ブルックナー

2017年02月10日


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ヴァント&ベルリン・フィルによるブルックナーの交響曲の中でも最高峰の超名演は、紛れもなく「第7」であると考える。ヴァントは、同時期にミュンヘン・フィルとともにブルックナーの数々の交響曲を演奏しており、それらの演奏もベルリン・フィル盤と同様にいずれも至高の超名演であるが、「第7」についてはミュンヘン・フィル盤がないだけに、なおさら本演奏の価値が際立っている。ブルックナーの「第7」には、シューリヒト&ハーグ・フィル(1964年)、マタチッチ&チェコ・フィル(1967年)、朝比奈&大阪フィル(1975年、聖フローリアンライヴ)、ヨッフム&コンセルトヘボウ(1986年、来日公演盤)マゼール&ベルリン・フィル(1988年)、カラヤン&ウィーン・フィル(1989年)、スクロヴァチェフスキ&読売日響(2010年)など、多種多様な名演が目白押しであるが、本ヴァント&ベルリン・フィル盤は、それら古今東西のあまたの名演に冠絶する史上最高の超名演と高く評価したい。ヴァントのアプローチは、例によって厳格なスコアリーディングに基づく計算し尽くされたものであり、凝縮化された堅固な造型が持ち味だ。ただ、1980年代のヴァントは、こうしたアプローチがあまりにも整理し尽くされ過ぎていることもあって神経質な面があり、いささかスケールの小ささを感じさせるという欠点があった。しかしながら、1990年代に入ってからは、そのような欠点が散見されることは殆どなくなったところであり、本盤の演奏でもスケールは雄渾の極みであり、神々しささえ感じさせるほどだ。音楽はやや速めのテンポで淡々と流れていくが、素っ気なさなど薬にしたくも無く、どこをとってもニュアンス豊かな情感溢れる音楽に満たされているのが素晴らしい。ヴァントは、決してインテンポには固執せず、例えば第1楽章終結部や第3楽章のトリオ、そして終楽章などにおいて微妙にテンポを変化させているが、いささかもロマンティシズムに陥らず、高踏的な優美さを保っている点は見事というほかはない。金管楽器などは常に最強奏させているが、いささかも無機的な音を出しておらず、常に奥行きのある深みのある音色を出しているのは、ヴァントの類稀なる統率力もさることながら、ベルリン・フィルの圧倒的な技量の賜物と言えるだろう。

ブルックナーが完成させた最高傑作「第8」が、この黄金コンビによるラストレコーディングになったというのは、ブルックナー演奏にその生涯を捧げてきたヴァントに相応しいとも言えるが、次のコンサートとして「第6」が予定されていたとのことであり、それを実現できずに鬼籍に入ってしまったのは大変残念というほかはない。そこで、この「第8」であるが、ヴァントが遺した数々の「第8」の中では、同時期のミュンヘン・フィル盤(2000年)と並んで、至高の超名演と高く評価したい。本盤の前の録音ということになると、手兵北ドイツ放送交響楽団とスタジオ録音した1993年盤ということになるが、これは後述のように、演奏自体は立派なものではあるものの、面白みに欠ける面があり、本盤とはそもそも比較の対象にはならないと考える。ただ、本盤に収められた演奏は、ヴァントが指揮した「第8」としてはダントツの名演ではあるが、後述の朝比奈による名演と比較した場合、「第4」、「第5」、「第7」及び「第9」のように、本演奏の方がはるかに凌駕していると言えるのかというと、かなり議論の余地があるのではないだろうか。というのも、私見ではあるが、「第8は」、必ずしもヴァントの芸風に符号した作品とは言えないと考えるからである。ヴァントのブルックナーの交響曲へのアプローチは、厳格なスコアリーディングに基づく堅固な造型と緻密さが持ち味だ。また、金管楽器を最強奏させるなどのオーケストラの凝縮化された響きも特徴であるが、1980年代のヴァントの演奏は、全体の造型美を重視するあまり凝縮化の度が過ぎたり、細部への異常な拘りが際立ったこともあって、スケールが小さいという欠点があったことは否めない。そうしたヴァントの弱点は、1990年代後半には完全に解消され、演奏全体のスケールも雄渾なものになっていったのだが、前述の1993年盤では、スケールはやや大きくなった反面、ヴァントの長所である凝縮化された濃密さがいささか犠牲になった嫌いがあり、峻厳さや造型美だけが際立つという「第8」としてはいわゆる面白みのない演奏になってしまっている。むしろ、来日時の手兵北ドイツ放送交響楽団とのライヴ盤(1990年アルトゥス)の方が、ライヴ特有の熱気も付加されたこともあって、より面白みのある素晴らしい名演と言えるのではないだろうか。いずれにしても、ヴァントの持ち味である厳格なスコアリーディングに基づく堅固な造型や緻密さと、スケールの雄大さを兼ね備えるというのは、非常に難しい究極の指揮芸術と言えるところであるが、ヴァントは、ベルリン・フィルとともに、「第5」、「第4」、「第9」、「第7」と順を追って、そうした驚異的な至芸を成し遂げてきたのである。ところが、この「第8」は、スケールは雄大であるが、堅固な造型美や緻密さにおいては、ヴァントとしてはその残滓は感じられるものの、いささか徹底し切れていないと言えるのではないだろうか。これは、ヴァントが意図してこのようなアプローチを行ったのか、それとも肉体的な衰えによるものかは定かではないが、いずれにしても、ヴァントらしからぬ演奏と言うことができるだろう。したがって、本盤に収められた演奏については、細部には拘泥せず曲想を愚直に描き出して行くことによって他に類を見ないスケールの雄大な名演の数々を成し遂げた朝比奈のいくつかの名演(大阪フィルとの1994年盤(ポニーキャニオン)、N響との1997年盤(フォンテック)、大阪フィルとの2001年盤(エクストン))に並ばれる結果となってしまっているのは致し方がないところではないかと考える。もちろん、これはきわめて高い次元での比較の問題であり、本盤に収められた演奏が、「第8」の演奏史上に燦然と輝く至高の超名演であるとの評価にはいささかも揺らぎはない。

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2017年02月09日


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ヴァントがその最晩年にベルリン・フィルと成し遂げたブルックナーの交響曲の演奏の数々は、いずれも至高の超名演であるが、「第5」は、一連の演奏の中でのトップバッターとなったものである。ヴァントの伝記などを紐解くと、ヴァントは、ブルックナーの交響曲の中でも特に「第5」と「第9」を、妥協を許すことなく作曲した楽曲として特に高く評価していたことが記されている。それだけに、ヴァントとしても相当に自信を有していたと考えられるところであり、ベルリン・フィルを指揮した演奏の中でも「第5」と「第9」は、他の指揮者による名演をはるかに引き離す名演を成し遂げていると言えるのではないだろうか。辛うじて比較し得る「第5」の他の名演としては、ヨッフム&コンセルトへボウ・アムステルダム盤(1964年)、朝比奈&東京交響楽団盤(1995年)が掲げられるが、前者はいささかロマンティシズムに傾斜する傾向、後者はオーケストラの力量に難点があり、ヴァント&ベルリン・フィル盤には遠く及ばないと考える。唯一対抗し得るのは、同じヴァントによるミュンヘン・フィル盤(1995年)であると考えるが、剛毅な性格を有する「第5」には、ベルリン・フィルの音色の方がより適しているのではないかと考える。現在、DVDでしか発売されていない朝比奈&シカゴ交響楽団による演奏(1996年)が今後CD化されるとすれば、本盤を脅かす存在になる可能性はあるが、そのようなことがない限りは、本名演の優位性は半永久的に安泰と言っても過言ではあるまい。本演奏におけるヴァントのアプローチは、眼光紙背に徹した厳格なスコアリーディングに基づく峻厳たるものだ。やや速めのインテンポによる演奏は、巧言令色とは正反対の質実剛健そのものと言える。全体の造型はきわめて堅固であり、それによる凝縮化された造型美はあたかも頑健な建造物を思わせるほどであるが、それでいて雄渾なスケール感を失っていないのは、ヴァントが1990年代半ば、80歳を超えて漸く達成し得た圧巻の至芸と高く評価したい。金管楽器なども常に最強奏しているが、いささかも無機的な響きになることなく、常に奥深い崇高な音色を出しているというのは、ベルリン・フィルのブラスセクションの卓越した技量もさることながら、ヴァントの圧倒的な統率力の賜物と言うべきであろう。また、峻厳な装いのブルックナーの「第5」においても、第2楽章などを筆頭として、聖フローリアンの自然を彷彿とさせるような抒情的な音楽が随所に散見されるが、ヴァントは、このような箇所に差し掛かっても、いささかも感傷的には陥らず、常に高踏的とも言うべき気高い崇高さを失っていない点が素晴らしい。このように、非の打ちどころのない名演であるのだが、その中でも白眉は終楽章である。ヴァントは、同楽章の壮大で輻輳したフーガを巧みに整理してわかりやすく紐解きつつ、音楽がごく自然に滔々と進行するように仕向けるという、ほとんど神業的な至芸を披露しており、終楽章は、ヴァントの本超名演によってはじめてその真価のベールを脱いだと言っても過言ではあるまい。

ブルックナーの11ある交響曲の中でも「第4」は、ブルックナーの交響曲の演奏が現在のようにごく普通に行われるようになる以前の時代から一貫して、最も人気があるポピュラリティを獲得した作品と言える。ブルックナーの交響曲全集を録音しなかった指揮者でも、この「第4」の録音だけを遺している例が多いのは特筆すべき事実であると言えるのではないか(ジュリーニなどを除く)。そして、そのようなブルックナー指揮者とは必ずしも言い難い指揮者による名演が数多く遺されているのも、この「第4」の特殊性と考えられる。例えば、ベーム&ウィーン・フィル盤(1973年)、ムーティ&ベルリン・フィル盤(1985年)などはその最たる例と言えるところである。近年では、初稿による名演も、インバルを皮切りとして、ケント・ナガノ、シモーネ・ヤングなどによって成し遂げられており、「第4」の演奏様式も今後大きく変化していく可能性があるのかもしれない。ただ、この「第4」は、いわゆるブルックナー指揮者と評される指揮者にとっては、なかなかに難物であるようで、ヨッフムなどは、2度にわたる全集を成し遂げているにもかかわらず、いずれの「第4」の演奏も、他の交響曲と比較すると必ずしも出来がいいとは言い難い。それは、朝比奈やヴァントにも当てはまるところであり、少なくとも1980年代までは、両雄ともに、「第4」には悪戦苦闘を繰り返していたと言えるだろう。しかしながら、この両雄も1990年代に入ってから、漸く素晴らしい名演を成し遂げるようになった。朝比奈の場合は、大阪フィルとの1993年盤(ポニーキャニオン)と2000年盤(エクストン)盤が超名演であり、これにN響との2000年盤(フォンテック)、新日本フィルとの1992年盤(フォンテック)が続くという構図である。これに対して、ヴァントの場合は、本盤に収められたベルリン・フィル盤(1998年)、ミュンヘン・フィル盤(2001年)、北ドイツ放送響とのラストレコーディング(2001年)の3点が同格の超名演と高く評価したい。本演奏におけるヴァントは、必ずしもインテンポに固執しておらず、第3楽章などにおけるテンポの変化など、これまでのヴァントには見られなかった表現であるが、それでいてブルックナーの本質を逸脱しないのは、ヴァントが最晩年になって漸く成し得た圧巻の至芸と言えるだろう。また、眼光紙背に徹した厳格なスコアリーディングを行っており、全体の造型はきわめて堅固ではあるが、細部に至るまで表現が緻密でニュアンスが豊かであり、どこをとっても深みのある音色に満たされているのが素晴らしい。金管楽器なども完璧に鳴りきっており、どんなに最強奏してもいささかも無機的には陥っていない。これは、ベルリン・フィルの卓越した技量によるところも大きいが、ヴァントによる圧倒的な統率力にも起因していると考えられる。第2楽章は、聖フローリアンを吹く一陣のそよ風のようにソフトに開始されるが、その筆舌には尽くし難い繊細さは崇高な高みに達している。その後は、ブルックナーならではの情感豊かな音楽が続いていくが、ヴァントはいささかも感傷的には決して陥らず、高踏的な美しさを保っているのが素晴らしい。いずれにしても、本演奏は、ヴァントが80代半ばにして漸く成し遂げることが出来た「第4」の至高の超名演であり、これぞまさしく大器晩成の最たるものと評価したい。

ヴァントがブルックナーの交響曲の中でも特に高く評価していたのが、前述の「第5」と「第9」であったというのは、ヴァントの伝記などを紐解くとよく記述されている公然の事実だ。実際に、ブルックナーの「第9」は、ヴァントの芸風に見事に符号する交響曲と言えるのではないか。最後の来日時(2000年)に、シューベルトの「未完成」とともに同曲の素晴らしい名演を聴かせてくれたことは、あれから17年経った現在においても鮮明に記憶している。いずれにしても、至高の超名演で、同時期にミュンヘン・フィルと行った演奏(1998年)もあり、ほぼ同格の名演とも言えるが、同曲の峻厳とも言える性格から、オーケストラの音色としてはベルリン・フィルの方が同曲により適していると考えられるところであり、筆者としては、本盤の方をより上位に置きたいと考える。なお、前述の来日時の2000年盤との比較については、なかなか難しい面があるが、オーケストラの安定性(ホームグラウンドで演奏しているかどうかの違いであり、北ドイツ放送交響楽団との技量差はさほどではないと考える)において、本盤の方がわずかに上回っていると言えるのではないか。本名演に匹敵すると考えられる同曲の他の名演としては、シューリヒト&ウィーン・フィル盤(1961年)、朝比奈&大阪フィル盤(1995年)が掲げられるが、前者は特に終楽章のスケールがやや小さいこともありそもそも対象外。後者については、演奏内容はほぼ同格であるが、オーケストラの力量においては、大阪フィルはさすがにベルリン・フィルと比較すると一歩譲っていると言えるだろう。今後、本名演を脅かすとすれば、未だDVDも含め製品化されていない、朝比奈&シカゴ交響楽団による演奏(1996年)がCD化された場合であると考えるが、権利関係もあって容易には事が運ばないと考えられるところであり、おそらくは、本名演の天下は、半永久的に揺るぎがないものと考える。本名演でのヴァントのアプローチは、いつものように眼光紙背に徹した厳格なスコアリーディングによって、実に緻密に音楽を組み立てていくが、造型の堅固さにも際立ったものがある。金管楽器なども最強奏させているが、無機的な音はいささかも出しておらず、常に深みのある壮麗な音色が鳴っている。スケールも雄渾の極みであり、前述の堅固な造型美や金管楽器の深みのある音色と相俟って、神々しささえ感じさせるような崇高な名演に仕上がっている。特に、終楽章のこの世のものとは思えないような美しさは、ヴァントとしても、80代の半ばになって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるだろう。いずれにしても、前述のように、本名演が古今東西の様々な名演に冠絶する至高の超名演であるということに鑑みれば、ヴァントは、本超名演を持って、ブルックナーの「第9」の演奏史上において、未踏の境地を切り開いたとさえ言えるだろう。

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2016年07月27日


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2回の交響曲全集を完成させたブルックナーの権威、オイゲン・ヨッフムはドイツ・グラモフォンにCD4枚分の宗教作品集を録音していて、それらはこれまで別売りのCDでしか入手できなかったので、今回ザ・コレクターズ・エディションとして15曲がまとめられて廉価盤化されたことは歓迎したい。

ただしヨッフムのコンプリート録音集が欲しい方にはグラモフォンによる全集の新企画があり、9月に第1集のオーケストラル・ワーク集42枚組がリリースされる。

この4枚は第2集以降に組み込まれることが予想されるので、そちらの購入をお薦めしたい。

第1回目のブルックナーの交響曲全集がベルリン・フィルとバイエルン放送交響楽団による合作だったように、この宗教曲集も同様でコーラスもバイエルン放送合唱団及びベルリン・ドイツ・オペラ合唱団が参加している。

ヨッフム・ファンにとっては勿論EMIのイコン・シリーズ22枚も重要なコレクションだが、そちらにはシュターツカペレ・ドレスデンとの2回目の交響曲全集が入っているが宗教曲は収録されていない。

これはヨッフムの偉大な遺産のひとつで、ブルックナーの宗教合唱作品を集め、これだけ充実した演奏を聴かせた指揮者はいない。

荘厳だがむやみに曲のスケール感を強調しないヨッフムらしい折り目正しい几帳面なアプローチによる演奏は、かえってこれらの宗教曲としての側面を明確に示す結果になり、敬虔なカトリック教徒だったブルックナーの音楽的意図が生かされていると言えないだろうか。

ソロを歌う声楽家もソプラノのエディット・マティスを始めとする宗教曲に相応しい布陣で、ヨッフムのアイデアが忠実に反映されている。

3つのミサ曲はそれぞれ立派だが、ことに第3番には、この強固な構築力を超える若手の指揮者が今後出るとは思えないほどの迫真力があり、「テ・デウム」の壮大さ、「パンジェ・リング」の神秘など、いずれも名演揃いだ。

尚現在までにリリースされたブルックナーの宗教作品のCDとしては、一流どころの指揮者の演奏はそれほど多くなくチェリビダッケ、バレンボイム、リリング盤などがめぼしいところで、最近ではスティーヴン・レイトンがポリフォニー・ブリテン・シンフォニアを振ったミサ曲第2番を中心とする合唱曲集が選択肢として有力候補に挙げられるが、残念ながらいずれも体系的な企画ではなく単発のCDで終わっている。

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2016年07月01日


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ライナー・ノーツの録音データを見ると1969年11月26日ベルリンのフィルハーモニーでのライヴ録音と記載されていて、共演のオーケストラは勿論ベルリン・フィルなので確かにこれまで正規リリースされていなかった初出音源ということになる。

ドイッチュラント・ラジオによる録音のようだが英テスタメント独自のディジタル・リマスタリングの効果もあってオン・マイクで採った骨太で鮮明な音質が甦っている。

録音レベルが高く臨場感にも不足していないし、またそれだけにベームの音楽的構想と音響空間が手に取るように伝わって来るブルックナーだ。

客席からの雑音は演奏終了後の拍手喝采は別として、楽章間の短いインターバルで僅かに聞こえる程度で、演奏中は皆無なのもこの時代のライヴとしては優秀だ。

この演奏は第2稿、つまり1890年バージョンになり、ベームの覇気と練達の技とも言える構築性がバランス良く表れたライヴではないだろうか。

現行の音源では彼が指揮した第8番は他に1971年のバイエルン放送響とのライヴ及び1976年のウィーン・フィルとのセッションが存在するが、それらの中ではこの録音が最も早い時期のものになり、テンポに関してはウィーン・フィルの壮麗な足取りよりは速く、バイエルンの血気に逸る演奏よりは僅かに遅い。

ブルックナーの霧と呼ばれる冒頭からクライマックスでのブラス・セクションの咆哮、そして執拗なまでのモティーフの反復に至るまで常に地に足の着いた音響が特徴的で、明瞭な輪郭を失うことなく音楽を彫琢していくベームによって、ベルリン・フィルが見事に統率されている。

曲中最も長い第3楽章アダージョも小細工なしの正攻法で、流れを堰き止めたりテンションを落とすことなく終楽章に導いていくベームの手法が面目躍如たる演奏で、音響力学による造形とも言えるブルックナーの作法の真髄に迫った素晴らしい仕上がりを見せている。

また指揮者に付き従いながらその構想を成就させるベルリン・フィルの隙のないアンサンブルと余裕のあるパワフルな音量も特筆される。

ベームは相手がたとえベルリン・フィルであっても妥協を許さなかったことが想像されるが、オーケストラのバランスの保持と細部の合わせにもベーム、ベルリン・フィルのコラボレーションと両者の力量が示された演奏だ。

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2016年04月25日


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フルトヴェングラーのブル5(ハース版準拠)はウィーン・フィルとの1951年のザルツブルクでのライヴ盤がよく知られている。

この1942年のライヴ録音は意外に音がクリアで迫力に富み、大戦中のベルリン・フィルとの録音の中でも音は最良のもので、1951年盤よりはるかに明確にフルトヴェングラーのブルックナー観が打ち出されている。

本演奏では、フルトヴェングラーが若々しい気迫に満ちた音楽を聴かせ、アゴーギクとデュナーミクを巧みに融合させた効果は、まさに名人芸と言わねばなるまい。

生前、ブルックナー協会の会長をつとめていたフルトヴェングラーの、ブルックナーの音楽に対する傾倒の深さを物語るかのような、雄渾な演奏で、その彫りの深い、雄大な表現には圧倒されてしまう。

特に第1楽章の冒頭、序奏部のあとのブルックナー休止に続くティンパニの一撃と金管の壮烈なコラールはフルトヴェングラーの真骨頂を示すもの。

フルトヴェングラーの視点から再構成されたブルックナーという印象もあるが、その音楽の壮大さは比類がなく、全編、ライヴならではの即興性はあるものの、それ以前に強固な演奏スタイルを感じる。

フルトヴェングラーの指揮も、ブルックナーの信仰告白とも言うべきこの曲に対して、深い精神性に裏づけされて見事に音化されている。

フレーズの処理が実に生き生きとしており、オーケストラは常時に変化するテンポ、リズムにピタッとあわせ、その一方でメロディは軽く、重く、明るく、暗く、変幻自在に波打つ。

凡庸な演奏では及びもつかない凝縮感と内容の豊穣さであり、作品の世界にのめりこみながらも、バランスを崩す直前で踏みとどまるが、その匙加減が絶妙だ。

第1楽章、ブルックナーに特徴的な「原始霧」からはじまり、順をおって登場する各主題をフルトヴェングラーは意味深長に提示していく。

それはあたかも深い思索とともにあるといった「纏」(まとい)とともに音楽は進行していく。

この曲は極論すれば第1楽章で完結しているかの充足感があるが、続く中間2楽章では、明るく浮き立つメロディ、抒情のパートはあっさりと速く処理し感情の深入りをここでは回避しているようだ。

その一方、主題の重量感とダイナミックなうねりは常に意識され、金管の分厚い合奏がときに前面に出る。

終楽章は、第1楽章の<対>のように置かれ、各楽章での主題はここで走馬灯のように浮かび、かつ短く中断される。

その後、主題は複雑なフーガ、古式を感じさせるコラール風の荘厳な響き、そしてブルックナーならでは巨大なコーダへと展開され、長い九十九折(つづらおり)の山道を登り峻厳なる山頂に到達する。

このブル5、フルトヴェングラーの演奏スタイルに特異な魔術(デーモン)を感じ、作品にふさわしいドラマティックな要素が際立つ。

現代においては殆ど聴かれない大時代的なアプローチとも言えるが、1942年においては一般的なアプローチであり、フルトヴェングラーの演奏が必ずしも特異なものであったとは言えない点に留意すべきであろう。

旋律のみずみずしいしなやかさ、地の底から噴きあげるようなブラスの和声の充実感、作為なく、ブルックナーの音楽そのものを感じさせる造型、あらゆる点で、もう二度と現れまいと思われるような演奏である。

今日のブルックナー解釈とは異なる世界に位置する歴史的名盤である。

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2016年02月14日


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1951年8月19日、ザルツブルク音楽祭における歴史的ライヴ録音で、伝説的なブルックナーとして有名なもの。

作品と指揮者が運命の糸で結ばれている、そんな磁力にも似た求心力を背景にうねるような起伏をもって再現された名演、熱演。

ウィーン・フィルの個性的な音と演奏が豊かであった時代の演奏であり、流暢で深い陰影をもった情緒的表現は、確かに伝説になるだけの価値のあるものだ。

フルトヴェングラーの指揮も、ブルックナーの信仰告白とも言うべきこの曲に対して、深い精神性に裏づけされて見事に音化されている。

フルトヴェングラーは、ドイツ・ブルックナー協会の会長をしていたので、いわば、ブルックナーの専門家であるが、そうした面目が、この古い録音の全面ににじみ出ている。

そうしたフルトヴェングラーの、ブルックナーの音楽に対する傾倒の深さを物語るかのような、内面的な燃焼度の高い、雄渾な演奏で、そのその強烈な個性と彫りの深い、雄大な表現には圧倒されてしまう。

個性的でスケールの大きい表現だが、あまりにロマン的で、ブルックナーの素朴さよりもフルトヴェングラーの音楽を聴く感が強い。

それでもこの指揮者の芸術的ルーツが、ブルックナーと同じところにあることを理解できる自然体の表現であり、そこに演奏の魅力もあるのである。

フルトヴェングラーの視点から再構成されたブルックナーという印象もあるが、その音楽の壮大さは比類がなく、やや晦渋な表現ながら、終楽章の雄大なスケール感は圧倒的である。

音楽の豊かなダイナミズムと、強い緊張感が維持されている第5番であり、この大胆なアゴーギクはフルトヴェングラーらしさを印象づけるものだ。

この演奏におけるフルトヴェングラーのドラマティックな音楽の盛り上げ方は、ブルックナー・ファンの間で意見の分かれるところだが、フルトヴェングラーならではの至高の世界を作り上げている。

現代においては殆ど聴かれない大時代的なアプローチとも言えるが、1951年においては一般的なアプローチであり、フルトヴェングラーの演奏が必ずしも特異なものであったとは言えない点に留意すべきであろう。

旋律のみずみずしいしなやかさ、地の底から噴きあげるようなブラスの和声の充実感、作為なく、ブルックナーの音楽そのものを感じさせる造型、あらゆる点で、もう二度と現れまいと思われるような演奏である。

精神的な高さと深さで、これを凌駕するような演奏は未だもって他にはなく、聴いた後に深い感動の残る秀演である。

フルトヴェングラーの手にかかるとブルックナー作品はにわかに神秘的気配を強め、神々しくなる。

素朴な味わいや木訥な語り口に思えていた特質がその性格を一変させ、深層心理に肉薄するメスとなって機能しはじめ、聴き手に迫るのである。

フルトヴェングラーの巨大な個性によって大きく包み込まれたブルックナーのスケールとロマン、そして全容から立ちのぼってくる言い尽くせぬ香気には何者にも抗えないようなところがある。

この指揮者の深遠でしっとりとしたロマンティシズムが打ち出された演奏であり、官能的かつ叙情的な誘導が最大の魅力になっている。

また、フルトヴェングラーは、なにを指揮しても決して急ぎすぎることがなかった。

悠揚迫らぬそのテンポは、まずは聴き手を落ち着かせるのに力を発揮したばかりでなく、さらに進んで揺るぎない信頼を勝ちとった、と言って良いだろう。

これぞフルトヴェングラー人気の根源のひとつ、という気がする。

この第5番では、そうした独特のグランド・デザインによりながらも、ブルックナーの楽想を生かし、音楽を生かすため、フルトヴェングラーはテンポを細かく動かし、表情に変化を与え、クレッシェンドを活用して強い緊張感を生み出している。

そして表出されたブルックナーの深奥から湧き起こる音楽的情熱と、深々とした祈り、見事だ。

フルトヴェングラーの凄さに圧倒されてしまう巨人の足音である。

今日のブルックナー解釈とは異なる世界に位置する歴史的名盤であり、かつてこの演奏によってブルックナーの洗礼を受けた諸氏も少なくあるまい。

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2016年02月12日


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フルトヴェングラーは同曲をスタジオ録音をしておらず、当録音を含め3種のライヴ盤が出ていたが、このDG盤はEMI盤と並んで、名盤として有名なもので、カイロ放送局のテープによる復刻。

LP発売時にはハース版に準拠とされていたが、今回はシャルク改訂版に準拠と認められている。

しかし、いわゆる改訂版のイメージとは異なり、晴朗な抒情感と堅固な構築力をもった演奏である。

この演奏におけるフルトヴェングラーのドラマティックな音楽の盛り上げ方は、ブルックナー・ファンの間で意見の分かれるところだが、フルトヴェングラーならではの至高の世界を作り上げている。

決して音の状態は良いとは言えないが、生前、ブルックナー協会の会長をつとめていたフルトヴェングラーの、ブルックナーの音楽に対する傾倒の深さを物語るかのような、雄渾な演奏で、その彫りの深い、雄大な表現には圧倒されてしまう。

フルトヴェングラーの視点から再構成されたブルックナーという印象もあるが、その音楽の壮大さは比類がない。

旋律的な魅力によって曲の壮大な美しさを肌で感じることのできる演奏で、フルトヴェングラーは淡々と、しかもよく歌い切っていて、弦の美しい第2楽章ひとつとってもツボをしっかりつかんでいることがよくわかり、さすがに息長く歌わせて、連綿と続く歌の美しさにも特筆すべきものがある。

とはいえ、フルトヴェングラーとしては淡泊な表現で、彼一流の劇性は希薄となっており、抑制のきいた表現とも言えるが、それでもアダージョ楽章は非常に音楽的だ。

作品にふさわしい抑制もきかせているが、クライマックスの構築の仕方はあくまでフルトヴェングラー流。

一貫してメロディ・ラインを重視し、作品の無限旋律の美しさを見事に歌い出すが、第1・第2楽章の無時間的な広大さなど、ほとんど魔力的な世界であり、その中でもとくに第2楽章、クライマックスへの織りなしは圧倒的な効果を放っている。

また、第1楽章と終楽章におけるテンポの大きな動きを伴うロマン的な語り口はこの指揮者ならでは。

この作品の情緒を深くつかんでいればこそとれた手段で、フルトヴェングラーの芸術に直に触れる思いがする。

フルトヴェングラーの手にかかるとブルックナー作品はにわかに神秘的気配を強め、神々しくなる。

素朴な味わいや木訥な語り口に思えていた特質がその性格を一変させ、深層心理に肉薄するメスとなって機能しはじめ、聴き手に迫るのである。

フルトヴェングラーの巨大な個性によって大きく包み込まれたブルックナーのスケールとロマン、そして全容から立ちのぼってくる言い尽くせぬ香気には何者にも抗えないようなところがある。

この指揮者の深遠でしっとりとしたロマンティシズムが打ち出された演奏であり、官能的かつ叙情的な誘導が最大の魅力になっている。

美しさを超えた第2楽章を感動の核としながらも、この交響曲全体像が怒涛となって聴き手に襲う演奏は他に例がなく、怖くなるようなフルトヴェングラーの指揮芸術の奥義を堪能させる。

ベルリン・フィルの楽員たちは全身全霊を傾けて表現している。

今日のブルックナー解釈とは異なる世界に位置する歴史的名盤であり、かつてこの演奏によってブルックナーの洗礼を受けた諸氏も少なくあるまい。

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2016年02月07日


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1944年10月17日、ウィーン、ムジークフェライン・ザールでのライヴ録音。

旧DDR放送局のテープから復刻されたもので、ハース版に基づいた演奏だが、フルトヴェングラーが若々しい気迫に満ちた音楽を聴かせ、アゴーギクとデュナーミクを巧みに融合させた効果は、まさに名人芸と言わねばなるまい。

ブルックナーの交響曲第8番は、ブルックナー自身が、「私の書いた曲の中で最も美しい音楽」と言って自信をもっていたという。

そうしたこの第8番を、フルトヴェングラーは、内面的な燃焼度の高い、雄渾な演奏で聴かせ、その強烈な個性には圧倒されてしまう。

作品と指揮者が運命の糸で結ばれている、そんな磁力にも似た求心力を背景にうねるような起伏をもって再現された名演、熱演。

個性的でスケールの大きい表現だが、あまりにロマン的で、ブルックナーの素朴さよりもフルトヴェングラーの音楽を聴く感が強い。

それでもこの指揮者の芸術的ルーツが、ブルックナーと同じところにあることを理解できる自然体の表現であり、そこに演奏の魅力もあるのである。

フルトヴェングラーの解釈は作品との強い一体感をベースとしたもので、それはバーンスタインがマーラー演奏に見せた陶酔感すら覚えさせるものがあるが、大戦中に演奏されたフルトヴェングラーのブルックナーには例えようもない気品と影の暗さがあり、それが感動のテンションをさらに高める。

そうした美質を引っさげてフルトヴェングラーはブルックナーの核心部分へと果敢かつ勇猛に足を踏み入れていきながら、聴き手を抗し難い興奮へと巻き込み、陶酔的感動に浸らせてしまう。

精神的な高さと深さで、これを凌駕するような演奏は他にないと言えるところであり、聴いたあとに深い感動の残る秀演である。

とりわけ、第3楽章アダージョは比類のない美しさで、晩年のブルックナーが到達した深い精神性が見事にあらわれている。

この第3楽章アダージョの部分を聴くと、ブルックナーの音楽の雄大さ、フルトヴェングラーの表現力の息の長さ(ウィーン・フィルの器の大きさも加えるべきなのかもしれない)に、誰もが圧倒されてしまうことであろう。

われわれの日常生活で用いられている単位では、とても手に負えないような雄大さであり、息の長さである。

こうした芸術活動だけに許されるような次元に接する機会が、最近はとみに少なくなってしまった。

また、フルトヴェングラーは、なにを指揮しても決して急ぎすぎることがなかった。

悠揚迫らぬそのテンポは、まずは聴き手を落ち着かせるのに力を発揮したばかりでなく、さらに進んで揺るぎない信頼を勝ちとった、と言って良いだろう。

これぞフルトヴェングラー人気の根源のひとつ、という気がする。

この第8番では、そうした独特のグランド・デザインによりながらも、ブルックナーの楽想を生かし、音楽を生かすため、フルトヴェングラーはテンポを細かく動かし、表情に変化を与え、クレッシェンドを活用して強い緊張感を生み出している。

そして表出されたブルックナーの深奥から湧き起こる音楽的情熱と、深々とした祈り、見事だ。

フルトヴェングラーの凄さに圧倒されてしまう巨人の足音である。

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2015年07月30日


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2013年2月17&21日、ロンドン、バービカンセンターに於けるライヴ録音。

2011年にリリースされた交響曲第4番「ロマンティック」が、近年の充実ぶりを示す演奏内容との高評価を得ていたハイティンク&ロンドン交響楽団が、今度はブルックナーの交響曲第9番をレコーディング。

ハイティンクの円熟を感じさせる素晴らしい名演の登場だ。

ハイティンクは、全集マニアとして知られ、さすがにハイドンやモーツァルトの交響曲全集は録音していないが、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、マーラー、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチなど、数多くの作曲家の交響曲全集のスタジオ録音を行ってきているところだ。

ブルックナーについても、ハイティンクは早くも40代前半にコンセルトヘボウ・アムステルダムと交響曲全集録音を完成させ、今日に至る豊富なディスコグラフィからも、当代有数のブルックナー指揮者としてのハイティンクの業績にはやはり目を瞠るものがある。

そのなかでも近年のハイティンクが、良好な関係にある世界有数の楽団を指揮したライヴ演奏の数々は内容的にも一際優れた出来栄えをみせているのは熱心なファンの間ではよく知られるところで、このたびのロンドン交響楽団の第9番もまたこうした流れのなかに位置づけられるものと言えるだろう。

既に、80歳を超えた大指揮者であり、近年では全集のスタジオ録音に取り組むことはなくなったが、発売されるライヴ録音は、一部を除いてさすがは大指揮者と思わせるような円熟の名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

本盤に収められたブルックナーの交響曲第9番も、そうした列に連なる素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

ハイティンクは、同曲をコンセルトヘボウ・アムステルダム(1965年)(1981年)とともに2度スタジオ録音を行っており、オーケストラの名演奏もあって捨てがたい魅力があるが、演奏全体の持つスケールの雄大さや後述の音質面に鑑みれば、本演奏には敵し得ないと言えるのではないだろうか。

ベートーヴェンやマーラーの交響曲の演奏では、今一つ踏み込み不足の感が否めないハイティンクではあるが、ブルックナーの交響曲の演奏では何らの不満を感じさせない。

本演奏においても、ハイティンクは例によって曲想を精緻に、そして丁寧に描き出しているが、スケールは雄渾の極み。

重厚さにおいてもいささかも不足はないが、ブラスセクションなどがいささかも無機的な音を出すことなく、常に奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。

これぞブルックナー演奏の理想像の具現化と言っても過言ではあるまい。

悠揚迫らぬインテンポを基調としているが、時として効果的なテンポの振幅なども織り交ぜるなど、その指揮ぶりはまさに名人芸の域に達していると言ってもいいのではないか。

ハイティンク自身によるものとしては過去最長の演奏時間を更新しているが、実演特有の有機的な音楽の流れに、持ち前のひたむきなアプローチでじっくりと神秘的で崇高なるブルックナーの世界を聴かせてくれる。

ハイティンクの確かな統率の下、ロンドン交響楽団も圧倒的な名演奏を展開しており、とりわけホルンをはじめとしたブラスセクションの優秀さには出色のものがあると言えるだろう。

いずれにしても、本演奏は、現代を代表する大指揮者の1人であるハイティンクによる円熟の名演と高く評価したい。

そして、本盤で素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

音質の鮮明さに加えて、臨場感溢れる音場の広さは見事というほかはなく、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

マルチチャンネルで再生すると、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的であるとすら言えるだろう。

ハイティンクによる素晴らしい名演をSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年07月16日


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ヴァントが晩年にミュンヘン・フィルと録音した一連のブルックナーの至高の超名演は、従来CD盤でも十分に満足できる音質であったが、今般、ついにシングルレイヤーによるSACD化されたというのは何という素晴らしいことであろうか。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、ベルリン・フィル盤と同様に更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

長年に渡ってチェリビダッケに鍛え抜かれたミュンヘン・フィルを指揮していることもあって、演奏全体に滑らかで繊細な美感が加わっていることが特徴。

ブルックナーの「第8」は、まぎれもなくブルックナーの最高傑作であると思うが、それだけに、ヴァントも、ライヴ録音も含め、何度も録音を行ってきた。

しかしながら、ヴァントの厳格なスコアリーディングによる眼光紙背に徹した凝縮型のアプローチとの相性はイマイチであり、1993年の北ドイツ放送交響楽団までの録音については、立派な演奏ではあるものの、やや面白みに欠けるきらいがあった。

しかしながら、本盤のミュンヘン・フィルとの演奏と、この数カ月後のベルリン・フィルとの演奏の何という素晴らしさであろうか。

神々しいばかりの超名演と言っても過言ではあるまい。

ヴァントは、これまでの凝縮型のアプローチではなく、むしろ朝比奈隆のように、より柔軟でスケール雄大な演奏を行っている。

本盤は、ベルリン・フィル盤に比べると音質にやや柔和さが見られるが、このあたりは好みの問題と言えるだろう。

これまで発売された他のオーケストラとの共演盤に較べて、艶の乗った響きの官能的なまでに美しい感触、多彩に変化する色彩の妙に驚かされる。

もちろん、ヴァントの持ち味である彫りの深い音楽造りは健在なのであるが、そこに明るく柔軟な表情が加わることで、他盤とは大きく異なる魅力を発散しているのである。

微動だにしないゆったりとしたインテンポを貫いているが、同じミュンヘン・フィルを指揮したチェリビダッケの演奏のようにもたれるということもなく、随所で見せるゲネラルパウゼも実に効果的だ。

音質が良いせいか、ヴァントの演奏としては思いのほか木管楽器の主張が強いことも、演奏全体により多彩な表情を与えているようだ。

ヴァント自身もここではテンポの動きを幅広く取って、非常に息の長い旋律形成を試みており、それぞれのブロックの締め括りに置かれたパウゼが深い呼吸を印象付けている。

深く沈み込んでいくような美しさと、そそり立つ岩の壁を思わせる壮大な高揚とが交錯する終楽章は中でも素晴らしい出来栄えである。

最後の音が消えてから約10秒後、それまで圧倒されたようにかたずを飲んでいた会場が、やがて嵐のようなブラヴォーに包まれていく様子がそのまま収録されていることも印象的で、当日の聴衆の本名演に対する深い感動が伝わってくる名シーンだ。

いずれにしても、ヴァント&ミュンヘン・フィルによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年07月08日


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ブロムシュテット初のブルックナー録音で、シュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者を務めていた時期(1975〜85年)に残された最良の演奏のひとつ。

同じコンビによる「第4」も極上の名演であったが、本盤もそれに優るとも劣らない出来を誇っている。

「第7」は、シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音色を十分に生かしたブロムシュテット壮年期の素晴らしい稀有の名演として高く評価したい。

ブロムシュテットは、北欧の出身でありながら、ドイツ音楽を得意とするとともに、オードソックスなアプローチをする指揮者であると考えているが、本演奏でも、そうしたブロムシュテットの渋い芸風が曲想に見事にマッチングしていると言えるだろう。

いささかも奇を衒うことなく、インテンポによる自然体のアプローチが、「第7」の魅力を聴き手にダイレクトに伝えることに大きく貢献している。

指揮者もオーケストラも作品に奉仕した演奏と言えば良いのか、ここには作為めいたもの、過剰なもの、演出めいたものは一切なく、ただブルックナーの豊かな音楽が滔々と、淀みなく、しかも温かい温度感をもって流れている。

カンタービレの心が優しく、音楽の表情がふくよかであり、そうした幸福感が自然に聴き手を包み込んでくれる。

ブロムシュテットの指揮は敬虔な信仰家といった趣があり、過剰さはないが、人間の音楽としてのふくらみがあり、不足感はまったく感じさせない。

オーケストラのサウンドがまた素晴らしい。

ウィーン風のふくよかで雄大ながら愚純な趣のブルックナーともドイツ風のどこか無骨な巨人のようなブルックナーとも違う、引き締まってガッチリした壮大かつ精緻なブルックナーが聴ける。

これは、神と対話するオルガン的な宗教サウンドのブルックナーではなく、コンサート・ホールで交響曲としてサウンドさせるシンフォニック・ブルックナーの理想形のひとつかも知れない。

第1楽章の展開部や第2楽章のモデラートの進ませ方は丁寧すぎるとも言えるが、スケルツォの躍動とフィナーレにおける高揚により、すべてが明るく解決している。

特に終楽章の大聖堂のような充実した構築性は素晴らしい。

加えて、前述のように、シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀のジャーマンサウンドが、演奏に潤いを与えている点も見過ごしてはならない。

深みのある弦と金管とのブレンドが美しく、落ち着いた佇まいをもった、端然とした演奏である。

ドレスデン・ルカ教会の豊かな残響も、同オーケストラの音色をより豊穣なものとしている点も大きなプラスだ。

音質は今回のBlu-spec-CD化によって、長年の渇きが漸く癒されたと言えるところであり、さすがにSACDにはかなわないが、従来盤と比較すると鮮明さが相当に増しており、本演奏の価値は大いに高まったと考える。

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2015年07月05日


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テンシュテットと言えば、近年発掘された様々な壮絶な名演によって、ますますその人気が高まっているが、いわゆるマーラー指揮者のイメージが強いと言えるのではないだろうか。

確かに、これまでに発売されたマーラーの交響曲の圧倒的な超名演の数々を考えてみれば、それは致し方がないことと言えるのかもしれない。

しかしながら、テンシュテットが西側に亡命した頃は、先ずブルックナーで評価されていた指揮者であったことを忘れてはなるまい。

事実テンシュテットは、ブルックナーの交響曲の録音をかなりの点数を遺しており、いずれも注目に値する演奏ばかりである。

すべての交響曲を録音しているわけではないが、第3番、第4番、第7番、第8番については、自らのレパートリーとしてコンサートでもたびたび採り上げていたと言えるところだ。

そうした4曲の交響曲の中でも、テンシュテットが最も採り上げた交響曲は第4番であったと言える。

最初及び2度目の録音はベルリン・フィルとのスタジオ録音及びライヴ録音(1981年)、3度目の録音は、ロンドン・フィルとの来日時のライヴ録音(1984年)、そして4度目の録音が本盤に収められたロンドン・フィルとのライヴ録音(1989年)となっている。

これから新たなライヴ録音が発掘されない限りにおいては、交響曲第4番は、テンシュテットが最も録音したブルックナーの交響曲と言えるであろう。

テンシュテットによる同曲へのアプローチは、朝比奈やヴァントなどによって1990年代にほぼ確立された、いわゆるインテンポを基調とするものではない。

むしろ、テンシュテットのブルックナー解釈は実にはっきりしていて、ブルックナーを後期ロマン派の作曲家の1人として割り切ったものである。

それ故、テンポの振幅や思い切った強弱の変化を施すなどドラマティックな要素にも事欠かないところであり、テンシュテットが得意としたマーラーの交響曲におけるアプローチに比較的近いものと言える。

したがって、こうしたテンシュテットによるアプローチは、交響曲第7番や第8番においては若干そぐわないような気がしないでもないが、第4番の場合は、相性がいいのではないかと思われるところだ。

4つの演奏のいずれも名演であるが、やはり演奏の持つ根源的な迫力という意味においては、第1に本盤(1989年盤)を掲げるべきであろう。

本盤の演奏におけるテンシュテットのアプローチも、比較的ゆったりとした曲想の進行の中に、前述のようなドラマティックな要素(とりわけ第3楽章)を織り交ぜたものとなっている。

他盤よりテンポは若干遅めで、力みがまったく感じられず、どこまでも自然体ながら終楽章に向かってジワジワと高揚するテンシュテットらしい名演。

テンシュテットの指揮は、生命力にあふれ、美しい旋律の歌いまわしも陶酔的で、特に躍動感あふれるスケルツォ、重厚なオケの響きが印象的なフィナーレはベーム、カラヤン、ブロムシュテット等の名盤にも決して劣らない素晴らしい名演と言えるだろう。

もっとも、スケールが小さくなることなど薬にしたくもなく、ブルックナーの本質をいささかも逸脱することがないというのは、テンシュテットの同曲への深い理解と愛着の賜物と言えるところだ。

オーケストラは、必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルではあるが、テンシュテットの圧倒的な統率の下、ベルリン・フィルにも比肩し得るような見事な名演奏を展開しているのが素晴らしい。

艶やかな弦、輝かしい金管、テンシュテットのブルックナーの微細な要求まで描き尽くす演奏力が見事である。

いずれにしても、本盤の演奏は、テンシュテットならではの圧倒的な名演と高く評価したいと考える。

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2015年07月03日


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ブロムシュテット&シュターツカペレ・ドレスデンによるブルックナーの交響曲の録音は、何故か「第4」と「第7」にとどまったが、いずれも名演だ。

旧東ドイツの名門オーケストラと新しい世代のドイツ系指揮者ががっぷり組み、精緻さと質感を十二分に備えたこのコンビならではの素晴らしい構築あふれる名演である。

影響力の大きい某評論家は、ブルックナーの「第4」には冗長な箇所が多いので、あまり味付けをせずにインテンポで演奏してしまうと、のっぺりとした味気のない薄味の演奏になるとして、特に、ベーム&ウィーン・フィルの名演を酷評している。

そして、ヴァントや朝比奈の最晩年の名演を絶賛している。

確かに、ヴァントや朝比奈の最晩年の演奏はいずれも、ブルックナー演奏史上に冠たる至高の名演だ。

そのことを否定するものではないが、しかしながら、ヴァントや朝比奈の演奏だけが正しいわけではない。

ベーム&ウィーン・フィルのような、ある意味では、愚直な演奏も、同曲の魅力を知らしめるに足る素晴らしい名演と評価してもいいのではないか。

本盤も、アプローチの仕方はベームにきわめて近い。

比較的ゆったりとしたインテンポで、愚直に曲想を描いていくというものであるが、ベーム盤と同様に、オーケストラの音色の魅力が素晴らしい。

ベーム盤では、ウィーン・フィルの極上の響きが演奏に潤いとコクを与えていたが、本ブロムシュテット盤も決して負けていない。

シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音色は、演奏に重心の低い渋みと内容の濃さをもたらしている。

ブロムシュテット時代のこの楽団は、彼らのひとつのピークを示したと言えるところであり、この演奏も比類なく精緻であり、威容と叙情を兼ね備えている。

アンサンブルそれ自体が自発的に有機的な音楽を歌っているが、指揮者も豊かな感興で音楽を起伏させている。

すこぶる格調高いブルックナーであり、精緻な構図の中ですべてが自然体でまとめ上げられ、味わいとこくに満ちた世界が展開している。

豊かな叙情を第一の特色とした演奏と言って良いと思うが、同時に金管のフォルティッシモも実に重厚で強烈、この交響曲の魅力を過不足なく引き出す要因となっている。

加えてテンポ設定にも説得力があり、全曲を通じきわめて適確な曲運びを示し、最良の意味での普遍的な演奏と評するべきか。

オーケストラの美しい響きとブロムシュテットの棒の精彩とが、高次元で合体している印象が素晴らしい。

このコンビのブルックナーでは「第4」と「第7」の録音のみ残されているが、このレベルでぜひ「第8」と「第9」も録音して欲しかった。

こうした自然体のブルックナーは、探してみるとその実なかなか見当たらない。

そして、何といっても素晴らしいのは、ペーター・ダムのホルンであろう。

当時のドイツにおけるザイフェルトと並ぶ2大ホルン奏者であるが、ダムの深みのあるホルンの音色を聴くだけでも、一聴の価値がある。

音質は今回のBlu-spec-CD化によって、長年の渇きが漸く癒されたと言えるところであり、さすがにSACDにはかなわないが、従来盤と比較すると鮮明さが相当に増しており、本演奏の価値は大いに高まったと考える。

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2015年07月02日


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ブロムシュテット&ゲヴァントハウス管弦楽団のブルックナー・チクルスが漸く完成した。

演奏はいずれも実際のコンサートでの演奏をライヴ録音したもので、曲により多少のムラはあるものの、ライヴという条件を考慮すると、全体の水準は十分に高いレベルに達していると考えられる。

今回のシリーズでは、ブロムシュテットの円熟の境地と、ドイツ経済の繁栄と共に実力もレベル・アップしたかのようなゲヴァントハウス管弦楽団の充実した演奏を楽しむことができる。

ブロムシュテット&ゲヴァントハウス管弦楽団という稀代の名コンビは、様々な名演を成し遂げてきたが、何と言ってもそのレパートリーの中心にあったのは、ブロムシュテットが最も得意とする独墺系の音楽、中でもブルックナーの交響曲であったことは論を待たないところだ。

何よりも、これまでブルックナーの交響曲を自らの中核と位置づけてきたブロムシュテットであるだけに、本演奏には、ブロムシュテットの確固たる信念を感じ取ることが可能な、仰ぎ見るような威容を湛えた堂々たる演奏に仕上がっているのが素晴らしい。

本演奏においても、基本的なアプローチは、楽想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、これは近年のブルックナーの交響曲演奏の王道を行くものである。

そして、かかるアプローチは、誠実とも言えるこの指揮者の美質そのものであると言えるが、例えば、かつてシュターツカペレ・ドレスデンとともにスタジオ録音を行った交響曲第4番や第7番の定評ある名演などと比較すると、彫りの深さ、懐の深さにおいて、遥かに凌駕している。

近年のブロムシュテットの好調ぶりを伝える見事なもので、どの作品でも細部まで丁寧に誠実にリハーサルしたと思われる着実なアプローチを土台に、作品それぞれの個性がきちんと伝わってくるのが嬉しいところだ。

この指揮者ならではの全体の造型の堅固さは健在であるが、スケールも雄渾の極みであり、各楽想の描き出すに際しての彫りも深い。

全体としてはゆったりとしたインテンポを基調としているが、ここぞという箇所では微妙にテンポを動かしており、それが演奏全体を四角四面にしないことに大きく貢献している。

ブラスセクションなども最強奏させているが、無機的になることはいささかもなく、どこをとっても奥行きの深さを損なっていないのが素晴らしい。

シャイー時代になってオーケストラの音色に色彩感を増したと言われているゲヴァントハウス管弦楽団ではあるが、本演奏ではブロムシュテットの確かな統率の下、かつてのシュターツカペレ・ドレスデンのような独特の魅力的な音色を湛えているとは言い難いが、それでもドイツ風の重心の低い音色で重厚な演奏を繰り広げているのが素晴らしく、さすがは伝統のあるドイツのオーケストラと言うべきである。

ブロムシュテットは、厳しいトレーニングで機能性と音色にさらに磨きをかけ、引き締まった力強いサウンドにゲヴァントハウス管弦楽団を鍛えなおし、コンヴィチュニー時代の再来を思わせる第2ヴァイオリン右側の対向配置も効果的だ。

そして音楽自体に何とも言えない深みがあり、これはブロムシュテットの円熟であるのみならず、ブロムシュテットが晩年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地の表れと評しても過言ではあるまい。

このような名演奏を聴いていると、ヴァントや朝比奈なき現在においては、ブロムシュテットこそは、スクロヴァチェフスキと並んで、現代を代表するブルックナー指揮者と評しても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、あまた存在するブルックナーの交響曲全集の中でも、最も優れた名演の1つに掲げられる至高の名演と高く評価したいと考える。

そして、本盤でさらに素晴らしいのはマルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

コンサート会場の豊かな残響を取り入れた臨場感溢れる鮮明な高音質は、本名演の価値をさらに高めることに大きく貢献している点を忘れてはならない。

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2015年06月30日


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ヴァントが晩年にミュンヘン・フィルと録音した一連のブルックナーの至高の超名演は、従来CD盤でも十分に満足できる音質であったが、今般、ついにシングルレイヤーによるSACD化されたというのは何という素晴らしいことであろうか。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、ベルリン・フィル盤と同様に更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

ブルックナーの交響曲中で最もポピュラリティを獲得している「第4」であるが、ブルックナーの権威であるヴァントとしても、1998年のベルリン・フィルとの演奏で、漸く理想の名演を成し遂げることができたのではないかと思う。

それは、やや速めのインテンポで淡々とした演奏ではあったが、随所に見せる味の濃さが見事であった。

しかし、ヴァントの死後、手兵の北ドイツ放送交響楽団との神々しいばかりのラストコンサート盤が発売されるに及んで、ベルリン・フィル盤もトップの座を譲ることになった。

本盤は、そのラスト・コンサート盤の1か月前の演奏であるが、これは、ラスト・コンサート盤にも優るとも劣らない超名演で、これをもって『ロマンティック』の最高峰と言うに憚らぬ大演奏と言えるだろう。

数多いヴァントのブルックナーであるが、耳の肥えたファンほどミュンヘン・フィルとの組み合わせに執着するのも道理で、ヴァント晩年の味わい、オーケストラの音色の適度な明るさ、弦の暖かみのある厚い響き、管楽器の比類ない美しさなど他に代え難い魅力にあふれている。

いわゆるブルックナー開始は、やや強めの弦楽のトレモロによって開始されるが、これを聴いただけで他の指揮者とはものが違う。

この第1楽章は、意外にも随所でテンポの変化を行っているが、それでいて音楽が実に自然に流れる。

金管楽器を常に最強奏させているが、無機的な響きは皆無であり、ヴァントのブルックナーの交響曲の本質への深い理解と相俟って、筆舌には尽くしがたいハイレベルの演奏を成し遂げている。

第2楽章は、ゆったりとしたテンポで淡々と進行しているが、そこから湧きあがってくる何とも言えない寂寥感を何と表現すればいいのだろうか。

第3楽章も、主部をやや速めのテンポで演奏して、中間部でテンポをやや緩やかにするという緩急の差を、オーケストラを手足のように扱い、決して恣意的な印象を与えないで成し遂げるのは、まさに巨匠ならではの至芸。

終楽章は、ヴァントのブルックナー交響曲演奏の総決算と言えるもので、厳格なスコアリーディングによる緻密さと、最晩年の「第8」でも顕著であるが、柔軟で、なおかつスケール雄大なアプローチを融合させた稀有の名演を成し遂げている。

演奏終了後、聴衆から拍手が起こるまでに一瞬の間が空くが、これは、この超名演から受けた聴衆の深い感動と、聴衆の質の高さが窺い知れる素晴らしい瞬間だ。

この演奏会の半年後2002年2月14日にヴァントは90年の生涯を閉じたのだった。

いずれにしても、ヴァント&ミュンヘン・フィルによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年06月28日


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ヴァントが晩年にミュンヘン・フィルと録音した一連のブルックナーの至高の超名演は、従来CD盤でも十分に満足できる音質であったが、今般、ついにシングルレイヤーによるSACD化されたというのは何という素晴らしいことであろうか。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、ベルリン・フィル盤と同様に更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

ヴァントが最晩年にベルリン・フィルと遺した名演の数々は実に凄いものであった。

「第5」に始まり、「第9」、「第4」、「第7」、「第8」と、いずれも神々しいばかりの名演である。

今般、同時期にミュンヘン・フィルと行った名演の数々が、国内盤で発売されたが、いずれも、ベルリン・フィル盤と比べても、優るとも劣らない名演である。

重複しているのは、「第4」、「第5」、「第8」及び「第9」であるが、違いはオーケストラの音色と録音くらいのものであり、あとは好みの問題だと思われる。

本盤の「第9」の録音は1998年4月。

その約半年後のベルリン・フィルとの録音、さらに、来日時の録音が、名演のベストスリーということになるが、その中でも、本盤とベルリン・フィル盤が超名演と言うことになるだろう。

どちらもとび切りの一級で、スケルツォとアダージョに優劣はつけられないが、第1楽章は再現部冒頭とコーダがベルリン・フィル盤を上まわる。

ということは史上最高ということであって、ヴァントはブルックナーがこうしてほしいとスコアに書きこんだすべてを初めて音にして見せたのだ。

第1楽章など、実にゆったりとしたテンポによる深沈とした趣きであるが、ここぞというときの金管楽器の最強奏など悪魔的な響きであり、低弦の重厚な響かせ方にも凄みがある。

第2楽章も豪演だ。

ここは中庸のテンポをとるが、中間部のトリオの箇所との絶妙なテンポの対比も自然体で見事だ。

終楽章は、相変わらず金管を最強奏させているが、決して無機的には陥らず、天啓のような趣きがある。

それと対比するかのようなこの世のものとは思えないような美しい弦楽の奏で方は、ブルックナーの絶筆に相応しいアプローチであると思われる。

それにしても言語に絶するのはコーダで、最後の頂点を築いた後、天国の音楽へ、その別世界に突然入ってゆくところは美しさの限りだ。

演奏終了後に起きる一瞬の間も、当日の聴衆の感動を伝えるものであり、ヴァントの音楽を愛する聴衆の質の高さの表れということが言えるだろう。

ハイドンの交響曲第76番は、一聴すると無骨とも言える各旋律の端々から漂う独特のニュアンスや枯淡の境地さえ感じさせる情感には抗し難い魅力に満ち溢れていると言えるところであり、ヴァントによる同曲演奏の総決算とも言うべき素晴らしい名演と評価したい。

いずれにしても、ヴァント&ミュンヘン・フィルによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年06月27日


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ヴァントが晩年にミュンヘン・フィルと録音したブルックナーの至高の超名演は、従来CD盤でも十分に満足できる音質であったが、今般、ついにシングルレイヤーによるSACD化されたというのは何という素晴らしいことであろうか。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

ブルックナーの交響曲第6番は、ポピュラリティを獲得している第4番や峻厳な壮麗さを誇る第5番、そして晩年の至高の名作である第7番〜第9番の間に挟まれており、知る人ぞ知る存在に甘んじていると言わざるを得ない。

楽曲自体は、極めて充実した書法で作曲がなされており、もっと人気が出てもいい名作であるとも考えられるところであるが、スケールの小ささがいささか災いしていると言えるのかもしれない。

いわゆるブルックナー指揮者と称される指揮者であっても、交響曲第3番〜第5番や第7番〜第9番はよくコンサートで採り上げるものの、第6番はあまり演奏しないということが多いとも言える。

このことは、前述のような作品の質の高さから言っても、極めて残念なことと言わざるを得ないところだ。

そのような中で、ヴァントは、この第6番を積極的に演奏してきた指揮者である。

ヴァントが遺した同曲の録音は、唯一の全集を構成するケルン放送交響楽団とのスタジオ録音(1976年)、そして、手兵北ドイツ放送交響楽団との2度にわたるライヴ録音(1988年と1995年)、更には、ミュンヘン・フィルとのライヴ録音(1999年)の4つの録音が存在している。

これらはいずれ劣らぬ名演であると言えるが、この中でも最も優れた超名演は、ミュンヘン・フィルとの本演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。

第1楽章など、金管を思いっきり力強く吹かせているが、決して無機的には陥ることなく、アルプスの高峰を思わせるような実に雄大なスケールを感じさせる。

それでいて、木管楽器のいじらしい絡み合いなど、北欧を吹く清涼感あふれる一陣のそよ風のようであり、音楽の流れはどこまでも自然体だ。

第2楽章は、とある影響力の大きい某音楽評論家が彼岸の音楽と評しておられたが、本盤の演奏こそがまさに彼岸の音楽であり、ヴァントとしても、最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地をあらわしているのではないだろうか。

第6番は、第3楽章や第4楽章のスケールが小さいと言われるが、ヴァントの演奏を聴くと必ずしもそうとは思えない。

終楽章など、実に剛毅にして風格のある雄大な演奏であり、特に、第2楽章の主題が回帰する箇所のこの世のものとは思えないような美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。

ヴァントは、2002年にベルリン・フィルと同曲を演奏する予定だったとのことであるが、その死によって果たせなかった。

本盤のミュンヘン・フィルとの超名演を更に凌駕するような名演を成し遂げることも十分に想定出来ただけに残念という他はないところだ。

いずれにしても、ヴァント&ミュンヘン・フィルによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年06月13日


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ヴァントが晩年にミュンヘン・フィルと録音した一連のブルックナーの至高の超名演は、従来CD盤でも十分に満足できる音質であったが、今般、ついにシングルレイヤーによるSACD化されたというのは何という素晴らしいことであろうか。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、ベルリン・フィル盤と同様に更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

ヴァントのブルックナーは既に神格化されているが、その芸術が至高の境地に達したのは1990年代後半である。

特に、ベルリン・フィルと組んで遺した「第5」、「第4」、「第9」、「第7」、そして最後の「第8」は、人類共通の至宝と言うべきであるが、今般、これらの至宝に、更に、ミュンヘン・フィルと組んだ至高の名演群(「第6」と「第7」が入れ替わっているが)が加わることになった。

いずれ劣らぬ名演揃いであるが、その中でも、ヴァントの自伝にも記されているが、「第5」と「第9」は、ブルックナーが妥協を許さずに作曲した作品として、特に愛着を持って接していたようで、他の指揮者の追随を許さない超名演に仕上がっている。

本盤は、この1カ月後にライヴ録音したベルリン・フィル盤と並んで、ヴァントの「第5」の総決算とも言うべき超名演である。

両盤に優劣をつけることは困難であるが、違いはオーケストラの響きぐらいのものであり、これだけの高次元のレベルに達すると、後は好みの問題ということになるであろう。

録音で聴くと少々弛緩した印象もあったチェリビダッケ盤に較べ、ここでのヴァントの勇壮なオーケストラ・ドライヴには、聴き手を興奮させずにはおかない劇的な展開の巧みさと迫力が確かに備わっており、ミュンヘン・フィルの明るく流麗で色彩的、かつ俊敏なサウンドがそうした解釈と面白いマッチングをみせて素晴らしい聴きものとなっている。

引き締まったサウンドを好んだヴァントが、チェリビダッケによって厳しく訓練され、高い適応力を備えていたオーケストラとの共同作業から手に入れたのは、美しくしかもパワフルなサウンドだったのである。

ここでのミュンヘン・フィルは本当にすばらしく、技術上の高水準はもちろん、自分たちの演奏に対する自信といういうか、何か誇らしさが聴こえてくるようでもあり、どのパートもしっかりと存在感を保ちつつ、もちろんアンサンブルとして完璧な出来を示している。

厳格なスコアリーディングに基づく剛毅にして重厚な演奏スタイルであるが、1980年代のヴァントに見られたような、凝縮しすぎるあまりスケールが矮小化されるという欠点もいささかも見られない。

リズムにも柔軟性が付加されており、硬軟併せ持つバランスのとれた名演と言うべきである。

終結部の微動だにしない圧倒的な迫力はこの超名演の締めくくりに相応しいものであり、演奏終了後の聴衆の熱狂も当然のことにように思われる。

この公演から約1ヶ月の後にはベルリン・フィルに客演して同曲を指揮するヴァントだが、リハーサル回数の問題もあったのであろうか。

ヴィルトゥオジティはともかく、指揮者の解釈がより深く楽員に浸透したのは、どうやらミュンヘン・フィルの方だったようだ。

いずれにしても、ヴァント&ミュンヘン・フィルによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年06月06日


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マタチッチ&NHK交響楽団による1984年のブルックナーの交響曲第8番のライヴ録音は、歴史的な超名演とされているものの、数年前までは既発CDの音質がとても良好なものとは言い難いことから、一部の音楽ファンを除いてはなかなか愛聴盤の地位を獲得するのは困難であった。

ところが、2010年3月に先ずはBlu-spec-CD化が図られ、見違えるような良好な音質に生まれ変わったことから、本名演のグレードは大きくアップすることになった。

次いで、同年の秋には待望のXRCD化が図られ、Blu-spec-CD盤ではいささか線の細さを感じさせた音質が強靭なものとなり、筆者としては、当該XRCD盤こそが、本演奏の決定盤として長く愛聴していくべき存在であると考えていたところである。

ところが、それからあまり時間を置かずに、ついに究極の高音質化とも言うべきシングルレイヤーによるSACD化が図られることになった。

ブルックナーの交響曲のファンであれば、おそらくは、既にBlu-spec-CD盤やXRCD盤を購入していると思われることから、本SACD盤を購入するのは、財政的な面からいささか気が引けるところであるが、本演奏の歴史的な価値からすると、そのようなことを言っている訳にはいかないところだ。

確かに、音質は素晴らしい。

XRCD盤よりも更に各楽器が明瞭に分離して聴こえるなど、おそらくは現在望み得る最高の高音質に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

数年前まで、あまりのデッドで音場の拡がらなさに辟易としていたことに鑑みれば、まさに隔世の感があると言えるだろう。

ただ、このように段階的に音質の向上を図るやり方には、メーカー側の金儲け目的が色濃く出ており、そうしたメーカー側の姿勢にはこの場を借りて疑問を呈しておきたい(高音質化への不断の努力は評価するが)。

マタチッチは、偉大なブルックナー指揮者であった。

1990年代に入って、ヴァントや朝比奈が超絶的な名演の数々を生み出すようになったが、1980年代においては、まだまだブルックナーの交響曲の名演というのは数少ない時代であったのだ。

そのような時代にあって、マタチッチは、1960年代にシューリヒトが鬼籍に入った後は、ヨッフムと並ぶ最高のブルックナー指揮者であった。

しかしながら、これは我が国における評価であって、本場ヨーロッパでは、ヨッフムはブルックナーの権威として広く認知されていたが、マタチッチはきわめてマイナーな存在であったと言わざるを得ない。

それは、CD化された録音の点数を見れば一目瞭然であり、ヨッフムは2度にわたる全集のほか、ライヴ録音など数多くの演奏が発掘されている状況にある。

これに対して、マタチッチは、チェコ・フィルとの第5番(1970年)、第7番(1967年)及び第9番(1980年)、スロヴァキア・フィルとの第7番(1984年)やウィーン響との第9番(1983年)、あとはフィルハーモニア管弦楽団との第3番(1983年)及び第4番(1954年)、フランス国立管弦楽団との第5番(1979年)のライヴ録音がわずかに発売されている程度だ。

ところが、我が国においては、マタチッチはNHK交響楽団の名誉指揮者に就任して以降、ブルックナーの交響曲を何度もコンサートで取り上げ、数々の名演を成し遂げてきた。

そのうち、いくつかの名演は、アルトゥスレーベルにおいてCD化(第5番(1967年)、第7番(1969年)及び第8番(1975年))されているのは記憶に新しいところだ。

このように、マタチッチが精神的な芸術が評価される素地が未だ残っているとして我が国を深く愛して来日を繰り返し、他方、NHK交響楽団もマタチッチを崇拝し、素晴らしい名演の数々を成し遂げてくれたことが、我が国におけるマタチッチのブルックナー指揮者としての高い評価に繋がっていることは間違いあるまい。

そのようなマタチッチが、NHK交響楽団とともに成し遂げたブルックナーの交響曲の数々の名演の中でも、特に伝説的な名演と語り伝えられてきたのが本盤に収められた第8番だ。

本演奏におけるマタチッチのアプローチは、1990年代以降通説となった荘重なインテンポによる演奏ではない。

むしろ、速めのテンポであり、そのテンポも頻繁に変化させたり、アッチェレランドを駆使したりするなど、ベートーヴェン風のドラマティックな要素にも事欠かない演奏となっている。

それでいて、全体の造型はいささかも弛緩することなく、雄渾なスケールを失っていないのは、マタチッチがブルックナーの本質をしっかりと鷲掴みにしているからにほかならない。

このようなマタチッチの渾身の指揮に対して、壮絶な名演奏で応えたNHK交響楽団の好パフォーマンスも見事というほかはない。

いずれにしても、本演奏は、1980年代以前のブルックナーの交響曲第8番の演奏の中では、間違いなくトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

それは本SACD盤を聴いてもいささかも変わることはない。

いずれにしても、今般のシングルレイヤーによるSACD化を機に、更に多くの聴き手が本演奏の素晴らしさに接することに繋がることを大いに期待したい。

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2015年05月31日


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ケンペ&ミュンヘン・フィルという往年の名コンビによるブルックナー録音は、本盤に収められた2曲しか遺されていないが、特に「第5」が歴史に残る素晴らしい名演だ。

ブルックナーの「第5」と言えば、シューリヒト&ウィーン・フィル盤とヴァント&ベルリン・フィル盤が、最も手応えのあったものと言えるところだ。

しかし、シューリヒトを聴いていると、ちょっと指揮者の個性が出すぎてやしまいかと、そんなことが頭をチラッとよぎる。

かたやヴァントの方は、あまりにも洗練されすぎてやしまいか、などと贅沢な不満を覚えたりする。

つまり、この2種類とは少し毛色の違った名演も欲しいのだ(なんと欲ばりなこと)。

このケンペは雄大でありながら、質朴、渋さの極みで、部分的には明らかに先の2種類よりは曲想にふさわしいと思えるし、聴いていてケンペならではの独自の音づくりには静かな感銘を受けるところである。

これぞドイツ的な音の渋さ、くすみ、幾分の暗さが微妙にブレンドされていて、全くぶれず程良い一定のテンポで持続してゆく。

全体の印象は、ヴァントと同様、いわゆる職人肌の指揮ぶりであるが、ヴァントのような超凝縮型の眼光紙背に徹した厳しさをも感じさせるものではなく、より伸びやかで大らかな印象を受ける。

それどころか、冒頭のゆったりとした導入部や、第2楽章の美しい旋律の調べなど、決してインテンポに拘泥することなく、緩急自在のテンポ設定を行っているが、全体の造型はいささかも弛緩することはない。

終楽章の複雑なフーガもきわめて整然としたものに聴こえる。

これは、ケンぺがブルックナーの本質をしっかりと捉えていたからにほかならない。

ブルックナーのこの曲への複雑な感情表出が、陰影を感じさせる深い響きから浮かび上がってくるのである。

ほぼ同時期に、同じ職人タイプのベームが「第4」の名演を残しているが、ケンぺの本盤の演奏とは全く異なるものになっているのは大変興味深い。

もちろんオーケストラも異なるし、ホールもレーベルも異なるが、それ以上に、ケンぺは、ベームのようにインテンポで、しかも自然体の演奏をするのではなく、金管、特にトランペットに、無機的になる寸前に至るほどの最強奏をさせたり、テンポを随所で微妙に変化させるなど、ケンぺならではの個性的な演奏を行っている。

筆者としては、「第5」の方をより評価したいが、この「第4」も、同じタイプのベームの名演によって、一般的な評価においても不利な立場にはおかれていると思われるが、高次元の名演であることは疑いのないところである。

当時のミュンヘン・フィルは,チェリビダッケ時代以後のような超一流のアンサンブルには達しておらず、管楽器群の独奏などあまり洗練されていないが、ローカル色の濃いオケの健闘ぶりもまた聴きものである。

両盤ともに以前はXRCD盤が発売されていたが、今は廃盤となってしまったので、次善策としてネットメディア配信で聴かれることをお薦めしたい。

筆者としては、パッケージメディアがどんどん衰退していくのは、寂しい気もするが、ネットメディアの方が安価で購入できるし、これも時代の流れなので、致し方ないと考えているところである。

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2015年05月30日


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史上最高のレコーディング・アーティストであったカラヤンによる最後の演奏・録音となった楽曲はブルックナーの交響曲第7番で、ウィーン・フィルとの演奏(1989年)である。

言うまでもなく、さすがにそこまで断定的な言い方をしなくとも、大方の音楽ファンは、カラヤンによるブルックナーの最高の名演と言えば、最後の録音でもある「第7」を掲げるのではないだろうか。

ただ、それは、通説となっているカラヤンの個性が発揮された演奏ではなく、むしろ、カラヤンの自我が影を潜め、只管音楽そのものに奉仕しようという、音楽そのものの素晴らしさ、魅力を自然体で語らせるような趣きの演奏に仕上がっており、もちろん、筆者としても、至高の超名演と高く評価をしているが、全盛期のカラヤンの演奏とはおよそかけ離れたものとも言えるところだ。

もっともカラヤンの個性が明確にあらわれているのは、カラヤン&ベルリン・フィルが蜜月時代にあり、しかも全盛期にあった1970年代の録音になる。

カラヤンによるブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」の録音としては次に掲げる2種が存在している。

最初のものは1971年度レコード・アカデミー賞を受賞した本盤のベルリン・フィルとの演奏(1970年)(EMI)、次いで、その後、カラヤンによる唯一のブルックナーの交響曲全集に発展していくことになるベルリン・フィルとの演奏(1975年)(DG)である。

いずれもカラヤンが心技共に円熟した時期の録音で、全体がきりりと引き締まっている。

カラヤンは、ベルリン・フィルの持てる力と特質とを充分に発揮させ、いわゆる泥臭さのない明朗な音で、都会的とも言える新しい感覚をもってブルックナーを再現している。

カラヤン&ベルリン・フィルの演奏は、オルガンのような重量感はあっても少しも重苦しくなく、フィナーレにそれがよく示されている。

ベルリン・フィルの技術はさすがに高度なものだし、アンサンブルも緻密で、精緻な美しさを存分味わうことができる。

カラヤンもオーケストラも、脂の乗り切っていることを示す力演なのである。

とはいえこの2種の録音が5年しか離れていないにしては、この両者の演奏の装いは大きく異なっている。

EMIとDGというレコード会社の違い、ダーレムのイエスキリスト教会とベルリン・フィルハーモニーホールという会場の違いもあるが、それだけでこれだけの違いが生じるというのはおよそ信じ難いところだ。

いずれも実に感覚的に磨かれた壮麗なブルックナーであるが、カラヤン的な個性、カラヤン&ベルリン・フィルの全盛期ならではの演奏の豪快さ、華麗さといった点においては、1975年のDG盤の方にその特色があらわれていると言えるだろう。

1975年盤は、旋律は冒頭から極めて明快に力強く歌っているが、アーティキュレーションにカラヤンの個性が濃厚に示されているのが興味深い。

これに対して、本盤(1970年)の演奏は、むしろ、この時期のカラヤンとしては極力自己主張を抑制し、イエスキリスト教会の残響を巧みに生かした荘重な演奏を心がけているとさえ言えるところであり、カラヤンのブルックナーのなかでは好ましい演奏と言えよう。

その意味では、至高の超名演である「第7」(1989年)に繋がる要素も存在していると言ってもいいのかもしれない。

流麗なレガート、ここぞという時のブラスセクションの迫力などは、いかにも全盛期のカラヤン、そしてベルリン・フィルならではのものであるが、それがいささかも外面的なものとならず、常に内容豊かで、音楽の有する根源的な迫力をあますことなく表現し尽くしているのが素晴らしいと言える。

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2015年05月22日


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今や現代を代表する大指揮者となったインバルの新譜はどれも注目で聴き逃すことができない。

既にマーラーの交響曲を軸として、ショスタコーヴィチなどの交響曲の名演を東京都交響楽団やチェコ・フィルとともに再録音しており、そのいずれもが旧録音を超える圧倒的な名演となっていた。

ブルックナーの交響曲についても、既に第5番及び第8番という最も規模の大きい交響曲と最も優美な第7番、そして比較的マイナーな第6番を東京都交響楽団と再録音している。

いずれもフランクフルト放送交響楽団との演奏を上回る名演であり、インバルが、マーラーとブルックナーの両方の交響曲の演奏を得意とする稀有の指揮者であることを見事に証明していたと言えたところだ。

そして、今般、ブルックナーの交響曲チクルスの第5弾として、満を持して初期の交響曲である交響曲第2番が登場した。

とにかく素晴らしい名演。

これ以上の言葉が思い浮かばないほどの至高の超名演と言えるだろう。

インバルは、第1楽章冒頭の弦楽による繊細な響きからして、かの聖フローリアン教会の自然の中のそよ風のような雰囲気が漂う。

その後も、同曲特有の美しい旋律の数々を格調高く歌い上げていく。

それでいて、線の細さなどはいささかもなく、トゥッティにおいてはブラスセクションをしっかりと響かせるなど強靭な迫力にも不足はなく、骨太の音楽が構築されている。

このあたりの剛柔の的確なバランスは、インバルによるブルックナーの交響曲演奏の真骨頂とも言うべき最大の美質と言えるだろう。

そして、インバルによる本演奏は、朝比奈やヴァントなどが1990年代以降に確立した、今日ではブルックナーの交響曲演奏の規範ともされている、いわゆるインテンポを基調とした演奏には必ずしも固執していない。

第3楽章や第4楽章などにおいても顕著であるが、演奏全体の造型美を損なわない範囲において、若干ではあるが効果的なテンポの振幅を加えており、ある種のドラマティックな要素も盛り込まれていると言えるところだ。

それにもかかわらず、ブルックナーの交響曲らしさをいささかも失っていないというのは、インバルが、同曲の本質を細部に渡って掌握しているからに他ならないと言うべきである。

また、本演奏において特筆すべきは、東京都交響楽団の抜群の力量と言えるだろう。

先般発売されたショスタコーヴィチの交響曲第4番においてもそうであったが、弦楽器の厚みのある響き、そしてブラスセクションの優秀さは、とても日本のオーケストラとは思えないほどの凄味さえ感じさせる。

都響の誇る抜群のアンサンブル精度の高さ、その精度もさることながらブルックナーの重厚な和声構成の魅力が存分に伝わるバランスのよさ。

考え抜かれたフレーズとテンポの抑揚、アクセント、アーティキュレーションへの拘りが細部まで描写され、聴き手の心を掴む。

重厚感を持たせながら、微妙なテンポ捌きで決してだれることなく曲の終わりに向かい突き進むエネルギーは、60分間途切れることなく続き瞬く間に過ぎ去る。

いずれにしても、本盤の演奏は、今や世界にも冠たる名コンビとも言うべきインバル&東京都交響楽団による圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

録音も超優秀で、鮮明にして臨場感溢れる極上の高音質は、本盤の価値をより一層高めることになっているのを忘れてはならない。

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2015年05月21日


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シューリヒトのブルックナーの「第7」と言えば、ハーグ・フィルとのステレオ録音盤が名演として誉れ高い。

確かに、ハーグ盤は、シューリヒトの晩年の枯淡の境地を示すいぶし銀の名演であるが、オーケストラがきわめて非力という欠点があり、音質もやや冴えない。

シューリヒトが遺した同曲の録音で、筆者の手元にあるディスクでは、古いところではベルリン・フィルとのスタジオ録音(1938年)、そして1950年代でシュトゥットガルト放送響とのライヴ録音(1953年)、北ドイツ放送響とのライヴ録音(1954年)、本盤に収められたコンセール・コロンヌ管とのライヴ録音(1956年)、フランス国立管とのライヴ録音(1963年)、そしてハーグ・フィルとのスタジオ録音(1964年)が現時点で存在する。

筆者もその全てを聴いてみたが、特に本盤を含め特に1950年代のライヴ録音とハーグ盤とは全く演奏の性格が異なるのに大変驚いた次第である。

“端麗辛口”、これがこの指揮者の一般的な認識であったし、筆者個人の見解も同様であった。

しかし、最近になってゾロゾロと出てくるシューリヒトのライヴ録音には恐ろしく大胆で濃厚な演奏も多く、「この指揮者は一体何なのだ」というのが最近の印象だ。

このようにシューリヒトの演奏がライヴとスタジオ録音で別人のように異なる場合があるのが知られてきたわけだが、珍しくコンセール・コロンヌ管弦楽団に客演したこのブルックナーは、この指揮者のライヴのなかでも燃焼度の高い演奏である。

卓越したリハーサル術と指揮法によって、様々なオーケストラと素晴らしく息の合った演奏を聴かせたシューリヒトだけに、ここでの成果も見事なもので、ハーグ盤とはまた違った魅力を放っていて感動的だ。

ここでの演奏は、コンセール・コロンヌの独特の音色を生かして、実演ならではの濃やかなアゴーギクと思い切った表情付けを施したものである。

第1楽章のラストの圧倒的な盛り上がり、第2楽章のむせ返るような抒情の嵐、第3楽章の快速のスケルツォを経て、終楽章の緩急自在のテンポの変化を駆使した劇的な大演奏。

このようなドラマティックな演奏は、ブルックナー演奏としてはいささか禁じ手とも言えるが、シューリヒトの場合には全く違和感がなく、ブルックナーとの抜群の相性を感じるとともに、シューリヒトのブルックナーの本質への理解の確かさを感じざるを得ない。

そのエネルギーが尋常ではないのだが、決して破れかぶれではなく、常に頭脳は明晰に冴え渡っており、音楽の運びは理知的で、道を踏み間違えるときがない。

弦のボーイングにも工夫の跡が聴かれるアクセントで、要所をピタリと止めて輪郭をくっきりさせながら上り詰める自然な高揚感と、鳴り切っても細部が明瞭で濁りがない音は、シューリヒトならではのもので、特にこんな個性的な第2楽章はシューリヒトでなければ成し得ないものだろう。

シューリヒトの個性が存分に発揮されているだけでなく、この曲のあらゆる演奏の中でも異彩を放つ名演として記憶されるだろう。

重量感を伴った硬質なブルックナー演奏については好き嫌いがあるかもしれないが、ここでもシューリヒトは自らの主張を貫き、この組み合わせでなければ実現できない一期一会の演奏を実現している。

コンセール・コロンヌ管弦楽団もシューリヒトの確かな統率の下、鬼気迫る大熱演を繰り広げている。

音質も鮮明で細部の動きを明確にとらえており実に面白く、第3楽章の冒頭などデッドな響きも散見されるが、全体として生々しさがあり、この当時のライヴとしては、十分に満足できる水準だと言える。

ライナーの平林氏の解説も、いつもながら実に充実した内容であり、素晴らしい。

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2015年05月19日


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シューリヒトが最晩年にウィーン・フィルとともにスタジオ録音したブルックナーの交響曲第8番(1963年)と第9番(1961年)は、音楽評論家を含め多くのクラシック音楽ファンに支持されている不朽の名盤とされている。

1960年代前半という時期を考えると、ブルックナーの交響曲については、いまだ改訂版を使用した演奏が跋扈するとともに、ヨッフムが最初の全集を録音している最中であり、ましてや朝比奈やヴァントなどは箸にも棒にもかからない若造。

その意味では、当時においては本演奏は画期的な名演であったことが十分に理解できるところだ。

このうち、第8番については、近年のヴァントや朝比奈などによって確立された悠揚迫らぬインテンポによる演奏とはかなり様相が異なった演奏であり、速めのテンポと、随所においてアッチェレランドも含むテンポの振幅も厭わないなど、むしろドラマティックな演奏に仕上がっている。

ブラスセクションによる最強奏も圧巻の迫力を誇っているが、無機的な音は皆無であり、常に懐の深い音色に包まれているのは見事である。

そして、これほどの劇的とも言うべき豪演を行っているにもかかわらず、演奏全体の造型がきわめて引き締まったものとなり、いわゆるブルックナーらしさをいささかも失うことがないというのは、巨匠シューリヒトだけに可能な圧巻の至芸であるとともに、シューリヒトがブルックナーの本質をしっかりと鷲掴みにしているからにほかならない。

そして、このような荒ぶるような豪演に適度の温もりと潤いを付加しているのが、ウィーン・フィルによる美しさの極みとも言うべき名演奏である。

シューリヒトを深く敬愛していたとされるウィーン・フィルであるが、本演奏においてもシューリヒトの指揮に見事に応えて、持ち得る実力を最大限に発揮した渾身の熱演を展開しているのが素晴らしい。

これに対して、第9番については、悠揚迫らぬインテンポを基調とした演奏を行っている。

ブラスセクション、とりわけホルンの朗々たる奥行きのある響きの美しさは、これぞブルックナーとも言うべき崇高な美しさを誇っており、まさにウィーン・フィルによる美演を最大限に生かした神々しいまでの本演奏は、シューリヒトとしても最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地に達したものとも言えるのかもしれない。

各フレーズに込められたニュアンスの豊かさには尋常ならざるものがあるとともに、その端々から漂ってくる豊かな情感には、最晩年の巨匠シューリヒトならではの枯淡の境地さえ感じさせ、演奏の神々しいまでの奥行きの深さには抗し難い魅力がある。

第3楽章においては、もう少しスケールの雄大さが欲しい気もするが、第1楽章と第2楽章については文句のつけようがない完全無欠の崇高の極みとも言うべき名演奏であると言えるところであり、後年のヴァントや朝比奈と言えども、第1楽章と第2楽章に限っては、本演奏と同格の演奏を成し遂げるのが精一杯であったと言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、シューリヒトのブルックナーの交響曲の演奏でも最高峰の名演であるとともに、ブルックナーの交響曲第9番の演奏史上でも、現在においてもなおトップの座を争う至高の名演と高く評価したいと考える。

音質については、先般、待望のSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、シューリヒト&ウィーン・フィルによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

そして今般、第8番と第9番がセットで、しかも低廉に入手できる運びとなったことは慶賀の念に堪えない。

ネット配信が隆盛を極める中で、パッケージメディアの最後の砦はSACD盤であると考えられるところであり、通常CD盤と同じ位の価格で購入できる時代が漸く到来したのである。

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2015年05月18日


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チェリビダッケは生前、自作を除いては自らの演奏のCD化(LP化)を一切禁じていた。

表向きは、実演をCD(LP)では表現尽くすことができないというのがその理由であったとされるが、ベルリン・フィルの芸術監督に係るフルトヴェングラーの後継者争いで敗退したカラヤンに対する対抗意識も多分にあったのかもしれない。

それ故に、チェリビダッケの演奏を聴くことは実演以外には不可能になったことから、あまたの海賊盤が跋扈するとともに、その存在の神秘性が高まっていくことになった。

我が国にも来日し、その際の演奏がFMでも放送されたことから、一部に熱烈なチェリビダッケファンを生み出したのも記憶に新しいところであるが、殆どのクラシックファンにとっては縁遠い幻の指揮者的な存在であったと言える。

もっとも、チェリビダッケの没後には、遺族の了解を得て、ミュンヘン・フィル(EMI、来日時の演奏についてはアルトゥスやソニー・クラシカルなど)や、さらにそれ以前のシュトゥットガルト放送交響楽団(DG)などとのライヴ録音が相当点数発売されることになり、一般のクラシック音楽ファンでもチェリビダッケの芸術を味わうことができるようになったところだ。

まさに、幻のベールを没後になって漸く脱いだのである。

チェリビダッケは、カラヤンをはじめ同業者への罵詈雑言を浴びせ続けていたが、これは罵詈雑言の対象となった指揮者のファンならずとも、決して気持ちのいいものではなく、このことが現在におけるチェリビダッケに対する評価が二分されている理由であると言えるのかもしれない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢で練習に臨むとともに、かなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであったと言える。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言えるが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、ブルックナーの交響曲についても、そうしたことが言えるのではないだろうか。

本演奏は、1989年2月、ウィーン・ムジークフェラインザールでの演奏会をソニー・クラシカルが収録したもので、これまで未発表だった幻のライヴ録音である。

因みにEMIから発売されているこのコンビによる通常CD盤では、本演奏の1年前の1988年のライヴ録音であり、高音質SACD化がなされた本盤こそは、チェリビダッケによるブルックナー「第4」の決定盤と言っても過言ではあるまい。

その極大なスケールに圧倒されるところであり、チェリビダッケだけに可能な個性的な名演と評価し得るのではないかとも思われるところである。

これらのことを総合的に勘案すれば、本盤は、ブルックナーの交響曲に深い愛着を持ち続けたチェリビダッケがその晩年に到達し得た自らの指揮芸術の集大成とも言うべき名盤と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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2015年05月08日


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現役でありながら、他の長老が次々にこの世を去る中、半ば伝説化しつつある巨匠スクロヴァチェフスキがザールブリュッケン放送響とともに取り組んできたブルックナー交響曲全集。

手兵のザールブリュッケン相手なだけにかなり指揮者の意思は伝わっているとはいえ、オケの実力が必ずしも一流でないため十分ではないところはあるが、廉価で、00番、0番も聴けるということでお奨めしたい。

1990年代にブルックナーの交響曲の神々しいまでの崇高な超名演の数々を遺したヴァントや朝比奈が相次いで鬼籍に入ったことにより、現在では、いわゆるブルックナー指揮者と称される巨匠はスクロヴァチェフスキ1人となってしまった。

とりわけ、ここ数年のスクロヴァチェフスキのブルックナー演奏は、かつてのヴァントや朝比奈のような高みに達しており、数年前の来日時に読売日本交響楽団と演奏された第7番及び第8番は、神々しいまでの崇高な超名演であった。

もっとも、スクロヴァチェフスキが、このような崇高な超名演を成し遂げるようになったのは、この数年間のことであり、それ以前は名演ではあるものの、各楽器間のバランスや細部の解釈に気をとられるあまりいささか重厚さを損なうなど、もちろん名演ではあるが、ヴァントや朝比奈のような高みには達していなかったと言えるところだ。

本盤に収められたブルックナーの交響曲全集は、ヴァントや朝比奈が崇高な超名演の数々を成し遂げていた1991年〜2001年にかけて、スクロヴァチェフスキがザールブリュッケン放送交響楽団とスタジオ録音を行ったものである。

スクロヴァチェフスキのブルックナーは、「重厚」「雄大」というようなキーワードと無縁、あるいは「大自然」「神への祈り」などというような要素とも無縁である。

これは、作曲家でもある氏の目を通し、いったん解体され再構築された「新しい音楽」なのであり、そのため、上記のような要素を重視して聴こうとすると肩すかしを食らうであろう。

しかし何度も聴けば、スクロヴァチェフスキによる細かい仕掛けや絶妙なテンポ、繊細なバランスにうならされること請け合いだ。

前述の来日時の超名演においては、もちろん細部への拘りもあったが、むしろスケール雄大で骨太の音楽が全体を支配していたので、当該演奏と比較すると、本演奏でのスクロヴァチェフスキは、前述のように各楽器間のバランスを重視するとともに、スケール自体も必ずしも大きいとは言い難いと言える。

もっとも、各楽器間のバランスを重視しても、録音の良さも多分にあるとは思われるが、重厚さを失っていないのはさすがと言えるだろう。

また、細部への拘りも尋常ならざるものがあり、その意味では楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした表現と言えるのかもしれないが、いささかも違和感を感じさせないのはさすがと言えるだろう。

緩徐楽章などにおける旋律の歌い方には、ある種のロマンティシズムも感じさせるが、それが決していやではないのは、スクロヴァチェフスキがブルックナーの本質をしっかりと鷲掴みにしているからに他ならない。

各交響曲の演奏ともに出来不出来はさほど大きいとは言えないが、それでも、第00番、第0番、第1番、第2番及び第6番といった、比較的規模の小さい交響曲においては、スクロヴァチェフスキによる細部への拘りや各楽器間のバランスを重視するアプローチがむしろ功を奏しており、他の指揮者による名演と比較しても十分に比肩し得る素晴らしい名演に仕上がっている。

他方、第5番や第8番については、一般的には名演の名に値すると思われるが、そのスケールの若干の小ささがいささか気になると言えなくもない。

いずれにしても、本全集は、さすがに近年の演奏のような崇高な深みがあるとは言い難いが、現代を代表するブルックナー指揮者である巨匠スクロヴァチェフスキの名をいささかも辱めることのない、素晴らしい名全集と高く評価したいと考える。

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2015年05月06日


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インバルが、約20年以上も前に完成させたブルックナーの交響曲全集であり、一部の交響曲については再録音も行っているが、今なおその存在価値を失わない永遠の名全集と高く評価したい。

その理由はいくつか掲げられるが、何よりも、初稿が出版されていた交響曲については、可能な限りそれに拘ったという点を第一に掲げるべきであろう(「第2」は、当時、ギャラガン校訂版が出版されておらず、やむなく1877年版を採用。「第7」については、ノヴァーク版を使用)。

本全集の録音当時は、ブルックナーの交響曲を、初稿を用いて演奏した例など殆どなく、音楽学者の学究対象でしかなかった。

現在でこそ、ケント・ナガノや、シモーネ・ヤングなどの初稿を用いた優れた名演が数多く登場しているが、本全集録音当時は鑑賞することさえままならない時代であったのである。

そのような時代に、インバルが初稿の魅力にいち早く着目して録音を行ったということは、今日における初稿の再評価に先鞭をつけたということであり、これはインバルの先見の明の証左と言えるのではないだろうか。

第二に、本盤には、第00番や第9番のフィナーレの補筆版など、演奏されることすら稀な楽曲を盛り込んでいることであり、これには、前述の可能な限り初稿を採用するとの姿勢と相俟って、ブルックナーの本質を徹底的に追求しようというインバルの並々ならぬ意欲を大いに感じることが可能である。

第三に、演奏にはムラがなく、いずれも高い水準の名演であるということである。

インバルの各交響曲に対するアプローチは、やや速めのインテンポで、曲想を精緻に描き出していくというものであり、その凝縮化され引き締まった演奏全体の造型は極めて堅固なものだ。

金管楽器も最強奏させているが、いささかも無機的に陥ることはなく、ゲネラルパウゼの用い方も実に効果的だ。

それでいて、ブルックナー特有の聖フローリアンの自然を彷彿とさせるような抒情豊かさにおいても抜かりはなく、剛柔併せ持つ雄渾な名演に仕上がっている。

これは、ヴァントが1990年代になって成し遂げる数々の名演を予見させるものであり、このような名演を、ブルックナーの交響曲の演奏様式が、多分にロマン的な要素が支配するなどによって未だ確立したとは必ずしも言えなかった1980年代に、原則として初稿を用いて成し遂げたという点に、筆者は、インバルのブルックナーに対する深い理解と飽くなき探求心を大いに感じるのである。

古今東西の指揮者において、マーラーとブルックナーの両方を得意とした指揮者は皆無と言ってもいいと思うが、マーラー指揮者として名高いインバルによる本全集や、最近発売された「第5」「第7」「第8」の名演を聴くと、インバルこそは、マーラーとブルックナーの両方を得意とした史上初めての指揮者との評価もあながち言い過ぎではないのではないかと考える。

インバルの薫陶を受けたフランクフルト放送交響楽団も、持ち得る限りの最高のパフォーマンスを披露している。

本全集の再発売を機会にリマスタリングが行われたとのことであるが、音質は初期盤と比較すると明らかに向上しており、この歴史的な名全集の価値をより一層高めることに大きく貢献している点も忘れてはならない。

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2015年04月19日


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マゼールが今から約15年前に、当時の手兵バイエルン放送交響楽団とともに集中的に取り組んだブルックナーチクルスのコンサート記録である。

本全集が廉価で手に入ることも考慮に入れれば、後述のようにすべてを名演と評価するには躊躇せざるを得ないが、全体としては水準の高い演奏で構成された全集と評価してもいいのではないかと考える。

マゼール指揮によるブルックナーの交響曲と言えば、1974年に録音されたウィーン・フィルとの「第5」(英デッカ)、1988年に録音されたベルリン・フィルとの「第7」及び「第8」(ともにEMI)が念頭に浮かぶ。

「第5」については、マゼールが若さ故の力強い生命力と超絶的な才能を武器に、前衛的とも言えるような鋭いアプローチによる演奏を繰り広げていた1960年代のマゼールの芸風の残滓が随所に感じられるなど、ブルックナー演奏としてはやや異色の印象が拭えなかった。

他方、「第7」及び「第8」については素晴らしい名演で、特に、「第7」については、故小石忠男先生がレコード芸術誌において、「マゼールに一体何が起こったのか」とさえ言わしめたほどの成熟した超名演であった。

おそらくは、現在でも、この演奏を指揮者名を伏して聴いた多くの聴き手の中で、指揮者がマゼールと言い当てる者は殆どいないのではないか。

このような同曲演奏史上においても上位にランキングされる超名演が、現在では、国内盤は廃盤で、輸入盤でさえも入手難というのは大変残念な事態であると考えている。

録音当時はカラヤンの最晩年であり、ポストカラヤン争いの本命を自負していたマゼールと、カラヤンへの対抗意識も多分にあったと思うが、ポストカラヤンの候補者と目される指揮者とは鬼気迫る名演を繰り広げていたベルリン・フィルとの絶妙な組み合わせが、途轍もない超名演を生み出す原動力になったのではないかと考えられる。

「第8」も、「第7」ほどではないもののレベルの高い名演であり、仮にマゼールが、本人の希望どおりベルリン・フィルの芸術監督に就任していれば、ベルリン・フィルとの間で歴史的な名全集を作り上げた可能性も十分にあったと言える。

しかしながら、運命はマゼールに味方をしなかった。

芸術監督の選に漏れたマゼールは、衝撃のあまりベルリン・フィルとの決別を決意。

ドイツ国内での指揮さえも当初は拒否したが、その後数年で、バイエルン放送交響楽団の音楽監督に就任。

さらに、1999年になって漸くベルリン・フィルの指揮台にも復帰した。

要は、本全集は、マゼールが指揮者人生最大の挫折を克服し、漸くベルリン・フィルに復帰したのとほぼ同時期に録音がなされたということである。

本全集録音の数年前からは、ヴァントがベルリン・フィルとの間で、ブルックナーの交響曲の神がかり的な超名演の数々を繰り広げており、マゼールとしても、ベルリン・フィルとは和解はしたものの、かかる成功を相当に意識せざるを得なかったのではないかと考えられる。

そうしたマゼールのいささか屈折した思いが、文句がない名演がある反面で、一部の交響曲には、意欲が空回りした恣意的な解釈が散見されるというやや残念な結果に繋がっている。

文句のつけようがない名演は、「第0」「第1」「第2」の3曲であり、第3番以降になるとやや肩に力が入った力みが垣間見える。

特に、「第5」及び「第7」は、テンポを大幅に変化させるなど、いささか芝居がかった恣意的な表現が際立っており、前述した過去の演奏に遠く及ばない凡演に陥ってしまっているのは大変残念だ。

しかしながら、全集総体としては、水準の高い演奏が揃っており、破格の廉価盤であることを鑑みれば、十分に推薦に値するBOXであると考えられる。

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クラシック音楽界史上最高の黄金コンビとも謳われたカラヤン&ベルリン・フィルも、1982年のザビーネ・マイヤー事件を契機として、修復不可能にまでその関係が悪化した。

加えて、カラヤンの健康状態も悪化の一途を辿ったことから、1980年代半ばには、公然とポストカラヤンについて論じられるようになった。

カラヤンは、ベルリン・フィルを事実上見限り、活動の軸足をウィーン・フィルに徐々に移していったことから、ベルリン・フィルとしてもカラヤンに対する敵対意識、そしてカラヤンなしでもこれだけの演奏が出来るのだということをカラヤン、そして多くの聴衆に見せつけてやろうという意識が芽生えていたとも言えるところである。

したがって、1980年代半ば頃からカラヤンの没後までのベルリン・フィルの演奏は、とりわけポストカラヤンの候補とも目された指揮者の下での演奏は、途轍もない名演を成し遂げることが多かった。

その典型例が、本盤に収められたブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」と第6番である。

ムーティは、先輩格のジュリーニやライバルのアバド、マゼール、ハイティンク、小澤などと同様にポストカラヤンの候補と目された指揮者の1人であり、そうしたムーティとベルリン・フィルが1980年代半ばに録音した演奏がそもそも悪かろうはずがない。

それどころか、もちろんムーティは実力のある指揮者ではあるが、当時の実力を遥かに超える途轍もない名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。

いずれにしても、このコンビによるモーツァルトのレクイエムのスタジオ録音(1987年)、マゼールとのブルックナーの交響曲第7番のスタジオ録音(1987年)、アバドとのヤナーチェクのシンフォニエッタのスタジオ録音(1987年)、小澤とのチャイコフスキーの交響曲第4番(1988年)など、当時のベルリン・フィルの演奏は殆ど神業的であったとさえ言えるところだ。

それはさておき、本演奏は素晴らしい。

最近では円熟の指揮芸術を聴かせてくれているムーティであるが、本演奏の当時は壮年期にあたり、生命力に満ち溢れた迫力満点の熱演を展開していたところである。

ところが、本演奏は、むしろ近年のムーティの演奏を思わせるような懐の深さや落ち着きが感じられるところであり、あたかも円熟の巨匠指揮者が指揮を行っているような大人(たいじん)の至芸を感じさせると言えるだろう。

派手な音の効果だけで圧倒しようとするブルックナーの交響曲演奏とは対照的に、この作曲者特有の口べたで木訥と言われる内面的な〈渋さ〉を巧みに表現した名演。

とはいうものの、明快さ、スマートさが信条のムーティならではの巧みさ、オーケストラ自身の響きの美しさも健在。

ベルリン・フィルの重量感溢れる渾身の演奏もそれを助長しており、演奏全体としては、同曲最高の超名演とも呼び声の高いベーム&ウィーン・フィルによる演奏(1973年)やヴァント&ベルリン・フィルによる演奏(1998年)にも比肩し得るほどのハイレベルの演奏に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

前述のモーツァルトのレクイエムと同様に、当時のムーティとしては突然変異的な至高の超名演と言えるところであり、その後、ムーティが現在に至るまで、モーツァルトのレクイエムともどもブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」と第6番を2度と再録音をしようとしていない理由が分かろうというものである。

いずれにしても、本盤の演奏は、ムーティ&ベルリン・フィルがこの時だけに成し得た至高の超名演と高く評価したいと考える。

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2015年04月18日


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飛ぶ鳥落とす勢いの快進撃を続けるインバルと東京都交響楽団の一連のライヴ録音によるシリーズ。

今や現代を代表する大指揮者となったインバルの新譜はどれも注目で聴き逃すことができない。

既にマーラーの交響曲を軸として、ショスタコーヴィチなどの交響曲の名演を東京都交響楽団やチェコ・フィルとともに再録音しており、そのいずれもが旧録音を超える圧倒的な名演となっていた。

ブルックナーの交響曲についても、既に第5番及び第8番という最も規模の大きい交響曲と最も優美な第7番を東京都交響楽団と再録音している。

いずれもフランクフルト放送交響楽団との演奏を上回る名演であり、インバルが、マーラーとブルックナーの両方の交響曲の演奏を得意とする稀有の指揮者であることを見事に証明していたと言えたところだ。

そして、今般、ブルックナーの交響曲チクルスの第4弾として、満を持して比較的マイナーな交響曲である交響曲第6番が登場した。

とにかく素晴らしい名演。

これ以上の言葉が思い浮かばないほどの至高の超名演と言えるだろう。

同曲は、インバルも、第1楽章冒頭の弦楽による繊細な響きからして、かの聖フローリアン教会の自然の中のそよ風のような雰囲気が漂う。

その後も、同曲特有の美しい旋律の数々を格調高く歌い上げていく。

それでいて、線の細さなどはいささかもなく、トゥッティにおいてはブラスセクションをしっかりと響かせるなど強靭な迫力にも不足はなく、骨太の音楽が構築されている。

このあたりの剛柔の的確なバランスは、インバルによるブルックナーの交響曲演奏の真骨頂とも言うべき最大の美質と言えるだろう。

そして、インバルによる本演奏は、朝比奈やヴァントなどが1990年代以降に確立した、今日ではブルックナーの交響曲演奏の規範ともされている、いわゆるインテンポを基調とした演奏には必ずしも固執していない。

第3楽章や第4楽章などにおいても顕著であるが、演奏全体の造型美を損なわない範囲において、若干ではあるが効果的なテンポの振幅を加えており、ある種のドラマティックな要素も盛り込まれていると言えるところだ。

それにもかかわらず、ブルックナーの交響曲らしさをいささかも失っていないというのは、インバルが、同曲の本質を細部に渡って掌握しているからに他ならないと言うべきである。

また、本演奏において特筆すべきは、東京都交響楽団の抜群の力量と言えるだろう。

先般発売されたショスタコーヴィチの交響曲第4番においてもそうであったが、弦楽器の厚みのある響き、そしてブラスセクションの優秀さは、とても日本のオーケストラとは思えないほどの凄味さえ感じさせる。

絹のような弦楽器のサウンドに管楽器の確かな和声が寄り添い、重厚で豊かなブルックナー・サウンドを生み出している。

演奏によって新鮮な魅力を聴かせつつも厳格なまでに自己の哲学を貫くインバルのその姿勢が、確固とした人気を保つ秘訣と言えるだろう。

いずれにしても、本盤の演奏は、今や世界にも冠たる名コンビとも言うべきインバル&東京都交響楽団による圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

録音も超優秀で、鮮明にして臨場感溢れる極上の高音質は、本盤の価値をより一層高めることになっているのを忘れてはならない。

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2015年04月17日


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現在、最も積極的にレコーディングに取り組んでいるパーヴォ・ヤルヴィであるが、楽曲によってオーケストラを巧みに使い分けているのが特色である。

その中でも、独墺系の作曲家による楽曲の演奏に際しては、原則としてフランクフルト放送交響楽団を起用することにしているようであり、ブルックナーの交響曲についても例外ではないと言えるところだ。

パーヴォ・ヤルヴィ&フランクフルト放送交響楽団によるブルックナーの交響曲の演奏に関しては、既に第5番、第7番、第9番が発売されているが、本盤に収められた第4番は第4弾となるものであり、待望の新盤と言えるものだ。

本盤においても、インバル時代の息吹を取り戻した名門オケの底力を示す、新時代のブルックナー解釈を打ち出している。

本演奏におけるパーヴォ・ヤルヴィによるアプローチは、第7番、第9番の演奏ように中庸のテンポをベースとして、楽想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものとは少し様相が異なっている。

何か特別な個性を発揮して、奇を衒った解釈を施すなどということがないという点においては共通しているが、むしろ、第5番の演奏のように、テンポはやや速めで、楽章毎のテンポの緩急を際立たせている点も特徴的であると言えるところであり、1990年代に入って一般化したブルックナーの交響曲の演奏様式の王道を行くオーソドックスな演奏とは異なった演奏とも言えるところだ。

もっとも、各楽器セクションのバランスの良い鳴らし方には出色のものがあり、いかなるトゥッティに差し掛かっても無機的な響きを出すということはなく、常に壮麗で懐の深い音色に満たされているのが素晴らしい。

また、緩徐楽章における旋律の数々もやや速めのテンポをとることによって、陳腐なロマンティシズムに陥ることを極力避けており、それでいて、どこをとっても格調の高さを失うことがないのが見事である。

ブルックナーの交響曲第4番のこれまでの名演としては、古くはヨッフム、そしてヴァントや朝比奈によって圧倒的な名演が成し遂げられてきており、これら大指揮者の深みのある演奏と比較して本演奏を云々するのは容易なことである。

しかしながら、必ずしもブルックナー指揮者とは言い難いパーヴォ・ヤルヴィが、同曲の曲想を丁寧に紐解き、これだけの見事な演奏を成し遂げたことにむしろ思いを致すべきであり、筆者としては、同曲の魅力を十二分に満喫することができるという意味において、素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

経験を積んだ老齢の指揮者のみが名演を成し遂げるというイメージがあるブルックナーの交響曲であるが、そのイメージを覆さんばかりの勢いと鮮度を持つパーヴォ・ヤルヴィの演奏は、これまでの3作でも実証済みであり、聴き尽くされた交響曲が圧倒的な鮮度で蘇るさまは、まさにパーヴォならではと言えよう。

そして、本盤でさらに素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

以前のチクルスでもそうであったが、パーヴォ・ヤルヴィによるアプローチが極上の高音質録音によって鮮明に再現されているのが見事であり、そうした音質の鮮明さといい、音圧の力強さといい、そして音場の拡がりといい、まさに申し分のないものであると考えられる。

いずれにしても、パーヴォ・ヤルヴィ&フランクフルト放送交響楽団による素晴らしい名演を、現在望み得る最高の鮮明な高音質SACDで味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年04月16日


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朝比奈隆はブルックナーの交響曲全集を3度にわたって録音した世界で唯一の指揮者である。

本盤に収められた「第8」の演奏は、1990年代前半に完成させた朝比奈による3度目の全集に含まれるものである。

3度目の全集に含まれる演奏は、いずれ劣らぬ素晴らしい名演揃いであるが、その中でも「第8」は、「第3」及び「第9」に並ぶ素晴らしい名演であると言えよう。

それどころか、朝比奈が録音したブルックナーの「第8」の中でも、NHK交響楽団と録音した1997年盤、大阪フィルとの最後の演奏となった2001年盤と並んで、3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。

朝比奈は、ブルックナーの交響曲の中でも「第5」とこの「第8」を得意としていたことはよく知られているところだ。

その理由はいくつか考えられるが、つまるところ朝比奈の芸風に最も符合した交響曲であったからではないだろうか。

朝比奈のアプローチは荘重なインテンポで、曲想を真摯にそして愚直に進めていくというものだ。

スコアに記された音符を1つも蔑ろにすることなく力強く鳴らして、いささかも隙間風が吹かない重厚な音楽を構築していく。

このようにスコアに記された音符をすべて重厚に鳴らす演奏であれば、カラヤンやチェリビダッケも同様に行っているが、彼らの演奏は、ブルックナーよりも指揮者を感じさせるということであろう(カラヤン&ウィーン・フィルによる1988年盤を除く)。

俺はブルックナーの「第8」をこう解釈するという自我が演奏に色濃く出ており、聴き手によって好き嫌いが明確にあらわれるということになるのだ。

これに対して、朝比奈の演奏は、もちろん朝比奈なりの同曲への解釈はあるのだが、そうした自我を極力抑え、同曲にひたすら奉仕しているように感じることが可能だ。

聴き手は、指揮者よりもブルックナーの音楽の素晴らしさだけを感じることになり、このことが朝比奈のブルックナーの演奏をして、神々しいまでの至高の超名演たらしめているのだと考えられる。

しかも、スケールは雄渾の極みであり、かかるスケールの大きさにおいては、同時代に活躍した世界的なブルックナー指揮者であるヴァントによる大半の名演をも凌駕すると言っても過言ではあるまい(最晩年のベルリン・フィル盤(2001年)及びミュンヘン・フィル盤(2000年)を除く)。

オーケストラの実力はともかくとして、ブルックナーの魂の真髄を表現する演奏という意味に於いて、これほど作為が無い、至高の演奏は筆者の試聴歴では未だかつて無いものである。

ムーティをして「晩年のカラヤンのブルックナーは神の声がする」と言わしめたが、この朝比奈の至高の超名演もスタイルは違えども、まさしく「神の声」を聴くようである。

本盤で惜しいのは大阪フィルがいささか非力という点であり、特に終結部のトランペットが殆ど聴こえないというのは致命的とも言えるが、演奏全体の評価に瑕疵を与えるほどのものではないと言える。

この演奏の素晴らしさは、演奏が終わった後の数秒の沈黙と、その後の大喝采が物語っている。

録音はマルチチャンネル付きのSACDであり、朝比奈による崇高な超名演を望み得る最高の音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2015年04月15日


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何故か長らく廃盤の憂き目にあっていた名盤の待望の復活である。

ブルックナー的という概念にとらわれない純音楽的ブルックナーであり、ベームの人柄がそのまま出ている生真面目な演奏であるが、堅苦しくならず、角の立たない優しさに溢れている。

この作品のもつ構成的な美しさをよくあらわした演奏で、淡々と音楽を運びながらも、ベームの強い意志が貫かれている。

この作曲者としては例外的に「歌謡的」なこの交響曲を、あくまで自然に、また悠然とウィーン・フィルと歌い上げていく。

ベームは、作為の無い素直な解釈であり、アゴーギク、デュナーミクも抑制的であるが、かと言ってストイックな演奏ではなく、ウィーン・フィルの合奏能力を確信して、余り締めつけずに悠々と振っている。

特に、テンポを微妙に動かしながら、明暗の度合いをくっきりと打ち出した第1楽章は、出だしのチェロの第1主題の歌わせ方から、その特徴が出ている。

息の長い旋律線を弦が歌い上げるとき、あたかも輝かしい光と熱が音から放射されるように感じられる。

ベームは職人芸の指揮者とよく言われ、ドイツ系の交響曲の緩やかな楽章を注意深く聴いてみるとわかるが、カラヤンのような、耽美的な味わいが薄いだけで、いつも豊かな歌に満ちていることがわかる。

その後も厚みのある弦楽器の音色を生かしてゆったりと表現した第2楽章、一分の隙もなく金管楽器を壮麗に鳴らした第3楽章、ロマン的な雰囲気を柔らかに表出した第4楽章、ウィーン・フィルの豊かな響きとともに、ベームの音楽設計が光る。

ところでベームは、ブルックナーの交響曲をすべて演奏しているわけではなく、遺された録音などを勘案すると、演奏を行ったのは第3番、第4番、第5番、第7番及び第8番の5曲に限られているものと思われる。

これ以外にも若干のライヴ録音が存在しているが、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスの各交響曲全集を録音した指揮者としては、必ずしも数多いとは言えないのではないかと考えられる。

この中でも、文句なしに素晴らしい名演は1970年代前半にウィーン・フィルを指揮して英デッカにスタジオ録音を行った第3番(1970年)及び第4番(1973年)である。

その点、本盤に収められた演奏(1976年)は、ベームの全盛時代の代名詞でもあった躍動感溢れるリズムが、本演奏ではいささか硬直化してきているところであり、音楽の自然な流れにおいても若干の淀みが生じていると言わざるを得ない。

しかしながら堅固な造型、隙間風の吹かないオーケストラの分厚い響きは相変わらずであり、峻厳たるリズムで着実に進行していく音楽は、素晴らしいの一言。

何よりも素晴らしいのは、ウィーン・フィルならではの美しい音色を味わうことができることだ。

どんなに最強奏しても、あたたかみを失わない金管楽器や木管楽器の優美さ、そして厚みがありながらも、決して重々しくはならない弦楽器の魅力的な響きなど、聴いていてほれぼれとするくらいだ。

演奏の精度、燃焼度ともに高い素晴らしい演奏で、この音の輝き、神々しさはウィーン・フィルならではのものであろう。

洗練され、ロマンティックな香りがそこはかとなく漂い、ウィーン・フィルの生の音を思い出させる自然な録音も嬉しい。

指揮者・オーケストラ・録音と3拍子揃った貴重な名演と言えるだろう。

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ブルックナーの交響曲第6番は、ポピュラリティを獲得している第4番や峻厳な壮麗さを誇る第5番、そして晩年の至高の名作である第7番〜第9番の間に挟まれており、知る人ぞ知る存在に甘んじていると言わざるを得ない。

楽曲自体は、極めて充実した書法で作曲がなされており、もっと人気が出てもいい名作であるとも考えられるところであるが、スケールの小ささがいささか災いしていると言えるのかもしれない。

いわゆるブルックナー指揮者と称される指揮者であっても、交響曲第3番〜第5番や第7番〜第9番はよくコンサートで採り上げるものの、第6番はあまり演奏しないということが多いとも言える。

このことは、前述のような作品の質の高さから言っても、極めて残念なことと言わざるを得ないところだ。

そのような中で、ヴァントは、この第6番を積極的に演奏してきた指揮者である。

ヴァントが遺した同曲の録音は、唯一の全集を構成するケルン放送交響楽団とのスタジオ録音(1976年)、そして、手兵北ドイツ放送交響楽団との2度にわたるライヴ録音(1988年と1995年(本盤))(DVD作品としては、翌年のライヴ録音(1996年)が別途存在している)、更には、ミュンヘン・フィルとのライヴ録音(1999年)の4つの録音が存在している。

これらはいずれ劣らぬ名演であると言えるが、この中でも最も優れた超名演は、ミュンヘン・フィルとの演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。

もっとも、北ドイツ放送交響楽団との最後の録音となった本盤の演奏も、さすがにミュンヘン・フィルとの演奏のような至高の高みには達していないが、当該演奏の4年前の演奏ということもあって、十分に素晴らしい至高の名演に仕上がっていると高く評価したい。

第1楽章など、金管を思いっきり力強く吹かせているが、決して無機的には陥ることなく、アルプスの高峰を思わせるような実に雄大なスケールを感じさせる。

それでいて、木管楽器のいじらしい絡み合いなど、北欧を吹く清涼感あふれる一陣のそよ風のようであり、音楽の流れはどこまでも自然体だ。

第2楽章は、とある影響力の大きい某音楽評論家が彼岸の音楽と評しておられたが、本盤の演奏こそがまさに彼岸の音楽であり、前述のようにミュンヘン・フィルとの演奏ほどの至高の高みには達していないものの、ヴァントとしても、最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地をあらわしていると言えるのではないだろうか。

第6番は、第3楽章や第4楽章のスケールが小さいと言われるが、ヴァントの演奏を聴くと必ずしもそうとは思えない。

終楽章など、実に剛毅にして風格のある雄大な演奏であり、特に、第2楽章の主題が回帰する箇所のこの世のものとは思えないような美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。

ヴァントは、2002年にベルリン・フィルと同曲を演奏する予定だったとのことであるが、その死によって果たせなかった。

本盤の演奏やミュンヘン・フィルとの超名演を超えるような名演を成し遂げることも十分に想定出来ただけに残念という他はないところだ。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年04月14日


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ヴァントは、1990年代に入ってブルックナーの交響曲の崇高な超名演を成し遂げることによって真の巨匠に上り詰めるに至ったが、1980年代以前のヴァントがいまだ世界的な巨匠指揮者としての名声を獲得していない壮年期には、たびたび来日して、NHK交響楽団にも客演を行っていたところだ。

ヴァントの伝記を紐解くと、ブルックナーの交響曲の演奏に生涯をかけて取り組んできたヴァントが特別視していた交響曲は、「第5」と「第9」であったと言えるようだ。

朝比奈も、交響曲第5番を深く愛していたようであるが、録音運がいささか悪かったようであり、最晩年の大阪フィルとの演奏(2001年)を除くと、オーケストラに問題があったり、はたまた録音に問題があったりするなど、いささか恵まれているとは言い難い状況に置かれているところである。

これに対して、ヴァントの場合は、あくまでも比較論ではあるが、かなり恵まれていると言えるのではないだろうか。

ヴァントが遺したブルックナーの交響曲第5番の録音は、唯一の全集を構成するケルン放送交響楽団とのスタジオ録音(1974年)、手兵北ドイツ放送交響楽団とのライヴ録音(1989年)、数年前に発売されて話題となったベルリン・ドイツ交響楽団とのライヴ録音(1991年)、ミュンヘン・フィルとのライヴ録音(1995年)、そして不朽の名演として名高いベルリン・フィルとのライヴ録音(1996年)という5種類を数えるところであり、音質、オーケストラの力量ともにほぼ万全であり、演奏内容もいずれも極めて高水準である。

いずれ劣らぬ名演と考えるが、この中で最も優れた名演は、ミュンヘン・フィル及びベルリン・フィルとの演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。

ここに採り上げる6種類目になる本盤(NHK交響楽団との1979年ライヴ録音)の性格はケルン放送交響楽団とのスタジオ録音に近いものと言える。

ヴァントがいまだ世界的なブルックナー指揮者としての名声を獲得していない壮年期の演奏であるだけに、1990年代における神々しいばかりの崇高な名演が誇っていたスケールの大きさや懐の深さはいまだ存在していないと言えるところであり、本盤の演奏を前述の1990年以降の超名演の数々と比較して云々することは容易ではある。

しかしながら、本演奏においても、既にヴァントのブルックナー演奏の特徴でもあるスコアリーディングの緻密さや演奏全体の造型の堅牢さ、そして剛毅さを有しているところであり、後年の数々の名演に至る確かな道程にあることを感じることが可能だ。

また、本盤の演奏においては、こうした全体の堅牢な造型や剛毅さはさることながら、金管楽器を最強奏させるなど各フレーズを徹底的に凝縮化させており、スケールの小ささや金管楽器による先鋭的な音色、細部に至るまでの異常な拘りからくるある種の神経質さがいささか気になると言えるところではあるが、それでも違和感を感じさせるほどでもないというのは、ヴァントがブルックナーの本質を既に鷲掴みにしていたからにほかならないと考えられる。

そして、本演奏には、ライヴ録音ならではの畳み掛けていくような気迫と生命力が漲っており、その意味では、ケルン放送交響楽団とのスタジオ録音よりも優れた演奏と言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、世界的なブルックナー指揮者として世に馳せることになる後年の大巨匠ヴァントを予見させるのに十分な素晴らしい名演と高く評価したい。

ヴァントの剛毅で緻密な指揮にしっかりと喰らい付いていき、持ち得る実力を最大限に発揮した名演奏を披露したNHK交響楽団にも大きな拍手を送りたい。

音質は、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりになっており、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年04月09日


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ブルックナーやストラヴィンスキー、ブラームス全集などで注目を集めるオランダの指揮者、ズヴェーデンは、現在、オランダ放送フィルとブルックナーの交響曲を継続的にレコーディングしており、既に第2番、第4番、第5番、第7番、第8番、第9番の6曲の録音を終了し、どの作品でも高い評価を受けていたところである。

それゆえ、既に発売された各交響曲の演奏のいずれもが水準の高い名演であることに鑑みれば、このコンビでブルックナーの交響曲全集を完成して欲しいと思っていた聴き手は筆者だけではないとも思われる。

そして今般、続編である第3番(2011年録音)が登場したのは実に慶賀に堪えないところだ。

ズヴェーデンは1960年生まれで未だ50歳になったばかりでもあり、是非とも今後残る交響曲の録音を行っていただき、全集を完成していただくことをこの場を借りて強く要望しておきたいと考える。

ズヴェーデンのブルックナーの交響曲へのアプローチは、これまでに録音された交響曲の演奏でもそうであったが、ヴァントや朝比奈などの数々の名演によって通説となりつつある、いわゆるインテンポを基調とする演奏スタイルを原則として採用している。

もっとも、インテンポによる演奏を基調とはしているが、随所においてテンポを微妙に変化させることによって、演奏に効果的なスパイスを利かせていることも付記しておく必要がある。

そして、各旋律の歌わせ方には、ロマンティシズムの香りが漂っており、加えて、細部にわたって独特の表情づけを行うなど、単にスコアに記された音符の表層だけを取り繕っただけの薄味な演奏にはいささかも陥っておらず、常に含蓄のある豊かな情感に満ち溢れた演奏を行っているのが素晴らしい。

したがって、演奏全体としては、いわゆるブルックナーらしさをいささかも失っておらず、とりわけ第2楽章の清澄な美しさなど、抗し難い魅力に満ち溢れていると評価したい。

以前みられた弦セクション重視の傾向もあまり表れておらず、響きも標準的であるが、それでもコンマス出身だけあって、ヴァイオリン群の美感が今回特に素晴らしく、幻惑的な美しさを醸し出している。

総じて、ズヴェーデンのブルックナーの中でも、オーソドックスでありながら、ずば抜けた美しさを持った1枚に仕上がっていると言えよう。

本演奏の当時のズヴェーデンは未だ50歳であるが、指揮者としては若手であるにもかかわらず、これだけの風格のある、そして彫りの深い演奏を成し遂げたということ自体が驚異的であり、ズヴェーデンという指揮者の類稀なる才能を感じるとともに、今後さらに大化けしていくことも十分に考えられるところだ。

いずれにしても、本盤に収められた交響曲第3番の演奏は、前作第8番の演奏と同様に、ズヴェーデンがブルックナー指揮者として健在であることを世に知らしめるとともに、残された他の交響曲(第0番、第1番、第6番)の演奏にも大いに期待を抱かせる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

また、本盤で素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

最近では、エクストン・レーベルを筆頭にして、SACD盤を積極的に発売しても、マルチチャンネルから撤退するケースが多いようであるが、本盤のような、各楽器セクションの配置が明瞭にわかるような臨場感溢れる鮮明な高音質を聴いていると、是非ともマルチチャンネル付きのSACDを復活させていただきたいと切に願わざるを得ないところだ。

そして、かかるマルチチャンネル付きのSACDによる圧倒的な高音質録音が、本演奏の価値を高めるのに大きく貢献しているのも忘れてはならない。

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2015年04月05日


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ブルックナーの交響曲の演奏スタイルは、1990年代以降に成し遂げられたヴァントや朝比奈による神がかり的な超名演の数々によって確立されたとも言えるところであるが、それ以前において、ブルックナーの交響曲の名演を成し遂げていた代表的な指揮者と言えば、シューリヒトやマタチッチと言えるのではないだろうか。

マタチッチによるブルックナーの交響曲演奏は、様々なレーベルによって発売されているが、現時点では、第3番、第4番、第5番、第7番、第8番、第9番の6曲が遺されているところだ。

NHK交響楽団とのライヴ録音の数々は、最晩年(1984年)の第8番を含め、極めて優れたものであるが、スタジオ録音ということであれば、チェコ・フィルとの第7番が名高い存在である。

マタチッチは、チェコ・フィルとともに、第7番のほか、第5番をスタジオ録音、そして本盤に収められた第9番をライヴ録音しているが、最良の名演は、何と言っても、第7番、とりわけその第1楽章及び第2楽章であると言えるところだ。

第9番については、マタチッチは、本盤に収められたチェコ・フィルとの演奏のほか、ウィーン交響楽団(1983年)とともに行ったライヴ録音も遺されており、演奏の質においては甲乙付け難い存在であるが、オーケストラの力量からすれば、本盤のチェコ・フィルとの演奏に軍配をあげるべきであろう。

本盤の演奏は、マタチッチの巨大な体躯を思わせるような豪快そのもの。

ブラスセクションなども無機的になる寸前に至るまで最強奏させるなど、その迫力満点の強靭な演奏ぶりには度肝を抜かれるほどである。

テンポの振幅については随所に施しているものの、比較的常識的な範囲におさめている。

その意味では、1990年代になってヴァントや朝比奈が確立した、いわゆるインテンポを基調とした演奏スタイルに限りなく近い性格を有しているとも言えるが、前述のブラスセクションの最強奏などが極めて印象的であり、ドラマティックな要素を多分に有した演奏であるとも言えるところだ。

したがって、聴き手によっては抵抗感を覚える人もいるとは思われるが、それでも、演奏全体に漲っている熱き情感と根源的な力強さは圧倒的であり、チェコ・フィルの優秀な力量とも相俟って、本演奏の当時としてはブルックナーの交響曲の一面を描出した見事な演奏に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

さすがに、シューリヒト&ウィーン・フィルによる超名演(1961年)ほどの高みに達しているとは言い難いが、筆者としては、マタチッチの偉大な才能、そしてブルックナーへの適性があらわれた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

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2015年04月04日


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ブルックナーの交響曲を数多く演奏・録音してきたヴァントが、最も数多くの録音を遺した交響曲は、何と言っても「第8」であった。

ヴァントは、1990年代に入ってブルックナーの交響曲の崇高な超名演を成し遂げることによって真の巨匠に上り詰めるに至ったが、1980年代以前のヴァントがいまだ世界的な巨匠指揮者としての名声を獲得していない壮年期には、たびたび来日して、NHK交響楽団にも客演を行っていたところだ。

本盤に収められたブルックナーの交響曲第8番は、ヴァントが得意中の得意としたレパートリーであり、NHK交響楽団に客演した際のコンサートの貴重な記録でもある。

ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団との演奏(1971年)、ケルン放送交響楽団との演奏(1979年)に次ぐ3度目の録音ということになる。

ヴァントは、本演奏の後も、北ドイツ放送交響楽団との3度にわたる演奏(1987年ライヴ録音、1990年東京ライヴ録音、1993年ライヴ録音)、ミュンヘン・フィルとの演奏(2000年ライヴ録音)、ベルリン・フィルとの演奏(2001年ライヴ録音)の5度にわたって録音を行っており、本盤の登場を持って同曲を8度にわたって録音したことになるところだ。

いずれ劣らぬ名演と考えるが、この中で最も優れた名演は、ミュンヘン・フィル及びベルリン・フィルとの演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。

本演奏の性格はケルン放送交響楽団とのスタジオ録音に近いものと言える。

ヴァントがいまだ世界的なブルックナー指揮者としての名声を獲得していない壮年期の演奏であるだけに、1990年代における神々しいばかりの崇高な名演が誇っていたスケールの大きさや懐の深さはいまだ存在していないと言えるところであり、本盤の演奏を前述の1990年以降の超名演の数々と比較して云々することは容易ではある。

しかしながら、本演奏においても、既にヴァントのブルックナー演奏の特徴でもあるスコアリーディングの緻密さや演奏全体の造型の堅牢さ、そして剛毅さを有しているところであり、後年の数々の名演に至る確かな道程にあることを感じることが可能だ。

また、本盤の演奏においては、こうした全体の堅牢な造型や剛毅さはさることながら、金管楽器を最強奏させるなど各フレーズを徹底的に凝縮化させており、スケールの小ささや金管楽器による先鋭的な音色、細部に至るまでの異常な拘りからくるある種の神経質さがいささか気になると言えるところではあるが、それでも違和感を感じさせるほどでもないというのは、ヴァントがブルックナーの本質を既に鷲掴みにしていたからにほかならないと考えられる。

そして、本演奏には、ライヴ録音ならではの畳み掛けていくような気迫と生命力が漲っており、その意味では、ケルン放送交響楽団とのスタジオ録音よりも優れた演奏と言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、世界的なブルックナー指揮者として世に馳せることになる後年の大巨匠ヴァントを予見させるのに十分な素晴らしい名演と高く評価したい。

ヴァントの剛毅で緻密な指揮にしっかりと喰らい付いていき、持ち得る実力を最大限に発揮した名演奏を披露したNHK交響楽団にも大きな拍手を送りたい。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年04月03日


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ハイティンクの円熟を感じさせる素晴らしい名演の登場だ。

ハイティンクは、アシュケナージなどと並んで評価が大きく分かれる指揮者と言えるのではないだろうか。

ハイティンクは、全集マニアとして知られ、さすがにハイドンやモーツァルトの交響曲全集は録音していないが、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、マーラー、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチなど、数多くの作曲家の交響曲全集のスタジオ録音を行ってきているところだ。

既に、80歳を超えた大指揮者であり、近年では全集のスタジオ録音に取り組むことはなくなったが、発売されるライヴ録音は、一部を除いてさすがは大指揮者と思わせるような円熟の名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

本盤に収められたブルックナーの交響曲第8番も、そうした列に連なる素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

ハイティンクは、同曲をコンセルトヘボウ・アムステルダム(1969、1981年)、そしてウィーン・フィル(1995年)とともにスタジオ録音、シュターツカペレ・ドレスデン(2002年)とライヴ録音を行っており、特に、ウィーン・フィルとの演奏については、オーケストラの美演もあって捨てがたい魅力があるが、演奏全体の持つスケールの雄大さや後述の音質面に鑑みれば、本演奏には敵し得ないと言えるのではないだろうか。

ベートーヴェンやマーラーの交響曲の演奏では、今一つ踏み込み不足の感が否めないハイティンクではあるが、ブルックナーの交響曲の演奏では何らの不満を感じさせないと言える。

本演奏においても、ハイティンクは例によって曲想を精緻に、そして丁寧に描き出しているが、スケールは雄渾の極み。

重厚さにおいてもいささかも不足はないが、ブラスセクションなどがいささかも無機的な音を出すことなく、常に奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。

ただならぬ風格に圧倒される第1楽章、金管の咆哮が凶暴なスケルツォ、悠久の時を感じさせるアダージョはやはり絶品で、壮大に締めくくられるフィナーレに至ってはいつまでも忘れがたい印象を残す。

これぞブルックナー演奏の理想像の具現化と言っても過言ではあるまい。

悠揚迫らぬインテンポを基調としているが、時として効果的なテンポの振幅なども織り交ぜるなど、その指揮ぶりはまさに名人芸の域に達していると言ってもいいのではないか。

ハイティンクの確かな統率の下、コンセルトヘボウ・アムステルダムも圧倒的な名演奏を展開しており、とりわけホルンをはじめとしたブラスセクションの優秀さには出色のものがあると言えるだろう。

いずれにしても、本演奏は、現代を代表する大指揮者の1人であるハイティンクによる円熟の名演と高く評価したい。

そして、本盤で素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

音質の鮮明さに加えて、臨場感溢れる音場の広さは見事というほかはなく、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

マルチチャンネルで再生すると、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的であるとすら言えるだろう。

ハイティンクによる素晴らしい名演をSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年03月29日


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ヴァントは、1990年代に入ってブルックナーの交響曲の崇高な超名演を成し遂げることによって真の巨匠に上り詰めるに至ったが、1980年代以前のヴァントがいまだ世界的な巨匠指揮者としての名声を獲得していない壮年期には、たびたび来日して、NHK交響楽団にも客演を行っていたところだ。

本盤に収められたブルックナーの交響曲第4番は、ヴァントが得意中の得意としたレパートリーであり、NHK交響楽団に客演した際のコンサートの貴重な記録でもある。

ヴァントの「第4」では、ベルリン・フィル盤(1998年)、ミュンヘン・フィル盤(2001年)、北ドイツ放送響とのラストレコーディング(2001年)の3点が同格の超名演と高く評価されてしかるべきであろう。

それらに対して、NHK交響楽団を指揮した本盤(1982年ライヴ)の性格はケルン放送交響楽団とのスタジオ録音(1976年)に近いものと言える。

この「第4」は、いわゆるブルックナー指揮者と評される指揮者にとっては、なかなかに難物であるようで、ヨッフムなどは、2度にわたる全集を成し遂げているにもかかわらず、いずれの「第4」の演奏も、他の交響曲と比較すると必ずしも出来がいいとは言い難い。

ヴァントがいまだ世界的なブルックナー指揮者としての名声を獲得していない壮年期の演奏であるだけに、1990年代における神々しいばかりの崇高な名演が誇っていたスケールの大きさや懐の深さはいまだ存在していないと言えるところであり、本盤の演奏を前述の1990年以降の超名演の数々と比較して云々することは容易ではある。

しかしながら、本演奏においても、既にヴァントのブルックナー演奏の特徴でもあるスコアリーディングの緻密さや演奏全体の造型の堅牢さ、そして剛毅さを有しているところであり、後年の数々の名演に至る確かな道程にあることを感じることが可能だ。

また、本盤の演奏においては、こうした全体の堅牢な造型や剛毅さはさることながら、金管楽器を最強奏させるなど各フレーズを徹底的に凝縮化させており、スケールの小ささや金管楽器による先鋭的な音色、細部に至るまでの異常な拘りからくるある種の神経質さがいささか気になると言えるところではあるが、それでも違和感を感じさせるほどでもないというのは、ヴァントがブルックナーの本質を既に鷲掴みにしていたからにほかならないと考えられる。

そして、本演奏には、ライヴ録音ならではの畳み掛けていくような気迫と生命力が漲っており、その意味では、ケルン放送交響楽団とのスタジオ録音よりも優れた演奏と言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、世界的なブルックナー指揮者として世に馳せることになる後年の大巨匠ヴァントを予見させるのに十分な素晴らしい名演と高く評価したい。

ヴァントの剛毅で緻密な指揮にしっかりと喰らい付いていき、持ち得る実力を最大限に発揮した名演奏を披露したNHK交響楽団にも大きな拍手を送りたい。

1970年代から80年代にかけてのNHK交響楽団は一種独特の魅力と迫力があり、相性のいい指揮者と出会うと鬼神もかくやといった豪快な演奏で多くの聴衆を魅了してきた。

今回もまた激烈なヴァントの指揮のもとかつての重厚かつ豪放なN響サウンドが見事に蘇っている。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年03月28日


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2010年2月12日 ミュンヘン・フィルハーモニーに於けるライヴ録音で、ハイティンクの円熟を感じさせる素晴らしい名演だ。

ハイティンクは、アシュケナージなどと並んで評価が大きく分かれる指揮者と言えるのではないだろうか。

ハイティンクは、全集マニアとして知られ、さすがにハイドンやモーツァルトの交響曲全集は録音していないが、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、マーラー、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチなど、数多くの作曲家の交響曲全集のスタジオ録音を行ってきているところだ。

既に、80歳を超えた大指揮者であり、近年では全集のスタジオ録音に取り組むことはなくなったが、発売されるライヴ録音は、一部を除いてさすがは大指揮者と思わせるような円熟の名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

本盤に収められたブルックナーの交響曲第5番も、そうした列に連なる素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

ハイティンクは、同曲をコンセルトヘボウ・アムステルダム(1971年)、そしてウィーン・フィル(1988年)とともにスタジオ録音を行っており、特に、ウィーン・フィルとの演奏については、オーケストラの美演もあって捨てがたい魅力があると言えるが、演奏全体の持つスケールの雄大さや後述の音質面に鑑みれば、本演奏には敵し得ないと言えるのではないだろうか。

ベートーヴェンやマーラーの交響曲の演奏では、今一つ踏み込み不足の感が否めないハイティンクではあるが、ブルックナーの交響曲の演奏では何らの不満を感じさせないと言える。

本演奏においても、ハイティンクは例によって曲想を精緻に、そして丁寧に描き出しているが、スケールは雄渾の極み。

重厚さにおいてもいささかも不足はないが、ブラスセクションなどがいささかも無機的な音を出すことなく、常に奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。

これぞブルックナー演奏の理想像の具現化と言っても過言ではあるまい。

悠揚迫らぬインテンポを基調としているが、時として効果的なテンポの振幅なども織り交ぜるなど、その指揮ぶりはまさに名人芸の域に達していると言ってもいいのではないか。

ハイティンクの確かな統率の下、バイエルン放送交響楽団も圧倒的な名演奏を展開しており、とりわけホルンをはじめとしたブラスセクションの優秀さには出色のものがあると言えるだろう。

いずれにしても、本演奏は、現代を代表する大指揮者の1人であるハイティンクによる円熟の名演と高く評価したい。

そして、本盤で素晴らしいのは、ハイブリッドSACDによる極上の高音質録音であると言えよう。

音質の鮮明さに加えて、臨場感溢れる音場の広さは見事というほかはなく、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

近年ますます、その演奏と解釈に磨きのかかるハイティンクの、息詰まるような緊張感をたたえた感動的な演奏が高音質録音で余すことなく捉えられている。

このようなハイティンクによる素晴らしい名演をSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年03月26日


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チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルによるブルックナーの交響曲集のSACD盤がついに発売された。

本セット盤には、ブルックナーの交響曲第4番、第6番、第7番、第8番が収められており、このうち第8番については、先般、アルトゥスレーベルから同一音源のシングルレイヤーによるSACD盤が発売されており、厳密に言うと、初SACD化は第4番、第6番、第7番の3曲ということになる。

もちろん、本セット盤はハイブリッドSACDであるし、ベルリンのスタジオにてDSDマスタリングが行われていることから、第8番についても、同じ音源によるSACDでも音質の性格はかなり異なるものとなっている。

因みに、EMIから発売されているこのコンビによる通常CD盤では、第4番が1年前の1988年のライヴ録音、第6番は同一音源、第7番は4年後の1994年のライヴ録音、第8番は3年後の1993年のライヴ録音であり、第7番及び第8番については来日時の本盤の演奏の方を高く評価する音楽評論家が多いことなどに鑑みれば、高音質SACD化がなされた本セット盤こそは、チェリビダッケによるブルックナーの交響曲選集の決定盤と言っても過言ではあるまい。

チェリビダッケは生前、自作を除いては自らの演奏のCD化(LP化)を一切禁じていた。

表向きは、実演をCD(LP)では表現し尽くすことができないというのがその理由であったとされるが、ベルリン・フィルの芸術監督に係るフルトヴェングラーの後継者争いで敗退したカラヤンに対する対抗意識も多分にあったのかもしれない。

それ故に、チェリビダッケの演奏を聴くことは実演以外には不可能になったことから、あまたの海賊盤が跋扈するとともに、その存在の神秘性が高まっていくことになった。

我が国にも来日し、その際の演奏がFMでも放送されたことから、一部に熱烈なチェリビダッケファンを生み出したのも記憶に新しいところであるが、殆どのクラシックファンにとっては縁遠い幻の指揮者的な存在であった。

もっとも、チェリビダッケの没後には、遺族の了解を得て、ミュンヘン・フィル(EMI、来日時の演奏についてはアルトゥスやソニー・クラシカルなど)や、さらにそれ以前のシュトゥットガルト放送交響楽団(DG)などとのライヴ録音が相当点数発売されることになり、一般のクラシック音楽ファンでもチェリビダッケの芸術を味わうことができるようになったところだ。

まさに、幻のベールを没後になって漸く脱いだのである。

チェリビダッケは、カラヤンをはじめ同業者への罵詈雑言を浴びせ続けていたが、これは罵詈雑言の対象となった指揮者のファンならずとも、決して気持ちのいいものではなく、このことが現在におけるチェリビダッケに対する評価が二分されている理由であると言えるのかもしれない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢で練習に臨むとともに、かなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであった。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらない。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、ブルックナーの交響曲についても、そうしたことが言えるのではないだろうか。

EMIから発売されている通常CD盤で言うと、第5番、第8番、第9番については、超スローテンポによる演奏は、間延びした曲想の進み方に違和感を感じずにはいられないところであり、熱狂的なチェリビダッケのファンはともかくとして、とても付いていけないと思う聴き手も多いと言えるのではないかと考えられる。

これに対して、第3番や第4番、第6番などは、その極大なスケールに圧倒されるところであり、チェリビダッケだけに可能な個性的な名演と評価し得るのではないかとも思われるところである。

もっとも、EMI盤では違和感を感じさせた第8番も、本セット盤に収められた演奏は、チェリビダッケがこよなく愛した日本でのコンサートのライヴ録音ということもあって、同じく超スローテンポであっても、演奏の密度の濃さもあって冗長さを感じさせないと言えるところであり、必ずしも筆者の好みの演奏ではないが、音のドラマとしては十分に合格点を与えることが可能な名演と評価し得るのではないかと考えられる。

これは、第7番についても同様のことが言えるところであり、これらのことを総合的に勘案すれば、本セット盤は、ブルックナーの交響曲に深い愛着を持ち続けたチェリビダッケがその晩年に到達し得た自らの指揮芸術の集大成とも言うべき名セット盤と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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2015年03月19日


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1984年2月、ベルリン・フィルハーモニーにおけるライヴ録音。

ジュリーニの高潔な音楽性が結晶した趣がある名演奏。

最円熟期のジュリーニの高貴にしてゆたかな芸格を最もよく伝える名演である。

ジュリーニは、特に1980年代のロサンジェルス・フィルの監督を辞めた後からは、非常にテンポの遅い、しかも、粘っこい、いわば粘着質の演奏をすることが多くなったような気がする。

したがって、楽曲の性格によって、こうしたジュリーニのアプローチに符合する曲とそうでない曲が明確に分かれることになった。

ブルックナーの交響曲も、同時期にウィーン・フィルと組んで、「第7」、「第8」及び「第9」をスタジオ録音したが、成功したのは「第9」。

それに対して、「第7」と「第8」は立派な演奏ではあるものの、ジュリーニの遅めのテンポと粘着質の演奏によって、音楽があまり流れない、もたれるような印象を与えることになったのは否めない事実である。

本盤は、1984年の録音であるが、確かに第1楽章など、ウィーン・フィル盤で受けたのと同じようにいささかもたれる印象を受けた。

しかし、第2楽章から少しずつそうした印象が薄れ、そして、素晴らしいのは第3楽章と第4楽章。

ジュリーニの遅めのテンポが決していやではなく、むしろ、深沈とした抒情と重厚な圧倒的な迫力のバランスが見事であり、大変感銘を受けた。

総体として、名演と評価してもいいのではないかと思う。

その要因を突き詰めると、やはり、ベルリン・フィルの超絶的な名演奏ということになるのではなかろうか。

この時期のベルリン・フィルは、カラヤンとの関係が決裂状態にあったが、ベルリン・フィルとしても、カラヤン得意のレパートリーである「第8」で、カラヤンがいなくてもこれだけの演奏が出来るのを天下に示すのだという気迫が、このような鬼気迫るような超絶的名演奏を成し遂げたと言えるのではないか。

そのベルリン・フィルの奥深く澄んだ響きと柔軟で底知れぬ表出力がジュリーニの克明な表現とひとつになって、まことにスケールゆたかな、晴朗な力に漲った演奏を築いている。

最円熟期に差し掛かったこの指揮者が、カラヤン時代の響きと演奏スタイルをとどめていたベルリン・フィルの特質を生かした成果とも言える。

彼らが共通して持っているブルックナー像を基本としながら、それを気高い表現に昇華させたのはジュリーニの手腕に他ならない。

芝居じみた要素は微塵もなく、聴衆の耳に媚びることがないため、とっつきやすい演奏とは言えないが、いったんその世界に入ることが出来ると、その精神世界の虜となるだろう。

北ドイツ的な重厚な響きに陥ることなく、あくまでオーストリアの作曲家ブルックナー本来の音色が守られ、その光が交錯するような色合いもこのうえなく美しい。

しかも、透徹した音楽性と強くしなやかな持続力に貫かれた演奏は、細部まで実に精緻に磨かれており、ベルリン・フィルがそうした表現に絶妙の感覚でこのオーケストラならではの色彩とニュアンスを織りなしている。

この巨大な作品の全体と細部を、明確な光の中に少しの夾雑物も交えることなく、くっきりと表現しつくした、ジュリーニならではの感動的なブルックナーである。

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2015年03月15日


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スクロヴァチェフスキは、今日において現役として活躍している世界最高齢の巨匠指揮者であるが、ブルックナーの交響曲第7番については、DVD作品を含めて、既に4種ものレコーディングを行っているなど、自家薬篭中のものとしているところである。

本演奏は、現時点においては最新の5度目のレコーディングに相当するが、何よりも演奏時間が5種の演奏の中で最も長くなっており、とりわけ、これまで比較的速めのテンポで演奏することが多かった第3楽章及び終楽章のテンポがややゆったりとしたより重厚なものとなっているのが特徴である。

第1楽章は、ゆったりとしたテンポに乗って奏されるチェロの音色が実に美しく、ヴァイオリンのトレモロとのバランスも見事である。

ヴァイオリンから受け渡される低弦によるトレモロの刻み方も味わい深く、この冒頭部分だけでも全体を包み込むような深い呼吸を有したスケール雄大さを誇っており、抗し難い魅力に満ち溢れている。

その後も、各旋律を陰影豊かに美しく歌わせる一方で、各楽器セクションの響かせ方は常に明晰さを保って透明感を確保するなど美しさの極みであり、木管楽器やホルンの音色の1つ1つに意味深さがある。

時として、テンポを落としてフレーズの終わりでリテヌートをかけるなど、音楽の流れに明確な抑揚があるのも素晴らしい。

コーダ直前の底知れぬ深みを感じさせる演奏や、コーダの悠揚迫らぬ堂に入った表現もスケール雄大である。

それにしても、ロンドン・フィルの充実した響きには出色のものがあり、とりわけブラスセクションや木管楽器の優秀さには舌を巻くほどである。

第2楽章は、冒頭のワーグナー・テューバの奥深い響きと弦楽合奏のバランスの良い響かせ方からして惹き込まれてしまう。

ゆったりとしたテンポで、1音1音を確かめるような曲想の運びであり、時には止まりそうになるほどであるが、しみじみとした奥深い情感豊かさは、これまでの4種の演奏を大きく凌駕していると言えるだろう。

同楽章において、一部の指揮者は、全体の造型を弛緩させないために、強弱の変化やアッチェレランドを施して冗長さに陥るのを避けているが、本演奏においては、そのような小細工は一切弄しておらず、あくまでもインテンポを基調とした直球勝負の正攻法のアプローチで一貫しており、我々聴き手は、紡ぎ出される情感豊かな美しい音楽の滔々たる流れにただただ身を委ねるのみである。

例によって、スクロヴァチェフスキは、本演奏においても、ノヴァーク版に依拠しつつ、頂点においては、ティンパニを一発目の強打の後は徐々に音量を絞っていくという独自のバージョンによる演奏を展開しているが、賑々しさを避けているのは本演奏の性格からしても至当である。

その後のワーグナー・テューバやホルンの演奏の意味深さ、フルートの抑揚の付いた吹き方など実に感動的で、いつまでも本演奏が醸し出す奥深い美の世界に浸っていたいと思わせるほどである。

第3楽章は、前後半は、中庸の落ち着いたテンポによる演奏であり、これまでの4種の演奏よりも重厚さが際立っている。

ここでも、ロンドン・フィルのブラスセクションの充実した響きが実に魅力的である。

トリオは、ややテンポを落として情感豊かに歌い上げているが、各フレーズの表情付けの巧さは、もはや神業の領域に達していると言っても過言ではあるまい。

終楽章は、冒頭はやや速めのテンポでひそやかに開始されるが、その後はテンポを落として、落ち着いた足取りによる演奏が展開される。

ブラスセクションと弦楽合奏のバランス良い鳴らし方も巧みであり、重厚さにもいささかも不足はない。

随所においてテンポを落としてホルンによる意味深いコラールを響かせたり、ブラスセクションの咆哮にリテヌートを施したりするなど、これまでの4種の演奏と比較して表情の起伏が大きくなったようにも思われるが、それがむしろ功を奏しており、同曲の弱点でもある終楽章のスケールの小ささを微塵も感じさせないのは見事という他はない。

そして、コーダにおいては、微動だにしない荘重なテンポによる威容に満ちた壮麗なクライマックスを築き上げて圧倒的な高揚のうちに全曲を締め括っている。

なお、演奏終了後の拍手は収録されていない。

いずれにしても、本演奏は、スクロヴァチェフスキの5種ある演奏の中でも最も優れた演奏であり、今後、スクロヴァチェフスキが同曲をレコーディングするか予断は許さないところではあるが、現時点においては、スクロヴァチェフスキによる同曲の演奏の掉尾を飾るのに相応しい至高の超名演と高く評価したいと考える。

音質も、各楽器セクションが明瞭に分離するなど、素晴らしく鮮明なものと評価しておきたい。

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2015年03月14日


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本盤に収められたブルックナーの交響曲第5番(カップリングは、シューベルトの交響曲第8番「未完成」)の演奏は、オットー・クレンペラーがニュー・フィルハーモニア管弦楽団とともに、1967年3月、ロンドンのロイヤルフェスティバルホールにて行ったコンサートのライヴ録音。

クレンペラーによる同曲の演奏のレコーディングとしては、あらゆる意味において完成度の高い同年のスタジオ録音の演奏と、巨大なスケールと剛毅な曲想の運びの中にもウィーン・フィルの美演の魅力、そして実演ならではの気迫や緊張感を有した1968年のウィーン・フィルとの演奏(ライヴ録音)が存在している。

加えて、それら両演奏がステレオ録音であることに鑑みれば、モノラル録音である本演奏は不利な条件にあると言わざるを得ないが、そうした不利な条件などものともしない偉大な名演奏に仕上がっていると言えるところだ。

それにしても、第1楽章の何物にも揺り動かされることのないゆったりとしたテンポによる威容に満ちた曲想の運びを何と表現すればいいのであろうか。

どこをとってもいささかも隙間風の吹かない重厚さと深い呼吸に満ち溢れている。

ブラスセクションの強奏などもややゴツゴツしていて剛毅ささえ感じさせるが、それでいて音楽が停滞することなく滔々と流れていくのが素晴らしい。

第2楽章は、クレンペラーとしては、決して遅すぎないテンポによる演奏であるが、木管楽器の活かし方など実に味わい深いものがあり、厚みのある弦楽合奏の彫りの深さ、格調の高さには出色のものがある。

後半のブラスセクションがやや直線的で武骨さを感じさせるのは好みが分かれると思われるが、いたずらに洗練された無内容な演奏よりはよほど優れていると言えるだろう。

第3楽章は中庸のテンポを基調としているが、ブラスセクションの抉りの凄さや弦楽合奏と木管楽器のいじらしい絡み方など、クレンペラーの個性的かつ崇高な指揮芸術が全開である。

トリオは一転してやや遅めのテンポで味わい深さを演出しているのも実に巧妙である。

終楽章は、第1楽章と同様に悠揚迫らぬ荘重な曲想の展開が際立っており、低弦やティンパニの強靭さ、そして抉りの効いたブラスセクションの咆哮など、凄まじさの限りである。

そして、こうした演奏を基調としつつ、輻輳するフーガを微動だにしない荘重なテンポで明瞭に紐解いていく峻厳とも言うべき指揮芸術には、ただただ圧倒されるほかはなく、コーダの壮大な迫力にはもはや評価する言葉が追い付かないほどだ。

いずれにしても、本演奏は、クレンペラーの偉大な指揮芸術の凄さを堪能することができるとともに、クレンペラーによる同曲の名演とされている同年のスタジオ録音の演奏や、翌年のウィーン・フィルとの演奏と同格の至高の超名演と高く評価したいと考える。

カップリングのシューベルトの交響曲第8番「未完成」の演奏も、木管楽器が活躍する交響曲であることもあってクレンペラー得意のレパートリーであり、翌年のウィーン・フィルとの演奏(ライヴ録音)や、前年のバイエルン放送交響楽団との演奏(ライヴ録音)など、強力なライバルが目白押しである。

もっとも、本演奏は、ブルックナーの交響曲第5番の演奏よりもより鮮明な音質で捉えられていることもあって、音質面においてもそれら両演奏と殆ど遜色がないところであり、悠揚迫らぬ曲想の運び方、木管楽器の絶妙な活かし方、スケールの雄大さなど、これ以上は求め得ないほどの至高の高みに聳えたつ超名演に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

前述の両演奏との優劣の比較は困難を極めるが、筆者としては三者同格の超名演としておきたい。

音質は、前述のようにモノラル録音ではあるが、テープヒスさえ気にならなければ、1967年のライヴ録音にしては比較的聴きやすい良好なものと評価したい(ブルックナーの交響曲第5番については、ピッチが不安定な箇所が散見されるように感じたが、鑑賞には特段の支障はないと思われる)。

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2015年03月13日


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世界的にブルックナー指揮者として高い評価を得ている“ミスターS”ことスクロヴァチェフスキの魅力を堪能できる1枚。

本盤に収められたブルックナーの後期作品は、大曲ゆえに映像タイトルがあまり多くなく、カラヤンとブーレーズのウィーン・フィルとの録音盤(DVD)以降、長らく新タイトルの登場を待ち望んでいた作品であるが、そんな長年の「渇望」を一気に癒してくれたのがこのBlu-ray名盤であった。

まずはライヴ盤だけに演奏に多少のキズはあるものの、日本のオケがここまで完成度の高いブルックナーを披露したことに賞賛を贈りたい。

スクロヴァチェフスキの年齢を考えれば、間違いなく貴重な記録となる作品であるが、それだけにとどまらず、演奏自体も十二分に聴き応えがある。

今や、ドイツものの重厚なシンフォニーに限って言えば、読売日本交響楽団が日本のトップと言って良いかもしれないと思ったほどである。

まさか日本のオケがここまで完璧にブルックナーの神髄に迫る演奏を聴かせてくれるとは、まったく想像すらできなかった。

しかも、録り直しなしの「一発ライヴ録音」でこの演奏水準を出せたということが二重の驚きだ。

日本のオケの演奏技術が向上したというのもあるのだろうが、綿密なリハーサルの積み重ねと共に、指揮者スクロヴァチェフスキの統率力、即ちタクトの力が大きいのであろう。

音響の諸相を明晰に、魔境を鮮烈に「映し出す」驚異の職人芸、あくなき芸術的探究心と覇気を掲げた老匠の指揮に、懸命に応えるオーケストラ。

マエストロの至芸、渾身の演奏、スケール感という、いつもの褒め言葉で事足りるブルックナーではない。

指揮者の精緻な「こだわり」が生きた、壮絶かつ豊穣な音楽づくりであり、ライヴの凄み、ここに極まる、と評したい。

ここに聴く、観るブルックナーは、いずれも音の巨大な塊が押し寄せてくる、モノクロームのブルックナーではなく、巨匠がこれまでの歩みを振り返り、感慨にふけった演奏でもない。

ここぞという場面での、剛毅さ、決然とした運び、創りに驚き、響きの美しき綾に酔いしれる。

そんなスクロヴァチェフスキの秘技をも、カメラは捉えた。

マエストロの好きな言葉「音楽の律動」を目の当たりにすることも出来る、画期的なライヴ映像の誕生だ。

ザールブリュッケン放送交響楽団とのスタジオ録音も良い演奏であったが、今回の演奏はそれを技術と音の美しさで凌ぐ名演中の名演である。

  
加えてBlu-rayならではの映像の美しさ、さらに、奏者を的確に捉える画面構成と、指揮者の解釈をも映像に反映した映像チームの力量は、NHKの番組をも凌駕するものと言えるだろう。

ぜひ来日オケや、サイトウ・キネンなどもこのチームに作って欲しいと願ってしまう。

また、5.1chサラウンドの効果も目覚ましいものがあり、響きも楽しく、がっしりとした低弦群の土台の上に、美しい中高弦楽器群と管楽器のサウンドが重なり、えも言われぬ美しい音の「ピラミッド」が形成される。

演奏時は違和感なく演奏に集中でき、カーテンコールではより臨場感を持って体感することが出来た。

スクロヴァチェフスキが80歳半ばを過ぎてなお、その指揮芸術がますます深化していることを十二分に窺い知ることが可能であると言えるところだ。

また、大曲2曲で1枚ということを考えれば、価格も良心的と言って良いと思う。

スクロヴァチェフスキには、今後とも出来るだけ長生きしていただいて、ブルックナーの交響曲をできるだけ多く演奏・録音して欲しいと思っているクラシック音楽ファンは筆者だけではあるまい。

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2015年03月11日


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「第4」は、クレンペラーとしてはやや速めのインテンポによる演奏であるが、マーラーなどとは異なり、随所に見られる金管のアクセントの強烈さなど、若干の違和感を感じる箇所が散見されることは否めない。

他方、さすがと言えるような感動的な箇所も見られ、その意味で、功罪半ばする演奏ということが言えるかもしれない。

例えば、第3楽章を例にとると、ホルンによる第1主題を明瞭に演奏させているのは大正解であり、演奏によっては、ここを快速テンポで曖昧模糊に吹奏させている例もあり、それでは第3楽章の魅力が台無しになってしまう。

しかし、この第1主題の展開部に向けての盛り上がりがあまりにも大仰、特に、トランペットのアクセントがあまりにも強烈すぎて、朝比奈やヴァントの名演に接してきた者(もちろん、これらの演奏が絶対と言うつもりは毛頭ないが)からすると、どうしても違和感を感じてしまう。

トリオに入ると、テンポを少し落として抒情豊かな至芸を見せるが、ここは実に感動的で、クレンペラーの偉大さを感じる箇所だ。

このように、第3楽章1つをとってみても、評価がなかなか定めにくいのが正直なところである。

しかしながら、1960年代の初めという、ブルックナーがあまり一般に受容されていない時期に、これだけの水準の演奏を成し遂げたのは評価すべきであり、その意味において、本演奏を佳演と評価するには躊躇しない。

クレンペラーのブルックナーは、曲によって相性のいい曲とそうでない曲があるのではないだろうか。

剛毅で微動だにしないインテンポが、例えば、「第4」などの場合、強烈なアクセントなどもあって、若干の違和感を感じさせる演奏であったが、「第5」は、ブルックナーの交響曲の中でも最も男性的な、剛毅な性格の作品であるだけに、クレンペラーの演奏が悪かろうはずがない。

そればかりか、クレンペラーのブルックナーの交響曲の演奏中でも、この「第5」が随一の名演と評価すべきではないだろうか。

どの楽章も重量感溢れる、同曲に相応しい名演であるが、特に高く評価したいのは第3楽章と終楽章。

第3楽章は、まさに巨象の進軍であり、スケールも雄大で、この凄まじい迫力は、同曲に超名演を遺した朝比奈やヴァントと言えども一歩譲るだろう。

終楽章は、第3楽章をさらに上回る巨人の演奏であり、主部の踏みしめるような超スローテンポの演奏は、壮大なスケールであり、これだけのゆったりとしたテンポをとっても、全体的な造型にいささかの揺らぎもないのは、まさに巨匠クレンペラーの晩年の至芸の真骨頂と言えるだろう。

終結部の雄大さには、もはや評価する言葉が追いついてこない。

ブルックナーの「第6」は、壮麗にして剛毅な「第5」と、優美な「第7」に挟まれて、ずいぶんと目立たない存在である。

ブルックナーならではの美しい旋律と重厚さ、つまりは「第5」と「第7」を足して2で割ったような魅力に溢れた交響曲だけに、非常に惜しいことであると思う。

しかし、こうした「第6」の魅力は、ブルックナーを愛する巨匠には十分に伝わっており、ヨッフムや、最近ではヴァントや朝比奈などが、「第6」の素晴らしい名演を遺している。

クレンペラーもそうした「第6」を愛した巨匠の1人と言うことができるだろう。

レッグに、かつて録音を止められたことがあるという、いわくつきの曲でもあるが、それだけクレンペラーが、この「第6」に傾倒していたと言えるのではないだろうか。

演奏の性格は、他の交響曲へのアプローチとほとんど変わりがなく、剛毅にして重厚。

したがって、アクセントなどは相変わらずきついが、それでも、この「第6」の場合は、あまり気にならない。

同時期にヨッフムが「第6」の名演を遺しているが、ヨッフムのロマン派的な演奏とは全く対照的だ。

したがって、第2楽章など、もっと歌ってほしいと思う箇所も散見されるが、この曲の弱点とも言われる第3楽章や終楽章は、重量感溢れる演奏を展開しており、この両楽章については、ヨッフムと言えども太刀打ちできない雄大なスケールを誇っている。

ある意味では、ヴァントの演奏の先触れとも言える側面も有している。

いずれにせよ、本演奏は、クレンペラーの同曲への愛着に満ち溢れた壮麗な名演と評価したい。

剛毅で重厚なクレンペラーのアプローチと、ブルックナーの交響曲中で最も優美な「第7」の取り合わせは、どう見ても、なかなか噛み合わないのではないかと大いに危惧したが、聴き終えてそれは杞憂に終わった。

それどころか、途轍もない名演に仕上がっている。

第1楽章の冒頭からして、深沈たる深みのある演奏であり、随所で聴かれる美しい木管の響かせ方もクレンペラーならではのものだ。

第2楽章も崇高な演奏であり、決して低俗な抒情に流されることなく、格調の高さを失わない点はさすがと言うべきである。

第3楽章は、クレンペラーの剛毅で重厚な芸風に最も符号する楽章であり、テンポといい強弱の付け方といい、文句のつけようのない素晴らしさだ。

終楽章も、踏みしめるようなリズムなど重量感溢れる演奏であり、「第7」の欠点とも言われるスケールの小ささなど微塵も感じられない。

それにしても、クレンペラーが、このような優美な「第7」で名演を成し遂げるというのは実に不思議だ。

メンデルスゾーンの「スコットランド」や「真夏の夜の夢」などで名演を成し遂げたのと同様に、これは指揮界の七不思議と言ってもいいかもしれない。

「第8」は、実に惜しい。

第3楽章までは深みのある超弩級の名演なのに、終楽章に来て大きな問題点が発生する。

クレンペラーは、終楽章に大幅なカットを施しているのだ。

なぜ、このような恣意的な解釈を行うのであろうか。

おそらくは、長過ぎるとか冗長に過ぎると思ったのであろうが、仮にそのように思っていたとすれば、いささかきつい言い方かもしれないが、ブルックナーを指揮する資格はそもそもないとも言えるだろう。

ノヴァーク版が一般化しても、ブルックナーのスコアに記した音符をできるだけ忠実に再現したハース版を変わらずに信奉し続けたヴァントや朝比奈の演奏が高く評価される今日においては、きわめて奇異な解釈と言わざるを得ないだろう。

終楽章冒頭のテンポの入り方も深沈として実に味わい深いのに、大変惜しいことである。

これぞ諺に言う、「百日の説法屁一発」というものではないか。

第3楽章まで聴き終えて、超名演との評価は確実と思っていたのに、愕然とした次第である。

この終楽章のカットは、ブルックナーファンとしては、クレンペラーの偉大さを評価する者としても許しがたいという思いが強い。

クレンペラーのブルックナーでは、「第5」が最も優れた名演だと考えているが、それに次ぐのがこの「第9」だと思う。

というのも、クレンペラーの峻厳にして剛毅な芸風が、ブルックナーの「第5」や「第9」という硬派の交響曲の性格と合致するからだと考えられる。

この「第9」の録音はクレンペラーの死の3年前のものであるが、それだけに、ここにはクレンペラーが到達した至高・至純の境地が示されているとも言えるだろう。

第1楽章は、実に堂々たるインテンポであるが、剛毅にして重厚なアプローチが、これぞブルックナーという深みのある音楽を紐解いていき、時折見られる金管の強奏も、決して無機的には陥っていない。

第2楽章は、重量級の進軍を開始するが、特に、クレンペラーの特徴が表れているのは中間部のトリオの箇所。

ここの木管楽器の活かし方は実に美しく、これは、他の指揮者でもあまり聴かれないだけに貴重な解釈と言えるだろう。

終楽章は、第1楽章と同様のことが言えるが、展開部から、それまでのインテンポから一転して、ドラマティックな演出を試みている。

木管楽器の強調などやり過ぎの感は否めないが、それでも違和感を感じるほどではないのは、クレンペラーの同曲への深い愛着と理解の賜物と言うべきだろう。

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2015年02月27日


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チェリビダッケは生前、自作を除いては自らの演奏のCD化(LP化)を一切禁じていた。

表向きは、実演をCD(LP)では表現尽くすことができないというのがその理由であったとされるが、ベルリン・フィルの芸術監督に係るフルトヴェングラーの後継者争いで敗退したカラヤンに対する対抗意識も多分にあったのかもしれない。

それ故に、チェリビダッケの演奏を聴くことは実演以外には不可能になったことから、あまたの海賊盤が跋扈するとともに、その存在の神秘性が高まっていくことになった。

我が国にも来日し、その際の演奏がFMでも放送されたことから、一部に熱烈なチェリビダッケファンを生み出したのも記憶に新しいところであるが、殆どのクラシックファンにとっては縁遠い幻の指揮者的な存在であった。

もっとも、チェリビダッケの没後には、遺族の了解を得て、ミュンヘン・フィル(EMI)や、さらにそれ以前のシュトゥットガルト放送交響楽団(DG)などとのライヴ録音が相当点数発売されることになり、一般のクラシック音楽ファンでもチェリビダッケの芸術を味わうことができるようになったところだ。

まさに、幻のベールを没後になって漸く脱いだのである。

チェリビダッケは、カラヤンをはじめ同業者への罵詈雑言を浴びせ続けていたが、これは罵詈雑言の対象となった指揮者のファンならずとも、決して気持ちのいいものではなく、このことが現在におけるチェリビダッケに対する評価が二分されている理由であると言えるのかもしれない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであった。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらない。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、本盤に収められたブルックナーの交響曲集についても、そうしたことが言えるのではないだろうか。

特に、第5番、第8番、第9番の超スローテンポによる演奏は、間延びした曲想の進み方に違和感を感じずにはいられないところであり、熱狂的なチェリビダッケのファンはともかくとして、とても付いていけないと思う聴き手も多いと言えるのではないだろうか。

他方、第3番や第6番などは、その極大なスケールに圧倒されるところであり、チェリビダッケだけに可能な個性的な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

このように、功罪相半ばする交響曲集であると言えるところであるが、チェリビダッケの最晩年の芸風を満喫することができることや、信じ難いような廉価であることを鑑みれば、充分に推薦に値するBOXではないかと考える。

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2015年02月26日


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ムラヴィンスキーは、ブルックナーの後期3大交響曲のCDを遺しているが、この3大交響曲の中で、その眼光紙背に徹した峻厳な芸風から、もっとも、ムラヴィンスキーに向いているのは「第9」と言えるのではなかろうか。

どの作品に於いても客観性が重視されるムラヴィンスキーの演奏だが、オルガン的発想から育まれたブルックナーの作品にさしものムラヴィンスキーも悪戦苦闘(版の問題、手法は違えど、朝比奈やヴァントもそうだったのだから当然かもしれない)ぶりも否めないが故に、彼の十八番と言える名盤に見られない彼の個性が随所に見られた本作品。

ムラヴィンスキー晩年の悠揚迫らぬブルックナーであるが、とにかく最初から最後まで峻烈で厳しい演奏と言えるところであり、分厚い弦楽器のトレモロの上に堂々と響きわたる金管群の咆哮が凄まじい。

謹厳な顔からは想像もつかない天真爛漫なスケルツォや終楽章の深い沈潜には、巨匠が到達した孤高の境地がうかがえるようだ。

もちろん、朝比奈やヴァント、そしてかつてのシューリヒトなどの名演に接した者にしてみれば、本盤の演奏は、やや特異な印象を受けるというのが正直なところだ。

第1楽章の終結部のあまり品のいいとは言えないトランペットのヴィブラートや、終楽章の金管楽器による叩きつけるような最強奏などにはどうしても違和感を感じるし、特に後者については無機的にさえ聴こえるほどだ。

木管楽器、特にクラリネットやオーボエの抑揚のない直線的な奏し方も、いかにもロシア的な奏法なのであろうが、ブルックナーの演奏としてはいかがなものであろうか。

終楽章のホルンの柔らかいヴィブラートも、いささか場違いな印象を与える。

しかしながら、こうしたブルックナーの交響曲の演奏スタイルからすると、決してプラスにはならない演奏を行っているレニングラード・フィルを、ムラヴィンスキーは見事に統率し、総体としてムラヴィンスキーならではの個性的な名演を仕上げた点を高く評価したい。

相当な練習を繰り返したことも十分に想像できるところであり、後日談によれば、練習には通常よりも多く時間が取られたらしいが、本人にしてみれば「まだまだ満足出来ない、時間も足りない。」と思われただろう。

自己満足に陥らない作曲者及び作品への畏敬の念がそう物語っている。

前述のように、いわゆる正統派のブルックナー演奏ではなく、あくまでも、ムラヴィンスキーの個の世界にあるブルックナー演奏と言えると思われるが、それでもこれだけ、ムラヴィンスキーの厳格なスコアリーディングに基づく個性的な解釈と、オーケストラに対する卓越した統率力を堪能させてくれれば文句は言えまい。

ムラヴィンスキーという大指揮者の底知れぬ恐ろしさと難しさ、そして深さを感じずにはいられない。

さらにシングルレイヤーによるSACD化により、見違えるような音質に仕上がり、その音質の素晴らしさゆえにムラヴィンスキーのヴァイオリン両翼配置の美しさと強力な金管、浮きあがる木管など実に美しくしかも克明に再現されるのは、素晴らしいの一言である。

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はじめに、筆者は、必ずしもチェリビダッケの良い聴き手ではないということを告白しておかなければならない。

同業他者への罵詈雑言の数々、生前に録音を殆ど許可しなかった(海賊盤しか手に入らなかった)という異常なまでのこだわり、そして、あのハリー・ポッターのマルフォイをそのまま大人にしたような傲岸不遜な風貌も相俟って、どうもチェリビダッケには、胡散臭さを感じていたというのが正直なところだ。

チェリビダッケの没後、ようやく少なからぬライヴ録音が発売されたが、正直言って玉石混交。

あの異常なまでのスローテンポに(すべてとは言わないが)、どうしても必然性が感じられなかった。

チェリビダッケのファンからすれば、聴く耳がないと怒られそうだが、人それぞれに好みや感じ方があるので、それはそれで仕方がないのではないかと思っている次第だ。

しかしながら、数年前に発売された、来日時のブルックナーの「第5」を聴いて、歳をとったせいで丸くなったという面も無きにしも非ずだが、ようやく、チェリビダッケの芸術というものへの理解が少し出来たような気がした。

そして聴いた本盤の「第8」。

確かに、常識はずれのスローテンポではあるが、少なくとも、かつて海賊盤で聴いたミュンヘン・フィルとのライヴ録音の時のようにもたれるというようなことはなく、心行くまで演奏を堪能することができた。

チェリビダッケのブルックナー演奏の性格を一言で言えば、光彩陸離たる豊穣さと言えるのではないか。

どこをとっても隙間風の吹かない重厚さ、壮麗さが支配しており、どんなに金管楽器を最強奏させても、無機的には陥らない。

それでいて、抒情的な箇所の最弱音も、いわゆる痩せたりするということは皆無であり、常に意味のある高踏的な音が鳴り切っている。

これぞ、究極のオーケストラ演奏と高く評価したい。

確かに、通例のブルックナーの演奏からすれば異端とも言えるところであり、これは、あくまでもチェリビダッケの個の世界にあるブルックナーということになるのかもしれない。

それ故に、かつての筆者のように抵抗感を示す聴き手もいるとは思うが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。

その超スローなテンポにも入りきらないほどにぎっしりと詰まったメッセージがあり、一瞬の輝きが連なってこそ音楽が生命を持っており、だからこそ細部に執着するのだ。

個と汎の有機的な融合、瞬間と連続が繰り返すチェリビダッケ独自の世界に、もう名演かどうかなど関係ない。

ここにはチェリビダッケが引き起こす音と響きの{出来事}に立ち会うことの幸せがあり、ブルックナーという原石を徹底的にチェリの作法で磨いた作品なのだ。

交響曲史の頂点、とチェリビダッケも語る、怒り、神への栄光を掴み取り、獲得してしまうまでの長い道程、そして鍛え抜かれたミュンヘン・フィルのアンサンブルが、見事に応える。

ペーター・ザドロの強烈なティンパニ、本当に人間が吹いているのだろうかと驚かされる金管群のスタミナなど、圧倒的だ。

ブルックナーが完成させた中でも最も長大な曲に対して、それを上回るような高い精神性で挑むチェリビダッケの崇高な姿がここにある。

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