ワルター

2016年03月13日


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ワルター晩年の貴重なステレオ録音ライヴラリーの中でも特に素晴らしい演奏を味わえる1枚である。

両曲ともに、ワルターならではのヒューマニティ溢れる情感豊かな名演だ。

特に、「第5」については、この曲を語る上で忘れてはならない名盤で、他のどの演奏よりも美しく、同曲最高の名演と特に高く評価したい。

第1楽章など、実にゆったりとしたテンポで開始するが、その懐の深さは尋常ではなく、初めてこの曲を聴くような新鮮さを感じさせる。

緩徐楽章など天国的に美しく、随所に感じられるニュアンスの豊かさ、繊細さも至高・至純の美しさに満ち溢れている。

それでいて、第3楽章などは力強さに満ち溢れており、決して典雅な優美さ一辺倒には陥っていない。

比較的小品的な扱いをされるこの曲の魅力を再発見させてくれる素晴らしい演奏内容である。

DSDリマスタリングによる高音質化も、決して嫌みのない音質に仕上がっており、このシリーズでは成功例に掲げられるだろう。

「未完成」も初出以来多くの評論家やファンが認める名演中の名演で、この曲の持つロマンティシズムを情緒纏綿に謳い上げた素晴らしいもの。

「未完成」には、最近では、ウィーン風の優美な情緒よりも、よりシリアスにシューベルトの内面を掘り下げていく、いわば辛口の名演が増えつつあるが、本盤は、ウィーン風の優美な情緒を売りにした古典的な名演と言えるだろう。

かつての古典的な名画に「未完成交響楽」があるが、本盤の演奏はまさに、当該名画のイメージがあり、ウィーン風のニュアンス豊かな絶美の音楽がどこまでも醸し出されていく。

如何にもワルターらしい曲を慈しむような丁寧な表現が何とも素敵で、特にオーケストラがニューヨーク・フィルという事で、弦パートの絹のような芳純な味わいが何とも言えない。

特に、ゆったりとしたテンポで情感豊かに演奏していく第2楽章が特に秀逸だ。

冒頭の淡々とした表現から次第に盛り上がって行く様子も実に自然で、例によって曲の随所に「歌」が溢れているところがワルターの真骨頂と言えよう。

傑作歌曲を数多く残したシューベルトの曲中に潜む多くの「歌」を表現出来た最後の指揮者の1人がワルターであった事は紛れもない。

録音はSACD盤がベストであるが、DSDリマスタリングも「第5」ほどではないものの成功しており、通常CDとしては、やはり本盤を推したい。

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2015年09月05日


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ワルターはモーツァルトの「第40番」を最も得意なレパートリーの1つにしており、レコードにも数々の名演を遺したが、その中のベストは1952年5月18日にウィーンのムジークフェラインザールで行われた演奏会の実況録音である。

従ってこれはワルターの全レコード中でも特筆すべきものと言えよう。

当日のプログラムはこの「第40番」のあとにマーラーの歌曲と「大地の歌」が組まれたわけで、よだれが出るとはこのことである。

ワルターの「40番」では、ニューヨーク盤は仕上げが完璧であるが、寂寥感に欠け、その点でかなり満足させられるベルリン国立盤とコロンビア盤には表現上の欠点がある。

ウィーン盤はこれらの短所を補うとともに、ウィーン・フィルの魅力と、実演の長所を併せ持ち、録音も当時の実況盤としては十二分に満足し得るものであり、ワルターを愛する人はもちろん、この曲に心惹かれる人にとっては絶対に聴き逃せぬ名盤である。

第1楽章はテーマにつけられた上行ポルタメントの懐かしさがすべてだ。

この美しい主題をこれ以上チャーミングに指揮した人はおらず、ワルターもウィーン・フィルだからこそ、これだけ思い切ってできたのであろう。

テンポはむしろ速めで、第2テーマ以外はテンポの動きもあまり目立たず、表情、音色とも、極めて透明に運ばれる。

しかし細部のニュアンスはほとんど即興的と思われるほど自然に生きており、例の再現部のルフトパウゼも最高だ。

この楽章全体を通じて〈美への激しい祈り〉〈より美しいものへの魂の羽ばたき〉を実感させ、漲るような憧れの情が極まって哀しさを呼んでいる。

聴いていて、どこまでがワルターで、どこまでがウィーン・フィルで、どこまでがモーツァルトなのか判然としない。

造型的にも完璧の一語に尽きよう。

第2楽章も速めで、音楽は常に弱めに、静かに、虚無感を湛えて運ばれ、それが聴いていてたまらない。

まさに〈秋の野をひとり行くモーツァルト〉である。

リズムの良さ、敏感さ、瑞々しくも寂しい漸強弱、そして第2テーマの何というピアニッシモ! その直前の何という感情の高まり!

しかもそれらはいかにも融通無碍、あたかもワルター自身がピアノを弾くような即興性をもって行われてゆく。

ワルターの到達したこの境地に深く頭を下げずにはいられない。

メヌエットは速めに、きりりと造型されており、ニューヨーク盤の豊かさ、コロンビア盤の大きさといった特徴がないので、全曲中ではやや物足りなさを感じさせるかも知れないが、その不満もトリオが解消してくれよう。

弦の三度のハーモニーは人間の心そのままを伝えている。

フィナーレは出のテンポとリズムの良さにハッとする想いで、第2テーマで遅くする呼吸もこたえられない。

まさにワルターの類稀な才能の表われと言えよう。

この部分のウィンナ・クラリネットの溶けるような柔らかさも絶品で、第1稿のオーボエ版ではこの美しさは出ない。

全体の響きに濁りのないウィーンならではで、音色だけで心をとらえられてしまうのである。

モーツァルトの世界にこんな演奏を持てたことに、われわれは心から感謝しなくてはならないだろう。

カップリングの「第25番」はザルツブルク音楽祭における実況盤であるが、会場のせいか残響に乏しく、そのためもあってワルターの表現も非常に厳しく、真剣勝負的に聴こえる。

ワルターのモーツァルトで、これほど深く内容を抉った、凄まじい迫力に満ちた演奏はごくごく少なく、第1楽章の疾風怒濤、第2楽章の弦の歌、第3楽章の慟哭の響き、第4楽章の終結の一刀入魂とも言うべき決め方、いずれも見事である。

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2015年08月17日


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マーラーの直弟子であるワルターやクレンペラーは、すべての交響曲の録音を遺したわけではないが、録音された交響曲については、両指揮者ともにいずれも水準の高い演奏を行っている。

交響曲第1番は、クレンペラーが録音していないだけに、ワルターの独壇場ということになるが、マーラーの愛弟子の名に恥じない素晴らしい超名演と高く評価したい。

コロンビア交響楽団という臨時編成の、しかも弦のプルトの少ないオーケストラを振って、死の1年前のワルターは一分の隙もない、最も音楽的、最も完璧なマーラーを世に残した。

それは、CBSコロンビアが、まだ40代に入ったばかりの若いバーンスタインを起用してマーラー全集を企画していることを知ったワルターが、すでに自分にはそれだけの体力がないことを悟り、最後の力をふりしぼって示した「これぞ真のマーラー」の姿であった。

この録音を耳にしたバーンスタインは、おそれおののき、全集録音を延期したのである。

「音楽は純粋に人を魅了し、楽しませ、喜ばせ、豊かにするのと同時に、人々に対して一種の倫理的な呼びかけをする」とワルターは言っている。

ワルターはマーラーの愛弟子だけに、マーラー作品の理解度が深く、ここでは、マーラーの青春時代の喜びと苦悩を描いたこの曲を、あたたかく表現している。

この作曲家ならではの耽美的な特徴を、実に見事に表出した演奏で、作品の全篇にあふれる清新な美しさと、ロマンティックな情感を、これほど自然にあらわした演奏も珍しい。

同曲は、マーラーの青雲の志を描いた、青春の歌とも言うべき交響曲であるが、死を1年後に控えた老巨匠であるワルターの演奏には、老いの影など微塵も感じられず、若々しささえ感じさせる力強さが漲っている。

マーラーの交響曲中、「第4」と並んで古典的な形式を維持した同曲に沿って、全体的な造型を確固たるものとしつつ、生命力溢れる力強さから、抒情豊かな歌い方の美しさに至るまで、マーラーが同曲に込めたすべての要素を完璧に表現している点が実に素晴らしい。

むしろ、マーラーが人生の最後の時期に至って、過去の過ぎ去りし青春の日々を振り返っているような趣きが感じられる演奏ということが出来るのかもしれない。

ところで、ワルターのマーラーを言えば、後期ロマン派風の濃厚な演奏、というように短絡的に考える人が多いが、事実は異なる。

師を誰よりも敬愛し、その音楽に傾倒したワルターであるが、そのスコアの読み方は他の指揮者とは違っていた。

マーラーがしつこいくらい丹念に書き込んだ、後期ロマン派時代の指揮者としての演奏プランをワルターは白紙に戻し、取捨選択し、すっきりとした古典音楽として再生した。

すなわち、いつの時代にも通用する芸術として古典化したのである。

テンポは速く、粘った表情もなく、ルフトパウゼもポルタメントもルバートも整理された。

第1楽章のコーダや第2楽章全体など、今の指揮者の方がずっと粘っている。

「スコアどおり」という考え方からすれば、ワルターのアプローチは主観的であるが、出てきた音楽は客観的、しかもマーラーの本質はぴたりととらえられている。

コロンビア交響楽団も、ワルターの統率の下、その編成の小ささをいささかも感じさせないような好演を示している。

音質もDSDリマスタリングによる鮮明な音質であり、可能ならばSACDやBlue-spec-CDで発売して欲しいと思った聴き手は筆者だけではあるまい。

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2015年08月08日


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コントラルトという低い声質にはソプラノやメゾ・ソプラノのような華やいだ響きはないにしても、フェリアーはかえってそのナイーヴな声で飾り気のない表現を得意として、本来歌唱芸術が持っているもうひとつの要素、つまり音楽と文学との結び付きという側面を、より深い洞察と同時に鋭いインスピレーションで捉えた演奏を数多く遺している。

フェリアーは基本的に舞台の上で大音声で演じるオペラの世界の人ではなく、むしろ人間の喜怒哀楽や人生観が数分間に凝縮された形で表現される歌曲にその本領を発揮した。

美声ではあっても外面的にあでやかな響きを持たない暗い声質ゆえに、聴く人の注意がその音楽の内面に向けられるのは、ある意味では当然かも知れないが、声の深みがそのまま表現の深みに昇華され、強い説得力を持ち得ているのはフェリアーの類い稀な才能の証しだろう。

特に死をテーマにしたブラームスやマーラーの曲では早世したフェリアーの宿命的な直感さえ窺わせている。

この14枚のCDに収められた曲の中でも、特に印象に残るものを幾つか拾ってみると、先ず1949年のエディンバラ音楽祭からのライヴで、ブルーノ・ワルターのピアノ伴奏によるシューマンの『女の愛と生涯』が筆頭に挙げられる。

お世辞にも良い音質とは言えないが、個人的に言えば筆者がこの曲集の真価を知ったのは、フェリアー&ワルターの演奏を聴いてからであった。

というのもフェリアーの歌には芝居めいた虚飾を感じさせるところが皆無で、一人の女性のドラマが忽然と浮かび上がってくるからだ。

勿論大指揮者ワルターからの薫陶を無視できないにしても、フェリアーの歌唱はそれまでになかったほどの高い音楽性に達し得たと言えないだろうか。

またイギリス民謡集も素朴だが機知に富んでいて限りない愛着がもてるものだ。

無伴奏で歌われる『吹けよ南の風』はボーナスDVDの中でも使われている小曲だが、そのシンプルさゆえに少女の想いが大自然を駆け抜けていくような、メルヘンの世界に誘ってくれる。

その他にも大曲では、クレメンス・クラウス指揮、ロンドン・フィルとのブラームスの『アルト・ラプソディ』、オットー・クレンペラー指揮、コンセルトヘボウとのマーラーの『亡き子を偲ぶ歌』及び『復活』、ベイヌムとのブリテンの『春の交響曲』そしてワルター指揮、ウィーン・フィルによるマーラーの『大地の歌』などは聴き逃せない。

このボックスセットはキャスリーン・フェリアーの生誕百周年記念として、彼女が生前デッカに遺した録音総てを網羅したもので、モノラル録音のCD14枚とDVD1枚で構成されている。

これまでにこれに準ずる全集は既にLP時代からリリースされていたが、完全にひとつのセットに組み込まれたのは初めてで、おそらくこうした企画は将来においても当分期待できないだろう。

ブックレットは170ページで、全曲歌詞英語対訳付の親切な配慮がされている。

DVDは既出のBBC制作のテレビ放送番組で、フェリアーの生涯を約1時間で綴っている。

フェリアー自身の動画はごく限られたものだが、ベンジャミン・ブリテンを始めとして、家族や知人そして音楽仲間や医師へのインタビューが興味深い。

学校を卒業した後、電話交換手として働いていたことやピアノの才能にも恵まれていたこと、輝かしいキャリアと41歳で癌によって亡くなるエピソードなどが語られている。

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2015年07月14日


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ドヴォルザークの交響曲は、ドイツ=オーストリア系の音楽を得意とした巨匠ワルターとしては珍しいレパートリーである。

同時代の巨匠フルトヴェングラーにとってのチャイコフスキーの交響曲のような存在と言えるかもしれない。

しかしながら、本盤に収められた「第8」は、そのようなことは感じさせないような老獪な名演に仕上がっている。

同曲に特有のボヘミア風の自然を彷彿とさせるような抒情的な演奏ではなく、むしろ、ドイツ風の厳しい造型を基本とした交響的なアプローチだ。

それでいて、いわゆるドイツ的な野暮ったさは皆無であり、ワルター特有のヒューマニティ溢れる情感の豊かさが、造型を意識するあまり、とかく四角四面になりがちな演奏傾向を緩和するのに大きく貢献している。

とりわけ感心したのは終楽章で、たいていの指揮者は、この変奏曲をハイスピードで疾風のように駆け抜けていくが、ワルターは、誰よりもゆったりとした踏みしめるような重い足取りで演奏であり、そのコクのある深みは尋常ではなく、この曲を初めて聴くような新鮮さを感じさせる。

まさに、老巨匠ならではの老獪な至芸と言えるだろう。

「新世界より」もいわゆるボヘミアの民族的な抒情性を全面に打ち出した演奏ではなく、ワルターが得意としたドイツロマン派的なアプローチによる演奏ということが言える。

同時代の巨匠クレンペラーも、「新世界より」の名演を遺したが、同じドイツ風の演奏でありながら、クレンペラーの名演は、インテンポによる荘重さを旨とした演奏であった。

それに対して、ワルターの演奏は荘重といったイメージはなく、いつものワルターならではのヒューマニティ溢れる情感豊かな演奏である。

例えば、第1楽章冒頭の導入部など、テンポや強弱において絶妙な変化を加えており、第2楽章の中間部のスローテンポと、その後主部に戻る際のテンポや、第3楽章のリズムの刻み方も大変ユニークだ。

したがって、ドイツ風の演奏でありながら、野暮ったさは皆無であり、そうした点は巨匠ワルターならではの老獪な至芸と言うべきであろう。

ただ、楽曲の性格に鑑みると、「第8」の方がワルターのアプローチに符合すると言えるところであり、「第8」と比較すると、もちろん高い次元での比較であるが、名演のレベルが一段下のような気がした。

しかしながら、いずれも歌心にあふれたドヴォルザークで、恰幅の良い堂々たる構えながら、細部まで目の詰んだ演奏は聴くたびに新しい発見をもたらしてくれる。

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2015年06月30日


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ワルターと言えば、モーツァルトの優美な名演の印象が強いだけに、誠実で温かみのあるヒューマンな演奏だとか、温厚篤実な演奏を行っていたとの評価も一部にはあるが、このブラームスの「第1」の熱い演奏は、そのような評価も吹き飛んでしまうような圧倒的な力強さを湛えている。

「第1」は、1959年の録音であるが、とても死の3年前とは思えないような、切れば血が吹き出てくるような生命力に満ち溢れた熱演だ。

もちろん、第2楽章や第3楽章の豊かな抒情も、いかにも晩年のワルターならではの温かみを感じさせるが、老いの影などいささかも感じられず、まさに、ワルター渾身の力感漲る名演と高く評価したい。

コロンビア交響楽団は、例えば、終楽章のフルートのヴィブラートなど、いささか品を欠く演奏も散見されるものの、ワルターの統率の下、編成の小ささを感じさせない重量感溢れる好演を示している点を評価したい。

ワルターによるブラームスの「第2」と言えば、ニューヨーク・フィルとの1953年盤(モノラル)が超名演として知られている。

特に、終楽章の阿修羅の如き猛烈なアッチェレランドなど、圧倒的な迫力のある爆演と言ってもいい演奏であったが、本盤の演奏は、1953年盤に比べると、随分と角が取れた演奏に仕上がっている。

しかしながら、楽曲がブラームスの「田園」とも称される「第2」だけに、ワルターの歌心に満ち溢れたヒューマンな抒情を旨とする晩年の芸風にぴたりと符合している。

第1楽章から第3楽章にかけての、情感溢れる感動的な歌い方は、ワルターと言えども最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地ではないかと思われる。

終楽章は、1953年盤に比べると、幾分角のとれた柔らかい表現にはなっているものの、それまでの楽章とは一転して、力感溢れる重量級の演奏を行っている。

コロンビア交響楽団は、金管楽器などにやや力不足の点も散見されるが、ワルターの統率の下、なかなかの好演を行っている。

「第3」は、巷間第1楽章や第4楽章の力強さから、ブラームスの「英雄」と称されることもあるが、筆者としては、むしろ、第2楽章や第3楽章の詩情溢れる抒情豊かな美しい旋律のイメージがあまりにも強く、ここをいかに巧く演奏できるかによって、演奏の成否が決定づけられると言っても過言ではないと考えている。

その点において、ワルターほどの理想的な指揮者は他にいるであろうか。

ワルターは、ヨーロッパ時代、亡命後のニューヨーク・フィルを指揮していた時代、そして最晩年のコロンビア交響楽団を指揮していた時代などと、年代毎に芸風を大きく変化させていった指揮者であるが、この最晩年の芸風は、歌心溢れるヒューマンな抒情豊かな演奏を旨としており、そうした最晩年の芸風が「第3」の曲想(特に第2楽章と第3楽章)にぴたりと符合し、どこをとっても過不足のない情感溢れる音楽が紡ぎだされている。

もちろん、両端楽章の力強さにもいささかの不足もなく、総体として、「第3」のあまたの名演でも上位にランキングされる名演と高く評価したい。

「第4」におけるワルターのアプローチは、何か特別な解釈を施したりするものではなく、むしろ至極オーソドックスなものと言えるだろう。

しかしながら、一聴すると何の仕掛けも施されていない演奏の端々から滲み出してくる憂愁に満ち溢れた情感や寂寥感は、抗し難い魅力に満ち溢れている。

これは、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠が、その波乱に満ちた生涯を自省の気持ちを込めて振り返るような趣きがあり、かかる演奏は、巨匠ワルターが最晩年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地にあるとも言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、ブラームスの「第4」の深遠な世界を心身ともに完璧に音化し得た至高の超名演と高く評価したい。

小編成で重厚さに難があるコロンビア交響楽団ではあるが、ここではワルターの統率の下、持ち得る実力を最大限に発揮した最高の演奏を披露しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

併録の2つの序曲も名演で、特に、大学祝典序曲など、下手な指揮者にかかるといかにも安っぽいばか騒ぎに終始してしまいかねないが、ワルターは、テンポを微妙に変化させて、実にコクのある名演を成し遂げている。

悲劇的序曲は、「第2」の終楽章の延長線にあるような、力強い劇的な演奏となっており、ワルター円熟の名演と高く評価したい。

他方、ハイドンの主題による変奏曲は、めまぐるしく変遷する各変奏曲の描き分けが実に巧みであり、これまた老巨匠の円熟の至芸を味わうことができる名演と言える。

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2015年06月24日


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1956年6月14日、引退直前のワルターがフランス国立放送管弦楽団へ客演した際の放送用ライヴ録音。

ワルターが録音した「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の中で、音色や雰囲気の点で、最もロマンティックなのはウィーン盤であるが、解釈自体としていちばんロマン的なのは、この演奏である。

ワルターは慣れないフランスのオケに徹底して自分の解釈をたたきこみ、ときには強引に引っ張ってゆく。

音色こそ乾いて明るいフランス調だが、響きは豊かで厚みに満ち、第1楽章における大きなテンポの動き、第4楽章の極めて遅い運びなど、ワルターのどのレコードよりも著しく、モーツァルトのあふれんばかりの歌とワルター節とを心ゆくまで堪能できる。

従って、ワルターのモーツァルトに疑問を持つ人には最も嫌われる演奏と言えるのかも知れない。

第2楽章のたっぷりとしたカンタービレ、ワルターとしてはやや速めで、音楽に勢いのあるメヌエットもそれぞれ素晴らしく、録音もややドライだが、生々しく採れている。

逆に「フリーメーソンのための葬送音楽」は、2つのコロンビア盤に比して、かなり落ちる。

楽器の分離がやや悪く、旋律線のくっきりしない録音のせいもあるのだろう。

「リンツ」もオーケストラがワルターの指揮ぶりに慣れていないせいか、2つのコロンビア盤との録音よりも、ワルターのロマンティックな表情が強調されて表われており、それがファンにとってはたまらない魅力となる。

第1楽章に頻出するテンポの動きと思い切ったカンタービレは現代の指揮者からは絶対に聴けないし、第2楽章も音楽に対するワルターの愛情や共感がほとばしり出ている。

ワルターは常に「ここはこういう音楽なんだよ」と語りかけるのである。

フィナーレ結尾のアッチェレランドをかけた情熱的な高揚はいつもながらのワルターだ。

第39番は2つのニューヨーク盤ほどのスケールの大きさや豊かな響きには乏しいが、初めの2つの楽章には、完成度が低いからこそ、ワルターの考えがはっきり伝わってくる面白さがある。

第1楽章の導入部からして、がっしりとした大建築物を仰ぎ見るような表現で、翳の濃さや響きの分厚さとともにベートーヴェンを想わせる。

主部に入ると、金管やティンパニがモーツァルト演奏の常識を破って(モーツァルトにおけるこれらの楽器は、フォルテの指定でも指揮者の要求がなければメゾ・フォルテで演奏される)強奏強打され、あふれるような歌に満ち、テンポが大きく変化されて、いわゆる爽やかさやデリカシーといった、モーツァルトの典型的な解釈を求める人には大いに抵抗のある表現が展開される。

コーダの急速な追い込みなど、まさに息詰まるような迫力と言えるところであり、休符の長い間や洒落たテヌートも昔のSPそのままである。

厚みのあるカンタービレがほとばしるようなアンダンテ、情熱的と言いたいくらい思い切ったアクセントを持ったメヌエット、いずれも速めのテンポながら一分の隙もない緊張感を保ちながら進められるが、フィナーレにいたっては、ワルター絶好調の名人芸であろう。

雄大な造型と、めくるめくような迫力と、厚く輝かしい響きを備えながら、同時に比類のない繊細さとアンサンブルの冴えを聴かせ、テーマには微妙な間さえ現われるが、その魅力が何とも言えない。

しかもこの壮麗を極めた演奏は、外側からつけ加えられたものではなく、ワルターの内部から湧き上がった力によっているのだ。

すなわちこれらのロマンティックな表情や迫力が、いささかの人工臭を残さないまでに、昇華されつくしたのである。

慣れないオケをここまで操り、自信にあふれて新しいモーツァルト像を打ち立てたワルターに心から敬意を表したい。

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2015年06月23日


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これは、全音楽ファン、ベートーヴェン愛好家に聴いて欲しい全集である。こんなにも瑞々しく、力強く、真摯でいながら愛らしいベートーヴェン全集は稀だからである。

古楽器ブームの台頭から、「ワルターは古い」というレッテルの貼られた時期もあり、筆者自身そんな風潮に踊らされる愚も犯したが、今、改めてまっさらな心で聴くとき、暖かで、爽やかな感動に震えずにおれない。

また、ステレオ初期ながら、ジョン・マックルーアのプロデュースによる録音は最上級であり、最新録音の多くを凌駕している。

ワルターといえば、「第2」「第6」の名演が定評のあるところだ。力よりは愛情、厳しさよりは優美を思わせるワルターの芸風にもっとも相応しいと、誰もが思うところであろう。

確かにそれは間違いではないのだが、今回、改めて聴き直してみて大きく感じたことは、ワルターの圧倒的な力強さである。それゆえ、一般の評価とは裏腹に奇数番の聴き応えが十分なのである。そして、その充足感は、もちろん偶数番においても変わらない。

「第1」は第1楽章は歩みを速めたり遅めたり、というワルター独特のテンポ感が生きた名演。堂々たるコーダも見事。第2楽章では、得意のカンタービレはもちろん、固めの音色を活かしたティンパニの妙やホルンやトランペットのアクセントが聴きものである。第3楽章は主部の抉りの深さとトリオにおける木管の詩情の対比が美しい。フィナーレも、弦の瑞々しさ、木管群のアクセントやティンパニの雄弁さが一体となった名演である。

「第2」は、まさに心技体がひとつになった文句なしの名演で、全曲に颯爽とした覇気が漲り、荒れ狂い、悶え苦しむよりは、瑞々しい若さを謳歌する青春の歌となっている。迫力がありながら踏み外しのないバランス感覚の良さでも随一である。

「英雄」では、シンフォニー・オブ・ジ・エア(元NBC響)とのトスカニーニ追悼ライヴが素晴らしいが、コロンビア響とのスタジオ盤も特筆に値する名演だ。「コロンビア響は小編成で音が薄い」という欠点の微塵も感じられない圧倒的なパワーが充溢しており、衰え知らぬワルターの気合いが凄まじい。第3楽章トリオにおけるホルンの超レガートも美しさの限り。

「第4」も、バランスの良さでは引けをとらない。音楽の勢いはそのままに、「第2」をさらに大人にしたような落ち着きが良い。

「第5」。以前は「均整の取れた古典的演奏」と思っていたが、大変な間違いであることに気づいた。晩年のワルターのどこにこんな凄まじい情熱が隠されていたのだろう。第1楽章では、ゴリゴリとなる低音が聴く者を興奮させる。コーダでの高揚感もただ事でない。フィナーレでは、冒頭こそ肩の力の抜けたフォルテだが、演奏が進行するにつれて内的なパッションが高まるのが手に取るように分かる。

「田園」は、「ワルターの全集中最高の名演」という評価の高い演奏である。第1楽章はまったく無理のない自然な表現に明け暮れる。優しい外見に囚われて聴き逃してならないのは、低音の充実であろう。ことさら目立たぬように、しかし、しっかりと土台となって演奏を支えているのが良い。

「第7」は、全集中もっとも大人しい演奏である。表だった迫力や推進力よりも、ご飯をゆっくり噛んで味わうような趣があり、それはそれで美しい価値がある。第2楽章での、前打音を拍の前に出す扱いが珍しい。

「第8」は、この作品に寄せる「優美」「軽妙」といった一般のイメージとは異なる剛毅な演奏。シェルヘンのライヴも同様に凄まじいものだったが、ワルターはどんなに激しくても、最後まで気品と風格を失わない。

「第9」は、第4楽章のみ、実態はニューヨーク・フィルという変則的な録音である。ウエストミンスター合唱団をビヴァリーヒルズまで呼ぶことが不可能だったためらしい。

第1楽章は気迫に満ち、終結部の気合いなど大したもので、トランペットの派手なミスを録り直さなかったのも、この「気合い」を優先させてのことだろう。第2楽章に入ると、グッと集中力が増し、サウンドそのものも活き活きしてくる。副主題の木管のリズム感など秀逸であるし、トリオにおける歌心もワルターならではだ。歌心といえば、続く第3楽章は夢のカンタービレである。終盤の2度にわたる「目覚めの呼びかけ」も、微睡みの中で聴くようなドラマが内包されていて美しい。

フィナーレは評価の分かれるところだ。オーケストラがニューヨーク・フィルに交代し、サウンドも一変する。冒頭のレチタティーヴォなど、フォルテがヤンキー風になってしまう難点があるが、音色、充実度は前3楽章の比ではない。声楽陣は不調であるが、それを差し引いてもなお、この演奏から受ける印象は圧倒的である。久々に表現力たっぷりのオーケストラを前にして、ワルターの中に燃え立つものがあったのであろう。「優れているのはコーラスが入るまで」という評判もあるが、ここではこのフィナーレを特に高く評価しておきたい。

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2015年06月08日


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ワルターは80歳で現役を引退したが、その後CBSの尽力により専属のオーケストラ、コロンビア交響楽団が結成され、その死に至るまでの間に数々のステレオによる録音が行われたのは何という幸運であったのであろうか。

その中には、ベートーヴェンの交響曲全集も含まれているが、ワルターとともに3大指揮者と称されるフルトヴェングラーやトスカニーニがステレオ録音による全集を遺すことなく鬼籍に入ったことを考えると、一連の録音は演奏の良し悪しは別として貴重な遺産であるとも言える。

当該全集の中でも白眉と言えるのは「第2」と「田園」ではないかと考えられる。

とりわけ、本盤に収められた「田園」については、同じくワルター指揮によるウィーン・フィル盤(1936年)、ベーム&ウィーン・フィル盤(1971年)とともに3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。

巨匠ワルターが切り開いたリリシズムの世界は、この作品を語る上で欠かせない永遠の名盤である。

本演奏は、どこをとっても優美にして豊かな情感に満ち溢れており、「田園」の魅力を抵抗なく安定した気持ちで満喫させてくれるのが素晴らしい。

ワルターの演奏には思い入れとか野心とかがなく、常に清楚な精神性のようなものが宿っている。

端正な響きと肩の力の抜けた表現で刻み込まれる晴朗にして健全なベートーヴェンであり、「田園」の原点とも言うべき演奏だ。

ワルターは、私たちの心にあるこの作品のイメージを最もスタンダードに表現したとも考えられる演奏である。

暖かい人間性を感じさせる温雅でまろやかな語り口は作品の美しさを実にナイーヴに描出する結果をもたらしている。

フルトヴェングラー、シェルヘン、カラヤン、アバド、朝比奈……誰を聴いてもワルターに比べると帯に短し、タスキに長しで、なにがしかの違和感が残る。

オーケストラは、3強の中で唯一ウィーン・フィルではなくコロンビア交響楽団であるが、ワルターの確かな統率の下、ウィーン・フィルにも匹敵するような美しさの極みとも言うべき名演奏を披露している。

スケールの大きさにおいては、ベーム盤に一歩譲ると思われるが、楽曲全体を貫く詩情の味わい深さにおいては、本演奏が随一と言っても過言ではあるまい。

もっとも、第4楽章の強靭さは相当な迫力を誇っており、必ずしも優美さ一辺倒の単調な演奏に陥っていない点も指摘しておきたい。

ワルターの資質と音楽とがぴったり一致した真の牧歌がここにあり、作品が書かれた当時の作曲者の心を、そのままうつし出したかのような、感動的な名演奏である。

なお、ワルターによる1936年盤は録音の劣悪さが問題であったが、数年前にオーパス蔵によって素晴らしい音質に復刻された。

演奏内容自体は本演奏と同格か、さらに優れているとも言える超名演であるが、現在ではオーパス盤が入手難であることに鑑みれば、本演奏をワルターによる「田園」の代表盤とすることにいささかの躊躇もするものではない。

本演奏は至高の超名演であるだけに、これまでリマスタリングを何度も繰り返すとともに、Blu-spec-CD盤も発売されたりしているが、ベストの音質は本シングルレイヤーによるSACD盤であると考える。

本SACD盤は現在でも入手可であり、テープヒスが若干気になるものの、ワルターによる超名演を弦楽奏者の弓使いや木管楽器奏者の息遣いまでが鮮明に再現されるSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年05月30日


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昔から慣れ親しんできたワルターのモーツァルト集で、ワルター以降も数えきれないほど幾多の音源はあるが、モーツァルト演奏の規範的演奏として多くのリスナーから圧倒的な支持を得てきた歴史的名盤の集成が廉価盤で再登場した。

これほど「幸福とは何か」を教えてくれる演奏はあるまい。

しかし、筆者が述べるのは、その場限りの幸福ではなく、長い人生を通じてのひとつの「幸福」である。

愉しかったり嬉しいことばかりでなく、辛いことや悲しみも含め、なお「この人生は美しかった」と思える幸福のことだ。

ワルターのモーツァルト演奏での評価は、若い頃から高いものがあり、後年のワルターには、演奏前に楽屋の片隅でモーツァルトの霊と交信している姿が垣間見られたという伝説まで生まれたほどである。

その魅力を簡潔に言えば、「温かみ」「微笑み」「共感」といった人間的な魅力と独特の品位を秘めた、しかし確固たる自信にあふれた解釈にある。

ワルターはモーツァルトを得意として、数多くの名演を遺してきたが、ワルターのモーツァルトが素晴らしいのは、モーツァルトの交響曲を規模が小さいからとして、こじんまりとした演奏にはしないということ。

あたかも、ベートーヴェンの交響曲を演奏する時と同じような姿勢で、シンフォニックで重厚、かつスケールの大きな演奏を行っている。

近年の、ピリオド楽器を活用したり、古楽器奏法などを駆使した演奏とは真逆を行くものと言えるが、果たして、近年のそうした傾向が芸術の感動という観点から正しいと言えるかどうかは、筆者としては大いに疑問を感じている。

それらの中には、一部には芸術的と評価してもいい演奏も散見される(ブリュッヘン、インマゼール等)が、ほとんどは時代考証的な域を出ない凡庸な演奏に陥っている。

これは大変嘆かわしいことであり、それならば、仮に時代遅れと言われようが、ワルターのシンフォニックな演奏の方に大いに軍配をあげたくなる。

それらに比してワルターの、なんと穏やかで暖かく、底に秘められた力と情緒の美しさが全体を包み上げるスケールの大きな表現であろうか。

1曲1曲、いかにも職人が作り上げたというような、玄人肌の感触があり、音楽の表情づけがあたたかで柔らかく、今では滅多に聴くことのできないようなロマンティックでゆったりとしたヒューマンなモーツァルトが、かえって新鮮に感じられる。

ワルターのような、いわば古典的な名演を聴いていると、どこか故郷に帰った時のようにほっとした気分になるのは、必ずしも筆者だけではあるまい。

それにしても、本名演の、シンフォニックかつ重厚でありながら、随所に見られるヒューマニティ溢れる情感豊かさを何と表現すればいいのだろうか。

堂々とした風格の中に、独特の柔らかで優美な雰囲気が感じられ、とてもチャーミング。

長い人生における豊富な積み重ねといったものを背景にしながら、モーツァルトへの愛情の深さを真正面から告げていくような演奏内容はとても格調が高く、ワルターならではのモーツァルトである。

ワルターが最晩年まで続けていたというモーツァルトの総譜の徹底的な追究(スコアを写譜することによって)が、ワルター自身の円熟とともに、明晰に、しかもロマン的な表情をもって生かされているし、そのテンポも自在なものを思わせている。

「プラハ」の随所に漂う典雅なニュアンスの込め方も感動的であるし、第40番の、特に第1楽章の魔法のようなテンポの変化や絶妙のゲネラルパウゼは、ワルターだけが可能な至芸と言えるだろう。

その他の楽曲も、揺るぎなく雄大な造型の中に、モーツァルトへの愛情が湛えられた演奏で、ワルターの音楽人生の総決算として聴くのも、感慨深い。

コロンビア交響楽団は中編成だが、ワルターの見事な統率の下、極上の美演を披露していて、申し分ない。

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2015年04月24日


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ワルター晩年の一連の録音の中でも、彼の温かい人柄と鋭敏さの表れた屈指の名演奏と高く評価したい。

シューベルトの「第9」は超名曲であるが、演奏そのものは非常に難しいと考えている。

というのも、シューベルトが相当な意欲を持って作曲しただけに、ここには、あらゆる要素が内包されているからである。

ウィーン風の優美な情緒は当然のこととして、偉大なる先達であるベートーヴェンを意識した並々ならぬ意欲、最晩年のシューベルトならではの死への恐怖と人生への達観の境地、そして、後年のブルックナーの交響曲につながる巨大さだ。

同曲の名演が、どこか食い足りないのは、これらのすべての要素を兼ね備えるということが容易ではないことに起因するものと考えている。

そのような中で、ワルターの演奏は、ブルックナーの交響曲につながるような巨大さにはいささか欠けるものの、それ以外の要素についてはすべて兼ね備えた名演と言えるのではないだろうか。

まさにこの曲の「天国的な美しさ」が端的に伝わってくる名演と言えるところであり、シューベルト最後最大の、そして歌に満ち抒情あふれる美しいこのシンフォニーを、ワルターは心優しく温かくのびやかに歌いあげている。

それでいて、メリハリはきいているし、アゴーギグをきかせてテンポを動かし、リズムを生かしている。

各楽器の弾かせ方にもウィーン風の情緒が漲っているし、例えば終楽章にも見られるように、劇的な迫力においてもいささかの不足もない。

特に第3楽章のトリオの優美さは、もうこれ以上の演奏は考えられないくらい素晴らしく、他のどんな名指揮者が一流オケを振った演奏よりもこの曲の美しさが浮かび上がってくる様は、ワルターの至芸という他はない。

また、第2楽章の中間部の、シューベルト最晩年ならではの行き場のない陰りの音楽の絶妙な表現も見事の一言に尽きる。

コロンビア交響楽団も、ワルターの統率の下、極上の美演を披露しており、本名演に華を添えている点を見過ごしてはならない。

現代の指揮者では少なくなってしまった人間味あふれるのびやかなワルターの指揮とシューベルトのスケール雄大な曲が相俟って、聴き応えのするアルバムになっている。

DSDリマスタリングによって、音質が驚くほど鮮明でクリアになったのは、大変素晴らしいことだ。

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2015年04月04日


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20世紀前半にオペラ界、演劇界に君臨したロッテ・レーマンの遺産であるとともに、ブルーノ・ワルターのピアノ伴奏が聴けるはなはだ貴重なディスクである。

何と言ってもピアノはその人の人間味が直接肌にふれてくるだけにワルターを愛する者には懐かしく、指揮以上の魅力があるとも言えるだろう。

指揮の方がずっと巧いのは言うまでもないが、果たしてどちらが彼の個性をより多く映し出しているかという点になると問題がある。

可憐なシューマンに対し、レーマンは馥郁たる成熟した声と、比類無きドラマ作りをトレードマークとした。

単曲のリートにおいては凝縮された物語を、連作においては小宇宙を形成するかのような、構成力と集中力を発揮。

レーマンの秀でたそれら能力がもっとも現れたのが、オバート=ソーンの見事な手腕によって復刻された「女の愛と生涯」と「詩人の恋」。

彼女の息づかいまで再現されたこの盤は、シューマンの精神世界をもっとも情緒豊かに表現した歌唱として、録音史上語りつがれること間違いなしの傑作である。

「女の愛と生涯」のワルターのピアノはごく素朴だ。

タッチも弱いし、テクニックも冴えないが、これを聴くかぎりにおいて、彼のリズムやダイナミックスがモーツァルトを基盤としていることがいっそうよくわかるのである。

レーマンの重いリズムとは対照的な軽さ、ロマン派のシューマンを弾きながら、はめをはずさぬところ、それはワルターの技巧不足から生ずる弱さとはまた別な、何か根本的なものとしてわれわれに映るのである。

もちろん彼ならではの間はあるが、ワルターならば、もっとロマンティックなピアノを弾いてもよさそうなものなのに、と思う人も多いことだろう。

そのくらい控えめなのだ。

レーマンの独唱はテクニックや声の点で最高とは言えないが、ここに表出されるむせるような女くささは見事である。

前半の曲に少女らしい恥じらいや慎みのない点は、人によって抵抗もあろうが、これほど感情的な歌唱は他に決してない。

レーマンには1928年、ワイスマン指揮による「女の愛と生涯」の録音もあり、彼女の全盛期だっただけに、その歌唱は主情的・情熱的なものだったが、それに比べるとここでの歌唱は、より客観性を重視した優しいものとなっている。

これは伴奏のワルターのリードによるところもあるだろう。

「詩人の恋」は、「女の愛と生涯」と同様、ワルターのピアノはレーマンの歌唱に比して素朴すぎ、音量的にも弱いのが残念だが、彼の天性は本来情緒的であるから、粘りすぎたり大げさにならない程度の人間味はある。

それが最高に表われているのが終曲の後奏で、このデリケートで女性的なタッチ、嫋々たるピアニッシモ、ルバートを多用し、和音をずらして気分的に弾いてゆく表情は美しさのかぎりと言えよう。

意外に主張の乏しいワルターのピアノであるが、この後奏を聴くだけでも価値はある。

どうしてこれを「女の愛と生涯」も含めて、全曲に及ぼさなかったかと、つくづく惜しまれる。

おそらく彼のピアノには根源的な性格が指揮以上に出ているのではないだろうか。

しかし演奏家として当然持つべき表現力は指揮の方が数段上であると思わざるを得ない。

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2015年03月26日


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往年の名指揮者ブルーノ・ワルター(Bruno Walter 1876-1962)がCBSレーベルに録音した一連のマーラー(Gustav Mahler 1860-1911)作品を7枚のCDに収録したBox-set。

LP時代に高価だった名盤が続々と安価で販売され、名演奏がきわめて身近になったが、このセットもその好例で、品質がきわめて高い。

演奏は言うまでもないが、復刻が丁寧でばらつきが少ないことが特色である。

ワルターはマーラーの弟子であり親友でもあった。

景勝地シュタインバッハで夏の休暇を楽しむマーラーを訪ねたワルターが美しい景色に見とれていると、マーラーが「それ以上眺める必要はないよ。全部私の今度の交響曲にしてしまったからね。」と言ったのは有名だ。

マーラーの死後に彼の交響曲「大地の歌」と「第9」を初演したのがワルターである。

マーラーはユダヤからカトリックに改宗したが、ワルターは終生ユダヤ人だった。

そのため、第2次世界大戦で彼は拠点をドイツからオーストリアへ、そしてアメリカへと移さざるを得なくなる。

そうして、アメリカで数々のマーラーの名録音が生まれ、それがこのアルバムだ。

もう1つ逸話を。

当時CBSはマーラーの「第1」を録音するにあたり、指揮者にバーンスタイン(Leonard Bernstein 1918-1990)を起用することも考えていて、当人も乗り気だった。

しかし、ワルターとのレコーディングが先に終了したことから、シェアの問題もあり、バーンスタインに計画の中止を申し出たが、彼は承服しなかった。

そこで、CBSのスタッフは実際に録音されたワルターの演奏をバーンスタインに聴いてもらった。

聴き終わったバーンスタインは「素晴らしい。これは彼の交響曲だ。」と延べ、自ら録音の中止を快諾したそうだ。

ワルターの音楽の価値、バーンスタインの大きな人柄など様々なことを示すエピソードだ。

ブルーノ・ワルターのこのマーラー交響曲集は本当に素晴らしい。

バーンスタインのマーラーも確かに素晴らしいが、このワルターの演奏はそれを遥かに凌駕する。

バーンスタインの解釈より、マーラーの混沌とした宇宙がよりはっきりと感じられ、遥かにロマン的であり、マーラーの心情がひしひしと伝わってきて、こちらの感情も溢れ出しそうになる。

マーラーの音楽の根底に流れているのは「うた」なんだとあらためて理解することができる。

この演奏を聴いたら、バーンスタインのみならず、他のいかなる指揮者もマーラー演奏を断念してしまうのではないかと思わずにはいられないが、それほどに素晴らしい演奏である。

ワルターの演奏は、典雅さと苛烈さがあり、その表出度のバランスが曲や演奏によって異なるのだけれども、どれも高い香りを感じさせるものだと思う。

どの交響曲も今なお名演の誉れが高いもので、特に「第1」と「第9」が素晴らしく、薫り高く、格調高く、切々と歌い上げている。

筆者が初めて「第2」を聴いたのがこのワルターの劇的な演奏であったが、懐かしいし、現代でも通じるシャープな迫力に満ちている。

また「大地の歌」は1952年のウィーン・フィルとの名盤が名高いが、こちらも味わいのある演奏だと思う。

いずれにしても、半世紀を過ぎた今でも、多くの人に愛聴される歴史的録音だろう。

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2015年03月08日


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ワルターは、数多くの名録音を遺してきたが、本全集に収められた「第2」と「田園」は、その中でもトップの座を争う不朽の名盤と高く評価したい。

特に、「第2」は、ワルターの最晩年のヒューマニティ溢れる情感豊かな指揮ぶりと楽想が見事にマッチしている。

ワルターは、「田園」にも、同じコロンビア交響楽団と名演を遺しているが、「田園」には、戦前のウィーン・フィルとの名演(オーパス蔵)や、ベーム&ウィーン・フィル(DG)といった強力なライバルがいる。

それに対して、「第2」には、そのようなライバルは存在せず、まさに、本盤のコロンビア交響楽団との演奏こそ、同曲演奏史上トップの座に君臨する至高の名演ということになる。

序奏部は意外にもテンポは速めであるが、主部に入ってからの中庸のテンポによるニュアンス豊かな演奏はセンス抜群。

第2楽章の抒情美はこの世のものとは思えないような美しさであり、終楽章のコクのある堀の深い表現も最高だ。

「第1」も名演。

こちらは、トスカニーニ&NBC交響楽団(1951年盤)のような即物的な表現が好まれる傾向があるが、ワルターのような滋味あふれる表現にも十分な説得力があり、本盤の演奏を名演と評価するのにいささかの躊躇もしない。

ワルターのベートーヴェンと言えば、偶数番の交響曲を得意とした指揮者というのが通説とされている。

確かに、「第2」や「田園」どは、あらゆる同曲の名演中、最上位に掲げられる超名演と評価しても決して過言ではないと考えているが、だからと言って、他の奇数番の交響曲の演奏が拙劣なものであるということは断じて言えないと思う。

例えば「エロイカ」は、確かに他にもライバルとなる名演が多い。

そうした海千山千のライバルに比べると、「第2」や「田園」のように、最上位を勝ち取ることは難しいかもしれないが、そうした順位を差し置いて考えると、最晩年のワルターならではの円熟の名演と評価してもいいのではないかと考えている。

特に、感動的なのは第2楽章で、ゆったりとしたテンポで深沈たる演奏を行っているが、この情感溢れるヒューマンな歌い方は、ワルターと言えども最晩年にして漸く成し得た至芸と言えるのではなかろうか。

両端楽章の力強さにもいささかの不足はないが、これらの楽章については、トスカニーニ追悼コンサートにおけるシンフォニー・オブ・ジ・エアとの1957年盤(MUSIC&ARTS)の方をより上位に置きたい。

残念なのは、コロンビア交響楽団の、特に金管楽器の力量に非力さが感じられる点であり、第1楽章の終結部のトランペットなど、もう少し何とかならないだろうか。

前述のように、ワルターについては、巷間ベートーヴェンの偶数番号の交響曲を得意とした指揮者であると言われている。

しかしながら、奇数番号の交響曲も、それぞれの交響曲の最上位の名演とは言えないものの、ワルターならではの円熟の名演を行っている。

その中でも特に素晴らしいのは、「第7」ではないだろうか。

確かに、この「第7」には、フルトヴェングラーの壮絶な迫力もなく、クレンペラー(1968年盤)の壮麗なスケールも、カラヤン(1978年のパレクサ盤)の強靭な音のドラマなども存在していない。

ここにあるのは、豊かな歌心とヒューマニティ溢れる情感の豊かさだ。

まさに、ワルターは、「第2」や「田園」などの偶数番号の交響曲を演奏するのと同様のアプローチで、「第7」を指揮しているのだ。

したがって、これほど叫んだりわめいたりしない、柔和な「第7」は、他にも類例は見られないだろう。

しかしながら、その温かみのあるヒューマンな情感豊かさは、最晩年の巨匠ワルターだけが表現し得た至高・至純の境地と言えるだろう。

ただ大変惜しいのは、コロンビア交響楽団の力量不足であり、「第7」は、オーケストラにとってもベートーヴェンの交響曲中最大の難曲として知られるが、さすがにこの「第7」は荷が重かったと言える。

とりわけ、トランペットの不自然な響き(特に終楽章)は、演奏が素晴らしいだけに大変惜しい気がした。

ワルターの芸風を考慮に入れれば、「第8」の方が非のうちどころのない名演だと思う。

最晩年のワルターならではの、ヒューマニティ溢れる滋味豊かなアプローチが、「第8」という交響曲の楽想にぴたりと符合するからである。

コロンビア交響楽団も、「第8」に関しては、ワルターの統率の下、なかなかの好演を行っていると言えよう。

これに対して「第9」であるが、ワルターの指揮だけに着目すると、名演と言っても差支えはないものと思われる。

ただ問題は、コロンビア交響楽団の非力さが、この曲の場合、かなり露呈することになっており、終楽章のアンサンブルの乱れなども、これがスタジオ録音とは信じられないような情けなさだ。

それと、終楽章のテノールのアルバート・ダ・コスタの独唱はいささか品を欠き、あまりの情感過多な表現ぶりに辟易とさせられた。

しかしながら、これらを帳消しにしてしまうだけの名指揮をワルターは行っており、特に、第3楽章の豊かな抒情は、ワルターと言えども最晩年になって漸く表現し得た至高・至純の美しさと高く評価したい。

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2015年02月13日


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最晩年のワルターの代表的な名盤。

ハイドンの交響曲のうち、パリ交響曲以降の傑作群は、大編成のオーケストラが演奏しても十分に聴きごたえのある大交響曲であると考えている。

にもかかわらず、最近では、編成の小さい古楽器演奏だとか、古楽器奏法なるものが一般化しつつあり、ハイドンの交響曲が、コンサートの曲目にのぼることすらほとんど稀になったのはまことに嘆かわしい限りである。

そうした中で、本盤のワルターの演奏を聴くと、実に懐かしく、そして生き返ったような安心した気持ちになる。

ワルターのハイドンは、この指揮者の絶妙なバランス感覚と、形式に対する確かな理解が率直にあらわれたものと言えよう。

「軍隊」は、かつてモノーラルによるウィーン・フィルとの録音が有名であるが、ここでのコロンビア交響楽団との演奏では、この巨匠指揮者が、彼の唯一の録音となった「V字」とともに、遅めのテンポで堂々たる足取りで進めてゆく。

演奏のあちらこちらから、木の温もり、土の香りがするようで、大編成のオーケストラ(と言っても、コロンビア交響楽団なので限度はあるが)を指揮しながらも、ここには機械的だとか、メカニックなどという要素はいささかも感じられない。

ハイドンのオーケストレーションや音楽構成が良く聴こえ、隅々にまで目の届いた、ワルターのハイドンに対する思いやりみたいなものが聴ける。

ワルターは、オーケストラの響きにふくらみをもたせ、歌うような演奏を心がけた指揮者として、ファンの間で根強い人気がある。

第88番の第2楽章だとか、第100番など、あまりのスローテンポに、スコア絶対の原理主義者や音楽学者などからすれば時代遅れだとか誇大妄想とかいう批判もあり得ると思うが、音楽芸術の感動の前には、筆者としては意味のない批判だと思う。

若い頃は比較的地味なハイドン交響曲にそれほど深くレコードで馴染む対象ではなかったのが、このワルター&コロンビア交響楽団の「V字」「軍隊」はハイドン交響曲の「良さ」を感じ取ったものである。

おそらく他の指揮者の演奏に最初に接していたならその良さに気がつくのはもっと遅れていたであろう。

それ位ワルターの演奏はハイドン以上の何かふくよかさが込められたように思え人生の余裕時間を過ごせるようにも感じたところである。

コロンビア交響楽団も、ワルターの指示通りのアンサンブルを聴かせ、余裕から生まれる、豊かな音楽を響かせている。

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2015年02月12日


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ワルターがモーツァルトに傾倒するようになったのは40代も半ばを過ぎてからである。

彼は「第40番のシンフォニーを表現するのは、内容的にも技巧的にも難しい」と述べ「自分は50歳を過ぎて初めてこの曲を自信を持って指揮し得るようになった」と述懐しているが、当時の彼が録音した最初のモーツァルトの交響曲として、このレコードは貴重である。

ベルリン国立管弦楽団(シュターツカペレ)はベルリン国立歌劇場管弦楽団がコンサートをするときの別名であり、録音はその頃のSPとしてもとくに貧しいが、それにしてもまことに寂しい演奏である。

ニューヨーク盤の楽天性とも違うし、コロンビア盤の澄んだ静けさとも異なり、徹頭徹尾孤独なのだ。

第1楽章の冒頭、遅いテンポと粘ったリズム、そして音型をポツポツ切りながら現れる第1テーマにそれは明らかだが、その後のクレッシェンドにポルタメントとテヌートがかかって不健康な愁いとなるところはことに印象的である。

大きくテンポを落とす第2テーマは侘しさの極みだし、展開部の初めも同様、そして他の部分は極端にテンポを速め、主題との対照を際立たせるのである。

第2楽章はそれの延長で、テンポの速いメヌエットは小味で几帳面なリズムを見せるが、もちろん近代的な感覚とは縁遠く、トリオで遅くするやり方に寂しさは強まる。

それにもまして終楽章の異常な速さ、むしろ無意味な速さはいったいどうしたのだろう。

フルトヴェングラーのようなデモーニッシュな表現ではなく、情熱とも違い、リズムの上滑りが何かワルターの人間的な弱さを表しているようだ。

そして第2テーマで取ってつけたようにテンポを遅くするのも彼らしい。

全体としてこのレコードは後年のワルターが見せる円熟味に欠けているが、彼がこんなに孤独で不健康なことは他にはなかった。

それだけに第1回目の「ト短調」はワルター・ファンにとって特別な愛着を覚えずにはいられないのである。

第39番も名演奏である。

ウィーン・フィルを指揮したモーツァルトではかなりオケに任せるワルターだし、即興的な要素も加わるわけだが、ここでは少しも無雑作なところがなく、徹底的にオケをリードし、すみずみまで愛情と血を通わせている。

練習の時間もたっぷりあったのだろう、表現に確信を持ち、細部まで自分のものにし切った安心感があり、楽員もワルターの解釈にすっかり心服しているようだ。

それにSPとしては珍しく盤の切れ目で演奏を中断せず、録音が演奏を追いかけているので気分も一貫する。

ワルターの「変ホ長調」は昔も今も変わらない。

第1楽章の大きなテンポの動き、当時の彼としてはかなりスケールが大きいこと、力強く立派なメヌエットなど、22年後のニューヨーク・フィルとの名演を予告するものがある。

違うのはポルタメントのかかった弦の歌がいっそう情緒的なこと、いったいに休符が長く、特に第1楽章やメヌエットのトリオへ入る直前でのそれが目立つため、さらにロマンティックなこと、終楽章のテンポが大変速く、リズムも軽く、しかもアンサンブルがしっかりまとめられてすこぶる快い演奏を示していることなどである。

ニューヨーク盤は確かに偉大だが、モーツァルトのスタイルを踏み外しすぎた趣もあり、その意味ではBBCとの終楽章など、筆者はいまだに強い愛着を持っている。

状態の良いSP盤をそのまま復刻したオーパス蔵で聴く録音の美しさは格別だ。

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2015年02月08日


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ブラームスは、ウィーン時代のワルターを飾る絶品のひとつで、ワルターとウィーン・フィルがこれほどぴったりと意気投合し、細部まで心を通わせ合った例も少ないだろう。

なぜならば、ワルターにはかなりウィーン・フィルの楽員に任せたり妥協したりした演奏も数多く見られるからであり、ここでは両者の目指す美の方向が完全に一致しているようだ。

第1楽章の第1テーマを聴けば、彼らがリズムやアンサンブルなどには少しも神経を使わず、もっぱら音楽の心だけを表現していることがわかる。

ふつうはそれがプラスにもなる代わりにマイナスともなってしまうのだが、ここではプラスの面だけが濃く現われ、その結果として、内部には情熱の火が燃えさかっているにもかかわらず、外観は徹底して角が取れ、まろやかに円熟したのである。

1つ1つのメロディーが何と思い切って歌われることだろう。

第2、第3楽章にその最高の例が見られるが、しかもほんのわずかな外面性もないのは楽員1人1人が情緒を感じぬいているからだろうし、音色がすばらしく高貴なせいもあるのだろう。

両端楽章の、自由自在な緩急にも驚かされるが、情熱に任せてはめをはずすことなく、つねに自然なのは、偉とすべきだ。

終楽章第2テーマが現われた後の盛り上げにおいて、ぐんぐん加速するが、オーケストラが手足のごとくぴったりと密着していささかの崩れも見せず、完璧なアンサンブルを誇っているのはワルターにとっても珍しい。

たいていは棒が先に行ってしまうか、またはオーケストラがワルターの意図を見越してほんとうの情熱に燃えず、形だけをつくってしまうかのいずれかである。

第1楽章冒頭の柔らかい響き具合からもわかるように、全体に金管が少しも気張らず、ブラームスらしいしつこさから解放しているのも快いが、木管の恍惚たる和音といい、チェロや高弦の情緒に濡れた音色といい、耽美、陶酔という言葉が身をもって実感される瞬間である。

少しも聴かせようという構えがなく、自らの感じたままを正直に表現してゆくワルターとウィーン・フィルの名コンビに絶大な拍手を贈りたい。

豊かな音楽とはこのようなものをいうのであろう。

シュテファン・ツヴァイクが「ワルターの指揮で、その至福の瞬間には、彼自身が連れ去られてしまって、もうそこに居ないような感じ……」と書いているのは、ウィーン時代のワルターにこそ当てはまるだろう。

ハイドンは、ウィーン・フィルとの「軍隊」を想わせるモーツァルト風に優美でロマンティックな演奏である。

ただし、テンポはたいへん速く、その中でワルターは感じたことをすべて実現しているのだ。

ロンドン交響楽団の弦にウィーンのそれのような憧れを湛えた音色とレガートを求め、ダイナミズムの角を取って、情緒的な雰囲気を醸成している。

使用楽譜はもちろん旧版だが、これにはロマンティックな強弱の指示が細かく書き込まれており、ワルターは忠実に従っているため、エコー効果など常々の彼からは聴けないような神経質な感じがある。

しかもテンポの動きが驚くほど多く、かつ大きい(たとえば第1楽章第2主題)。

それを自然に成し遂げてしまうのが一口にいえぬ老熟の味であり、名人芸である。

全曲が現実を離れた歌となり、ワルターならでは成し得ぬ魅力の極を示したハイドンといえよう。

それにしても、このような歴史的な名演SPを、現代に生きる我々に十分に鑑賞に耐えうるように復刻してくれたのは実に素晴らしいことであり、オーパス蔵に感謝の言葉を捧げたい。

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2015年01月09日


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ワルターは1911年に「大地の歌」を初演したが、マーラーの弟子・後継指揮者として、この曲を35才のワルターが世に問うたことは、彼自身が述懐しているように実に大きな飛躍のステップであった。

そんなワルターが遺した「大地の歌」の録音と言えば、ウィーン・フィルを指揮した1936年盤と1952年盤の評価が著しく高いため、本盤の評価が極めて低いものにとどまっている。

特に、1952年盤が、モノラル録音でありながら、英デッカの高音質録音であることもあり、ワルターによる唯一のステレオ録音による「大地の歌」という看板でさえ、あまり通用していないように思われる。

ミラーとヘフリガーの名唱を得て、マーラー解釈の神髄を披露し、演奏の質は非常に高いだけに、それは大変残念なことのように思われる。

確かに、1952年盤と比較すると、1952年盤がオーケストラの上質さやワルターが最円熟期の録音ということもあり、どうしても本盤の方の分が悪いのは否めない事実であると思うが、本盤には、1952年盤には見られない別次元の魅力があると考えている。

1960年の録音であり、それは死の2年前であるが、全体に、人生の辛酸を舐め尽くした老巨匠だけが表現することが可能な人生の哀感、ペーソスといったものを随所に感じさせる。

特に、「告別」には、そうした切々とした情感に満ち溢れており、ここには、ワルターが人生の最後になって漸く到達した至高・至純の境地が清澄に刻印されていると思われるのである。

ワルターの説得力に富むアプローチに加え、ヘフリガーの独唱も他に代えがたい深い詠嘆を湛えており、心に染み入るものがある。

第1楽章「大地の哀愁に寄せる酒の歌」の出だしから、ワルターと完全に融合し、マーラーの心境にひしと寄り添っているような一体感を醸しており、至芸と言えよう。

ニューヨーク・フィルも、ワルターの統率の下、最高のパフォーマンスを示していると言って良い。

DSDリマスタリングによって、音質がグレードアップされている点も特筆すべきであろう。

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2014年12月05日


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ワルター最後の録音のひとつ。

1938年のワルターとウィーン・フィルによる凄絶な歴史的名盤によって、コロンビア響との録音は影が薄くなってしまったが、最後の録音のひとつという感傷を抜きにしてもこの演奏には心を打たれる。

様々な音楽書を読むと、本盤の演奏を、戦前のライヴ録音と比較して、好々爺となったワルターの温かい演奏と評価する向きもあるようだが、果たしてそう言い切れるだろうか。

確かに、戦前の壮絶なライヴ録音と比較すると、若干角が取れた丸みも感じられなくはないが、むしろ、死を間近に控えた老巨匠とは思えないような生命力に満ち溢れた力強い名演だと考えている。

初演者であるワルターは、さすがにこの曲に共感をもって、隅々まで曲を手中に収めた表現である。

全体に作品の歌謡性を豊かに生かしており、ワルターの芸術性を最もよく表現した演奏である。

「死を予感する者の悲劇的で絶望的な別れの曲だ」とワルターが言ったこの曲が彼の死別の曲ともなった。

第1楽章の初めの死への悲しみを伝える神秘的な弦の低音動機からしてワルターは聴く者の心をつかんで離さない。

その後のテンポや強弱の振幅の幅広さには凄まじいものがあるし、第2楽章や第3楽章は、やや遅めのテンポで濃厚な味わいを醸し出している点も素晴らしい。

終楽章も、戦前のライヴ録音と比較すると、やや遅めのテンポで、情感溢れる演奏を行っており、あたかもワルターが実り多き人生に別れを告げようとしているような趣きさえ感じさせる。

悲劇的なものがきつく厳めしくのしかかってこないで、詩情のヴェールを通して心にしみ入ってくるのである。

それゆえ、ワルターの表現は柔和ではないかと、訝る向きもあるだろうが、それは、ワルターがクレンペラーのように、死に怯えるマーラーをとことん追いつめることがないからである。

「恐怖」に怯える魂を慰める大きな愛こそ、ワルター芸術の神髄なのだから。

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2014年11月26日


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ワルターについては、フルトヴェングラーやトスカニーニ、メンゲルベルクといった他の4大指揮者と異なり、ステレオ録音が開始された時代まで生きたただ1人の巨匠指揮者である。

それ故に、音質が良いということもあって、ワルターによる演奏を聴くに際しては、最晩年の主としてコロンビア交響楽団とのスタジオ録音盤を選択するケースが多い。

したがって、最晩年の穏健な芸風のイメージがワルターによる演奏には付きまとっていると言えるが、1950年代前半以前のモノラル録音を聴けば、それが大きな誤解であるということが容易に理解できるはずだ。

本盤に収められたブラームスの交響曲第1番の演奏は、コロンビア交響楽団との最晩年のスタジオ録音ではあるが、1950年代前半以前のワルターを思わせるような、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力を有した力感溢れる演奏に仕上がっている。

ワルターを穏健派の指揮者などと誤解をしているクラシック音楽ファンにとっては、度肝を抜かれるような力強い演奏といえるかもしれない。

もちろん、第2楽章や第3楽章の心を込め抜いた情感豊かな表現は、いかにも最晩年のワルターならではの温かみを感じさせる演奏であるが、老いの影などいささかも感じられないのが素晴らしい。

そして、終楽章は、切れば血が吹き出てくるような生命力に満ち溢れた大熱演であると言えるところであり、とても死の3年前とは思えないような強靭な迫力を誇っている。

カップリングされている悲劇的序曲と大学祝典序曲もワルター渾身の力感漲る名演。

特に、大学祝典序曲など、下手な指揮者にかかるといかにも安っぽいばか騒ぎな通俗的演奏に終始してしまいかねないが、ワルターは、テンポを微妙に変化させて、実にコクのある格調高い名演を成し遂げているのは見事というほかはない。

コロンビア交響楽団は、例えば、ブラームスの交響曲第1番の終楽章におけるフルートのヴィブラートなど、いささか品性を欠く演奏も随所に散見されるところではあるが、ワルターによる確かな統率の下、編成の小ささをいささかも感じさせない重量感溢れる名演奏を披露している点を高く評価したい。

DSDマスタリングとルビジウム・クロック・カッティングによる高音質化も著しい。

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2014年10月09日


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ワルターは80歳で現役を引退したが、その後CBSの尽力により専属のオーケストラ、コロンビア交響楽団が結成され、その死に至るまでの間に数々のステレオによる録音が行われたのは何という幸運であったのであろうか。

その中には、ベートーヴェンの交響曲全集も含まれているが、ワルターとともに3大指揮者と称されるフルトヴェングラーやトスカニーニがステレオ録音による全集を遺すことなく鬼籍に入ったことを考えると、一連の録音は演奏の良し悪しは別として貴重な遺産であるとも言える。

当該全集の中でも白眉と言えるのは「第2」と「田園」ではないかと考えられる。

とりわけ、本盤に収められた「田園」については、同じくワルター指揮によるウィーン・フィル盤(1936年)、ベーム&ウィーン・フィル盤(1971年)とともに3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。

本演奏は、どこをとっても優美にして豊かな情感に満ち溢れており、「田園」の魅力を抵抗なく安定した気持ちで満喫させてくれるのが素晴らしい。

オーケストラは、3強の中で唯一ウィーン・フィルではなくコロンビア交響楽団であるが、ワルターの確かな統率の下、ウィーン・フィルにも匹敵するような美しさの極みとも言うべき名演奏を披露している。

スケールの大きさにおいては、ベーム盤に一歩譲ると思われるが、楽曲全体を貫く詩情の味わい深さにおいては、本演奏が随一と言っても過言ではあるまい。

もっとも、第4楽章の強靭さは相当な迫力を誇っており、必ずしも優美さ一辺倒の単調な演奏に陥っていない点も指摘しておきたい。

なお、ワルターによる1936年盤は録音の劣悪さが問題であったが、数年前にオーパスによって素晴らしい音質に復刻された。

演奏内容自体は本演奏と同格か、さらに優れているとも言える超名演であるが、現在ではオーパス盤が入手難であることに鑑みれば、本演奏をワルターによる「田園」の代表盤とすることにいささかの躊躇もするものではない。

他方、「第5」は、いささか疑問に感じる点がないと言えなくもない。

というのも、第1楽章冒頭の有名な運命の動機について、1度目の3連音後のフェルマータよりも2度目の3連音後のフェルマータの方を短くする演奏様式が、これはLP時代からそう思っているのであるがどうしても納得がいかないのである。

また、演奏全体としても、同時代に活躍したフルトヴェングラーやクレンペラーによる名演と比較するといささか重厚さに欠けると言わざるを得ないだろう。

しかしながら、ベートーヴェンを威圧の対象としていないのは好ましいと言えるところであり、そのヒューマニティ溢れる温かみのある演奏は、近年のピリオド楽器や古楽器奏法による演奏などとは別次元の味わい深い名演と高く評価したい。

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2014年10月01日


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ワルターはマーラーの交響曲第9番の初演者である。

もっとも、初演者であるからと言って演奏が素晴らしいというわけではなく、晩年のコロンビア交響楽団とのスタジオ録音(1961年)は決して凡演とは言えないものの、バーンスタインなどの他の指揮者による名演に比肩し得る演奏とは言い難いものであった。

しかしながら、本盤に収められた1938年のウィーン・フィルとのライヴ録音は素晴らしい名演だ。

それどころか、古今東西の様々な指揮者による同曲の名演の中でも、バーンスタイン&コンセルトヘボウ盤(1985年)とともにトップの座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

筆者としては、もちろんワルターの実力について疑うつもりは毛頭ないが、本演奏が超名演になった要因は、多分に当時の時代背景によるところが大きいのではないかと考えている。

本演奏が行われたのは第二次大戦前夜、まさにナチスドイツによるウィーン侵攻が開始される直前のものである。

ユダヤ人であることからドイツを追われ、ウィーンに拠点を移して活動をしていたワルターとしても、身近に忍び寄りつつあるナチスの脅威を十分に感じていたはずであり、おそらくは同曲演奏史上最速のテンポが、そうしたワルターの心底に潜む焦燥感をあらわしているとも言える。

同曲の本質は死への恐怖と闘い、それと対置する生への妄執と憧憬であるが、当時の死と隣り合わせであった世相や、その中でのワルター、そしてウィーン・フィル、更には当日のコンサート会場における聴衆までもが同曲の本質を敏感に感じ取り、我々聴き手の肺腑を打つ至高の超名演を成し遂げることに繋がったのではないかとも考えられる。

まさに、本演奏は時代の象徴とさえ言える。

また、当時のウィーン・フィルの音色の美しさには抗し難い魅力があり、本名演に大きく貢献していることを忘れてはならない。

本演奏は奇跡的に金属原盤が残っていたが、当初発売の国内EMI盤は必ずしも良好な音質とは言えず、輸入盤(カナダプレス)も万全とは言えなかった。

Dutton盤やナクソス盤など、比較的良好な音質の復刻盤も存在したが、やはり決定的とも言える復刻盤はオーパス蔵盤ではないだろうか。

しかし現在オーパス蔵盤は入手難であり、筆者としては代替盤としてIron盤を推薦したい。

針音を削除しなかっただけあって、音の生々しさには出色のものがあり、ワルター&ウィーン・フィルによる奇跡的な超名演をこのような十分に満足できる音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2014年08月14日


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ワルターの女性美がこれほど前面に押し出された演奏も少ないだろう。

曲が男性的な迫力に満ちたものだけにいっそう目立つ。

彼はティンパニや金管を極端に抑え、木管の色彩を排除し、ダイナミズムの角をことごとくすりつぶして、スケールの小さいロマンの世界を明滅させるのだ。

両端楽章のどこにも劇的な力みが見られず、陶酔的なまでに柔らかく、上品でエレガントである。

ブラームスの指定したアクセントまで無視して流麗に運んでしまう。

終楽章のコーダに入る直前、この最高の盛り上がりにおいて、むしろディミヌエンドを感じさせるところにこの演奏の特徴が集約されている。

危険な美しさとはこのようなものをいうのだろう。

音楽的に考えればこんなばかなことはないが、ワルター&ウィーン・フィルの感じたままであるせいか、完成、円熟していて、どこにも物足りなさや不自然さがない。

これは驚くべきことである。

しかもテンポの大きな動きは常軌を逸するほどで、たとえば第1楽章再現部直前の崩れるようなリタルダンド、終楽章の経過句における凄まじいアッチェレランドなど特に甚だしい。

前者ではドラマティックな効果よりはむしろ頽廃を感じさせ、後者ではリズムが上すべりして少しも激しくなく、意外に効果が弱くなってしまった。

一つにはウィーン・フィルの楽員がワルターの表現を知り尽くして、気分の高揚を伴わずに表現するせいもあるのだろう。

印象的に美しいのは第3楽章で、ここはウィーンの高貴な夢である。

実に小味だ。

また終楽章の導入部で弦が疾風のように降りてくるところは、32分休符が生きて不健康の極を示す。

クレメンス・クラウスの儚さとは違うが、ワルターの女性的な天性はこのブラームスに最もよく表われているのではないだろうか。

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2014年07月20日


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ワルターの十八番ウィーン・フィルとのハイドン、モーツァルト、シューベルトで、甘美でエレガントな味わいが力強く美しく再現(復刻)されていて、選曲も最高と言えよう。

「未完成」は、第1楽章の終結、最後の3つの和音がスタッカートで、終わりのさざ波がいかにも短く、ため息のように消えてゆく。

この部分にワルターの「未完成」の美しさは集約されているようだ。

はかない哀感、この一言に尽きる。

ワルターはかなりオーケストラの奏者に任せつつ全体を見透し、愁いにみちた甘美さでこの曲を描き上げた。

ウィーン・フィルの貴族的なニュアンスとともに、ここにはわれわれが心の中で典型とする「未完成」の姿がある。

「プラハ」は、ワルターの若々しさとウィーン・フィルの個性がミックスして、独特の魅力を生んだ録音だ。

特に、第1楽章の主部をこれほど速いテンポで指揮したのは他にはシューリヒトだけである。

第2楽章の身も世もなく歌う恍惚美と高貴な艶は、一種の虚無感と相俟って全曲の頂点となる。

天国的なモーツァルトの音楽とその演奏にふと浮かび上がる虚無の影や不安感、これこそワルターの「プラハ」の秘密と言えよう。

「奇蹟」は、魅力的な部分が多々あるにもかかわらず、全体として小味にすぎ、即興演奏風にすぎて、古典の格調を失ったハイドンである。

美しいのはメヌエットのトリオにおけるオーボエで、これほど間の良い、音色にも吹き方にもセンスのあふれた演奏は滅多に聴けないだろう。

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2014年06月13日


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エジプトのアレキサンドリアでの演奏会で絶賛されたモーツァルトのニ長調、その洗練さと優雅さ。

学究肌のイメージが付きまとうシゲティであるが、実際の演奏はみずみずしく、品格にあふれるものであった。

そしてもう一方のベートーヴェンはワルターが録音した初めてのコンチェルトである。

戦前のSPでベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」といえば、クライスラー&ブレッヒかシゲティ&ワルターのいずれかであった。

どちらに与するかは、聴き手次第だったらしいが、特にシゲティ盤に与する人はワルターの指揮も大きな力となっていたと思う。

確かにワルターの表現は今改めて聴き返してみると円熟味に不足するとはいえ、ティンパニを強打して始まる印象的な冒頭や、緩急自在のテンポ感、特に第2主題の大きくテンポを落とす情感と、レガートやポルタメントを多用する歌い方など、まことにチャーミングである。

ダイナミズムも柔らかいかと思えば、再現部冒頭のように厳しい一面も見せる。

しかし当時のワルターの欠点は、テンポの速いところでアンサンブルが雑になったり、リズムがのめりがちになったりすることであろう。

その良い例が終楽章で、ここではスケールがいかにも小さく、音楽が軽くなりすぎてしまった。

シゲティのヴァイオリンは彼の3種のレコードの中では、この第1回目が当然のことながら技術はいちばん充実している。

もちろんシゲティの音はあたかも鋼のごとく固く、強く、きつい。

ムードとか甘さはどこに探しても見当たらないが、しかしヴィブラートが粗すぎたり、音がかすれたりすることがなく、最高の音楽性をもって真摯に弾いてゆく。

ことに第2楽章の出来が良く、透徹しており、深い精神美に満たされている。

速いテンポでリズミックな舞曲調を生かしたフィナーレも個性的で若々しく、これこそ近代ヴァイオリニストが録音に残した演奏の最高峰である。

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2014年05月27日


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1946年3月、カーネギー・ホールにおける白熱のライヴ。

1946年頃のアメリカではブルックナーも度々演奏されていたらしく、日本では終戦直後そんな余裕すらなく、1970年代後半に入ってから本格的に聴かれ始めた作曲家であるが、ワルター/ニューヨーク・フィルの演奏を聴いていると、とても戦争直後とは思えないような実に深い、そして既にブルックナーを自分たちの物にしていて、演奏終了後の拍手からも聴衆の感動が伝わってくる。

情感豊かなワルターの解釈が演奏者に深く浸透し、馥郁たる浪漫の薫り立ちこめるブルックナーで、凝縮されたエネルギーの密度も濃い。

ワルターと言えば、モーツァルトとマーラーの権威として知られていたが、ブルックナーもなかなか聴かせる。

どうしても、先入観で聴いてしまいがちだが、このブルックナーは他の指揮者には真似の出来ないワルターならではの仕上がりである。

一度は聴いてみても損は無いと思わせるそういう演奏。

古い放送録音のため音は硬いが弦の響きなど生々しく迫ってくる。

この音源の元になったのはどうやらラジオ放送で使用する盤らしく、収録時間もきっちり60分という放送を意識した仕様である。

そのため、曲の前にはアナウンサーによる曲目や演奏家紹介などが入り、第9交響曲終了後はワルター指揮のブラームスの第4交響曲から第3楽章の抜粋など明らかに時間調整のため行った構成であったそうだ。

盤起こしのためどうしても針音や特有のノイズ、レベル変動などが所々あるが視聴するうえでは全く問題にならない範囲である。

ちなみにオーレル校訂版(1932年)という版は、アルフレート・オーレルが、ブルックナーが本当に書いた部分を再現しようとした最初の校訂版(第一次全集版)。

「ハース版」と扱われることもある。

この版による初演は1932年、ジークムント・フォン・ハウゼッガー指揮によりミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会では2度の第9番が演奏された。

レーヴェ版についでオーレル版が比較演奏されたのである。

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モーツァルトの《レクイエム》で最高のモーツァルト解釈者といわれたブルーノ・ワルターの演奏は、音楽の構成を明確に保ちながら、豊かな感情を肉付けしている点で比類がない。

ワルターは1956年に、ニューヨークとウィーンでこの曲を録音したが、ウィーンでの録音はライヴであり、演奏には集中力が強い。

1956年ウィーンにおけるモーツァルト生誕200年記念演奏会のライヴ録音が、ワルター&ウィーン・フィルとなれば、ファンの目つきは変わらざるを得ない。

ライヴのためか冒頭はややあやふやに聴こえるところもあるが、中盤からは楽器も声もエンジンがかかり、見違えるばかりに生命力をとり戻している。

後半はもう完全にワルターの世界に同化させられてしまう。

教会的な雰囲気とか、宗教感といったものにこだわらず、、いわゆるモーツァルト的なスタイルも無視して、音楽そのものを彫り深く描きつくした演奏である。

オーケストラもコーラスも力一杯鳴っており、緊迫感と威厳と壮麗さにあふれているところから、これを演奏会風の解釈と呼んでも良いと思うが、しかしながら速めのテンポで全曲をきりりと造型し、一切の無駄を省いた指揮ぶりは、やはり〈純音楽風〉といったほうが適していよう。

従ってスケールも決して大きくはない。

その若き日のリハーサルに「怒りの日」を歌うコーラスに向かって、「あなた方はまだ歌おうとしている。もっと死の恐怖を叫んでください」と言ったワルターの表現は、晩年にいたって昇華されつくしている。

コンサートの前に楽屋の片隅でモーツァルトの霊と交信しているところが見られたと伝えられているワルターが、この《レクイエム》についても同じことをしたかどうかは知らない。

しかし、モーツァルトの最高の解釈者のひとりとしての真価は、このウィーン・フィルとの演奏にも明らかにされている。

《レクイエム》のテキストにモーツァルトが込めた感情を、ワルターは優れたバランス感覚で表現しており、演奏は威厳と優美な情感を漂わせている。

これほど納得のいく演奏はない。

デラ・カーザ(S)マラニウク(A)デルモータ(T)シエピ(Br)といった豪華なソリスト、そして合唱団、オーケストラのすべてが充実した演奏を聴かせる。

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2014年05月26日


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当盤は、GRAND SLAMレーベル設立以来の、最高の音質と言われ、信じられないほどの情報量の多さで、広がりの豊かさ、定位の明確さ、そして全体の艶やかで瑞々しい音色は腰を抜かさんばかり。

もともと、音質が良い盤だっただけに、当盤のさらなる飛躍的な音質向上には、耳を疑うばかりだ。

これは数多いワルターの録音の中でも最高傑作の一つに挙げられる名演中の名演である。

出来映えはニューヨーク・フィルとのモノーラルを遥かに凌ぎ、一点の無駄もない古典化された演奏である。

たとえば第1楽章のコーダや第2楽章をバーンスタインと比べてみれば、ワルターのほうがずっと淡々として枯れた解釈であることがわかるはずだ。

しかし、さらに付け加えなければならないのは、こうしたもろもろの芸、もろもろの巧さと情緒が、ワルター個人の芸術、マーラー自身の芸術という範囲を遥かに超えて、最も普遍的な音楽にまで達している点である。

たとえばメンゲルベルクのマーラーは、生前ワルター以上と讃えられたものだった。

しかしどこかにメンゲルベルクの癖とマーラー臭さを感じさせる。

メンゲルベルクを持ち出さなくても、ワルターの他の演奏がすでにそうだ。

ところがこの「巨人」は、ワルターが自分自身の個性を最大限にまで発揮しながら、それがすべてマーラーの音楽自体に純化し、そのマーラーの音楽がさらに個人的なものを脱して普遍性を獲得しているのである。

ワルター、マーラーという音楽家への好き嫌いを超越して、万人を感動させる芸術がここに生まれたのだ。

これこそ指揮者として最高の境地を言わねばならない。

かくしてこの演奏は、ワルター的、マーラー的、ウィーン的などという形容を許さず、それどころか録音ということさえも忘れさせてしまう。

耳を傾けてみよう。

スピーカーの前面いっぱいを、いや、聴いている部屋全体を満たす巨大な音の像、これは一体何であろうか。

機械音楽であることをまず忘れさせ、眼前にオーケストラや指揮者や楽譜が浮かぶという次元をも超越して、大きく結ばれる音像の出現、これこそワルターが成し得た不滅の理想像ではなかろうか。

そこにこそ音楽は善への使徒として美の究極の姿を示したのだ。

なぜならば、この録音を共に聴くことを許された幸福な人々に生まれる、類ない愛の心がそれを証明するからである。

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本作はメンゲルベルクの影が遺る戦後間もないコンセルトヘボウで、マーラー随一の愛弟子ワルターが「巨人」を振る歴史的に見ても貴重な国内初出音源。

マーラーはメンゲルベルクも得意としていたが、その本拠地での演奏だけに興味深い。

ワルターとメンゲルベルクは、マーラーの最もよき理解者であり、擁護者であった。

特にワルターはマーラーと時代と仕事を共有していただけに、その音楽に強い愛情を抱いていたに違いない。

ワルターは「マーラーが20世紀の世紀末を先取りしていた」と言うような思考とは無縁で、純粋に音楽自体に没入していた。

「巨人」も例外ではない。

ワルターはこの曲に流れる若々しい感情にいとおしむような眼差しを向ける。

その落ち着いた情感は音楽の構成に安定感を与えるし、第4楽章においても秩序を感じさせ、先行する3楽章からの流れとして納得させられる。

ワルターの解釈はそれほど自然で、音楽と一体化していると言えよう。

「運命の歌」は、ブラームスらしい渋さと暗い雰囲気を湛え、内部に激しい情熱を秘めた解釈で、合唱団も非常に気持ちのこもった歌い方だ。

前後の天国の部分を弱音効果で女性的に、中間の人間界の苦しみをきめ粗いくらい迫力をこめて演奏し、対照を鮮明に生かしている。

このようなワルター最盛期の名演を、仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻された音質で味わうことのできることを大いに喜びたい。

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2014年05月25日


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生誕200年を記念したモーツァルト・イヤーの1956年。

3月のニューヨークでは、モーツァルトの十字軍であるブルーノ・ワルターによる一連のコンサート並びにオペラ上演(伝説の「魔笛」もこの月の演奏)が開催された。

中でもソニー録音セッションと並行して行われた「モツ・レク」ライヴは、幻の演奏で今回が初出となる。

音質も年代としては良好であり、冒頭の「入祭唱」などは哀愁漂うしみじみした味わいだが、演奏が進むにつれて、合唱の厚みあるハーモニーを得てうねりを増して行き、「怒りの日」に至っては熱くなるワルターらしい激しさで、表現行為、演奏行為としての『レクイエム』であることが分かる。

歌手陣もソニー盤と同様であり、共に演奏を繰り返した演奏家同士による自然な流れを感じさせてくれる。

マーラーの第4交響曲は、ワルターが偏愛した名曲であり、多くの録音が知られている。

ワルターは1950年の8月、9月、10月と欧州を単身廻り、8月末にはウィーン・フィルとザルツブルク音楽祭で当曲を演奏、9月末にはベルリン・フィルと戦後稀少な共演を果たす。

当演奏は、1950年9月4日、珍しくフランクフルト博物館管弦楽団(フランクフルト歌劇場のオーケストラがコンサートに出演する際の呼び名)に客演したコンサートである。

音質が驚異的に鮮明であることが推薦に値するところで、きらめくような弦楽器の輝かしさには感嘆の一言だ。

晩年に見せた止まるような遅いテンポによるロマン的表現は、ここにはなく、自在な変化をつけて結構ドラマティックな盛り上がりを作っている。

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1940年2月17日(モーツァルト)、1939年3月18日(ブラームス) ニューヨーク、NBCスタジオ8Hでのライヴ(モノラル)録音。

「ハフナー」は19世紀の流れを受け継ぐコンサート・スタイルの大演奏として、完璧無類の名演だ。

こうしたアプローチにバーンスタインは影響を受けたが、ワルターの場合、どれほど表情たっぷりに演奏しても、緻密なアンサンブルや上質な響きを失っておらず、しかも、さらに豊麗に歌い抜いている。

その好例が緩徐楽章で、スコアの弱音指定を無視してでもカンタービレをほとばしらせ、聴く者を魅惑する。

こんなロマンティックなモーツァルトは他に類例を見ないが、それでいて少しも外面的に陥っていないのである。

両端楽章の生命力も抜群で、その中に自由自在な変化があり、まさに名人芸の棒さばきと言えよう。

ブラームスの第1番は、ワルター唯一のライヴ録音。

ワルターは早くから優れたブラームスの演奏を聴かせてくれた。

戦前のウィーン・フィルとの交響曲第1番、戦後のニューヨーク・フィルとの《ドイツ・レクイエム》などは忘れがたい。

ワルターはブラームスの交響曲第1番を3度スタジオ録音したが、ここではNBC交響楽団とのライヴ録音を聴きたい。

この頃の彼の解釈は、後のスタジオ録音より気力が充実しているために、ブラームスの充実した音楽がいっそうの輝きを放っているし、トスカニーニのオーケストラ、NBC響の強靭な音も演奏を引き締めているからである。

そして、ワルターは作品の構成感ばかりでなく、音楽の底を流れる抒情性を汲み上げて、演奏の雰囲気を豊かにしている。

原盤はアセテート盤で、多少聴き苦しい部分もあるが、壮年期のワルターの荒れ狂った迫力は想像以上である。

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2014年05月24日


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ワルターとバイエルン国立管弦楽団の珍しいコンビによる1950年のライヴ。

20世紀最大の名指揮者のひとり、ブルーノ・ワルターは、1913年から1922年までミュンヘンのバイエルン国立歌劇場の監督で、ここで大変に充実した音楽活動をおこなっていた。

その後、活動の拠点をウィーンに移し、戦争によってアメリカに亡命したのは周知の通り。

戦後、故郷ベルリンやウィーンは何度か訪れているにもかかわらず、ミュンヘンはこの1950年の一度きりだったとかで大変貴重な録音。

LPでもCDでも海賊盤でも今までリリースされたことのない完全初出盤である。

ワルターの最も多忙な時期の録音で、それだけに若々しい活気がみなぎる演奏となっている。

しかも音楽にいかにも手づくり風のホームスパンのような素朴なあたたかさがある。

特に「未完成」がずばぬけた名演で、この曲のつきるところのない魅力を一度に解明してみせた感がある。

特に第2楽章は深く心をこめて歌う。

およそ考えられぬほどの高貴な抒情で満たされ、この音楽の限りなく永遠に続くことを願う気持ちすら起きる。

ワルターはマーラーの直弟子であり、マーラーと一心同体の人だ。

だいたいマーラーを得意にしている指揮者だが、なるほどこの演奏は素晴らしい。

マーラーが演奏したらこうなるだろうと思われるくらいにマーラーそのものになりきっている。

造形の安定度の高さも特筆に値するが、全4楽章をスケール大きい気宇でまとめていることも高く評価できる。

後年のステレオ録音の円熟した演奏もいいが、これはこれで改めて傾聴したい秀演。

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1950年9月25日 ワルター&ベルリン・フィルのコンサートの実況録音。

モーツァルトの第40番は、表現のスタイルはウィーン盤に似ているが、上行ポルタメントは見られず、ワルターとしては何でもなく開始される。

テンポもごくふつうだ。

ところが、13小節眼の上昇音階で急にポルタメントが掛かり、大きなクレッシェンドと共に甘美な雰囲気が濃厚となる。

すなわち1929年盤にそっくりなのである。

もちろん偶然の一致だろうが、この表情がベルリンのオーケストラだけに聴かれるのは興味深い現象だと思う。

再現部の例のルフトパウゼはこの1950年盤にはすでに現われている。

第2楽章は強調されたレガート奏法で開始される。

それゆえモーツァルトのとぼとぼした足どりは弱められているが、その代わり4小節の終わりから急にピアニッシモにする寂しさが何とも言えない。

展開部の切迫してゆくような速いテンポも、この盤独特のものである。

メヌエットからフィナーレにかけては、低弦の威力が随所に感じられ、他の盤には見られないベルリンの味を伝えているのである。

ブラームスの第2番は、ベルリン・フィルの上に自然に乗った指揮ぶりである。

従ってニューヨーク盤やフランス国立放送盤のような踏みはずした迫力はないが、最も抵抗なく味わえる完熟の演奏であり、もちろんワルターならではの幻想的でロマンティックな歌は充分だ。

このワルター最盛期の名演を、仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻された良好な音質で味わえるのを喜びたい。

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2014年05月23日


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モーツァルト生誕200年に、メトロポリタン歌劇場で2月23日から3月26日まで7回公演されたもののうち、3月3日の録音。

ワルターは「魔笛」をモーツァルトの遺言と考えており、しかも1956年3月3日をいえばニョーヨーク・フィルによる「ジュピター」(3月5日)のレコーディングの直前、彼の芸術の頂点を示した時期である上に、実演録音でもある。

この演奏は1942年の「ドン・ジョヴァンニ」とともにワルターが残したモーツァルト・オペラ最高の、いや「魔笛」最高の演奏と言うべきである。

劇音楽に対するワルターの才能の現われも特徴的で、ドラマの持つ感情や意味を音楽化する力において、筆者は少なくとも「魔笛」に関する限りワルター以上の人を知らない。

前時代的と言われようが歌詞が英語だろうが絶好調のワルター芸術が爆発している。

速めのテンポで演奏されるこのライヴ盤は、歌手とオーケストラとの、アンサンブルでの齟齬などもあるけれど(オケが終始速め)、ワルターの情熱とオペラ指揮者としての迫力が充分に伝わる名演である。

モーツァルト晩年の透明感とは少し違うかもしれないが、生き生きとした音楽は心に深く浸み込み、大きな感動を与えてくれる。

歌手陣には若干の不満もあるが、こと指揮について言えばその壮麗かつ迫力の凄さにまさに圧倒される。

英語も聴き進むに従って気にならなくなる。

重唱や合唱、さらには独唱者にさえ与えられるワルターの表情、レガートやスタッカート、強弱のニュアンスの変化はまさにデリケートの極みと言うべきであろう。

それはちょうどニューヨーク・フィルを振った「ジュピター」をさらに多様に、さらに生々しい血を通わせてオペラに封じ込めたと言ったら良いだろうか。

コーラスもオーケストラもむしろ平凡だが、すべてが完全にワルターの手足となり、まとまったチームとなって充実した演奏を繰り広げている。

かえって歌手にスターがいないだけに、ワルターの「魔笛」がいっそう純粋に味わえるのだとも言えるだろう。

これに比べればベームやクレンペラーの「魔笛」はあまりにも一面的であり、モーツァルトの驚くべき変化に富んだ音楽の魅力を、かなり失っていると言わざるを得ない。

ワルターの真価をすでに認めている人にはともかく、疑問を持っている人にぜひ聴いてほしい演奏である。

この年(1956年)ワルターは現役引退を表明したのであった。

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2014年05月16日


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ワルターは最晩年にコロンビア交響楽団を指揮して、自らのレパートリーの数々のステレオ録音を行ったが、その中にはブラームスの交響曲全集も含まれている。

当該全集の中でもダントツの名演は、本盤に収められた第4番ということになるのではないだろうか。

それどころか、ワルターが我々に残してくれた数々の名演の中にあって、これは5本の指に入る素晴らしい演奏だ。

ワルターによるブラームスの交響曲の名演としては、ニューヨーク・フィルを指揮した第2番の豪演(1953年)がいの一番に念頭に浮かぶが、今般の全集中の第2番にはとてもそのような魅力は備わっておらず、本演奏の優位性は揺るぎがないと言える。

第4番はブラームスの晩年の作品であることもあって、孤独な独身男の人生への諦観や枯淡の境地をも感じさせる交響曲である。

本演奏におけるワルターのアプローチは、何か特別な解釈を施したりするものではなく、むしろ至極オーソドックスなものと言えるだろう。

しかしながら、一聴すると何の仕掛けも施されていない演奏の端々から滲み出してくる憂愁に満ち溢れた情感や寂寥感は、抗し難い魅力に満ち溢れている。

晩秋に落葉が一葉一葉ひらひらと舞い落ちて来る様な冒頭からして、これほど切なさが胸に募る演奏は今日まで他で聴いた事がない。

これは、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠が、その波乱に満ちた生涯を自省の気持ちを込めて振り返るような趣きがあり、かかる演奏は、巨匠ワルターが最晩年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地にあるとも言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、ブラームスの「第4」の深遠な世界を心身ともに完璧に音化し得た至高の超名演と高く評価したい。

小編成で重厚さに難があるコロンビア交響楽団ではあるが、ここではワルターの統率の下、持ち得る実力を最大限に発揮した最高の演奏を披露しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2014年05月14日


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ワルターが残したブラームスはいずれも絶品で、永遠のスタンダードとしての地位は今後も揺るがないだろう。

新古典主義の作曲家ブラームスの音楽の、構築的にしっかりとした重厚さよりも、ロマンティックな情感に重点をおいた演奏で、ワルターならではの柔和なブラームスとなっている。

ブラームスが作曲に長い時間をかけたこの第1交響曲でも、ワルターの確かな構成力と、慈愛に満ちた表現が聴ける。

ワルターと言えば、モーツァルトの優美な名演の印象が強いだけに、誠実で温かみのあるヒューマンな演奏だとか、温厚篤実な演奏を行っていたとの評価も一部にはあるが、本盤のブラームスの「第1」や、併録の2つの管弦楽曲の熱い演奏は、そのような評価も吹き飛んでしまうような圧倒的な力強さを湛えている。

ブラームスの「第1」は、1959年の録音であるが、とても死の3年前とは思えないような、切れば血が吹き出てくるような生命力に満ち溢れた熱演だ。

もちろん、たっぷりと旋律を歌わせた第2楽章や、明朗な田園的気分をやさしく表出した第3楽章の豊かな抒情も、いかにも晩年のワルターならではの温かみを感じさせるが、老いの影などいささかも感じられない。

まさに、ワルター渾身の力感漲る名演と高く評価したい。

併録の2つの管弦楽曲も名演。

特に、大学祝典序曲など、下手な指揮者にかかるといかにも安っぽいばか騒ぎに終始してしまいかねないが、ワルターは、テンポを微妙に変化させて、実にコクのある名演を成し遂げている。

ハイドンの主題による変奏曲は、めまぐるしく変遷する各変奏曲の描き分けが実に巧みであり、これまた老巨匠の円熟の至芸を味わうことができる名演と言える。

コロンビア交響楽団は、例えば、ブラームスの「第1」の終楽章のフルートのヴィブラートなど、いささか品を欠く演奏も散見されるものの、ワルターの統率の下、編成の小ささを感じさせない重量感溢れる好演を示している点を評価したい。

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2014年05月13日


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ワルターによるブラームスの「第2」と言えば、ニューヨーク・フィルとの1953年盤(モノラル)が超名演として知られている。

特に、終楽章の阿修羅の如き猛烈なアッチェレランドなど、圧倒的な迫力のある爆演と言ってもいい演奏であったが、本盤の演奏は、1953年盤に比べると、随分と角が取れた演奏に仕上がっている。

しかしながら、楽曲がブラームスの「田園」とも称される「第2」だけに、ワルターの歌心に満ち溢れたヒューマンな抒情を旨とする晩年の芸風にぴたりと符合している。

第1楽章から第3楽章にかけての、情感溢れる感動的な歌い方は、ワルターと言えども最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地ではないかと思われる。

終楽章は、1953年盤に比べると、幾分角のとれた柔和な表現にはなっているものの、それまでの楽章とは一転して、力感溢れる重量級の演奏を行っている。

コロンビア交響楽団は、金管楽器などにやや力不足の点も散見されるが、ワルターの統率の下、なかなかの好演を行っている。

ブラームスの「第3」は、巷間第1楽章や第4楽章の力強さから、ブラームスの「英雄」と称されることもあるが、筆者としては、むしろ、第2楽章や第3楽章の詩情溢れる抒情豊かな美しい旋律のイメージがあまりにも強く、ここをいかに巧く演奏できるかによって、演奏の成否が決定づけられると言っても過言ではないと考えている。

その点において、ワルターほどの理想的な指揮者は他にいるであろうか。

ワルターは、ヨーロッパ時代、亡命後のニューヨーク・フィルを指揮していた時代、そして最晩年のコロンビア交響楽団を指揮していた時代などと、年代毎に芸風を大きく変化させていった指揮者であるが、この最晩年の芸風は、歌心溢れるヒューマンな抒情豊かな演奏を旨としており、そうした最晩年の芸風が「第3」の曲想(特に第2楽章と第3楽章)にぴたりと符合。

どこをとっても過不足のない情感溢れる音楽が紡ぎだされている。

もちろん、両端楽章の力強さにもいささかの不足もなく、総体として「第3」のあまたの名演でも上位にランキングされる名演と高く評価したい。

初期ステレオのため、多少高音がずり上がったような感じがしなくもないが、ワルターの音楽の前ではそれは大きな問題ではない。

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2014年04月27日


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1952年5月17日のライヴ録音で、有名な英デッカの名録音直後のライヴ演奏の強力新譜の登場である。

ワルターは1952年5月15日と16日、英デッカのために《大地の歌》をスタジオ録音、17日と18日にはウィーン音楽祭に出演、同曲と前プログラムのモーツァルト第40番を指揮した。

《大地の歌》の方はスタジオ録音と17日のライヴ録音がCD化されており、両方とも持っていたい。

今回採り上げた17日の演奏の音質は、もちろん英デッカの優秀録音には若干及ばないが、ライヴ特有の熱気に満ち満ちており(ワルターのうなり声も聞こえる)迫力満点だ。

ワルターの英デッカによるスタジオ録音盤における物足りなさは、フェリアーの発音と偶数番号曲のスケールの小ささにあった。

ところが今般、このスタジオ録音の翌日に行なわれたライヴ録音が、仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻されて日の目を見て、そのマイナス面が補われた。

ソロの録音が生々しく、オケにはライヴならではの生命力があり、第4曲と第6曲の2曲に関しては、ややスケールの小ささを感じさせたスタジオ録音の問題が払拭され、このライヴ録音の方が上だ。

他のナンバーもフレッシュな感動を与えられる。

演奏はスタジオ録音と同じく、完璧なまでに古典化され、練れ切っており、熟成した年代物のワインのような香りを湛えている。

作曲家自身、演奏可能かどうかを危惧したほどの難曲だが、ワルターの手にかかると緻密なアンサンブルに一分の隙さえなく、形には無駄がなく、しかも当時のウィーン・フィルの驚くべき魅惑と土くさいまでの音色の個性がその形に花を添えている。

モノラル録音だがマーラーの複雑微妙なオーケストレーションを楽しむのに全く不足はない。

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2014年04月22日


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英国の偉大なピアニスト、デイム・マイラ・ヘスと共演のブラームスのピアノ協奏曲第2番は名演としてワルター・ファンの間では有名な録音。

ヘスはワルターが高く評価していた名ピアニストであり、これは貴重なライヴ録音。

女流ながら構えが大きく、決然たる威厳に満ち、すべての音が鳴り切ったシンフォニックな響きは男性的とさえ言えよう。

第2楽章の強靱でいて情熱的な弾きっぷりと前進性もすばらしい。

しかも第1楽章では、ときにリズムを崩して不健康な味を見せたり、第3楽章では音の一つ一つに心をこめぬき、極めて意味深い名演を成しとげているのだ。

それでいて流れが停滞することはいっさいないのである。

ワルターの指揮も立派だ。

終始、厚みと充実感と豊かな歌があり、むせるようなロマン、いじらしさ、熱狂的な追い込みなど、音楽を堪能させてくれる。

第3楽章における美しい情感の表出は、これがほんとうのブラームスという気がする。

モーツァルトのモテット「エクスルターテ・ユビラーテ(踊れ、喜べ、幸いなる魂よ)」は名花ゼーフリートの親しみやすい声が作品に打ってつけで、小柄なゼーフリートが意外に声を張り上げて歌い上げている。

ゼーフリートとワルターらしい生命力に富んだモーツァルトである。

いずれもワルターとニューヨーク・フィルの蜜月時代のライヴがいかに素晴らしかったかを証明するような名演である。

音質は仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻されたものなので、演奏が気に入れば聴いているうちに気にならなくなる。

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1953年12月27日、カーネギーホール、ニューヨークに於けるライヴ(モノラル)録音。

ワルター没後50年を記念して、仏ターラレーベル(キングレコード)から数々の放送録音が復刻されたのは、これまでのレビューでご紹介してきた通り。

その中で珍しいワルター&ニューヨーク・フィルのブルックナーの交響曲第9番は、物凄い燃焼力を持った圧倒的な演奏。

異様なまでの緊迫感と熱気をはらんだワルター畢生の豪演で、ニューヨーク・フィルのマッシヴな迫力にはただ唖然とするのみだ。

演奏タイムも50分37秒と、後年(1959年)のコロンビア交響楽団とのスタジオ録音(58分)と比べてもかなり速いテンポの演奏となっている。

かのシューリヒトよりもさらに速いテンポの演奏で、しかし速いための違和感はなく、重厚で堂々たるブルックナーである。

オーケストラがブルックナーをほとんど演奏していないニューヨーク・フィルであるが、スケールの大きな名演である。

ニューヨーク・フィルはこの当時ワルターと頻繁に録音を行っており、両者の相性は素晴らしい。

ドイツ系のオーケストラによるブルックナーとは異なる面もあり、特にフィナーレの高揚は素晴らしい。

ワルターには、引退後(1957年)のライヴも出ているが、比較的迫力に乏しく、弦がやや霞んだような感じに聴こえるのは、録音のせいもあるのだろう。

解釈は勿論両盤とも殆ど変わりは無いだけに、正直言って1953年盤(当盤)があれば、1957年盤は不要と言ってもいいと思う。

1953年盤はモノラルの放送録音であるが、仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻されたので聴きやすく、音質にも問題はない。

ワルター最盛期の名演を味わえる素晴らしいライヴ録音である。

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2014年04月21日


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マーラーの交響曲第5番はワルターのこの曲の唯一の録音であり、その意味でも大変貴重である。

ワルターの意外にも古典的な手堅さを見ることができる演奏であるが、どこをとっても、ワルターのこの曲に対する愛情が満ち溢れた名演奏だ。

全楽章に感興があふれ、その自然な呼吸の歌の起伏が、聴き手を魅惑せずにはおかない。

第1楽章の劇的な迫力も凄いが、有名な第4楽章〈アダージェット〉の旋律の歌わせ方は最高で、豊かなニュアンスで絶妙な表現を作っている。

第4楽章の〈アダージェット〉だけは前にウィーン・フィルとの録音(1938年)があるので、これが第2回目ということになるが、ニューヨーク・フィルから、よくもこれだけの人間味を表出し得たと感心させられる出来ばえを示している。

ウィーン・フィル盤ほど自然ではないが、粘りつくようなメロディーとリズム、そして人間味を肌いっぱいに感じさせるような弦の音、やはりワルターだけがよく成し得る名演と言えよう。

また、第2、3楽章あたりも充実した名演で、前者は各楽器がすべて意味深く生きた傑作だし、後者のウィンナ・ワルツの幻想はワルターの最も得意とするところで、洒落たリズムと歌に満ち溢れ、流れの緊迫感を常に失っていない。

細部まで音楽を自己のものとして消化し、権威をもってオーケストラをリードしている。

両楽章とも曲自体が非常に魅力的ですぐれており、ワルターの音楽性と相俟ってマーラー・ファンには何よりの贈り物であろう。

オーケストラも精気に満ちて素晴らしく、これは歴史的な記録として永く保存しておきたい名演だ。

歌曲集「若き日の歌」(から8曲)では、ハルバンがきめ細かく詩と音楽の情緒を表現して、ロマンティシズムの真髄に迫っている。

根っからのロマン主義者であったワルターであったが、指揮と同様、このピアノ伴奏でも過剰なルバートやデュナーミクを多用することなく、ハルバンの歌をより格調高く歌わせるような、巧みな指さばきを見せている。

こういう伴奏は歌手にとって歌いやすいのではないだろうか。

ハルバンの母性的な感情と可憐さを共有した、親しみやすい雰囲気はマーラーに最適である。

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2014年04月17日


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本盤にはワルターがローマに客演した際の貴重な音源が収録されている。

モーツァルトの交響曲第40番は、1952年4月19日のライヴ録音とのことであるが、演奏は極めて素晴らしい。

これと前後してウィーン・フィル、ニューヨーク・フィル、ベルリン・フィル、コンセルトヘボウ管による演奏会でモーツァルトの第40番が演奏されており、嬉しいことにすべてCDとなって聴くことができる。

どれもこの曲の最高の演奏であり、人類の宝であるが、今回初めて聴いたローマ・イタリア放送交響楽団の演奏は、上記のどれにも負けない素晴らしい演奏である。

もちろんワルターの演奏の本質は他のオーケストラを用いた演奏と全く同じである。

もっとも、ウィーン・フィルは特別な存在で、ワルター&ウィーン・フィルの音としか言いようがないので比較の対象にならないが、この演奏ではワルターの唸り声がたびたび聴こえてきて、オーケストラに激しいオーラが放射されていることがわかる。

オケは完全にワルターの楽器となって、ワルターが洞察した音楽を自らのものとして一丸となってひたすら演奏している。

全ての音に必然性があり、確信に満ちており、輝いている。

見せかけの表現は一つもなく、すべてが必然である。

各奏者の奏でる音には、一音たりとも曖昧なものはなく、確信に満ちた何の迷いもない音を出していてすばらしい。

ワルターは指揮するどのオーケストラでも、結局のところ同じ音を出させ、崇高な演奏となる。

熟達した指揮者のみが成せる業で、再生された音と、その音が構築する音楽の宇宙は普遍的かつ完璧である。

ベートーヴェンの交響曲第7番は、1954年5月18日のライヴ録音で、コロンビア交響楽団との演奏と同様、ワルターのこの曲最高の演奏の一つである。

コロンビア交響楽団を指揮しての演奏は偉大で、精神的で、美しく、雄大で、威力があり、この曲の本質を完璧に再現した演奏である。

ローマ・イタリア放送交響楽団による同曲の演奏も本質は同じである。

例えば、この盤の第4楽章は、コロンビア響との白熱化した演奏と基本的に全く同じである。

このローマ・イタリア放送交響楽団との演奏を聴いていると、コロンビア響の演奏の音がかぶさって聴こえてきて見事としか言いようがない。

同時にもう一つのワルターの本質、そしてそれはベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」や「フィガロの結婚」、ホロヴィッツとのチャイコフスキーのピアノ協奏曲などの激烈な演奏で我々が良く知っている偉大な激烈さがよりストレートに出ていて、全く見事な第7番の演奏となっている。

ローマ・イタリア放送交響楽団の音は美しく、かつ厚みと威力があり、ずしんとくる重みがある。

78歳のワルターがこんな凄まじい演奏を行ったことにますます畏敬の念を持ってしまう。

録音は仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻されたもので、音質は良好である。

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2014年04月16日


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モーツァルト「プラハ」のワルターの演奏は造型的にも、細部の表情づけの点でも、すでに4年後のコロンビア盤の解釈を先取りしているが、あの演奏にオーケストラの張り切った厚みと、ワルターの若々しさをつけ加えた感じである。

それにしてもワルターのほとばしり出るように燃え立つエネルギーは、いかに実演とはいえ、まさにすばらしい。

フランスの会場は一体に残響に乏しく、オーケストラの音色にも艶がないが、聴いているうちに、その生々しさがかえって長所に思われてくる。

第1楽章の導入部からして、きりりと引き締まったテンポとリズムで素朴な表現を見せ、しかもその中でやりたいことをやりつくしており、表面的な洗練への意志は全くない。

ヴィブラートをいっぱいにかけた歌は、オーケストラがワルターの指示を、一生懸命に守っている感じだ。

主部に入ると、非常なスピードとなる。

コロンビア盤も他の指揮者に比べれば速いほうだが、それさえ遅く思われるほどこれは速い。

おそらくシューリヒトに匹敵するだろう。

その速いテンポによる生命力は、徹底的に歌いぬかれる旋律美によってさらに輝きを増し、第2主題でぐっとテンポを落とすロマンティシズムと共に、ワルターの「プラハ」を聴く醍醐味がここにある。

第2楽章も速めのテンポで、いささかも繊細ぶらず、思い切って旋律を豊麗に歌う。

美しさのかぎりであり、われわれは音楽に身を任し、ただただ陶酔するのみである。

しかも歌いぬくだけでなく、そこに胸がときめくような、えもいわれぬたゆたいが見られる。

フィナーレはその異常な速さ(シューリヒトよりさらに速い)に驚かされる。

オーケストラが合わないくらいのテンポだが、ことによると舞台に立ったワルターが、内部から突き上げてくる情熱によって、即興的にこのテンポを採ったのかも知れない。

実にスリル満点、誰しもが興奮を禁じ得ないであろう。

「ジークフリート牧歌」はワルターの数多い録音の中で最も魅力あるものの一つ。

それは弦の響きや音色にライヴならではの生々しい人間味があり、それを放送局のマイクが十二分にとらえているからである。

ワルターのこの曲への愛情がいたるところにみなぎっている。

造型的にも若いころほど逸脱せず、後のコロンビア盤ほどとりすましてもいない。

フランスのオケはホルンやトランペットが軽すぎるとはいえ、オーボエとクラリネットのデリケートな敏感さはさすがにセンス満点だ。

なお、録音は放送局が取ったもので、さらに仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻されただけあって明快だ。

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2014年04月14日


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1939年4月8日 ニューヨークでのライヴ録音だが、この当時の放送録音でマーラーを味わうには無理があり、弱音部のニュアンスが捉えられていないのが致命的だ。

逆に強音部はうるさくなってしまう。

オケの音の出し方に含みがないので尚更と言えよう。

とはいえ、ワルターの第1回目の「第1」としての価値は高い。

第1楽章の若々しいテンポの張りとコーダの物凄い加速、第2楽章の嵐のように荒れ狂うスケルツォと、まるでウィンナ・ワルツのように力を抜き、速いテンポで洒落た表現をするトリオ、いつも積極的に語りかけるフィナーレ。

興味深いのは、マーラーがしつこいくらい指定した弦のポルタメント奏法をほとんど無視していることで、これがワルター個人の趣味なのか、あるいはマーラー自身の演奏もこの程度のものだったのか、今の指揮者がやたらと感じてもいないポルタメントを多用するのを聴くにつけ、考えさせられる。

ワルターこそは、元祖マーラー指揮者とも言うべき人なのであるが、どうも最近のマーラー指揮者とは少し雰囲気が違っている。

基本的に複雑系であるはずのマーラーの複雑さをそのまま提示はしないで結構バッサリと整理しているのだ。

このNBC交響楽団とのライヴ録音もそうだし、有名な晩年のコロンビア交響楽団とのスタジオ録音でもそうだ。

おそらくワルターという人はTPOに合わせて演奏スタイルをガラリと変えられる指揮者だったのだ。

もう少し具体的にいうと、アメリカとヨーロッパで2つの顔を使い分けている。

アメリカでは男性的な引き締まった演奏をしているかと思えば、ヨーロッパでは別人かと思うほどのロマンティックな演奏を展開していた。

このような単純な図式化は誤解を招きそうだが、言いたいのは、ワルターの本質はそのような状況に合わせて自分のスタイルを変えることができる、それも(これが大切なのだが)、驚くほど高いレベルで変えることができるところにあると思う。

ここで聴くことのできるNBC交響楽団との演奏でも、これほどまでに濃厚に青春のメランコリーを感じさせてくれる演奏はなかなかなく、流石と言うしかない。

それからもう一つ強調しておきたいのは、NBC交響楽団の素晴らしさである。

弦楽器群の美しさはまさに全盛期のウィーン・フィルのようだ。

コロンビア交響楽団とのスタジオ録音は編成の小ささからくる響きの薄さが悔やまれるだけに、貴重なライヴ録音と言える。

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ワルターとニューヨーク・フィル(「田園」のみフィラデルフィア管)のモノーラルによるベートーヴェンの交響曲全集。

録音条件としては後年のステレオ録音の方が当然良いし、演奏もさらに円熟している。

しかしこのベートーヴェンには、ステレオ録音とは異なる独特の精気と艶やかな情緒の表出があり、独自の説得力の強さがある。

オーケストラがニューヨーク・フィルであるのもその一因だろうが、後年の録音に比べて解釈が一層ロマン的なのも非常に興味深い。

第1番は表現上の情緒的変化がワルターの頭の中ではっきり計算されている。

だから楽曲全体を聴いた場合、そこにゆったりとした気分の統一が非常に親しみやすい印象を与え、単純にみえて実はうまく演奏するのは難しいこの曲を一糸乱れぬ統一で、しかも美しい響きですっきりと演奏しているのは立派だ。

特に第2番は、ワルターの個性と曲趣が一致したのであろう、立派な演奏である。

よく歌い、そして自然であり、いささかも渋滞したり誇張したりしない。

滔々と流れる大河のように雄大であり、また細部の美は明瞭である。

「エロイカ」では、いたずらに劇的な誇張を避けたダイナミックな進行で、この曲が内に秘めた大らかな世界を十二分に歌い出している。

充分に音を柔らかくふくらませて、オーケストラ全体をよく歌わせた表現である。

葬送行進曲のテンポと後半の対位法的進行のところの見事な処理、第4楽章の大きく波打つような情感の盛り上がり、こうありたいと思う表現である。

第4番の古典的詩情の曲もワルターの得意とするところである。

第2楽章アダージョの夢のようにのどかな主題をいかに幸福感に満ちて歌ってゆくことか。

第5番は聴き終わって威圧的なものを少しも与えられずに、実に堂々たる作品であった感銘を深くする。

それがワルターの純粋さなのである。

これは伝統を血とした者の純粋な思考が生みだした演奏で、単に情緒的とかロマン的とかの部分的要素を把握した演奏スタイルではないのである。

ワルターが正直に、深く考え感じぬいた結果の「運命」である。

フィラデルフィア管弦楽団との「田園」は、コロンビア交響楽団との共演よりもやや速いテンポで、情緒的に統一のある表現でまとめている。

第7番は野性的と言えるほどに情熱的なこの曲を、ワルターは平穏な特徴をつかんで演奏しているところに特徴がある。

スケルツォと終楽章をトスカニーニと比較してみると、その特徴がよくわかる。

第8番も、じつに柔らかな良い演奏で、現役の指揮者として最盛期にあったこの時代の録音は、やはり貴重なもので、特に第7番はワルター・ファンには、聴き逃せない演奏である。

第9番の演奏の個性的で、歌に満ちた表現は高く評価したい。

その表現はワルター特有の非常に情緒的で流麗なスタイルであり、声楽の部分も良い出来で、個々の歌唱ばかりでなく、四重唱も立派である。

このような一貫した楽想の下に統一された「第9」は他にはない。

総じてニューヨーク・フィル時代のワルターの録音は、ステレオ盤とは幾分異なるワルター像を記録していると言えよう。

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1947年11月13日 ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホールに於けるライヴ(モノラル)録音。

ロンドンでも愛されたワルターの最盛期の名演。

ワルターによるベートーヴェン「第9」は米コロムビアのモノラルとステレオの2種類のセッション録音が広く知られているが、これはそれらに先立つ公演の記録である。

しかしワルターの「第9」の中では、ウィーン・フィルとのORFEO盤も凄かったが、当盤もそれに匹敵する最高の演奏であろう。

ライヴということもあって全曲を一貫した主張に最も筋が通り、曖昧さが見られないからである。

セッション録音での大人しさとは別の激しさももつ演奏で、ことに初めの2つの楽章の緊迫感がすばらしく、トスカニーニ的な迫力と推進力が見事だ。

第1楽章はテンポが速く、一気呵成の進行と意志的なリズムによる語りかけもさることながら、ティンパニの意味深い強打が凄絶であり、再現部冒頭の決め方、それ以上に楽章終結の阿鼻叫喚は身震いがするほどだ。

第2楽章も緊張の持続とティンパニの強打がものをいっている。

第3楽章だけは他盤に比べてもう一つの出来だが、フィナーレは荒れ狂うような大変ドラマティックな演奏で、緊迫感に富んだ表現と言えよう。

温厚なワルターという面ばかりではないということを示したもので、ファンには貴重なものではなかろうか。

それにこの演奏はキャスリーン・フェリアーが参加しているというのが注目点であろう。

これがワルターとの初顔合わせではなかったかと思うが、それにしてもフェリアーの「第9」登場というのがこのCDの売りでもある。

A.ローズとA.Z.スナイダーによる2010年デジタル・リマスタリングによって、随分聴きやすい音質に改善されている。

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2014年04月13日


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演奏内容はあまりにも有名なので、ここではあまり触れないが、HMVへのSP録音で有名なワルター&ウィーン・フィルの1938年1月16日録音については、当時のレコーディング・マネージャーだったフレッド・ガイズベルグがライナーに1944年に「グラモフォン」誌に書いた当時の回想録がまず読み物として充分素晴らしい。

そして、何と言ってもオリジナルSPからのリマスターが素晴らしく、74年前の録音としては充分鑑賞に堪えうる音に仕上がり、聴き手は、ワルターの紡ぎ出す「音楽」に集中できる。

筆者は、フルトヴェングラーの歴史的復帰演奏会(1947年)の劣悪な音(従来盤)でも充分感動できるためか、世間一般の評判ほど音に不満を感じない。

そして、肝心の演奏であるが、第1楽章が24分47秒と現在の指揮者より若干速いテンポだが、速さを感じさせず、オケを充分歌わせている。

第4楽章も18分20秒と同様に速めであり、さすがにコーダの最弱音を聴くのはつらいが、表現内容は充分である。

全曲で70分13秒という速さは、ノイマンの指揮に似ているが、さすがに初演者であるワルターの思い入れに溢れた音楽の素晴らしさは唸らざるを得ない。

その急ぎ立てられるような演奏は、ナチの足音が近づいているという緊迫感があったからに違いない。

マーラーの交響曲第9番を語る時には、外せない1枚である。

ただし、HMVの親元EMIのCDは音質が悪いので、もし、そちらを既に聴いていて「音がどうも…」という人は、当盤を聴いてみていただきたい。

DUTTONらしく実に耳あたりのいい音で、ほんのりとステレオ感があり、ちょっと人工的であるが、ホールの後部席で聴いているような臨場感まで感じられる。

初めて聴く人にとっては、手元にある英EMIのLP復刻盤や東芝CD(初期盤)よりも、はるかに入り込みやすい音に仕上がっている。

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1950年8月24日 ザルツブルク、旧祝祭劇場に於けるモノラル・ライヴ録音。

「大地の歌」と第9交響曲の初演を務め、キャリアの初期よりマーラーの直弟子として作曲者と特別ゆかりの深かったことで知られるワルターであるが、ザルツブルク音楽祭も初めの40年間は、マーラーといえばほとんどワルターの独壇場であった。

ワルターによるマーラーの第4交響曲は現状での録音点数も13種を数えるが、1950年のウィーン・フィルとのライヴ演奏は、かねてより有名な内容でようやく正規音源よる初CD化となる。

その13種類全てを聴いたわけではないが、私見では、1955年11月のウィーンでのライヴ録音が出現するまではワルターによるマーラーの第4交響曲の王座にあったCDである。

第1回目のニューヨーク・フィルとのスタジオ録音以来、ワルターのこの曲に対する解釈は何よりもリリシズムを大切にしたものであり、その分メリハリの面白さや華やかな色彩美に欠け、のっぺりとした印象を与えがちであった。

ところが、このウィーン・フィル盤は彫りの深い各楽器の生かし方によって、第1楽章ではメルヘンの世界に遊ばせてくれるし、第2楽章は特に味が濃く、鋭い音彩やアクセントが作曲当時の前衛そのものだ。

第3楽章も息の長い主題を深く呼吸させながら歌ってゆくワルターの独壇場と言えよう。

ただしフィナーレだけはいつもの素朴さで一貫する。

他に2種あるウィーン・フィルとの第4交響曲ライヴも、1955年のギューデン、1960年のシュヴァルツコップと、それぞれソリストの個性が花を添えているが、やはりここではザルツブルク音楽祭の常連だったゼーフリートが凛とした佇まいで格別の魅力がある。

仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻された録音だけに、各楽器の音質やその分離が非常に鮮明で、やや歪みがあるものの、当時のレコーディングの水準を大きく超えている。

ワルター&ウィーン・フィルの名演をこのような比較的良好な音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年04月12日


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ブラームスの交響曲第2番には、いちいち採り上げるまでもなく、自分の好んでいるCDがたくさんある。

この曲には、いつも皮肉や毒舌しか口から出てこないブラームスと違って、終始機嫌が良く、朗らかな作曲家の姿が映し出されているが、それにぴったりと合っているのが、このワルター&フランス国立放送管盤である。

ワルターの指揮は燃えるような情熱でオーケストラを引っ張っているが、オーケストラ側は引っ張られているというよりも、ワルターの音楽を完全に自分たちの響きとして消化吸収し、それを思い切り発散している。

これは指揮者とオーケストラの、ある意味では理想的な形であろう。

それに、オーケストラ全体の明るめの色調もこの曲にはふさわしい。

第1、第2楽章あたり、ワルターならではの幻想的な魅力にあふれた部分は多々あるが、それにしても凄いのはフィナーレで、このCDの最大の聴きどころであろう。

恐ろしいくらいの超スピードなのだが、フルトヴェングラーやミュンシュのような暑苦しさや危険なスリルというものはなく、ひたすら爽快である。

スピード感も熱気もことによるとニューヨーク・フィル盤を上回り、コーダはいよいいよ燃え立って実演ならではの灼熱を見せるのである。

このときワルターは78歳だが、それを考慮すると信じがたい若々しさであり、最盛期のような名演と言っても過言ではあるまい。

ハイドンの「奇蹟」は、前年のニューヨーク・フィル盤と酷似した表現だが、フランスのオケによるライヴだけに、このほうがワルターの言いたいことがはっきりわかる。

なおこのCDは音質は乾いているが、仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻されたもので、鮮度は抜群だ。

また他レーベルでも同一の演奏が出ているが、このCDほどの音は期待できない。

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2014年03月30日


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ブルーノ・ワルター最盛期の名演を、仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻。

本作は正規盤初出のため音質が鮮明で、気力充実したワルターの指揮ぶりを堪能できる1枚。

最近では、ワルターのステレオ録音は彼本来の持ち味がかなり失われているという意見が広まっているようである。

豊麗にして端正闊達でありながら熱いエネルギーがあるというワルターならではの不思議な音楽の魅力は、ニューヨーク時代の演奏、とりわけライヴ録音に顕著に出ているのであるが、海賊盤はほとんどが音が悪くてあまり顧みられることはなかった。

この1953年のライヴは音も鮮明で、ワルターの深い音楽性がほぼ完全な形でとらえられた優秀な音質によって、地鳴りのするような迫力に満ち、気力充実したワルターの魅力を満喫できる。

「ハフナー」は、宇野功芳氏も「翌日のスタジオ録音よりもさらに凄まじい。テンポの変動、ホルンの最強奏、これこそアンチ・ロココのモーツァルトだ」と絶賛しているし、ライヴならではの気迫がみなぎるワルターの指揮は圧倒的だ。

マーラーの第4番も、少々のっぺりしたスタジオ録音とは大違いで、これは思っていたのと全然違う、音に生気と喜びが満ち溢れ、天上の音楽を何とも愛おしく聴かせてくれる。

深くまろやかでコクがあり、甘美で高雅な薫りが溢れ、しかも痛ましいほどの狂気が垣間見える。

ワルターの振るマーラーの「第4」といえば、他に1945年のニューヨーク・フィル盤や1960年のウィーン・フィル(告別コンサート)盤などが有名であるが、それらと比較してもこの1953年のニューヨーク・フィル盤が一歩秀でている。

とにかくニューヨーク・フィルの音に厚みがあり、血が通った演奏である。

ゼーフリートの声も清らかな声も素晴らしく、これぞ官能の極みと言えよう。

「ハフナー」はまさに沸騰するかのような活力が、マーラーでは耽美的な朗々たる歌が、それぞれ何と魅力的なことであろうか。

スコアの解析ばかりに執着して温もりのないマーラーや、ピリオド奏法そのものを売りにして中身の伴わないモーツァルトなど「真っ平御免!」という方は必聴。

まさに“本物の音楽”がここにあり、比較的良好な音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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