モーツァルト

2017年01月06日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



フリッチャイ&ベルリン放送交響楽団によって1958年にステレオ録音されたモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』全曲盤。

彼の劇場作品への自在に変化する柔軟な指揮法が素晴らしく、歌手達に充分に演じさせながらオーケストラには劇的なアクセントを与えて、テンションを最後まで落とすことのない引き締まったオペラに仕上げている。

フリッチャイがこの作品にどのような構想を持っていたかは知る由もない。

確かにイタリア語で書かれたリブレットはセリフのない叙唱とアリア及び重唱で織り成し、モーツァルト自身ドランマ・ジョコーソと記しているが、牧歌的な愛憎劇というより、むしろ『後宮』や『魔笛』と同一線上に置かれたジングシュピール的な明確な縁取りを持った、個性的な音楽劇に仕上がっている。

それだけにイタリア式の流麗なカンタービレを強調するよりも役柄を的確に描き分けて、それぞれの場面を迅速に活写するスタイルが印象的だ。

いずれにしても他のどの指揮者にも真似のできない独自の『ドン・ジョヴァンニ』を開拓していて、一聴の価値を持っていることは認めざるを得ない。

タイトルロールにはフリッチャイからその才能を見出されたフィッシャー=ディースカウを起用しているところも聴きどころだが、放埓なプレイボーイのスペイン貴族が学者肌の優等生に感じられなくもない。

彼の歌唱は非の打ちどころがないほど演劇的な裏付けがあるし、音楽的にも完璧にコントロールされていることは納得できる。

しかし一方でドン・オッターヴィオ役のへフリガーの宗教曲の権威としてのイメージと、いくらか軽佻浮薄なやさ男ドン・オッターヴィオの性格がマッチせず、勿論真摯な熱演なのだが甘美な軽さが望めないのがいささか残念だと言えなくもない。

女声陣も豪華メンバーによるキャスティングで、モーツァルトによって見事に描き出された役柄をそれぞれが巧みに演じている。

ドンナ・エルヴィーラ役のシュターダーはその強くも脆い性格を良く掴んでいるし、ドンナ・アンナを演じるユリナッチの毅然とした歌唱は騎士長の娘としての存在感を高めた好演だが、ゼーフリートの歌うツェルリーナには世間知らずの純粋さよりも、もう少しちゃっかりしたセクシュアルな表現があっても良かったと思う。

分離状態の極めて良いステレオ録音で、臨場感にも不足していない。

特に歌手陣の声の生々しさに当時のエンジニア達のレコーディングに賭けた意気込みが感じられる。

尚このセッションはフリッチャイのコンプリート・エディション第2巻声楽作品集にも組み込まれていて、その短かった音楽活動において驚異的とも言える質と量の劇場作品を録音し、オペラ指揮者としても面目躍如の能力と手際の良さを示している。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 23:29コメント(0)トラックバック(0) 

2016年12月28日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



1959年にカルロ=マリア・ジュリーニが当時全盛期だったフィルハーモニア管弦楽団を振ったモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の名盤は、ウィーンのバリトン、エーベルハルト・ヴェヒターをタイトル・ロールに起用し、レポレロにも老巧なところを見せるバリトンのジュゼッペ・タデイを配しているところに特徴がある。

それ以前の全曲録音ではフルトヴェングラー&ウィーン・フィルによる1954年のザルツブルク音楽祭のライヴが、バス歌手による同オペラの最高峰に値する重厚な演奏で、イタリアのバス、チェーザレ・シエピの高貴な歌唱と名演技が忘れ難いが、ジュリーニは敢えてバスは騎士長のフリックだけに留めて、より軽妙洒脱なドラマ・ジョコーサに仕上げている。

勿論女声陣もドンナ・エルヴィーラにシュヴァルツコップ、ドンナ・アンナにサザーランド、ツェルリーナにはシュッティなど芸達者な歌手が揃っているし、ドン・オッターヴィオはルイジ・アルヴァ、マゼットは若き日のカップッチッリという魅力的な顔ぶれによる超豪華キャスティングである。

ヴェヒターの若々しい情熱を持って歌い切って輝かしく、貴族然とした歌唱はスケールこそ大きくないが無難なまとめで、言ってみれば等身大の新派的なドン・ジョヴァンニを演じて好感が持てるし、演技の巧妙さも髣髴とさせる。

円熟の極にあったシュヴァルツコップは文字通りの力演で、女心の複雑な心理をよく歌い分け、流石と納得させられる。

シュッティは透明な声に加え聡明な歌いぶりで魅了し、サザーランドも素晴らしい声で豊かな音楽性を感じさせる。

またジュリー二の指導の成果と思われるイタリア語のレチタティーヴォの発音とそのニュアンスの多様な表現をキャスト全員が巧みにこなしているプロ意識も流石で、快いムードが全篇を包んでいる。

こうした番号制のオペラではストーリーの展開を手際良く進め、それぞれの役柄を明確に表出するために欠かせない唱法だが、イタリア人以外の歌手も完璧に習得して指揮者の要求に見事に応えている。

ジュリーニは1970年代に入るとオペラ界から次第に手を引いていき、メトロポリタン歌劇場からの招聘も断わり続けた。

その理由のひとつは、忙しく世界中のオペラ・ハウスを移動して歌いまくるために声が荒れて質の落ちた歌手と、短時間に制限されたやっつけ仕事で仕上げなければならない稽古では、彼の理想とする舞台を創り上げることが困難だと感じたからだ。

それは辛辣だが真摯に音楽に奉仕する指揮者としてのポリシーを曲げない信念を示した選択だった。

これだけオペラに造詣が深く経験豊かなベテラン指揮者を失ってしまったことは、オペラ界にとっても大きな損失だったに違いない。

既にCD−ROM付のリマスタリング盤がリリースされていたが、こちらはイタリア語リブレットと独、英、仏語対訳を印刷したブックレットをつけたコレクション仕様になっている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:33コメント(0)トラックバック(0) 

2016年12月09日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ドイツの女流ヴァイオリニスト、イザベル・ファウストが挑んだモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集で、彼女の颯爽たる感性とキレの良いテクニックが冴え渡ったフレッシュで軽妙洒脱なアルバムに仕上がっている。

近年ではオーケストラを含めたメンバー全員がピリオド楽器で演奏した同全集もリリースされるようになったが、実際にはそれほど多くなくカルミニョーラ&イル・クァルテットーネやツェートマイアー&ブリュッヘン盤以来の久々の企画になる。

オーケストラはピリオド・アンサンブルの吟遊詩人とも言えるジョヴァンニ・アントニーニ率いるイル・ジャルディーノ・アルモニコだが、意外にも抑制を効かせた整然としたサポートがソロを引き立て、また第3番第2楽章やアダージョホ長調に代表されるイタリア式カンタービレも美しい。

おそらく唯一の例外は第5番終楽章のトリオ、トルコ行進曲での激しい応酬だろう。

ファウストもソロのスタンド・プレイを避け、オーケストラとの関係を緊密にすることで両者のバランスが絶妙に保たれている。

この2枚のCDには真作とされる5曲の協奏曲、変ロ長調とハ長調の2曲のロンド及びアダージョホ長調の8曲が収録されている。

モーツァルト自身によって書かれたヴァイオリン・ソロ用のカデンツァは遺されていないので、ソリストは必然的に既作のものを選択するか新しく創作することが求められる。

この演奏に採用されたそれぞれのカデンツァは、音楽学者でピリオド鍵盤楽器奏者のアンドレアス・シュタイアーが彼女のために書き下ろしたものだ。

短いながら曲中のテーマやモチーフを巧みに使ったパッセージや対位法的なもの、あるいはピチカートを効果的に取り入れるなど、彼の多様で機知に富んだセンスが凝縮された小気味良さが特徴だ。

アダージョホ長調では鳥の鳴き声さえ模倣しているが、勿論カデンツァが突出して一人歩きしないように、あくまでも古典派の音楽としての一貫したポリシーが貫かれている。

昨年2015年3月から今年の2月にかけてベルリンで収録されたもので、録音レベルがやや低いようだがボリュームを上げることで鮮明な音質を堪能できる。

3面折りたたみのデジパック入りで、ライナー・ノーツにはトラック・リスト及び英、仏、独語の解説の他にこの録音に参加したメンバー全員のリストと彼らの使用楽器が明記されている。

イザベル・ファウスト自身は1704年製のストラディヴァリウス『スリーピング・ビューティー:眠れる美女』を弾いていて、この名器はバーデン−ヴュルテンベルクL−Bankから彼女に貸与されているようだ。

明るく朗々とした音色と気品のある響きはモーツァルトの演奏には願ってもない楽器と言える。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:31コメント(0)トラックバック(0) 

2016年10月12日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ベームは、ワルターと同じく終生に渡ってモーツァルトの音楽に傾倒し、深く敬愛していた指揮者であった。

ベルリン・フィルと成し遂げた交響曲全集(1959〜1968年)や、バックハウスやポリーニと組んで演奏したピアノ協奏曲の数々、ウィーン・フィルやベルリン・フィルのトップ奏者との各種協奏曲、そして様々なオペラなど、その膨大な録音は、ベームのディスコグラフィの枢要を占めるものであると言っても過言ではあるまい。

そのようなベームも晩年になって、ウィーン・フィルとの2度目の交響曲全集の録音を開始することになった。

しかしながら、有名な6曲(第29、35、38〜41番)を録音したところで、この世を去ることになってしまい、結局は2度目の全集完成を果たすことができなかったところである。

ところで、このウィーン・フィルとの演奏の評価が不当に低いというか、今や殆ど顧みられない存在となりつつあるのはいかがなものであろうか。

ベルリン・フィルとの全集、特に主要な6曲(第35、36、38〜41番)については、リマスタリングが何度も繰り返されるとともに、とりわけ第40番及び第41番についてはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化もされているにもかかわらず、ウィーン・フィルとの録音は、リマスタリングされるどころか、国内盤は一時廃盤の憂き目に陥ったという極めて嘆かわしい現状にある。

確かに、本盤に収められた第40番及び第41番の演奏については、ベルリン・フィルとの演奏(1961年)と比較すると、ベームならではの躍動感溢れるリズムが硬直化し、ひどく重々しい演奏になっている。

ベームの指揮の一大特徴であるリズムの生気は、典雅な柔らか味をこえて、しばしば鋭い鋭さを示していて、モーツァルトの交響曲に存在している高貴にして優美な愉悦性が著しく損なわれているのは事実である。

しかしながら、一聴すると武骨とも言えるような各フレーズから滲み出してくる奥行きのある情感は、人生の辛酸を舐め尽くした老巨匠だけが描出し得る諦観や枯淡の味わいに満たされていると言えるところであり、その神々しいまでの崇高さにおいては、ベルリン・フィルとの演奏をはるかに凌駕している。

感傷的な流れに陥らず、楽曲のもつ構成的な美しさを引き出しているところが見事であり、響きの色彩の具合も単純明快で、情感的世界に結びつき易い色合いを強く制している。

また、かつてのようないかめしさが影をひそめ、しなやかな表情を強く表出しているのが特徴で、長年慣れ親しんだウィーン・フィルを、なごやかに指揮しているといった感じがよく出ていて、両曲ともこのオケ固有のオーボエとホルンの音が有効に使われている。

また、この2曲で特に目立つのはテンポの設定と楽想のリズム的および歌謡的性格とをはっきりと打ち出そうとしていることで、徹底的に美のありかを追究して何かをいつも発見してゆくベームの指揮は、やはり厳しさと鋭さの点で強く打つものがあり、多少流れの自然さを失うところがあってもなおモーツァルトの強靭な楽想発明力に関して納得させるところが大きい。

いずれにしても、総体としてはベルリン・フィル盤の方がより優れた名演と言えるが、本演奏の前述のような奥行きのある味わい深さ、峻厳さ、崇高さにも抗し難い魅力があり、本演奏をベームの最晩年を代表する名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 23:57コメント(0)トラックバック(0) 

2016年09月28日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



既に巨匠の域に達していたクラウディオ・アバドが2004年に自ら設立した若手演奏家で構成されたオーケストラ、モーツァルト管弦楽団を率いてこの作曲家の交響曲や協奏曲を晩年の数年間に集中的に録音している。

円熟期の彼が若い音楽家を相手にモーツァルトを仕込んでいく仕事は、後進の育成という意味ではひとつの理想的な姿と言えるだろう。

何故なら古典の基本であるモーツァルトの演奏技術の習得が、その他のあらゆる作曲家の作品の演奏に応用できるとされているからだ。

2005年と2006年のライヴからのこの録音では交響曲第35番ニ長調『ハフナー』、同第29番イ長調、同第33番変ロ長調、同第38番ニ長調『プラハ』及び第41番ハ長調『ジュピター』の5曲が2枚のCDに収められている。

尚2008年、2009年録音分の第39番変ホ長調と第40番ト短調も既にリリースされている。

これまでの欧米の名立たるオーケストラとの協演と基本的に異なっている点は、彼がピリオド奏法を取り入れていることだ。

彼自身が組織したこのオーケストラの目的のひとつは先に述べた後進の育成だが、またもうひとつのアバドの構想は音楽の原点に戻ってモーツァルトの作品をもう一度見直すことによって、晩年の彼の音楽観の変化の具体的な集大成を試みることではなかろうか。

それにはウィーン・フィルでもベルリン・フィルでもない、細部まで自分の意向を忠実に追って再現してくれるオーケストラが必要であり、大指揮者や歴史的なオーケストラの権威や慣習とは直接関わり合いの無い新進気鋭の彼らを使って、純粋な音楽の喜びを体現することに腐心できるという彼の矜持がある筈だ。

全体的な印象は、明るく軽快な響きを創造する手法は以前と少しも変わらないが、よりシンプルで言ってみれば風通しの良い音楽作りに徹していることだ。

それを支えているのがピリオド奏法で、ヴィブラートを最小限に抑え、音価を必要以上に引き伸ばさず小気味良い歯切れの良さを活かしている。

特に大作『ジュピター』では厚化粧を捨て去って意外なほど軽妙な感覚が貫かれていて、結果的にモーツァルトのオーケストレーションがガラス張りになって見えてくる。

ことさら重厚でもなければもったいぶったところもないが、アバドのきめ細かな指示が隅々まで行き届いていて、モーツァルトを愛する人にはその明快さゆえに広く受け入れられるに違いない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 01:59コメント(0)トラックバック(0) 

2016年09月13日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ダヴィッド・オイストラフは晩年にヨーロッパを代表するオーケストラを自ら指揮した演奏を少なからず録音していて、この3枚組もベルリン・フィルを弾き振りしたモーツァルトの協奏曲集になる。

真作とされる5曲のヴァイオリン協奏曲とヴィオラが加わる協奏交響曲変ホ長調及びコンチェルトーネハ長調、更に断片として遺されているロンド2曲とアダージョホ長調を収録している。

つまりモーツァルトが作曲したオーケストラ付のソロ・ヴァイオリンのための作品全集ということになる。

それらにはオイストラフ円熟期の端正だがバイタリティーに溢れた音楽観が示されていると同時に、彼の晩年の精力的な演奏活動の記録でもある。

ちなみに彼の最晩年のセッションを飾っているのもパウル・バドゥラ=スコダと組んだモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集で、オイストラフが音楽の故郷としてモーツァルトに帰っていたことが想像される。

それだけに奇を衒ったところのないシンプルな解釈の中に、磨き上げられた音楽性とテクニックが光っていて、モーツァルト・ファンにとっても模範的なサンプルとして欠かせない曲集だろう。

ベルリン・フィルと刺激しあい、協調しあった新鮮な演奏で、名高い第3番から第5番はもちろんのこと、初期の第1番、第2番も豊饒そのもの。

ベルリン・フィルのようにアンサンブルにも超一流の腕を持つオーケストラは、指揮者が不在でも破綻なく高水準の合奏をすることが可能だが、モーツァルトではむしろ抑制を利かせることが要求される。

そのあたりのオイストラフのサジェスチョンを心得たダイナミズムも巧妙だが、個人的にはもう少し小ぢんまりまとめても良かったと思う。

しかしそれぞれの主題提示部での精彩に富んだ生き生きとした表現や、第3番の緩徐楽章でのヴァイオリンのカンタービレを支える抒情の豊かさも聴きどころのひとつだ。

協奏交響曲のヴィオラ・パート及びコンチェルトーネの第2ヴァイオリンは彼の息子イーゴリ・オイストラフが担当していて、バランスのとれたデュエットを披露しているが、正直言って父親の器量には一歩も二歩も譲っている。

尚ここに収められたモーツァルトのヴァイオリンを含む総ての協奏曲とオーケストラ伴奏付のソロ・ヴァイオリンのための小品は、以前にEMIからリリースされたオイストラフのコンプリート録音集にも全曲含まれていて、実際にはその全集の中からCD9−11の3枚をピックアップしたのがこのセットになる。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:31コメント(0)トラックバック(0) 

2016年08月10日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



この5枚組セットは、最後のホルン協奏曲集のみが1992年から93年にかけての比較的新しいセッションで、ブルーノ・ヴァイル指揮、アブ・コスターのソロ、そしてカナダのピリオド楽器使用の室内アンサンブル、ターフェルムジーク・バロック・オーケストラの演奏だが、それ以外の4枚は総て1970年代初頭に録音されたフランス・ブリュッヘン指揮、アムステルダム・モーツァルト・アンサンブルの協演になる。

一連のソニー・ヴィヴァルテ廉価盤セット物のひとつで、ピリオド楽器による演奏の歴史を辿る上ではそれぞれが一時代を画したものであることには違いないし、この頃のブリュッヘンの芸風を振り返って鑑賞するのも一興だ。

強いて難点を挙げるなら、CD3−4でのトラヴェルソのソロ・パートを受け持つフランス・フェスターの奏法が他の協演者に比べて浮いてしまっている。

これらの曲が録音された1971年から72年といえば古楽復興の黎明期でもあり、まだ古楽器奏法の基礎も確立されておらず、演奏者たちが手探りの状態で研究していた時期であっただろう。

それゆえフェスターの演奏は過渡的な解釈として貴重なサンプルかも知れないが、今改めて聴き直してみると、そのヴィブラートを不断にかけたロマン派的フレージングはいかにも不自然だ。

それがかえってトラヴェルソを使っているだけに中途半端で耳障りな印象を与えているのが残念だ。

彼は学者としてはユニークな研究者で、その著書のひとつ『18世紀のフルート音楽』は笛のための古いレパートリーを調べるときに重宝している。

しかしこのセッションに関してはもはや過去のもので、より徹底したピリオド奏法を習得した他の奏者の演奏を聴くことが望ましい。

一方ヴァイオリン協奏曲集はヤープ・シュレーダーの瑞々しいソロに好感が持てる。

奏法も現在普及しているピリオド奏法にかなり近いもので、違和感なく概ね納得できるものだし、古典派的な節度と形式感も良く表現されている。

また彼を支えているアムステルダム・モーツァルト・アンサンブルのメンバーにはシギスヴァルト・クイケンを始めとする当時の精鋭が参加しているのも頼もしい。

しかしこのセットのセールス・ポイントは何と言ってもホルン協奏曲集だろう。

録音年代も一番新しく、またそれだけに良好な音質で鑑賞できるが、特にナチュラル・ホルンを巧みに演奏するコスターの至芸が聴きどころだ。

当然モーツァルトの時代のホルンはバルブ操作の機能が付いていない、管を巻いただけの楽器だったが、ここで頻繁に聴かれるゲシュトップの音はその奏法の複雑さが窺われて興味深い。

ナチュラル・ホルンを使ったモーツァルトの演奏例自体それほど多くなく、また音楽的にも洗練された模範的なセッションだ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:01コメント(0)トラックバック(0) 

2016年03月23日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



薫り高いドイツ音楽の王道をバックボーンにもつ名匠ブロムシュテットと名門シュターツカペレ・ドレスデンによる名盤の誉れ高いディスク。

モーツァルト後期の傑作交響曲のカップリングであるが、いずれも素晴らしい名演だ。

夕映えのようなモーツァルトを奏でさせたら天下一品として、ウィーン・フィルの好敵手のように讃えられてきた400年以上の伝統を誇るシュターツカペレ・ドレスデンによる極上のモーツァルト演奏である。

その音色だけで魅了されてしまうと絶賛された、モーツァルトの交響曲の最初に聴きたい最右翼盤と言えよう。

ブロムシュテットによる本演奏に、何か特別な個性があるわけではない。

奇を衒ったり、意表を突くような余計な装飾は一切無い、オーソドックスな演奏ではあるが、このオケの美しい音色をブロムシュテットは丁寧に引き出してくれる。

テンポも、楽器の鳴らし方も、全てが標準的と言えるが、このオーケストラの音色、アンサンブルは比類のないものであり、ここでもまるで指揮者なしのような、自然で癖のない音楽運びが、繰り返し聴きたくなる演奏の秘密であろう。

ブロムシュテットは、第40番においては、地に足がついたゆったりした荘重なインテンポで、重厚すぎると感じられる部分もあるが、この交響曲にある悲愴美を余計なことをしないで自然に引き出しているのが良い。

とりわけ有名な第1楽章第1主題の歌は胸に突き刺さる。

第41番「ジュピター」においても、ゆったりとしたテンポを基本にしたスケールの大きい演奏で、愚直に楽想を進めていくのみである。

19世紀的なモーツァルト観の現代版とも言えるロマンティックなものだが、表現自体は丁寧かつ自然な流れがあるので説得力がある。

モダン・オーケストラでならこのような解釈もこの交響曲の魅力の1つとして十分に楽しめる。

ブロムシュテットは、自己の解釈をひけらかすようなことは一切せずに、楽曲の魅力をダイレクトに聴き手に伝えることのみに腐心しているようにも感じられる。

これは、作品にのみ語らせる演奏ということができるだろう。

それでも、演奏全体から漂ってくる気品と格調の高さは、ブロムシュテットの指揮による力も多分に大きいものと考える。

ブロムシュテットとシュターツカペレ・ドレスデンの落ち着きのある演奏は、その爽やかで端正な音楽の流れが何ともすがすがしく、聴いていて心の安らぎを覚えるようである。

いずれにしても、モーツァルトの第40番や第41番「ジュピター」の魅力を深い呼吸の下に安心して味わうことができるという意味においては、トップの座を争う名演と言っても過言ではないと思われる。

こうした作品のみに語らせるアプローチは、時として没個性的で、無味乾燥な演奏に陥ってしまう危険性がないとは言えないが、シュターツカペレ・ドレスデンによるいぶし銀とも評すべき滋味溢れる重厚な音色が、演奏内容に味わい深さと潤いを与えている点も見過ごしてはならない。

刺激的な演奏、個性的な演奏も時には良いが、こうした何度聴いても嫌にならないどころか、ますます好きになって行く演奏、オーケストラの響きの素晴らしさに感心させられるばかりの演奏は他になかなかない。

適切なテンポで噛み締めるように演奏し、モーツァルトの個人的な情感を表現したというよりも交響曲としての陰影を克明に描いていると言えるものだが、心の中に自然としみ込んでくる演奏である。

しかし、これほどの演奏をするのは並大抵のことではない。

ここにブロムシュテットの音楽家としての力量と敬虔なクリスチャンである彼の作品に対する奉仕の姿勢がはっきりと読み取れるのではないだろうか。

表面の華麗さや古楽器などの面白味のあるモーツァルトとは正反対のモーツァルトであるが、誰が聴いても納得のいく普遍性を持つ演奏である。

残響の豊かなドレスデンのルカ教会における高音質録音もきわめて優秀であり、Blu-spec-CD化によって、さらに音場が拡がるとともに、音質により一層の鮮明さを増した点も高く評価したい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:05コメント(0)トラックバック(0) 

2016年03月03日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



モーツァルトの6曲ある弦楽五重奏曲は粒揃いだが、その中で、最も人気のある第3番と第4番をカップリングしたもので、演奏や録音も含めすべての面で次元の高い名盤と高く評価したい。

評論家の小林秀雄氏によって「モォツアルトの悲しさは疾走する」と評された弦楽五重奏第4番を含むアルバムである。

弦楽五重奏曲の第3番、第4番は、交響曲第40番、41番の関係に比較されることも多い、同時期作曲の楽曲で、第40、41番同様、かたや雄大で重厚、かたや哀感ある曲になっているが、これらの曲を、名門スメタナ四重奏団は、名手スークを迎え、その重厚感、哀感を見事に再現していて素晴らしい。

円熟期のスメタナ四重奏団と名手スークによる同曲の決定盤と言えるところであり、室内楽ファンを魅了してやまないアルバムと言えよう。

何よりも、スメタナ四重奏団の自然体ですっきりとした非常に端正な演奏が、これらの楽曲の楽想に見事にマッチングし、精緻を極めたアンサンブルと美しくおおらかな表現が秀逸。

ゆったりとした気持ちで、モーツァルトの素晴らしい音楽の魅力をダイレクトに味わうことができるのが素晴らしい。

第3番では作曲家天性の晴朗さが彼らの落ち着いたテンポ設定によって古典派特有の形式美を伴って再現され、意味の無い感情表出に拘泥しない極めて透明度の高い演奏だ。

一方第4番はモーツァルトにとって意味深い調性ト短調で書かれているが、ここでも彼らのアプローチは決して憂愁に媚びるものではなく、むしろ明るく艶やかな音色を生かして流麗な曲想をダイレクトに辿っている。

しかしその解釈は言葉では言い尽くせないほど懐が深いために、かえってモーツァルトの内面的な音楽性を浮かび上がらせることに成功しているのも事実だ。

もちろん、スメタナ四重奏団の演奏には、例えば最近解散したアルバン・ベルク四重奏団や今をときめくカルミナ四重奏団のような強烈な個性などは感じられないが、各奏者のハーモニーの調和においては、他のいかなる四重奏団をも凌駕し、第1ヴィオラを弾いたスークの名演奏も含め、極上の美演を披露、彼らのモーツァルトの弦楽五重奏曲集は素晴らしいの一語に尽きる。

弦楽五重奏曲を演奏する喜びが、これほどまでに音化されている例はほかにもあまりなく、これぞ室内楽曲の至高・至純の芸術美と言えよう。

録音も、通常盤でもかなりの高音質を誇っていたが、Blu-spec-CD化によって、より一層鮮明な音質に生まれ変わった。

このような名演を極上の高音質で味わうことができることを大いに喜びたい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:51コメント(0)トラックバック(0) 

2016年01月17日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



解散して久しいイタリア四重奏団(1945−80)のユニヴァーサル傘下の音源を網羅したもので、1946年から1979年までの録音が収集された37枚のバジェット・ボックスになる。

ここで中核をなしているのがモーツァルトとベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集で、このふたつは彼らがその非凡な情熱と作品に対する真摯な姿勢で完成させた全曲ステレオ録音による記念碑的なレパートリーだ。

前者はフィリップスから刊行されたモーツァルト・エディション第12巻に組み込まれた8枚で、後者の録音は1967年から1975年にかけて8年がかりで遂行され、CD化された時には10枚組だったものが9枚にリカップリングされている。

その他にも彼らはシューマン、ブラームス及びヴェーベルンの弦楽四重奏曲全曲録音を達成しているが、いずれもカンタービレを武器にしたリリシズムが横溢する独自の解釈とオーケストラを髣髴とさせるメリハリを効かせた大胆なダイナミズムや密度の高いアンサンブルなどに彼らの面目躍如たるものがある。

イタリアでは2009年に1946年から1952年までのモノラル録音集7枚がアマデウスからリリースされていた。

それらがこのセットのCD1−6に当たるが、イタリア版に入っているテレフンケンやRAIイタリア放送協会に著作権が属する第1回目のドビュッシーやヴィンチ、タルティーニなどの音源は漏れている。

また彼らが得意とした20世紀の弦楽四重奏曲に関しては、当セットではドビュッシー、ラヴェル及びヴェーベルンのみだが、やはり著作権の異なるコロンビア音源のストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ミヨーなどの作品群は現在英テスタメントからのリマスター盤が手に入る。

CD34にはドヴォルザークの『アメリカ』及びボロディンの弦楽四重奏曲第2番の「ノクターン」を含む全曲が、CD36にはプレミアム付で入手困難だったヴェーベルン作品集がそれぞれ復活したことを歓迎したい。

イタリア四重奏団はドビュッシーの弦楽四重奏曲を都合3回録音したが、CD35にラヴェルとカップリングされた演奏は1965年の最後のもので、質の良いフィリップス音源で鑑賞できるのは幸いだ。

他のふたつのセッションと比較しても、例えば第2楽章のピツィカートの応酬や迸り出るような色彩感など優るとも劣らないドラマティックな表現に驚かされる。

彼らは演奏に対する確固としたポリシーを掲げていた。

そのひとつがコンサートではプログラム全曲を暗譜で弾く形態をとったことで、それは奇しくも同時期に活躍していたスメタナ四重奏団と共通している。

楽譜に注意を逸らされることなく互いに音を聴き合いながら緊密なアンサンブルを心掛け、その上で各自が自由闊達な演奏を可能にした手法は、この演奏集にも良く表れていると思う。

勿論仕上げにかかる時間的な問題を解決しなければならなかったが、それは4人の練習時間の多さにも証明されていて、彼らの回想によれば新しいレパートリーには午前9時から午後1時まで、午後3時から夜半まで自己に妥協を許さない徹底した合わせ稽古が費やされた。

もうひとつがそれぞれの楽器に全員が金属弦を使ったことで、これは演奏環境や演奏自体によって変化を受け易いガット弦で起こり得る、楽章間での再調律を避けるためで、高まった緊張感を弛緩させることなく、ひとつの楽章から間髪を入れず次の楽章に進むことも可能にしていた。

72ページほどのライナー・ノーツにはこのセットに含まれる総ての演奏曲目の作曲家別索引とCDごとの詳細な録音データ及び英、独語による彼らのキャリアが掲載されている。

尚CD1−4、6、15、17、18、30、33、34の11枚の音源はデッカからは初のCD化になり、今回新しくディジタル・リマスタリングされたようだ。

例えばCD2には1952年のモノラル録音だが、アントワーヌ・ドゥ・バビエをクラリネットに迎えたモーツァルトのクラリネット五重奏曲がレストレーションされて蘇っている。

またポリーニと協演した最後の1枚、ブラームスのピアノ五重奏曲は彼らが1951年のザルツブルク音楽祭に参加した時に、フルトヴェングラー自身のピアノによって直接指導を受けたレパートリーになり、ポリーニとは既に1974年にコンサートで披露している。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:38コメント(0)トラックバック(0) 

2015年09月15日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



モーツァルト書簡集下巻は彼が最後の数年を生きたウィーンでの生活を中心に、膨れ上がる借金に苛まれながらも次々に傑作を生み出していく精力的な作曲活動、そして遂に力尽きて亡くなる50日前までの彼の行動と心情がありのままに吐露されている。

モーツァルトは妻に限りない愛情を注いだ作曲家だった。

彼は湯治のためにバーデンに滞在するコンスタンツェ宛に頻繁に手紙を書き、借金だらけになっても彼女には滞りなく送金を続け、常に体を気遣っている。

その甲斐もあってコンスタンツェは病から快復するが、皮肉にもその前にモーツァルトは亡くなってしまう。

困窮の生活の中で彼が澄み切った青空のように屈託のない作品を作曲し続けることができたのは驚異でしかない。

手紙の中に居酒屋で独りで食事をすることの惨めさも書かれている。

彼は作曲する時以外は誰かが傍らに居てくれないと堪えられない寂しがりやだった一面も興味深い。

最後の年譜で訳者は『モーツァルトは35年10ヶ月9日間生存し、そのうち10年2ヶ月8日間を旅の空で過ごした』と記している。

人生のほぼ1/3を彼はヨーロッパ諸都市でのコンサート、オペラ上演やそれに伴う移動のために費やしたことになる。

筆者は以前ザルツブルクとウィーンでモーツァルトの住んだ3軒の家を訪れたことがある。

現在ではいずれも記念館になっていて、彼に因んださまざまな展示物を見学することができるが、ある一室で彼が生涯に書いた総てのスコアを一列に積み上げてあった光景が思い出される。

それはその部屋の天井まで届くほどの高さがあり、彼が如何に離れ技的な作曲活動をしていたかを証明している。

平均するとモーツァルトは生涯を通じて1日6ページのフル・スコアを毎日書き続けたことになるそうだが、この書簡集でも明らかにされているように度重なる演奏旅行とその準備、生活のための生徒へのレッスンやあらゆる雑事に煩わされていたことを考えれば、今日私達が名曲として鑑賞している作品群が到底信じられないようなスピードで作曲されていたことになる。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:54コメント(0)トラックバック(0) 

2015年09月07日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



このCDはマルティノン、ショルティ、バレンボイムそしてムーティに至る時代のシカゴ交響楽団首席ホルン奏者を実に47年に亘って務め、独奏者・室内楽奏者としても多彩な活躍ぶりを見せるデイル・クレヴェンジャーが、1987年にハンガリーで録音したモーツァルトのホルンのための作品集が収録されている。

ヤーノシュ・ローラ指揮、リスト室内管弦楽団との協演で4曲の協奏曲及びホルンと管弦楽のためのコンサート・ロンド変ホ長調K.371を収録している。

クレヴェンジャーは今更云々するまでもないシカゴの至宝的ホルニストだが、オーケストラの一員としての演奏活動に情熱を持ち続けたこともあって、その実力と長いキャリアに比較してソリストとしての単独録音はそれほど多くない。

因みにモーツァルトの協奏曲ではこの他にアバド、シカゴ響との第3番がある。

クレヴェンジャー貴重なソロ・コンチェルト・アルバムであり、男性的で深みのある音色に加えて、高音からペダル音まで実にバランスよく磨き抜かれた鋭敏な吹きっぷりが見事な1枚。

協奏曲第1番ニ長調K.412でクレヴェンジャーはバルブ機能を持たないナチュラル・ホルンを使っているために、ゲシュトップ操作を頻繁にしているのが聞こえる。

当然その都度楽器内部の圧力や体積の変化によって響きも音量も微妙に変わってくるが音程の取り方は正確無比で、音楽の流れを止めない芸術的な演奏テクニックは流石だ。

ナチュラル・ホルンでの全曲演奏はヘルマン・バウマンの他にも現在までに数種類の選択肢があり、特筆すべきことではないかもしれないが、クレヴェンジャーがこうしたピリオド楽器にも熟達した腕を持っていたことを証明している。

クレヴェンジャーの音は狩猟ホルンをイメージさせる特有の野趣と直線的な力強さがあり、数多く存在するモーツァルトの協奏曲集の中でも、良い意味で芯のある硬派的な演奏の代表格だろう。

コンサート・ロンド変ホ長調については1989年に欠落していた中間部60小節が再発見されたが、それはこの録音の後のことで、当然彼らは旧復元版を演奏している。

またそれぞれのカデンツァでクレヴェンジャーは低音から高音に至る広い音域をカバーする滑らかな音の推移や、アルペッジョの速いパッセージを安定した奏法で模範的に披露している。

ローラ指揮、リスト室内管弦楽団の軽快でソロを引き立てたサポートも好感が持てる。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:48コメント(2)トラックバック(0) 

2015年09月06日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



本盤に収録されているモーツァルトの音源は同じくプラガ・ディジタルスのSACDシリーズでも既にリリースされていたもので、それにウェーバーのクラリネット五重奏曲を加えてレギュラー盤CDとしてリイシューされた。

元々2001年から2003年にかけてのDSD方式によるスタジオ録音であるために音質が極めて良好で、SACDではないが高度な鑑賞にも充分堪え得るものだ。

フランスのクラリネッティストの第一人者でパリ管弦楽団の首席奏者としても知られ、またモラゲス木管五重奏団のメンバーでもあるパスカル・モラゲスは、それまでのフランス人管楽器奏者のオープンで官能的な音色とはやや趣を異にするドイツ系のしっかりした音作りを学んでいるが、音楽的な創意やフレーズ感には紛れもなくフランスの伝統的な奏法が滲み出ていて、この曲集でも彼の洗練されたセンスがモーツァルトやウェーバーにも活かされている。

モーツァルトのピアノ、クラリネットとヴィオラのための三重奏曲変ホ長調『ケーゲルシュタット・トリオ』K.498は、当時クラリネットの名手で友人でもあったアントン・シュタットラーの演奏を前提に作曲されたようだが、作曲技法は既に完成していて、僅か1日で書き上げた作品とは信じ難い、三者が緊密に織り成すアンサンブルが聴きどころだ。

ピアノ・パートはパリ音楽院出身でモラゲスとは旧知の仲でもあるフランク・ブラレーが受け持って、トリオの要を抑えている一方で、作曲家メンデルスゾーンの末裔のヴィオラ奏者ヴラディミル・メンデルスゾーンのヴィオラがこの曲を一層精彩に富んだものにしている。

続くクラリネット五重奏曲イ長調K.581の協演はプラジャーク弦楽四重奏団で、弦の国チェコのアンサンブルに相応しく瑞々しいしなやかな音色が生き生きとした彼らの音楽に反映されている。

また弦楽部に支えられたモラゲスのソフトなソロが印象的で、やはりドイツ系の奏者とは一線を画した陰翳に富んだカラフルな表現が美しいし、イン・テンポで媚びるようなところはないが、シンプルな情緒の中に醸し出される幸福感が秀逸だ。

最後のウェーバーのクラリネット五重奏曲変ロ長調は、事実上クラリネットのための小編成の協奏曲といった書法で、非常に器用に書かれているがアンサンブルとしての妙味よりもソロの名人芸を前面に出した小気味良さが特徴で、中でも終楽章ロンド、アレグロ・ジョコーソでのモラゲスの鮮やかなフィナーレは爽快だ。

パスカル・モラゲスがこれまでに録音したレパートリーはアンサンブル作品が大半で、またそのジャンルでの能力が高く評価されているので、彼のユニークな解釈によるこうした作品集は聴き逃せないが、ソナタや協奏曲なども是非聴いてみたい興味深い演奏家の1人だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:45コメント(0)トラックバック(0) 

2015年09月05日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ワルターはモーツァルトの「第40番」を最も得意なレパートリーの1つにしており、レコードにも数々の名演を遺したが、その中のベストは1952年5月18日にウィーンのムジークフェラインザールで行われた演奏会の実況録音である。

従ってこれはワルターの全レコード中でも特筆すべきものと言えよう。

当日のプログラムはこの「第40番」のあとにマーラーの歌曲と「大地の歌」が組まれたわけで、よだれが出るとはこのことである。

ワルターの「40番」では、ニューヨーク盤は仕上げが完璧であるが、寂寥感に欠け、その点でかなり満足させられるベルリン国立盤とコロンビア盤には表現上の欠点がある。

ウィーン盤はこれらの短所を補うとともに、ウィーン・フィルの魅力と、実演の長所を併せ持ち、録音も当時の実況盤としては十二分に満足し得るものであり、ワルターを愛する人はもちろん、この曲に心惹かれる人にとっては絶対に聴き逃せぬ名盤である。

第1楽章はテーマにつけられた上行ポルタメントの懐かしさがすべてだ。

この美しい主題をこれ以上チャーミングに指揮した人はおらず、ワルターもウィーン・フィルだからこそ、これだけ思い切ってできたのであろう。

テンポはむしろ速めで、第2テーマ以外はテンポの動きもあまり目立たず、表情、音色とも、極めて透明に運ばれる。

しかし細部のニュアンスはほとんど即興的と思われるほど自然に生きており、例の再現部のルフトパウゼも最高だ。

この楽章全体を通じて〈美への激しい祈り〉〈より美しいものへの魂の羽ばたき〉を実感させ、漲るような憧れの情が極まって哀しさを呼んでいる。

聴いていて、どこまでがワルターで、どこまでがウィーン・フィルで、どこまでがモーツァルトなのか判然としない。

造型的にも完璧の一語に尽きよう。

第2楽章も速めで、音楽は常に弱めに、静かに、虚無感を湛えて運ばれ、それが聴いていてたまらない。

まさに〈秋の野をひとり行くモーツァルト〉である。

リズムの良さ、敏感さ、瑞々しくも寂しい漸強弱、そして第2テーマの何というピアニッシモ! その直前の何という感情の高まり!

しかもそれらはいかにも融通無碍、あたかもワルター自身がピアノを弾くような即興性をもって行われてゆく。

ワルターの到達したこの境地に深く頭を下げずにはいられない。

メヌエットは速めに、きりりと造型されており、ニューヨーク盤の豊かさ、コロンビア盤の大きさといった特徴がないので、全曲中ではやや物足りなさを感じさせるかも知れないが、その不満もトリオが解消してくれよう。

弦の三度のハーモニーは人間の心そのままを伝えている。

フィナーレは出のテンポとリズムの良さにハッとする想いで、第2テーマで遅くする呼吸もこたえられない。

まさにワルターの類稀な才能の表われと言えよう。

この部分のウィンナ・クラリネットの溶けるような柔らかさも絶品で、第1稿のオーボエ版ではこの美しさは出ない。

全体の響きに濁りのないウィーンならではで、音色だけで心をとらえられてしまうのである。

モーツァルトの世界にこんな演奏を持てたことに、われわれは心から感謝しなくてはならないだろう。

カップリングの「第25番」はザルツブルク音楽祭における実況盤であるが、会場のせいか残響に乏しく、そのためもあってワルターの表現も非常に厳しく、真剣勝負的に聴こえる。

ワルターのモーツァルトで、これほど深く内容を抉った、凄まじい迫力に満ちた演奏はごくごく少なく、第1楽章の疾風怒濤、第2楽章の弦の歌、第3楽章の慟哭の響き、第4楽章の終結の一刀入魂とも言うべき決め方、いずれも見事である。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:50コメント(0)トラックバック(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



2曲の協奏曲はいずれもレギュラー盤CDで入手可能で、演奏についてもそれぞれが名盤の名に恥じないセッションだが、エロクエンス・レーベルが低価格のSACDをシリーズで提供しているところがセールス・ポイントになる。

廉価盤なのでライナー・ノーツは省略されているが、音質の向上ははっきり聴き取れるし、天井が一段高くなったような音場の拡がりと鮮明な音色が通常のCDを凌駕している。

オーケストラはどちらもウィーン・フィルで、ソロにアルフレート・プリンツを迎えたクラリネット協奏曲イ長調はカール・ベーム指揮で1973年、フリードリヒ・グルダの弾くピアノ協奏曲第21番ハ長調はクラウディオ・アバドの指揮で1974年の録音になる。

クラリネット協奏曲でベームは穏やかなテンポを設定して安らぎの中に天上的なモーツァルトの音楽を創造している。

プリンツのオープンで明るい音色と特有のフレージングは良くそれに呼応して、彼らに共通するウィーン流美学を音響化しているのは流石だ。

一方グルダのソロにはラフな快活さがあり、滞ることのない自然体の流れが美しく、アバドは一点の翳りも無い常に明快なオーケストレーションで聴き古された名曲を活性化しているのが印象的だ。

カール・ベームは彼の晩年に当たる1972年から76年にかけて、当時のウィーン・フィルの首席奏者達とモーツァルトの管楽器が加わる協奏曲を集中的に録音した。

フルートのトリップ、オーボエのトレチェク、クラリネットのプリンツ、ファゴットのツェーマン、ホルンのヘーグナーなどの名手を起用した協奏曲集は黄金期のオーケストラの実力と余裕を窺わせるだけでなく、ウィーン仲間として巨匠との友好的な関係を示している。

それに対してアバドは当時ウィーン・フィルに客演を始めた頃だったが、既にこの伝統を引っ提げた楽壇にも新風を吹き込んで、大いにその影響を波及させていた颯爽たる勢いを秘めていて、ベームの円熟の境地とは明らかに対照的だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:42コメント(0)トラックバック(0) 

2015年09月01日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



スイスのブッフォ・バス歌手フェルナンド・コレナ[1916-1984]は、ジュネーヴで生まれたが、父親はトルコ人、母親はイタリア人であった。

最初は神学を学んだが、地元の声楽コンテストで優勝したことを期に声楽に転向、ジュネーヴ音楽院で学び、1940年にチューリッヒで歌手デビューを果たす。

彼の名を一躍高めたのは、1955年エディンバラ音楽祭での『ファルスタッフ』での題名役。

同じ年にメトロポリタン歌劇場にもモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』のレポレロ役でデビューし、その後性格的なバス歌手として一世を風靡した。

このCDでは長い間廃盤になっていたアルジェオ・クワドリ指揮、コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団とのモーツァルトのバスのための演奏会用アリア集の音源が復活しているのが注目される。

ただ、コレナの性格的な歌唱が曲によっては裏目に出て、多少くどい印象を与えているのは否めない。

例えば『この美しい手と瞳に』K.612はコントラバスの超絶技巧のオブリガートが付く美しいアリアで、この曲に関しては彼の同僚だったチェーザレ・シエピの2種類のライヴ録音がイタリア風のカンタービレの手本を示したような演奏で、現在に至るまでのベストと言えるだろう。

しかしコレナの芸の一端を偲ぶことができるCDでの復活は歓迎したい。

尚トラック10『彼に眼差しを向けたまえ』K.584は演奏会用アリアではなく、当初『コシ・ファン・トゥッテ』のグリエルモのアリアとして書かれたが、後により短いものに差し替えられた経緯を持っている。

最後にボーナス・トラックとして加えられたブルーノ・アマドゥッチ指揮、ミラノ・ポメリッジ・ムジカーリ管弦楽団とのチマローザの幕間劇『宮廷楽士長』は、CDの余白を埋めるカップリングだが全曲演奏で、コレナの表情や仕草が目に浮かぶような楽しい作品だ。

フェルナンド・コレナはそのキャリアの中で幾つかのセリオの役柄も器用にこなしているが、元来彼のブッフォ的な性格は持って生まれた資質だったようだ。

少なくともそう信じ込ませるほど彼の喜劇役者としての才能は傑出していた。

頑固でケチ、好色で間抜け、知ったかぶりの権威主義者など最も人間臭い性格の役柄で、しばしばとっちめられてひどい目に遭う。

これはイタリアの伝統芸能コンメーディア・デッラルテの登場人物から受け継がれたキャラクターだが、コレナの演技は常にドタバタ喜劇になる一歩手前で踏みとどまっている。

それは彼があくまでも主役を引き立てる脇役であることを誰よりも自覚していたからに違いない。

現在彼のような強烈な個性を持ったバッソ・ブッフォが殆んど現れないのは演出上の役柄に突出した人物が求められなくなったことや、指揮者が歌手のスタンド・プレーを許さなくなったことなどがその理由だろう。

その意味ではオペラ歌手達が自由に個性を競い合った時代の最良のサンプルと言えるのではないだろうか。

1952年から60年にかけてのセッションで、トラック9-14の6曲の演奏会用アリア集以外はモノラル録音だが音質は良好。

曲目一覧と録音データの記載されたパンフレットが付いているが歌詞対訳は省略されている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:41コメント(0)トラックバック(0) 

2015年08月31日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



モーツァルトの書簡集上巻は1770年、彼が14歳で父親に連れられて第1回目のイタリア旅行をした時から始まる。

この演奏旅行で彼はどの都市でも大成功を博して神童の名を欲しいままにしたが、母や姉宛に書かれた手紙の端々には既に彼の人間を観察する純真な眼差しが表れている。

モーツァルトはこの時期からイタリア・オペラを盛んに作曲するようになるが、たとえ一人前の作曲家の腕を持っていたとしてもリブレットから登場人物の心情の機微を掴めない者にはオペラを書くことはできない。

それが母国語でない言語であれば尚更だが、彼の短かった生涯に20曲以上の劇場作品を作曲することになる恐るべき才能の萌芽が既に少年時代から確実に培われていたのは事実だ。

また他の作曲家の作品でも優れたものについては称賛を惜しまない、極めて公平かつ正確な判断力が養われていたことも興味深い。

彼がこの時代あらゆる作曲のテクニックを海綿のように吸収して学ぶことを可能にしたのも、こうした謙虚で柔軟な姿勢があったからに違いない。

成人してからのモーツァルトの就職活動の旅は失敗に終わる。

音楽以外の私生活での彼は実社会に適応できない実質的な破綻者だったことは想像に難くない。

彼に英才教育を施した父レオポルトは言ってみれば実利主義者のビジネスマンで、借金までして旅に出させた息子の就職活動がはかばかしくないことを厳しく諌めている。

しかし根っからの芸術家気質のモーツァルトは父への返信では常に慇懃だが、実際の行動はかなり奔放で滞在期日を大幅に延長したり作曲料を取り損なったり、父親のオーガナイズから大脱線してしまっている。

またその事実からは稀有の天才を受け入れるすべを知らなかった当時の上流社会の不条理性も伝わって来る。

要領良く立ち回ればそれなりの地位を獲得することもできた筈だが、モーツァルトはその才に欠けていた。

彼は自分の能力を誰よりも良く自覚していたが、それを切り売りする形で生計を立てる道を選ぶべきでないことも熟知していたし、気の進まない曲は頼まれても1曲も書けなかった。

彼がザルツブルクの宮廷オルガニストの地位をコロレード大司教から解任され、他の如何なる宮廷の地位も得られなかったことは、結果的に言えば悪くなかった。

この書簡集から父レオポルトはモーツァルトの将来の作曲家としての活躍よりも、現在を堅実に生きる道を選ばせたかったことが明らかだからだ。

しかしお仕着せの音楽家としてお定まりの曲を書きながら一生を終えるには、彼の才能は余りにも抜きん出ていたことも事実だろう。

それを考えると短かったとは言え、ウィーンでまがりなりにも独立して作曲活動に明け暮れた生活こそ、彼が望んでいた人生だったに違いない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:43コメント(0)トラックバック(0) 

2015年08月23日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



レージネヴァの声質はコロラトゥーラをこなすソプラノとしては珍しくやや暗めだが落ち着いた雰囲気があり、浮き足立たずに音楽そのものを聴かせる感性が窺われる。

またどの作品に対しても常にニュートラルな姿勢で臨んでいることに彼女のテクニックの多様性が示されていると言えるだろう。

このセッションでは彼女はヴィブラートを抑えたピリオド唱法を早くもマスターしていて、指揮者ジョヴァンニ・アントニーニの要求に見事に応えている。

今回のアルバムに収められたヴィヴァルディ、ヘンデル、ポルポラ、そしてモーツァルトの作品は、まがりなりにも総て宗教曲だが、離れ技の歌唱法が求められ、しかもそこに高度な音楽性が伴わないとその真価を伝えることが難しい。

レージネヴァは明瞭な叙唱や緩徐楽章での豊かなカンタービレ、そしてそれぞれの曲の最後に置かれている「アレルヤ」では、メロディーに精緻な刺繍を施していくような装飾音の綴れ織を究極的に再現している。

彼女の持ち前の音楽性の賜物か、あるいは歌手には珍しいナイーヴな人柄からか、これ見よがしのアクロバットに聴こえないところも非常に好ましい。

カストラート歌手達が開拓したコロラトゥーラの歌唱法は、彼らの超絶技巧誇示が禍して作品の芸術性とはなんら関係のない曲芸に堕してしまったことが、既に同時代の多くの作曲家によって指摘されている。

しかし彼らのテクニックの基本に流麗なレガートを駆使したカンタービレがあったことも忘れてはならないだろう。

そのバランスを保って音楽を芸術として再現することが歌手の叡智であり、それが本来のテクニックと呼べるものである筈だ。

サハリン出身のソプラノ、ユリア・レージネヴァはその若さにも拘らず、ロッシーニのアリア集によって音楽性に溢れる薫り高い歌唱を披露してくれた。

このバロック宗教曲集及びモーツァルトの『エクスルターテ、ユビラーテ』を収録したアルバムでも無理のない伸びやかなレガートと、アジリタの技巧的な部分が互いに異質な印象を残さずに歌い上げられているのが聴きどころだ。

今回彼女を サポートする古楽アンサンブルはピリオド楽器使用のイル・ジャルディーノ・アルモニコで、当初彼らは斬新な解釈でセンセーショナルなデビューを飾ったが、彼らの身上は何よりも古楽を生き生きとして喜びに満ちた、ドラマティックな表現で聴かせるところにあると言える。

ライナー・ノーツは27ページほどで、作品解説とレージネヴァの略歴及びイル・ジャルディーノ・アルモニコのメンバー一覧表にそれぞれの使用楽器も明記され、ラテン語の全歌詞に英、仏、独語による対訳が付けられている。

尚ピッチは表示されていないが微妙に低くa'=430くらいに聞こえる。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:46コメント(0)トラックバック(0) 

2015年08月22日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



内田光子の円熟を感じさせる素晴らしい名演の登場だ。

内田光子と言えば、今や我が国にとどまらず、世界でも指折りの女流ピアニストと言えるが、今から30年ほど前は、ジェフリー・テイト&イギリス室内管弦楽団をバックとしてスタジオ録音を行ったモーツァルトの一連のピアノ協奏曲の演奏で知られる存在であった。

これら一連の録音は現在でも十分に通用するクオリティの高い名演であるが、内田光子はそうした当時の高評価に安住することなく研鑽に努め、シューベルトのピアノ・ソナタ集やベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタ集などの数々の歴史的な超名演を経て、現在の確固たる地位を築き上げてきたと言えるだろう。

そうした現代最高の女流ピアニストの1人となった内田光子が、数年前からクリーヴランド管弦楽団の弾き振りによって開始したチクルスが、まさに満を持して再録音に挑むことになるモーツァルトのピアノ協奏曲集である。

既に、第1弾(第20番&第27番)、第2弾(第23番&第24番)、第3弾(第9番&第21番)が登場しており、本盤は新チクルスの第4弾(第18番&第19番)ということになる。

第1弾、第2弾、第3弾ともに至高の超名演であったが、本盤の演奏もそれらに優るとも劣らない凄い超名演だ。

かつてのジェフリー・テイトと組んで演奏した旧盤とは比較にならないような高みに達しているとも言えるだろう。

それにしても、モーツァルトの傷つきやすい繊細な抒情を、これほどまでに意味深く演奏した例は、これまでの様々なピアニストの演奏にあったであろうか。

繊細な抒情に加えて、ここぞという時の力強さにもいささかの不足はないが、それでいて、時折見られる効果的な間の取り方は、殆ど名人芸の域に達しており、これは、内田光子としても、前録音から26年を経て漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるだろう。

モーツァルトの楽曲は、ピアノ協奏曲に限らないが、一聴すると典雅で美しい旋律に時として憂いに満ちた寂しげなフレーズが盛り込まれているが、そうした箇所における表現が内田光子の場合は絶妙なのである。

各旋律における表情付けの意味深さは鬼気迫るものがあり、諸説はあると思うが、モーツァルトのピアノ協奏曲の本質のベールが内田光子によってこそはじめて脱がれたとも言ってもいいのではないか。

これら両曲の演奏の内面から浮かび上がってくるモーツァルト渾身の魂の響きは、あまりにも繊細にして優美であり、涙なしでは聴けないほど感動的と評しても過言ではあるまい。

モーツァルトのピアノ協奏曲に旋律の美しさ、聴きやすさ、親しみやすさのみを求める聴き手には全くお薦めできない演奏とも言えるが、モーツァルトのピアノ協奏曲を何度も繰り返し聴いてきた聴き手には、これらの楽曲の本質をあらためて認識させてくれる演奏であり、その意味では玄人向けの演奏とも言えるだろう。

本演奏は内田光子の弾き振りであるが、クリーヴランド管弦楽団も、内田光子の繊細なピアノに符合した、実に内容豊かでコクのある演奏をしているのが素晴らしい。

テイト盤はとにかくピアノとオーケストラが流れるように一体化した完璧な美しさと粒立ちの良いピアノの美しい音が際立っていたが、今回のクリーヴランド盤は各パートの演奏に個性と持ち味がしっかりと前に出ていて、自由闊達なピアノとの対話が面白い。

弦の各声部のディテールもしっかり聴かせ音楽がより鮮やかになり、またライヴなのでカデンツァ部分のさらに彫りの深い表現が絶品で、弱音と無音部分の息遣いが素晴らしい。

弾き振りのライヴ録音なので仕方がないのだが、当然内田の集中も分散されてるわけで、以前の流れるような美しさや速いパッセージでの丁寧なタッチが失われたのが少々残念だが、弾き振りならではのリズミックな縦の線を強調し各パートの生き生きとした表現がよりモーツァルトらしく思われた。

いずれにしても、本盤の演奏は、モーツァルトのピアノ協奏曲演奏の真の理想像の具現化と言っても過言ではない、至高の超名演と高く評価したい。

ピアノとの相性抜群のSHM−CDによる鮮明な高音質も、本名演に華を添えることになっており、高く評価すべきものと考える。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:53コメント(0)トラックバック(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



昨年2014年はカルロ・マリア・ジュリーニ生誕100周年に当たり、一昨年ワーナーからはジュリーニ初期の録音になる全3巻計30枚のCDセットがリリースされたが、これに含まれていないのが同EMI音源による多くのオペラ全曲盤や宗教曲で、このモーツァルトの『レクイエム』はフィルハーモニア管弦楽団と同合唱団を振った1978年の第1回目のセッションになる。

ジュリーニはほぼ10年後に同メンバーとソリストを入れ替えた形で再録音を果たしているが、この演奏ではテンポが比較的速めであるために、曲のしめやかさよりもむしろ流麗で鮮烈な音響に特徴がある。

オーケストラ、コーラス共にその完成度は高い。

4人のソリストに実力派のヘレン・ドナート、クリスタ・ルートヴィヒ、ロバート・ティアー、ロバート・ロイドを起用していることも緻密なアンサンブルを支える上で最良の効果を上げている。

ただ、テノールのティアーの発声が他の3人と溶け合わないのが惜しまれる。

ジュリーニはこの曲の成立にまつわるデモーニッシュなエピソードやあざといロマンティシズムを払拭して、独唱陣だけでなくコーラス・パートへのきめ細かい指示やオーケストラのバランスを巧みにコントロールすることによって、かえってモーツァルトの曲想をフレッシュでダイレクトに再現している。

しかしその一方で、ジュリーニの描き出すモーツァルトはあまりに重く、この荘重さがジュリーニの特質かもしれない。

モーツァルトの未完の宿命的作品の中から、彼は何ものにも替えがたい“荘重さ”を選びとった。

尚このセッションでは要所要所にオルガンの低音を重ねているが、これは今は無きロンドン・キングスウェイ・ホールのオルガンの響きと思われる。

カップリングはモテット『エクスルターテ、ユビラーテ』で、ソプラノ・ソロがバーバラ・ヘンドリックス、ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団の演奏に替わる。

この作品はわずか16歳のモーツァルトがイタリアのカストラート、ヴェナンツィオ・ラウッツィーニのために作曲したもので、当然カンタービレと敏捷なアジリタのテクニックが欠かせないが、ヘンドリックスの声はやや重くアカデミアの軽快なオーケストラに乗り切れない恨みがある。

コロラトゥーラの切れもいまひとつだし、最高音のc'''も突出気味でこの曲に関してはキャスティング・ミスではないだろうか。

こちらは1987年の録音で、一方『レクイエム』の方も1998年にデジタル・リマスタリングされているので音質はどちらも極めて良好だ。

CD内にPDFフォーマットによるラテン語典礼文及びモテットの全歌詞に独、英、仏語の対訳が掲載されている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:41コメント(0)トラックバック(0) 

2015年08月19日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



BBC音源のライヴで1965年のステレオ録音になる。

古い音源だが音質は瑞々しく臨場感にも恵まれた、この時代のものとしては優秀なものだ。

収録曲目はボッケリーニの弦楽四重奏曲ト長調『ラ・ティラーナ・スパニョーラ』、モーツァルトの弦楽四重奏曲変ロ長調『狩』K.458及びベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番イ短調Op.132の3曲。

イタリア物とドイツ物を組み合わせたイタリア弦楽四重奏団ならではの特質がよく表れたプログラムで、鍛え上げられた万全のアンサンブルと深みのあるカンタービレ、メリハリを効かせたリズミカルな合わせ技には彼らの面目躍如たるものがある。

第1曲目のボッケリーニは第1楽章のリズムのモチーフがタンブリンを伴うスペインの民族舞踏ティラーナから採られていることからこの名称で呼ばれている。

彼らの軽妙なチーム・ワークを示したプログラムの第1曲目として相応しい選曲だ。

モーツァルトの『狩』は彼らの得意とした曲で、豊麗な和声の響きと溌剌とした歓喜の表現にはラテン的な感性が強く感じられる。

一方4人のイタリア人がベートーヴェンを主要なレパートリーにしていたことは興味深いが、その発端は1951年に参加したザルツブルク・フェスティヴァルでのフルトヴェングラーとの出会いだった。

巨匠は彼らをホテルに招いてベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲とブラームスのピアノ五重奏曲について自らピアノを弾きながら助言した。

それは彼らにとってかけがえのない経験であり、その後の演奏活動の重要な課題ともなった。

ここに収められた第15番も一糸乱れぬ緊張感の中に堂々たる説得力を持っているだけでなく、彼らのオリジナリティーを示した会心の演奏だ。

イタリア弦楽四重奏団は1945年に創設され、1980年の解散に至るまで国際的な活動を続けた、ヨーロッパの弦楽四重奏団の中でも長命を保ったアンサンブルだった。

また第2ヴァイオリンは当初から紅一点のエリーザ・ペグレッフィが担当している。

各パートで使用されている楽器は決して有名製作者のものではなく、また演奏中の微妙な音程の狂いを避けるために、総ての弦に金属弦を用いる合理的なアイデアも彼ら自身の表明するところだ。

配置は第1ヴァイオリンとチェロ、そして第2ヴァイオリンとヴィオラが対角線に構える形で、スメタナ四重奏団と同様に総てのレパートリーを暗譜で弾くことが彼らの合奏のポイントになっている。

ライナー・ノーツは15ページで英、仏、独語の簡単な解説付だが、半分ほどはICAクラシック・レーベルの写真入カタログになっている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:52コメント(0)トラックバック(0) 

2015年08月16日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



スウィトナーがシュターツカペレ・ドレスデンと完全に協調して引き出して見せた色彩豊かな音響と柔軟な解釈が快いモーツァルトだ。

いずれも秀演で、モーツァルト解釈家としてのスウィトナーの存在を強く印象づける。

彼らは古典派の作曲家の作品としての様式感を失うことなく、かつスケールの大きい爽快なモーツァルトに仕上げている。

シュターツカペレ・ドレスデンのサウンドは味わい深く、しかも全てがよい意味での良識と中庸を感じさせる表現で、溌剌としたリズムによる流動感の豊かなモーツァルトである。

室内楽風に編成を小さくしているので音の透明度が高く、アンサンブルの細部まで透けて見えるようだ。

しかも木管などしっとりとして味わい深く、あらゆる意味でモーツァルトの美しさを満喫させる名演と言えよう。

スウィトナーにとっては自国の作曲家でもあり、彼自身モーツァルトのスペシャリストたる自負があったと思うが、この6枚組の中でも彼の実力が端的に示されているのが一連の交響曲集で、『ジュピター』に代表されるようなオーケストラを大らかに歌わせる柔軟な力強さや終楽章の迸り出るようなフーガ、またそれぞれの曲の緩徐楽章で醸し出す一種の官能的な美学は彼独自のセンスだ。

いずれも典雅でふくよか、明快な印象を与える演奏は、現代における最も円満なモーツァルト集成といってよい。

スウィトナーのすぐれた音楽性を示した演奏であり、妥当なテンポと典雅な表情、柔らかい旋律線と爽快なリズムが渾然一体となって、実に端正に音楽をつくっている。

かつての大指揮者たちのスケールの大きさはないが、古典主義的な作品の様式を素直に受けとめ、あるがままを描いており、全体はきわめて音楽的だ。

シュターツカペレ・ドレスデンの古雅で晴朗な響きと完全に息の合ったアンサンブルの美しさは、他には求められない魅力であり、モダン楽器による現代のコンサート・スタイルの演奏としては第一級の表現だ。

シュターツカペレ・ドレスデンのような日頃オペラやバレエ上演に携わるオーケストラは、その仕事の性質から個人のスタンド・プレーよりも全体の一部として演奏を支えることや、また即興性に応じる能力が習慣的に養われているものだが、ここでもそうした特色が良く表れていると同時に、彼らはスウィトナー楽長時代に随分垢抜けた演奏をするようになったと思う。

一方でドイツ伝統の重厚さや堅牢な音楽はここぞという時に発揮されるが、この時代彼らは早くも西側の指揮者との多くの共演によって、より視野の開けた演奏を可能にしたと言えないだろうか。

最後の1枚に収められている2曲のピアノ協奏曲のソロはアンネローゼ・シュミットで、彼女は如何にもドイツのピアニストらしい、やや硬質だが小気味良いタッチと飾り気のない表現が、スウィトナーの柔和で包み込むようなサポートと軽妙なコントラストをなしている。

旧東ドイツの音楽産業を一手に受け持っていたレコード・メーカー、ドイツ・シャルプラッテン社は西側の大手に較べれば日本での知名度は低かったが、クラシック・ジャンルをリリースするベルリン・クラシックスの音源には演奏水準が高く、音質の良いものが少なくなかったことは熱心なファンの間で知られていた。

このセットの録音は1961年から76年にかけて行われたものだが、録音場所は明記されていない。

おそらく彼らのレコーディング・スタジオで、オーケストラル・ワークには理想的な音響空間を持っているセント・ルカ教会と思われる。

尚ライナー・ノーツにはオーケストラ名がシュターツカペレ・ベルリンとなっているが、ボックスとそれぞれのジャケットには総てシュターツカペレ・ドレスデンと記載されているので、これは明らかにライナー・ノーツの方が誤植だろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 20:53コメント(0)トラックバック(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



薫り高いドイツ音楽の王道をバックボーンにもつ名匠ブロムシュテットと名門シュターツカペレ・ドレスデンによる名盤の誉れ高いディスク。

モーツァルト後期の傑作交響曲のカップリングであるが、いずれも素晴らしい名演だ。

ブロムシュテットによる本演奏に、何か特別な個性があるわけではなく、誠実で丁寧で温かく優美な最良のモーツァルトを奏でる。

夕映えのようなモーツァルトを奏でさせたら天下一品として、ウィーン・フィルの好敵手のように讃えられてきた400年以上の伝統を誇るシュターツカペレ・ドレスデンによる極上のモーツァルト演奏である。

その音色だけで魅了されてしまうと絶賛された、モーツァルトの交響曲の最初に聴きたい最右翼盤と言えよう。

奇を衒ったり、意表を突くような余計な装飾は一切無い、オーソドックスな演奏ではあるが、このオケの美しい音色をブロムシュテットは丁寧に引き出してくれる。

テンポも、楽器の鳴らし方も、全てが標準的と言えるが、このオーケストラの音色、アンサンブルは比類のないものであり、ここでもまるで指揮者なしのような、自然で癖のない音楽運びが、繰り返し聴きたくなる演奏の秘密であろう。

ブロムシュテットは、第38番「プラハ」においては、地に足がついたゆったりした荘重なインテンポで、重厚すぎると感じられる部分もあるが、この交響曲にある優美な魅力を余計なことをしないで自然に引き出しているのが良い。

第39番においても、ゆったりとしたテンポを基本にしたスケールの大きい演奏で、愚直に楽想を進めていくのみである。

19世紀的なモーツァルト観の現代版とも言えるロマンティックなものだが、表現自体は丁寧かつ自然な流れがあるので説得力がある。

モダン・オーケストラでならこのような解釈もこの交響曲の魅力の1つとして十分に楽しめる。

ブロムシュテットは、自己の解釈をひけらかすようなことは一切せずに、楽曲の魅力をダイレクトに聴き手に伝えることのみに腐心しているようにも感じられる。

これは、作品にのみ語らせる演奏ということができるだろう。

それでも、演奏全体から漂ってくる気品と格調の高さは、ブロムシュテットの指揮による力も多分に大きいものと考える。

ブロムシュテットとシュターツカペレ・ドレスデンの落ち着きのある演奏は、その爽やかで端正な音楽の流れが何ともすがすがしく、聴いていて心の安らぎを覚えるようである。

いずれにしても、モーツァルトの第38番「プラハ」や第39番の魅力を深い呼吸の下に安心して味わうことができるという意味においては、トップの座を争う名演と言っても過言ではないと思われる。

こうした作品のみに語らせるアプローチは、時として没個性的で、無味乾燥な演奏に陥ってしまう危険性がないとは言えないが、シュターツカペレ・ドレスデンによるいぶし銀とも評すべき滋味溢れる重厚な音色が、演奏内容に味わい深さと潤いを与えている点も見過ごしてはならない。

刺激的な演奏、個性的な演奏も時には良いが、こうした何度聴いても嫌にならないどころか、ますます好きになって行く演奏、オーケストラの響きの素晴らしさに感心させられるばかりの演奏は他になかなかない。

適切なテンポで噛み締めるように演奏し、モーツァルトの個人的な情感を表現したというよりも交響曲としての陰影を克明に描いていると言えるものだが、心の中に自然としみ込んでくる演奏である。

しかし、これほどの演奏をするのは並大抵のことではない。

ここにブロムシュテットの音楽家としての力量と敬虔なクリスチャンである彼の作品に対する奉仕の姿勢がはっきりと読み取れるのではないだろうか。

表面の華麗さや古楽器などの面白味のあるモーツァルトとは正反対のモーツァルトであるが、誰が聴いても納得のいく普遍性を持つ演奏である。

残響の豊かなドレスデンのルカ教会における高音質録音がきわめて優秀な点も高く評価したい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:30コメント(0)トラックバック(0) 

2015年08月13日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



アバドお気に入りのルツェルン祝祭管弦楽団やモーツァルト管弦楽団のメンバーも兼任するソリストたちとの愉悦に満ちた、現代最高と評されるモーツァルト演奏である。

本盤に収められたアバド&モーツァルト管弦楽団のメンバーによるクラリネット協奏曲、ファゴット協奏曲、フルート協奏曲第2番は、第1弾のホルン協奏曲全集、第2弾の協奏交響曲、フルートとハープのための協奏曲に続くモーツァルトの管楽器のための協奏曲集の第3弾である。

アバドは、今般の管楽器のための協奏曲集の録音開始以前にも、若手の才能ある音楽家で構成されているモーツァルト管弦楽団とともに、モーツァルトの主要な交響曲集やヴァイオリン協奏曲全集などの録音を行っており、お互いに気心の知れた関係であるとも言える。

それだけに、本演奏においても息の合った名コンビぶりを如何なく発揮していると言えるところであり、名演であった第1弾や第2弾に優るとも劣らない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

3曲とも速めのテンポでのびのびとした爽快な演奏で、アバドとモーツァルト管弦楽団のメンバーがモーツァルトの名曲を演奏する喜びが伝わってくる。

本演奏でソロをつとめたのは、いずれもモーツァルト管弦楽団の首席奏者をつとめるなど、アバドの芸風を最も理解している気鋭の若手奏者であり、アバドとともにこれらの協奏曲を演奏するには申し分のない逸材である。

クラリネットのアレッサンドロ・カルボナーレ、ファゴットのギヨーム・サンタナ、 フルートのジャック・ズーンは、来日公演や指導を重ね、木管好きの人々や、若い音楽学生にはおなじみの面々で、妙な癖も強い灰汁もなく、技術的には折り紙付きだ。

いずれの演奏も、卓越した技量をベースとしつつ、アバドによる薫陶の成果も多分にあると思われるところであるが、あたかも南国イタリアを思わせるような明朗で解放感に溢れたナチュラルな音色が持ち味である。

そして、その表現は意外にも濃密で、歌謡性豊かでロマンティシズムの香りさえ漂っているところであり、いわゆる古楽器奏法を旨とする演奏としては異例と思われるほどの豊かな情感に満ち溢れていると言っても過言ではあるまい。

また、アバドの指揮についても指摘しておかなければならないだろう。

アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督の退任間近に大病を患い、その大病を克服した後は彫りの深い凄みのある表現をするようになり、晩年は現代を代表する大指揮者であったと言えるが、気心の知れたモーツァルト管弦楽団を指揮する時は、若き才能のある各奏者を慈しむような滋味豊かな指揮に徹している。

本演奏でも、かかるアバドによる滋味豊かな指揮ぶりは健在であり、これらの気鋭の各若手奏者の演奏をしっかりと下支えするとともに、演奏全体に適度の潤いと温もり、そして清新さを付加するのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

これらの演奏には、自分よりずっと若い演奏家たちと音楽を楽しむアバドの晩年の心境が伝わってくる。

筆者が最も感銘を受けたのはクラリネット協奏曲で、晩年のアバドの一連のモーツァルト録音で、一際印象的なものに思える。

第1,3楽章は、速めのテンポで一切の感傷と無縁、むしろ急ぎ過ぎるのではと思える程に音楽が流れて行き、時折現れる劇的な部分も作為的な強調が全くなく、すべてが心からの明るい日差しの中に解決して行く。

しかしながら、おそらくこの世で一番、何らかの思惑から解き放たれた音楽は、故吉田秀和氏が「あまりにも美しく明るい故に、その背後にある悲しみを感じさせないではいられない」という言葉を実感させる、本当に数少ない瞬間にまで自分たちを連れて行く。

ことに第3楽章の天上を走っているとしか思えない音楽は、それが故に知らず知らず抑えきれないものがこみ上がってくる。

そして第2楽章のアダージョは、誰が演奏しても美しいけれど、ここに聴かれる程に(決してもたれたり感傷的でないのに)生との別れ、を実感させることは稀ではないだろうか。

これは、ソリスト、オーケストラ、指揮者が結び合った名演であり、他の2曲も、最上の美しさを湛えており、あまり目立たないけれど、心からお薦め出来る盤ではないかと思われる。

音質も、特にSHM−CD仕様などが施されているわけではないが、十分に満足できる鮮明な高音質であると高く評価したい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:40コメント(0)トラックバック(0) 

2015年08月10日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



古今東西の名指揮者の中で、誰が最もモーツァルティアンかときかれた時、筆者はためらわずに最初にカラヤンに指を屈するであろう。

特に1960年代以降の円熟したカラヤンに。

1つにはカラヤンの天性が、モーツァルトの“歌”を歌うことができることである。

指揮者のタイプの中には、リズムに秀でた人、バランス感覚にすぐれた人、統率力のある人、個性的な音楽を作る人など、いろいろの特徴があるわけであるが(もちろんそれらを集成したのが大指揮者なのだが)モーツァルト演奏する場合は、特にこの作曲家の、こんこんと湧いて尽きぬ歌の泉とその千変万化の流れとを、直感的に本能的に捉えられる指揮者でないと、モーツァルトの美しさのエッセンシャルな部分を表現できないことになってしまう。

モーツァルトの音楽を精妙に造型する指揮者がいても、それだけではもうひとつ足りないのである。

ほとんどドミソでできたようなテーマでも、モーツァルトの場合は、不思議なことには“歌”なのだから。

その意味では現在に至るまで、カラヤンの右に出る指揮者はいないであろう。

さらには(当然のことだが)カラヤンはモーツァルトを良く研究し、正確に把握している。

その一例は、彼の後期シンフォニーの録音に際して、かなり大きな編成のオーケストラを使ったということである。

その理由は、彼自身の言葉によれば、「モーツァルトはいつでも60人、70人という当時としては大きなオーケストラの響きが好きだった、ということが手紙を読めばわかる」というのである。

事実その通り、モーツァルトはパリやウィーンの大きなオーケストラの響きを好んでいた。

カラヤン&ベルリン・フィルは、スケール大きな堂々たる演奏で、独自の自己主張を表した表情がときに牛刀をもって鶏を割く感も与えるが、いっぽうで磨き上げた音彩と柔らかいニュアンスが特色と言える。

ここに収められた9曲では、特に第32、33番が端麗な美感で聴き手を説得する。

また第29番は輪郭をぼかしたような響きとレガートの用法がカラヤン風であり、彼が独自のモーツァルト観を持っていたことを示している。

有名なト短調シンフォニー(K.550)は、どこでいつ演奏されたのか(あるいは何のために書いたのか)もわからない3曲の1つであるが、この曲には2つの版があり、あとの版ではクラリネットを加えて木管の響きを変えると同時に音を厚くしている。

その理由はいくつか推測できるとして、その中には、モーツァルトが大きな弦編成を考えていたということも挙げられよう。

この曲をひどく感傷的な理由で、原形のまま演奏することも行われるようだが、モーツァルトが自分の意志でわざわざ改作したものを、ことさらに原形に演奏するのは愚かなことではあるまいか。

カラヤンは? カラヤンはもちろんクラリネットを入れた形で演奏している。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 20:49コメント(0)トラックバック(0) 

2015年08月06日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



クレンペラーはモーツァルトが大好きだったようで、交響曲を筆頭に、オペラから協奏曲、セレナーデなど数多くのレパートリーを演奏していた。

本セットに収められたモーツァルトの後期6大交響曲集の名演としては、ワルター&コロンビア交響楽団、ベーム&ベルリン・フィル、クーベリック&バイエルン放送響などによる名演がいの一番に思い浮かぶ。

これらの名演と比較すると、本盤に収められたクレンペラーによる演奏は、一部の熱心なファンを除き、必ずしもこれらのベストの名演との評価がなされてきたとは言い難いと言っても過言ではあるまい。

確かに本演奏は、前述の名演が基調としていた流麗な優美さなどは薬にしたくなく、むしろ、武骨なまでに剛直とさえ言えるところだ。

クレンペラーは悠揚迫らぬインテンポで、1音1音を蔑ろにせず、各楽器を分厚く鳴らして、いささかも隙間風の吹かない重厚な演奏を展開している。

まさにクレンペラーは、ベートーヴェンの交響曲を指揮する時と同様のアプローチで、モーツァルトの交響曲にも接していると言えるだろう。

しかしながら、一聴すると武骨ささえ感じさせる様々なフレーズの端々から漂ってくる深沈たる情感の豊かさには抗し難い魅力があると言えるところであり、このような演奏の彫りの深さと言った面においては、前述の名演をも凌駕しているとさえ思われるところである。

巧言令色とは程遠い本演奏の特徴を一言で言えば、噛めば噛むほど味が出てくる味わい深い演奏ということになる。

いずれにしても本演奏は、巨匠クレンペラーだけに可能な質実剛健を絵に描いたような剛毅な名演と高く評価したい。

その、武骨な中にも共感に満ちた演奏の数々は、現在聴いても存在感たっぷりで、意外にも快速なテンポで飛ばす『リンツ』から、巨大なスケールで対位法の面白さを印象づける『ジュピター』に至るまで、聴きごたえある演奏が揃っている。

近年では、モーツァルトの交響曲の演奏は、古楽器奏法やピリオド楽器を使用した演奏が主流となりつつあるが、そのような軽妙な演奏に慣れた耳からすると、クレンペラーによる重厚にしてシンフォニックな本演奏は実に芸術的かつ立派に聴こえるところであり、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになる聴き手は筆者だけではあるまい。

音質は今から約50年ほど前の録音であるが、従来CD盤でも比較的満足できる音質であったと言える。

このような中で、数年前にHQCD化されたことにより、音質は更に鮮明になるとともに音場が幅広くなったように感じられるところであり、筆者も当該HQCD盤を愛聴してきたところだ。

しかしながら、先般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤やHQCD盤とは次元が異なる見違えるような、そして約50年前のスタジオ録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

いずれにしても、クレンペラーによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 20:48コメント(0)トラックバック(0) 

2015年08月04日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



洗練を極めたジュリー二の『ドン・ジョヴァンニ』である。

バス歌手によって歌われたタイトル・ロールとしては1954年のフルトヴェングラー、シエピによるザルツブルク・ライヴが個人的には圧倒的な名演として思い出されるが、一方バリトンが歌ったものではこの1959年のセッションを最も優れた『ドン・ジョヴァンニ』として挙げたい。

それは主役のヴェヒターだけではなく、タッデイ、シュヴァルツコップ、サザーランド、シュッティ、アルヴァ、カプッチッリのキャスティングが万全で、全体的に見通しの良い、また重厚になり過ぎないイタリア趣味の音楽に仕上げてあるのが特徴だ。

歌手もオーケストラもインターナショナルな混成メンバーであるにも拘らず、ジュリー二の統率が素晴らしくモーツァルト特有の瑞々しさ、シンプルな美しさ、そして終幕のデモーニッシュな翳りはやや控えめにして、むしろ作品の快活さを前面に出している。

エヴァーハルト・ヴェヒターの颯爽たるドン・ジョヴァンニは、若々しく品のある貴族然とした歌唱で、この役柄を劇中で突出させることのない等身大の人物に描いてみせている。

ヴェヒターだけではないが、ジュリー二の指導の成果と思われるイタリア語のレチタティーヴォの発音とそのニュアンスの多様な表現を誰もが巧妙にこなしていることにも感心した。

こうした番号制のオペラではストーリーの展開を手際良く進め、それぞれの役柄を明確にするために欠かせない唱法だが、イタリア人以外の歌手達も流石に巧い。

またこの演奏でジュリーニは狂言回し的なレポレッロ役にもバスではなく、バリトンのタッデイを配して軽妙なドラマ・ジョコーソの味を出している。

バスとバリトンの明確な区別がなかった時代の作品なので、ここでも声質の特徴を見極めた歌手の抜擢が功を奏している。

ジュリーニはオペラ指揮者としての手腕を高く評価された人だが、現在では彼の振ったオペラは管弦楽に比べるとそれほど話題に上らないのが残念だ。

確かにジュリーニは1970年代に入るとオペラ界から次第に手を引いていき、メトロポリタンからの招聘も断わり続けた。

その理由は忙しく世界中の劇場を移動して歌いまくる質の落ちた歌手と、短時間のやっつけ仕事で仕上げなければならない制限された稽古では、ジュリーニの理想とする舞台作品を創造することが困難だと考えたからだ。

辛辣だが真摯に音楽に奉仕する指揮者としてのポリシーを貫いた見解で、ジュリーニの芸術家としての固い信念が窺える。

これだけオペラに造詣が深く、経験豊富なベテラン指揮者を失ってしまったことは、オペラ界にとっても大きな損失だったに違いない。

尚4枚目はボーナスCD−ROMになっていて、CD初出時のライナー・ノーツ及びイタリア語の全歌詞と独、英、仏の三ヶ国語の対訳が掲載されており、バジェット価格盤にしては親切な配慮だ。

1959年の録音だが、リマスタリングされた音質は極めて良好。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 20:44コメント(0)トラックバック(0) 

2015年08月01日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



オトマール・スウィトナーは長くNHK交響楽団を指揮をしていたので日本になじみが深かった指揮者である。

この5枚組CDでは、スウィトナーが最も得意としてきたモーツァルトのオペラ演奏の最良の録音を聴くことができる。

スウィトナーは当然ながら自国の作曲家モーツァルトを重要なレパートリーにしていたが、この5枚組の作品集はベルリン・レーベルから2セットほどリリースされているうちの劇場用作品を集めたものでオペラ序曲集、『コシ・ファン・トゥッテ』全曲、そしてバリトンのヘルマン・プライ及びテノールのペーター・シュライアーとのアリア集がそれぞれ1枚ずつ加わっている。

ちなみにもうひとつの方は交響曲を始めとする6枚組のオーケストラル・ワーク集になる。

いずれもスウィトナーの生気に満ちて機知に富んだモーツァルトが鑑賞できる理想的なアルバムとしてお薦めしたい。

オーケストラは後半の2枚のアリア集がシュターツカペレ・ドレスデンで、それ以外は総てシュターツカペレ・ベルリンとの共演になる。

序曲集での疾走感と共に気前良く引き出す音響は彼の才気を感じさせるオリジナリティーに溢れたモーツァルトだ。

スウィトナーの仕事の中でもその基礎固めになったのがドレスデンとベルリンの国立歌劇場でのカペルマイスター、つまり楽長としてシーズン中のオペラやバレエの上演と定期的なコンサートの公演をすることだった。

純粋な器楽曲に比較すれば劇場用作品は歌手やコーラス、バレエとの下稽古、演出家との打ち合わせや舞台美術を伴ったリハーサルなど、煩雑な準備を経なければ実現できない。

それゆえカペルマイスターは高い音楽性の持ち主だが厳格であるよりはむしろ融通の利く、また制作に携わる人々や出演者から信頼を得る人柄が要求される。

実際スウィトナーの音楽を聴いていると八方を見極めて俯瞰しながら音楽をまとめていく稀有な才能を感じさせるし、作品のディティールは疎かにしないが細部に凝り過ぎず、全体に一貫する大らかなトーンを生み出す手腕はモーツァルトとも極めて相性が良い。

こうした声楽を含む曲種では歌唱だけでなく感情の機微を良く心得ていたスウィトナーの人柄が滲み出たサポートを聴くことができる。

またヘルマン・プライのアリア集は手に入りにくい状態だったので、ペーター・シュライアーの1枚と共にここに収録されたことを歓迎したい。

スウィトナーの柔らかなバックでプライが自由自在に歌う、その伝説的録音があざやかな音で蘇っている。

尚スウィトナーの80歳記念にリリースされた11枚組にはシルヴィア・ゲスティのソプラノによる、やはりドレスデンとの演奏会用コロラトゥーラ・アリア集が組み込まれているが、どちらにもバス用のアリア集が欠けている。

スウィトナーはバスのテオ・アダムともモーツァルト・アリア集を録音しているが総てバリトンのレパートリーで、『後宮』のオスミンや『魔笛』のザラストロなどの本格的なバスのためのアリアをオペラ全曲盤でしか聴けないのが残念だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 20:55コメント(0)トラックバック(0) 

2015年07月31日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ベームは終生に渡ってモーツァルトを深く敬愛していた。

ベルリン・フィルと成し遂げた交響曲全集(1959〜1968年)や、バックハウスやポリーニと組んで演奏したピアノ協奏曲の数々、ウィーン・フィルやベルリン・フィルのトップ奏者との各種協奏曲、そして様々なオペラなど、その膨大な録音は、ベームのディスコグラフィの枢要を占めるものであると言っても過言ではあるまい。

そのようなベームも晩年になって、ウィーン・フィルとの2度目の交響曲全集の録音を開始することになった。

しかしながら、有名な6曲(第29、35、38〜41番)を録音したところで、この世を去ることになってしまい、結局は2度目の全集完成を果たすことができなかったところである。

ところで、このウィーン・フィルとの演奏の評価が不当に低いというか、今や殆ど顧みられない存在となりつつあるのはいかがなものであろうか。

ベルリン・フィルとの全集、特に主要な6曲(第35、36、38〜41番)については、リマスタリングが何度も繰り返されるとともに、とりわけ第40番及び第41番についてはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化もされているにもかかわらず、ウィーン・フィルとの録音は、リマスタリングされるどころか、国内盤は現在では廃盤の憂き目に陥いろうという極めて嘆かわしい現状にある。

確かに、本盤に収められた第38番及び第39番の演奏については、ベルリン・フィルとの演奏と比較すると、ベームならではの躍動感溢れるリズムが硬直化し、ひどく重々しい演奏になっている。

これによって、モーツァルトの交響曲に存在している高貴にして優美な愉悦性が著しく損なわれているのは事実である。

しかしながら、一聴すると武骨とも言えるような各フレーズから滲み出してくる奥行きのある情感は、人生の辛酸を舐め尽くした老巨匠だけが描出し得る諦観や枯淡の味わいに満たされていると言えるところであり、その神々しいまでの崇高さにおいては、ベルリン・フィルとの演奏をはるかに凌駕していると言えるところである。

モーツァルト指揮者としてのベームは、「どんな相談にものってくれる博学の愛すべき哲学者」といった雰囲気をたたえており、彼の前に立っているだけで嬉しい気分になってしまう。

ウィーン・フィルとの録音は確かに多数残されたが、このモーツァルトはベームが亡くなる前のほぼ5年間に録音されたものである。

絶妙なるテンポを背景とする自然な音の流れ、磨き抜かれているが決して優しさを失わないフレージング、引き締まったアンサンブルを背景に繰り広げられる演奏はまさに生きた至芸と言いたい。

聴き手それぞれに思い入れのある名演であるが、筆者の座右宝はまずは第38番だ。

いずれにしても、総体としてはベルリン・フィル盤の方がより優れた名演と言えるが、本演奏の前述のような奥行きのある味わい深さ、崇高さにも抗し難い魅力があり、本演奏をベームの最晩年を代表する名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

音質については、従来盤でも十分に満足できる音質であるが、今後は、リマスタリングを施すとともにSHM−CD化、更にはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなどによって、本名演のより広い認知に繋げていただくことを大いに期待しておきたい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:46コメント(0)トラックバック(0) 

2015年07月30日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



哀愁を帯びた旋律が古典美の極致を示す、悲愴なパトスを湛えた劇的緊張に満ち溢れる第40番。

晴朗さが横溢し、雄渾な曲想によって記念碑的な高みに立つ、雄大で力強い曲想の『ジュピター』。

モーツァルトの最後の傑作交響曲2曲を収録した1枚で、ショルティとヨーロッパ室内管弦楽団の初共演となった、両曲とも彼にとって初録音にあたる貴重な演奏を収録したアルバムである。

ところで我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。

現在では、歴史的な名盤と評されているワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

これには、我が国の音楽評論家、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、かかる酷評を鵜呑みにして、例えば本盤の演奏のような名演を一度も聴かないのはあまりにも勿体ないと言える。

ショルティの様々な楽曲の演奏に際しての基本的アプローチは、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなかった。

したがって、楽曲によっては、力づくの強引さが際立った無機的な演奏も散見され、それがいわゆるアンチ・ショルティの音楽評論家を多く生み出す要因となったことについて否定はできないと思われるが、それでも、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

本盤の両曲の演奏においても、そうした聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さには大なるものが存在していると言えるところである。

ショルティは、その芸風との相性があまり良くなかったということもあって、モーツァルトのオペラについては、主要4大オペラのすべてをスタジオ録音するなど、確固たる実績を遺しているが、交響曲については、わずかしか演奏・録音を行っていない。

しかしながら、1980年代に入ると、芸風に円熟味や奥行きの深さが加わってきたとも言えるところであり、その意味においては、本盤の演奏は、ショルティによるモーツァルトの交響曲演奏の1つの到達点とも言うべき名演と言えるのかもしれない。

本盤の演奏は、若者たちのオーケストラと巨匠指揮者の組み合わせの魅力が十分に発揮された演奏である。

こねくりかえした部分が全くない、自然で、率直な、若々しいモーツァルトが実にフレッシュ。

もちろん、本演奏においても、楽想を明晰に描き出していくというショルティならではのアプローチは健在であり、他の指揮者による両曲のいかなる演奏よりも、メリハリのある明瞭な演奏に仕上がっていると言えることは言うまでもないところだ。

第40番は第2版を用いているが、第1楽章冒頭から1つ1つのフレーズに意味があり、感情の陰影も極めて豊か。

第41番も、溌剌とした中にもデリカシーに欠けておらず、数多いこの2曲の録音の中でも注目すべきものとなっている。

もちろん、これら両曲には他に優れた演奏が数多く成し遂げられており、本演奏をベストの演奏と評価することはなかなかに困難であると言わざるを得ないが、一般的な意味における名演と評価するにはいささかも躊躇するものではない。

また、若者たちで構成されているヨーロッパ室内管弦楽団も、ショルティの確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮し、清新な名演奏を展開している点も高く評価したい。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であり、1984年のスタジオ録音とは思えないような鮮度を誇っているのも素晴らしい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:34コメント(10)トラックバック(0) 

2015年07月29日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



このセットはモーツァルト没後200周年記念として1990年にフィリップスから刊行された全180枚のCDからなる『ザ・コンプリート・モーツァルト・エディション』の第8巻「ヴァイオリン協奏曲集」及び第9巻「管楽器のための協奏曲集」として組み込まれていたもので、後に割り当てられていたCD9枚を合体させた形で再販されたが、これは更にそのリイシュー盤として独立させたものになる。

多少古いセッションだが、それぞれが既に評判の高かった名演集で録音状態も極めて良好なので、入門者や新しいモーツァルト・ファンにも充分受け入れられる優れたサンプルとしてお薦めしたい。

またオリジナルのコンプリート・エディションの方は限定盤だったために現在プレミアム価格が付いており、入手困難な状況なのでコレクションとしての価値も持ち合わせている。

シェリングのソロによるヴァイオリン協奏曲は独奏用が6曲、ジェラール・プレとの『2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネハ長調』及び2曲の『ロンド』と『アダージョホ長調』がアレクサンダー・ギブソン指揮、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の協演で収められている。

モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は偽作も含めると都合7曲存在するが、ここでは完全な偽作とされている第6番変ホ長調は除外して、偽作の疑いのある第7番ニ長調は採り上げている。

シェリングの清澄で潔癖とも言える音楽作りが真摯にモーツァルトの美感を伝えてくれる演奏だ。

またCD4にはアカデミア室内のコンサート・ミストレスだったアイオナ・ブラウンと今井信子のソロ、アカデミア室内との『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調』及び『ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための協奏交響曲イ長調』の復元版も収録されている。

CD5からの管楽器奏者達は当時一世を風靡したスター・プレイヤーが名を連ねている。

2曲の『フルート協奏曲』と『アンダンテハ長調』はいずれもイレーナ・グラフェナウアーのソロ、そして彼女にマリア・グラーフのハープが加わる『フルートとハープのための協奏曲ハ長調』、カール・ライスターによる『クラリネット協奏曲イ長調』、クラウス・トゥーネマンの『ファゴット協奏曲変ロ長調』、ペーター・ダムによる4曲の『ホルン協奏曲』と『ロンド変ホ長調』、ハインツ・ホリガーの『オーボエ協奏曲ハ長調』で、オーケストラは総てネヴィル・マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団がサポートしている。

中でもライスターのクラリネットは白眉で、精緻で全く隙のないテクニックに彼特有の清冽な音楽性が冴え渡る演奏だ。

尚ペーター・ダムは『ホルン協奏曲』全曲を1974年にブロムシュテット&シュターツカペレ・ドレスデンとも録音しているが、こちらは1988年の2回目のセッションで、より古典的で室内楽的なスタイルを持っている。

最後の2枚に入っている4つの管楽器のための協奏交響曲については、オーレル・ニコレのフルートとヘルマン・バウマンのホルンが加わる復元版と、現在残されているオーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンのソロ楽器群による従来版の2種類が演奏されている。

パリ滞在中のモーツァルトによって作曲されたと推定されるソロ楽器はフルート、オーボエ、ファゴット、ホルンで、ここではアメリカの音楽学者ロバート・レヴィンがオーボエの替わりにフルートを入れ、クラリネットのパートをオーボエに移した復元版を採用している。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 20:53コメント(0)トラックバック(0) 

2015年07月25日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



イタリア・ヴァイオリン界の双璧といえばウト・ウーギとサルヴァトーレ・アッカルドで、イタリア国内でも彼らは根強い人気を二分している。

幸いどちらも同世代の現役として演奏活動を行っていて、イタリアお家芸の看板ヴァイオリニストといった存在だ。

ウーギは3歳年上のアッカルドと共に、コレッリ以来の伝統芸術を継承する典型的なヴァイオリニストであり、幼い頃から英才教育を受けることができた恵まれた環境に育った。

10歳の時パリに留学してエネスコが亡くなるまでの2年間彼に師事しているので、グリュミオーやメニューインとも同門下とも言えるが、その後に形成されたウーギのスタイルからはイタリアの音楽から切り離すことができない血統のようなものさえ感じられる。

ウーギの磨きぬかれた光沢のある滑らかな弦の響きと屈託のないロマンティシズムから導き出される仄かな官能性には比類がない。

このCDの音源は1979年のアナログ・セッションで、ピアノはマリア・ティーポが弾いている。

モーツァルトのようなシンプルな構造の音楽を完璧に演奏するのは難しい。

曲中に音楽的な表現や奏法の基礎が総て含まれている上に、ごまかしが利かないので演奏者の持ち合わせている長所も欠点もあらわになってしまうからだが、彼らの演奏は一点の曇りもないほど晴朗で、またアンサンブルの合わせでも古典的な均衡を崩さない第一級の手腕を示している。

ウーギの演奏の特徴は楽器が持つ総ての特性を引き出しながら、ムラのない美音を縦横に駆使するカンタービレにある。

ウーギのあざとさのないカンタービレと淀みのない開放的で自然なフレージングがことのほか美しい。

名器ストラディヴァリウスから奏でられる音色も極めて魅力的だが、耽美的でないことも好ましい。

あらゆるフレーズに歌が息づいているがそれが耽美的にならず、古臭さを感じさせないのはウーギがモーツァルトの様式感を決して崩さないからだろう。

一方ナポリ出身のティーポはイタリアでは数少ない女流ピアニストだが、彼女の母親がブゾーニの弟子だったということから名人芸だけでなく、楽理的にも造詣が深いことが想像されるが、ここでは意外にも抑制を効かせた歌心が発揮されていて伴奏者としても秀でた側面を聴かせてくれる。

ちなみにソニーからリリースされたウーギの録音集大成18枚組には何故かこのリコルディ盤のモーツァルト・ソナタ集は含まれていない。

当時のLP1枚分をそのままCD化したものなので収録時間が42分と短く、見開き1枚のイタリア語のリーフレットしか付いていないが、ここでウーギが使用しているヴァイオリンは1701年製のストラディヴァリウスで、かつてベートーヴェンの友人でもあったルドルフ・クロイツァーの所有していた楽器との説明がある。

ストラディヴァリウス特有の明るく伸びやかで、しかも深みのある音色が特徴で、録音状態の良さと相俟ってウーギの至芸が理想的な音質で鑑賞できる1枚だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:35コメント(0)トラックバック(0) 

2015年07月15日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ベームの音楽は厳格さの中に暖かな眼差しを感じさせ、押し付けがましいところがなく、いわゆるヴィルトゥオーゾとは違ったタイプの人間味豊かな巨匠であった。

ベームは独墺系の作曲家を中心とした様々な楽曲をレパートリーとしていたが、その中でも中核を成していたのがモーツァルトの楽曲であるということは論を待たないところだ。

ベームが録音したモーツァルトの楽曲は、交響曲、管弦楽曲、協奏曲、声楽曲そしてオペラに至るまで多岐に渡っているが、その中でも1959年から1960年代後半にかけてベルリン・フィルを指揮してスタジオ録音を行うことにより完成させた交響曲全集は、他に同格の演奏内容の全集が存在しないことに鑑みても、今なお燦然と輝くベームの至高の業績であると考えられる。

現在においてもモーツァルトの交響曲全集の最高峰であり、おそらくは今後とも当該全集を凌駕する全集は出て来ないのではないかとさえ考えられるところだ。

本盤に収められた後期交響曲集は当該全集から抜粋されたものであるが、それぞれの楽曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

ベームは、モーツァルトを得意とし、生涯にわたって様々なジャンルの楽曲の演奏・録音を行い、そのいずれも名演の誉れが高いが、その中でもこれらは金字塔と言っても過言ではない存在である。

近年では、モーツァルトの交響曲演奏は、小編成の室内オーケストラによる古楽器奏法や、はたまたピリオド楽器の使用による演奏が主流であり、本演奏のようないわゆる古典的なスタイルによる全集は、今後とも2度とあらわれないのではないかとも考えられるところだ。

同様の古典的スタイルの演奏としても、ベーム以外にはウィーン・フィルを指揮してスタジオ録音を行ったレヴァインによる全集しか存在しておらず、演奏内容の観点からしても、本ベーム盤の牙城はいささかも揺らぎがないものと考える。

本全集におけるベームのアプローチは、まさに質実剛健そのものであり、重厚かつシンフォニックな、そして堅牢な造型の下でいささかも隙間風の吹かない充実した演奏を聴かせてくれていると言えるだろう。

この録音の頃のベームには、まだ最晩年ほどテンポの遅さからくる重苦しさがなく、本演奏においてはいまだ全盛期のベームならではの躍動的なリズム感が支配しており、テンポも中庸でいささかも違和感を感じさせないのが素晴らしい。

モーツァルトの音楽のもつ、しなやかな表情や、甘美な情緒よりも、構成的な美しさや、内容的な芯の強さをあらわした演奏で、感傷的な流れに陥らず、きわめて硬質な、しっかりとした表現である。

作品のもつ愉悦的な明るさは、いまひとつ直接的に伝わってこないが、老大家ベーム特有の深い味が滲み出ている。

ベルリン・フィルも、この当時はいまだカラヤン色に染まり切っておらず、フルトヴェングラー時代の名うての奏者が数多く在籍していたこともあって、ドイツ風の音色の残滓が存在した時代でもある。

したがって、ベームの統率の下、ドイツ風の重心の低い名演奏を展開しているというのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

このような充実した重厚でシンフォニックな演奏を聴いていると、現代の古楽器奏法やピリオド楽器を使用したこじんまりとした軽妙なモーツァルトの交響曲の演奏が何と小賢しく聴こえることであろうか。

本演奏を、昨今のモーツァルトの交響曲の演奏様式から外れるとして、大時代的で時代遅れの演奏などと批判する音楽評論家もいるようであるが、我々聴き手は芸術的な感動さえ得られればそれでいいのであり、むしろ、軽妙浮薄な演奏がとかくもてはやされる現代においてこそ、本演奏のような真に芸術的な重厚な演奏は十分に存在価値があると言えるのではないだろうか。

いずれにしても、本盤は、モダン・オーケストラによるスタンダードな超名演と言えるだけの質を持っており、今後とも未来永劫、その存在価値をいささかも失うことがない歴史的な遺産であると高く評価したい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 20:52コメント(0)トラックバック(0) 

2015年06月24日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ルドルフ・ブッフビンダーが1997年から翌98年にかけてウィーン・コンツェルトハウスで行った定期演奏会からモーツァルトのピアノ協奏曲20曲と『ロンドニ長調』を9枚のCDに収録している。

ようやく日本でも実力が知られてきた感があるウィーン系ピアニスト、ブッフビンダーのモーツァルト:ピアノ協奏曲集。

このセットの特徴は全曲ブッフビンダーがウィーン交響楽団を弾き振りしたライヴ音源からのCD化で、コンサートの期間も集中していたために彼の楽曲に対する解釈にも、またCDの音質の面でも一貫した統一感がある。

近年ブッフビンダーはライヴ録音を精力的に行っているが、それはオーガナイズ側の制作費の節減もあるだろうが、一方で彼自身の演奏に取り組むポリシーの実現化であることは疑いない。

モーツァルトのピアノ協奏曲集には幾多の名盤があり選択肢が多いが、ピアノもオケも、音をしっかりと鳴らし、素直な表現で、美しい演奏を聴かせてくれる。

ブッフビンダーのピアノは、気品に溢れ明快であり、モーツァルトに誠実に取り組む姿勢が伝わってくる。

ここではウィーン系のピアニストが地元のオーケストラを弾き振りしていることも重要な鑑賞ポイントになるだろう。

ブッフビンダー自身はボヘミア出身だが、5歳の時からウィーン音楽アカデミーで学んだことで、彼は伝統的なウィーンの奏法を身につけている。

弾き振りだけあってウィーン交響楽団とのバランスが絶妙で、ピアノの音が実に優雅である。

ブッフビンダーの先輩にはモーツァルトの権威でもあるバドゥラ=スコダを筆頭にグルダ、デムス、ヘブラーなど錚々たるピアニストがいるが、彼らの中で系統的なモーツァルトのピアノ協奏曲全曲を録音したのはヘブラーだけのようだ。

尚このセットは全曲集ではないが代表的な作品は総てカヴァーしている。

また弾き振りではペライア、ポリーニ、内田光子などの先例があるにしても、オーケストラを巧みに統制しながら瑞々しい音色をオーケストラから引き出した指揮者としての手腕も流石だ。

ブッフビンダーの弾き振りの秘訣はその合わせ技にあると思う。

それはおそらくブッフビンダーの長期間に亘るアンサンブル・ピアニストとしてのキャリアの賜物だろう。

確かにブッフビンダーの参加したアンサンブルはどの曲も核心をつかんだ手堅い演奏だ。

協奏曲の場合でもオーケストラを自分に従わせると同時に、自らが積極的に合わせていく姿勢はひとつの練達の技と言える。

この協奏曲集でもソロを突出させることなくオーケストラから自然にピアノ・パートを浮かび上がらせる采配と、彼のクリアーなタッチから生まれる煌めくような音色が印象的だ。

それぞれの曲に対する解釈は比較的すっきりしていて、そこにウィーン流のシンプルさと音楽の流れを止めない流麗な表現がある。

短調で書かれた第20番や第24番でも深刻になり過ぎず、良い意味での軽さを失わずに極めて整然とした様式感を感知させているところにもウィーン趣味が表れている。

現役のピアニストでこれだけ真摯に自然体でモーツァルトを弾く人は貴重な存在と言えるところであり、ピアノ・ソナタへの取り組みも期待したい。

収録曲はピアノ協奏曲第5、6、8、9番、第11番から第18番、第20番から第27番までの20曲と、ピアノとオーケストラのための『ロンドニ長調』だが、ひとつにまとめられたボックス仕様ではなく、それぞれが独立したジュエル・ケースに入った9枚のCDの集合体であるために、枚数のわりにはかさばるのが欠点だ。

独、英語によるモーツァルトのピアノ協奏曲についてのコメントと、演奏者紹介を掲載したパンフレット程度の数ページのライナー・ノーツが各CDごとに挿入されている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 20:47コメント(0)トラックバック(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



1956年6月14日、引退直前のワルターがフランス国立放送管弦楽団へ客演した際の放送用ライヴ録音。

ワルターが録音した「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の中で、音色や雰囲気の点で、最もロマンティックなのはウィーン盤であるが、解釈自体としていちばんロマン的なのは、この演奏である。

ワルターは慣れないフランスのオケに徹底して自分の解釈をたたきこみ、ときには強引に引っ張ってゆく。

音色こそ乾いて明るいフランス調だが、響きは豊かで厚みに満ち、第1楽章における大きなテンポの動き、第4楽章の極めて遅い運びなど、ワルターのどのレコードよりも著しく、モーツァルトのあふれんばかりの歌とワルター節とを心ゆくまで堪能できる。

従って、ワルターのモーツァルトに疑問を持つ人には最も嫌われる演奏と言えるのかも知れない。

第2楽章のたっぷりとしたカンタービレ、ワルターとしてはやや速めで、音楽に勢いのあるメヌエットもそれぞれ素晴らしく、録音もややドライだが、生々しく採れている。

逆に「フリーメーソンのための葬送音楽」は、2つのコロンビア盤に比して、かなり落ちる。

楽器の分離がやや悪く、旋律線のくっきりしない録音のせいもあるのだろう。

「リンツ」もオーケストラがワルターの指揮ぶりに慣れていないせいか、2つのコロンビア盤との録音よりも、ワルターのロマンティックな表情が強調されて表われており、それがファンにとってはたまらない魅力となる。

第1楽章に頻出するテンポの動きと思い切ったカンタービレは現代の指揮者からは絶対に聴けないし、第2楽章も音楽に対するワルターの愛情や共感がほとばしり出ている。

ワルターは常に「ここはこういう音楽なんだよ」と語りかけるのである。

フィナーレ結尾のアッチェレランドをかけた情熱的な高揚はいつもながらのワルターだ。

第39番は2つのニューヨーク盤ほどのスケールの大きさや豊かな響きには乏しいが、初めの2つの楽章には、完成度が低いからこそ、ワルターの考えがはっきり伝わってくる面白さがある。

第1楽章の導入部からして、がっしりとした大建築物を仰ぎ見るような表現で、翳の濃さや響きの分厚さとともにベートーヴェンを想わせる。

主部に入ると、金管やティンパニがモーツァルト演奏の常識を破って(モーツァルトにおけるこれらの楽器は、フォルテの指定でも指揮者の要求がなければメゾ・フォルテで演奏される)強奏強打され、あふれるような歌に満ち、テンポが大きく変化されて、いわゆる爽やかさやデリカシーといった、モーツァルトの典型的な解釈を求める人には大いに抵抗のある表現が展開される。

コーダの急速な追い込みなど、まさに息詰まるような迫力と言えるところであり、休符の長い間や洒落たテヌートも昔のSPそのままである。

厚みのあるカンタービレがほとばしるようなアンダンテ、情熱的と言いたいくらい思い切ったアクセントを持ったメヌエット、いずれも速めのテンポながら一分の隙もない緊張感を保ちながら進められるが、フィナーレにいたっては、ワルター絶好調の名人芸であろう。

雄大な造型と、めくるめくような迫力と、厚く輝かしい響きを備えながら、同時に比類のない繊細さとアンサンブルの冴えを聴かせ、テーマには微妙な間さえ現われるが、その魅力が何とも言えない。

しかもこの壮麗を極めた演奏は、外側からつけ加えられたものではなく、ワルターの内部から湧き上がった力によっているのだ。

すなわちこれらのロマンティックな表情や迫力が、いささかの人工臭を残さないまでに、昇華されつくしたのである。

慣れないオケをここまで操り、自信にあふれて新しいモーツァルト像を打ち立てたワルターに心から敬意を表したい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:44コメント(0)トラックバック(0) 

2015年06月18日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



フルトヴェングラーの死の年、ベルリン・フィルとの最後の演奏旅行中、ルガーノのテアトロ・アポロにおける実演を録音したものだが、フルトヴェングラーのすべてのディスクの中でも特別の意義を持つ、屈指の名盤と言えよう。

フルトヴェングラーはモーツァルトにあまり深い愛着を持っていなかったらしく、「魔笛」の序曲を犇擬蕊の音楽瓩覆匹噺討鵑任い燭修Δ如遺されたCDもフルトヴェングラーの実力から考えると、信じられないくらいつまらない。

ところが、フルトヴェングラーはやはり天才であった。

死の6ヵ月前に至って、ついにモーツァルトを自分のものにしてしまったのである。

こんな調子で「ジュピター」や「レクイエム」などを遺しておいてくれたら、という愚痴も出るが、今となっては仕方がない。

当時のフルトヴェングラーはかなり耳が遠くなっていたそうで、カール・ベームによればフルトヴェングラーの死は自殺同然だったという。

それが本当ならば、フルトヴェングラーの時代が終わったという認識も大きな原因の1つだろうが、耳が聞こえなくなったことも絶望感も深めたのであろう。

しかし、この「K.466」において、フルトヴェングラーはそんなことは到底信じられないほど強力にオーケストラを統率し、ルフェビュールのピアノと有機的に絡み合ってゆく。

この曲の他のディスクと聴き比べてもフルトヴェングラー盤だけはまったくの別世界なのである。

犁澆い茲Δ發覆へ嶝瓩噺世辰燭蕕茲い里世蹐Δ、他の演奏ではそこここに感じられる爛癲璽張.襯箸量悦瓩まるでないが、音楽として結晶され尽くしているせいか、少しも嫌ではなく、演奏者とともに嘆きつつ、モーツァルトの本質(人生の本質)を垣間見る想いがする。

第1楽章の冒頭からして、フルトヴェングラー自身の声のような、切れば血の出るひびき(あのホルンの強奏!)が聴かれ、まぎれもないフルトヴェングラーのモーツァルトであるが、それが音楽を傷つけるよりはいっそう生かす結果となっている。

フルトヴェングラーにはもはや聴衆など眼中にないように思われてくる。

あれほどの舞台芸術家で、実演において初めて燃えるタイプのフルトヴェングラーが、今は自分のために演奏する。

まことにこれは、爐海寮い悗侶輅未琉篏餃瓩任△蝓堕落を続ける20世紀の音楽界にたった1人で立つ猗犲身へのレクイエム瓩紡召覆蕕覆ぁ

音楽はこの上もなく孤独であり、厳しさのかぎりを尽くし、ヴィブラートは内心の慄きを示してやまない。

いかなる細部もフルトヴェングラー独特の感受性によって映し出され、わけても再現部における弦の伴奏部が、これほど生き物のようにピアノを支えた例は他に決してなかった。

第2楽章も痛ましくはあるが、音楽美として純化され、凛々しさを獲得した倏鯆擦硫劉瓩任△蝓▲侫ナーレももちろん見事だが、筆者にはやはり第1楽章が忘れられない。

晩年のフルトヴェングラーは次のように述べている。

「形式は明確でなければならない。すっきりとして枯れていて、決して余分なものがあってはならない。しかし炎が、炎の核があって、この形式をくまなく照らし出さなければならない」(カルラ・ヘッカー著、薗田宗人訳、『フルトヴェングラーとの対話』)。

まことに「K.466」はこの言葉への理想的な実証である。

イヴォンヌ・ルフェビュールは、1904年生まれのフランスの女流で、日本ではまったく知られていないが、さすがにフルトヴェングラーが選んだだけあって、見事なモーツァルトを聴かせてくれる。

デモーニッシュな大きさには欠けるが、巨匠の造型の中にぴったりと入り込み、指揮者との魂の触れ合いが芸術的感興に聴く者を誘うのだ。

やや冷たい、小味な音は澄み切ってモーツァルトの心を伝え、多用されるルバートも決してべたつきはせず、時には劇的なフォルテも見せるのである。

第2楽章の中間部やフィナーレあたり、女流らしい弱さがあるが、その代わり感じ切ったピアニッシモの美しさは絶品というべく、フルトヴェングラーとともに、肺腑を抉るような哀しさが、しかも超俗の雰囲気を湛えて、比類もない高みに到達している。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:44コメント(0)トラックバック(0) 

2015年06月16日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



本盤に収められているのは、カルミニョーラが、同じイタリア人の大指揮者アバドと組んでスタジオ録音を行ったモーツァルトのヴァイオリンのための協奏曲全集からの有名な楽曲の抜粋である。

因襲的なスタイルから脱皮し交響的協奏曲へ一歩踏み出した第3番、青年期の最高傑作のひとつである洗練度と深みを増した第5番、中間楽章での憂いを帯びた感情の表出が印象的な協奏交響曲といったモーツァルトのヴァイオリンのための協奏曲集。

独奏はモダンとバロック両方のヴァイオリン演奏法を修得し、きわめて幅広いレパートリーを擁するカルミニョーラ。

指揮のアバドが若い演奏家を集めて創設したモーツァルト管弦楽団との共演であるが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。

本演奏の特徴を一言で言えば、ソロ奏者、指揮者、オーケストラの全員が実に楽しげに音楽を奏でているということではないかと考えられる。

カルミニョーラのヴァイオリンは、モーツァルトの若い時代の作品であるということもあってもともと卓越した技量を要するような楽曲ではないという側面もあるが、自らの技量をいささかも誇示することなく、あたかも南国イタリアの燦々と降り注ぐ陽光のような明瞭で伸びやかな演奏を披露してくれているのが素晴らしい。

カルミニョーラは既に1997年にイル・クァルテットーネとの弾き振りでこの曲集をリリースしているが、この新録音の方がテンポの設定が速めで、10年前の方がかえって落ち着いた古典的な優雅さを保っている。

例えば第5番の名高いテンポ・ディ・メヌエットでの目の覚めるようなダイナミックな対比が以前より一層徹底されている。

こうした劇的な生命力に漲ったシュトゥルム・ウント・ドラング的な曲作りはカルミニョーラ自身がアバドに要求した意向のようで、全曲ともピッチはやや低めのa'=430を採用している。

カデンツァは彼の師になるフランコ・グッリの手になるもので、音楽的にも技巧的にもかなり充実した内容を持っている。

またソロ・ヴィオラが加わる協奏交響曲では若手の女流ヴィオラ奏者、ダニューシャ・ヴァスキエヴィチが起用されている。

カルミニョーラの使用楽器はストラディヴァリウス(BAILLOT,1732年)で数年前にボローニャ貯蓄銀行財団から貸与された名器だ。

彼は1951年生まれだから、この録音があった2007年は55歳の円熟期にあり、現在でもイタリアのヴァイオリニストの中では最も充実した演奏活動を行っている。

彼のレパートリーはバロックから古典派にかけてが中心で、ピリオド奏法を駆使したメリハリのある表現と凝り過ぎないストレートなカンタービレ、それに名器ストラディヴァリウスの明るく艶やかな響きが特徴だ。

アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督退任の少し前に大病を患ったが、大病克服後は音楽に深みと鋭さを増すことになり、現代を代表する大指揮者と言える偉大な存在であったが、本演奏においては、親交あるカルミニューラやヴィオラのヴァスキエヴィチ、そしてモーツァルト管弦楽団などの若い音楽家たちを温かく包み込むような滋味溢れる指揮ぶりが見事である。

若手の才能ある演奏家で構成されているモーツァルト管弦楽団も、いわゆる古楽器奏法を駆使した演奏ではあるがいささかも薄味には陥っておらず、フレッシュな息吹を感じさせるような躍動感溢れる名演奏を展開しており、演奏全体に清新さを与えるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

ヴィブラートを最小限に抑えた歯切れの良いリズム感や軽快なテンポの運び方は晩年のアバドの音楽観の変化とモーツァルトの作品に対する新しい解釈を試みているようで、老いて益々意欲的な活動が頼もしい。

録音については、従来盤でも十分に満足し得る高音質であったが、今般のSHM−CD化によって若干ではあるが音質がより鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように感じられるところだ。

このような新鮮味溢れる名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:54コメント(0)トラックバック(0) 

2015年06月12日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



セルが遺した録音を俯瞰してみると、やはり古典派の演奏がことに素晴らしく、本盤に収められたモーツァルトも凡百のアルバムとは一線を画す、セルの面目躍如とした好演と言えよう。

セルの芸術が、モーツァルトと実によくフィットしており、無駄のない歯切れのよい演奏で、ウィーン風ではないかもしれないが、オケのバランスが素晴らしい。

そして、実に引き締まった筋肉質の演奏であるとともに、インスピレーションに導かれたクリスタルのような名演だ。

喜びと悲しみが表裏一体となった演奏と言えるところであり、まさに、セル&クリーヴランド管弦楽団の全盛期の演奏の素晴らしさを存分に味わうことができると言えるだろう。

セルは、先輩格である同じハンガリー出身の指揮者であるライナーや、ほぼ同世代でハンガリー出身のオーマンディなどとともに、自らのオーケストラを徹底して鍛え抜いた。

セルの徹底した薫陶もあって、就任時には二流の楽団でしかなかったクリーヴランド管弦楽団もめきめきとその技量を上げ、ついにはすべての楽器セクションがあたかも1つの楽器のように奏でると言われるほどの鉄壁のアンサンブルを構築するまでに至った。

「セルの楽器」との呼称があながち言い過ぎではないような完全無欠の演奏の数々を成し遂げていたところであり、本盤の演奏においてもそれは健在である。

モーツァルトの交響曲第35番、第40番、第41番の名演としては、優美で情感豊かなワルター&コロンビア交響楽団による演奏(第40番についてはウィーン・フィルとの演奏)や、それにシンフォニックな重厚さを付加させたベーム&ベルリン・フィルによる演奏が名高いと言えるが、セルによる本演奏はそれらの演奏とは大きく性格を異にしていると言えるだろう。

3曲ともすみずみまでコントロールされた表現であり、現代的とも言える鋭い感覚がみなぎっている。

きりりと引き締まったアンサンブルがとても魅力的で、演奏の即物性において、演奏全体の造型の堅牢さにおいてはいささかも引けをとるものではない。

テンポといい表情といい、よく整っているその中にセルの情感がテンポの動きやダイナミックな変化の中に浮かび上がってくる。

「ハフナー」交響曲の冒頭、生きのいい音楽がはじまった瞬間から、巨匠セルとクリーヴランド管弦楽団が奏でる演奏に引き込まれる。

特に、ト短調シンフォニーの共感に満ちた歌と悲愴美は音楽を豊かに色どっており、説得力が強い。

いつものセルと比較してテンポの緩急の変化が大きく、時におやっと思えるほど際立った動きをみせ、メリハリのある演奏で聴きごたえがある。

圧巻は、本CD最後に収められた「ジュピター」シンフォニーの演奏で、速いテンポで率直にあっさりと表現していて、情緒というよりは感覚的で明快な表現を志向しているようだ。

両端楽章がリズミックで威風堂々としていて、フレージングや間の取り方のひとつひとつに名人芸とも言うべき味わいがあって魅了される。

全4楽章が厳しく引き締められているが、第2楽章ではほのぼのとした温かさも感じさせる。

とりわけ、第3楽章から終楽章にかけての演奏は素晴らしく、聴いていてまさに天上にいたる心地で、天からの贈り物のようなモーツァルトの音楽を堪能させてくれる。

そして、各フレーズにおける細やかな表情づけも、各旋律の端々からは汲めども尽きぬ豊かな情感が湧き出してきており、決して無慈悲で冷徹な演奏には陥っていない点に留意しておく必要がある。

いささかオーケストラの機能美が全面に出た演奏とも言えなくもないところであり、演奏の味わい深さという点では、特に第40番については、クリーヴランド管弦楽団との来日時のライヴ録音に一歩譲るが、演奏の完成度という意味においては申し分がないレベルに達しており、本盤の演奏を全盛期のこのコンビならではの名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:44コメント(0)トラックバック(0) 

2015年05月30日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



昔から慣れ親しんできたワルターのモーツァルト集で、ワルター以降も数えきれないほど幾多の音源はあるが、モーツァルト演奏の規範的演奏として多くのリスナーから圧倒的な支持を得てきた歴史的名盤の集成が廉価盤で再登場した。

これほど「幸福とは何か」を教えてくれる演奏はあるまい。

しかし、筆者が述べるのは、その場限りの幸福ではなく、長い人生を通じてのひとつの「幸福」である。

愉しかったり嬉しいことばかりでなく、辛いことや悲しみも含め、なお「この人生は美しかった」と思える幸福のことだ。

ワルターのモーツァルト演奏での評価は、若い頃から高いものがあり、後年のワルターには、演奏前に楽屋の片隅でモーツァルトの霊と交信している姿が垣間見られたという伝説まで生まれたほどである。

その魅力を簡潔に言えば、「温かみ」「微笑み」「共感」といった人間的な魅力と独特の品位を秘めた、しかし確固たる自信にあふれた解釈にある。

ワルターはモーツァルトを得意として、数多くの名演を遺してきたが、ワルターのモーツァルトが素晴らしいのは、モーツァルトの交響曲を規模が小さいからとして、こじんまりとした演奏にはしないということ。

あたかも、ベートーヴェンの交響曲を演奏する時と同じような姿勢で、シンフォニックで重厚、かつスケールの大きな演奏を行っている。

近年の、ピリオド楽器を活用したり、古楽器奏法などを駆使した演奏とは真逆を行くものと言えるが、果たして、近年のそうした傾向が芸術の感動という観点から正しいと言えるかどうかは、筆者としては大いに疑問を感じている。

それらの中には、一部には芸術的と評価してもいい演奏も散見される(ブリュッヘン、インマゼール等)が、ほとんどは時代考証的な域を出ない凡庸な演奏に陥っている。

これは大変嘆かわしいことであり、それならば、仮に時代遅れと言われようが、ワルターのシンフォニックな演奏の方に大いに軍配をあげたくなる。

それらに比してワルターの、なんと穏やかで暖かく、底に秘められた力と情緒の美しさが全体を包み上げるスケールの大きな表現であろうか。

1曲1曲、いかにも職人が作り上げたというような、玄人肌の感触があり、音楽の表情づけがあたたかで柔らかく、今では滅多に聴くことのできないようなロマンティックでゆったりとしたヒューマンなモーツァルトが、かえって新鮮に感じられる。

ワルターのような、いわば古典的な名演を聴いていると、どこか故郷に帰った時のようにほっとした気分になるのは、必ずしも筆者だけではあるまい。

それにしても、本名演の、シンフォニックかつ重厚でありながら、随所に見られるヒューマニティ溢れる情感豊かさを何と表現すればいいのだろうか。

堂々とした風格の中に、独特の柔らかで優美な雰囲気が感じられ、とてもチャーミング。

長い人生における豊富な積み重ねといったものを背景にしながら、モーツァルトへの愛情の深さを真正面から告げていくような演奏内容はとても格調が高く、ワルターならではのモーツァルトである。

ワルターが最晩年まで続けていたというモーツァルトの総譜の徹底的な追究(スコアを写譜することによって)が、ワルター自身の円熟とともに、明晰に、しかもロマン的な表情をもって生かされているし、そのテンポも自在なものを思わせている。

「プラハ」の随所に漂う典雅なニュアンスの込め方も感動的であるし、第40番の、特に第1楽章の魔法のようなテンポの変化や絶妙のゲネラルパウゼは、ワルターだけが可能な至芸と言えるだろう。

その他の楽曲も、揺るぎなく雄大な造型の中に、モーツァルトへの愛情が湛えられた演奏で、ワルターの音楽人生の総決算として聴くのも、感慨深い。

コロンビア交響楽団は中編成だが、ワルターの見事な統率の下、極上の美演を披露していて、申し分ない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 20:52コメント(0)トラックバック(0) 

2015年05月26日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



クーベリックが手兵バイエルン放送交響楽団とともに1980年にスタジオ録音したモーツァルトの後期交響曲集は、往年のワルターやベームの名演にも匹敵する素晴らしい名演として高く評価されている。

クーベリックは、その生涯を通じてモーツァルトを最も得意なレパートリーの1つに数えていた。

もちろん演奏回数も多かったが、長らく務めていたバイエルン放送交響楽団のシェフを辞任してから、はじめてこのオーケストラと後期の交響曲をまとめて録音したが、おそらくクーベリックにとっては記念碑的な意味があったに違いない。

したがって、演奏はこの指揮者の芸術の最良の成果と言えるところであり、そのことごとくが名演である。

レコード・アカデミー賞受賞の名盤としても有名なこのモーツァルト後期交響曲集は、伝統的スタイルを基調とした柄の大きな仕上げが特徴的なものであるが、楽器配置がヴァイオリン両翼型という事もあって声部の見通しは良く、飛び交うフレーズ群の醸し出す生き生きとした雰囲気が実に魅力的。

また、美しい旋律をエレガントに歌わせる一方で、山場では強靱なダイナミズムで決めてくるあたりもこうしたスタイルの美点を生かしたものと言える。

先般、オルフェオから発売されているモーツァルトの交響曲第40番及び第41番の1985年のライヴ録音についてのレビューを記したところであるが、筆者としては、クーベリックによるモーツァルトの交響曲演奏のベストは、当該1985年のライヴ録音であると考えている。

クーベリックは、実演でこそその真価を発揮する指揮者であるだけに、スタジオ録音での第40番や第41番の演奏では、1985年のライヴ録音において存在した楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫や高揚感が今一つ欠けていると言わざるを得ない。

加えて、1985年のライヴ録音においては、すべての反復を行い、スケール極大な演奏に仕立て上げていたが、スタジオ録音においては、おそらくはLP時代の収録時間を気にしたせいも多分にあると思うが、多くの反復を省略している。

ただ、1985年のライヴ録音においてすべての反復を行っていることに鑑みれば、スタジオ録音の演奏が、クーベリックの意図に従ったものであるかいささか疑問が残るところだ。

このように、1985年のライヴ録音と比較すると、スタジオ録音の演奏はいろいろな面で不利な要素が存在していると言わざるを得ないが、それでも、そんじょそこらの演奏などと比較すると、極めて優れた立派な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

演奏全体の様相はシンフォニックで表情が大きく、しかも情緒的で豊かな潤いがある。

当然、かなりの自己主張をみせるのも好ましいが、一方では堅実な造形に隙がなく、モーツァルトの古典美を見事に描いている。

堅牢な造型美を誇りつつも、モーツァルトの交響曲演奏において不可欠な優美さにいささかも不足もなく、まさに安心してモーツァルトの交響曲の魅力を満喫させてくれるのが見事である。

オーケストラもこうしたクーベリックの意図を完全に音にしているが、このような演奏は滅多に生まれるものではない。

第40番や第41番については、1985年盤という高峰の高みに聳える名演が存在するだけに、前述のように若干不利な要素もあるが、少なくとも、本演奏を聴くと、近年のピリオド楽器を活用した演奏は、実に小賢しいものに聴こえてしまうところだ。

いずれにしても、クーベリック&バイエルン放送交響楽団によるモーツァルトの後期交響曲集の録音については素晴らしい名演であり、高貴にして優美な美しさを存分に味わうことができるものとして高く評価したい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 01:05コメント(0)トラックバック(0) 

2015年05月20日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



本BOXには、テイト&イギリス室内管弦楽団によるモーツァルトの交響曲全集が収められているが、現代モーツァルト演奏のひとつの高峰を示した集成であると高く評価したい。

テイトの演奏には、録音当時40代という年齢を思わせない成熟と落ち着きがあり、常にテンポを中庸かやや遅めにとって、決して無理をしないため、音楽に気品があるのも良い。

内部の情熱や意志力を客観的と言えるまで抑制し、音楽的に純粋で、一点一画もおろそかにしないデリケートな演奏は、モーツァルトの多様さがそのまま表れた味わい深い音楽だ。

全曲とも音楽的に磨き抜かれていて、いぶし銀のような響きをもった晴朗な音楽となっており、テイトの良識と知性輝く演奏と言えよう。

透明度も高く、完璧を求める繊細な神経が張り詰め、アンサンブルもきめ細かく精緻、趣味がよく、端然とした音楽だ。

テイトとしては、それぞれの作品を限度まで歌わせているが、活力が強く、モーツァルトの音楽性をよく理解した表現である。

肉体的に大きなハンデを負いながら、ジェフリー・テイトがつくる音楽には少しもひ弱さや翳りがなく、常に生き生きと明晰でバランスが良い。

しかもケンブリッジで医学を修め、音楽家としての正式な教育を受けたのは20代も半ばを過ぎてから、それもロンドンのオペラ・センターで1年学んだだけというのだから、やはり特別な才能の持ち主と言うべきだろう。

その才能は知る人ぞ知るものであったらしく、特に、ブーレーズとカラヤンは、テイトの才能を高く評価していたという。

テイトの本格的なデビュー盤は、本BOXに収められたイギリス室内管弦楽団とのモーツァルトの第40、41番である。

1984年にイギリス室内管弦楽団とモーツァルトの連続演奏会を行なって大成功を収めたテイトは、翌年には同団史上初の首席指揮者に就任し、モーツァルトの交響曲をシリーズで録音することになる。

その成果が本BOXに収められているのであるが、イギリス室内管弦楽団の澄んだ響きを鋭敏な感覚で生かしたその演奏は、爽やかな劇性とともに豊かで深い精神性をそなえている。

もっとも、このモーツァルト・シリーズと、内田光子の希望で1985年に始まったモーツァルトのピアノ協奏曲全集での成功が、デビュー当初のテイトに幾分特定のイメージを与えることになったようである。

現代の若手指揮者のなかで、この人ほどスケールの大きな指揮をする人も珍しい。

爛レンペラーの再来瓩箸泙埜世錣譴討い襪世韻法△修硫山擇詫揚迫らずゆったりとしていて、しかも強固な芯が通っている。

いずれにおいてもテイトは、くっきりとアンサンブルを整え、細部まで的確な読みの通った明快な指揮によって、しなやかな変化にとんだ表現を聴かせてくれる。

時には、もう少し手練手管や適度な誇張があってもと思わないでもないが、バランスの良い構成力と爽やかで自然な音楽の流れから生まれる素直な歌と劇性が魅力である。

管楽器、ことに木管楽器の表情が絶妙で、深々とした呼吸の自然な語り口をもった演奏である。

マッケラス同様、室内オーケストラを指揮しているが、テイトの表現は、さらにシンフォニックでスケールが大きい。

録音の良さも注目すべきで、ことに管楽器群とティンパニの音がはっきりと分離して聴こえるのも、テイト盤ならではの特色である。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 20:53コメント(0)トラックバック(0) 

2015年05月18日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



アバドが初めて録音したモーツァルトの交響曲がこの第40番と第41番「ジュピター」であった。

アバドの指揮する独墺系の作曲家による楽曲については、そのすべてが名演とされているわけではないが、本演奏の当時のアバドは最も輝いていた時期である。

ベルリン・フィルの芸術監督就任後は、借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するアバドではあるが、この時期(1970年代後半から1980年代にかけて)に、ロンドン交響楽団やシカゴ交響楽団、そしてウィーン・フィルなどと行った演奏には、音楽をひたすら前に進めていこうとする強靭な気迫と圧倒的な生命力、そして持ち前の豊かな歌謡性が融合した比類のない名演が数多く存在していた。

本盤の演奏においてもそれは健在であり、どこをとっても畳み掛けていくような気迫と力強い生命力に満ち溢れているとともに、モーツァルト一流の美しい旋律の数々を徹底して情感豊かに歌い抜いていて、その瑞々しいまでの美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。

アバドは2曲共、ゆとりあるテンポを自由に設定しており、管弦に独特のバランスを与えて、モーツァルトの音楽の陰影を拡大してみせるような演奏を聴かせる。

半面、デュナーミクには振幅の大きさと独自の厳しさがあるため、ユニークな表現が生まれている。

その意味では、極めて複雑な演奏様式をもったモーツァルトと言えるが、緩徐楽章にも工夫がこらされており、アバドの自己主張が強く感じられる。

作品を冷静な視線でとらえながら、十分なる歌心でじっくりと歌い込んでいくいかにもアバドらしい仕事ぶりだ。

緻密でありながら推進力にとみ、客観的でありながら冷たくなることのないバランスのとれたモーツァルトであり、作品そのもののすがすがしさがかつてない新鮮さで浮き彫りになっている。

ワルターとカザルスが旧世代を代表する名演だとすれば、アバドは新世代による洗練されたモーツァルトだが、第40番は充実した音楽美のなかから詠嘆の情がそくそくと胸に迫る。

第1楽章のテーマの孤独感はそのレガート奏法とともに上品な哀しみを伝え、アタックはつねに柔らかく、再現部の第1主題(5:40)など、少しも歌っていないのにあふれるような心の表現となるのである。

第2楽章とメヌエットも強調のない寂しさが流れ、後者の中間部ではホルンのソフトな音色が聴く者を慰めてくれる(2:45)。

そしてフィナーレでは素晴らしいアンサンブルとリズム、デリケートな感受性が快く、第2主題(1:03)におけるテンポの変化は現今の指揮者には珍しいケースと言えよう。

「ジュピター」はさらに出来が良く、まことにしなやかで柔軟な棒さばきであり、デリケートなニュアンスに満ち、音楽性満点だ。

指揮者の鋭敏な耳は最高に瑞々しい音色と楽器のバランスを創り出し、第2楽章など、少しも歌っていないのに余情があふれてくる。

弱音に何とも言えぬ香りがあり、かすかな愁いさえ湛えているからであろう。

フィナーレも強靭な構築と内部の燃焼を、表面はいかにもスムーズに流麗に成し遂げたもので、微妙な色合いとアンサンブルの見事さは特筆に価する。

アバドの演奏でやや物足りないのは第1楽章で、美しいことは無類だが、今一つの壮麗な迫力がほしい。

しかし、モダン楽器による演奏で、ワルター、カザルス、バーンスタインなどの表現を好まない人には、最優秀の録音とともに、モーツァルティアンな耳の悦びを与えてくれるはずだ。

ロンドン交響楽団がこれまた素晴らしく、重厚さにはいささか欠けているきらいがないわけではないが、これだけ楽曲の美しさを艶やかに堪能させてくれれば文句は言えまい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:21コメント(0)トラックバック(0) 

2015年05月15日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



白血病という不治の病を患い、49歳という若さでこの世を去らなければならなかった悲劇の指揮者フリッチャイであるが、米国において鉄壁のオーケストラトレーナーとして君臨した同じハンガリー人指揮者のライナーやセル、オーマンディ、そしてショルティなどとは一線を画するようなヒューマニティ溢れる情感豊かな演奏を行っていた。

同じハンガリー人指揮者であったケルテスの海水浴中の不慮の死と同様に、そのあまりにも早すぎる死は、クラシック音楽界にとっても一大損失であった。

仮にもう少しフリッチャイが長生きをしていれば、世界の指揮者地図は大きく塗り替えられることになったのではないかとさえ思われるほどだ。

本盤に収められたウィーン交響楽団とのモーツァルトの交響曲集は、フリッチャイの活躍の舞台が国際的になってからの晩年の録音で、既に白血病を発症したフリッチャイが、懸命の闘病生活の中で演奏を行ったものである。

それだけに、本演奏にかけたフリッチャイの気迫と執念には並々ならぬものがあったことは容易に想像がつくところだ。

フリッチャイのモーツァルトへの熱い共感と晩年の芸風が端的に示された演奏のひとつで、特に第40番のゆったりと大きなうねりをもった運びと豊かなロマンを湛えた表現は独特である。

と同時に、その演奏は、美しく引き締まった音楽の流れと推進力を常に失うことがない。

あたかも、間近に迫る死を予見しているかのような不気味さを湛えているところであり、若干のテンポの変化を交えつつ、1音1音を心を込めて歌い抜き、彫りの深い演奏を展開しているところだ。

その尋常ならざる心の込め方は、時には慟哭にさえ聴こえるほどであり、あたかも忍び寄る死に対して必死で贖おうとするフリッチャイ自身を彷彿とさせるように思われてならない。

非常にゆったりとしたテンポによる演奏ではあるが、冗長さを感じさせず、演奏全体の造型もいささかも弛緩することがない。

そして、これだけ思い入れたっぷりの渾身の熱演を展開しているにもかかわらず、同曲のモダン楽器による演奏において時として見られる陳腐なロマンティシズムに陥ることがなく、どこをとっても格調の高さを失っていないのが素晴らしい。

他方「ジュピター」は、健やかで厳しい表現としなやかに強い音楽の変化が印象的で、ここでも緩徐楽章における豊かに澄んだ気宇の大きな歌が味わい深い。

ここでフリッチャイは、初期からの特徴である明快なリズムやフレージングを保ちながら、表情がいっそう豊かになり、それが演奏に奥行きを与えている。

フリッチャイの演奏様式は、彼に先立つ巨匠たちとは違い、力強くはあっても重くなく、「ジュピター」交響曲にふさわしい威厳と爽やかな気分とを調和させ、彼の円熟を示す演奏の1つと言えよう。

晩年のフリッチャイの演奏に共通しているのは、まさにこうして全人格的に音楽を受け止め、厳しく核心を突いたその表現と言うべきだろう。

49歳で世を去ったフリッチャイは、確かに道半ばで倒れた夭逝の音楽家であり、いわゆる巨匠という範疇には入らない指揮者なのかもしれない。

特に晩年の演奏には、病気をおして短期間にそのキャリアを全力で走り抜けたが故の傷があるのも確かである。

しかし、それだけにまたフリッチャイが、その短い晩年に成し遂げたような変貌と円熟ぶりは、他に例がないと言って良いだろう。

そこには通常は何十年という時間と経験がもたらす円熟とはまた違った、極めて人間的な、そして切実なまでの純粋さと美しさをもった世界がある。

ここには肉体的な危機の中でも音楽に対する情熱を失うことのなかったフリッチャイの音楽家としての志の高さが、はっきりと刻印されている。

そして、まさにこのことが、今も聴き手の心を打ち、その個性的な輝きを失わない理由と言って良いだろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 01:01コメント(0)トラックバック(0) 

2015年05月13日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



本盤は、カラヤンが到達した最晩年の境地を垣間見るモーツァルトを収録したアルバムで、待望の名盤の復活である。

70代後半に入ったカラヤンは、自己の芸術を集大成するかのように意欲的なレコーディングを続けたが、モーツァルトの交響曲はなかなか手がけなかった。

この2曲は、そうしたカラヤンが満を持すように録音した久しぶりのモーツァルト録音であった。

第29番は実に22年ぶり3度目の、第39番は12年ぶり5度目の録音になる。

カラヤンは同じDGへの1975年録音の演奏も、ひたすら突っ走る目眩しく天駆ける飛翔感があり、この2曲の本質を突いた抜群の魅力を持っている。

しかし、明るくストレートな表現は、オリジナル楽器のオーケストラに任せて、ここでは最晩年の1987年の録音を選びたい。

最晩年のカラヤンが自らのドイツ的資質を明らかにした演奏であり、ここでは、モダン・オーケストラでしか味わえない魅力を最良の形で表現していると言える。

ベルリン・フィルとのカラヤンのモーツァルトは、この手兵のすぐれた機能を生かして、いかにも美しい響きとスケールをもっていた。

そうしたカラヤンのモーツァルトの魅力は、ここでも当時最新のデジタル録音によって、いっそう美しくとらえられている。

カラヤンが残したモーツァルトの交響曲の最後のスタジオ録音であるが、それ以前のスタジオ録音とは大いに異なり、この曲をこう解釈するという自己主張が抑えられ、曲そのものの魅力を表現しようという、いわゆる自然体の姿勢が顕著である。

と同時に、しばしば耽美的と評され、濃密な表現が際立ってもいたその演奏が、ここではよりしなやかな流れを獲得している。

細部まで眼の通った入念な仕上げも見事だが、最晩年のカラヤンは、さらに巨視的に音楽をとらえているといってよいだろう。

それだけにこの演奏は、かつてのカラヤンのモーツァルトの交響曲演奏に感じられたある種の重苦しさを逃れて、その音楽にいっそう深く美しい光を当てている。

ここには、カラヤンを貶す人の間で巷間言われているような尊大さのかけらは殆ど見られない。

全体的にゆったりとしたテンポの下、カラヤン得意のレガートによって歌い抜かれた高貴で優美な曲想が、人生の諦観とも言うべき深い情感を湛えている。

第29番は独自のあたたかさと透明度の高さが融合した演奏で、かつてのカラヤンの弱点でもあった自我の表出を抑え、古典主義的世界の再現を見事に果たしている。

特にコン・スピーリトの終楽章は驚くほど躍動的で、爽快なテンポで全体をきりりと引き締めている。

第39番は、冒頭の和音からして内的な充実の感じられる崇高な響きを持っており、聴き手に深い感銘を与えるが、明晰で格調高く、しかも不思議に親しみやすい。

カラヤンが同じザルツブルク出身のモーツァルトと天才同志の魂の会話をしているような、そんなことまで思わせる感動的な名演だ。

カラヤンの死の2年前の演奏であるが、カラヤンとしてもまさに人生のゴールを目前にして、漸く到達した至高にして崇高な境地というべきなのであろう。

これらの演奏には、半世紀をこえるカラヤンのモーツァルトへの共感が最も純粋な形で込められているといってよいのではないだろうか。

音質は、ルビジウム・クロック・カッティングを施した上で、さらに高品質SHM−CD仕様がなされたことにより、素晴らしくクリアな音質となっている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:58コメント(0)トラックバック(0) 

2015年05月11日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



レナード・バーンスタインは、その晩年にウィーン・フィルとともにモーツァルトの主要な交響曲集のライヴ録音を行ったところであり、本盤に収められた交響曲第25番及び第29番はその抜粋である。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、途轍もない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

具体的には、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏もかなり行われていたように思われる。

本盤の演奏においても、ゆったりとしたテンポによる熱き情感に満ち溢れた濃厚さは健在であり、例えば、これらの楽曲におけるワルターやベームの名演などと比較すると、いささか表情過多に過ぎるとも言えるところだ。

もっとも、オーケストラがウィーン・フィルであることが、前述のような大仰な演奏に陥ることを救っていると言えるところであり、いささか濃厚に過ぎるとも言えるバーンスタインによる本演奏に、適度の潤いと奥行きを与えている点を忘れてはならない。

バーンスタインがこのウィーン・フィルを指揮した演奏は、オーケストラを巧みにドライヴした熱気と力強さにあふれている。

楽員の自発性が尊重された演奏であり、バーンスタインの指揮の下、ウィーン・フィルはその真髄を完全に体現している。

第25番は洗練された美の極致とも言える鮮麗なサウンドで、聴き手を魅了してやまない。

第29番も極めて音楽的に絶妙な表現で、造形も端正そのものだし、木管の自発的で豊かな表現力にはもはや形容する言葉もない。

近年のモーツァルトの交響曲演奏においては、古楽器奏法やピリオド楽器を使用した小編成のオーケストラによる演奏が主流となりつつある。

そうした軽妙浮薄な演奏に辟易としている中で本演奏を聴くと、本演奏には血の通った温かい人間味を感じることが可能であり、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになる聴き手は筆者だけではあるまい。

バーンスタインのシンフォニックな厚みのある演奏は、いかにも巨匠風のスケールの大きな大芸術だ。

稀代の指揮者バーンスタインの名盤というと、おそらく、誰もが真っ先に思い浮かべるのはマーラーの交響曲の熱演だろう。

確かにあれは圧倒的な出来映えなのだけれど、このモーツァルトの交響曲もまた、それに劣らぬ歴史的名演ではないかと筆者は考えている。

バーンスタインの古典は、一般に見逃されているようだが、彼のハイドンやモーツァルトは、構成のしっかりした実に立派なもので、ぜひ再認識してほしいと思う。

いずれにしても、本演奏は、近年の血の通っていない浅薄な演奏が目白押しの中にあってその存在意義は極めて大きいものであり、モーツァルトの交響曲の真の魅力を心行くまで堪能させてくれる人間味に溢れた素晴らしい名演と高く評価したい。

クラリネット協奏曲も秀演で、シュミードルの独奏は甘く美しく、まさにウィーン独自の音と音楽であり、ここではバーンスタインもサポートに回って、豊麗なバックグラウンドをシュミードルに提供している。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:44コメント(0)トラックバック(0) 

2015年05月10日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



モーツァルト没後200年記念として企画されたレヴァインとウィーン・フィルによる交響曲全集は、極めて高い評価を得たが、本盤にはその全集録音の中から、第29番と第34番が収められている。

レヴァインはオーケストラの個性や特質を十全に引き出して、豊かな情感を湛えた造形美に溢れる演奏を繰り広げている。

オーケストラの伝統的な響きの美しさと指揮者の新鮮な解釈とが見事なまでに合致した名演である。

相変わらず粒立ちのよいきびきびとしたリズム、しなやかに流れる歌、そしてふくらみのある美しい響き、彼らの演奏はどこをとっても隙がなく、しかも芳醇な香りが満ちている。

何よりも得難い特質は、伝統的なモーツァルト像と新しいモーツァルト像との見事な融合を成し遂げていることである。

モーツァルト像の刷新は、伝統的な側面だけでなく演奏の実践の領域でも、急速に進んでいる。

作曲当時の楽器や演奏習慣に立ち戻ることによって、19世紀のロマンティックな垢を洗い落とし、素顔のモーツァルトを現代に蘇らせようという活動は、今や完全に定着しつつある。

だがこうした傾向は、ともすれば19世紀以来の伝統をことごとく否として退けることになりかねない。

音楽が文化として、歴史の流れの中で脈々と受け継がれていくものであるならば、伝統を踏まえ、それを生かしつつ新しいモーツァルト像に立ち向かうという道もまた、あるはずである。

19世紀以来のモーツァルト演奏の伝統を自ら作ってきたと言っても決して過言ではないウィーン・フィルが、交響曲の全曲録音という大事業を挑むにあたって選んだのは、そういう道であった。

そしてそれを実現にまで導くことのできる指揮者として、彼らはレヴァインを指名したのである。

1943年にシンシナティで生まれたレヴァインは、ジュリアード音楽院を卒業後、クリーヴランド管弦楽団のセルのもとで6年間副指揮者を務め、その後あちこちの客演の舞台に立ちながら1973年にメトロポリタン歌劇場の首席指揮者に就任、75年以降は音楽監督を務めながら国際的な活躍を展開してきた。

レヴァインは出世のスピードは速かったが、コンクール歴があるわけでもなく、若手には珍しくいわば現場でたたき上げられて育ってきた指揮者である。

伝統的な演奏のスタイルは、その過程で完全に身に染みついている。

一方で彼は、オリジナル主義的な演奏のあり方にも充分な理解と関心を示し、その成果を積極的に取り入れようとするのである。

弦楽器のヴィブラートを伴う艶やかな響きや管楽器の音色のブレンド、息の長いフレージングなど、モダン楽器の特質を存分に生かしながら、一方では編成を小さくしてテクスチュアを明晰化し、オリジナルの楽器配置を踏まえることで、例えば第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの掛け合いの効果を立体的に浮き彫りにする。

すべての繰り返し記号を忠実に守っているのも、作品のオリジナルな姿を尊重しようとする彼の姿勢に他ならない。

伝統的なモーツァルト像と新しいモーツァルト像の間には、大きなギャップがある。

それを克服するのが我々に課せられた今後の課題であり、レヴァインとウィーン・フィルは、演奏実践の面からその課題に挑んだ。

そしてそれが確かな成果を上げつつあるということを、このディスクは証明しているように思われる。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:46コメント(0)トラックバック(0) 

2015年05月06日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ベームは終生に渡ってモーツァルトを深く敬愛していた。

ベルリン・フィルと成し遂げた交響曲全集(1959〜1968年)や、バックハウスやポリーニと組んで演奏したピアノ協奏曲の数々、ウィーン・フィルやベルリン・フィルのトップ奏者との各種協奏曲、そして様々なオペラなど、その膨大な録音は、ベームのディスコグラフィの枢要を占めるものであると言っても過言ではあるまい。

そのようなベームも晩年になって、ウィーン・フィルとの2度目の交響曲全集の録音を開始することになった。

しかしながら、有名な6曲(第29、35、38〜41番)を録音したところで、この世を去ることになってしまい、結局は2度目の全集完成を果たすことができなかったところである。

ところで、このウィーン・フィルとの演奏の評価が不当に低いというか、今や殆ど顧みられない存在となりつつあるのはいかがなものであろうか。

ベルリン・フィルとの全集、特に主要な6曲(第35、36、38〜41番)については、リマスタリングが何度も繰り返されるとともに、とりわけ第40番及び第41番についてはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化もされているにもかかわらず、ウィーン・フィルとの録音は、リマスタリングされるどころか、国内盤は一時は廃盤の憂き目に陥っていたという極めて嘆かわしい現状にある。

確かに、本盤に収められた第29番及び第35番の演奏については、ベルリン・フィルとの演奏と比較すると、ベームならではの躍動感溢れるリズムが硬直化し、ひどく重々しい演奏になっている。

これによって、モーツァルトの交響曲に存在している高貴にして優美な愉悦性が著しく損なわれているのは事実である。

しかしながら、一聴すると武骨とも言えるような各フレーズから滲み出してくる奥行きのある情感は、人生の辛酸を舐め尽くした老巨匠だけが描出し得る諦観や枯淡の味わいに満たされていると言えるところであり、その神々しいまでの崇高さにおいては、ベルリン・フィルとの演奏を遥かに凌駕していると言えるところである。

モーツァルト指揮者としてのベームは、「どんな相談にものってくれる博学の愛すべき哲学者」といった雰囲気をたたえており、彼の前に立っているだけで嬉しい気分になってしまう。

ウィーン・フィルとの録音は確かに多数残されたが、このモーツァルトはベームが亡くなる前のほぼ5年間に録音されたものである。

絶妙なるテンポを背景とする自然な音の流れ、磨き抜かれているが決して優しさを失わないフレージング、引き締まったアンサンブルを背景に繰り広げられる演奏はまさに生きた至芸と言いたい。

聴き手それぞれに思い入れのある名演であるが、筆者の座右宝はまずは第29番だ。

いずれにしても、総体としてはベルリン・フィル盤の方がより優れた名演と言えるが、本演奏の前述のような奥行きのある味わい深さ、崇高さにも抗し難い魅力があり、本演奏をベームの最晩年を代表する名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

音質については、従来盤でも十分に満足できる音質であるが、今後は、リマスタリングを施すとともにSHM−CD化、更にはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなどによって、本名演のより広い認知に繋げていただくことを大いに期待しておきたい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:42コメント(0)トラックバック(0) 

2015年05月05日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ポリーニの“弾き振り”によるモーツァルトのピアノ協奏曲第2弾の登場で、2007年にライヴ録音された逸品。

前回の第17番&第21番に続くもので、これが今後シリーズ化されていくのだとしたら楽しみだ。

前回に引き続いて「後期の傑作」と「初期の魅力的な佳作」のカップリングとなっているが、筆者にはポリーニがベームと録音した第19番と第23番の組み合わせを踏襲するスタイルを意識しているように思えてならない。

若きポリーニが尊敬する巨匠と録音したモーツァルト、そしていま音楽家として熟成したポリーニは指揮もあわせてウィーン・フィルとのモーツァルトの世界に帰ってきたのである……と考えるとロマンティック過ぎるだろうか。

両曲に共通することであるが、ピアノの音色は水銀の珠を転がすような美しさであり、中音も低音も強調されない粒の揃ったタッチは、他では絶対に聴けないものと言える。

第12番はモーツァルトがウィーンで作曲した最初の本格的なクラヴィーア協奏曲であり、かつ管楽器抜きの弦四部で演奏することも可能なように書かれている。

第1楽章から親しみやすい典雅な伸びやかさがあり、落ち着いたポリーニのピアノが安らぎを与える。

第2楽章はモーツァルトらしいところどころ哀しい色を帯びた美しいアンダンテで、ここでポリーニのピアノはたっぷりと憂いを含んだ憧憬的な音色で歌っており、昔のポリーニを知るものには隔世の感がある。

終楽章のロンドも愛らしく、ポリーニのやや硬質だが、透徹した鋭利なタッチが冴え渡っている。

第24番はモーツァルトの「短調の世界」を存分に味わえる大曲であり、演奏もこれに即した深々とした情感を満たす。

シャープなピアノが音の膨らみを警戒し、鋭敏に輪郭線を描いている。

たとえば終楽章の感情の爆発も、スピーディーで線的に描かれていて、1つの演奏形態の理想像を示していると思う。

一方で、第2楽章の木管楽器との音色の交錯もなかなか巧みで聴き応えたっぷり。

部分的に弦楽器が表情を硬くしすぎる感があったが、気にするほどではなく、もちろん名演と呼ぶに差し支えない出来栄え。

そして時にはあたかもベートーヴェンの曲であるかのようなダイナミズムを見せ、全体として、それにしてもポリーニがこれほどと思わせるくらい、とても甘美なモーツァルトに仕上がっている。

さらに本盤で素晴らしいのはウィーン・フィルの優美な演奏と言えるだろう。

ウィーン・フィルは、いかにもモーツァルトならではの高貴な優美さをいささかも損なうことなく、見事なアンサンブルを構築している。

ライヴ録音であるが拍手は第24番終了後にのみ収録されている。

個人的に拍手は不要と思うが(なお言うとポリーニの音楽はスタジオ録音の方が堪能できる)曲間の拍手をカットしてくれたのはありがたい。

リスナーのことを配慮してくれたのだろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:40コメント(0)トラックバック(0) 

2015年05月04日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



カラヤン最晩年(1986年)のモーツァルトのレクイエムである。

祈りの心を込めて真摯に歌い上げる壮麗な合唱と哀愁を秘めた清澄な独唱、そして重厚な響きのウィーン・フィルをカラヤンが見事に統率し、彼の意思が隅々まで透徹した情感豊かで崇高なる演奏を聴かせている1枚。

ベーム&ウィーン・フィルをはじめとする厳かな演奏がひしめく中にあって、筆者がまず第一に手を伸ばすのが本CD。

カラヤンは、1960年代、1970年代に、それぞれベルリン・フィルと組んでモーツァルトのレクイエムを録音しているが、特に1970年代の演奏に顕著ないわばオペラ風な劇的性格の演奏とは異なり、本盤は枯れた味わいの演奏に仕上がっている。

1回目は宗教音楽としての美しさを、2回目はクラシック音楽としての美しさを、そしてこの録音はそれらを超越した、この曲の持つ神秘性を引き出した録音と言えるのではないか。

カラヤンの指揮は王道を行くもので、比較的テンポも中庸で、カラヤンの故郷ザルツブルグゆかりのモーツァルトの白鳥の歌をケレン味なく演奏している。

これが、偉大なるモーツァルトに捧げるカラヤンの「祈り」なのである。

それは、晩年の健康状態のすぐれないカラヤンの精神が、これを作曲したときのモーツァルトの精神にかぎりなく近づいたからではないだろうか。

カラヤンの、いつもの美しさを求める傾向は影をひそめ、モーツァルトが表現しようとしたレクイエムの神髄に、ストイックなほどに迫っている、最高のモツレク演奏のひとつだと思う。

オーケストラもウィーン・フィルであるし、特に重要なソプラノ奏者がバルツァからトモワ=シントウに変わったこともあると思われるが、それ以上に、ベルリン・フィルとの関係が悪化し、健康状態も相当に悪化したカラヤンのこの当時の心境の反映、または、カラヤンが最晩年に至って到達した枯淡の境地とも言えるのではないだろうか。

いずれにしても、このような要素が複合的に絡み合い、モーツァルトのレクイエムの感動的な名演の1つとなった。

同曲の代表的名盤とされるベーム盤より遥かに聴きやすく、古楽器ものより重厚さや華麗さに溢れている。

ソリストもバランスが取れていて四重唱の「思い出して下さい…」が大変素晴らしく、個人的には重過ぎない「キリエ」「怒りの日」から、ここまでの流れの美しさが好みである。

何と言っても、帝王晩年の黄昏を感じさせ、老境に至ったカラヤンの穏やかな心の深みを垣間見せる、自然体の表現が最大の魅力だ。

カラヤンらしいのは深みのある表現にも関わらず、曖昧さがなく、非常に聴きやすい演奏である事。

美と敬虔と荘厳の共存した稀有な名演でありながら、カラヤンはウィーン・フィルの最も荘厳な音色を引き出しているようでもあり、全ての人に訪れる死というものに正面から向き合って死とは何かと問いかけているような迫力を感じる。

合唱は、相変わらずウィーン楽友協会合唱団であるが、カラヤンの統率力の下、終身監督であるカラヤンと一体となった感動的な演奏を行っている。

1980年代のカラヤンのCDの出来は録音状態も含め、結構ムラがあるように思うが、このCDは全盛期のものと比べても極上の1枚だと言えるだろう。

いずれにしても、カラヤンらしい神々しい演奏であり、落ち着いた神聖な気分に浸りたい人にはぴったり来る演奏であろう。

SHM−CD化により、解像度がやや向上したことも評価したい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:45コメント(0)トラックバック(0) 

2015年04月23日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



モーツァルトのレクイエムには様々な名演がある。

筆者も、かなりの点数の演奏を聴いてきたが、それらに接した上で、再び故郷に帰ってきたような気分になる演奏こそが、このベーム(1971年)盤だ。

これはもう再三再四賛辞を送られてきた名演中の名演で、ベーム最良の遺産の1つと高く評価されているもの。

テンポは、いかにも晩年のベームらしく、ゆったりとした遅めのテンポを採用しているが、例えば、同じように遅めのテンポでも、バーンスタイン盤のように大風呂敷を広げて大げさになるということはない。

かと言って、チェリビダッケのように、音楽の流れが止まってしまうような、もたれてしまうということもない。

遅めのテンポであっても、音楽の流れは常に自然体で、重厚かつ壮麗で威風堂々としており、モーツァルトのレクイエムの魅力を大いに満喫させてくれる。

同じく重厚かつ壮麗と言っても、カラヤンのように、オペラ的な華麗さはなく、ベームは、あくまでも宗教曲として、質実剛健の演奏に心掛けている点にも着目したい。

表面こそ自然な流れを重んじた仕上がりながら、内からは凄まじいばかりの気迫が噴出する。

最近では、ジュスマイヤー版を採用した壮麗な演奏が稀少になりつつあるが、これほどまでにドイツ正統派の風格のあるレクイエムは、今後も殆ど聴くことはできないと思われる。

ベームのレクイエムを聴くと、モーツァルトがバッハの宗教曲などのバロック音楽を自分の音楽素養として持ち、続くベートーヴェンやブラームスの音楽に影響を与えたのが分かる解釈である。

本演奏については、ユニバーサルからシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤が発売されたことから、当該盤について言及をしておきたい。

手元にあるハイブリッドSACD盤及びSHM−CD盤と聴き比べてみたが、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって次元の異なる高音質に生まれ変わったと言える。

SHM−CD盤は問題外であるが、ハイブリッドSACD盤ではやや平板に感じられた音場が非常に幅広くなったように感じられ、マルチチャンネルが付いていないにもかかわらず、奥行きのある臨場感が加わったのには大変驚かされた。

特に、力強く濁りのないコーラスのハーモニーが、より鮮明になったのは特筆すべきことだ。

紙ジャケットの扱いにくさや解説(特に対訳)の不備、値段の高さなど、様々な問題はあるが、ネット配信の隆盛によってパッケージメディアが瀕死の状態にある中でのユニバーサルによるSACD盤発売、そして、シングルレイヤーやSHM−CD仕様、そして緑コーティングなどの更なる高音質化に向けた果敢な努力については、この場を借りて高く評価しておきたいと考える。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:48コメント(0)トラックバック(0) 
メルマガ登録・解除
 

Profile
Categories
Archives
Recent Comments
記事検索
  • ライブドアブログ