聳えた崇高な音楽と言えるところであり、バーンスタイン盤などの名演との優劣は容易にはつけられないものと考える。

その意味で、筆者としては改めて本盤を、カラヤン&ベルリン・フィルによる究極の到達点として高く評価したい。

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2022年05月01日


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広範なレパートリーを誇るとともに、余人を寄せ付けないような膨大な録音を遺したカラヤンであったが、マーラーの交響曲については、必ずしも主要なレパートリーとしては位置づけていなかったようだ。

カラヤンが録音したマーラーの交響曲は、第4番、第5番、第6番、第9番、そして「大地の歌」の5曲のみであり、これに少数の歌曲が加わるのみである。

同時代の大作曲家であるブルックナーの交響曲全集を録音した指揮者にしてはあまりにも少ない。

むしろ、クラシック音楽ファンの中には、カラヤンの指揮するマーラーの交響曲全集を聴きたかったと思っている人も多いのではないだろうか。

生涯で唯一バーンスタインがベルリン・フィルを振った、あの"事件"(1979年10月)のすぐ後に、同演目で録音されたのが、本盤である。

録音は翌年の9月まで実に3回にも及び、あたかも強烈なバーンスタインの臭気を一掃し、自らの美学を徹底させるような入念さを印象づける。

とどめはライヴによる再録音(82年)!

こうした同作品へのこだわり(対抗意識?)を反映してか、演奏はまさにバーンスタインとは対極にあり、カラヤンは、きわめて純粋な音の建造物を作っている。

デュナーミクの振幅と表情が大きく、巨匠的で、しかも尖鋭である。

演奏としてはこの上なく磨かれているのだが、意外に共感に乏しい感がある。

したがってバーンスタイン盤こそドラマティックな超名演として第一に掲げるべきであろうが、本盤のカラヤンによる演奏は、それらの演奏とは一線を画する性格を有している。

何よりも、当時蜜月の関係にあったカラヤン&ベルリン・フィルが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な名演奏を展開しているのが素晴らしい。

唸りをあげるような低弦の迫力、雷鳴のように轟きわたるティンパニ、ブリリアントに響き渡るブラスセクションなど、凄まじいまでの迫力を誇っている。

一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルは、もはや人間業とは思えないような凄さであり、加えて、カラヤンならではの流麗なレガートが演奏全体に艶やかとも言うべき独特の美しさを付加させているのを忘れてはならない

もちろん、そうした美しさが、前述のバーンスタインなどの名演にあった強靭な迫力をいささか弱めてしまっているというきらいもないわけではない。

他方、終楽章における徹底して磨き抜かれた耽美的とも言うべき極上の美しさには抗し難い魅力が満ち溢れている。

我々聴き手の肺腑を打つ演奏と言えば、前述のバーンスタインなどの名演を掲げるべきであろうが、聴き終えた後の充足感においては、本演奏もいささかも引けを取っていない。

筆者としては、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルならではの磨き抜かれた美しさの極みとも言うべき素晴らしい名演と高く評価したい。

常にオーケストラの豊麗さを保ちながら、精緻な造型を鮮明に浮かび上がらせるのみならず、マーラーの毒やアクをきれいさっぱり洗い流し、何か天上的な至福に満ちた世界を描き出すようだ。

美しすぎるマーラーだ。

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2022年04月28日


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カラヤンの生誕100周年を契機に、様々なライヴの名演盤が発掘されてきたが、本盤も、カラヤンがライヴの人であることを証明する素晴らしい名演だ。

近年発売された様々な伝記でも明らかにされているが、カラヤンは、スタジオ録音とコンサートを別ものと捉えていた。

そして、コンサートに足を運んでくれる聴者を特別の人と尊重しており、ライヴでこそ真価を発揮する指揮者だったことを忘れてはならない。

本ライヴ盤(1950年)の異常な緊張は、ミサ曲ロ短調の録音史上で空前のものと言え、楽員と一体になっての音楽の高揚は、時に魂が張り裂けんばかりの悲痛さを伴って、恐怖に近い感動を覚える。

カラヤンは若い頃から、バッハに情熱を燃やし続けてきた人で、彼の演奏は、バッハに対する深い敬愛の念が込められている。

この演奏も、曲の核心に鋭く切り込んだもので、ひとつひとつの音に精魂を込めながら、一分の隙もなくまとめあげている。

カラヤンは豪華歌手陣とウィーン交響楽団、ウィーン楽友協会合唱団の実力を充分に発揮させ、精緻を極めた構成力と、じっくりと腰を据え、各部を入念に仕上げている。

この戦後の音楽界に君臨した巨人は、あたかも高度成長時代の申し子のように思われがちだが、この演奏は、いまコロナ禍と戦禍に見舞われている人たちに、第二次世界大戦を生き抜いてきた時代がどれほど苦渋に満ちたものであったかを伝える貴重なドキュメントだ。

戦後やっと5年たっての演奏で、彼がまだナチの後遺症を引きずっていた時期にあたる。

そのせいか、このミサ曲ロ短調を通して自己の魂のありようを検証しようとする、きびしい自己省察が聴きとれる。

当時のカラヤンに戦争への深刻な反省と鎮魂の気持ちがあったのだろう。

このライヴ録音は奥行きの深いひびきに満ち、死と向き合い、生の意味を問うきびしい精神性をベースに、イエス・キリストに思いを馳せる敬虔な祈りとやさしい慰撫をひびかせている。

その展開が自然でスケールが大きく、しかも全体のバランスは申し分ない。

謙虚でありながら、きわめて気高い姿勢に貫かれ、入魂の業を示し、それは独唱・合唱にも感染している。

特にフェリアーの歌う〈神の子羊〉に漲る宗教的な情感の深さは稀有のものだ。

フェリアーの歌は、最初の数小節を聴いただけで、人間の素晴らしさを感じさせ、人間であることの意味を悟らせてくれる。

人の高貴さ、優しさを、このように歌い出してくる声楽家は、もう私達の前に二度と現われることはないだろう。

いくら讃えても讃え切れないこの演奏が、今後とも、人類のかけがえのない遺産として受け継がれていくよう願わずにはいられない。

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2022年04月04日


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カラヤンの生誕100周年を契機に、様々なライヴの名演盤が発掘されてきたが、本盤も、カラヤンがライヴの人であることを証明する素晴らしい名演だ。

近年発売された様々な伝記でも明らかにされているが、カラヤンは、スタジオ録音とコンサートを別ものと捉えていた。

そして、コンサートに足を運んでくれる聴者を特別の人と尊重しており、ライヴでこそ真価を発揮する指揮者だったことを忘れてはならない。

本ライヴ盤(1950年)の異常な緊張は、マタイ受難曲の録音史上で空前のものと言え、楽員と一体になっての音楽の高揚は、時に魂が張り裂けんばかりの悲痛さを伴って、恐怖に近い感動を覚える。

カラヤンは若い頃から、バッハに情熱を燃やし続けてきた人で、彼の演奏は、バッハに対する深い敬愛の念が込められている。

この演奏も、曲の核心に鋭く切り込んだもので、ひとつひとつの音に精魂を込めながら、一分の隙もなくまとめあげている。

カラヤンは豪華歌手陣とウィーン交響楽団、ウィーン楽友協会合唱団、ウィーン少年合唱団の実力を充分に発揮させ、精緻を極めた構成力と、じっくりと腰を据え、各部を入念に仕上げている。

この戦後の音楽界に君臨した巨人は、あたかも高度成長時代の申し子のように思われがちだが、この演奏は、いまコロナ禍と戦禍に見舞われている人たちに、第二次世界大戦を生き抜いてきた時代がどれほど苦渋に満ちたものであったかを伝える貴重なドキュメントだ。

戦後やっと5年たっての演奏で、彼がまだナチの後遺症を引きずっていた時期にあたる。

そのせいか、このマタイ受難曲を通して自己の魂のありようを検証しようとする、きびしい自己省察が聴きとれる。

当時のカラヤンに戦争への深刻な反省と鎮魂の気持ちがあったのだろう。

このライヴ録音は奥行きの深いひびきに満ち、死と向き合い、生の意味を問うきびしい精神性をベースに、イエス・キリストに思いを馳せる敬虔な祈りとやさしい慰撫をひびかせている。

その展開が自然でスケールが大きく、しかも全体のバランスは申し分ない。

謙虚でありながら、きわめて気高い姿勢に貫かれ、入魂の業を示し、それは独唱・合唱にも感染している。

特にフェリアーの歌う〈懺悔と悔悟は罪の心を押しつぶし〉に漲る宗教的な情感の深さは稀有のものだ。

フェリアーの歌は、最初の数小節を聴いただけで、人間の素晴らしさを感じさせ、人間であることの意味を悟らせてくれる。

人の高貴さ、優しさを、このように歌い出してくる声楽家は、もう私達の前に二度と現われることはないだろう。

いくら讃えても讃え切れないこの演奏が、今後とも、人類のかけがえのない遺産として受け継がれていくよう願わずにはいられない。

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2022年03月24日


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カラヤンにとってのコンサートにおける「ブル8」は勝負曲であった(オペラ・ハウスでは《トリスタンとイゾルデ》)。

フルトヴェングラーの後任としてベルリン・フィル戦後初のアメリカ・ツアーを率いた1955年も、ベルリン・フィルとの不協和音が囁かれる中で敢行した生涯最後のウィーン・フィル、ニューヨーク公演もこの曲を轟かせて批判の声を封じ込めたのだ。

当演奏は伝説の1966年日本公演の直後に行われたヨーロッパ・ツアーから、名ホール、アムステルダムのコンセルトヘボウで行われた凄絶なライヴ。

名門ホールのコンセルトヘボウの豊かな残響を伴った好条件の会場で、壮年期における気力十分なカラヤンとベルリン・フィルの劇的なブルックナー演奏が残ったことは、まさに僥倖だ。

その演奏は、弦が柔らかに歌う最弱音から、金管が荒々しく咆哮する最強音まで、振れ幅の大きい表現で聴く者を圧倒する。

カラヤンのライヴはスタジオ録音の印象とは異なり、非常にアグレッシブかつ即興的であり、彼の実演がいつも大喝采に終わるのは、それなりの理由があるのである。

縦の線を揃えることにはあまり注意が払われていないので、時折、おやと思うようなズレも散見されるが、それはそれで、より音楽の生々しさ、一回性を伝えて余りある。

また、ブルックナーの作品は、後期に近づけば近づくほど扱われる和声も複雑になってきていて、「今鳴っているのは何調で、次は何調に転調する」といったプログラム的な聴き方では間に合わない部分が頻出する。

この曲でも所々で短調と長調の旋律が同時に鳴っていて、音と音がぶつかり合うことで極めて深い響きを生んでいる。

そうした入り組んだ曲を扱った時のカラヤンは、まさに音楽のすべてを一手に束ねる「大司祭」というべき高みに達する。

指揮者のリッカルド・ムーティがカラヤンのブルックナー演奏を「神の声をきくよう」と評したと伝わっているが、この演奏の前では、それもあながち誇張には聞こえない。

一方で、第3楽章のアダージョでは、各楽器を思いのままに歌わせながら、流麗な音楽の流れを作り出している。

曲尾近くでは大伽藍のような壮大なクライマックスが築き上げられるが、それが少しの誇張もなく自然に達成されているのは、まさにカラヤンならでは。

このあたり、彼特有の流れるような柔らかい腕の動きが目に見えるようでもある。

まさに知情意のバランスの取れたブルックナーとして、長く語り継いでゆくべき演奏だろう。

壮麗な音響、荒々しいまでの推進力、絶望に至るほどのカタルシス、他国客演時では常日頃より燃え上がるのがカラヤンだった。

スタイリッシュなだけでない汗をかくカラヤンを味わいたいならこれも聴かねばなるまい。

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カラヤンとベルリン・フィル1966年来日公演のうち、ベートーヴェンの交響曲全曲シリーズとならんでクラシック・ファンの関心を集めたのがブルックナーの交響曲第8番。

まだ日本でブルックナー・ブームが起こる以前、聴衆の強い集中力と熱気が伝わる壮絶なライヴで、ベートーヴェンがカラヤンとベルリン・フィル芸術の精神的な骨格を示してくれたとすれば、ブルックナーは血と肉づけを体験させてくれたと評された。

1966年と言えば、まさにカラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代で、心身ともにベストコンディションであり、精緻さと重厚さを兼ね備えた最高のブルックナー演奏と言える。

ベルリン・フィルも、名うてのスタープレーヤーがあまた在籍した楽団史上でも特筆すべき技量を誇った時代である。

それぞれ最高の状態にあったカラヤン&ベルリン・フィルによる演奏は、おそらくはオーケストラ演奏史上でも空前にして絶後の高水準を誇っていたと言ってもいいのではないだろうか。

弦楽合奏の鉄壁のアンサンブル、唸るような低弦の重量感のある響き、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックを示す木管楽器群の美しい響き、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニの響きなどが見事に融合するとともに、カラヤン一流の流麗なレガートが施された、いわゆるカラヤン・サウンドに満ち溢れたまさに圧倒的な音のドラマの構築に成功していたと言える。

カラヤンの前任者であるフルトヴェングラーのような音楽の精神的な深みの徹底した追求などは薬にしたくもないが、音楽の持つ根源的な力強さにおいては、フルトヴェングラーの数々の名演にいささかも劣っているものではないと言えるところだ。

フルトヴェングラーの目指した音楽とカラヤンの目指した音楽は、このようにそもそも方向性の異なるものであり、その優劣を論ずること自体がナンセンスであると考えられるところである。

特にブルックナーの演奏において、かつて影響力の大きかった某音楽評論家の偏向的な批評などを鵜呑みにして、本演奏のような圧倒的な名演に接する機会すら放棄してしまうクラシック音楽ファンが少なからず存在すると想定されるのは大変残念なことであると言えるだろう。

カラヤンの個性が全面的に発揮されたブルックナーの交響曲第8番の演奏としては、1975年のスタジオ録音を掲げる者も多くいると思われる。

しかし来日公演盤は、実演でこそ真価を発揮するカラヤンならではの途轍もない生命力溢れる力感が随所に漲っているなど、音のドラマとしての根源的な迫力においてはかかるスタジオ録音を大きく凌駕している。

シンフォニックな充実度も満点で、終演後の熱狂ぶりが当時の日本の音楽ファンの真摯さとして伝わってくるのが嬉しい。

まさにカラヤン&ベルリン・フィルという稀代の黄金コンビによる全盛時代の演奏の凄さを大いに堪能させてくれる究極の名演奏と言っても過言ではあるまい。

音質は、従来CD盤においても音響がイマイチとされる東京文化会館でのライヴ録音と思えないような生々しさであったが、待望のハイブリッドSACD化がなされるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためて本全集の各演奏の凄さとSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、カラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な超名演を現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2022年03月10日


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カラヤンは、DVD作品を除くと、4度にわたってベートーヴェンの交響曲全集をスタジオ録音しており、1977年の普門館でのライヴによる全集もあるが、本全集はそれらいずれの全集をも大きく凌駕していると言っても過言ではあるまい。

1966年と言えば、まさにカラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代で、心身ともにベストコンディションであり、精緻さと重厚さを兼ね備えた20世紀最高のベートーヴェン演奏と言える。

ベルリン・フィルも、名うてのスタープレーヤーがあまた在籍した楽団史上でも特筆すべき技量を誇った時代であり、それぞれ最高の状態にあったカラヤン&ベルリン・フィルによる演奏は、おそらくはオーケストラ演奏史上でも空前にして絶後の高水準を誇っていたと言ってもいいのではないだろうか。

弦楽合奏の鉄壁のアンサンブル、唸るような低弦の重量感のある響き、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックを示す木管楽器群の美しい響き、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニの響きなどが見事に融合するとともに、カラヤン一流の流麗なレガートが施された、いわゆるカラヤン・サウンドに満ち溢れたまさに圧倒的な音のドラマの構築に成功していたと言える。

カラヤンの前任者であるフルトヴェングラーのような音楽の精神的な深みの徹底した追求などは薬にしたくもないが、音楽の持つ根源的な力強さにおいては、フルトヴェングラーの数々の名演にいささかも劣っているものではないと言えるところだ。

フルトヴェングラーの目指した音楽とカラヤンの目指した音楽は、このようにそもそも方向性の異なるものであり、その優劣を論ずること自体がナンセンスであると考えられるところである。

かつて影響力の大きかった某音楽評論家の偏向的な批評などを鵜呑みにして、本全集のような圧倒的な名演に接する機会すら放棄してしまうクラシック音楽ファンが少なからず存在すると想定されるのは大変残念なことであると言えるだろう。

カラヤンの個性が全面的に発揮されたベートーヴェンの交響曲全集の演奏としては、1970年代にスタジオ録音された3度目の全集を掲げる者も多くいると思われるが、本全集は、実演でこそ真価を発揮するカラヤンならではの途轍もない生命力溢れる力感が随所に漲っているなど、音のドラマとしての根源的な迫力においてはかかるスタジオ録音による全集を大きく凌駕していると言えるところであり、まさにカラヤン&ベルリン・フィルという稀代の黄金コンビによる全盛時代の演奏の凄さを大いに堪能させてくれる究極の名演奏と言っても過言ではあるまい。

音質は、従来CD盤においても音響がイマイチとされる東京文化会館でのライヴ録音と思えないような生々しさであった。

本全集の演奏のうち、「第3」については1982年のベルリン・フィル創立100周年記念ライヴ盤(ソニークラシカルのDVD作品)、「第7」は、同時期の1978年のベルリンでのライヴ盤(パレクサレーベル)に一歩譲るが、それ以外は、カラヤン自身にとって最高の超名演で構成されている圧倒的な名全集と高く評価したいと考える。

このような中で、今般、待望のハイブリッドSACD化がなされるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためて本全集の各演奏の凄さとSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、カラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な超名演を現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2022年03月08日


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バルトークの《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》は、数年後にやってくる2度目の世界大戦突入への不安感に蔽われていた1936年に作曲された。

この〈緊張の時代〉を背負った作品の気分を正当に表現し得た演奏として、ナチの時代をしたたかに生き抜き、戦後十余年を経てベルリン・フィルを手中に収め気力の充実し切っていたカラヤンの、1960年の旧録音がまず挙げられる。

カラヤン盤の異常な緊張は、この曲の録音史上で空前のものと言え、楽員と一体になっての音楽の高揚は、時に魂が張り裂けんばかりの悲痛さを伴って、恐怖に近い感動を覚える。

カラヤンは若い頃から、バルトークの研究と演奏に情熱を燃やし続けてきた人で、彼の演奏は、バルトークに対する深い敬愛の念が込められている。

この演奏も、曲の核心に鋭く切り込んだ完成度の高いもので、ひとつひとつの音に精魂を込めながら、一分の隙もなくまとめあげている。

カラヤンはベルリン・フィルの威力を充分に発揮させ、精緻を極めた構成力と、じっくりと腰を据えた演出で、各部を入念に仕上げていて、色彩豊かで、スケールの大きい演奏だ。

全体にわたる緻密な構成と、ディテールの磨きのかかった切り込みの鋭さがクールでホットなバルトークの両面性を彷彿とさせ、この曲の内面性と外面性とのバランスが最もよくとれている。

この戦後の音楽界に君臨した巨人は、あたかも高度成長時代の申し子のように思われがちだが、この演奏は、戦争を知らない筆者のような世代の人間に、彼等が生き抜いてきた時代がどれほど苦渋に満ちたものであったかを伝える貴重なドキュメントだ。

カラヤンの手にかかると、あらゆる音楽が艶美な世界に結びつけられてゆくといった感がないではない。

このヒンデミットの交響曲《画家マティス》にしても、一方では極めて機能的な表現をみせながら、一方ではカラヤンならではの艶やかな語法もまじえながらその演奏が進められていることは否めない。

しかも、その録音は、ベルリン・フィルが彼と初来日した1957年になされているだけに、オーケストラそのものにも、ヒンデミットの強力な擁護者であったフルトヴェングラーの時代の影が確かに残されており、それがカラヤンの演奏に特質を生かしながら呼応しているようにもみえる。

第1楽章「天使の合奏」の天国的な響き、第2楽章「埋葬」の哀しみの場面の感動、そして第3楽章「聖アントニウスの試練」での聖俗あいまみえた魂のドラマが、カラヤンの多彩な棒で十全に描かれてゆく。

確かに素晴らしい演奏であることは疑いの余地はなく、この作品に親しむためには、好適な1枚ということはできよう。

カラヤンはバロックから現代まで、そのときの作品に適応するようにベルリン・フィルの自発性をひきだしてゆく指揮者だったし、楽員はそうしたことをはっきりとおこなってみせた。

バルトークやヒンデミットでの管や打楽器奏者は、カラヤンがいたからこそ自発性を持って卓越した技量を発揮できたのだろう。

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2022年03月05日


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破滅的な世界大戦が終結して6年の歳月が流れた1951年7月、フルトヴェングラーが指揮する「第9」により、ナチス・ドイツ時代の呪縛にあえいでいたバイロイト音楽祭が劇的に再開された。

フルトヴェングラーに代わって楽劇の指揮を取ったのは、共にバイロイトは初めてとなるカラヤン[マイスタージンガー、リング(CDは『ラインの黄金』と『ワルキューレ』第3幕、『ジークフリート』のみ)を指揮]とクナッパーツブッシュ[(リング(CDは『神々のたそがれ』のみ)、『パルジファル』、『マイスタージンガー』を指揮]であった。

新時代の旗手としてスターへの階段を駆け上りつつあったカラヤンと、音楽を志して以来一貫してワーグナーを熱烈に賛美し、彼の作品上演のために身を捧げてきたクナッパーツブッシュは鮮やかな対照を示している。

そして、両者の創り出した音楽は、聖地に巡礼してきた、音に飢えたワグネリアンの胸裏に終生忘れることのない深い感銘を刻印した。

1930年代の終わりに彗星の如く桧舞台に登場し、瞬く間にドイツ楽壇の寵児となり、「奇蹟のカラヤン」と賞賛されたヘルベルト・フォン・カラヤン。

終戦直後一時的に不遇を託つが、持ち前の意志力でEMIの花形指揮者の地位を勝取るなどし、栄光への階段を駆け上がった。

その最中の1951年には、指揮者陣の柱石となることを期待され、戦後初めて開催された記念すべきバイロイト音楽祭に華々しく登場した。

この年、『ニーベルングの指環』チクルスと『マイスタージンガー』を指揮する重責を担い、精緻な構成力、流麗な造形力を駆使し、明晰かつ情熱的な音楽で聴衆を圧倒、新時代の到来を鮮やかに印象付けた。

しかし、好事魔多しの諺通り、翌年の『トリスタン』を最後に、バイロイトとは袂を分かつことになる。

この後カラヤンは、ウィーン、ベルリン、スカラ座に君臨し、「帝王」の名をほしいままにしたが、再びバイロイトのピットに入ることはなかった。

この『マイスタージンガー』は、黄金の翼を羽ばたいて天へと飛翔するかのようなカラヤン壮年期一世一代の晴れ舞台の貴重な記録である。

この楽劇にまとわりつくナチス時代の不幸な埃を払い落とし、作品に内在するヒューマンな感情と祝祭的な高揚感を余すところ無く表現している真に傑出した演奏である。

後年の有名なドレスデン国立歌劇場管弦楽団での再録音と比べても、一気呵成に畳み込む推進力の鮮烈さや積極果敢な覇気に富んだ表現意欲の鋭気など、演奏内容ではこちらの旧録を推す人が多いのむべなるかなと頷ける。

1970年代のドレスデンとのステレオ盤よリ素直な表現で、戦後のバイロイト再開の記念碑的な名演の興奮が伝わってくる。

エーデルマン、シュヴァルツコップ、ホップ、クンツなど、当時最高の歌手を揃えた布陣で望み、声楽面での瑕瑾も見当たらない。

当時のベスト水準のキャストを擁し、冷静なカラヤンの指揮にもライヴらしい高揚感が漂い、まさに至高の音楽が現出されている。

カラヤンのプロデューサーとして有名なEMIのウォルター・レッグが自身バイロイトに乗り込んで収録した甲斐があり、デッカ録音とはまた趣の異なった、暖気に満ちた気品のある精妙な音づくりも魅力をいや増している。

カラヤンがバイロイトで公式録音したワーグナーの作品は、この全曲盤と『ワルキューレ』第3幕のみだった。

今回のNAXOS盤では、保存状態のよい初期LPレコードを基にして、クナッパーツブッシュの『パルシファル』で大評判を取った令名高い覆刻エンジニア、マーク・オバート=ソーンが丁寧にCD蘇生を施している。

現代人の耳をも充分満足させ得る第一級の仕上がりを誇るものと言えるだろう。

この『マイスタージンガー』の古典的名盤は、1951年7、8月にバイロイト音楽祭で演奏された5回の公演と1回のリハーサルに基づいて制作されたものである。

この録音は最初から磁気テープに収録され、最初は、当時よく見られたように、LP(今回の復刻CDのソース)とSPセットの両方が同時に発売された。

オリジナルのEMIコロンビア録音は、様々な側面で論議を呼んでいる。

異なった演奏の継ぎ合わせがしばしばあからさまに目立ち、時折音ゆれや音量の変動が発生する。

声楽は近接録音されており、大声量の楽節では耳障りな傾向がある。

第3幕の式典開始の場面のような大規模アンサンブルの部分を除けば、この録音では、デッカのエンジニアによって同時に収録されたクナの『パルジファル』におけるほどには、バイロイト祝祭劇場の独特のアコースティックな音響特性の雰囲気を伝えていない。

マーク・オバート=ソーンの復刻作業では、オリジナルのLPレコードから聴き取れた暖かさを現出するように努めてみたという。

高音域の増強よりも、偉大な存在感や瞬間をイメージできるように創造しようと試みたそうだ。

また、この方法に沿い、正統的なワーグナー・サウンドにふさわしい豊かな低音の響きに留意している。

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2022年03月04日


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これは全盛期のカラヤンだけに可能な圧巻の至芸を味わうことができる名CDと言えるのではないだろうか。

カラヤンは幅広いレパートリーを誇ったが、その中でもオペラについては得意中の得意としていた。

カラヤンによるオペラ演奏については、いわゆるアンチ・カラヤン派の識者の中にも評価する者が多く存在しているところであり、カラヤンが遺したオペラ演奏の中でも相当数の演奏については、オペラ演奏史上でも歴史に残る超名演と言っても過言ではあるまい。

そのようなオペラを得意とするカラヤンにとってみれば、本盤におさめられたオペラのバレエ曲は自家薬籠中の楽曲とも言えるところであり、どの演奏も正に水を得た魚のように、生き生きとした躍動感と切れば血が噴き出てくるような圧倒的な生命力に満ち溢れた名演奏を成し遂げている。

演奏は、1970〜1971年というカラヤンが心身ともに充実していた時代のものであり、加えて、手兵ベルリン・フィルも名うてのスタープレイヤーが数多く在籍する黄金時代にあった。

そして、カラヤン&ベルリン・フィルは、分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの咆哮、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルのもとに融合し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。

そして、カラヤンは流麗なレガートを施すことによって、重厚さと華麗さ、そして流麗な美しさを誇るいわゆるカラヤン・サウンドの醸成に成功していた。

本盤の各楽曲の演奏においてもそれは健在であり、どこをとってもいわゆるカラヤン・サウンドに満たされた、豪華絢爛にして豪奢な演奏に仕上がっている。

オペラのバレエ音楽には、かかる演奏は見事に功を奏しており、加えて、オペラを得意とするカラヤンならではの聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりも相まって、これ以上は望み得ないような完全無欠の圧倒的な超名演を成し遂げていると言っても過言ではあるまい。

現在では、クラシック音楽界も長期不況にあり、このようなオペラのバレエ曲のみを収録したCDを作成すること自体が困難なご時世ではあるが、カラヤンのような大指揮者がかようなオペラのバレエ曲集のスタジオ録音を行ったという、クラシック音楽界にいまだ活気があった古き良き時代を懐かしく思い出す聴き手は筆者だけではあるまい。

本盤については、長らく廃盤の状態にあったが(一部の楽曲については、別の楽曲との組み合わせで発売されている)、今般、久しぶりに再発売の運びになったことは慶賀に耐えないところだ。

加えて、従来CD盤での発売ではなく、SHM−CD盤での発売となったことは、全盛時代のカラヤンを代表する圧倒的な超名演であることに鑑みても極めて意義が大きい。

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2022年02月03日


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ワーグナーの楽劇《トリスタンとイゾルデ》は特別な作品である。

誕生以来オペラの中心的主題は恋愛悲劇だが、その頂点を成すのが《トリスタン》ということになる。

指揮者たちは誰も彼も、いざというとき《トリスタン》を振りたがる。

メトロポリタン・オペラに呼ばれたマーラーは《トリスタン》を要求した。

そのすぐ後に招かれたトスカニーニも同じく《トリスタン》を指揮させるという条件を出し、二人の間に問題が起こっている。

フルトヴェングラーもベームも、ここぞというときに、《トリスタン》に挑んだ。

そしてカラヤンの表舞台への登場が「奇跡」と呼ばれたのは、1937年ウィーン国立歌劇場での《トリスタン》と、翌38年ベルリン国立歌劇場での《トリスタン》だった。

カラヤンは自分がどんな作品で世に出るべきかを、よく心得ていた。

カラヤンの名を轟かせるには、ウィーンとベルリンに《トリスタン》で登場するより良い手段はない。

もっとも、指揮者の多くがそう望むが、なかなか実現できないというだけの話。

レナード・バーンスタインは、バイロイト音楽祭に呼ばれたとき、断固として《トリスタン》を主張し、とうとうバイロイトで振らないまま逝った。

カラヤンは間違いなく実力があったが、同時に野心と政治力があり、さらに幸運の女神を味方につけていた。

《トリスタン》で華々しく世に出たカラヤンだが、若い頃の演奏がどうだったかは、推定するほかはない。

本セッションの1970年のものとは大分違い、さっそうとした演奏であったことは、容易に推測できる。

一方にフルトヴェングラーをはじめとするロマンティックなワーグナー演奏があり、カラヤンのワーグナーはそうした演奏とは一線を画したものとして注目を集めていたからだ。

ワーグナーでこそ「ドイツのトスカニーニ」的なところが示されたのではないか。

ここにとり上げるのはカラヤンの同曲唯一のスタジオ録音で、彼はこのとき62歳、どうも指揮者にとって《トリスタン》を指揮するのに最もふさわしい年齢は60代であるらしい。

ベームがバイロイトでこの作品の指揮を始めたのは67歳だった。

フルトヴェングラーもバーンスタインも60代の後半で《トリスタン》を録音した。

カラヤンは、最晩年に今一度《トリスタン》全曲を上演、録音したかったようだがついに果たせなかった。

当時のEMIの録音の特色でもあったのだが、この録音には、クリアーさに欠ける部分があるのがどうしても欠点として残る。

それでもカラヤンとベルリン・フィルにしかできない極限のピアニッシモが織り成す官能的な表現は、幻のような愛の世界へと聴き手を引き込む。

カラヤンとベルリン・フィルの関係が最も緊密な時代の録音だけに、華麗な官能美にあふれた管弦楽の有機性は、他に比肩するものがない。

ベルリン・フィルの驚異的な合奏能力と表現力をフルに発揮してつくり出された音の極限的精錬と美感もさることながら、それが単なる審美的な彫琢だけにとどまらず、《トリスタン》は聴き手の官能を呪縛し、音楽の奔流と陶酔の中に巻き込んでしまう。

時おり起こる嵐のような高揚ではベルリン・フィルがここぞとばかりに圧倒的な表現力を示すのもインパクトがある。

カラヤンの黄金期を支えた名歌手たちによる配役も素晴らしい。

ヴィッカーズとデルネシュのコンビも最高で、この2人は幻のなかで唯一リアリティを持って存在する。

圧倒的な声の威力と鋭い緊張に加え、デリケートなやさしさと繊細な情感にも不足のないデルネシュ。気迫に満ちた歌唱で抜群の存在感を示すヴィッカーズ。

愛し合う2人以外にも当時としては申し分のない歌手が揃えられており、各人が最良の歌唱を展開している。

カラヤンはそうした声を管弦楽に組み込み、その精密無比な響きの美の中に溶解させる。

しかし、激しく熱い愛や情念とは結びつかない、徹底的に美が支配する《トリスタン》である。

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2021年10月13日


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1960年前後にカラヤンがウィーン国立歌劇場の芸術長だったとき、シーズンの目玉は《ニーベルングの指環》の通し上演だった。

しかし当時のデッカはそれらの上演とほぼ同じ歌手陣とオーケストラを起用しながら、指揮だけはカラヤンではなく、ショルティに任せてしまった。

それをどう思っていたのか、ウィーンを辞めたカラヤンは間もなくザルツブルク・イースターを創始、1967〜70年に上演に並行してクラモフォンに「指環」セッション録音を行なうことにした。

歌手陣もショルティ盤とは異なるが、特色は何よりもベルリン・フィルを起用したことで、精緻かつ重厚な響きが聴ける。

カラヤンの透徹した意志が全4部作を支配し、精妙緻密で洗練された響きの美しさから生まれる抒情性に覆われた、他に類を見ないユニークな「指環」だ。

しかもカラヤンの手腕の恐るべき点は、ゲルマン音楽の伝統的な心理のうねりと巨大なダイナミズムをも盛り込んでいることだ。

その意志は歌手のひとりひとりにまで徹底し、絶妙の心理描写を全員が成し遂げているのである。

「ラインの黄金」は音楽自体のもつ一種の若々しい覇気と、壮大なドラマの発端としての可能性を秘めた率直さが、カラヤンの明快で壮麗な表現の中に見事にとらえられている。

フィッシャー=ディースカウのヴォータンは若々しい知能犯的な性格が面白い。

シリーズ第1弾の「ワルキューレ」は完成度のうえで多少の不満はあるものの、このうえなく精妙で美しい。

従来のワーグナー演奏から余計な脂肪分を取り去ろうとしたカラヤンの意図は、ここでもはっきりと表れている。

「ジークフリート」は完成度のうえで最も素晴らしい出来映えといえる。

精妙で透明なリリシズムの中に、ワーグナーの音楽の新しい姿と生命を発見しようとするカラヤンの意図は、ここでその頂点をきわめた。

旧来のロマンティックな情緒過剰な表現とは無縁の室内楽的透明さをもつ抒情的な美のきわみがある。

「神々のたそがれ」はカラヤンの「指環」の最後を飾るもので、「ワルキューレ」から比べるとその意図も一段と徹底し、ベルリン・フィルの演奏にも、より雄弁な呼吸がうかがわれる。

歌い手の出来にやや不揃いな面があり、「ジークフリート」ほどの完成度はないものの、その中ではみずみずしい情感にあふれ、しかも力強い緊張も兼ね備えたデルネシュのブリュンヒルデは素晴らしい。

古い音源ながら新規の24bit/96kHzリマスタリングも良好で、ブルーレイ・オーディオの長所が良く出ていて、音場がより立体的になり、歌声とそれぞれの楽器の音像もかなり明瞭に聴くことができる。

低音から高音までのオーケストラのサウンドの拡がりも充分で、CDで初めてリリースされた時の音質より格段に向上している。

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2021年04月19日


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筆者としてはカラヤン、リヒテル、オイストラフ、ロストロポーヴィチという巨匠4人の協演が決して失敗だったとは思わない。

むしろ音楽は生き生きしてベートーヴェンのオーケストレーションの醍醐味も味わうことができる。

彼ら1人1人のスタンドプレイで終わるのではなく、それぞれが抑制しながら堅実なアンサンブルを聴かせてくれる。

そのうえでの名人芸が、曲中にちりばめられている魅力的なセッションだ。

その音楽性、集中力の高さと表現力の豊かさは流石だ。

ここで一目置きたいのはカラヤンのサポートだ。

他の演奏者による録音も何組か聴き比べてみたが、この作品のオーケストラ・パートの充実感を示せた指揮者は意外に少ない。

3人のソリストを引き立てることは勿論だが、3つの楽章の特徴を巧みに掴んで構成し、終楽章アッラ・ポラッカで壮大な効果を上げるようなサウンドを創り上げている。

このセッションでリヒテルがカラヤンと気まずい関係になったことは、本人の証言で間違いない。

でも出来上がったテイクはなかなかどうして素晴らしいものだし、リヒテル自身もカラヤンのこうした才能を否定していたわけではないだろう。

リヒテルはモンサンジョンが制作したドキュメンタリー映画の中で、ベートーヴェンのトリプル・コンチェルトは酷い出来だったと証言している。

このエピソードはまた、ユーリー・ボリソフの『リヒテルは語る』の中でも「確かに恨みを抱いていた。そう、カラヤンにだ。三重協奏曲でね。もっと練習すべきなのに、写真撮影に移ろうと言い出した!まったく正気の沙汰じゃないよ…」と書かれている。

カラヤンには二つ返事で従うロストロポーヴィチの態度を苦々しく思いながら、オイストラフとは良好な関係を保っていたようだ。

しかしながら4人の巨匠のキャスティングは、この演奏を聴く限り成功している。

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2020年07月16日


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モーツァルトの友人で、ホルン協奏曲を書かせたロイドゲープのように、歴史的に重要なホルン奏者は決して数多くはないが、イギリスのデニス・ブレイン(1921-57)ほど愛され、また事実、圧倒的人気を博したホルン奏者は他にいないであろう。

ロイヤル・フィル、フィルハーモニア管弦楽団の首席奏者を歴任したが、ソリストとしても大活躍し、その人気は著名な指揮者すら羨ましがらせるほどであった。

2008年にリリースされた4枚組EMIイコン・シリーズのボックス・セットで、97年に出された13枚組の全集には及ばないが、ホルンの貴公子デニス・ブレインの奏法のエッセンスが、ソロのみならず室内楽のレパートリーにおいても充分に堪能できる。

しかも録音に関してはモノラルながら最新のデジタル・リマスタリングによって旧盤を凌ぐ鮮明な音質が蘇っている。

モーツァルトの2曲のホルン協奏曲では、1940年代の旧録音と53年のカラヤンとの協演を聴き比べる事ができる。

勿論カラヤンという卓越した指揮者を迎えたことによる結果でもあるだろうが、新録音の方が遥かに緻密で洗練された音楽性が感じられる。

それはブレインが単に天才の名に甘んじていた奏者ではなく、努力の人だったことを窺わせていて興味深い。

彼の演奏の特色は、一瞬の隙も残さない極めて精緻な表現でありながら、それでいて明るく屈託の無い開放的な音色にある。

サヴァリッシュが几帳面に曲の性格を捉えたリヒャルト・シュトラウスの2曲の協奏曲やジェラルド・ムーアのピアノ伴奏による、シューマンの超難曲『アダージョとアレグロ』とデュカスの機知に富んだ『ヴィラネル』、そしてヒンデミット自らの指揮による『ホルン協奏曲』などは現在でも最高水準の演奏として挙げることができるだろう。

ホルンの演奏技術はブレイン以降格段に進化しているはずだが、ブレインの音楽性を凌駕する名手はいないようである。

余談になるが、ブレインはカラヤンのお気に入りでもあり、カラヤンは度々ベルリン・フィルへのヘッド・ハンティングを画策したが、イギリスを離れることはなかった。

カラヤンとはスポーツカーの趣味が一致し、2人ともスピード狂だったので、愛車についての話は尽きることがなかったという。

だがカラヤンはその後次第に飛行機へと関心を移し、それを知ったブレインは「それでも飛行場へは車で行くしかないだろう」と牽制したというから面白い。

だが運命のいたずらか、ブレインは帰宅途中に樹木に激突、36歳の短い生涯を閉じている。

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2019年12月16日


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カラヤンはモーツァルトの《レクイエム》を計3回録音しており、これはその第1回録音(1961年)。

ベルリン・フィル、ウィーン楽友協会合唱団、ソリストはヴィルマ・リップ(ソプラノ)、ヒルデ・レッスル=マイダン(アルト)、アントン・デルモータ(テノール)、ヴァルター・ベリー(バス)という布陣になる。

カラヤンは周知のようにザルツブルク生まれであるだけに、若い頃からモーツァルトの演奏を得意としていた。

しかしながら彼のモーツァルト演奏は、どの曲ももってまわったような表現で、スカッとした味がなく、交響曲でもディヴェルティメントでも、大体傾向は同じになってしまう。

しかし、この《レクイエム》は別格で、カラヤン特有の巧みな演出が結晶した名演と言える。

全体にもたついたところがなく、この曲の持つ深い哀愁を、きめこまやかに表出している。

3回の録音のどれにもアンチ・カラヤンに属する聴き手にも抗し難いような、他の指揮者にはみられない“魔性”の誘いがある。

《レクイエム》でありながら、そこに内在するエネルギーの噴出力はまぶしいほどで、カラヤン独特のデモーニッシュな吸引力が全篇を覆う。

この最初の録音は、各楽章の性格を深く対照的に抉り、速い部分と遅めの部分の落差をつけており、オケの重厚な響きが圧倒的だ。

聴かせどころのツボをこれ以上ない程に巧妙に捉えたカラヤンのアプローチは、わざとらしさや表現の大げささを感じさせることも否めないが、この名作のドラマティックな悲劇性をたまらなく鮮やかに描出している。

つまりカラヤンらしさが最も前面に押し出された名演でありながら、それでも聴き手を魅了し尽くしてしまう魅力を放っている。

特に〈ラクリモサ(涙の日よ)〉は見事な演奏で、これを聴いていると自然に涙がわいてくる。

前述のようにカラヤンは他にもこの作品の録音を残しているが、ここに聴かれる輝かしくも集中力の高い表現は、とても他の録音のおよぶところではない。

ここでは声楽陣がすべてウィーン勢のせいか、アンサンブルもお互いの信頼の上に成り立つメンタルな緻密さが感じられ、3回の録音の中でも一番安定していて、合唱、独唱も好演である。

オリジナル楽器によるスリムなモーツァルトの対極にある《レクイエム》である。

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2019年11月26日


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古い音源ながら新規の24bit/96kHzリマスタリングも良好で、ブルーレイ・オーディオの長所が良く出ている。

アナログ時代の名残でマスター・テープのヒス・ノイズが聞こえるにしても、音場がより立体的になり、それぞれの楽器の音像もかなり明瞭に聴くことができるし、低音から高音までのオーケストラのサウンドの拡がりも充分で、CDで初めてリリースされた時の音質より格段に向上している。

綴じ込みだがライナー・ノーツもしっかりしたコレクション仕様で、資料としての価値も高い。

またこれも既に指摘されているようにCDとの抱き合わせ商法ではなく、単独のブルーレイ・オーディオ・ディスクでの全曲リリースが好ましい。

ライバルのワーナーからはリマスター盤は集大成されたものの、高音質盤の方は二の足を踏んでいるのが惜しまれる。

この交響曲全集は1997年にドイツ・グラモフォン創立100周年記念として同社から刊行された全20巻87枚のベートーヴェン・エディションの第1巻に組み込まれた音源だ。

筆者自身は実はベーム、ウィーン・フィルの方を期待していたのだが、当時まだ帝王の威厳に輝いていたカラヤン盤が選ばれたのも、売れ筋から考えて当然と言えば当然の結果だった。

しかし改めて鑑賞してみると、確かに音楽的にも無駄がなく颯爽としたテンポ感やオーケストレーションの再現のスマートさは、幾らか頑固なまでにスコアに誠実なベームとは対照的であり、ベートーヴェン演奏の新時代を築いたディスクとしても強い説得力がある。

1960年代の全集は、ベルリン・フィルの芸術監督に就任して7年が過ぎ、フルトヴェングラーのオーケストラからカラヤンが自らの手中に収めつつある時期に、ベルリン・フィルにとっても最も重要なレパートリーであるベートーヴェンで自らの力と新生ベルリン・フィルを世に問うたもの。

この頃には既にカラヤンのスペクタクルなサウンド・スタイルは確立されていて、ここでもベルリン・フィルの実力を縦横に発揮させた濃厚なオーケストレーションが特徴的だ。

その表現は後の2度の録音より鮮烈で、彼のベートーヴェンの音楽に対する創造的な気概に満ちている。

トスカニーニの影響が強いなどと言われたこともあるが、今聴くとそこにあるのはやはりカラヤンの個性である。

しかもトスカニーニの亜流的な演奏とは画然と異なり、主観と客観が見事にバランスした演奏の清新な表現は今も説得力を失わない。

溌剌とした覇気とカラヤン特有の演出の妙が絶妙のバランスを保っていて、テンポにたるみがなく、表情は率直でむらがない。

ドイツ・グラモフォン社が持っていた新録音ではなく、この演奏を選んだ理由は演奏の質の高さだけでなく、よい意味でのスタンダード性からだろう。

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2019年11月01日


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カラヤンはベートーヴェンの交響曲全曲録音を都合4回行ったが、この『第9』はその2回目にあたる1962年のもので、ドイツ・グラモフォンへのベルリン・フィルとの初録音でもある。

またこの音源は後にOIBPリマスタリングされ、グラモフォンが1997年に刊行した全20巻、合計87枚に及ぶベートーヴェン全集の第1巻に組み込まれた。

同社が持っていた新録音ではなく、この演奏を選んだ理由は演奏の質の高さだけでなく、よい意味でのスタンダード性からだろう。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任して7年が過ぎ、フルトヴェングラーのオーケストラからカラヤンが自らの手中に収めつつある時期に、ベルリン・フィルにとっても最も重要なレパートリーであるベートーヴェンで自らの力と新生ベルリン・フィルを世に問うたもの。

この頃には既にカラヤンのスペクタクルなサウンド・スタイルは確立されていて、ここでもベルリン・フィルの実力を縦横に発揮させた濃厚なオーケストレーションが特徴的だ。

その表現は後の2度の録音より鮮烈で、彼のベートーヴェンの音楽に対する創造的な気概に満ちている。

管弦楽とコーラスの音のバランスも非常に均整が取れていて、彼のサウンドづくりに懸ける執念のようなものが伝わってくる。

トスカニーニの影響が強いなどと言われたこともあるが、今聴くとそこにあるのはやはりカラヤンの個性である。

しかもトスカニーニの亜流的な演奏とは画然と異なり、主観と客観が見事にバランスした演奏の清新な表現は今も説得力を失わない。

溌剌とした覇気とカラヤン特有の演出の妙が絶妙のバランスを保っていて、テンポにたるみがなく、表情は率直でむらがない。

高度なアンサンブルが要求されるソリスト陣の中ではヴァルター・ベリーの力強さ、ヤノヴィッツの清冽な歌いぶりが優れているが、とりわけ終盤の四重唱は絶品。

カップリングされた『コリオラン序曲』は1965年の録音で、華麗であり、要所を巧みに押さえた表現だが、カラヤンがこうした曲の演奏効果を知り尽くしていることは言うまでもない。

音質はこの時代のものとしては極めて良好で、今回のルビジウム・カッティングによって得られたオーケストラの練り上げられた音色が、かえってアナログ録音の特質を良く捉えているようだ。

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2019年09月06日


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カラヤンによる唯一のロシア・オペラの全曲録音で、1970年代の《ボリス・ゴドゥノフ》の代表盤だが、オリジナル版の再評価などがあり、このオペラの演奏は近年大きく変わった。

カラヤンの演奏は、むろんリムスキー=コルサコフ版で、演奏スタイルも今では理想的とはみなされない方向だ。

それでも、これは壮大で華麗なオペラとしての《ボリス・ゴドゥノフ》の極致というべきもので、版や演奏スタイルの主流がどう変わろうと、いささかも魅力を失っていない。

ボリスをめぐる年代史的な歴史劇の様々なページと情景が、この上なく豊麗な音と素晴らしい色彩との的確極まりないタッチをもって次々と展開される。

カラヤンの解釈は、このオペラを華麗にして壮大なスペクタクルとするもので、不安と不条理の表現に突き進むムソルグスキーの世界とは大きく離れたものだが、それは逆に、ムソルグスキーのオリジナルを〈グランド・オペラ〉化したR=コルサコフの改訂の意図に沿うと言えるかもしれない。

現在では、これが一体「正しい」演奏なのか?と思ってしまうにしても、カラヤンの指揮は色彩豊かに描き上げた壮大な表現で、劇的な力に満ち溢れ、そのドラマティックな演出に圧倒されてしまう。

もちろん素朴で暗いロシアなんてどうでもいい、こういう華麗なのが《ボリス》だ、と思わせるだけの、カラヤンとしても素晴らしい部類に入る演奏だ。

素朴さやロシアの暗さなど、この輝かしく劇的な演奏を聴けば、どうでもよくなる人も多いはず。

今となっては、いや生前だって、誰も真似できなかったカラヤン・スタイルのオペラの魅力が、ここには詰まっている。

カラヤンは、例によってオーケストラや合唱を豊麗に鳴り響かせるが、それだけにとどまらず、ここでは内から外に向かってあふれ出ようとする猯廊瓩鮟纏襪靴燭茲Δ任△蝓△修譴呂箸蠅錣厩臂А△垢覆錣遡噂阿寮┐泙犬ぅ┘優襯ーとなって噴出する。

聴き手を圧倒しないではおかない重厚な迫力が常のカラヤンとはひと味違っている。

歌手は端役にいたるまで充実していて、総じて声の美しい歌手が揃っているが、中でも当時上がり調子だったギャウロフのボリスは貫禄充分、心理的な葛藤を万全に歌いあげていて、傑出している。

ヴィシネフスカヤも表情豊かな歌を聴かせて、当代のスターが参集した壮麗さはソフィア放送合唱団を主体にするコーラスの力強い迫力も相俟って、まさにカラヤン・サーカス。

ところで、日本のわれわれはロシア・オペラというものを、特殊な範疇(スラヴ諸国のためだけのもの、というような)の中に押し込めてしまいがちなのだが、20世紀初頭のパリにおけるディアギレフ一座の成功以来、《ボリス・ゴドゥノフ》は西欧に衝撃を与え、その後も途切れることなく各地で上演されてきた。

このオペラを好んで指揮した1人に、トスカニーニがいる。

カラヤンが1960年代後半にザルツブルク音楽祭で指揮したのも、彼がレパートリー面でトスカニーニから大きな影響を受けていることを考えれば、むしろ当然のことなのである。

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2019年08月23日


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カラヤン(1908-89)はオーストリア生まれで、ベルリン・フィルの終身指揮者として活躍してきたドイツ系の巨匠である。

一方のパリ管弦楽団はフランスの誇りとでも言うべき名門で、旧パリ音楽院管弦楽団が改組されたフランスの知性の誇りのようなオーケストラである。

初代音楽監督ミュンシュのもとで幸先の良いスタートを切ったが、ミュンシュは1968年に急逝してしまう。

二代目の音楽監督がカラヤンに要請されたのだが、夫人もフランス人であるカラヤンはこれを快諾、記者会見では「これで国籍が二つになった」と得意げであった。

ベルリン・フィルの音楽監督として一世を風靡していたカラヤンがパリ管弦楽団の音楽監督にも就任したニュースはファンを驚かせた。

関係は2年で終わるが、このフランクの交響曲は両者が最初に録音に踏み切った記念碑的演奏である。

ドイツ=オーストリア音楽はドイツ系指揮者に、フランスものはラテン系指揮者にといったそれまでの常識を覆した訳だが、演奏内容の素晴らしさはさらに聴き手を圧倒、魅了した。

重厚なる表現を得意とするドイツ系巨匠カラヤンと華麗にして繊細、香り立つような美しさを秘め持つパリ管弦楽団は奇跡にも似た共演を実現、音の宝石のような世界を作り出している。

カラヤンはパワフルな表現力にエレガントな音楽性を加えて名作を艶やかに歌い上げているし、パリ管弦楽団も破格の素晴らしさでそんな期待に最大限の情熱的サウンドで応えている。

洗練された音色と心ときめかす感覚美、漂う香りとほのかな情緒といったものをカラヤンはそれまでなかった次元で引き出すとともに、フランス音楽に重心の大切さといったものを加味した重量級の熱演を披露した。

結果的にフランス音楽をより豊かに、また輝かしく再現していく道を切り開いたのである。

当時のパリ管弦楽団の巧さも特筆すべきで、このほとんど音の媚薬のような演奏には、誰もがうっとりと聴き入ることであろう。

その後、カラヤンとパリ管弦楽団はラヴェル作品集、ワイセンベルクを迎えてのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を録音するが、それ以上発展することはなかった。

このフランクの名演はフランス音楽も得意にしたカラヤンならではの貴重な置き土産である。

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2019年08月19日


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ザルツブルクに生まれザルツブルク近郊に亡くなったカラヤン(1908-89)は晩年になるにつれ、ブルックナーに接近した。

1970年代半ばから80年代初めにはベルリン・フィルと交響曲全集を完成させたが、80年代の最後には再び、しかし今度はウィーン・フィルとの演奏会でブルックナーの《第7番》《第8番》を採り上げた。

そしてこの《第7番》を1989年4月にムジークフェラインで指揮しているが、それはカラヤンの死のわずか3か月前のことだし、結果的にカラヤン最後の指揮姿となったものである。

この4月というのは因縁深く、1955年以来率いてきたベルリン・フィルの終身指揮者のポストを決して円満とは言えない形で辞任しているし、健康状態にも深い翳りがさしてきていた時期にあたる。

最後の曲目がブルックナーの大作になったことはこの“苦渋に満ちた”巨匠の胸の内を考えると複雑である。

だが、最後の指揮だからといってカラヤンは決して穏やかな好々爺のようなマエストロなどには微塵もなっていない。

いやむしろ精神的な高みへの志向がより明確になり、怖ろしいほどの統率力でウィーン・フィルを牽引、彼方の頂への崇高な旅を続けている。

ウィーン・フィルの美音に甘えるのでもなく、またブルックナーの深い絨毯に憩うのでもない、あくまでも指揮者としての作品を冷徹に見据え、そのあるべき姿に肉薄していった壮絶なるブルックナーの世界を打ち立てている。

そんな尋常ではない気迫に満ちたカラヤンを前にしてウィーン・フィルは襟を正して演奏に専念、“心の王国”を守る石垣となっている。

“心の王国”と言えば、ブルックナーを聴いている人はずるい、と思っていた時期がある。

ベートーヴェンにもモーツァルトにもない世界がブルックナーにあるのはいいが、同じ感動でもブルックナーのそれは、聴き手が心の中に王国を作ってしまう喜びがあると知ったからである。

ブルックナーを聴いていると気持ちが穏やかになり、雄大なる自然との一体感に包まれるが、それはやがて不思議な高揚感とも征服感ともいうべき満足感へと変わり、いつしか心の中に王国を持ったかのような気分になってしまうからである。

この一人天下とでも完全孤独とでも言える感覚はベートーヴェンからもモーツァルトからも与えられない類のものであり、極端に言えばあとは何もいらない、そんな気分にしてしまう力を持つ。

ちょっと怖いが、ブルックナーにはそんな喜びと怖さが同居している。

指揮者には年齢を重ねるにつれ、ブルックナーに接近していく生き方と、そうではない生き方があるようだが、孤独を代償にできなければブルックナー指揮者にはなれないのかもしれない。

カラヤンは広大なレパートリーを誇ったが、最後の指揮が同郷のブルックナーだったのは象徴的だ。

ムーティをして「神の声を聴く」と言わしめたとされる演奏であり、それは同時に20世紀後半の楽壇をリードしてきた帝王カラヤンの栄光と孤独とが凝縮された名演と言うことになろう。

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2019年07月30日


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カラヤンは、モーツァルトの『レクイエム』を3回録音しており、これは、1986年に録音されたもので最後のものになる。

以前の2回がオーケストラにベルリン・フィルを使用していたのに対し、この録音だけがウィーン・フィルになっているが、合唱は、いずれもウィーン楽友協会合唱団が努めている。

3回の録音の中では、やはりこの最後の録音が最も良く、モーツァルトの『レクイエム』演奏の頂点に立つ稀有な名演と言えよう。

この演奏には、真に偉大な芸術家に晩年が訪れた時のみに聴くことのできる種類の崇高な表現がある。

ジュスマイアー版によって演奏しているが、19世紀から受け継がれ20世紀が求めたモーツァルト像の一つの理想的な具現である。

冒頭の静かな祈りに満ちたpの入り、トロンボーンに導かれて、“Requiem aeterna,”(永遠の安息)と歌いだす時の突き刺すような悲しみのf、どちらも音の純粋な美しさに溢れている。

続く“kyrie”(キリエ)でのフガートの構築性、“Dies irae”(怒りの日)のエネルギッシュな緊迫感、そして、モーツァルトの筆が止まった“Lacrimosa”(涙の日)の光さす永遠の表現と、どれを取っても晩年のカラヤンが二百年余り前の同郷の天才の魂と呼応したとしか思えないような素晴らしい表現が聴ける。

特に“Lacrimosa”では一つ一つの音符を長めに取り―特に合唱の八分音符―重厚な響きで悲しみを表現して行く。

さらに、それを具現するウィーン・フィルの柔軟な表現力とウィーン楽友協会合唱団のスケールの大きい表現も忘れられない。

また、ソリストもテノールのコールに不安定な部分が見られるものの他はオーケストラと合唱が一体化した卓越した歌唱を聴かせてくれる。

最後は、冒頭の“Tedecet hymnus”(賛歌を捧げ)の音楽が回帰して、“Lux aeterna”(永遠の光り)と歌い出されるが、スコアの上では歌詞の違いしかない。

しかし、カラヤンは微妙にテンポを落とし、より静謐なニュアンスを出している。

続く“Cum Sanctis”(主の聖人と共に)でもキリエのフガートが回帰するが、カラヤンは、ここでも音の芯を太くしてより重厚な表現で単なる冒頭の再現には終わらせない解釈を行なっていて、素晴らしい説得力がある。

ここは天才の直観で流れとして自然にそうなったのかもしれないが、カラヤンの指揮者としての最高の姿がここにある。

いずれにしてもこのカラヤンとウィーン・フィルの録音は、数ある『レクイエム』の録音の中でも最も優れた演奏であることは間違いない。

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2019年05月15日


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カラヤンが1970年代前半に録音した『新ヴィーン楽派管弦楽曲集』は、全てカラヤンによる唯一のセッションで、各作品のイメージを一挙に刷新した演奏は、センセーショナルな趣があった。

これを機に、それまで現代音楽という枠の中に閉じ込められていた同作品群が、一般のコンサートやレコードのプログラムとして市民権を得、普及していったように思われる。

一種の市場開放の原動力となった、いわくつきのアルバムと言っても過言ではないだろう。

カラヤンにとってやや異色のレパートリーとも言えるこのアルバムは、彼が60歳代の半ばに、ベルリン・フィルの超高性能を総動員してレコーディングしたもの。

1972年から1974年にかけて行なわれた録音は、カラヤンにとっても絶好の時期を選んでのものと考えられる。

シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンの不協和音や楽想をどのように処理するのかという疑念など杞憂であるかのように、演奏の完成度は高く、しかも美しい。

ある意味でポピュラー名曲とは対極にある20世紀(主として)作品を前に、こういうものだって完璧にできるのだという得意顔が目に浮かびそうだ。

ともあれ彼の演奏リストに、最高の完成度をもって加わることで、新ヴィーン楽派の音楽をにわかに古典のごとく錯覚させてしまうあたりがカラヤンの凄いところ。

何と言っても、カラヤンの美学がここでも徹頭徹尾貫かれているのが魅力で、ベルリン・フィルの潜在的な能力を導き出し、尚且つ今まで聴いたことのないような音響世界を創造していく。

アンサンブルは一糸の乱れもなく精緻に整えられ、細部まで透けて見えるがごとく鮮明な造型で描出される。

そして音楽の底流に流れるリリシズムを表層まで吸い上げ、満面に行き渡らせる。

こうしたカラヤンの完璧主義と美意識によって、同作品群のイメージはリフレッシュされたのである。

単に分析的に演奏するのではなく、個々の音楽のもつ、時代の香りをも明らかにして、陰影に富んだ演奏をきかせている。

濃厚なロマンティシズムを湛えた後期ロマン派風のシェーンベルクの《ペレアスとメリザンド》や《浄夜》など、甘美なリリシズムのしたたり落ちるような場面がことのほか美しい。

これらの作品でシェーンベルクを身近に引き寄せたかと思うと、ベルクのドラマティックな大作《管弦楽のための3つの小品》や《抒情組曲からの3つの楽章》では、白熱した演奏で有無を言わせず固有の世界に引きずり込んでしまう。

圧巻はヴェーベルンで、これほど美しく鳴り響くヴェーベルンは未だになく、《パッサカリア》の情熱、そして《交響曲》の深淵さ等々、筆舌に尽くし難い。

その中でも、本格的な十二音技法によるヴェーベルンの《交響曲》は、カラヤンの真価を見極める恰好の試金石と目されよう。

彼は、いわゆる現代音楽を専門とする演奏家とは全く違ったイメージに同作品を塗り替えてしまったからだ。

音色を艶やかに磨き、テクスチュアを清廉に立ち上がらせ、叙情的な雰囲気さえ漂わせる。

この演奏によって同作品が身近な存在になったことは疑いない。

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2019年02月25日


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レコード史上に残る金字塔、伝説のカラヤン&ウィーン・フィルのビゼー:歌劇『カルメン』がシングルレイヤーによるSACD盤で発売される。

これぞカラヤンの『カルメン』の原点であり、普遍的なカルメン像と言える懐かしい名演奏盤(1963年録音)。

ギローによるレチタティーヴォ版での演奏で、この版がもっているグランド・オペラとしての恰幅の良さを前面に押し出したスケールの大きい演奏である。

何よりも配役が揃っており、カルメン(レオンタイン・プライス)、ドン・ホセ(フランコ・コレルリ)、エスカミーリョ(ロバート・メリル)、ミカエラ(ミレッラ・フレーニ)の主役4人がベストなのが強く、グランド・オペラのスタイルに相応しい名唱である。

プライスのカルメンは男性なら誰もが悩殺されそうな妖艶さと野性味を持ち、低い声域の蠱惑的な声の表情がいい。

彼女は美声のソプラノだが、その上、いかにも男たらしの色気があり、コケティッシュな表情がうまい。

音色の変化も堂に入っており、ピアニッシモが男心をくすぐるが、それでいて音楽が少しも崩れていないところを高く評価したい。

しかも第3幕の「カルタの三重唱」では、前2幕とは全く別人のようなシリアスな訴えを見せる。

更に終幕では、たとえホセに殺されようと、絶対に彼のところには戻らない、という気持ちが赤裸々に出ており、声自体にホセを馬鹿にし切った色があって、これは大したものだ。

コレルリは声と表現の両方で最上の時期にあり、惚れ惚れさせられるが、リリックな美声に充分な張りがあって、圧倒的な声の力で男性的なドン・ホセ像を歌い上げている。

殊に終幕の、自分も死ぬ気の身を投げ出したような歌い方と、カルメンを殺した後の心からの哀しみが圧倒的である。

メリルは男臭く、声もエスカミーリョという伊達男の役にぴったりで、色男ぶりもかっこよくて、フレーニのミカエラも可憐で初々しい。

カラヤンの指揮はアンサンブルが実に緻密で、生々しい色彩や迫力から弱音のデリカシーまで幅が広く、第1幕の「衛兵の交代」では、子供たちの合唱が兵隊の行進を見ている興奮さえ伝えて比類がない。

そして終幕の劇的なクライマックスに至るまで、全場面にカラヤンの棒は確かな目が効いている。

特筆すべきはウィーン・フィルの美感と音楽性で、どんな場面でも決して粗くならず、心のこもった音が出ていて、ドラマがいつも深いものになっており、本場フランスのオーケストラではこうはゆかないだろう。

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2018年07月22日


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このシリーズではいわゆる現代音楽の作曲家を順次2枚組のCDで紹介しているが、ヒンデミットに関しては、このセットに続いて既に彼の室内楽もリリースされている。

異なった時代の演奏者と録音が寄せ集められているので全体的な統一感は希薄だ。

2008年にデジタル・リマスタリングされた2つの古い録音、1956年のヒンデミット自身の指揮によるフィルハーモニア管弦楽団との『シンフォニア・セレーナ』及び1957年カラヤン、ベルリン・フィルの交響曲『画家マティス』は想像していた以上に音質が良い。

廉価盤化でのリイシューということもあり、筆者としてはこのセットを高く評価する結果になった。

英、独、仏語によるごく簡単なライナー・ノーツが付いている。

交響曲『画家マティス』では、カラヤンの棒は冴え、実に造形のしっかりした精度の高い演奏で、オーケストラを巧みにドライヴしながら、この曲の持ち味を余すところなく表出している。

演奏内容から言えばカラヤンはベルリン・フィルを余りに美しくリリカルに仕上げていて、音響のブレンドにおいては卓越しているが、後期ロマン派の交響詩のような印象を受ける。

確かに同交響曲は彼の同名のオペラと密接な関係があるが、もう少しヒンデミットらしい鋭利さと硬派的な表現が欲しいところだ。

その意味では作曲家自身が指揮した『シンフォニア・セレーナ』とサヴァリッシュが1992年にフィルハーモニア管弦楽団を振った2曲、『ウェーバーの主題による交響的変容』及び組曲『高貴な幻影』は作品にのめりこむことなく、オーケストラの機能を冷静に引き出した棒さばきが優れている。

またオーケストレーションの面白みではオーマンディ、フィラデルフィア管弦楽団の『弦と金管楽器の為の演奏会用の音楽』がこの曲のスタンダード的な演奏で、個性的ではないにしてもその華麗さが魅力だ。

一方シャローン指揮、バイエルン放送交響楽団による『白鳥の肉を焼く男』でのタベア・ツィンマーマンのユニークなヴィオラ・ソロが好演。

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2017年01月20日


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巨匠カラヤンが最も得意とした作曲家の1人がリヒャルト・シュトラウスであったことは疑いの余地がない。

この作曲家の音楽がオーケストレーションを極限まで駆使し、スペクタクルで絢爛たる音響効果を持っていることと、指揮者としてのカラヤンの音楽性に共通点が見出されるのは偶然ではないだろう。

カラヤンはR.シュトラウスのスコアを緻密に磨き上げ、極めて巧妙な演出で聴かせる。

しかもこうした作品の再現には高度な演奏技術とアンサンブルの熟練が要求される。

そうした条件を満たすことができたのが、彼の手兵ベルリン・フィルであったことは幸いというほかはない。

ベルリン・フィルの演奏が、世界のヴィルトゥオーゾ集団にふさわしく、きめの細かいアンサンブルで応えている。

管楽器のソロのうまいこと、弦のアンサンブルの美しいこと、このコンビはまさにR.シュトラウス演奏の第一人者と言える。

劇的な迫力といい、耽美的な美しさといい、これほどの演奏が現れると、後攻の指揮者もオーケストラもさぞ辛いに違いない。

巨匠晩年の時代、両者の関係は決して良好なものとは言えなかったが、カラヤンによって練り上げられ、醸し出されるベルリン・フィルの華麗なサウンドは少しも衰えていないし、R.シュトラウス特有の世紀末的な甘美さや映像的な音響もとりわけ魅力的だ。

スペクタキュラーな要素も加味して、彼らの演奏は緻密さにおいても、またスケールの大きさにおいても、文句の付けようもないほど、見事な出来を示しているのである。

R.シュトラウスの交響詩は本質的に、都会的な洗練味と卓越した職人芸にあるが、これはまたカラヤン&ベルリン・フィルの本質とも合致しているかのようである。

この5枚組のセットにはグラモフォンに録音された彼らの最良の記録が集大成されていて、演奏内容は勿論1969年から86年にかけて行われた当時の録音水準の高さも注目される。

このセットでは彼らがクラシック界の一世を風靡したほどの『アルプス交響曲』、『英雄の生涯』、『ティル』や『ツァラトゥストラ』のほかにも名演が目白押しだ。

例えばローター・コッホをソリストに迎えた『オーボエ協奏曲』は白眉のひとつで、真摯で鮮やかなソロと隙の無いアンサンブルでやり取りするオーケストラが聴き所だ。

また現実離れした夢想空間を巧みに表現した『ドン・キホーテ』も知的な滑稽さに満ちている。

尚ここでのチェリストは1975年のロストロポーヴィチに代わってアントニオ・メネセスが起用されている。

協奏曲的な趣きは後退しているが、カラヤンの主張はむしろ増幅される結果になった。

R.シュトラウスの楽曲に関する限り、カラヤン&ベルリン・フィルを選んでおけば、まず間違いがないというのが、結論のようである。

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2016年10月23日


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このCDを聴いて強く印象に残ったのは音質が驚くほど良いことで、特に交響曲第2番は1960年3月のセッションだが、当時のEMIの初期のステレオ録音としては最良のマスターが残されていたようだ。

それが今回チェコ・プラガ独自のリマスタリングによって鮮明度が増し分離状態も改善されて臨場感を俄然高めている。

どちらもロンドン・キングスウェイ・ホールが録音会場に使われているが、交響曲第4番は1953年7月のモノラル音源を擬似ステレオ化して音場を拡げ、時代相応以上の生々しいサウンドの再現に成功している。

終楽章のグロッケンシュピールの響きで高まるこの作曲家特有のクライマックスもクリアーだ。

対照的な曲想を持つこのシベリウス2曲の交響曲にカラヤン若き日の噴出するような熱っぽい感性が手に取るように伝わってくる演奏で、オーケストラは良く練り上げられているが大袈裟な表現を避けた新鮮味がある。

特に交響曲第2番は初期のカラヤンの直截なスタイルが残っており、その素直さや情熱の率直な表明が、作品の激しい気力を的確に表していて、両端楽章の白熱するような緊張感は、カラヤンの演奏でも屈指のものといってよい。

幸いこの時期のフィルハーモニア管弦楽団は全盛期を迎えていて、ウォルター・レッグの手腕によってヨーロッパの一流どころの指揮者が次々に迎えられ、彼らが実質的に楽団の質の飛躍的な向上に貢献している。

しかしながら数年後の解散によって再びこの頃の水準に戻ることがなかったのが惜しまれる。

誤解を招かないために書いておくが、ハルモニア・ムンディ傘下のプラガ・ディジタルスの新企画ジェニュイン・ステレオ・ラブは、オーストリアで生産されている同プラガのSACDとは異なり、あくまでもレギュラー・フォーマットによるCDで総てチェコ製になる。

その特徴は新規のリマスタリングにあり、多くの既出盤を聴いた感じでは鮮明度だけではなく、空間的な広がりやボリューム・レベルのアップなどいずれも従来盤を凌いでいることが明瞭に感知できる。

音楽性豊かで音質的にも優れたセッション及びライヴがピックアップされていることは勿論だが、これまでにリリースされた20枚余りのCDには貴重音源も少なからずあり魅力的なシリーズになっている。

尚ライナー・ノーツの裏面にはロンドンのカラヤン(1)と記載されているので第2集以降にも期待したい。

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2016年04月29日


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極限の美を追求した、カラヤンならではの磨き抜かれた壮絶な演奏を体感できる1973年録音盤。

広範なレパートリーを誇るとともに、余人を寄せ付けないような膨大な録音を遺したカラヤンであったが、マーラーの交響曲については、必ずしも主要なレパートリーとしては位置づけていなかったようだ。

カラヤンが録音したマーラーの交響曲は、第4番、第5番、第6番、第9番、そして『大地の歌』の5曲のみであり、これに少数の歌曲が加わるのみである。

同時代の大作曲家であるブルックナーの交響曲全集を録音した指揮者にしてはあまりにも少ないし、むしろ、クラシック音楽ファンの中には、カラヤンの指揮するマーラーの交響曲全集を聴きたかったと思っているリスナーも多いのではないだろうか。

そうした比較的数少ないカラヤンの録音したマーラーの交響曲の中で、先般、第6番のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が行われる運びとなった。

筆者としては、第9番の1982年のライヴ録音のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を期待したいところであるが、いずれにしても、カラヤンの芸風が色濃く表れた稀少なマーラーの交響曲演奏の1つがSACD化されたことについて、大いに喜びたいと考える。

本盤に収められたマーラーの交響曲第5番は、全盛期のカラヤンとベルリン・フィルの徹底的に磨き抜かれた、甘美で艶やかな美音の洪水が聴き手を圧倒するが、起伏も豊かで、隅々にまで配慮が行き届いていて実に見事である。

同曲の名演としては、バーンスタイン&ウィーン・フィルによるライヴ録音(1987年)やテンシュテット&ロンドン・フィルによるライヴ録音(1988年)などが、ドラマティックな超名演として第一に掲げるべきであろうが、本盤のカラヤンによる演奏は、それらの演奏とは一線を画する性格を有している。

クラシック音楽史上最大のレコーディング・アーティストであったカラヤンによる本演奏は、それらのドラマティックな名演とはあらゆる意味で対極にある演奏であり、ここには前述のような人間のドラマはいささかもなく、純音楽的な絶対美だけが存在している。

しかしながら、その圧倒的な究極の音のドラマは、他の指揮者が束になっても構築不可能であるだけでなく、バーンスタイン盤などの名演との優劣は容易にはつけられないものと考える。

何よりも、当時蜜月の関係にあったカラヤン&ベルリン・フィルが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な名演奏を展開しているのが素晴らしい。

うなりをあげるような低弦の迫力、雷鳴のように轟きわたるティンパニ、ブリリアントに響き渡るブラスセクションなど、凄まじいまでの迫力を誇っている。

一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルは、もはや人間業とは思えないような凄さであり、加えて、カラヤンならではの流麗なレガートが演奏全体に艶やかとも言うべき独特の美しさを付加させているのを忘れてはならない。

もちろん、そうした美しさが、前述のバーンスタインやテンシュテットなどの名演にあった強靭な迫力をいささか弱めてしまっているというきらいもないわけではないが、他方、第4楽章における徹底して磨き抜かれた耽美的とも言うべき極上の美しさには抗し難い魅力が満ち溢れている。

この「アダージェット」で、カラヤンは、テンポを極端に落とし、官能的とすら言えるほどの艶やかな歌を聴かせてくれる。

我々聴き手の肺腑を打つ演奏と言えば、前述のバーンスタインやテンシュテットなどの名演を掲げるべきであろうが、聴き終えた後の充足感においては、本演奏もいささかも引けを取っていない。

筆者としては、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルならではの磨き抜かれた美しさの極みとも言うべき素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

マーラーの抱えていたペシミズムやニヒリズムなどは一顧だにせず、あくまで自分の流儀をやり通したカラヤンは流石である。

本演奏については、数年前に他の交響曲とのセットでSHM−CD化が図られたが、音質の抜本的な改善は図られなかったと言える。

カラヤン&ベルリン・フィルによる極上の美酒とも言うべき究極の名演であり、可能であれば、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望みたいと考える。

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2016年04月15日


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本盤に収められたブラームスの交響曲全集は、カラヤン&ベルリン・フィルによる3度目の、そして最後のスタジオ録音である。

それだけでなく、数多くの様々な作曲家に係る交響曲全集のスタジオ録音を行ってきた、史上最高のレコーディング・アーティストであるカラヤンによる最後の交響曲全集にも相当する。

3度にわたるカラヤン&ベルリン・フィルによるブラームスの交響曲全集の中でも、最もカラヤンの個性が発揮されているのは、1977〜1978年に録音された2度目の全集であると考えられる。

というのも、この当時はカラヤン&ベルリン・フィルの全盛期であったと言えるからだ。

分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていた。

カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。

当該2度目の全集においても、かかる圧倒的な音のドラマは健在であり、どこをとってもいわゆるカラヤンサウンドに覆い尽くされた圧巻の名演に仕上がっていた。

これに対して、本盤の3度目の全集においては、カラヤンの統率力の衰えは隠しようもない。

1982年に勃発したザビーネ・マイヤー事件によって、カラヤンとベルリン・フィルの間には修復不可能な亀裂が入るとともに、カラヤン自身の著しい健康悪化も加わって、カラヤン&ベルリン・フィルによる演奏に、1970年代以前のような輝きが失われるようになったからだ。

したがって、いわゆるカラヤンの個性が全開であるとか、はたまたカラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な音のドラマの構築と言った観点からすれば、第1番などには全盛期の豪演の片鱗が感じられなくもないが、前述の1977〜1978年の2度目の全集と比較するといささか劣っていると言わざるを得ない。

しかしながら、本演奏には、死の1〜3年前の演奏ということもあって、枯淡の境地を感じさせるような独特の味わいがあると言えるところであり、このような演奏の奥深い味わい深さと言った点においては、カラヤンによるこれまでのいかなる演奏をも凌駕していると言えるだろう。

このような奥行きのある味わい深さは、カラヤンが最晩年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地であったと言えるのかもしれない。

もっとも、本盤においては、何故か交響曲第4番について1988年の録音ではなく、1977〜1978年の2度目の全集中の録音を採用している。

演奏自体は1977〜1978年の演奏もきわめて優れてはいるのであるが、全集の構成としてははなはだ疑問を感じずにはいられない。

最近になって、最後の全集が輸入盤で発売はされたが、このような疑問を感じさせるカップリングについては、早急に改めていただくようにユニバーサルに対して要望しておきたい。

音質は、従来盤でも十分に満足できるものであると言えるが、数年前にカラヤン生誕100年を記念して発売されたSHM−CD盤がより良好な音質であった。

もっとも、カラヤンによる最晩年の至高の名演でもあり、今後はシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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2016年04月02日


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カラヤンはベルリン・フィルとともにDVD作品を除けば3度にわたってベートーヴェンの交響曲全集をスタジオ録音しているが、本盤に収められた全集はそのうちの1960年代に録音された最初のものである。

先般、当該全集のうち、「エロイカ」と第4番がシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化されたが、他の交響曲についても同様にシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化されるのには相当の時間を要することが想定されることから、この機会に全集についてもコメントをしておきたい。

カラヤン&ベルリン・フィルによる3つの全集のうち、最もカラヤンの個性が発揮されたものは何と言っても2度目の1970年代に録音されたものである。

1970年代は名実ともにカラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代であり、ベルリン・フィルの一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、ブリリアントなブラスセクションの朗々たる響き、桁外れのテクニックを披露する木管楽器の美しい響き、そしてフォーグラーによる雷鳴のようなティンパニの轟きなどが一体となった圧倒的な演奏に、カラヤンならではの流麗なレガートが施された、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功していた。

また、1980年代に録音された最後の全集は、カラヤンの圧倒的な統率力に綻びが見られるものの、晩年のカラヤンならでは人生の諦観を感じさせるような味わい深さを感じさせる名演であるということが可能だ。

これに対して、本盤に収められた1960年代に録音された全集であるが、カラヤンがベルリン・フィルの芸術監督に就任してから約10年が経ち、カラヤンも漸くベルリン・フィルを掌握し始めた頃の演奏である。

したがって、1970年代の演奏ほどではないものの、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの萌芽は十分に存在している。

他方、当時のベルリン・フィルには、ティンパニのテーリヒェンなど、フルトヴェングラー時代の名うての奏者がなお数多く在籍しており、ドイツ風の重心の低い重厚な音色を有していたと言える(カラヤンの演奏もフルトヴェングラーの演奏と同様に重厚ではあるが、音色の性格が全く異なっていた)。

演奏はどれも優れたもので、オーケストラとの良好な関係を反映した覇気にあふれたアプローチがとにかく見事。

まだカラヤン色に染まりきらない時期のベルリン・フィルが、木管のソロなどに実に味のある演奏を聴かせているのも聴きどころで、ほとんど前のめり気味なまでの意気軒昂ぶりをみせるカラヤンの意欲的な指揮に絶妙な彩りを添えている。

したがって、本全集に収められた各演奏はいずれも、カラヤンならではの流麗なレガートが施された圧倒的な音のドラマにドイツ風の重厚な音色が付加された、いい意味での剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると評価したいと考える。

カラヤンの個性が全面的に発揮されたという意味では1970年代の全集を採るべきであろうが、徹頭徹尾カラヤン色の濃い演奏に仕上がっている当該1970年代の全集よりも、本全集の方を好む聴き手がいても何ら不思議ではないと考えられる。

録音については、リマスタリングを行ったとは言え、従来盤ではいささか生硬な音質であった。

しかしながら、その後本SACDハイブリッド盤が発売され、これによって生硬さがなくなり、見違えるような高音質に生まれ変わったと言えるところであり、筆者としてもこれまでは本SACDハイブリッド盤を愛聴してきた。

ところが、今般、当該全集のうち、「エロイカ」と第4番がシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化され、当該盤のレビューにも記したが、緑コーティングなども施されたこともあって、更に素晴らしい極上の高音質になったと言える。

前述のように全交響曲をシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化するには相当の時間を要するとは思われるが、カラヤンによる至高の名演でもあり、できるだけ早期に全交響曲をシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化していただくよう強く要望しておきたいと考える。

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2016年03月19日


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本盤には、カラヤンがウィーン・フィルを指揮して演奏したドヴォルザークの交響曲第8番及び第9番が収められている。

両曲ともにカラヤンは十八番としており、これまでに何度もスタジオ録音を繰り返し行っている。

第8番で言えば、ウィーン・フィルとの演奏(1961年)、そして手兵ベルリン・フィルとの演奏(1979年)があり、第9番については、手兵ベルリン・フィルとの4つの演奏(1940年、1957年、1964年及び1977年)が存在している。

いずれ劣らぬ名演であると言えるが、これらの名演の中でとりわけカラヤンの個性が発揮された演奏は、ベルリン・フィルとの全盛期の1970年代の演奏であったと言える。

この当時のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏は、分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていた。

カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。

したがって、両曲についても、特に第9番については1977年盤、第8番については1979年盤においてかかる圧倒的な音のドラマが健在であるが、この稀代の黄金コンビも1982年のザビーネ・マイヤー事件の勃発を契機として、大きな亀裂が入ることになった。

加えて、カラヤン自身の健康悪化もあり、カラヤン&ベルリン・フィルの演奏にもかつてのような輝きが失われることになったところだ。

そのような傷心のカラヤンに温かく手を差し伸べたのがウィーン・フィルであり、カラヤンもウィーン・フィルに指揮活動の軸足を動かすことになった。

本盤の演奏は、そのような時期(1985年)のカラヤンによる演奏であり、ここには1977年盤(第9番)や1979年盤(第8番)のようなオーケストラを圧倒的な統率力でドライブして音のドラマを構築したかつてのカラヤンの姿はどこにも見られない。

ただただ音楽そのものを語らせる演奏であるとさえ言えるだろう。

したがって、カラヤンの個性の発揮という意味においては1977年盤(第9番)や1979年盤(第8番)と比較していささか弱いと言わざるを得ないが、演奏が含有する独特の味わい深さや奥行きの深さという意味においては、本演奏の方をより上位に掲げたいと考える。

特に、第9番の第2楽章。

有名な家路の旋律をカラヤンは情感豊かに演奏するが、中間部は若干テンポを落として心を込めて歌い抜いている。

この箇所の抗し難い美しさはこれまでの他の演奏からは決して聴けないものであり、これこそカラヤンが最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるだろう。

第8番の第3楽章の名旋律の清澄な美しさにも枯淡の境地を感じさせるような抗し難い魅力がある。

ウィーン・フィルも、名誉指揮者であるカラヤンに心から敬意を表して、持ち得る実力を最大限に発揮した渾身の大熱演を披露しているのが素晴らしい。

いずれにしても、本演奏は、重厚さと優美さ、ドヴォルザークならではのボヘミア風の抒情、そして、カラヤンが最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地とも言うべき独特の味わい深さと言ったすべての要素を兼ね備えた、まさに完全無欠の超名演と高く評価したい。

このような完全無欠の超名演を2曲カップリングしたCDというのは、野球の試合に例えれば、ダブルヘッダーで両試合とも完全試合を達成したようなものであるとさえ言えるだろう。

音質は、リマスタリングがなされたこともあって従来盤でも十分に満足できるものであるが、SHM−CD化によって若干ではあるが、音質がやや鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。

もっとも、カラヤンによる至高の超名演でもあり、今後はシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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2015年09月24日


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カラヤン没後25周年記念企画でEMI音源を新規にリマスタリングして全13巻計101枚のCDにまとめたセットのひとつになり、2巻ある声楽曲集のうち初期録音が5枚に編集されている。

使用されたオリジナル・マスターが1947年から1958年にかけての製作なので驚くような変化は聴き取れないが、演奏史に残るような貴重なセッションやライヴが鑑賞に充分堪えられる音質に改善されていることは評価できる。

例えばCD4−5のベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』は1958年のステレオ録音で、シュヴァルツコップ、ルートヴィヒ、ゲッダ、ザッカリアをソリストに迎え、フィルハーモニア管弦楽団とウィーン楽友協会合唱団を振ったものだが音質及び分離状態も良好で、若き日のカラヤンの颯爽とした推進力と同時にスペクタクルな音響創りも既に示されている。

CD1−2のバッハの『ロ短調ミサ』は1952年の録音で、マスターの保存状態がそれほど良くないのでバックのオーケストラが映えないのが残念だし、またバスのハインツ・レーフスは非力の謗りを免れないだろう。

CD2のトラック13−17は1950年にカラヤン、ウィーン交響楽団との同曲のリハーサルから収録されたもので、5曲のみの抜粋だがコントラルトのキャスリーン・フェリアーの貴重なソロと、シュヴァルツコップとのデュエットが入っている。

このうち4曲は既にフェリアーのEMIコンプリート・レコーディングス3枚組に加わっていた曲目になる。

CD3ブラームスの『ドイツレクイエム』に関しては1947年のモノラル録音でコーラス陣はいまひとつだが、共に30代だったシュヴァルツコップとホッターの絶唱を堪能できるのが嬉しい。

ワーグナー歌手としてのキャリアを着実に歩んでいたホッターの張りのある歌声とその表現力には流石に説得力がある。

このセットのもうひとつのセールス・ポイントはCD5に収められたR.シュトラウスの『四つの最後の歌』で、シュヴァルツコップとしてはアッカーマンとのセッションに続く1956年のライヴ録音になり、第2曲「九月」の短い後奏を当時フィルハーモニア管弦楽団の首席だったデニス・ブレインの絶妙なソロで聴けることだろう。

演奏の前後に拍手の入ったモノラル録音ながらノイズのごく少ない良質の音源だ。

尚ブレインのホルンはこの連作歌曲以外でもオーケストラの第1ホルンとして随所で感知できる。

英、独、仏語による19ページのライナー・ノーツ付だが、歌詞対訳は省略されている。

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2015年09月03日


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とある影響力の大きい某評論家によって不当に貶められている演奏であるが、筆者としては、「メリー・ウィドウ」史上最高の名演と高く評価したい。

甘美な旋律を歌わせながら、豊かな表現力で生き生きと描きあげた「メリー・ウィドウ」は、魅力たっぷりで、カラヤンならではの精緻で磨き抜かれた華麗な演奏を堪能できる。

名演となった要因の第一は、やはりカラヤン&ベルリン・フィルの雰囲気満点の名演奏ということになるであろう。

歌手たちの歌いっぷりと合わせて実に堂々としていて、それでいて優美で愉悦感もあって、圧倒的に素晴らしい。

特に、第2楽章のワルツや第2楽章と第3楽章の間にある間奏曲の美しさは、ライバルであるマタチッチ盤やガーディナー盤など全く問題にならないほどの極上の美演である。

これ以外にも、随所に見られる詩情溢れる抒情豊かな旋律の歌い方も完全無欠の美しさであり、ここぞという時の力強い表現も見事の一言である。

ただ管弦楽のベルリン・フィルが個性が強すぎるのか、よりコンサート的な演奏になっている感じがするのは否めない。

歌手陣も、いかにもカラヤン盤ならではの豪華さで、全く隙を感じない絶妙な配役である。

その扇の要にいるのはダニロ役のルネ・コロということになるが、ハンナに対する心境の微妙な移ろいを絶妙の歌唱で巧みに表現しているのはさずがという他はない。

また、ハンナ役のハーウッド、ヴァランシエンヌ役のストラータス、ツェータ男爵役のケレメン、そしてカミーユ役のホルヴェークも最高のパフォーマンスを示しており、これらの五重唱の極上の美しさにはただただため息をつくのみ。

カラヤンの演奏の巧さは言うまでもないが、この録音の特徴は色々な意味で純然たるスタジオ録音のオペレッタという点にある。

巨大なスケールの演奏で、すでにこのオペレッタに馴染んでいる人には少々違和感があるかも知れない。

だが、ベルリン・フィルの途轍もない美音とルネ・コロの名唱の前に、すぐそんなことは忘れてしまう。

第2幕の二重唱「すべてパリ風に」で低弦が猛烈なアタックをかけてくるところはまさに震えがくるような、足元がポッカリ空いたような浮遊感に、カラヤンが構築した美の空間にスッポリとはまってしまった。

20世紀の開幕期に発表されたこの作品、あるいはこのどこか未来的、人工的で、どこまでも続くかのような広がりを感じさせる演奏は、意外と曲の本質を突いているのかも知れない。

ちなみにカラヤンはウィーン・フィルとJ.シュトラウス「こうもり」を、DECCA及びライヴでの音源が残しているが、その演奏と比べると、はるかに引き締まった演奏を展開している。

随所にオーストリア出身の独特な個性を感じるのは、フィルハーモニア管と録音したJ.シュトラウス「こうもり」同様である。

これを聴くと、カラヤンがベルリン・フィルと「こうもり」をDGに録音しなかったのが極めて残念でならない。

録音は、通常盤でもなかなかの高音質である。

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2015年08月21日


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本盤には、ワイセンベルクのピアノ、カラヤンによる蜜月時代の名演集が収められている。

演奏はいかにも全盛期のカラヤン&ベルリン・フィル(チャイコフスキーはパリ管弦楽団)ならではの圧倒的なものである。

一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、唸るような低弦の重量感溢れる力強さ、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックで美音を振りまく木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなど、圧倒的な音のドラマが構築されている。

そして、カラヤンは、これに流麗なレガートを施すことによって、まさに豪華絢爛にして豪奢な演奏を展開しているところであり、少なくとも、オーケストラ演奏としては、本盤に収められたいずれの楽曲の演奏史上でも最も重厚かつ華麗な演奏と言えるのではないだろうか。

他方、ワイセンベルクのピアノ演奏は、カラヤン&ベルリン・フィルの中の1つの楽器と化していたと言えるところであり、その意味では、カラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な音のドラマの構築の最も忠実な奉仕者であったとさえ言えるが、よくよく耳を傾けてみると、ワイセンベルクの強靭にして繊細なピアノタッチが、実はカラヤン&ベルリン・フィルの忠実な僕ではなく、むしろ十二分にその個性を発揮していることがわかる。

カラヤンは、今を時めくピアニストとともにチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を録音する傾向があるようだ。

リヒテル、ワイセンベルク、ベルマン、そして最晩年のキーシンの4度に渡って同曲を録音しているが、そのいずれもが、これから世に羽ばたこうとしていた偉大なピアニストばかりであるという点においては共通している。

実に充実したスケールを備えた演奏で、パリ管弦楽団の抒情的な美しさを持つ魅力を生かしたカラヤンの演奏に対し、ワイセンベルクも、カラヤン設定のテンポと表現の中で、冴えた技によって明確な演奏をきかせてくれる。

美しい憂愁をたゆたうように歌いつぐ第2楽章は特に印象的で、デリケートなピアノにも注目される。

もちろん、カラヤン&パリ管弦楽団の演奏は凄いものであり、ベルリン・フィルとの間で流麗なレガートを駆使して豪壮華麗な演奏の数々を成し遂げていたカラヤンにしてみれば、パリ管弦楽団との本演奏では若干の戸惑い(特に、パリ管弦楽団において)なども見られないわけではないが、そこはカラヤンの圧倒的な統率力によって、さすがにベルリン・フィルとの演奏のレベルに達しているとは言えないものの、十分に優れた名演奏を行っていると言えるところだ。

ラフマニノフは、ワイセンベルクとカラヤンが残したレコーディングの中でもトップを争う素晴らしい出来栄え。

まずはカラヤン&ベルリン・フィルによる同曲史上最高と言いたくなる壮麗な伴奏には驚くほかはなく、その圧倒的な勢力に対峙するワイセンベルクの一種「クリスタル・ビューティー」とでも形容すべきピアニズムが、濃厚かつ華麗な抒情美の世界を展開する。

もっとも、流麗なレガートを駆使して豪壮華麗な演奏の数々を成し遂げていたカラヤンの芸風からすれば、ラフマニノフの楽曲との相性は抜群であると考えられるところであるが、カラヤンは意外にもラフマニノフの楽曲を殆ど録音していない。

カラヤンの伝記を紐解くと、交響曲第2番の録音も計画されていたようではあるが、結局は実現しなかったところだ。

したがって、カラヤンによるラフマニノフの楽曲の録音は、本盤に収められたピアノ協奏曲第2番のみということになり、その意味でも、本盤の演奏は極めて貴重なものと言えるだろう。

ベートーヴェンは、ワイセンベルクならではの研ぎ澄まされた技量と抒情を味わうことができる名演だ。

しかしここでもゴージャスなカラヤンサウンドが全体を支配していて、ピアノ協奏曲ではなく、あたかも一大交響曲を指揮しているような圧倒的な迫力を誇っている。

その重戦車の進軍するかのような重量感においては、古今東西のあらゆる演奏をわきに追いやるような圧巻のド迫力を誇っている。

このような演奏では、ワイセンベルクのピアノは単なる脇役に過ぎず、要は、いわゆるピアノ協奏曲ではなく、ピアノ付きの交響曲になっている。

それ故に、カラヤンのファンを自認する高名な評論家でさえ、「仲が良い者どうしの気ままな演奏」(リチャード・オズボーン氏)などとの酷評を下しているほどだ。

しかしながら、筆者は、そこまでは不寛容ではなく、本演奏は、やはり全盛期のカラヤン、そしてベルリン・フィルでないと成し得ないような異色の名演であると高く評価したい。

いわゆるピアノ協奏曲に相応しい演奏とは言えないかもしれないが、少なくとも、ベートーヴェンの楽曲の演奏に相応しい力強さと重厚さを兼ね備えていると思われるからである。

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2015年08月17日


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1970年代と言えば、カラヤン&べルリン・フィルの全盛時代に相当する。

この1970年代にカラヤンはレパートリーの拡充に注力し、ヴィヴァルディからマーラー、ベルク、シェーンベルク、ウェーベルンまでを録音し、オルフの録音も忘れることはできないし、また国歌集までをも録音した。

本BOXには、カラヤン3度目のベートーヴェン交響曲全集、ブラームス・チャイコフスキー・メンデルスゾーン・シューマンの交響曲全集、モーツァルト後期交響曲集、ブルックナーとマーラーの交響曲集、新ウィーン楽派管弦楽曲集、さらにカルメン&アルルの女、ペール・ギュント&十字軍の兵士シーグル、ヴェルディ序曲・前奏曲全集、時の終わりの劇、プロイセン&オーストリア行進曲集、10代のムターを世界に紹介することとなったモーツァルトとベートーヴェンの協奏曲録音、そしてカラヤンにとっては非常に珍しいバロック録音(クリスマス協奏曲集)など、充実のレパートリーを収録。

1970年代のカラヤン&ベルリン・フィルの名録音を集大成し、加えてベートーヴェンの数字ジャケ、ブルックナーの翼ジャケ、マーラーの虹ジャケなどオリジナル紙ジャケット&オリジナルカップリングで再現された豪華BOXとなっている。

カラヤン&ベルリン・フィルという黄金コンビの全盛時代(1970年代)の演奏は、それは凄いものであった。

分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていた。

カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、ポルタメントやアッチェレランド、流れるようなレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。

悪魔的とも言うべき金管楽器の鋭い音色や、温かみのある木管の音色、重厚な低弦の迫力、そして雷鳴のように轟くティンパニの凄さなど、黄金時代にあったベルリン・フィルの圧倒的な技量が、そうした劇的な要素を大いに後押ししている。

やはりこのように通して聴くことにより、今まで気づかなかったようなカラヤンの良さがあらためて発見できたところであり、録音後約40年経った今でも表現のダイナミックレンジの広さと隅ずみにまで行き届いた奇を衒わない創意に圧倒された。

今回は、日本の愛聴者が多いからの配慮であろうか、ブックレットに英語、ドイツ語に加え日本語の分厚い解説がついているのも嬉しい。

写真は案外少ないが、装丁もきれいで、内容的にはカラヤン時代のベルリン・フィルを支えたコントラバスのクラウス・シュトール氏の文章もありとても充実している(できればライナー・ツェペリッツ氏の言葉が聞きたいところであったが、今となっては不可能なのが残念)。

オペラを除くカラヤンのDG録音が単価200円で手に入るこの価格には驚きで、1枚1枚、解説を読み漁って大事な宝物のようにレコードを扱っていた30年前がウソのようである。

このBOXを持てば、クラシック音楽のレパートリーのうち重要なもののかなりの部分をほとんど決定盤と言っても良い最高の演奏で一網打尽にできるので、クラシック初心者には特にお薦めである。

1970年代に極められたカラヤン&ベルリン・フィルの極上の響きと流麗この上ない音楽は、確かに宇野功芳氏をはじめとして批判する人が多いのも分かる気もする。

しかし、亡くなった黒田恭一氏が「美しい音楽は、それが極まるとキラッと光って誰かを刺す」とカラヤンが亡くなった直後のレコード芸術の対談で語っていたが、それも至言である。

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2015年08月10日


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古今東西の名指揮者の中で、誰が最もモーツァルティアンかときかれた時、筆者はためらわずに最初にカラヤンに指を屈するであろう。

特に1960年代以降の円熟したカラヤンに。

1つにはカラヤンの天性が、モーツァルトの“歌”を歌うことができることである。

指揮者のタイプの中には、リズムに秀でた人、バランス感覚にすぐれた人、統率力のある人、個性的な音楽を作る人など、いろいろの特徴があるわけであるが(もちろんそれらを集成したのが大指揮者なのだが)モーツァルト演奏する場合は、特にこの作曲家の、こんこんと湧いて尽きぬ歌の泉とその千変万化の流れとを、直感的に本能的に捉えられる指揮者でないと、モーツァルトの美しさのエッセンシャルな部分を表現できないことになってしまう。

モーツァルトの音楽を精妙に造型する指揮者がいても、それだけではもうひとつ足りないのである。

ほとんどドミソでできたようなテーマでも、モーツァルトの場合は、不思議なことには“歌”なのだから。

その意味では現在に至るまで、カラヤンの右に出る指揮者はいないであろう。

さらには(当然のことだが)カラヤンはモーツァルトを良く研究し、正確に把握している。

その一例は、彼の後期シンフォニーの録音に際して、かなり大きな編成のオーケストラを使ったということである。

その理由は、彼自身の言葉によれば、「モーツァルトはいつでも60人、70人という当時としては大きなオーケストラの響きが好きだった、ということが手紙を読めばわかる」というのである。

事実その通り、モーツァルトはパリやウィーンの大きなオーケストラの響きを好んでいた。

カラヤン&ベルリン・フィルは、スケール大きな堂々たる演奏で、独自の自己主張を表した表情がときに牛刀をもって鶏を割く感も与えるが、いっぽうで磨き上げた音彩と柔らかいニュアンスが特色と言える。

ここに収められた9曲では、特に第32、33番が端麗な美感で聴き手を説得する。

また第29番は輪郭をぼかしたような響きとレガートの用法がカラヤン風であり、彼が独自のモーツァルト観を持っていたことを示している。

有名なト短調シンフォニー(K.550)は、どこでいつ演奏されたのか(あるいは何のために書いたのか)もわからない3曲の1つであるが、この曲には2つの版があり、あとの版ではクラリネットを加えて木管の響きを変えると同時に音を厚くしている。

その理由はいくつか推測できるとして、その中には、モーツァルトが大きな弦編成を考えていたということも挙げられよう。

この曲をひどく感傷的な理由で、原形のまま演奏することも行われるようだが、モーツァルトが自分の意志でわざわざ改作したものを、ことさらに原形に演奏するのは愚かなことではあるまいか。

カラヤンは? カラヤンはもちろんクラリネットを入れた形で演奏している。

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2015年07月30日


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1970年代半ばのカラヤンは、耽美的表現が完成した時期であり、カラヤンの切れ味鋭い棒の魔術をたっぷりと堪能できる。

演奏は文句のつけようがないほど素晴らしく、カラヤンはチャイコフスキーを十八番にして、得意中の得意としていたが、豪壮華麗な演奏で、チャイコフスキーらしいチャイコフスキーであることは間違いない。

ベルリン・フィルとの関係が最も良好であったこと、オーケストラの機能とカラヤンの表現意欲がピークにあったことをこのディスクは示す。

交響曲第4番はこれが6度目の録音。

「第4」はライヴ的な迫力が魅力の1971年盤と、最晩年の荘重な巨匠風の名演を聴かせてくれる1984年盤の間にあって、若干影が薄い感があるが、全盛期のカラヤンとベルリン・フィルの黄金コンビが成し遂げた最も完成度の高い名演は、この1976年盤ではなかろうか。

カラヤンは、優美なレガートを軸としつつ、どんなに金管を力奏させても派手すぎることなく、内声部たる弦楽器にも重量感溢れるパワフルな演奏を求め、ティンパニなどの打楽器群も含めて重厚な演奏を繰り広げたが、こうした演奏は、華麗で分厚いオーケストレーションを追求し続けたチャイコフスキーの楽曲との抜群の相性を感じる。

同時代の巨匠ムラヴィンスキーは、チャイコフスキーの「第5」を得意とし、インテンポによる荘重な名演を成し遂げたが、これに対してカラヤンの演奏は、テンポを目まぐるしく変えるなど劇的で華麗なもの。

交響曲第5番は、これが4度目の録音。

ムラヴィンスキーの「第5」は確かに普遍的な名演に違いないが、カラヤンの「第5」も、チャイコフスキーの音楽の本質を的確に捉えた名演だと思う。

まさに両者による名演は、東西の両横綱と言っても過言あるまい。

重厚でうなるような低弦、雷鳴のように轟くティンパニ、天国から声が響いてくるような甘いホルンソロなど、ベルリン・フィルの演奏はいつもながら完璧であり、そうした個性派の猛者たちを巧みに統率する全盛期のカラヤン。

この黄金コンビの究極の名演の1つと言ってもいいだろう。

生涯に何度も「悲愴」を録音したカラヤンであるが、これが6度目の録音。

先般、死の前年の来日時の録音が発売されて話題となったが、それを除けば、ベルリン・フィルとの最後の録音が本盤ということになる。

1988年の来日盤は、ライヴならではの熱気と死の前年とは思えないような勢いのある演奏に仕上がっているが、ベルリン・フィルの状態が必ずしもベストフォームとは言えない。

その意味で、カラヤンとベルリン・フィルという黄金コンビが成し遂げた最も優れた名演ということになれば、やはり本盤を第一にあげるべきであろう。

第1楽章の第1主題の展開部や第3楽章の終結部の戦慄を覚える程の激烈さ、第1楽章の第2主題のこの世のものとも思えないような美しさ、そして第4楽章の深沈とした趣き、いずれをとっても最高だ。

この黄金時代の録音は、録音の良さもさることながら、完全無欠なものに仕上がっていて、見事にカラヤン色に染められてしまったオーケストラの音色を味わう事が出来る最上の輸入廉価盤である。

カラヤンの録音は往々にしてホールの比較的後方から聴いているような柔らかい音色と、包み込まれる様なふくよかな中低域がその特色であり魅力でもあるかと思う。

全体的にこの上なく美しいチャイコフスキーで、いかにもカラヤンらしい表現ではあるけれども、ファーストチョイスで問題ないだろう。

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2015年07月27日


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ニューイヤー・コンサートが最も輝いた時(1987年1月1日)の歴史的なライヴ録音である。

惜しくも、たった1度しか実現しなかったカラヤン指揮ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートのライヴ録音が音源だ。

思えば今から四半世紀以上前のものだが、おそらく歴代ニューイヤー・コンサートの録音の中でも随一の出来だと思われる。

これは、ウィーン・フィルの楽団長が、最も思い出に残るニューイヤー・コンサートとして、この演奏会をあげていたことでも分かる通り、カラヤンの下、ウィーン・フィルが溢れんばかりの美音を提供し、カラヤンの意図を十全に汲み出していて、オーケストラとしても会心の演奏と言える。

1曲目、「こうもり」序曲の冒頭を聴いただけで、他の演奏との格の違いが実感される。

しかも、ニューイヤーというと、毎年曲が変わるので、どうしても初めて聴くような、あえて繰り返し聴かなくても……という曲が混じってしまうのだが、ここでは曲目を見て頂ければ分かるように、1曲残らず名曲がきら星のごとく並んでおり、シュトラウス・ウィンナ・ワルツ・ベストと何ら変わらない選曲であり、これも、カラヤンだけが許されたウィーン・フィルからの特別な計らいなのである。

したがって、これを、全てのクラシックファン、ことに初めてワルツ・ポルカを聴かれる方に、強く推薦したい。

リチャード・オズボーンの伝記によると、カラヤンは、この指揮の直前は、健康状態も最悪で、気力も相当に萎えていたというが、本盤を聴くと、どの楽曲とも生命力に満ち溢れた演奏を行っており、老いの影など微塵も感じさせない。

充分でない体調を押してなのだが、馥郁たるウィーン・フィルのサウンドを重厚に引き出して、しかもシュトラウス・ワルツの極意というか独特の呼吸が伴っているのは流石同国オーストリア人同士の阿吽なのかも知れない。

それにしても、カラヤンの指揮するウィンナ・ワルツは、実に豪華絢爛にして豪奢。

それでいて、高貴な優美さを湛えており、ウィーン・フィルも水を得た魚の如く、実に楽しげに演奏をしている。

ウィンナ・ワルツが持つ独特の『間』と『アクセント』を見事に体現しており、その1音1音に命を吹き込んだこの演奏は、どの楽曲にも生命力が満ち溢れている。

そして何よりも、ウィーン・フィルとカラヤン自身が音楽することを楽しんでいることが伝わってくる演奏である。

カルロス・クライバーもこんな演奏がしたくて、2回もニューイヤー・コンサートを引き受けたのかもしれない。

バトルの「春の声」での独唱も見事であり、このように役者が揃ったニューイヤー・コンサートは、まさに空前にして絶後であり、今後ももはや決して聴くことはできないだろう。

残念なのは、当時演奏されたはずの「皇帝円舞曲」が収録されていないことであるが、それを除けば、あまた市場に溢れている各種のニューイヤー・コンサートのCDの中でも、随一の名盤と言うべきであろう。

幸運にも筆者はこのライヴをテレビ中継で見ることができたのだが、その緊迫感ある演奏は以後(例えばクライバーやムーティが登場した折にも)お目にかかれなかったと記憶している。

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2015年07月23日


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本盤には、ビゼーが作曲した南フランスの牧歌的な風景の中で繰り広げられる劇音楽から編纂した馴染み深いメロディが次々に登場する「アルルの女」組曲と情熱的なスペイン情緒を背景にした歌劇の名旋律を独立したオーケストラに再編した「カルメン」組曲などが収められている。

本盤に収められた演奏は、カラヤンがこれらビゼーの2大有名管弦楽曲を手兵ベルリン・フィルとともに行った演奏としては、1度目の1970年盤のスタジオ録音ということになる。

1980年代にスタジオ録音された新盤も、一般的な意味においては、十分に名演の名に値すると言えるであろう。

しかしながら、本盤に収められた1970年の演奏があまりにも素晴らしい超名演であったため、本演奏と比較すると新盤の演奏はいささか落ちるということについて先ずは指摘をしておかなければならない。

カラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代は1960年代、そして1970年代というのが一般的な見方であると考えられるところだ。

この黄金コンビによる同時期の演奏は、分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの朗々たる響き、桁外れのテクニックを披露する木管楽器の美しい響き、そして雷鳴のようなティンパニの轟きなどが鉄壁のアンサンブルの下に一体化した完全無欠の凄みのある演奏を繰り広げていた。

そして、カラヤンは、ベルリン・フィルのかかる豪演に流麗なレガートが施すことによって、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功していたと言える。

しかしながら、1982年にザビーネ・マイヤー事件が勃発すると、両者の関係には修復不可能なまでの亀裂が生じ、この黄金コンビによる演奏にもかつてのような輝きが一部の演奏を除いて殆ど聴くことができなくなってしまった。

新盤に収められた演奏は1982〜1984年にかけてのものであり、これは両者の関係が最悪の一途を辿っていた時期でもあると言える。

加えてカラヤン自身の健康悪化もあって、新盤の演奏においては、いささか不自然なテンポ設定や重々しさを感じさせるなど、統率力の低下が顕著にあらわれていると言えなくもないところだ。

したがって、カラヤンによるこれらの楽曲の演奏を聴くのであれば、前述のようにダントツの超名演である1970年盤の方を採るべきであると考える。

演奏は、カラヤン一流の緻密な設計と巧妙な演出の光るもので、その豊かな表現力には舌を巻く。

カラヤンの指揮した舞台の付随音楽は天下一品といってよく、この「カルメン」組曲の前奏曲など、まさに幕開きの音楽にふさわしい劇場風の華やかな気分にあふれている。

「アルルの女」も文句のつけようのない卓越した演奏で、カラヤンの卓抜な棒がそれぞれの曲の性格をくっきりと浮き彫りにしている。

本演奏でカラヤンがみせる執念と集中力はたいへんなもので、手になれた作品を扱いながら、手を抜いたところは少しもなく、南欧特有の陽光に包まれた情緒を豊かに匂わせている。

ベルリン・フィルの木管セクションの軽妙洒脱な歌いまわしも絶妙といっていいほど冴え渡っており、愉悦感に満ち溢れた規範的な演奏を繰り広げている。

音質については、これまでリマスタリングが行われたこともあって、本従来盤でも十分に良好な音質である。

もっとも、新盤の演奏においては、とりわけ緩徐箇所における情感豊かな旋律の歌わせ方などにおいて、晩年のカラヤンならではの味わい深さがあると言えるところだ。

そして、管弦楽曲の小品の演奏におけるカラヤンの聴かせどころのツボを心得た語り口の巧さにおいては、新盤の演奏においてもいささかも衰えが見られないところであり、総じて新盤の演奏も名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。



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2015年07月09日


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オーストリア生まれのカラヤンによるシュトラウス・ファミリーの名曲集。

カラヤンが元旦恒例の「ニュー・イヤー・コンサート」に登場したのはその最晩年であったが、録音においては、既に50代の頃にこの素敵な名盤を遺していた。

何れもウィーン・フィルの伝統的な演奏スタイルと、カラヤン独特の美学が融合した名演に仕上がっている。

シュトラウス一家に代表されるウィンナ・ワルツは、あの3拍子の第2拍の後にごくわずかな間が入る独特のリズムが特徴であり、それはウィーンの人によれば、「学べるものではなく、感じなければならない」ということになる。

実際、ウィンナ・ワルツの微妙なリズムばかりでなく、そのリズムにのって歌われる流麗な旋律なども、すぐれた指揮者の演奏によると、とても粋な、ウィンナ・ワルツ特有の魅力が生まれることになる。

だが、だからといって、ウィーンの音楽家しかウィンナ・ワルツの独特の魅力は伝えられないかというと、そんなことはなく、また、例えばこの数年のウィーン・フィルの「ニュー・イヤー・コンサート」を聴いてもわかるように、同じウィーン・フィルでも指揮者によって、それぞれの個性が演奏に微妙に反映されている。

カラヤンも、周知のようにウィーンとは関係が深く、彼はザルツブルク生まれだが、父はウィンナ・ワルツの全盛期にウィーンに生まれているし、カラヤンも幼少期からしばしばウィーンを訪れ、また音楽の勉強の総仕上げをしたのもウィーンである。

そしてカラヤンがシュトラウスの音楽を知ったのは、まだ作曲家とそのテンポを知っている演奏家が活躍していた時代であった。

指揮者になってからも、その最初のオーケストラであるドイツのウルム時代から、《こうもり》をはじめシュトラウスの音楽をしばしば演奏した。

録音もカラヤンの初期から晩年まで、かなり頻繁に行い、それぞれの時期を代表する名演を遺していることは、改めて言うまでもないだろうが、このウィーン国立歌劇場の総監督時代のウィーン・フィル(1959年)との録音は忘れることができない。

カラヤンのシュトラウス・ファミリーの作品の演奏は、実際に踊るためのものではない聴くためのコンサート・スタイルの最右翼と言える。

殊に、このカラヤン全盛時代に演奏されたウィーン・フィルとの録音は、きわめてシンフォニックで豪華な響きに満たされており、ワルツ、ポルカといった軽い作品の中に新たな魅力を発見することができる。

モノゴトは“全力投球”をすると、優美さとか優雅な雰囲気、洒落た気分などという要素は、なかなかに出し難いものだ。

全力投球をすると、モノゴトはつい体に力が入り過ぎてしまい、柔軟性を失ってしまいがちであるが、ここにおけるカラヤンはそうではなく、シュトラウスの作品に対し、カラヤンはまさに全力投球をしており、手をゆるめるようなところは少しもない。

それでいて、ここに聴く演奏には、曲が強く要求してやまない優美な、洒落た雰囲気に満ち満ちていて、体に力が入り過ぎるような傾向がない。

なるほど、カラヤンという指揮者は、ややもすると通俗的なポピュラー曲と扱われかねないシュトラウスの作品でさえ、少しも力を抜くことなく、他の曲と同じような姿勢で取り組み、しかも作品が要求するものは的確に表現し得たのだと、改めて感服してしまう。

ここで注目されるのは、ほとんどの指揮者があまり取り上げないヨーゼフの《うわごと》である。

これはおそらくカラヤンの好みなのだと思うが、またウィーン・フィルのような大編成のシンフォニー・オーケストラの演奏ということも関係している。

「ワルツ王」も弟の《うわごと》をとりわけ愛していたそうだが、カラヤンもまた非常に好きだったに違いない。

このダンス音楽の枠を越えた幻想的な音楽の美しさをカラヤンほど素晴らしく表現した指揮者はいないし、ことにこのウィーン・フィルとの演奏は見事である。

他の曲もすべて洗練の極にある演奏であり、シュトラウスの音楽の魅力を堪能させてくれるのである。

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2015年06月22日


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本盤は、現在ではあまり演奏される機会に恵まれないオネゲルの交響曲第2、3番とストラヴィンスキーの協奏曲(弦楽合奏のための)を収録したアルバム。

いずれもカラヤン唯一の録音で、手兵ベルリン・フィルと1960年代末に編み出した豊饒な音空間、深刻で神秘的な響きに酔いしれる1枚。

カラヤンは新ウィーン楽派やバルトークあたりを除いてさほど20世紀音楽を録音していないので、彼が録音したストラヴィンスキーの《春の祭典》とかショスタコーヴィチの交響曲第10番やプロコフィエフの交響曲第5番、そしてこのオネゲルの交響曲第2、3番あたりは例外的な珍品に属するのかも知れない。

しかし、第2次世界大戦の苦渋を純楽器交響曲に昇華させたオネゲルの名作2曲を、カラヤンは手兵ベルリン・フィルの緊張感溢れる弦のサウンドも相俟って、きわめて高純度な演奏で聴かせる。

とりわけこのCDは、カラヤンの現代音楽への取り組みの初期の録音だけあって貴重なもので、戦争中・戦争直後の時代が色濃く反映された作品を、高い集中力と緊張感で表現している。

一般的にはそれほど馴染みのないオネゲルの交響曲も、カラヤンの手にかかると実に説得力のある演奏になる。

2曲とも実に鮮やかなアンサンブルで、音楽の輪郭が明快だ。

第2番は弦楽合奏の表現がとても多彩で、しかも劇的な彫りが深く、音楽をおもしろく、しかもわかりやすく聴かせる演奏と言える。

第3番ではカラヤンの読みが常に鋭く、抒情と劇性の配分とその音楽的な効果が見事に表現されており、終楽章が特に傑出した演奏だ。

オネゲルの交響曲第2、3番は第2次世界大戦前後に書かれただけあって、重苦しい曲だが、カラヤンはそれだけで終始せず、この両曲の美しさと悲しみを巧みに表現している。

弦楽オーケストラの張り詰めたドラマの最後にかすかな救いのようにトランペットが聞こえる第2番、「怒りの日」や「深き淵より」が呼応する第3番、いずれも素晴らしい。

とりわけ弦楽器の緊密なアンサンブルが生み出す濃厚な官能性と輝きは、R.シュトラウスやマーラーの場合と同じで、地中海風というよりむしろウィーン世紀末風なオネゲル像が聴かれる。

この演奏は他の演奏に比べて粘着性が高く、演奏速度もかなり遅い部類に入り、まさにデュトワの演奏とは対極にあるようだ。

ヴェルディやチャイコフスキーばりに歌われる旋律については賛否もあろうが、交響曲第2番終楽章のくすんだトランペットや、交響曲第3番の中間楽章では、ゴールウェイのふくよかなフルートの音色を楽しむことができ、そうした色彩感だけでも至福の気分を味わうことができる。

特に第3番では、全体がきわめて劇的に表現されているだけでなく、その中に何時になく深い悲しみの表情が宿っているのが強く印象に残る。

カラヤンは「怒りの日」では重厚かつ凶暴に荒れ狂い、「深き淵より」では地の底で深く苦悩・思索し、「我らに平和を」では絶望に打ちひしがれ、救いを求めてのたうち回り、すべてに疲弊し果てた後に、ソロヴァイオリンによって奏でられる「天からの一筋の光」にかすかな救いを感じるという静謐さを高度な精神性を持って描いていて、聴き手の胸を抉る。

第2次世界大戦の悲惨な経験した1人として、カラヤンにとっても共感の持てる作品だったのだろう、同曲をこれほどまでに深く表現し、聴くたびに何かを考えさせられる深淵な演奏は珍しい。

それにしてもオーケストラの旨さ、ふくよかさ、きめの細かさはどうだろう。

当時のベルリン・フィルの弦楽器の粘ったテクスチュア感も凄い。

音響美だけに終わらず、カラヤンとしては珍しく曲への深い共感が感じられる1枚で、作品のツボを心得たカラヤンの流麗な解釈も改めて聴き手をひきつける。

ストラヴィンスキーの協奏曲(弦楽合奏のための)も傑出した演奏で、これらはカラヤン&ベルリン・フィル最盛期の名演と高く評価したい。

カラヤンも戦争体験者、懺悔の1枚であろうか。

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2015年06月19日


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カラヤンは、特にお気に入りの楽曲については何度も録音を繰り返したが、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」についてもその例外ではない。

DVD作品を除けば、ベルリン・フィルとともに本演奏を含め4度にわたって録音(1940、1957、1964、1977年)を行うとともに、ウィーン・フィルとともに最晩年に録音(1985年)を行っている。

いずれ劣らぬ名演であるが、カラヤンの個性が全面的に発揮された演奏ということになれば、カラヤン&ベルリン・フィルが全盛期にあった頃の本演奏と言えるのではないだろうか。

カラヤン&ベルリン・フィルは、クラシック音楽史上でも最高の黄金コンビであったと言えるが、特に全盛期でもあった1960年代から1970年代にかけての演奏は凄かった。

この当時のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏は、分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていたと言える。

カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。

本演奏においてもいわゆる豪壮華麗なカラヤンサウンドを駆使した圧倒的な音のドラマは健在で、カラヤン得意の曲でもあるだけに、演奏には寸分の隙もなく、ベルリン・フィルの優秀な機能を駆使して、鮮やかな音楽に仕上げている。

艶やかな美感がカラヤン的であるが、全体に彼としては押しつけがましくない解釈が好ましく、しかも情熱的な緊張にあふれ、溌剌とした生命力を感じさせる。

均衡感が強い造形で、交響的様相を濃厚に表した好演で、この作品がドイツ・ロマン派の延長線上にあることを示しており、この曲に対する先入観も満足させる演奏で、そこにカラヤンの自己主張があることは言うまでもない。

反面、民族性の表出や古典的な造形を打ち出すことよりも、中庸の安定と演奏の洗練が重視されているようで、そのため快適な音の魅力と流暢な表情が耳に快く、それが一種の楽天性を感じさせるのもカラヤンらしさと言えるのだろう。

冒頭のダイナミックレンジを幅広くとった凄みのある表現など、ドヴォルザークの作品に顕著なボヘミア風の民族色豊かな味わい深さは希薄であり、いわゆるカラヤンのカラヤンによるカラヤンのための演奏とも言えなくもないが、これだけの圧倒的な音のドラマの構築によって絢爛豪華に同曲を満喫させてくれれば文句は言えまい。

後年のカラヤンの演奏ほど個性的ではないが、デュナーミクの幅広い処理や独自のルバートなど、カラヤンらしい表情を随所で味わうことができる。

1985年代のウィーン・フィルとの録音も確かにすばらしいのだけれど、カラヤンのドヴォルザーク演奏の典型的な表現はその前のベルリン・フィルとの録音の方がはっきりしている。

あるがままに、という姿勢が全然なく、すべてをつくり込んだ、ある意味ではとても強引な演奏だ。

もしも、この曲にボヘミアの作曲家のどこか牧歌的な味わいを求めようとするなら、当てが外れることになる。

しかし、先入観を捨て、指揮者の美学、時代の美学の反映をそこに聴きとろうとするなら、このカラヤンとベルリン・フィルの演奏は理想的ではないだろうか。

ドヴォルザークは田舎の作曲家なんぞじゃなく、交響曲第9番は巧みに効果を組み込んだ名曲……でもあった。

筆者としては、カラヤンの晩年の清澄な境地を味わうことが可能なウィーン・フィルとの1985年盤の方をより上位の名演に掲げたいが、カラヤンの個性の発揮という意味においては、本演奏を随一の名演とするのにいささかの躊躇をするものではない。

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2015年06月18日


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広範なレパートリーを誇ったカラヤンであるが、カラヤンは必ずしもシューベルトを得意とはしていなかったようである。

カラヤン自身は、シューベルトをむしろ好んでおり、若き頃より理想の演奏を行うべく尽力したようであるが、難渋を繰り返し、特に、交響曲第9番「ザ・グレイト」に関してはフルトヴェングラーに任せるなどとの発言を行ったということもまことしやかに伝えられているところだ。

実際に、レコード芸術誌の「名曲名盤300選」などにおいても、シューベルトの交響曲第8番「未完成」や交響曲第9番「ザ・グレイト」の名演として、カラヤン盤を掲げた著名な音楽評論家が皆無であるというのも、いかにカラヤンのシューベルトの評価が芳しいものでないかがよく理解できるところだ。

しかしながら、それほどまでにカラヤンのシューベルトの演奏は出来が悪いと言えるのであろうか。

本盤に収められているのは、カラヤンによる唯一のシューベルトの交響曲全集からセレクトされた2枚組である。

そして、カラヤンはシューベルトをその後一度も録音しなかった。

したがって、本演奏は、いずれもカラヤンによるこれらの交響曲の究極の演奏と言っても過言ではあるまい。

そしてその演奏内容は、他の指揮者による名演とは一味もふた味も異なる演奏に仕上がっている。

円熟のきわみにあった帝王とベルリン・フィルの名コンビぶりは、若書きの交響曲から、ゴージャスなサウンドを引き出して、比類のない魅力を引き出すことに成功。

ともに、3回ずつ、セッション録音を残している《未完成》と《ザ・グレイト》は、当ディスク所収の演奏が3回目のものであり、すみずみまでカラヤンの美学に貫かれているのが特徴だ。

本演奏に存在しているのは、徹頭徹尾、流麗なレガートが施されたいわゆるカラヤンサウンドに彩られた絶対美の世界であると言えるだろう。

シューベルトの交響曲は、音符の数が極めて少ないだけに、特にこのようないわゆるカラヤンサウンドが際立つことになると言えるのかもしれない。

したがって、シューベルトらしさといった観点からすれば、その範疇からは大きく外れた演奏とは言えるが、同曲が持つ音楽の美しさを極限にまで表現し得たという意味においては、全盛期のカラヤンだけに可能な名演と言えるのではないかと考えられる。

また、シューベルトの心眼に鋭く切り込んでいくような奥の深さとは無縁の演奏ではあると言えるが、これだけの究極の美を表現してくれたカラヤンの演奏に対しては文句は言えまい。

なお、カラヤンは当録音の以前にもシューベルトの楽曲を録音しているが、本演奏のような美の世界への追求の徹底度がやや弱いきらいがあり、筆者としては本演奏の方をより上位に掲げたい(カラヤンを好まない聴き手には、他の録音の方がより好ましい演奏に聴こえることも十分に考えられるところである)。

いずれにしても、本演奏は、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルが醸成した究極の美の世界、そしてカラヤン流の美学が具現化された究極の絶対美の世界を堪能することが可能な極上の美を誇る名演と高く評価したい。

併録の劇音楽「ロザムンデ」序曲も、カラヤンの美学に貫かれた素晴らしい名演だ。

音質は、従来CD盤でも比較的満足できる音質であったと言える。

数年前にリマスタリングも施されたことによって、音質は更に鮮明になるとともに音場が幅広くなったように感じられるところであり、筆者も当該リマスタリングCD盤を愛聴している。

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2015年06月06日


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カラヤンはロシアものも大変巧かったが、このディスクに収められた曲目はそのよい例で、カラヤン&ベルリン・フィルのコンビの実力を如実に示した卓抜な演奏だ。

本盤に収められたR・コルサコフによる交響組曲「シェエラザード」の演奏は、カラヤンによる唯一の録音である。

カラヤンは、同じロシア5人組のムソルグスキーによる組曲「展覧会の絵」やチャイコフスキーによる3大バレエ音楽の組曲を何度も録音していることに鑑みれば、実に意外なことであると言えるであろう。

その理由はいろいろと考えられるが、何よりもカラヤン自身が本演奏の出来に十分に満足していたからではないだろうか。

それくらい、本演奏は、まさにカラヤンのカラヤンによるカラヤンのための演奏になっていると言えるだろう。

この曲の交響的な性格と標題音楽的な性格の中間をいくような表現で、カラヤンは全編をシンフォニックに華麗に仕上げながらも、そこに東洋的なムードを巧みに盛り込み、音による豪華絢爛たる絵巻を繰り広げている。

第1曲の「海とシンドバッドの船」は、テンポが少し速いような気がするが、第2曲以後は余裕をもった指揮ぶりでアラビアン・ナイトの世界へ聴き手を誘ってくれるかのようだ。

本演奏は1960年代後半のスタジオ録音であるが、これはカラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代に相当している。

ベルリン・フィルにとってもあまたのスタープレイヤーを擁した黄金時代であり、健康状態にも殆ど不安がなかったカラヤンによる圧倒的な統率の下、凄みのある演奏を繰り広げていた。

鉄壁のアンサンブル、金管楽器のブリリアントな響き、木管楽器の超絶的な技量、肉厚の弦楽合奏、雷鳴のようなティンパニの轟き(もっとも、この時はフルトヴェングラー派のテーリヒェンが演奏していたが)などを駆使しつつ、これに流麗なレガートを施したいわゆるカラヤンサウンドとも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していたと言える。

こうしたカラヤンサウンドは、本演奏においても健在であり、おそらくはこれ以上は求め得ないようなオーケストラの極致とも言うべき演奏に仕上がっている。

加えて、当時世界最高のコンサートマスターと称されたシュヴァルベによるヴァイオリンソロの美しさは、抗し難い魅力に満ち溢れており、本演奏に華を添えていることを忘れてはならない。

また、オペラを得意としたカラヤンならではの演出巧者ぶりは同曲でも存分に発揮されており、各組曲の描き分けは心憎いばかりの巧さを誇っており、ことに劇的にまとめた終楽章は圧巻だ。

このような諸点を総合的に勘案すれば、本演奏は非の打ちどころがない名演と評価し得るところであり、カラヤンとしてもこの名演を凌駕する演奏を行うことは困難であることを十分に自覚していたのではないかとさえ考えられるところだ。

併録のイタリア奇想曲や大序曲「1812年」も、カラヤン唯一の録音であるが、これまた全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏の凄さを感じることが可能な素晴らしい名演だ。

イタリア奇想曲は、次から次へ現れる親しみ易い旋律展開は全くカラヤン向きと言えるところであり、ベルリン・フィルの演奏技術とカラヤンの劇的な演出に圧倒される。

カラヤンは、大序曲「1812年」において、冒頭にロシア正教による合唱を付加している。

さらに終結部にも付加すればより効果的であったのではないかとも思われるが(デイヴィスやマゼールなどの演奏に例あり)、十分に堪能できる名演であり文句は言えまい。

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2015年05月30日


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本盤には、カラヤンの最後の来日公演(1988年)のうち、初日(5月2日)に演奏されたモーツァルトの交響曲第29番及びチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」が収められている。

当時のカラヤンは、ベルリン・フィルとの関係に修復不可能な溝が生じていたこと、そして、死を1年後に控えたこともあって健康状態も芳しいとは言えなかったことなどから、心身ともに万全とは言い難い状況にあったと言える。

1986年に予定された来日公演を、自らの病気のためにキャンセルしたカラヤンであったが、我が国を深く愛するとともに、サントリーホールの建設に当たっても様々な助言を行ったこともあり、心身ともに万全とは言えない中でも、気力を振り絞って来日を果たしたところであり、筆者としては、こうしたカラヤンの音楽家としての献身的な行為に、心から敬意を表するものである。

もっとも、カラヤンのそうした心身ともに万全とは言えない状態、そしてカラヤンとベルリン・フィルとの間の抜き差しならない関係も本演奏に影を落としていると言えるところであり、本演奏は、随所にアンサンブルの乱れやミスが聴かれるなど、カラヤン&ベルリン・フィルによるベストフォームにある演奏とは必ずしも言い難いものがある。

モーツァルトの交響曲第29番は、本演奏の1年前にベルリン・フィルとともに行ったスタジオ録音(1987年DG)、加えてチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」で言えば、先般SACD化されたベルリン・フィルとともに行った録音(1971年EMI)の方がより優れた名演であり、これらの名演と比較して本演奏を貶めることは容易ではあると言えるだろう。

現に、レコード芸術誌において、とある高名な音楽評論家が本演奏について厳しい評価を下していたのは記憶に新しいところだ。

しかしながら、本演奏については、演奏上の瑕疵や精神的な深みの欠如などを指摘すべき性格の演奏ではない。

そのような指摘をすること自体が、自らの命をかけて来日して指揮を行ったカラヤンに対して礼を失するとも考えられる。

カラヤンも、おそらくは本演奏が愛する日本での最後の演奏になることを認識していたと思われるが、こうしたカラヤン渾身の命がけの指揮が我々聴き手の心を激しく揺さぶるのであり、それだけで十分ではないだろうか。

そして、カラヤンの入魂の指揮の下、カラヤンとの抜き差しならない関係であったにもかかわらず、真のプロフェッショナルとして大熱演を繰り広げたベルリン・フィルや、演奏終了後にブラヴォーの歓呼で熱狂した当日の聴衆も、本演奏の立役者である。

まさに、本演奏は、指揮者、オーケストラ、そして聴衆が作り上げた魂の音楽と言っても過言ではあるまい。

このような魂の音楽に対しては、そもそも演奏内容の細部に渡っての批評を行うこと自体がナンセンスであり、我々聴き手も虚心になってこの感動的な音楽を味わうのみである。

いずれにしても、筆者としては、本演奏は、カラヤン&ベルリン・フィル、そして当日会場に居合わせた聴衆のすべてが作り上げた圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

音質は、1988年のライヴ録音であるが、従来CD盤でも十分に満足できる良好なものであると評価したい。

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史上最高のレコーディング・アーティストであったカラヤンによる最後の演奏・録音となった楽曲はブルックナーの交響曲第7番で、ウィーン・フィルとの演奏(1989年)である。

言うまでもなく、さすがにそこまで断定的な言い方をしなくとも、大方の音楽ファンは、カラヤンによるブルックナーの最高の名演と言えば、最後の録音でもある「第7」を掲げるのではないだろうか。

ただ、それは、通説となっているカラヤンの個性が発揮された演奏ではなく、むしろ、カラヤンの自我が影を潜め、只管音楽そのものに奉仕しようという、音楽そのものの素晴らしさ、魅力を自然体で語らせるような趣きの演奏に仕上がっており、もちろん、筆者としても、至高の超名演と高く評価をしているが、全盛期のカラヤンの演奏とはおよそかけ離れたものとも言えるところだ。

もっともカラヤンの個性が明確にあらわれているのは、カラヤン&ベルリン・フィルが蜜月時代にあり、しかも全盛期にあった1970年代の録音になる。

カラヤンによるブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」の録音としては次に掲げる2種が存在している。

最初のものは1971年度レコード・アカデミー賞を受賞した本盤のベルリン・フィルとの演奏(1970年)(EMI)、次いで、その後、カラヤンによる唯一のブルックナーの交響曲全集に発展していくことになるベルリン・フィルとの演奏(1975年)(DG)である。

いずれもカラヤンが心技共に円熟した時期の録音で、全体がきりりと引き締まっている。

カラヤンは、ベルリン・フィルの持てる力と特質とを充分に発揮させ、いわゆる泥臭さのない明朗な音で、都会的とも言える新しい感覚をもってブルックナーを再現している。

カラヤン&ベルリン・フィルの演奏は、オルガンのような重量感はあっても少しも重苦しくなく、フィナーレにそれがよく示されている。

ベルリン・フィルの技術はさすがに高度なものだし、アンサンブルも緻密で、精緻な美しさを存分味わうことができる。

カラヤンもオーケストラも、脂の乗り切っていることを示す力演なのである。

とはいえこの2種の録音が5年しか離れていないにしては、この両者の演奏の装いは大きく異なっている。

EMIとDGというレコード会社の違い、ダーレムのイエスキリスト教会とベルリン・フィルハーモニーホールという会場の違いもあるが、それだけでこれだけの違いが生じるというのはおよそ信じ難いところだ。

いずれも実に感覚的に磨かれた壮麗なブルックナーであるが、カラヤン的な個性、カラヤン&ベルリン・フィルの全盛期ならではの演奏の豪快さ、華麗さといった点においては、1975年のDG盤の方にその特色があらわれていると言えるだろう。

1975年盤は、旋律は冒頭から極めて明快に力強く歌っているが、アーティキュレーションにカラヤンの個性が濃厚に示されているのが興味深い。

これに対して、本盤(1970年)の演奏は、むしろ、この時期のカラヤンとしては極力自己主張を抑制し、イエスキリスト教会の残響を巧みに生かした荘重な演奏を心がけているとさえ言えるところであり、カラヤンのブルックナーのなかでは好ましい演奏と言えよう。

その意味では、至高の超名演である「第7」(1989年)に繋がる要素も存在していると言ってもいいのかもしれない。

流麗なレガート、ここぞという時のブラスセクションの迫力などは、いかにも全盛期のカラヤン、そしてベルリン・フィルならではのものであるが、それがいささかも外面的なものとならず、常に内容豊かで、音楽の有する根源的な迫力をあますことなく表現し尽くしているのが素晴らしいと言える。

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2015年05月23日


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カラヤンの長く、広いレコーディング・レパートリーにおいて、生涯ただ1度だけ取り上げたニールセンの作品、それがこの交響曲第4番《不滅》である。

しかし、北欧の音楽に無縁というよりは、シベリウスやグリーグに極めて優れた演奏を聴かせていたことを思えば、カラヤンがニールセンをとりあげたことに何の不思議はない。

むしろ、シベリウスやグリーグに比べると知名度が必ずしも高くないニールセンを1981年にとりあげて録音していたカラヤンの慧眼に感服させられる。

リチャード・オズボーン著の伝記によると、カラヤンがこの曲を録音に選んだのは「第一次世界大戦とその恐るべき遺産に関連していたため」だったという。

また、作曲家自身の発言では「音楽のみが完全に表現しうるもの━━生への根源的な意志」がこの曲のテーマであり、カラヤンがそのテーマに深く共感したのだそうだ。

演奏は、例によって流麗にして豪華、深く広大な息づかいを感じさせ、それでいて力感も不足しておらず、スケールも大きい。

カラヤンの耽美主義的な表現は、総じて遅めのテンポで扱った根本的なアプローチのありかたに強く反映している。

冒頭の対照的な主題でカラヤンが特に意識的にコントラストを与えるようなアクセントづけを行っているところにも明白であるが、その後の進行の曲折のありようをカラヤンほど微細な処置というか、細部拡大主義というか、精密に扱った指揮者を知らない。

ニールセンの6曲の中で特にレコードの数が多いのが第4番の《不滅》であるが、多くの指揮者がニールセン的変化を直線的に扱っているのに対して、カラヤンはエモーションの内面的なものをかつてどの指揮者からも聴かれなかったほど透かし彫りのように浮き上がらせる。

そのいちばん目立った例は、アダージョの静寂たる佇まいの中に込められた内的情熱の沈潜である。

カラヤンのピアニッシモのコントロールの絶妙さは改めて贅言を要するまでもないところだが、《不滅》という暗示的な標題が生命と同じような音楽の永遠性の息吹きを伝えることをモットーに打ち出したニールセンの意図は、カラヤンによってこの上もなく見事に実現されているのである。

ベルリン・フィルの弦がまさに、虹を描くように次々と鮮やかな音色を聴かせ、カラヤンが壮大でダイナミックにまとめている。

素朴さ、土臭さに欠けるという指摘もされたそうだが、カラヤンにそうした要素を求めるのは文字通り「無い物ねだり」であろう。

デンマークでは「日曜日の晴れ着を着た農夫」と評され、日本でも、当時のレコード芸術では、小石氏の推薦評価は貰ったものの、もう1人の評者である大木氏からは「ベルリン・フィルの大運動場」と酷評された演奏である。

しかし、ニールセンはデンマークのローカルな作曲家ではない。

それどころか、シベリウスと並ぶ20世紀の大交響曲作曲家であり、カラヤンは、圧倒的な統率力でベルリン・フィルの技量を最大限に発揮させて、ニールセンの傑作交響曲を等身大に演奏したのに過ぎない。

録音当時のカラヤンは、相当に体力が衰えていたというが、冒頭から、そうとは到底思えないような生命力に満ち溢れた演奏を繰り広げており、筆者はこの演奏を聴いて、ニールセンの音楽の可能性を感じ取ることができた。

第2部の北欧的抒情も実に美しく、第3部の弦楽合奏の重量感もベルリン・フィルならではのもので、第4部の終結部のティンパ二の連打の圧倒的な大迫力。

前述のように、ニールセンを北欧のローカルな作曲家と看做す者からは素朴さを欠くとの批判も予測されるが、筆者としては、ニールセンを国際的な大交響曲作曲家としての認知に導くことに貢献した大名演であると評価したい。

音質はもともと抜群に優れていたが、SHM−CD化により更に目覚ましく向上している。

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早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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